実は、この週末──隼人はとても忙しい。
横浜の家に帰省するのだ。
葉月ほど頻繁ではないが、隼人も帰省する機会が増えた。
そして、理由も葉月とは違った。
彼女が完全にプライベートの帰省なら、隼人の場合は『仕事絡み』の帰省。
自主的に行動をしている物があり、それに関しては葉月……いや、大佐嬢も了承済。
しかしながら、今回の帰省は……この事も念頭にあるが、ちょっと違う目的での帰省をする。
「では、俺は明日の朝一便で、横浜に帰るのでよろしく」
今週の仕事も終わった。
夜の19時を回っていたと思う。
珍しくない光景だが、この時間帯は葉月も達也も残業している事が多い。
ただ、この日は週末だった為、要領が良く手際の良い達也は、とっくに『週末のイベント』に男友達と出かけていった。
だから、隼人が『よろしく』と呟いたのは、葉月だった。
彼女が今日一日、元気がない『理由』をたまたま知ってしまった。
密かに眺めていた限り手元の仕事が進んでいないだろう彼女が、やっぱり気だるそうに顔を上げた。
「そうだったわね。ご家族によろしく」
「ああ」
それでも、彼女は薄暗くなり始めている最後の夕焼けを背に、微笑みかけてくれた。
「……お前は? 今週は何もないのかよ? 鎌倉とか音楽隊との音合わせとか……」
少しばかり、緊張しながら聞いた。
「うん──自宅でのんびりするわ」
「……元気、ないな」
「そういう事もあるわよ」
やっと『元気ないね』と聞けたのだが、葉月は書類を眺めながら、あっさりとした声で返してきただけだった。
達也のように、素直に深く探りたい気持ちが、何故にこんなにも難しく感じてしまうのか?
隼人の胸が、ズキリとした。
「昨夜、あれだけ飲んだんだもんな。今夜は出かける気もないってわけか」
「そうよ。ちょっとウンザリ……」
昨夜の有様──酔いつぶれて迎えに行った事──を、嫌味っぽく言ってしまったのに、葉月はそれもあっさり認め、その上やっとそれらしく、げんなりとした顔を隼人に見せた。
「うんざり……って?」
「うーん。色々」
『色々』という一言で葉月が済まそうとしている。
隼人は、どうしてか苛ついてきた。
でも、なんとか押さえる。
隼人としては、葉月が『ウンザリ』している理由を知っているだけに……。
だけれど、彼女は『隼人さんの知らないこと』と思って話している。
いや『隼人さんが知らなくてもいいこと』と……思っているのだろう。
苛つきながらも、葉月が『色々』と口にした心情も分かっている。
でも……彼女が本当に遠く感じた。
あの時よりもっと、遠くに行ってしまったような気がする。
「じゃぁ……暫くは、『ああいうこと』もなさそうだな」
「当然よ。貴方と達也にこれ以上迷惑なんてかけられないもの」
「じゃぁ……もう、飲みに行かないんだ」
「潰れるほどは飲まないって事」
毎週木曜日に葉月が出かけていることを知った。
知ってしまったら……気になる。
彼女が独りで飲んでいることを知って、出向く男が必ず出てくるだろう。
ミラー中佐なんて、親切で言ってくれたのだろうが、本当のところ、彼も怪しい部類に位置づけて置いてもおかしくない。
葉月が飲みに行けば、そんな可能性が出てくるはずだ。
彼女と生活を分かつようになってから、彼女の鎌倉帰省が頻繁になっても、他の隊員と音楽を通じて飲みに出る事が数回あった事を知っても──隼人の心はあまり揺れなかった。
そう、彼女を信じられたからだ。
あれだけ苦しんだ彼女が、そんな軽はずみをして『元通りの、投げやりで頼りなげな女』に落ちるはずがないと。
だけれど、何故だろう?
