-- A to Z;ero -- * 遠い春 *

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2.愛は痛くて

 二日酔いではないが、気分は優れない。
 昨夜の過ぎた酒のせいか、それとも、自分にとって『嫌な自分』をありありと突きつけられたからなのか……。

 いや、酒のせいじゃない。
 おそらく後者の『嫌な自分』を目の当たりにさせられた衝撃の方が勝っている。

 それを思うと、よけいに気分がムカムカするし……心がシクシクと痛む。
 情けないこと、この上ない。

「嬢。お前、やる気あるのか?」
「は、はい……申し訳ありません」

 訓練の最中だった。

 やっと晴れ渡った空に、十機のホーネットが飛び交っている。
 いつも出しているような、それとなく自然に出てくる『そつない指示』なら、ぼんやりしていても勝手に口から出てくる。
 だけれど──『そつない事』だから、それだけの事。

 初めて、細川が葉月の有様に、短くても一言発した。
 それでもそれは、本気で案ずる為の一言というよりかは、諦められているような一言に聞こえた。
 そしてまた昨夜の『がっかり』とかいう評価を思い出す。

 だけれども、この日の訓練はそれで終わった。
 細川は、すこし溜息をついただけで『ご苦労』との一言だけ残して、去って行った。

 今は『ミラーチーム』と言えば良いのだろうか?
 『ビーストーム』一行が、列を崩して、訓練終了、解散をしたところ。

 連絡船乗り場へ向かうために、皆が散り始める中、ミラーがこちらをチラリと見たのだが、昨夜のきつい有様も気にもかけていないような……いや、もっと軽蔑しているような冷たい視線を一瞬だけ向けた。

 それもそうだろう。
 あれだけはっきりと言ってくれたのに、今日の葉月は、むしろ今までで『最悪のモチベーション』だ。
 呆れられてもしようがない……ったらありゃしない。と言うところだ。

 今週の訓練が終わった。
 もう、今夜は何処にだって出かける気にもなれない。
 いつも週末になると、あらゆる所からお誘いの声がかかるようになったが、この気分では『すべてキャンセル。お断り』状態だ。

「大佐……今日は元気ないっすね」
「え? そう? クリストファー?」
「分かりますよ。大佐が本気でやるときは、俺達はいつも『ハラハラ』っすよ。だけど、ここの所その『ハラハラ』がないんすよね。なんとなく安心が出来るような気もしてたけれど、やっぱりなんすか? 俺みたいに、大佐の側に数年お付き合いしていると『ハラハラ』が正統って感じになっているような気がしたんですよ〜」
「ハラハラが正統?」
「そうっすよ! 指揮官に責任があるのは当然の事だろうけど、俺的には『ぶっちゃけちゃう大佐』の方が、らしいな……って! ああ! 生意気っすね!? 俺!!」
「ううん。そんな事ないわよ。生意気とか気にしないでよ。いつも言っているでしょう? 同世代なんだって」
「あは。そうでしたね」

 クリストファーは、ジョイとテッドと同い年。
 二つ年下だが、葉月の希望通りに、同世代というような『上下関係』。
 簡単に言えば『先輩、後輩』のムードだ。

 隼人がこう言っていた。

『憎めないけれど、言っていることは、結構、的を射てるもんで、時々ドッキリさせられる』

 しっかり者だと。

『いうなれば……遠慮があるジョイって所かな』

 そう言って笑っていた。
 遠慮があるジョイという例えが可笑しくて、その時は葉月も大笑いしたが──まさにそんな感じだった。

『まぁ、お前の新しいお相手には、良いムードメーカーになってくれるかもな』

 隼人の眼鏡は間違いなかった。
 訓練の付き添いとして、きっちりと部下らしい品格を醸すところは醸し、葉月が言うところの『同世代だから……遠慮しないで』と言う希望についても、さり気なく沿ってくれとてもバランスがよい。
 隼人の話では、後輩の面倒見も良く、何よりも『空軍管理官』としての使命感や責任感に置いては非常に安心感がもてる新鋭だとか。

 そのクリストファーが言った『ハラハラが正統』で『安心感より、ぶっちゃけた方が……らしい』と言う見方にも、葉月はなんだか急にドッキリさせられた気がした。

『中途半端だ』
『ハラハラがないんすよね……』

 葉月は、熱し始めた甲板が、ユラユラと蜃気楼で揺らめくのを見据えた。

 昨夜、『なぎ』で潰れるまで黙々と考えた事がある。
 けれど……なんだか『それ』をする気力がないし、億劫なのは何故なのだろう? と……。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 今週の訓練も無事に終わったと、メンバーである後輩達と隼人が賑やかに連絡船乗り場に向かった時だった。

