桜の花が、満開寸前──。
「あー、今日もお天気が良くて気持ちいい」
「そうだなあ。ほんと花日和だ」
院内の舗道には、桜の木も沢山植えられている。
隼人にとってこの病院は、銀杏の木や秋のもの悲しい色とか……。哀しい芝の別れとか……。
まあ、そんなこともあったなあ。──今は、ちょっと笑っていた。
「本当、この病院は病院にしておくのは勿体ないほど、いろいろな花が目に付くわね。聞いたのよ、私。山崎先生の亡くなった奥様のお祖父様が好きだったんですって。だから、あのお庭もあんな風情がある素敵な庭で」
「なるほど。それで四季の花が楽しめる庭園になっているんだ。よかったな。良い療養が出来たよな」
「本当。ここに来て良かった!」
うん、俺も良かった。
隼人はそうは言わず、笑顔で答えた。
ここで天使を失い、彼女と離れ、そして、なにもかもをなくしたはずだったのに……と。
妻の葉月と散歩をしていた。
すっかり春めいた院内の本棟へと向かう道。
葉月のお洒落もすっかり春めいて、そして笑顔も……。
杖も片方だけで歩けるようになっている。
隼人は先へ先へと急ぐように歩く妻の後ろで、目を細める。
「お前、そんなに張り切るとまた後で疲れたとか言って、なにも出来なくなるぞ。また飯の時間に起きられなくなるのはやめてくれよな」
『そんなことないわよ〜』──いつもの調子で、ちっとも言うことを聞かず、隼人は顔をしかめる。
だけれど、すぐに笑っていた。
これが数ヶ月前に死の崖っぷちに立たされてしまったあの彼女なのだろうか。信じていたけれど、やはり彼女が元のウサギとかじゃじゃ馬とかお嬢さんに戻ってくれたことが信じられない。本当にあの時は失うかと思った。隼人の心の一部が粉々に砕け……。
でも、今、彼女は隼人が願っていた姿で笑っている。
桜の花の下を、花びらの中を、彼女が笑っている。
「葉月」
彼女の名を呼ぶ。
妻となった彼女の名を。
「なあに、貴方」
花びら舞う中、そこで微笑み佇む妻の隣に行く。
そっと手を取って、二人はただ黙って歩き出す。
・・・◇・◇・◇・・・
それで何故、散歩と言いつつも、二人でこの病院の本棟に出向いているのかというと、院長の山崎に呼ばれたからだった。
いつも彼から出向いてくれるのだが、今日は何故かこちらに来て欲しいと呼ばれた。
二人一緒に院長室を訪ねると、白衣姿の山崎が大きな木造の机に座って、なにやら仕事をしていた。
彼は隼人と葉月が来たと知ると、直ぐに手元の仕事を止めて、目の前のソファーへと案内してくれる。
「悪いね。別にあちらでも良かったのだけれど──」
いつものフランクな様子で、彼がちょっと申し訳なさそうに頭をかく。
「いいえ、先生もお忙しいでしょうし。私も適度な運動は必要ですから。途中、桜がいっぱい咲いていて素敵な気分になれました。先生も歩かれましたか?」
「うん。毎日、楽しんでいるよ。でも桜は直ぐに散ってしまうから、なんだか毎日が惜しいよね」
「本当に」
二人が笑う。
医者と患者ではあるが、元より面識がある二人はこの数ヶ月でだいぶ親しくなったようだ。
最初こそ最悪の出会いだった隼人と山崎も、今は良く知り合った解り合える仲だ。
「まあ、でも……。葉月ちゃんが、杖を使っていてもここまで歩けるなら安心だね」
「お陰様で──。主人の付き添いもありましたけれど」