昨夜、それが怪しい年上の余裕男がカマを掛けて楽しんでいた事よりも、『独りで飲みに通っていた』と言う事実の方が、隼人の心を揺さぶった。
だから、今──嫌みたらしく言った中には『もうやめてほしい』と言う気持ちの表れが……。
なのに葉月は『やめない』と言っているのだ。
「もう……迎えには行かないからな」
「うん。そうならないように、潰れるなら家に帰ってからにするわ」
「……」
なかなか頑強だ。
自分も素直でないことは分かっているのだが、葉月は前とは違う『頑強さ』を備えてしまっているようで。
仕方がない。
彼女が俺を頼れないように陥らせたのは、この『俺』だ。
隼人は溜息を、そっと気付かれないように落とす。
彼女はまだ自分を責めているのだろうか?
「お疲れ様──、夜遊びはほどほどに」
「はい、中佐。貴方も気を付けてね」
「ああ」
隼人の『久々の小言』にも、葉月は他人行儀にさらりとした風に微笑んだだけで、一人きりの事務作業に没頭してしまった。
──プルル──
珍しく、大佐席の内線が鳴る。
「お疲れ様です。第四中隊大佐室……ああ、私です」
どのような用事なのか、隼人は暫く、眺めていた。
「はい、そうですか。有り難うございます。え? そ、そうですか。はい、はい……」
葉月は隼人を気にしているのか、急に歯切れが悪くなった気がした。
相づちをうちつつの彼女の手元、メモ帳にペンが走る。
「こちらなんですか!? あの……。いいえ、解りました……それでですね……」
なんだかとても話しにくそうだ。
仕事か? それとも?
だが、歯切れが悪くとも、葉月は睫毛を伏せつつも会話を繋ぎ、手早い応答で切り上げるような様子がうかがえない。
密かに溜息をついて、隼人は席を離れる。
そのまま、大佐室を出て、彼女と別れた。
「俺もどうしようもないな……」
何かが益々こじれていると分かっているのに、どうにもならないとは、この事なのだろうか?
──『好きな女性に対して素直になれば……』──
部下の言葉が頭の中にこだまする。
仕事での話だったが、そうでなければ、かなり痛い言葉だった。
引き寄せたいのに、引き寄せるのが怖いのか。
それとも──もう、二度と傷つけ合いをしたくないからなのか。
今、彼女と面することは何ともなくとも。
今、彼女の素肌を抱きしめたら──。
『俺はどうなる?』
以前同様に抱けるのか?
それが時々、急に恐ろしくなる時がある。
ものすごく欲する時もあるのに。
ものすごい恐怖に包まれることもある。
彼女の中に罪を埋め込んでしまった身体を。
彼女の中に『ふたりで生んだ魂』の爪痕を残してしまった身体を……。
一つだけ、彼女と通じている気がする。
それは、彼女も……同じように『恐れている』のではないのかと?
・・・◇・◇・◇・・・
次の朝。
隼人は予定通りに、軽い荷物を手にして、横須賀基地へと向かう定期便機に乗り込んだ。
席はほぼ満席だが、すこしだけ空席もある。
今週は、土曜、日曜と二連休の週。
離島で職務をしている息抜きに、本島へとでかける隊員でいっぱいのようだ。
顔見知りもちらほらいて手合図での挨拶は交わしたが、皆、それぞれの目的で同僚や家族との外出であるため、その空気に染まっているようだった。
隼人は一人、窓際の席に座っていた。
隣に座ったのは、見知らぬ若い青年。
どこかの部署であるのだろうが、私服だから判らない。
けれど、隼人も私服だったにも関わらず、彼はこちらを知っているのか、『中佐、おはようございます』と、挨拶をしてくれたのだ。
隼人も笑顔で、お返しの挨拶をした。
出発間際になって、制服姿の男性乗務員が、タラップをかけている扉前で落ち着かない様子。
「すみません。遅くなりまして──!」
「いいえ。間に合っていますから、大丈夫ですよ」
隼人はその声に、ハッと立ち上がりそうになった。
それは良く聞いている女性の声。
葉月の声に聞こえたのだが!?
先程まで、ざわついていた機内が、急にシン……としたような気がした。
そう、皆が、その女性が現れて、何もかも忘れて息を止めたように……。
『はぁ、はぁ』
急いできたのだろうか?