「キャプテン」
「?」

 聞き慣れない静かで落ちついた声に、隼人は立ち止まる。
 通路の影から、明らかに『待ち伏せていた』風のパイロットが出てきた。

「ミラー中佐」

 彼の1号機は、隼人が後輩の村上と担当している。
 だから、訓練では彼と言葉を交わすことはあるが、彼が転属してきてからそれ以外で会話を交わしたことはない。
 それどころか『まとまらない』とか『馴染まない』と、デイブ卒業後のチームの様子をこぼしていた葉月の言葉から、『硬い男』と言う事も知っていたので……より一層『親睦』を試みる機会がなかったと言っても良い。

 それに──葉月がしている事には、以前ほど口出しはしないようにしている。
 彼女が『甲板指揮』という新しい仕事で、どれほど戸惑っていたりしても、見えない振りをしていた。
 その中で、彼女がこの男を『やりにくい人』として、なにかにつけては躊躇っているのも判っている。
 彼女は、隼人が見ている限りの見解を同じように認識しているかは定かではないが……おそらく『判ってはいまい?』と見ている。
 それでも、知らぬ振りを決めていた。

 その隼人が気にする『彼女』が戸惑っている男に、話しかけられた。

「どうされましたか? もう、パイロットは退いたと思っていました」
「どっちにしても、『馴染んでいない』のでね。一本分、船を見送っても、彼等は気にも止めないよ」
「はぁ……」

 自分から『転属してきたチームには馴染んでいない』と告げられて、本当の事とは言え、隼人はどう反応して良いか解らず、苦笑いをこぼした。

『サワムラキャプテーン!』

 先に歩いていた後輩達が、隼人がいないのに気が付いて、皆で手を振って呼んでいる。

「先に行ってくれ! 陸のカフェで集合だ!」
『ラジャー!』

 すっかり一つにまとまってくれたメンバー達が、楽しそうに先を行く。

「俺が転属してくるほんの数ヶ月前に立ち上げたチームだって? 見事にまとまっている」
「有り難うございます」

 その時、メンバーの後ろ姿を一緒に眺めていたミラーの目元が……隼人の予想を裏切ると言いたいぐらいに、優しく緩んだのだ。
 彼のチームは、今はまとまっていやしない。
 そんな彼が、すっかりまとまった新メンテチームの様子を眺めていても、卑屈そうな所は何一つうかがえなく、とても穏和に見えた。

「私になにか? 機体メンテナンスに問題でも……」
「いいや……ちょっと情けない話を」
「情けない話?」

 葉月から『精密機械』と呼ばれているパイロットだ……と、言う事は聞かされている。
 隼人の目から見ても、彼のその『安定感』と『落ち着き』は尊敬に値する。
 おそらく……第一、第二中隊の空部隊にいるレベルのパイロットだろう。

 その彼が訓練以外の話をしそうな雰囲気に、隼人は眉をひそめ、なにやら不安を覚えた。

「ええっと……噂でね。君は大佐嬢と……ステディだとか」
「ああ……まぁ。噂は噂ですね」
「真相は?」
「真相?」

 以前なら『ウン』と言えたことが言えなくなっている。
 隼人はすぐに『ウン』と言えなかった自分に腹が立ち、頬をひきつらせつつも、答えようとした。

「彼女に熱心な男は噂ではごまんと。そして私も側にいる男ですから、それなりに──。ご想像に任せます」
「そうか」

 新しく来た『やもめ男』が、早速に葉月に興味を持ったのか? と、隼人はやや冷たく言い放っていた。
 なのに──隼人より、落ち着きありそうな彼は、やっぱり、落ちついていて……隼人が思っていたような、男性的な反応を見せなかった。

「それが、なにか? 情けないとは……?」
「いやーその……」

 いったい、この俺から何を知りたいのだ? と、隼人が首を傾げていると、ミラーはちょっとバツが悪そうにして俯いてしまった。

「そのー。彼女に『うっかり』関わってしまうと言うような事が、あるのだろうか? と、恋人でなくても、側近で近しい関係にある君に聞いてみたくなったんでね」
「──うっかり──!? ですか?」

 やっぱり、隼人は『この男も、ついにそうなのか!』と、ドッキリした!
 隼人としても、始めから今まで『すべてうっかり』みたいな物だ。
 葉月を目の前にしていると、いつだって『うっかり』で振り回されているのだから。

