-- A to Z;ero -- * 遠い春 *

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4.50%の希望

 隼人はその場を離れたくて仕方がなくなった。
 自分でもどうしてか分からない。

 葉月が、休日の夜、都会の洗練されたバーにいたことではない。
 『あの時』の痛手を思い起こさせるには、あまりにも『生々しい人物』といたからだ!

 それ以上にその時、隼人も、いや、きっと葉月も同じように感じただろうあの『胡散臭い医師』が、二度と会わないだろうと思っていたその時限りの人物だっただろうに、それが葉月といるのはどう言うことなのか!?

「あれ? 葉月ちゃんは。どうして彼じゃなくて俺といるんだろうね?」

 去ろうとする隼人の背に、今度は妙に真剣みを帯びた声を『副院長』が突きつけてきた。

「おかしいな……。彼女が一人で……」
「先生──!」

 益々、硬い真剣な声になった彼の言葉を、葉月が困ったように遮った。

 そこでやっと隼人は振り返る。

(どう言うことだ!?)

 きっとそう言う目線で、葉月を見たに違いない。
 葉月が首を振った。

(なにも関係がないわ)

 と、でも言いたそうな顔をしていた。

「もう、俺が目を離した隙に……。まったく、副院長、『毎度』の我が儘はその辺で……」
「!? 右京さん……!」
「あれ? 澤村じゃないか?」

 右京だった。
 隼人が驚いていると、葉月がやっと現れた右京に飛びついて、怒り出した。

「兄様が、女性だけで飲んでいる人に話しかけたり。先生は先生で勝手な事なさるし……もう、嫌! 私、帰るから!」
「まぁまぁまぁ。『オチビ』、落ち着け」
「そうだよ。葉月ちゃん。分かった! 『先生』、もう諦めるから。さ、飲み直そう!」

 副院長が馴れ馴れしく葉月の肩を抱いて、フロア席に戻ろうとした。
 その彼が、肩越しに振り返り、隼人に一笑を送る。
 その微笑みのまま、カウンターのバーテンダーに一声。

「彼女に──ピンクのシャンパン、『コルドン・ロゼ』を……」

 その余裕ある声を聞いて、隼人は身を翻す。
 そのまま、晃司と佳奈を置いて、出口に向かう。
 二人は、隼人の急な動揺と、目の前の嫌味な男が繰り出す気障な雰囲気に唖然としていた。

「右京君も飲むだろう?」
「先生のお誘いで、お連れしてもらいましたけれど……」

 副院長は落ち着かない葉月の為に、彼女が一番安心する従兄の元に連れ戻そうとしていた。
 が、右京は隼人と鉢合い落ち着かない様子の葉月を気にしている。

「右京君にも美味い酒を見繕うから──席に戻って」

 副院長は、右京に無理矢理に葉月を預け、二人の背を押した。
 そのまま、店を出ていった隼人を追っていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 なんだか、頭の中がものすごく熱くなっている。
 隼人は落ちつこうと、一人になって頭を振った。
 バーを出た絨毯敷きの廊下を歩き、エレベーターの前に立った時だった。

「あの時は、制服姿が随分とご立派で、彼女を労っている素敵な男性だと思ったのになー。逃げるなんて、もの凄く残念。ねぇ、『中佐』?」
「!」

 グレーのスーツ、淡いグレイッシュピンクに白の斜線ストライプ柄のネクタイをしている『副院長』が、勝ち誇った笑顔で立っていた。

「それは何? 彼女に対して、『後ろめたい』って事かい? 何に対して? 彼女を『妊シ』……」
「貴方が!」

 まるで『弱みを知っている』とばかりに口走ろうとした副院長の口先を、隼人は強く遮った。

「……貴方が『今』、彼女といる事は僕が介するべき程の事ではなくて彼女がしている事。あの時の事とは無関係のはず。あの時の事を今ここで言われる筋合いはない」
「はっ……はは!」

 その隼人の弱みで、何を煽ろうとしているのかは……予測でしか計れないが、それに屈したくないから強気で言い放った。
 なのに副院長は、一時唖然としながらも、直ぐに呆れたように笑い出したのだ。

 どう思われても、関係のない人間だ。
 隼人はそう割り切って、エレベーターが来たので扉が開くのを待った。

 ところが副院長は、扉が開きエレベーターに乗ろうとした隼人の肩を後ろから引き止め、なおかつ、エレベーターの扉が閉まらないようにボタンを『ガツッ』と強く押さえていた。