最後にやって来た彼女の息づかいが、中央部座席に位置している隼人の所に近づいてきた。
「あー。間に合ったわ」
そこに、前髪をかきあげる栗毛の女性が……。
「葉月……!」
「! あ、そこだったの」
葉月が隼人を見つけて、ニコリと微笑んだ。
それはやはり、他の乗客の視線を集めたようだ。
「急に用事ができてね。昨日、帰る前になんとか一席取ったの。二連休なのに、一席でも空いていて、ラッキー」
「用事?」
「うん」
だが、葉月はその笑顔を残して、一番後ろに空いていた一席に行ってしまった。
仕方がない。
もうすぐ離陸時間だ。
乗務員達が慌ただしくハッチドアを閉め、密閉し、それぞれのチェック態勢に入っていたから、どうにもならない。
「あの……大佐とお席、代わった方が……」
「あ、いいんだ。用事はお互いに別だから。有り難う」
「いいえ」
隣の若い青年が、気後れしたようにして隼人に声をかけてくれたのだが。
最後に滑り込んできた葉月の搭乗で、機内にいる人々の空気が急に一点に傾いている。
それを肌で感じたので、隼人はその気遣いに感謝する微笑みを浮かべつつも、素っ気なく切り返した。
(どうしてだ? 昨日は、『ウンザリしているから、今週はゆっくりする』と……)
そう言っていたのに。
昨日、あれだけ気だるそうに、やる気もなさそうだった彼女が?
『やりにくい人』である年上のパイロット部下に、手痛い打撃を与えられて落ち込んでいるはずなのに?
こんな遠出をする気力を起こしたのか?
『!』
(あれ? そういえば、ヴァイオリンを持っていなかったような?)
水色のサマーニットに、真っ白で青い小花柄のスカート姿にスプリングコートを手にしていた彼女。
その姿を思い起こして、隼人は首を傾げた。
定期便、飛行中──。
読みかけの文庫本でも読もうと思っていたのに、隼人は窓辺の景色を見下ろしながら──ずっと考えていた。
隣の青年は、寝入っている。
葉月の息づかいも、もう、届いては来ないが、存在感のオーラは隼人にヒシヒシと迫っている。
けれど機内の乗客達は、もう……私服姿の華やかな大佐嬢が現れた事など忘れ去り、それぞれの『休暇のはじまり』に溶け込んでいる様だった。
横須賀基地に着いて、降りた時も──葉月は、隼人を気にせずに、サッとチェックアウトを警備口で済ませ、外に出ようとしていた。
『そこまで俺を避けるのか?』と、穏やかでなくなる一方の胸のざわめきをおさえつつ、隼人も今度は素直に葉月の背を追った。
彼女の背を見つけたのは、駐車場だった。
葉月はそこでキョロキョロとしたり、携帯電話をハンドバッグから取りだして眺めている。
誰かを待っているようだった。
やっぱり、その小さなハンドバッグ以外に手荷物はない。
かなり手軽な様子で、ヴァイオリンは持参していなかった。
(誰と? 音楽仲間じゃないのか?)
葉月とは時々食事に行く。
達也と三人一緒の時の方が多いが。
その時、ほとんどは達也が尋ねるのだが、隼人も『彼女の新しい活動』を知りたいから、良く尋ねる。
鎌倉での音楽活動の事を。
けれど、その話で出てくる新しい知り合いとやらは、『すべて右京を介した知り合い』であって、『いつも右京と一緒に会う』と聞かされていた。
それで隼人もおろか、達也も……。
『あの右京兄さんが、がっちりガードしているさ。“俺の従妹と会いたきゃ、俺に言え”ぐらい言ってそう』
……なんて、安心している。
勿論、隼人も、そこは同感だった。
なので、誰かと密かに待ち合わせるなんて事は、ないだろうと思うのに。
そこで隼人は立ち止まる。
何故だ、何故だろう?
彼女が、躊躇っていたヴァイオリンとの距離を縮めた事、人と対することに前向きになり社交的になった方が、心穏やかじゃない。
隼人の手元で、過酷な過去に対しても、隠し持っている自分の気持ちを誤魔化してばかりの彼女ではいけないと思って、前に押したのに。
そこで、隼人はまたうなだれた。
自分が彼女にした事が……自分が彼女にも『自分自身』にも望んだ事は、何であったのかを。
──プップッ!──
葉月の背に駆け寄ることも声をかけることも出来なかった隼人に、そんな車のクラクションが聞こえた。
「葉月」
「お兄ちゃま!」
右京だった。
真っ白なBMW。
そこから、煌めく栗毛の男性が出てきた。
こちらも、真っ白いソフトジャケットに、水色系のシャツ。
ふとすれば、『お揃いの格好』に見えそうな二人の似た趣味。
(なんだ……お兄さんと待ち合わせていたのか)
急にホッとした。
いつものように、太陽の光の下、栗毛の従兄妹同士は、とてもまばゆい。
それに、葉月の明るい無邪気な笑顔。
未だに、兄貴達には適わないのだろうか?
