まだ深夜。車は葉山へと辿り着いた。
月夜のハーバーを通り抜けていく風景は、『それが葉山だ』と目にしたことがあるようなものだった。
隼人はその別荘が葉山の何処にあるかは知らない。
車は海岸線を行き、徐々に住宅地へと入っていく。
「カルロ、一度、停めてくれるか」
一緒に後部座席に座っている純一が、運転席にいるカルロにそう言った。
誰もが黙ってはいたが、純一は急に義妹の肩を抱き寄せ、彼女の顔を覗き込んだ。
後部座席には、両隣に義兄と夫を挟んだ葉月が真ん中に座っていた。
一言も発しない葉月を、隼人はそっとしてはいたが、手だけは握っていた。
隼人が力を込めると、ちゃんと葉月から『大丈夫』と言いたそうな力が返ってくる。それが今の夫妻が持っている『会話』。
そんな風にして、淡々と前だけを見つめていた葉月を純一が心配そうに窺って、ついに車を停めて何かを言おうとしていた。
「大丈夫か? 『あの場所』に行くのだぞ」
「分かっているわ」
「本当に、良いのか? 無理をしなくても……」
「無理なんかしていない。カルロ、早く車を出して。私はそこに行きたいの!」
そんな葉月の強さに、純一が言葉を失い、そして心配そうな溜息をついた。
隼人には、妻のこともよく分かるのだが、心境としては本当は義兄と同じだ。
だから、今度は隼人から聞いてみた。
「本当に大丈夫だな?」
「なに? 貴方まで──」
葉月の不満そうな顔。
一心同体、以心伝心──貴方は私の気持ちを、一番に分かってくれていると思ったのに。そんな顔。
だからこそ、隼人は純一も言えそうもないことを、夫としてはっきりと突きつけた。
「いつか言ったな。【あの日】と戦うのは葉月自身。誰も助けてはくれない」
「分かっているわ!」
「きっとお前は一人で行かなくてはならないだろう」
すると純一がとても驚いた顔で、隼人に問いつめてきた。
「お前、本気なのか!? 女房を一人、幽霊の屋敷へ送り出すというのか?」
そして隼人も真顔で純一に答える。
「勿論。それが彼女の願いであるのだから。俺は見守るだけだ。そうだろう? 葉月」
「ええ、そうよ。義兄様、邪魔をしないで」
『邪魔』とまで言われ、純一はついに閉口。
肩の力をがくりと落とし、『分かった』と静かに答えた。
純一の声で、また車が走り出す。
だが、隼人は知る。
寄り添い手を握り合う妻だけでなく、ついに純一も覚悟を決めたのだと。
隣に並ぶ義兄妹は、こんな時の前を見据えた眼差しはそっくりだった。
そして隼人も前を見る──。
・・・◇・◇・◇・・・
「着いたわね」
妻・葉月はそう言うと、何を感じる風でもなく暗闇の向こうにある一軒の別荘を見つめていた。
隼人もその視線を追うと、そこには時代を感じさせる造りの、でもその佇まいは今でも洒落ている雰囲気を醸し出す家を目にする。
庭に桜の木があり、家の遠い向こうには水平線が見える。少し陸に入っている位置ではあるが、そんな潮騒も微かに聞こえる趣ある一軒家。
見れば、誰もが憧れそうな趣の別荘。なのに……。そこは幼かった妻が、楽しい思い出を愛する家族とどんなに積み重ね、それを忘れるぐらいに踏みにじられ、おぞましさだけを感じる場所と記憶されたことか……。そう思うだけで、隼人の拳にも力が入る。
右京の携帯電話からあの画像が送られてきた直後に、ジュールからも連絡があった。
彼は純一から瀬川の宣戦布告と招待状のという瀬川の先手に驚き、自分が退いたその後に右京が痛めつけられた事も知って、またもや悔しそうにしていたとの事だった。