「100人に1〜2人……」
「は?」

 それに、今まで人をからかって楽しんでいるようだった顔が、急に引き締まった。
 その表情を隼人はふと思い出す。
 彼が、エドと取引で手にしたレントゲン写真を確認した時に垣間見せた『医師の顔』だ。

「出産年齢の女性に対し100人に1〜2人。結構いるもんなんだよ。三連続流産をする『習慣流産』の女性」
「!」
「不妊治療に不育症。検査を受けるのが怖いとか……そういう事を恐れて踏み切れない夫妻や女性が結構いる。固い決意に勇気がいる事なんだ」
「……あの……それは……」

 真顔で語る彼の話に……隼人は徐々に胸が締め付けられるほどの緊張に駆られた。

「不育症の原因が判明するのは約60パーセント、原因が判明しない患者は約40パーセント。さらに、3回以上の流産の経験がある女性が次の妊娠でも流産する危険性は約50%と報告されている」
「では──彼女は?」
「もしかすると、どうしようもない結果を認めざるを得ないかもしれない。だけれど、逆に言えば、残りの50パーセントは出産が出来る可能性がある」

 そこで──副院長の表情がさらに引き締まり、隼人を厳しく見据えてきた。

「彼女にそんな説明を、した。何故なら──彼女が残りの可能性という『希望』を捨てなかったからだ。なんの為の? 『50パーセントへの希望』だ? 誰との為の?」
「!」
「あの時、彼女を診察したあの産科医師。不妊治療や婦人内科の線では有名でね。だから、『エド』がうちに彼女を連れてきたのだろう? だが今度の『筋』は軍医の紹介で彼女自身の『意志と決意』で、やって来たって事」
「では、軍医療センターで、彼女が既にその事の治療で出向いていたって?」
「そうなんだろうね。軍医が紹介してきたのが俺の病院。なのに、付き添ってきたのはあの『鎌倉の資産家』で有名な右京君。彼が従妹に過保護なのは噂で聞いていたけれどね。まさか、あの時の彼女が従妹だったとは……しかも『一個中隊の隊長でパイロット』の大佐嬢だったとはね!!」
「……」
「それにしても君はなーんにも知らずに、彼女が『他の男と一緒にいた』だけの事でご機嫌を損ねるだけで、肝心な事は忘れてしまった。って事か?」
「それも貴方には関係ないでしょ」
「へぇ? あの事で『破局』って所かな〜? これはチャンスかな〜」

 そこも強気に返した隼人に、またもや副院長は微笑んだ。

「俺はね、『良いお医者』じゃなくて、ただの我が儘男だから。でも──『お医者さん』としての事は言ったからね」
「!?」

 また挑発的になったので、隼人は固まった。

「先生」

 女性の声が、彼の背後から聞こえた。

「葉月ちゃん……」

 余裕だった副院長が、さすがにバツが悪そうにして、葉月を見下ろしていた。

「私から話しますから……」
「そう」
「今夜はご馳走様でした。従兄には先に宿泊先に帰ると伝えて下さい」
「ああ、解ったよ。……ごめんね、つい」
「いいえ」

 先程、右京と共にいた葉月はいつもの『お嬢ちゃん従妹』に見えていたのに。
 副院長と向き合い、楚々と品良い会釈をした彼女は、あの余裕げな副院長と対等な雰囲気を間に醸し、とても落ち着いていた。
 そう、軍隊で『大佐』として、数々の男性を制している彼女と一緒だった。

「行きましょう」
「え? ああ……」

 この時ばかりは、葉月が急ぐように隼人の手首を掴んで、エレベーターに乗り込んだ。
 二人きりで乗り込んだエレベーターの扉が閉まった。

「……」
「……」

 さすがに沈黙だけだ。

 『不育症』に臨んだことを知られた事に気まずそうな葉月を見ては、隼人だって言葉がかけにくい。

「あ、結城さんと、一緒だったお知り合い? 置いてきてしまって良かったの?」

 葉月がハタと我に返った様子。

「晃司が適当に理由をつけてくれてるよ。同窓会だったんだ。中学の同級生」
「えー! 隼人さんの!? もっと見ておけば良かったわ!!」

 葉月が心底、『しまった!』と言う顔をしたので、隼人は思わず笑みをこぼしてしまった。

「そういえば、とっても落ちついている大人の女性って感じだったわね。隼人さんと同世代って感じ」
「お前は違う意味で、堂々としているよな」
「え? 私が?」

 朝、定期便に乗り込んできた時と同様の、水色のデザインセーターに、ヒラリとした小花柄の白いスカート。何処から見ても、清楚なお嬢様姿。
 なのに、あの胡散臭くて、妙に立派な大人で責めてきた副院長が、葉月に対して下手っぽかった態度を思い起こすと、私服でも、葉月はやはり『大佐嬢の落ち着き』だった。
 なのに、キョトンとしているその顔は、隼人が良く知っている『お嬢さん』。
 久し振りに触れた気がした。