右京も突然に来ただろう従妹に輝く笑顔を見せ、葉月を助手席に乗せた。
どこへ行くかは、もう隼人の中でどうでも良くなった。
『急な用事』が、右京と一緒のことなら、家族のことなんだろうと──。
ただ……右京が葉月を連れていったから、と言う理由だけで。
従兄の真っ白い車が発進する。
葉月は滑走路の待合室と警備口と繋がっている建物の出口に視線を向けた。
いるわけがないか……と、ふと、思いつつ。
どこか胸の風穴にヒュゥという風が吹き込んだような寂しさを感じたのに、どこか半分ではホッとしていた。
何故なら今から出向く『用事』が何であるか、悟られたくないから……。
そんな葉月の様子を見て、サングラスをしている従兄が、ステアリングを握ったまま微笑みかけてきた。
「お前さ。本気なのか?」
「うん……一度、きちんとしておこうと思って」
「辛くないのか?」
その時、葉月の手には、昨日の内線連絡で記したメモ。
都内の病院の名が記してある。
「辛くない……と言ったら嘘だけど。でも、もう……」
葉月は小さく微笑みながら、俯く。
「そうか。ま、お兄ちゃんでよければ、付き合ってやるよ」
「えー? 別にいいわよ。『足』だけで」
「なんだと? この麗しい兄様を捕まえて『足』だと?」
「どーせ、『本当はデートの約束していたのに』って言うんでしょう? 送ってくれたら、後は自分で帰るから! その後はご自由に」
葉月がツンとそっぽを向けると、右京が笑い出す。
「相変わらず。本当はお前が一番、怖いくせに。だから、俺に『報告』して来たんだろう?」
「……違うわよ。それに、もう、怖くなんかない」
「澤村には……? いや、言うわけないか」
「きっと気にするから」
「そうだな。……でも、お前が言えば……あいつだって」
「いいの」
「そっか」
表情を強く固めた葉月を見て、右京はそっと微笑んだだけ。
従兄の白い車が走り抜けていく、春の海岸線。
葉月は頬杖をついて、窓に映り始めた横須賀の海を見つめる。
そっと『彼』の色々な表情を思い起こし、もどかしそうだった数々の言葉を噛みしめながら……。
・・・◇・◇・◇・・・
今夜、隼人は約束がある。
その為に夕方から出かけなくてはならない。
いつもの仕事絡みでの約束ではなかった。
『今週、帰ってこられないか? 久々に集まりそうなんだ。お前もたまには来いよ』
父・和之が経営している『澤村精機』で営業マンにて修行中の幼なじみ『結城晃司』から、そんな連絡。
つまり小規模な『同窓会』とやらをするらしいのだ。
『その代わり、横浜を離れて都内で働いている奴とか住んでいる奴が多いから、都内に集合』
今まで、この誘いには乗らなかった。
昔のことを思い出すと……あの時の自分を否定したい気持ちに駆られる。
特にこの同窓生と一緒だった中学時代の事は、隼人にとっての一番苦々しい思いが残っている思春期だったから。
学校の同級生とは少しばかり距離を置いて、殻に籠もり始め、一人になりたがっていた頃のことだ。
賑やかな誘いを断った事もあったし、仲良くなろうと声をかけてくれた同級生に素っ気なくした記憶もある。
こうして振り返ると、隼人も『後ろ向きのウサギ』と同じだったのかもしれない。
『隼人さんは、日本の学校にいるときは、どんなだったの?』
ある時、葉月が『やっと言えた』とばかりの躊躇う口調で隼人に尋ねてきた事がある。
『べつに、そこらへんのガキと一緒だよ』
『そう』
この話題は、そんなふうにあっさりと終わった。
そこで隼人はふと気が付く──。
──そう言えば、俺の昔の事。あまり、話したことがないな?──と。
彼女、葉月に……。
彼女も聞いてきた事もあまりない。
今までは気にならなかったが、隼人は急に『今までの俺』を、葉月に話したことが少ないような気がしたのだ。
勿論、男がそうだからかどうかは判らないが、少なくとも隼人は自分から昔話を話すという性分でもないと思う。
それに、彼女から聞いてきても、過去のことより『現在と未来』しか見えなかったりして、その質問の重要性とやらを、女性より軽く考えているかも知れない?