 ところが、ミラーの次の言葉は、隼人の『うっかり』とは少し違う物だった。

「別にどうだって良いと思っていた彼女なんだけれどね。どうせ若い指揮官で女性だ。なってなくて当たり前じゃないか」
「は? 総監代理としての話で?」
「そうだよ? だから、彼女の出来が悪かろうが良かろうが……どうでも良かったはずなのに。どうしてなんだろう? 無性に近頃、腹がたってね」
「そうですか……」
「確かに、俺が尊敬している隊長の『自慢の教え子』だと言う期待もあったけれど、期待はずれであったならそれ以上の期待はせず『駄目だった』と、それだけの事だと思っていたんだけれど。ついに昨夜……」
「昨夜──!?」

 隼人の脳裏に、昨夜──漁村まで出向いて酔いつぶれた葉月の姿が思い浮かび、再び、ドッキリ。
 昨夜はこの男と、一緒だったのか!! と。
 訓練の話かと思っていたのに、再び、妙な男女の怪しい匂いが漂い、密かに心がざわつく。

「うっかりね──カマを掛けてしまったんだ。俺としたことが……どうしたものかと。『余計な事をした』と、今日の訓練の様子でつくづく思い、反省中なんだ」
「カマを……掛けて、余計な事?」

 そして、ミラー中佐は『昨夜の出来事』を隼人に簡略に教えてくれた。
 通い始めたバーで独りでいた葉月に、言うつもりもなかった『心情』をぶつけてしまったのだと……。

 それを聞いて、隼人は笑い出してしまったのだ。

「サワムラ?」
「いえ……ああ、『そう言う事なのか』と──」
「可笑しいか、やっぱり──参ったな」
「……」

 照れたように、でもちょっと悔しそうにして、ミラー中佐はプラチナブロンドの短い髪をカリカリとかきはじめ、顔をしかめている。
 隼人も笑い声を止め、真顔になり、ミラーに向き合う。

「──『うっかり』が最初の症状。彼女に振り回されないように、出来れば、今まで通りの『知らぬ顔』の方が『楽』ですよ」
「サワムラ……もしかして、君は」
「彼女の妙なパワーに捕まったら最後、止まることなど出来ないし、止まれば置いて行かれる。彼女、そういう『女』です。そして、彼女は真っ向から自分を痛めつけてでも、ぶつかっていきますよ。それが正しいか悪いかを知るのは『体感のみ』──傷つくと分かっていても、本気で行ってしまうんですよ。もっと甘やかして誤魔化すことだって出来るはずなのに──」
「……」

 こんな事を、それほど話したこともない彼に言うつもりはなかったのに──。
 ミラーのバツの悪そうな、居心地が悪そうな……自分が『ついにやってしまった』という姿が、二年前の自分と重なったのだ。
 彼女に関わってしまう……惹かれてしまう、そんな事を思い出させたから。

 辛そうに呟いてしまった隼人を、ミラーが分かりきったように、そして困ったように見つめている。
 何故だろう? 会話を交わすのは初めてと言っても良い彼に、妙な親近感を感じてしまっている。

「少し前に……彼女に『白黒』つけさせたい事があって、それにはかなりのダメージが生じる事だったのに『本気』にさせようと躍起になった事がありましてね。彼女の『本気』──すごかったですよ。理想であろう理屈を並べた『結果』、それに対して、それを実行してしまう本気がもたらした結果の差はこれほど違うのだと。彼女が自分を痛めつけた姿に教えられて、愕然としました」
「……つまり、彼女に火を点けると『やっかい』って事かい?」
「はい。ですから、彼女を本気にさせると、良きも悪きも『後に退けなくなる』為に、こちらも『パワー全開の本気』にさせられる事になりますからね。覚悟した方がよろしいですよ」

 隼人の微笑みに、ミラーの表情が固まる。

「──だけれど、彼女は君の為に本気になったんだろう?」
「え?」
「知っているかい? 愛し合う事において、傷つけ合ってしまう事も、実は避けられない事実なのだと……」
「!」

 急に憂う彼の表情に、隼人はドキリと固まった。

「しかし、哀しい事じゃない。それを乗り越えられなければ、愛し合う事は出来ないと思うからね。そこまで来て傷つけ合った事を苦に逃げたら、それまでのことなんだと──」
「ミラー中佐」

 思わぬ人に、ハッとさせられる事を教えられた気になる。
 その顔は『経験済み』である……傷ついた事がある、いや、傷つけ合ったことがある顔なのだと。
 そこで、隼人は、思い切って聞いてみた。