 そのホテルのロビーを通って、夜の街中に二人は出た。
 車のクラクションと、真っ黒な空に煌めくイルミネーションの数々。

 その中をただ、二人で歩き出す。

 今すぐ、話したいことも分かっているのに。
 その街中の騒音、光、人混みの中をただ並んで歩く。

 一緒に何処かに彷徨っているようで。

 並んで一緒にいるのに、『彷徨っている』。
 まるで今の二人のよう……。

「しようもないな。俺達、こういう所に出てくると、『行く場所』すら思いつかないんだ」

 隼人が小さく微笑むと、葉月も同じように微笑んだ。

「本当。しようもないわね……。離島の基地にいる日々だもの」
「都会慣れしていないよな」
「そうね……私も、いつも出てきては思うわ」
「少しは慣れただろう?」
「うん。ほんのちょっとだけね」

 葉月が素直に返答し、微笑んでくれた。
 それで、隼人も、先程までの『胸荒れ』はどうしたことか? スッキリとなくなっているのだ。

 その内に、ガラス張りの落ちついたカフェが目に入った。

「そこ、入ろうか」
「そうね。もう、お酒は“ウンザリ”」
「だろうな」

 木曜の夜からずっと続いている『お酒』の事を葉月がまた『ウンザリ』とたとえる。
 隼人も笑った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ほのかな照明のカフェ。
 二人は窓際の一席を選んだ。

 頼んだメニューもお互いに『いつもの』カフェオレとミルクティー。

「ケーキ、食べてもいい?」
「どうぞ」
「隼人さんも食べない?」
「いいよ。俺は、腹一杯」
「そうなの」

 葉月は季節フルーツのタルトを選んだようだ。

 オーダーが終わって、また、二人の会話が途切れる。
 近頃の『持たない間』がやって来たように思えた。

「さっすがにイルミネーション綺麗ね。街を縁取りしているみたい……」
「そうだな」

 ビルの頂点に輝く赤い点滅灯、窓灯り、きらびやかな広告塔や看板。
 この店の外壁を取り囲む緑の植え込みに、クリスマスでもないのに小さなイルミネーションのデコレーション。
 それを葉月が指さしていた。

 しかし、それだけで、またお互いに黙り込む。
 けれど、今夜は違う気がした。
 言葉が続かなくても、向き合っているだけで、空気だけで会話をしているような気持ちだった。

「でも、やっぱり小笠原の天の川には負けるわよね」

 葉月が無邪気に微笑む。

「ああ、本当だ……うん、俺もそう思う」

 心にポッと灯がともったような、柔らかい暖かい感触を与えられている。
 このテーブルの端にひっそりと置かれているキャンドルの灯のように、ほのかな暖かさ……。

 ただ向き合っている二人。
 その内に、オーダーした物がテーブルに並んだ。
 お互いにカップを持つまでも、静かな、でも、ほんわりとした柔らかい空気が漂っているだけ。

 その柔らかく漂う空気に、『バラの香り』がほんのりと、隼人の所まで漂ってくる。
 葉月が着けているトワレの様だ。
 彼女にしては、意外な香りのような気もするが、すっかりその香りを隼人は楽しんでいたようだ。

 目の前の、花開いたように華やかな女性になりつつある葉月の私服姿。
 それをこうして『自分だけの目の前』で対するのはあまりない。
 いつも葉月は、隼人とは関係のない場所に出向くとき、この姿で出かけてしまう。
 それが……寂しかったのだろうか?