葉月が隼人を見ながらそう言うと、山崎がちょっとおかしそうに小さく吹き出した。
「そうか。もうすっかり『ご主人様』なんだ」
「なんですの? 先生ったら。私達が夫婦になったなんて信じられないなんて結婚したばかりの頃言っていましたけれど、早く慣れてくださいませんか」
「いやいや。そうなんだけれどね……。なんて言うのかな。こうもごたごたしてくれた患者さん一家は初めてだったんでね。入院中に結婚式をあの一軒家でした患者も初めてだよ。だから僕も余計にねえ、感慨深いなあと」
「そ、そうでしたわね。いえ、そのことでは先生には本当に……」
結局、大きく構えている山崎に、葉月は丸め込まれてしまったようだ。
こういうところ、やっぱりこの山崎先生は余裕なんだよなあと隼人は思う。一年前に最悪の出会いをしたのも、確かこの東京で桜が散った頃だったか……。
この数ヶ月でも、彼がどれだけ危ないところすれすれでこの病院を経営しているか、そして医師をしているか、そして、そのすれすれにどれほど御園と黒猫が助けられたことか。勿論、彼も甘くはない。そこは容赦なく『ビジネス』として黒猫からがっぽり稼いだようだから、かなりの上客だったことだろう。だけれど、そこは黒猫も良く心得ている。特にボスの純一は『こう言った世界はこれでもちつもたれつ。後腐れ無しにやっていくんだ』と。
だからとて、この山崎がビジネスやマネーの為に冷酷なのかと言うとそうでもない。
そんな彼らしさを、この日はここで見せてくれることになった。
山崎はいつもの調子の良いおふざけで、葉月をひとしきりからかった後、またデスクに戻ってひとつの封筒を持ってきた。
ソファーに座るとそれを葉月に差し出したのだ。
隼人も、葉月と一緒に首を傾げる。
「そろそろ、退院するかい?」
「……え?」
「別にまだまだゆっくりしてくれても良いよ。うちはお客さんが居ついてくれた方が助かるし〜。でも、まあ、それ見てくれるかな」
『退院』──。
その言葉に、二人は驚きのあまり顔を見合わせる。
幽霊のことに囚われていて、そしてまだ全てが片づいていない中、二人の頭の中はほっと一息ついたところでそれ以上の事は考えられなかったから……。
とにかくと、葉月が山崎から渡された封筒を開け、その中に入っている数枚の白い紙を眺める。
そして隼人の横で、その葉月がハッとした顔で山崎を見上げた。
「退院祝い。いや、きっと君なら、皆が嘆願書でも出し合うぐらい、署名を集めるぐらいに騒ぐんじゃないの? それは僕の『嘆願書で署名』だよ。後は『大佐嬢』の熱意。僕にはそこまでしか出来ない。上手く使ってくれ」
「先生──。よろしいのですか?」
葉月はやや呆然としていたが、瞳はどこか堪えきれない喜びで熱く潤み始めていた。
隼人は待ちきれなくなり、葉月の手からその白い紙を取り、確かめる。
──それは、医師としての『診断書』。『常勤パイロットとしての勤務は不可』だが、『軽い飛行、短時間の飛行なら問題なし』と。
隼人も驚いて山崎を見上げる。そこには葉月が少しなら空を飛んでも問題がないという医師が判断したことを意味する診断書。いや、しかしこれでいいのだろうか? 本当に百パーセント大丈夫と思えた山崎の的確なシビアな判断なのだろうか? たとえ短時間でも、葉月の胸にあの強力な上空重力がかかって事故になれば、診断書を出してくれた山崎の医師としての責任ともなるだろうに?