「愛しているから、傷つけてしまった──と言う事も、あるのでしょうか?」

 すると彼が、意外な事を聞かれたかのように一瞬驚き、でも、直ぐに寛大な暖かい笑顔を浮かべた。

「そういう事は、どこでも日常茶飯事なんじゃないの?」
「そうですか」
「自分だけを愛して欲しいから、彼女だけを愛しているが為に。誰でも簡単に愛の名の下に傷つけてしまう事なんて……」
「ミラー中佐……」

 落ちついている中佐が来たもんだ──と、隼人は思っていたのだが、それ以上だと思った。
 この人は、大人だ。

 俺達が味わい始めた物を、既に味わい尽くしていると。

「参ったな。大佐嬢にカマかけてしまったばかりに、彼女の側近にも変な話をさせられた!」
「もう、遅いですよ。俺は今、中佐にもの凄い敬意を抱きました」

 急にハタと我に返ったミラーに、隼人は微笑んだ。

「冗談じゃない。俺の『失敗談』なんて参考にならないぜ」
「……失敗談?」
「離婚歴有りだからって事」
「!」
「あれ、知らなかったのか。大佐嬢は知っていると思うけれどな。俺の事、調べていたみたいだから──」
「そうでしたか……」

 そんな話──葉月はしてくれなかったし、なにより、ミラーの説得力ある話が『そこから』来ていたことに、隼人は笑顔を消す。
 今度はミラーが場を和ませようとしてくれたのか、微笑んでくれた。

 しかし、それ以上に彼が急に不敵な笑みに変わった。

「さて。彼女は今日の様子だと、随分とへこんで集中力もなさそうだったけれど。これで潰れてくれたら、俺は『変な本気』とか言うエネルギーを使わずに済むわけだ」
「……彼女は、それぐらいではへこみません」
「おや。やっぱりね──『信望者』って事か」
「俺の上司ですからね」

 そしてミラーがクスリと笑う。

「あれで『火』が点くとは思えないが、点いたら面白いけれどね」
「本気にさせたい覚悟があるなら、どうぞ……」

 先程まで気の良い先輩の笑顔を見せてくれていたミラーが、急に挑発的になってきたように隼人には感じられた。
 その彼が、さらに隼人に勝ち誇ったように微笑む。

「昨夜、彼女には『独り酒で、女が気取っている』と小馬鹿にしてしまったんだけれど」

 そう呟いた彼が、何かを思いだしたかのように一人でクスクスとこぼしたかと思うと……。

「噂通り──『いい女』に見えたんで、それも『ついちょっかいを出した』理由でもあるかな?」
「!」

 そう言ったミラーの勝ち誇った笑顔は、まるで隼人を試しているかのようだった。

「──彼女、良くある寂しさの暇つぶしには見えなかったね。むしろ、『ストイック』に他の空気を遮断しているようなムードがそそられたもんで……」

 そんな女の持つ世界を、切り崩したかった。
 男の隼人にはそう聞こえた。
 そして、それには何処か共感を持ってしまった。

(ああ、それで……あんなに、荒れていた訳か……)

 昨夜の『真相』が判明して、隼人は溜息をこぼした。
 葉月としては『実は慣れていない女の独り酒』を小馬鹿にされた事と、『なっていない』と言う仕事の評価のダブルパンチだったのだろう。
 目の前の男は、昨夜、『ちょっかい』を出した彼女が、簡単にぐらついたので、たやすく倒せる(または、堕ちる?)と、高をくくったようだ。

 そこで隼人は、やっとミラーにニッコリと余裕で微笑み返した。

「中佐? もう一度、言っておきますね。『彼女と本気でタメ張ると痛い』と──」
「ああ、覚えておこう」

 だけれど、大人であろう彼は、そんな隼人の余裕だったはずの笑みにも、なんのそのの微笑み返し。
 その上、憮然として去ろうとした隼人の背に、もう一言。

「彼女、毎週木曜日の夜。そこに通っているみたいだぜ」
「!」
「サワムラ。今度は俺ともじっくり飲もうよ。君は面白そうだ」
「……」

 振り返ると、そこには、もう……隼人が少しだけ心を許してしまった寛大で柔らかい笑顔をこぼしているミラーがいた。

 隼人を煽っているのか、葉月に対して興味を持ってしまったのか、それとも──そんな隼人に親身になってくれて『大佐嬢の夜のお楽しみ情報』をこぼしてくれたのか。
 良く分からない──。

 だけど、隼人は微笑んだ。

「そうですね。是非──」

 隼人が心より微笑むと、彼も同じように柔和な微笑みを返してくれていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「大佐、こちら今週分の結果です」