 急に、隼人はそんな気にさせられた。

 女性としての葉月と久し振りに向き合っている気がした。
 まるで心に水が染み通るような、そんな安堵感が隼人に広がる。

 しかし、心の隅で疼くのは、やはり先程の『思わぬ葉月の行動』の事。
 だけれど、こちらから聞けずにいる為、また──沈黙が漂う。
 今度の沈黙はやや重くなった。
 それを分かったように、葉月から話し出す。

「最近ね。『うち』の事、少しずつだけど判るようになってね」
「え? うちって? 御園の?」
「うん。右京兄様って、やっぱり顔が広いの」
「それが?」
「あの副院長先生。兄様と交流がある『御曹司』同士のお知り合いみたいね。親しくはないけれど、顔見知りだったんですって」
「あーなるほど」
「エドがあの病院と通じているのも、元はと言えば、右京兄様が『都内で融通が利きそうな病院』という情報を流しての事だったみたい。取引は先生とエドだけの間のことらしいけれどね」
「!」

 と、言う事は? 今夜、あそこで出会ったのは偶然でもあるのだろうが、やはり何処かで皆が繋がったからこそとも言えなくもない。
 隼人は、唸った。

 しかし、それで『三人で飲みに来ていた』のは分かった。
 でも、それ以上の事を隼人は知りたいのだ。
 これも葉月は隼人に知られたのなら、説明するのは重々承知の上だったのだろう。
 唸っている隼人に構わずに続けた。

「先月ね。医療センターの婦人科担当医に『女性』が配属されたのよ。男性隊員は知らないと思うけれど」
「へぇ……そうなんだ」
「ロイ兄様が、前から考えていたみたい。男性が多いのが当たり前の軍隊だからと甘んじずに、女性の事で女性が安心できる女医をと……」
「さすが。女性にも気配りは怠らない連隊長らしいな」
「でしょう? だから、女性の相談者が増えているみたい。それで、私もね。ロイ兄様からその話を聞いて、ちょっと尋ねてみたの。『流産』の事」
「……知らなかった」

 葉月が医療センターに通っていたことも、気が付かなかった。
 だけど、隼人の目の前の彼女は穏やかに微笑む。

「三十代後半ぐらいの若い先生なの。ちょっとお医者らしい冷たさがあるんだけれど、話したら親身に相談にのってくれて。それで、紹介してくれた病院が『あの時の病院』だったので……驚いたわ。でも女医先生が言うには、通える範囲で一番信頼できるし、こちらの産科医師とも面識があるらしくて」
「紹介先が? あの病院?」
「そうだったの。躊躇ったけれどね……。でも、女医先生も『軍での最適な治療は望めない。本気なら、充実している専門病院を勧める』と言われたから」

 その女医の選択は『ごもっともだ』と、隼人も頷く。
 軍での医療と言うのは、そこで勤めている軍人達の日常を支える程度までの医療であり、フロリダ本部にある軍総合病院でないかぎり、専門的に取り組む研究などもしていない。
 それを望むならば、軍人の為の医療ではなく、軍外の病院での医師になるべきなのだ。
 軍の中で研究を望むなら、その専門部署になる──しかも、これも『軍事』が絡む事になるのだから。
 だから、専門的な治療が必要になると、軍医が民間のより専門的な病院を紹介する事は日常ある光景だ。

 今回の葉月が通った『ルート』もそれになると言うわけだ。
 しかし、隼人は何も葉月の様子からも、予想できなかった。
 どちらかというと──自分に起きた『不幸』や、心に付いた『傷』については、『触ると痛いから、触らないようにして、治療は試みず放置』にて忘れるというのが彼女だったから──。

「そう考えると、エドに連れて行かれたのも頷けるわ。彼なら、きっと、たとえ裏取引での診察でも間違ったところは連れていかなかったって……」

 その時、隼人は昨日の夕方、葉月と向き合っている所に、彼女にかかってきた内線連絡の事を思い出した。
 ──『こちらなのですか!?』──と、葉月が驚いて、メモしていたのは『こういう事』だったのか! と……。

 驚いている隼人をよそに、葉月は続ける。

「しかも、今日の空いている時間に会ってくれると言う先方の指定だったので、それで慌てて今日、出かけることにしたの。産科の先生もやっぱりあの時の先生で。今度は表から堂々と行ったわけでしょう? 私の職業も判明して驚かれたみたいで、それで副院長のお耳にもはいったってわけ。しかも右京兄様にも、あの時の病院と一緒だったと報告したら、『知り合いだから付き添う』という事になったのよ」
「……」