その不安は隣の妻も直ぐに悟ったのか、山崎に尋ねる。
「しかし、先生。もし、この短時間に……何かあったら先生……?」
だけれど、やはり山崎は大きな口で大笑いをしただけ。
「僕は『危ない橋』は渡るけれど、『危ない賭』はしないよ」
「どういうことですか?」
まだ不思議そうな葉月に、山崎がここで初めて真面目な顔を見せた。
「僕が『パイロットはもう無理』と言った時、君がかなり落ち込んだことはマルソー先生からも聞かされているよ。それから僕はあの時、知らなかったんだ」
「何をでしょうか?」
「既に君が現役引退の決意を固めていたこと。そして最後にもう一度、空を飛んで甲板に降りたいと願っていること。後でそれを知ったマルソー先生も驚いたみたいで、直ぐに僕のところに相談に来たよ。『一度だけ、あと一度だけ。短時間ならなんとかならないのか』と。でもねえ、僕が君に乗って良い乗っては駄目だと最終宣告をするわけじゃあないだろう? 僕が出来るのは『乗ると危ない。乗っても大丈夫』それだけだよ。つまり『短時間のラストフライト』なら……と」
「私……。本当に大丈夫なのでしょうか……」
葉月がらしくないしおらしい顔、自信のない声でまだ痛むだろう胸を押さえながら俯いてしまった。
するとまた山崎が大笑い。だけれど次には、葉月を鋭く射抜くような怖い目。この葉月が、一瞬、息を引いたほど。それが山崎が隠している『顔』かと思えたほどに。
「そんなに弱気でいるなら返してくれ。僕は『大佐嬢は一度きりのフライトをきっと勝ち得る』と思って、それを『確信』したから書いただけ。『信じる』じゃない、『確信』だ。今の大佐嬢なら、その診断書は書くのではなかったと思うね。それがあの幽霊と戦った人間か? そんな弱い大佐嬢に渡すならそれこそ『危ない賭』。返してくれ──!」
山崎の叱責に近い声に、流石の葉月がびくっと背筋を伸ばした。
だが、それまで、だった。
葉月は落ち着いたあの横顔で、白い紙を元通りにたたみ封筒にしまう。
そしてそれを隼人に渡したのだ。
「いいえ、返しません。先生の確信を『事実』に変えてみせましょう」
その横顔、眼差し、声は、もう隼人の妻ではない。だけれど隼人が良く知っている『大佐嬢』だった。
隼人もうんと強く頷いた。
そして山崎も、やっとほっと表情を緩め、微笑みながら頷いてくれる。
だが彼が葉月をその微笑みで見つめたまま、唐突に言った。
「有難う、葉月ちゃん」
また葉月の驚きの顔。
「どうしてですか? 有難うと言わせて頂きたいのは私です」
だが山崎は葉月からのその礼に納得できないと言わんばかりの顔で、首を振る。
「去年、君が五十パーセントの希望があると言い切った時から、ずうっと君を気にしていたよ。俺が忘れたものをね。そしてこの数ヶ月、御園の皆さんと共にした日々も、俺には凄い刺激の日々だったよ。そう、特に君ね」
そして山崎は今まで見せたこともない穏やかな顔で、葉月に言った。
「本当に頑張ったね。それを見せてくれて有難う。ここに来てからも君にはいろいろあったね。君の十八年を僕も見届けさせてもらったこと光栄に思うよ」
「先生……」
「僕はえせ医者かもしれないけれどね。奥底でそれは忘れたくない、そう思ったよ。有難う」
「とんでもありません。私も……有難うございました」
隼人は思う。きっとこの山崎とも一緒に戦ってきたのだろうと。
すると、葉月から山崎に手を差し出していた。隼人はちょっと驚く──。
彼女は自ら、沢山の感謝の気持ち、その溢れる気持ちを素直にそこに出していたからだ。
乗り越えてきた葉月が見せる、素直な感情表現がそこにあると隼人には思えた。
「先生。かならず、ラストフライト獲得します」
「うん。報告楽しみにしているよ。あ、出来たら僕も見たいな……なんて!」
「そうですね。許されるなら、先生を必ずご招待致します」
『無理だろうけれどね』と山崎は諦めてはいるようだが、それでも二人は笑顔で固い握手を交わしていた。
二人で院長室を出る。
葉月はその診断書を大事に胸に抱いていた。
「さあ、大佐。帰ったらまた戦争だな。上のおじさんや、身体検査やら、決まり事をひっくり返さなくちゃいけないぞ」
「そうね。でも、絶対に飛ぶわ。そうじゃなければ、ずうっと現役でいるんだから」
またそんな無茶を……と、隼人は呆れる。
しかし彼女はもうすっかりその気だ。
杖をついていても、何処か急ぎ足で帰ろうとしている葉月。
きっと家族に直ぐに伝えたいのだろう。またきっと兄さんも、パパもママも仰天して『やめろ』とか『無茶だ』とか『よく考えなさい』とか騒ぐだろう。だけれど末娘は言うだろう。
──『私、やるわ』。
そして、きっと兄さんもパパママもちょっと不安な顔をしながらも、最後には『頑張りなさい』と笑顔。
隼人もそのウサギの背を追いかける。
さあ、大変だ。もうすぐ小笠原に台風が戻ってくる。
もう既にここで発生した模様。
そして隼人はもう既にその渦中にいた。
そうだ。一生──この台風の目の直ぐ側で、俺もぐるぐる回るんだ!