 日差しが降り注ぐ大佐席で、葉月は気だるそうにその声に反応して、顔を上げた。

 そこには栗毛に、透き通ったエメラルド色の瞳を涼やかに輝かせている青年が、自分を訝しそうに見下ろしていている。
 近頃、葉月のアシスタントと言っても過言ではなくなった、見事に短期決戦で少佐に昇進したテッド=ラングラーだった。

「あの……コリンズ中佐とウォーカー中佐がとっている調整の現時点の報告書ですけれど……」
「ああ、空母艦での航海実習の……」
「はい。航海中の母艦と交渉しているようですけれど、なかなか受け入れが上手く行かないようで……」
「当然よね。訓練ではなくて、防衛のために航行している実務中に、『より実務に近い訓練の場を』と、訓練生でもないのに申し込んでいるんだから」

 最初から判っていたリスクだから、葉月はただ溜息をつきながら、テッドから報告書を受け取る。
 先輩の二人と始めたのは『小笠原空部隊強化訓練』の実習を『クラス(科)』として独立させられるかどうかと言う事を試験的に始めたのだ。
 その為に、パイロットを引退した小笠原のエースパイロットでもあったウォーカー中佐が、教育隊と呼ばれている第六中隊に転属した。
 デイブは、そのまま第五中隊の本部員として、この仕事を中心に活動している。
 この計画は、葉月が『箱根』にいた時──帰ることを決した後に、計画を立てた物。
 小笠原に帰ってきてすぐにロイに申し立てたところ、『面白い』と言ってくれ、事を進める許可を得た。

 その第一段階の計画を進行中だ。

 テッドが渡してくれた報告書には、ウォーカーとデイブが交渉した航行中である空母艦の名が連なっていたが、どれも断られたとの報告と、詳細が記されていた。

「ウォーカー中佐も、少しばかり疲れてきたみたいで……何かもっと良い方法はないでしょうか?」

 テッドが心底、困ったように溜息をついた。
 彼も、葉月と手を組んでいる先輩達の懸命さ同様に、一生懸命に新しい計画のために働いてくれている。
 なのに──葉月は、何故か……面倒くさそうにして、その報告書を、いつもの書類山の上に放ってしまった。

「大佐?」
「……ないわよ」
「え?」
「地道にやっていくしかないって言っているの」
「……」

 少しばかり苛ついた声を突きつけてしまっていた。
 やってしまったのだから、取り返しがつかない事は分かっているのに、葉月はそんな自分も許せなくて、つい大人げなく、彼にそっぽを向けてしまった。

 すると、テッドが『いつもの溜息』をこぼした。

「なんですか? この頃、とつぜん『だだっ子』になりますね。まぁ……いいですよ。大佐はいつもお疲れなんですよね」

 こちらはクリストファーと違って、葉月に対しては礼儀正しいが、変に遠慮がない。
 そして、とても大人びているのだ。
 だから、そんな葉月の不機嫌な様子にも動じはしないし、逆に余裕がある。
 現に今も、そんな大人げない葉月に対して、寛容そうな言葉を言っているのに、言い方は嫌味っぽいのだ。

 『だだっ子』とは、随分とお嬢ちゃん扱いされているようで──。
 だけれど、『先輩方も一生懸命なのに、それはないでしょ』と言いたそうなテッドの冷めた眼差しが注がれていた。
 そして、彼はそのまま背を向けて去っていくのだ。