 暫し、隼人は絶句し──そして、息を整えて、今度は真っ直ぐに葉月に向き合った。

「お前……あの病院に行くことに抵抗はなかったのか?」
「え?」

 隼人はある。
 先程、副院長の顔を見ただけで、逃げたくなったのだから──。

 すると、葉月も少しばかり致し方なさそうに微笑んだ。

「抵抗はあったわ。だから、あの後、暫く考えた。秘密裏にしてまで、診察をしてもらった病院、医師に、今度は『身分』を明かした上で診てもらうことになるんだし……」
「よく、行ったな……」
「そうね……」

 それなら、他の病院をあたる選択だって出来たはずなのだ。
 しかし、今度は葉月が隼人にまっすぐに向いた。

「でも、同じ事だと思ったの。考え方を変えたら……『一度診てくれている先生』になるでしょう? それに、あの時に診てもらって、とても安心出来た先生だったから──」
「確かに──それは俺も同感」

 思い出したくなかったが、隼人も思い出した。
 エドと一緒に、淡々と診察してくれた真面目そうな産科医師の事を。
 隼人も面識がある分、見知らぬ新たな病院に行かせるよりかは、葉月を預けても安心が出来ると言うのは、同感できた。

「それに、右京兄様にも報告したら……ご存じの病院だったみたいだから。兄様に相談してから、決めた。のも、一つの理由だけれどね」
「……」

 葉月が相談するのが、自分でないことを決定付けられたような気にさせられた。
 が──もう、そんなふてくされたような気持ちは湧き起こらない。
 何故なら──葉月のその『決意』に対したら、些細な事のような気がしたのだ。
 隼人はもう一度、葉月にまっすぐ向かって聞いた。

「辛くないのか……?」

 すると、葉月がニッコリと笑った!
 その笑顔に、何故か隼人の心が貫かれる!!

「辛いのは、同じ事が繰り返されること。そして、繰り返させてしまった事。本当の自分から逃げていた事。それに比べたら、辛くなんかない」
「は、葉月……」
「たとえ、二度と子供ができないと言うなら、そういう運命の自分であるのだと認識したい。それが『私』なのだと──」
「お前──そこまで……」
「……」

 しかし次の葉月は、その決意に満ちあふれる笑顔から一転し、俯き、哀しそうな眼差しを落とている。

「もっと早く、そんな自分と向き合っていたら……。貴方を苦しめなかった!」
「! 葉月……それは、ちが……」
「なにも! 言わないで!! 今は、自分でそう思わせて──お願い」
「……」

 彼女が望んだ通りに、隼人は口をつぐむ。
 『自分でそう思わせて』──葉月の自分を責める気持ちは、隼人も同じだから。
 お互いに自分を責めることで──気が済む心が軽くなる──そんな『ふたり』なのだ、今は……。

 そして、隼人は黙って葉月を見守ることに徹していた。
 そう言えば、格好良く聞こえるかも知れないが、見守りに徹している本心半分、美しくしなやかに変貌していく彼女に近寄り難くなったという本心半分。
 だけれど、隼人の『見守る』という姿勢は、心で決めても、なかなか難しいことだった。

 そうすれば、必ず、葉月に構いたくても、無理に心を止めなくてはいけない時もあり。
 そうすれば、方々に駆けめぐっているウサギをハラハラしても、ジッと耐えてなくてはいけないこともあり。

 それに──今夜だって。
 隼人の考え及ばぬ行動をしている過程上で、あの様に訳ある男性といる事にも動揺したりだ。

 それでも、隼人は『見ている』。
 木曜日の夜に独り酒を楽しむ彼女も。
 鎌倉に帰省し、見知らぬ音楽仲間と集う彼女も。
 小笠原の音楽隊員と、音合わせで出かける彼女も。
 見たことがない洋服を着る彼女も。
 隼人の知らない香りを試している彼女も。

 ──なにもかも。

 葉月は、生まれたてみたいなものだ。
 あれもこれも試してみて、それで、『どれが私に合っているか』を追求している最中。

 今まで、彼女のイメージは全て『兄達』が作り上げてきたと言っても良かっただろう。
 生きるという事も、楽しみも、苦しみも、すべて放棄しようとしながらも、それでも生きている事でもがいていた彼女は、兄達の囲いで生きる『楽』の世界に甘んじていたのだろう。
 その上、葉月は『隼人のイメージ』にも合わせてくれていた部分もあるだろう。