そのジュールからの報告、幽霊のとりあえずの要求は『百メートル範囲、近づくな』──。その百メートルぐらいの位置で、ジュールが黒い車からその別荘を監視しているところに、カルロが運転する車は停まった。
そこで三人一緒に車を降りると、ボスの到着を待っていたジュールが駆け寄ってきた。だが、彼はそこに杖をついている葉月が共にいることを目にして、とても驚いた顔。
「お嬢様──!」
ジュールも純一と同じく『何故』という顔をしていた。
だが、彼は純一の顔を確かめ、隼人の顔を見て、何かを悟ったかのように、いつもの顔に直ぐに戻った。
「ボスも隼人様も、それで宜しいのですか?」
ジュールのその問いに、純一はまだ納得できないのかむっすりと押し黙っていたが、隼人は迷うことなく頷いた。
「ジュールだって本当は判っているだろう?」
「しかしそれは……」
「そう、最も危険で、そして最も取るべき選択だ」
「隼人様──」
男達がまだ意志を揃えられない中、葉月は杖で一歩、二歩と別荘へと足を向けている。
そのまま行ってしまいそうだったが、黒猫の若い部員が守っている最前列で立ち止まり、別荘を眺めている。
まだ行く気はないようだと隼人もホッとし、ジュールに向き直った。
「妻に最善のサポートを」
「分かりました。お嬢様は接近戦、では、こちらは遠距離戦としましょう」
ジュールの表情が引き締まる。
だが、まだなんとも声を発しないボスへとジュールが問いかける。
「ボス、宜しいですか?」
純一は即答はせず、苦虫を噛みつぶしたような顔つきで拳を車のルーフに『ガン』と叩きつける。
どうしても葉月を一人では行かせたくない。行くなら俺が行って、どうにでもなっても俺が二度と葉月を思い煩わすことはしないのに。何故、それをさせてくれないのか? ──隼人には純一のそんな声が聞こえる。隼人とて、その気持ちは充分に宿っている。
だが、そうではないのだと、隼人は純一に向かって言う。
「義兄さん。ここで幽霊が勝手に消えると、葉月の中に一生、わだかまりある傷として残ってしまう」
そう言いきった隼人だが、純一の顔はまだ納得していない。
彼は黙っているが隼人には分かる。純一は『どんなにしても身体にも心にも共に付けられた傷は消えやしないのだ』と。何故分かるか? それは純一が義兄としてそして彼女を愛してくれた男として、誰よりもずっと、隼人以上にずっと、どうしようもなかったその傷と戦ってきたからだ。
だからこそ、隼人はもう一度、純一に言う。
「俺達に出来る最後の事だと思う。義兄さん、兄さんも一緒にこの『最後の戦い』を、葉月のために!」
途端に純一の表情が変わった。
それは引き締まると言うより、突然に雷に打たれたかのような衝撃を受けた顔。
そして次には隼人が待ち望んでいた頼もしい義兄の顔が、『黒猫の顔』がそこにあった。
「ジュール、狙撃隊を組め」
「イエッサー」
「俺がギリギリの線まで、隼人と一緒に葉月を送り出す」
ついに純一が動き出す。
黒猫部員も慌ただしく動き始めた。
ジュールは自分が乗っていた車から、大きな黒いバッグを取り出した。隼人にはそのバッグは見覚えがある物。それは二年前の任務で、達也が持ち込んできたあの『スナイパーライフル』だと直ぐに分かった。
『カルロ、車体の屋根に台を固定しろ。俺が本体を組み立てる』
『イエッサー』
カルロがライフルを固定する台とそれを固定するボルトとドリルを手にして、黒い車の上に登った。