・・・◇・◇・◇・・・
もうすぐ桜が散ってしまう。
きっと週末は、何処も花見で賑わったことだろう。
その日、葉月は黒いスーツを着込んでいた。
今いるのは、ちょっと薄暗い部屋。──警察の一室。
そこで、葉月は自分の身に起きたこと、その目で見たことは全て話した。
冬に横須賀基地の駐車場で自分が刺された件を担当している刑事と再び会う。
葉月が話し終えると、彼がふと一息……やるせなさそうな溜息をついていた。
「葉月さん、有難うございました」
「いいえ」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
彼の目は優しかった。
横須賀の件で事情を聞きに来た時に『知らない男だった』と嘘を言ったことを詫びた。
警察に簡単に捕まるような男ではなかっただろうけれど、それでも万が一、自分と決着をする前に警察に捕まるのは嫌だったと、葉月は正直にその目の優しい刑事に告げた。
すると彼は、その目元をさらに穏やかに崩し教えてくれた。
「貴女のお父様も、同じ事を言っておりましたから……。まあ、よろしいでしょう」
「申し訳ありませんでした」
調書取りは終わったと言うことで、葉月は帰らせてもらえることになる。
その薄暗い部屋を出て、彼等の事務所へと移る。そこは明るい事務室で、葉月は一瞬、その入ってきた光に目を覆った。
……まるで、今、やっと、その暗闇を抜け出てきたような感覚に陥る。
そして、その終わりを告げるかのように、その優しい親父さん風の刑事が葉月に言った。
「貴女の証言はほぼ認められるでしょう。まだ詳しくは聞き取ることが出来ないのですが……」
刑事は一時、葉月の顔色を窺っていたのだが、次には刑事の確固たる顔で告げた。
「瀬川も、同じような内容を自供しています。少なくとも、貴女を横須賀基地で刺したこと。そして貴女のお姉さんである皐月さんを殺害したこと、そして学生を騙して貴方達姉妹を監禁暴行をしたことを。間違いないと、まだ息も絶え絶えの重傷の身で、必死になって私達に伝えようとしていました」
葉月の頭が、何故かそこで真っ白になった。
何かをついに迎えた瞬間であったはず……。
だけれど、この衝撃はなんだろう。
「そ、そうですか……」
あの男が認めた。
息も絶え絶えに、必死になって罪を認めただって……。
なにもかもが終わった気がしたのに、葉月にはなんだかそれが思った以上に『虚しさ』に襲われた瞬間でもあった。
だが、まだ…。いや、断言する。
私はきっと、あの男の事は一生、忘れないだろう。いや、忘れるものか。そして決して許さない。
本心だ。
ただ、許さない中でも、あの男には罪を認めてもらわねばならなかった。ただ、その為に。だから、必死に……戦った。
「ええっと。どうぞ」
気が付けば、その刑事が葉月に白いハンカチを差しだしていた。
どうやら涙を流していたようだ。
そのハンカチを差し出す手にも、葉月は瀬川と再会してしまったあの日を思い出してしまい、尚、涙が流れ落ちてくる。
それを見て、刑事が慌てる。こんなおじさんのハンカチじゃ駄目だ。おい、お前持っていないのか? 若いんだからお洒落なの持っているだろう!? なんて、顔を真っ赤にしながら若い刑事に叫んでいる。……それを見ただけで、葉月の涙は止まった。
「いえ、有難うございます。大丈夫です」
葉月はジャケットの袖口で涙を拭い去り、彼に微笑みを見せる。
隼人が言っていたけれど、本当に、暖かそうな人だった。
刑事なんて──。そう思っていたけれど……。
今は刑事に限らずに、なにもかもを素直に受け入れられそうな気がしていた。
「お兄さん達からも近いうちにお聞きする予定です」
「はい。兄達も、両親同様に当時のことは、きちんとお話をすると言っております」
「今日は、ご主人と……?」
事務室から送り出してくれるその出口で、刑事に一人で帰るかどうかを聞かれる。