 見込んだ男とは言え、いいや、だからこそだろうか?
 彼には、時々、妙な威圧感を感じてしまう。

 そして、そんなテッドと葉月のやり取りを見て、楽しんでいる男が二人。

「おー、テッドを怒らせると怖いぞ。葉月」

 大佐席の左側の角合わせにいる『海野中佐』──達也が、パソコンのモニターからニヤニヤとした顔を覗かせる。
 葉月は、ツンとして取り合わない。

「大佐嬢を捕まえて、『だだっ子』だってさ。テッドの方が、余裕だな」

 今度は大佐席右側にいる『澤村中佐』──隼人が、クスクスと可笑しそうな声をこぼしている。
 勿論、葉月はムスッとした。

 ムスッとはしたのだが──。
 葉月は席を立つ。

「あのー。ロバートおじ様から聞きました。昨夜は御迷惑をおかけしたようで、申し訳ありませんでした」

 葉月は、そのまま頭を下げて謝る。
 すると、不機嫌な上官を冷たくあしらう後輩とのやり取りを、楽しんで覗いていた男ふたりの息づかいが止まった。

「……ま、今後、気を付ければそれでいい」

 隼人は近頃の冷たい態度に変わり、無機質な声で一言、言っただけ。

「……何があったんだよ。お前がね──外であんな風になるなんて、余程だろ?」

 達也は違った。
 『ひどいことがあったに違いない』と決めて、とても気にかけている様子。

「今まで、独りで飲みに行く事があったとしても、お前は短時間だろうし。それに酔ったにしても、潰れるなんてあったか? それから──」

 達也の追及が始まる。
 彼が心底、心配してくれているのは有り難く思っている。本当だ。それでも──葉月は、それを遮った。

「何もなかったとは言わないわ。あんなになったんだから。でも──いいの」
「いいのって? 本当は──」
「大丈夫よ。昨夜、あれだけ荒れたらすっきりしたから」

 葉月は、達也に笑顔を見せる。
 その笑顔に圧されたのか、達也も黙ってしまった。

「さて──俺も『試験的強化訓練』の実現の為に、ウォーカー中佐の所に行ってくる。ああ、それと……大佐嬢、フロリダのジャッジ中佐からメールが来ていたので、そちらに転送しておいたから。申し立てをしてきた内容に、判断して欲しい」

 隼人は、あっさりと立ち上がった。

「解ったわ。目を通しておきます。いってらっしゃい」

 葉月も見送る。
 彼も、今の話題に一人終止符を打ったように出ていった。

 それで良いと、葉月は思っている。
 今までなら……ともかく。
 今は何が起きようが、『自分でやる』のが信条だ。

 ただ、隼人に何を思われるかと、気になるとしたら『仕事での評価』。
 仕事の上での『葉月』だけは、彼には見限られたくない。

 何故なら──今、私達を結んでいる最後の糸が『仕事』だけだから……だ。

「お前、男ばかりいる場所で、あんな事──気を付けろよな」

 隼人との素っ気ないやり取りを見て、達也も熱の入った追求が冷めたようだ。

「反省しています。ロバートおじ様にも、アリソンおば様にも、懇々と説教されましたもの」
「……でも、一人で意地張る意味もあるのだろうけれど。本当にやりきれないときは、独りじゃなくて、俺がいる事を忘れるなよ……」
「有り難う、達也」

 彼の眼差しが、熱っぽく揺らめいた。
 昔から、彼が本気で葉月を心配するときの眼。
 だから、さすがに葉月も、少しばかり胸が熱くなる。

「ただでさえ。お前が一番に頼ってきただろう兄さんと私情も恋心も絶縁状態なんだから……。俺、お前が兄さんの事で頼ってくれても構わないと思っているんだぜ」
「……」

 隼人を頼れない事で、自分を追い詰めているなら……『俺』がいる事も忘れないで欲しい。
 それが、例え、葉月が想う恋絶縁をしている恋人『隼人』の話でも相談に乗る。

 そんな達也の思いに、先程は胸が熱くなったが──今度は、目が熱くなった気がした。

「駄目よ──私、今、すごくそういう優しさに弱いんだから」
「涙もろくなった? お前──何事も起こらなかったみたいにやり過ごしてしまうのが、お前の憎たらしい所だったけどな」

 葉月の弱々しい涙を見ても、達也が動じない。
 それどころか、とても寛い眼差しで微笑んでいた。

 だから、葉月も微笑み返す。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 隼人が大佐室を出て、本部の廊下に出たときだった。

「澤村中佐」

 隼人を追うように、一人の女性が本部の入り口から飛び出して来た。
 それで、隼人も急ぎ足を止めて、振り返る。

「あの、これ……」
「吉田さん?」

 彼女は河上女史の経理班にいる女性本部員だった。
 その彼女が、隼人に一つの書類束を差し出したのだ。

 それを首を傾げながら、隼人は受け取った。
 河上姉さんが、何か大事なことがあって、俺に渡すように部下である彼女に頼んだのだろうか? と──。

「!」

 しかし、その書類束をめくって隼人は驚き、彼女を見下ろした。
 そして、イマドキのOLらしい華を漂わせている彼女は、隼人を目の前にして頬を染めて、緊張しているように見えた。

 だから──隼人は微笑む。

「君がやってくれたのかな?」
「は、はい」
「有り難う」

 隼人が、ニコリと微笑むと、彼女が恥じらうように微笑んだ。
 しかし──隼人の『ニコリ』は、実は頬が引きつるほどの、苦笑いだった。

 彼女が一礼をして、ソソと本部事務所に戻っていった。
 隼人もそれを確かめて、本部へと踵を返す。

 そして、そのまま『猛然』と大佐室の自分のデスクに戻った。

「隼人さん……どうしたの?」
「兄さん……どうした?」

 出かけたばかりなのに、すぐに戻ってきた隼人を見て、双子同期生の揃った反応も気にかけずに、隼人は内線の受話器を取った。

「すぐにこっちに来てくれ!」

 それだけ言い放って、乱暴に受話器を戻す。
 『吉田さん』が持ってきてくれた書類束を、バサッと机の上に放った。

 葉月と達也が揃って首を傾げ、顔を見合わせていたが、隼人は腕を組んで、荒い鼻息──そのまま椅子に座り込んだ。

 そうして『怒り』を悶々と押さえること、暫く──呼びつけた彼女がやって来た。

「澤村中佐、お呼びですか?」

 隼人のアシスタントになった『テリー』だった。
 彼女がいつものサラッと落ちつかせている顔を見て、隼人は立ち上がる。
 そして、その手には先程の書類だ。
 それを、テリーの胸元に突きつけた。