ジュールは助手席のシートの上で、そのずっしりとしている大きなライフルの組み立てを素早く始める。
戦いの準備が始まるほど、その開戦が刻々と迫っているようだった。
隼人はただ別荘を見つめている葉月の下へと行く。
「葉月。行くのか?」
「行くわ」
「途中まで一緒に行く──」
「うん、有難う」
そして隼人は妻の肩を抱き寄せた。
「いいか。お前が死ねばなにもかもがまとまるだなんて決して考えちゃいけない」
「うん……」
まだはっきりとした返事をしてくれない葉月と知って、隼人は彼女の肩を掴んできつく自分へと向かせる。
「お前が死んでも、俺は後を追ったりしない」
「当然よ。貴方には長生きして欲しい」
「もしお前が死んでしまっても、お前を想うだけの人生は過ごさない」
「そう……」
「ああ、過ごさない。死んだ人間はそこまでなんだ。残った者が強く思い続けてくれても、思わなくても。それはお前が一番良く知っていると思う。その気持ち、俺に与えるな。もし与えたら、俺は貪欲に、次も同じぐらい幸せに過ごせる女を見つけてやるんだ」
だから、お前が死ぬのは無駄なこと。
きつい言い方だが、隼人はそう言って妻に知ってもらおうと思った。
すると目の前の妻の顔が酷く歪み、隼人を睨みつけてきた。
「そんなことさせないわ。貴方の妻は私一人よ──」
隼人はほっと一息ついて、『よく言った』と葉月を抱きしめた。
その時、葉月の携帯電話がまたカノンの曲で鳴った。
瀬川からのメール連絡だった。
【来たな。分かるぞ。一人で来い。旦那も兄貴も連れてくるな】
そのメールに葉月が頷き、そしてパネルを閉じると夜空に向かって深呼吸をした。
春の夜風に白いコートの裾が揺れる中、葉月は側に来た純一の顔を見上げ、夫・隼人の顔も見上げた。
「行ってくるわ」
優しい夜風に、葉月が栗毛をなびかせながら別荘へと視線を定めている。
そしてついに、その月明かりの中、葉月は杖をつきながら一歩、二歩と進み始めた。
隼人と純一は頼りなげに歩いていく葉月の後ろを、手添えをすることなくついていく。
だが、途中で葉月が立ち止まり、純一へと振り返った。
「純兄様。ナイフをひとつ、貸してくれる?」
「ナイフ?」
銃も持たないで行くという葉月が、ナイフだけでもという意志を見せたのか? 隼人の隣にいる純一は少し訝しそうだったが、やっと護身を考えてくれたかとすぐさま腰に備えていた大きなサバイバルナイフをサックとベルトごと葉月に差し出した。
葉月はそれを腰に巻いて、『有難う』と言う。
「本当にそれだけでいいのか?」
「いいの。これが必要なの」
純一は益々不安に駆られたようだが、黙っている。
一歩一歩進む中、ついに別荘を目の前にした。
「有難う。行って来ます。なるべく早く右京兄様だけでも外に出してもらうから。すぐに手当をしてあげて」
「分かった」
葉月は純一にそう言うと、にっこりと微笑みすぐに歩き出す。
夫の隼人にはもう振り返ってはくれなかった。
それでいい。隼人もそう思いながら、一番の傷口を覗きに行こうとしている妻の背を何処までも見守った。
玄関へと続く敷石の道へと葉月が消え、庭へと向かっていった。
……ついに、妻の背が消えた。
暫く、純一と共に静かに見つめている間がある。
だが、隼人は妻を見送って拳を握った。
「よし。葉月は行った。次は俺と兄さんだ」
隼人は拳を握ったまま、黒猫達の元へと踵を返す。
「兄さん、何処から侵入すれば、幽霊に悟られにくいだろう? そういうの兄さんの方が『専門』だろ」