 だから、葉月から『カボティーヌ』の香りが漂わなくても、隼人は哀しくは思わなくなった。
 それでも葉月が『カボティーヌ』を着けたくなった時に、着けてくれたら良い事。
 それでも葉月が、どの香りよりも『カボティーヌが好き』と選んでくれたなら、それもそれで良い事。

 全ては『彼女次第で選ぶ事』なのだ。

 だから、『不育症に向かう』事も、その一つ。
 葉月自身が決めたこと。
 隼人はそれ以上口出しする気はない。
 『俺に黙っていた』事に関してもだ。

 それにもし言われても、隼人が付き添うとか……今はそんな状態の関係でもない。

「……食べろよ、早く」
「う、うん……」
「ほら、他にも好きなもん、頼めよ。おごるからさ。俺も小腹が空いてきた、何かサンドでも頼もう」
「……」
「なに、景気悪い顔するなよ。俺のおごりだぞ、おごり! ウサギさんはこう言うときは遠慮なく大食らいだったはずだけどなー」

 隼人は、窓辺にそっぽを向けつつ、少しだけ嫌味っぽい横目で葉月を見た。
 すると、戸惑っていた葉月が楽しそうに微笑む。

「──『不機嫌は美味しいもので直してくれよ』──だったわよね」
「そんな事言ったか? 俺」
「最初に『ランチ』に連れていってもらった時、そう言ったのよ? 覚えているくせに。私、今は不機嫌じゃないけれど、いっぱい頼んじゃおー」

 隼人のちょっとした嫌味も平気で切り返してくれた。
 負けじとメニューを広げた葉月に、隼人も『どうぞ、どうぞ』と笑って返してみる。

「次はキャラメルラテと〜クレープアラモード。それから、パニーニ……隼人さん半分食べてくれるでしょ?」
「なーにが、パニーニだっ。勝手に決めるな、俺の食べもん!」

 途端に調子よいお嬢さんを見せてくれたのも久しぶりかもしれない。
 隼人も前の調子で、呆れながら葉月が手にしているメニューをばっと奪う。

「それにお前、そんなに甘い物ばかり食べると……」
「……『でっかい女になる』でしょ? コックピットからはみ出すとか、ホーネットが重くなって落ちるとか……」

 葉月がツンと拗ねたが……隼人は『どうしてだろう?』と切なくなってきた。
 ランチの話も、日常で気兼ねなくからかっていた文句も──隼人が随分と前に、葉月に言った事だ。

 隼人は思い出して欲しくて、言ったわけではない。
 何か言えば、葉月が昔を思い起こさせるような『懐かしい隼人の言葉』を口にしているのだ。

 もしかして? 俺との今までをそれ程までに『常に、なぞるように思い出してくれている』?
 そう思ってしまい、隼人は葉月を見つめたまま硬直していた。
 葉月もそれに気が付いたのか、急にバツが悪そうに、額の栗毛をかきあげる。

「あ、でも。今は飛ばないから──別に関係ないでしょ? いくら食べたって。俺のおごりって言っておいて、なぁに? その制限は」
「ああ、そうだな。うん、頼めよ。俺にもクレープくれ」
「いいわよ」

 葉月がやっと笑顔になる。

 決まると葉月の方が張り切ってオーダーしたので、隼人もそれを目の前にして笑っていた。
 『あれから』も、何度か二人で食事はしたが、こんなに懐かしい感触を得たのは久しぶりに思えた。
 それが急に不思議に思えて、隼人は頬杖、窓外の夜景を眺めた。

 手元にあるカフェオレのおおぶりカップを持ち、一口、口に含み、葉月を見据えた。
 それに気が付いた葉月も、小首をかしげている。

「なに? 隼人さん──」
「ああ。余計な事かもしれないけれど……」
「なに? 通院する事なら気にしないで。先生はあんな事を言ったけれど、隼人さんとの事だけじゃなくて、ずっと昔からつきまとってきた事なんだから。私自身が向き合わねばならない事だもの」
「そうではなくて。『今は飛ばないから』って、急に言うからさ」
「それが?」

 隼人はそこで、姿勢を正して葉月に向かう。
 隼人の意を決したような様子に、葉月が気圧されたようのけぞりそうになっている。

「あのな……。『今』の甲板でのお前、お前らしくない」
「え?」
「細川中将が側にいるから『おりこうさん』にしているのか?」
「……そんなつもりは、ない……けれど」
「その様子だと、自分でも『おりこうさんを演じている』と、気が付いているみたいだな」
「……」