きっと、辛いことを全て語った後である葉月が、そのまま安定した状態で帰れるか案じてくれたのだろう。
葉月は笑顔で答える。
「外で主人と義兄が待っています。あ、甥っ子も……」
「それは良かった。では、また近いうちに……」
「はい。今後もよろしくお願い致します」
お互いに一礼を交え、葉月は刑事と別れる。
あの刑事なら、信じられる……。いいえ、違う。きっとこれからは、信じることを先に思えるようになる。
まだ、葉月の頭に肩には、重いものが乗っている。
いつも顔を俯かせ、笑わずに、なるべく何も感じないようにと歩いてきた。
あの時の絶望、痛み、哀しみ。あのような思いを二度としたくないなら、感じないに限る。そう思っていた。
周りはいつも暗く、行く先は見えず、それでも自分はそこにしかいられない、この道をずうっと歩いていくのだという思いとその果てしない道のりへの絶望を繰り返し、過酷な空へ切り込むようにして、この身体を心を投げつけてきた。
──翼もないのに。
だが、一生背負うことになったものが消えぬものと分かっても、今の葉月は顔をあげる。
黒いスーツの背筋を伸ばし、葉月は颯爽とこの建物の外に出た。
そこからは、春の眩い光が葉月を待っていた。
「お帰り、葉月」
「ご苦労だったな、葉月」
「葉月ちゃん、大丈夫だった?」
そこに葉月が愛する家族が待っていた。
葉月は彼等に微笑む。
「私、鎌倉の海に行きたい」
彼等は揃って笑顔で、『行こう』と言ってくれた。
彼等の元へと駆けていく葉月の背中に、ひとひらの桜の花びら。
もう桜は惜しくはない。
桜は来年も咲くと知っている。
ただ、それは生きていればの、話。
だから……生きていく。
この人達と──。
・・・◇・◇・◇・・・
彼等は葉月にとっては、共に築いた『新しい家族』だと思っている。
そしてきっと、彼等も同じように感じてくれていると思っている。
「さあ、着いたぞ」
純一の運転で辿り着いた鎌倉の海。
この前、純一と真一と一緒に来た場所と同じだった。
「ああ、俺も久しぶりだなあ!」
今日はここに葉月の夫『隼人』もいた。
「やったね! 四人でここまで来たよ!」
真一はそう言うと、またこの前のように、波打ち際に嬉しそうに走り出してしまった。
それを大人の三人が階段の上から、笑いながら眺める。
「やっぱり、ここだな。俺達は」
「そうね。戻ってこられたわ」
「まだ、目の前だがね」
純一がそれでも清々しい顔で、春の海を見渡している。
葉月も義兄の隣で、そっと微笑む。
何度、この義兄とこの海で笑い合っただろう。それはもう、葉月が少女だった遠い昔。
粉々に砕かれた輝かしい日々。二度と、あのような日々は戻ってこないと思った。
だけれど、今、葉月の心はあの少女の時のように、今にも空に飛んでいきそうなほど、嬉しさやときめきではち切れそう……。
「義兄さんと葉月には、やっと取り戻した海なんだろうな。そして、俺には妻とその家族と始める青い海──新しい『港』かもな」
「そうだな、隼人」
「そうね、貴方」
取り戻しただけじゃない。
誓い合った夫とも、葉月はこの場所に戻って立っていた。
葉月だけじゃない。
純一も、隼人も、同じように海の向こうを、水平線を見つめている。
何処へ行くのだろう?
私達、何処へこれから飛んでいくのだろう?
今、葉月の隣に愛した男性がふたり。
葉月はその二人の手をそれぞれにそっと取る。
彼等の指先を、自分の指先にそっと乗せ、そして葉月は両手を広げて二人の手を一緒に上げた。
それはまるで翼のように──。
「こうすると、海鳥のように風に乗って何処でも行けそうね」
やっと飛べそうな気がする。
それは隣にいる義兄も。
そして隣にいる夫も……。
二人も、葉月と同じような目で顔で、微笑んでくれている。
飛べなかったのよね? 私達。 でも──。
ここは鎌倉の海。
今、私達は帰りたかった場所にいる。
そして、私達はまた何処かへ行く。
何処へ──?