純一が驚いた顔をして、後をついてきた。
「なんだ。最初からそのつもりだったのか」
「当たり前だろう。あのじゃじゃ馬と何年毎日毎日一緒にいて振り回されたと思っているんだよ。引き留めれば引き留めるほど、あいつ意地になって余計に俺達が入る隙をなくされてしまうだろう? まずはあいつの思い通りにさせてやること」
そして隼人は純一に向かって、ニヤリと笑う。
「じゃじゃ馬を最初から騙すぐらいじゃないと、俺達は動けないんだよ」
純一が呆れた顔をした。
だが彼も直ぐに不敵な余裕ある笑みを浮かべた。
「まあ俺も、そのつもりだったがね。奇妙な判断をする妹の旦那がなんと止めてもね」
「逆に兄さんだけが行って、俺は置いて行かれると思っていたけれど。俺は行くからな」
「当たり前だ。のんびりと待っているだけの旦那なら、後で殴ってやろうかと思っていたぐらいだ」
「それなら意見一致で、すぐに突入開始だ」
隼人が掲げた拳に、純一も拳をごつんとぶつけてきた。
ジュールが居る場所に戻ると、すでに車の上には重厚なライフルが設置されていた。
純一と隼人は別荘に潜入すると言う意志を聞いても、ジュールは驚きはせず、それが良いと頷いてくれた。
足下の砂地に、純一が小枝で別荘の大まかな見取り図を書き出した。
それを部員達と一緒に隼人も眺める。
「俺と隼人はここ、この二階の部屋から侵入する。ジル班はここ、そしてカルロ班はここ。ジュール班はリビング正面が見えるこの位置で狙撃隊を組め。俺の合図があった場合は、幽霊の意志は無視して全員突入だ。この時は、多少手荒なことがあっても構わない」
そして純一が最後に、思わぬ事を言いだした。
「だが、何があっても幽霊を殺すことは許さない。いいな」
黒猫の部員達が固まった。
自分達を散々苦しめた幽霊を、ボスが一番苦しめられた幽霊を『仕留めるな』と言ったのだ。
だが、隼人にはその意図もなんとなく分かるような気がした。そして純一は隼人が思っているとおりのことを口にしたのだ。
「俺の意志というよりかは、義妹の意志だ。幽霊と一番通じ、一番苦しみ、一番に分かっているのは義妹。幽霊の命は義妹の物だ。分かってくれ」
そう言うと、部員達は納得した頷きを揃えてくれていた。
隼人も頷く。
もし……。隼人がどの男に妻を奪われ続けてきたのかと言えば、きっとあの『幽霊』だったに違いない。
純一に奪われた時も、その向こうには幽霊がいたのだ。隼人だけじゃない。それは純一も、達也も、そしてロベルトも、遠野も。葉月を愛した誰もが、幽霊に抱きしめられているままの彼女を愛し、最後は幽霊の思惑通りにその腕に囚われたままの彼女をどうしてやることも出来ずに、手放し、見送り、傷つけ、哀しみを与え与えられて引き裂かれてきたのだ。
幽霊と妻は、深く繋がっている闇の中での伴侶。隼人にはそう思えてしまうことが多くなっていた。
妻は既に、その闇の王に再会してることだろう。
純一が立ち上がり、月へと指をさしたように部員達に『行け』の号令を出した。
「隼人、行くぞ」
「ああ行こう、義兄さん」
肩にはワイヤーとロープ。
そして二人は共に、黒い革手袋をぎゅっと月明かりの中はめた。
裏方を守るカルロの班と共に別荘の裏へと走る。
この月が妻を守ってくれるよう……。
隼人は黒い戦闘服の胸ポケットを握りしめる。
そこには忘れずに妻から預かっている『天使』がいた。
・・・◇・◇・◇・・・
朱花が散った──。
そしてそれは九月の中頃だっただろうか?