だが、何度か聞かれても、きっと、同じように短く終わっていただろう?
もし言えていたとしても、彼女にそんな『継母と上手く行かなくて』とか『うんと好きだった反動でかなりひねくれていた』なんて……そう言ったとき、きっと葉月は優しい意味で気遣うだろうと思ったのだ。
そんな気遣いを彼女にさせたくなかった。のもあるし、本当は『情けない』とか言う男のプライドもあったかもしれない。
だが──『女の過去』とやらは、気にならない振りして、結構、気にしている?
今までの隼人はそうであったような気がする。
だが、その分──彼女の過去については、細心の気配りで懸命に一緒に向き合ったつもりだ。
それに、『葉月』という彼女は、なにやら勘がよろしく、読みも鋭いので、隼人から言わずとも『きっとこう考えている』という事を、本当に上手く察してくれる恋人だった。
フランスで出会った時、そんな彼女といる『心地よさ』を感じていたから……彼女に心を開いた。──この時は。
(う……ん?)
なんだか、嫌な気持ちが胸に黒く立ちこめ始めた。
それが『同窓会参加』を決めた理由。
何故か急に『俺の今まで』が気になり始めた気がしたのだ。
もうすぐ晃司が迎えにこの実家に訪ねに来て、一緒に都内まで出る。
こちらはとっくに桜は散ったよう……。
それでも南の離島から来た隼人には肌寒い。
白いティシャツの上に、デニムのシャツジャケットを羽織った。
・・・◇・◇・◇・・・
少しばかり固く緊張していた程でもなく、小さな同窓会は、すぐにお開きになった。
都内で家庭を持ち、働いているサラリーマンの同級生がほとんど。
女性陣の集まりが少ないのは、おそらく、隼人の年齢からして『家庭で母親』になっている者が多いからだろう。
しかし、四人ほど、来ていた。
彼女達は、独身。都内で働いているとの事だ。
久し振りに顔を出した所、『フランス留学』をして以来会う者もいて、非常に驚かれた。
『澤村! お前、フランスから帰国したんだって!? 驚いたよ』
『そうそう、澤村君って、あの頃、学校でもすごく話題になったわよね』
『いいや、変わり者だったよ。俺らの時代で十五で外国──しかも、“軍隊”だぜ!?』
『すごいわね。今も小笠原で航空員でしょう? しかも中佐ですって!?』
同窓会の『主役』になってしまった……。
隼人は照れつつも、彼等の昔の面影を思い起こしつつ、まるで初対面の人間に話すかのように、質問には丁寧に答えた。
直ぐに同級生だった時の感覚を取り戻せたクラスメイトもいたし、まったく初めて話すような同級生もいたが、そこは皆、もういい大人──なんとか馴染んだ。
主役の『フォロー』は、当然、幼なじみの晃司。
よけいな事を言わないか、ハラハラしたが、晃司も『軍』の中で営業をしているベテランになりつつある。
小笠原の隼人の中隊の事は、おおまかに添えるだけで、隼人が『年下のクウォーター大佐嬢』の下で働いている事もいいやしなかった。
ただ『フロリダで鍛えた若い大佐の側近に抜擢されて、大出世!』とだけ。
なので、隼人が『大佐嬢』と付き合っていることすらも言わなかった。
そこは、さすが……隼人の幼なじみ。
何を嫌がるかよくご存じで、感謝、感謝だった。
近頃の傾向であるのか『創作系和食居酒屋』での同窓会。
その居酒屋を出たのは21時だったと思う。
「じゃぁな、澤村! 今度、俺も見学とかさせてくれよ」
「お疲れ様! 澤村君。また、参加してよね!」
「ああ、楽しかったよ。また」
妻と子供が待つ家に向かう男達。
一人暮らしのマンションに帰るという独身貴族達。
まだ少しだけ肌寒い春の夜風に、ほろ酔いの身体が冷まされていく中、隼人も心よりの笑顔で彼等と別れた。
「さ、帰るか」
「もうかよ? 隼人らしいな? たまに都内に出てきたんだから、もう一軒行こうぜ。この前、営業で良いところに連れていってもらったんだ。欧州仕込みのお前には気に入ってもらえると思うんだけどな〜」
「へぇ? どんな所?」
「ピアノがあるショットバーだよ。好きだろ」
なんだか晃司が『ニッ』とにやけた。
父の和之から聞いているのだろうか?