 葉月がここ二、三日、落ち込んでいる最大の原因。
 通院を始めようとしている事よりも、葉月にとっては今こちらが気になる所だろう。
 ミラーから聞かされていたのもあるが、隼人もうすうすは感じていた事だ。
 以前なら、小うるさい兄貴のようにして『ああしろ、こうしてみては? こうするべき』などと言っていたが、いまや『一人でやってみたい』と前を向いている葉月の邪魔をしたくなく、黙っている。──つい、言いたくなってもグッと堪えてまでだ。

 だが、今夜は何故か言う気になった。

「ミラー中佐から聞いた」
「え!?」
「一人で呑んでいる大佐嬢をからかってみたいと思っただけなのに、つい『本音』が出てしまったと……」
「何故? あの人がいちいちそんな事を隼人さんに?」
「誰かに心情を明かしたい程に苛ついている。彼が話すのに選んだのが、俺だっただけ。つまり、あの中佐も『既にやられている』って事」
「やられているって?」
「じゃじゃ馬の『風』を、体験してなくても予感している。きっと、あのように過酷な訓練を繰り返してきた人が持つ、特有の『勘』なのかもな? それがずっと的はずれを繰り返しているから、イライラしているんだ」
「? 言っている事が良く解らないけれど……」

 難しかったかと、隼人は唸りながら、黒髪をかく。

「甲板からでも、落としちゃえよ」
「え?」

 さらに隼人は、躊躇いつつ唸りつつ、繰り返す。

「コリンズ中佐と一緒だった時のように、『暴れちゃえ』よ。すっきりするぞ、きっと──お前だけじゃなく、誰もがね」
「! 隼人さん……」
「優等生のお前なんか、見ていても、つまらない。問題児の方が面白い」
「失礼ね」

 葉月が、いつものようにツンとそっぽを向く。
 だが、すぐに可笑しそうに笑い声をそっとこぼしている。

「そうね──。そう言えば、私って問題児」
「ひとつの例えだよ」
「ううん。訓練生の時も、色々とね。『やった』から。教官には『手間がかかる子』って言われていたわね」
「ふーん……」

 それが、ミラーが言っていた『彼の元隊長』で、葉月の恩師なのかと思いを馳せた。

「そうね、ふふ。やっちゃおうかな? 私も思っていたのよね。指揮側は窮屈って。爆発しちゃおうかな?」
「やってやれ、やってやれ! 俺は聞かなかった事にしておくぜ」
「ずるーい。後押ししておいて」

 だが、そこで二人揃って笑い声をたてた。
 暫く笑っていると、急に葉月の方が神妙な表情に変わった。

「有り難う。迷いがふっきれそう……」
「と、言う事は。やはり『それなりにやろうとしていた』って事か」

 葉月が素直に頷く。

「今まで、散々……人に迷惑をかけるような事ばかりしてきたから。『大人らしく』波風を立てないよう、かつ、自分らしくって思って……出来やしないんだけれど、少しずつでもそうならなくちゃと……」
「お前だけじゃないよ」
「え?」
「俺も含めて、皆、そうなんだよ。失敗したり、格好悪い事を繰り返したりして……何が良くて悪いか、そうして判断して体験していくんだと思う」
「隼人さんも……あるの?」
「当たり前だろう? 今までもそう言う事俺も沢山あった。それに……32になっても、落ち込んでいるよ……」
「だから、隼人さんは何も悪くはな……」
「──今は、自分でそう思わせて──お願い! って、俺も言わせろ」
「隼人さん──」

 これ以上、お互いに『あの事』を深く語りたくない。
 それは隼人もそうだし、葉月も同じ気持ちのようで、二人はまた揃って口をつぐんだ。

 せっかく和んだ空気が、また重くなったような気がして、隼人はまた窓辺に視線を流した。
 ところが、その窓辺に写っている栗毛の彼女が、両手を拳にし膝のスカートを握りしめ……とても、思い詰めた顔をしているのに気が付き、隼人は目の前に視線を戻す。

「どうした?」
「私……」
「?」

 隼人が眉をひそめていると、葉月が深く息を吸ったように見えた。

「愛している……貴方の事」
「!?」
「そんな事、言うべきではない事を『しでかした』のは、解っているわ……。お願いだから、隼人さんは悪くないんだから──」
「……」
「あまり自分を責めないで……。私は前よりずっと『生きている』事の実感を、重く、尊く感じる事が出来ているのだから──」