あの時も、アルドには月は赤く見えたと思う。
ぼろぼろに踏みにじった赤い花は、踏みにじられた後も『己の信念』を貫こうとしていた。
いや……アルドがそうなるように仕向け、そして彼女はその『己の白い信念』の為に苦しむようになった。
アルドが犯人だと言うことが直ぐに判明するとかしないとか。そんな細工をしようだなんてことは思わなかった。それ以上に、彼女がどれだけ白き信念の為に苦しむかが第一条件だ。アルドが犯人だと判明したその時が『ゲームオーバー』。それがいつまで続くか。それがアルドの決めていた『最後の時』。何時来てもその時は『死のう』とまで思っていた。犯行を至に、それぐらいの『代償』がなければ、最高の犯行の意味はない。そう思っていた。
だが、アルドの予想を反し、自分の名は直ぐには上がってこなかった。
予想と言っても『最悪の場合』の予想だった。しかしそこで、アルドは最上の喜びの味を噛みしめたのだ。何故なら、あの皐月がアルドの思惑にまんまとはまり、一番最上のコースを辿ってくれていたからだ。
アルドは彼女の性格を考え、絶対に犯人を直ぐには口に出来ないように仕向けていた。
アルドが『そそのかした学生五人』。この五人はこれから将来を有望視されている『トップクラスの学生』だった。
皐月とは武道指導で面識がある。その彼等に『御園教官に下された特別訓練に参加してみないか』と持ちかけた。その内容を聞いた生徒達は驚き、しかし僅かながらに男の目の輝きを宿した。それを見てアルドは『男は男。飛びついた』と安堵した。彼等に『秘密隊員での出世がどれだけ有利か』を説き、『君達には既にその素質を見込まれている』と言い、その最初のお手伝いがたまたま『女教官の育成』──つまり『女体訓練だ』と擦り込んだのだ。
『さあ。これは極秘の御園教官への訓練だ。遠慮なく、やれ』
彼等には『上からの命令』という大義名分があった。
そして若き男としての野獣の血も、言われずとも煮えたぎっていた。
しかも、基地一番の……いや、滅多に見ない美女。身体も顔も肌も一級品で、女が少ない軍隊ではよだれが垂れて垂れてしようがない『贅沢品』だ。
『貴方達は、騙されているわ! やめなさい!!』
得意の武道で、三人ほど、あっという間に床に叩きつけられ、訓練生が躊躇する。
そしてアルドは、側にいた水色のワンピースを着込んでいる小さなお嬢ちゃんを自分の手元に引き寄せた。
『おやおや。人質までいる訓練とはね。さあ、御園隊員。任務で大事な部下が人質に取られた。さあ、どうする?』
『やめて! 妹は関係ないでしょう!?』
実は。この夜、妹がいたのはアルドの計算外、だった。
だから妹を人質に取ったアルドを見て、学生達が少しばかり疑念を抱いた。
だがアルドは強気で言う。『こういう訓練は上のみの極秘だからこう言うこともある。逆らう奴は上に報告する。将来はないと思え』──。訓練されている優秀な青年達はその一言で、皐月に襲いかかった。
赤い花が、泥だらけのイキモノの手に次々と動きを奪われ、もう命令以上に獣となった若い男の餌食へと芳しい花から転落する。
どうだ? 皐月。この前とまったく同じ状況だ。
お前のことだ。騙されている学生を犯人として突き出せるのか?
俺がここまでやったと言ったとしても、もう、この学生達がやった諸行は許されないこととして処分をされるだろう!