『彼女がクラシックが趣味』だと……。
「……そうだな」
「よっしゃ。せっかくお前が出かける気になったんだからさ。たまには俺ともゆっくり話そうぜ」
「ああ……」
『出かける気になった』──に、隼人は首を傾げ唸った。
まるで『誰かさん』に似ているじゃないか? と。
小笠原では、同僚と出かけることは良くあることなのだが、それは『小笠原内』に限られている事ではないか。
それに晃司の『ゆっくり話そう』も気になる。
おそらく、アレだ。父親の和之から『恋人との不仲』を悟られて、探れとでも言われているかも知れない?
いや、彼なりの心配も含まれていることは有り難く思っているのだが。
とにかく、慣れた幼なじみと向き合って、話してみるのも良いことだろうと、隼人は晃司の後について、夜の都会の道を歩き出した時だった。
「聞いちゃった。私も行きたいわ」
「?」
晃司と一緒に振り向くと、そこには黒いスーツを小粋に着こなしているOL姿の女性が一人。
「青柳」
『青柳佳奈』──先程まで一緒に呑んでいた同窓会メンバーの一人だ。
きっちりと引っ詰めてまとめている黒髪に、シャープでクールな控えめなメイクと、シンプルで華美ではないが、きっちりと着こなしているオフィススタイル。
まさにキャリアウーマンの印象だが、隼人が嫌っている『凝り固まったきっつい働き者』でなく、目元の穏やかさに、柔らかい口調で、先程の会でも違和感なく溶け込んで、男性陣とも軽快に会話をこなしていた。
他の女性達よりかは、『しっかり者』に隼人には見えたし……目立ちすぎず、控えめすぎず、存在感はないようである、といった『さりげなさ』で、一時、彼女が隣にきて、幾つか質問してきた時も、なんら嫌な気もおこらず、一番、話しやすかった。
そんな女性だ。
だから、晃司がニコリと嬉しそうに微笑んでいるのを見てしまった。
「あ、青柳も行くか? そうか」
「男同士でっていうなら──いいけど。私も久し振りのお出かけだったのよね〜。ここの所、残業ではりつめていたから。せっかく出かけたのに、もう一軒一人って言う気分でもないし。同窓生なら気兼ねないしね!」
「おう! そうだな、行こう、行こう!」
彼女も特に男性と一緒でどうこう……と言う、妙な気構えがなさそうな砕けた口調に、さらに晃司が調子に乗った。
隼人は、どちらかというと……男同士で行きたかった。
「澤村君は……結城君と二人きりが良かったみたい……」
「……いや? 別に。俺も構わないけれど」
そういわれて、少しばかり『がっかり』していた自分に気が付いてしまい、隼人は取り繕った。
そうか……晃司に『聞いてもらいたかったのか、俺』と。
だが、隼人は晃司がそう言いだしたからその気に傾いただけのこと。
いつもの調子にもどり、あっさりと彼女に答える。
「いいんじゃない。男ふたりより、華があったほうが」
「あら? 私みたいな地味な華でよろしい?」
彼女が、さらりと言い、そこで隼人を見上げて、やっと優美な微笑みをみせた。
「行こうぜ」
「行きましょう」
なんだか、晃司と佳奈に挟まれ、無理矢理に連行されるかのように、隼人は引っ張られ連れて行かれた。
晃司は、女性と一緒で嬉しそうで。
佳奈はなんだか、先程より、積極的な様子に?