「どういう事だ! 俺は君にやってくれと頼んだはずだ」
「そうですね」

 このアシスタントのシラッとしている態度には何度もやられている。
 時々『じゃじゃ馬ウサギ』以上ではなかろうか? と、思いたくなるほど『思わぬ事』をやってくれるのだ!

「それが何故。経理班の『彼女』がやって、俺に持ってくるんだ?」
「河上大尉の許可を取りました。彼女を使わせて下さいと──」
「なんだって!?」

 それにも驚いた。
 あの洋子姉さんが、そんな事を許す物か! と……。

 だいたいにして、隼人の仕事と河上班の仕事は、あまり接点がない。
 あるとしても、空軍管理出所の金銭関係についてで、細かい事は隼人の後輩がこなし、重要な点では隼人と洋子の間だけで話し合われる。
 だから、隼人の直属で仕事をしているテリーの作業が、経理班に流れること自体が『おかしい』のだから!

 それで隼人は、またもや声を荒立てた。

「どうしたら、俺と君の仕事が、経理の女の子の手で処理されるんだ?」

 すると、テリーがチラッと葉月を見たのだ。
 そのテリーの視線は葉月も気が付いた。

 葉月の差し金かと、隼人の燃える眼差しは大佐席に。

「葉月……!?」
「し、知らないわよ!?」

 葉月が本気で首を振っている。
 葉月も何が起きたのかと、テリーを見てさすがに不安そうな顔。
 それで『シロ』だと、判断できた。
 なので、また隼人はテリーを睨んだ。

 すると、隼人の目の前で、この手強い美しいアシスタントが、『ふぅ』とふてぶてしい溜息をこぼしたじゃないか!?
 さすがの隼人も、今日までにこのアシスタントには何度も『手込め』にされていたので、むかっとしたのだが、怒鳴れば大人げないので、やっとの思いでこらえた。

 どう言うことか?
 大佐嬢の『じゃじゃ馬』でも、こんなに腹が立ったことはないのに。
 六つも年下の女性部下に、何故にこんなに心をかき乱されるのか……。

 それほど、隼人の胸は荒立っていた。

「──彼女が『どうしても』と」
「その『どうしても』に、折れたのか!? そんなに簡単に、上司から託された仕事を、流すのか?」
「……『どうしても』は、今日が初めてではありません」
「は? ……いつから……?」
「ええっと。私が来て、一ヶ月ぐらいしてから、よく言われました。『私にも出来る仕事はないか』と……」
「一ヶ月? じゃぁ、年が明けてからずっと!?」
「そうです。当然、今までは『筋が違う』と彼女にも断りました」
「そ、それで!?」
「それに、あまりにも真剣なので、河上大尉にも報告、相談いたしました」
「それで!?」
「その……」

 口は立派な彼女が、口ごもる。
 そして、テリーは信望しているだろう大佐嬢を、また困ったようにチラリと見たのだ。

「言いなさい。テリー」

 葉月も不審に思ったのか、真顔でテリーに言い放つ。
 すると、その上司の一言で、テリーが意を決したように隼人に向き直った。

「覚えておりますか? 中佐。バレンタインの時に……」
「それが?」

 隼人はふと、ドッキリと胸を押さえた。
 何故なら、『吉田さん』と『バレンタイン』で繋がる事があったからだ。

「……中佐。きちんとお断りしていないでしょう」
「……」

 さすがのテリーも、仕事以外の事を口にすることに躊躇うような口調。
 そして、 隼人はついに黙り込む。

 そう。実は達也がいう所の『本命チョコ』とやらを贈ってくれた『吉田小夜』。
 家に帰ってから、包みを開けると、隼人に対する想いが一言。──『好きです』──の文字。
 それだけだ。
 どれほどの『好き』か判らなかった。
 先輩としてなのか、それとも? 男だとしても、あまりにもあっさりしている一言に感じられたから……ただの『好感』である一言だろうと。

 だから、そのままにしておいたのだが?