 隼人はそっと、持っていたカップをソーサーに戻す。
 指が震えていた。
 つまり……それだけ、心臓の鼓動が速くなっているのだ。

「俺も……愛しているよ」
「!」

 目の前には、今にも泣きそうな葉月が隼人を見つめ返している。

 暫く──時と空気が止まったよう。
 そこに二人だけの空間が出来たような一体感を感じたのだが……。

「でも──」
「でも……」

 一体感は、その『でも』まで続き、揃って呟いていた。
 それにも驚いて、二人は顔を見合わせたまま……茫然としていた。

 だけど、次にはまた二人揃って力無く、小さく笑い合う。
 この微笑みは、楽しいという物ではなく……どうしようもない『哀しさ』を誤魔化す為のもの。

 そして、二人はそれ以上、話すのをやめた。

 

 その後、それなりの和やかさを取り戻し、他愛もない話で繋いでカフェを出た。

「送るよ。ホテル……どこ」
「大丈夫よ。タクシーで直ぐだから」
「そうか」
「隼人さんも、横浜まで、気をつけてね」
「ああ」

 葉月は路肩に出て、目に付いたタクシーめがけて手を挙げた。
 それに気が付いたタクシーがウィンカーを点灯させながら、近づいてくる。

「楽しかったわ」
「俺もだよ」

 彼女の大らかな笑顔が、イルミネーションの街路樹の下で煌めいたものだから──。

「葉月──」
「!?」

 週末の夜、都会の夜の煌めきは、魔法になり、かけられやすい。

 彼女の手首を掴んで、胸元まで引き寄せていた。
 その勢いのまま──当然の如く、彼女の唇をめがけたのだが……。
 ほんの僅か、唇の先が触れ合った、その時──。

「……葉月……」
「……」

 すぐに隼人は、離れてしまった。
 葉月は目をつむって、まつげも唇も、無抵抗のままに隼人に向けているのに──。
 微かに、震えていた。

 だから、隼人はそのまま、彼女を胸元から解放する。
 背後に停まったタクシーに、そのまま送った。

「……気をつけて」
「ええ。また……週明けに」

 まるで顔を隠すようにして、葉月がタクシーに乗り込んだ。

 彼女を乗せたタクシーが、都会の風景に遠く消えていく。

 隼人はそこで、ずっと見送っていた。

 がっかりしたとか、そんな気持ちはなかった。
 むしろ──『はっきりした』と思えた。

 隼人もそうだが、彼女もそう。
 『愛』はあるのに、触れ合うのが怖くなっているのだと──。
 傷つきたくない……それとも、傷つけたくない? きっと、それなのだ。

 愛があれば、何でも上手く流れていく物かと思っていた。
 けれど、世の中には、一緒に住んでいるのに愛し合っていない者もいれば、別れたはずなのに、それまでにない信頼関係を築いてしまう男女もいる。
 そんなおかしな事が極当たり前にあるのも、僅かながらに解るような気が……今の隼人には……。

 溜め息を落として、隼人は一人の帰路につく。
 街路樹に息吹き始めた、新緑。
 それを、春の夜風が揺らしている。
 まだ、肌寒い季節だ。

 けれど──まだ、『俺達』の穏やかな季節は遠いらしい──。
 そう、隼人は思った。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 週明け──。
 また、離島での軍人生活が始まる。

 本島のまだ、肌寒い季節とはうって変わって、こちらはメラメラと熱気がこもり始める初夏。
 甲板も、熱い蜃気楼で揺らめいている。

「本日のチーム分けを発表します」

 そこに、紺色のキャップにサングラスをした彼女がいた。

 今日も空の上では、キャプテンの容赦ない攻撃と先攻に、元コリンズメンバー達が惨敗している。
 それを腕を組んで、空を見上げている『大佐嬢』を、隼人は甲板から見つめていた。

「……」

 何かを考えあぐねているかのような彼女が、サッと吹っ切れたようにサングラスを取り去った。
 その眼差しが、空に真っ直ぐ伸びている。

──ゴーッ!──

 彼女のその視線の先には、一機のホーネット。
 ミラー中佐の一号機だ。

 紺色キャップのひさしの影……葉月の目つきが変わった!
 挑む眼差しに──。

 それを確かめ、隼人も空を見上げて、微笑んでいた。
 なんだか、久しぶりに血が騒ぐ!

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