なんだか、隼人だけ二人とはテンションが違う気がする……。
・・・◇・◇・◇・・・
ピアノがあるショットバーとやらは、都内ホテルの最上階にある高級そうなバーだった。
佳奈が言うには『生演奏を聞きながら飲む場所では有名で、何度か来たことがある』と言う事らしい。
それで、晃司が営業先に誘われて来たのも頷ける気がした。
ざわついていなくて、落ちついている品の良い笑い声だけがさざめく程度の静かなショットバー。
どうやら、若者とかいう明るい軽快なイメージの客はいなく、大人の場所のようだ。
ぼんやりと青い照明の為、夜の都会を展望するガラス窓には夜景がより一層煌めいている。
そして──シックなドレスを着たピアニストが、グランドピアノに座って演奏していた。
スーツ姿の男性が多いが、砕けたカジュアルスタイルの男性も少しばかりいる。
それほど『お堅いお約束』で縛られている雰囲気はうかがえず、砕けた格好でやって来た隼人でも入りやすい様だったのでホッとした。
「ふーん。青柳も何度か来ているんだ」
「私も職場や仕事関係でだけどね。やっぱりあるのよね。『接待』とか……」
「青柳も営業は長いよな」
フロア席がいっぱいだった為、カウンター席に座っていた。
女性の佳奈を挟んで、隼人と晃司が座ったのだが、会話は晃司と彼女で進んでいる。
隼人は、ブランデーのグラスを持って、聞いているだけだった。
なんていうか──『民間企業同士』の仕事話には、やはりなんとなく入りにくかったのだ。
「えー! いつのまに!?」
「まぁね。『やっと』よ」
晃司の驚き声に、隼人はフッと彼等の会話に戻る。
「隼人。彼女、最近、プログラミングのアシスタントになれたんだってさ」
「そうなんだ」
「工学大を卒業したのに、配属は営業。でも、その為に……ずっと営業だってやってきたわ」
その時ばかりは、彼女の表情が引き締まった。
その『長年の苦労』と『念願』の強さが秘められている気がした。
だけれど、彼女はすぐにさらりとした笑顔に戻る。
「あ、でも──三十過ぎて、やっとスタートって言うか。その部署ではヒヨッコなの」
「でも、青柳ってさ! 俺達と一緒の『機械クラブ』で、当時は珍しい、唯一の『女子』だったよな〜」
「そうだったな。余程好きだったんだな」
その苦労は見せまいと、カラッと笑顔に戻った佳奈。
そんな彼女の『一途な思い』の発端を思い出した晃司。
そして、やっと思い出した隼人の一言。
その隼人の一言を耳にした途端に……彼女の表情がしおれた。
「やっと思い出してくれたの? 澤村君」
「……え?」
隼人は、何故かドキリとした。
すると晃司がしらけたように睨んでいた。
「諦めろ、青柳。こいつの『鈍さ』はお前が一番、知っているはずだ?」
「そうねっ」
しおらしく俯いた彼女の表情にドッキリとしたのに、途端に彼女は手元のカクテルをグッと男っぽく飲み干した。
「私も『可愛らしかった』けれどね。澤村君には最後まで気が付いてもらえなかったもの」
「ほんとに、気が付いてなかったんだな? 隼人」
「え?」
「私、あの頃、澤村君が大好きだったわ。フランスに留学するって聞いて、一晩、泣き明かした記憶がある」
「ええ!?」
晃司の口が『バカ』とだけ、声なしに動いた。
佳奈は『おかわり』とグラスをバーテンダーに差し出す。
「中学生らしいアピールはしたけれど、もっと大胆にするべきだったと、『今』なら思うわ。今の貴方を見て、なおさら思ったわ」
「そ、そうだったんだ!?」
「相変わらずね。澤村君──」
彼女の冷めた眼差しに、説教されているようだった。
「やめとけ、やめとけ。青柳」
「そうね──澤村君の彼女ってさぞかし、ご苦労様」
「……いや、そうでもないぜ」
晃司がニヤッと笑ったので、隼人はドキッとした。
「え? 澤村君……彼女いるの?」
「いるいる」
隼人が答える前に、晃司があっさりと答えた。
「向こうの人?」
向こうが『小笠原』である事も判ったので、隼人は『ああ』と躊躇うことなく答える。