「彼女、本気だと思います」
「まさか……」

 テリーの真剣になった眼差しを避けるように、隼人は苦笑いをこぼした。

「彼女。私に、中佐の事、良く聞きますよ」
「俺のことを……?」
「とにかく事細かく色々知りたい様子でしたよ。……その、大佐との関係も……聞かれましたし。勿論! 私は本当に知りませんから、知らないと言っていますよ!!」

 そこはテリーが葉月の手前か、繕うように言い切っていたが。
 賢い彼女の事──『公認の仲』で有名だった大佐嬢と若中佐の近頃の冷めた関係のことは、肌で感じている様だった。

 それにしても……だ!

「分かった! 俺が『あの時の事』を曖昧にしてしまったから、彼女が期待している……って事か!?」
「……も、ありますでしょうね。それにどうしても『お近づき』になりたいんですよ」
「それと仕事とは関係ないことぐらい、子供じゃないんだから分かるだろう!? 分かっていないのなら、何故、君や洋子さんが諭してくれるか、止めてくれないんだ?」
「──あの自分の事を傲る訳ではないんですけれど……ラングラー少佐、ダグラス中尉、そしてわたくしマイヤーの三人。それぞれで、この大佐室のお仕事に関わらせていただけるチャンスを頂きました」
「それが?」
「そのチャンスを『平等に』と言うのが、彼女の主張です」
「!」
「だから、一度──『私が、澤村中佐に対しても責任を取るから、やらせてみよう』と河上大尉が仰ってくれたので『流しました』。大尉のお話だと、彼女、班長である大尉にも『平等』についての『訴え』を繰り返していたそうです──その事に傾いて、今、経理班内のバランスが少しばかりおかしくなりつつあるとか……も、こぼしていましたよ」

 何故か、隼人は言葉が出なくなった。
 その彼女は、『恋』という力で隼人に近づきたいのだろうが、それが動機だとしても、それが仕事への向上心と言われたのなら、それも言い返せない。

 だが、テリーのチャンスは、今までが認められたから訪れたチャンスだ。
 しかし、だからとて──後の選ばれなかった者に今後チャンスがないも言えない。

「女性のこと。中佐が『これは苦手』と思うなら、ここは洋子さんとテリーに任せてみては?」
「え!?」

 もう話は決まったとばかりに、葉月が溜息をつきつつも──静かに言い放って、元の事務作業に戻ってしまった。
 こういう話には、首を突っ込まないと気が済まないだろう達也も、なんだか黙っているのが、また妙だった。

 すると、テリーが一言。

「正統かどうかは分かりませんが。彼女がこの仕事に対して『本気か嘘か』をはっきりと計る方法……。いいえ、私としては『あっさり諦めるだろう』と言いましょうか? ひとつ、ありますけれど……」
「なんだ? 言ってみろよ」

 切れると思っている彼女のその思案、隼人の興味をそそる。
 すると、また──テリーは躊躇ったように、葉月をチラリと見たではないか?
 でも、今度は葉月の反応を確かめる事なく、隼人に向かってきた。

「中佐が……『好きな女性』に対して、素直になれば、一番の意思表示だと思いますけれど……」
「!」

 いつも強気の彼女が、遠慮がちな消え入るような声で呟いた。
 でも、それは隼人にもはっきりと聞こえたし、その小さな声が大佐室に響いたかのように、葉月も達也も驚いた顔をしている。

 だが、その固まった空気を、達也の高らかな笑い声が壊した。

「あはは! そりゃいいな! 俺はテリーのその第一作戦に賛成」

 隼人は憮然とし、先程、手元から離した書類にバインダーを再び小脇に抱えた。

「仕事とは全く、関係のない話だ。解った。大佐嬢がそのようにと仰っているから、そちらに任せる」
「結局、女性に任せて? 中佐からは何もアクションなしですか?」
「なんだって?」

 再び、冷めた目つきで、シラッとしているテリーの態度に、隼人は固まる。

「……仕事と恋は別だ。俺とその経理の彼女の事を女性である『そちら』がどうしようと思っているかは解らないが、俺は今まで通りに駄目なものは駄目でいくつもりだ」

 はっきりと言い切ると、またテリーが葉月を見た。
 だが、葉月は『もう私の言いたいことは言い終わった』とばかりに、一人で手元の仕事を再開させている。

「かしこまりました。中佐」

 テリーがにっこり微笑む。

 まったく……なんてこった! と、隼人は黒髪を掻きむしるようにして、大佐室を出た。
 達也が『こりゃ、面白いことになった』と、楽しそうにこぼしていたから──余計に苛ついた!

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