お前のせいで、こいつらはもう犯罪者だ。
『さて、彼女は家宝の指輪を貴族の祖母から引き継ぎ、どこかに隠している。それを吐かせろ』
親しくなった皐月から密かに聞いていた話も、アルド先輩だから話したという彼女のちょっとした秘密もアルドは容赦なく利用した。
学生達はその気になって、それを出せ出せ出さねば妹を痛めつけるとか言いながら、皐月を従わせる。
アルドはそれでも強情にしている皐月に苛つきながらも、その無惨な姿を目にしたならばせせら笑い、赤い花が散っていくのを眺めていた。
震える水色の少女と一緒に。
『ほら、お姉さんは本当は喜んでいるんだよ。あの顔は大人の女が気持ちいい時にする顔なんだ。そう、男の人に愛された時の顔……』
アルドは喘ぐ赤い花を指さし、少女に教えた。
彼女は目を見開き、震えているだけだった。
赤い花が既に子供を身ごもっていたことも、アルドの中では予想外。
あれだけ乱暴をされたのに、運良く、流れずに済んだようだ。
その出産のために、彼女は軍に休職願いを出していた。ここでまだ『退官』を選ばぬ彼女のことに憤りを感じた。
その間、アルドが待っていた『判明する日』は訪れてこなかった。思惑通り、彼女が騙された青年達の事を思って、しかしそれは彼等にとっても許されざる行為だったのだと告発するべきかと迷っているのを感じていた。
風の便りで『御園嬢が男の子を出産した』と聞いた。
その間、アルドにも新たに手を打たねばならぬことが起きていた。
騙した学生達の暴走だった。彼等はあの後、少しずつアルドに不信を抱き始め、そしてアルドの命令に反し、皐月が口を割らないような手筈を整え、それで御園将軍と彼女の父親である御園大佐に脅しをかけていることが判明。それどころか、あの小さな少女の口を封じようと、手にかけるために病院に侵入したことも判ったのだ。それを知ったアルドは、そこで『手を打とう』と新しい決断を決めていた。そしてそれすらも皐月へと矛先を向けた。
『お前は男達に復讐し、そしてその殺した人間としてこの世を去るのだ。殺しをした黒き花となってな……』
アルドの狂想曲は鳴り続ける。
『決着を付けよう』と、出産を終えたという皐月をおびき出す。
その犯行も思惑通りに、この別荘で全うする。
『私は、どこまでも白く生きてやる! 貴方の心の片隅で……!!』
赤い花が本当に赤く染まったその時、彼女がアルドに言った。
アルドにすがるようにして、彼女が床に再度、散っていく。
花は散っても来年咲くが、彼女はもう咲かない。
身体の中から、血の花びらを撒き散らし、アルドの足下で散っていった。
……終わった。
アルドの中で、彼女にあった憎しみが消えていく。
そして彼女と共にあったはずの情熱も喜びも悲しみも、なにもかも──『心』と言うものが死んだ日。
赤い月夜に消えた日。
「葉月──」
そんな呻く声に、アルドはハッとする。
窓を割ったその向こうには、今夜も月。
何故か今夜のその月は冷え冷えと蒼く澄んでいた。
呟いたのは、傷の痛みで息を切らしている足下の右京。
何故、従妹の名を呟いたのかアルドにもすぐに判った。
そのカーテンが揺れる向こうから、弱々しい足音が微かに聞こえてきたのだ。
ただの足音ではない。その足音は頼りなく、そして足だけではない杖の音もしたのだから……。
「ふむ、音楽家らしく耳が良いな兄さん」
アルドは右京を見下ろし感心する。
「来るな、葉月! 葉月……! 何故、一人なんだ……!」
右京が叫ぶ。アルドはその口を止めようとは思わなかったが、その襟首を掴みあげ右京の身体を持ち上げると、そのままずるずると彼の身体を引きずった。
シャツの襟で首を絞められてしまった右京の顔が歪む。彼の顔が真っ赤になってもアルドはそのままあるところまで引きずった。
「兄さん、頑張ったようだが……。ここの『染み』はそうは簡単に消えなかったようだな」
その『染み』の上に、アルドは右京をごとりと落とした。
彼の白いシャツの下、冷たい床には赤い染み。
この部屋の床は綺麗に磨かれていた。この右京が必死に磨いたのだろう。別荘のどこもかしこも埃は拭われ綺麗になっているというのに、ここは……、そしてもう一つの血池の跡は磨かれながらも残っていた。
この部屋に酷い染みの箇所は二カ所あるが、そのうちの一つ。そこに右京を置いた。
それはあの水色の少女が恐怖の顔を刻み込み、アルドの人形と化し、血を流した場所だった。
カーテンがふわりと舞う中、そこから清涼感ある香りが漂い、アルドの鼻を掠めた。
なんと……。姉ほどではないし、そっくりな香りでもないが、妹もかなりのものを持っていたか。と、アルドは割れた窓ガラスへと振り返った。
そこには青々とした月明かりの中、涼やかな目元を見せる『蒼き女』が静かに立っていた。