「同じ基地の人なのね」
「ああ」
「彼女、幾つ?」
「今年、28……」
「いい年頃ね」
晃司がニヤニヤしていた。
隼人が『彼女がいる』と言えた事を安心している笑顔も混じっているようだが、自分の事をつつかれて、戸惑いながら答えている様を面白がっているのも分かった。
「だったら、彼女──そろそろ結婚とか言わない?」
「それが、まったく……」
「ふぅん? じゃぁ、彼女、仕事が好きなのね」
「俺より、出来るから」
「! そ、そう……」
そこで隼人は何故か、誇らしげに微笑んでいた。
それに対して、佳奈は気が抜けたような相づちをして、そのまま黙ってしまった。
が、再び躊躇いがちに尋ねてきた。
「中佐に出世した澤村君より出来る女性って……どんなお仕事なの?」
「……」
なんだか言いたくなかった。
パイロットだとか、最年少大佐だとか……鎌倉の資産家の娘だとか……。
自分と彼女の組み合わせが、どんな目で見られるとかそう言う事じゃない。
葉月を簡単に晒したくない、そんな気持ちだった。
晃司も黙っていた。
隼人の心情が伝わっているのだろうし、葉月の事も、晃司はある程度は見知っているからだろう。
会話が途切れ、妙な空気が三人の間に流れた。
『あのね。そこのピアノ……ちょっとだけ借りられないかな? “彼女”に弾かせたいんだ』
『はい?』
鎮まった三人が座っているカウンターの端に、スーツ姿の男性の声。
バーテンダーが困った顔をしていた。
『すこしだけだよ。──店に迷惑な雰囲気は作らないと思うよ』
『いや、しかしですね』
『これ』
その黒髪の男は、四十代ぐらいだろうか?
グレーのスーツのジャケット、内ポケットから、幾らか知らないが二つ折りにした『札』を一枚差し出した。
「随分ね……チップのつもりかしら?」
佳奈は金でものを言わそうとしているその男性のやり方、我が儘に、カチンと来たようだった。
『あの……店長をお連れしますので』
『そうして。僕、ここの常連だから、知っていると思うよ』
「益々、嫌なかんじ」
佳奈がふてくされたようにして、新しく来たグラスもアッという間に半分まで飲み干してしまった。
「本当、景気の良い男っているんだよな〜」
晃司は、邪険にはしなかったが、遠い世界を眺めているかのように脱力していた。
そのカウンターの端で、男は肩肘で寄りかかって、座っていただろうフロア席に手を振った。
そこに彼女がいるようだった。
「女も女ね。止めなさいよ」
佳奈の勢いが強まる。
『!』
その時、その嫌味な男性があげた顔を見て……隼人はハッとした。
それに、その男も隼人と目があって、にやけていた表情を一変させた!
さらにその後すぐ。
「先生、困ります。お店の迷惑になりますわ」
女性がカウンターにやって来てそう言った。
その声を背中で聞いた隼人に、ヒヤリとした何かが流れた気がした。
「あれ!?」
晃司もその声に振り返り……そして、驚いたようだ。
「あれれ!?」
今度、そう言ったのは、先程の嫌味でにやけた男性。
彼が隼人を指さしたのだ!
「ゆ、結城さん……?」
そして、その女性の声が隼人に向けられた。
「隼人さんも……」
……振り向けなかったが、分かっていた。
『葉月』だ。葉月がここにいる!!
それにしても『何故』──?
その『何故』は、偶然に葉月と同じ店で出会った事ではない!
「あれれ……確か〜君は……」
「先生っ。お願いですから、おやめになって。私、ここでは弾けません!」
「え〜? 僕はどうしても聞きたいなぁ〜? 葉月ちゃんのピ・ア・ノ」
なんだか、その『先生』が隼人を挑発しているように言っている気がした。
それは『先生』が、隼人が葉月と『恋人だ』と知っている証拠。
「俺──帰る」
「隼人?」
「澤村君?」
葉月の顔は一度も見なかった。
葉月が、一緒にいたのは──『流産だ』と判った時に診察をしてくれた病院の『副院長』だった。
右京はどうした?
葉月はどうして、この『医師』と一緒に、夜の都会にいる?
何故か逃げ出すように、隼人は席を立った。