淡いブルーの光の中、ふわりと現れたかのような女。
白い春のコートの裾が、夜風に揺れている。
彼女はそのままアルドを見つめていた。
その彼女が、ポケットを探ったので、アルドは警戒して銃口を向けた。
だがアルドが思っていたような物は出てこず、彼女はそこから出したものを、アルドに差し出していた。
そして不敵にも、彼女はそこで優美な笑みをアルドに見せたのだ。
「忘れ物、いいえ、借り物だったかしら。お返しするわ」
彼女が手にしていたのは、グレーの紳士ハンカチ。
そうアルドが横須賀基地の駐車場で彼女を刺す前に、手渡した物。勿論、その時の現物ではないが、それにそっくりなものを今度は彼女が用意してきたのだ。
あの時、彼女は何故そこにアルドがいるのか分からない顔をした。
あのまま立ち去って、彼女の記憶を揺さぶらず、今まで通りに曖昧な記憶に埋め込まれている嘘の事実に苦しみながら生きていく姿を、眺めて楽しむだけの日々に戻ることも出来たのだ。だが、アルドはそのハンカチを差し出し、彼女がどこまで自分を思い出すか試していた。
彼女が思い出したのは、──『気分が悪くなった時にハンカチを拾ってくれた人。何故、貴方がここに?』──それだけだった。今までは彼女が思い出さないことを良い事に、自分は遠くから彼女が自ら不幸に落ちていくことを楽しく眺めていた。これからだって、彼女が幸せを目の前にしても、きっと『また駄目になるさ』と思えていたはずなのに。今までなら……。
目の前で、きょとんとしている顔は、あの頃、アルドがあの夜この別荘に押し入ってきた時の『まだ何も知らない少女。無垢な少女の顔』を取り戻しつつあることを感じ取ったのだ。それはつまり──運命か因縁か、あの火山村で偶然鉢合ったこの『皐月の妹』を久しぶりに間近で見た時、彼女があれ以来決して漂わすことのなかった穏やかさに包まれ、傍に離れずに寄り添う男と微笑みあっているのを見てしまったアルドには、彼女が『今までにない揺るがない幸せを手にしようとしている』と思えたからだ。
彼女に恐怖と暗闇を与えていた闇の王であるアルドのことを思い出すことなく、彼女はあっさりと元に戻ろうとしている。
そう思った時、アルドは彼女に思い出してもらわねばならない──。そんな初めての衝動に駆られ、彼女が帰るなら、横須賀経由で小笠原に帰ることは間違いない確実なコースを見定め、数日中に姿を現すだろうと、札幌だろうが小樽だろうが観光で回っていただろう間に横須賀に先回りしていた。
そしてアルドの思った通り──。
彼女は闇の王を記憶の彼方に置き去りにしたまま、何事もなかったかのように、幸せな顔をしてあの男と現れた。
だから思い出させてやろう、きっとこれが最後だ。
アルドはその作戦の始まりを告げるアイテムとして、ハンカチを選んだ。
そして今度は、彼女がハンカチを持ってきた。
「持ってこい」
それはこっちに来いという彼女への命令。
彼女は頷き、サンダルを履いたままこのリビングへと上がってきた。
杖をついて、ヒールをかつりと静かにゆっくりと、その彼女から恐れることなく『闇の王』の下へとやってくるのを、アルドは固唾を呑み待つ。
途中で彼女の足が震え、途中で躓き、途中で表情を強張らせ、そこですくんで動けなくなる──そんなふうになる瞬間を待っていた。だが──。
「こんばんは。やっと会えたわね」
そこに今夜の月のようにひんやりとしている無表情な顔の女がアルドを真っ直ぐに見ていた。
なんてことだろう……。
彼女がこの顔で生きていく事を一番に望みながらも、あの少女が大人の女になる過程でここまでこの無表情さを『自分の顔』にした、その完璧さというべきか……。
あの皐月によく似た顔ではあるのに、まったくの別人で、もっと言って良いなら『本当に姉妹か?』と問いたくなるぐらいに、あの赤い女と血を分けた妹とは思えない冷たい顔。
そこにはアルドが願っていた通りに育った『無表情な女性』がいた。
実際に、アルドは機会があれば遠くから葉月の事を眺めた事もあった。そしてそれらしく情報収集の的にして、どのようにして『生きながらえているのか』監視するように把握に努めた。
だからこの葉月と真っ正面向き合って、水色の少女が大人の顔になったのをまじまじと見たのは、火山村でハンカチを拾ってあげた時が初めて──それが『十八年ぶりの再会』。しかし、まだ記憶が曖昧な様子だった葉月は知る由もなく、アルドが一人きりで味わった『再会』。この再会はアルドにとっても人生で一番の予想外であり、そして強い『因縁』を感じ、そしてこの大人になった青い少女はやっぱり俺の手の中に居たのだと喜びすら感じた瞬間。だが、アルドの中で決めていた『知れた時は俺も一緒に終わる』と言う『鐘』が鳴った瞬間。だから迷いなく『ついにその時が来た』と幸せいっぱいの顔を見せていた葉月を追った。これまた『アルドの鐘が鳴ったその時、少女は幸せに至っていた』という最高のシチュエーション。最上から最悪へのこの上ない魔王のシナリオ。この時しかないとアルドは思った。
だが、彼女は蘇った。
そしてアルドもどこかで奇妙な感覚を覚えていた。
──急所を外した。
何故か……。
自分でも判らない。
今でもだ……。
だから彼女は生き返った。
いや、それでも『奇妙な感覚』を自覚したその時でも『俺にしてはしくじったが、小さなしくじり。あの刺し傷なら数日後には死ぬだろう』。その後、己も死のうと……。だが、目の前の彼女は生き返った。見事なまでに、そしてあの時手からこぼれ落ちた幸せもしっかりとその手に収め。
「ご結婚、おめでとうと言っておこう」
アルドはにやりと微笑みながら、葉月にそう言う。
また彼女がどう反応する事か。
そこに触れたならば、あの時の絶望に怒りがその平坦な顔に蘇ってくる事だろう。
そしてアルドを真っ正面から、憎む。
その顔を、見せてみろとアルドはさらに微笑みかけたのだが──。
「お陰様で。『予定通り』に結婚が出来たわ。私が奥さん? 信じられないでしょう? ねえ?」
まるで久しぶりにあった知人に、何事もなく話し笑うように、彼女はその調子でアルドに微笑み返してきた。
「そうだな。お嬢さんが奥さんか。それは遠い道のりだった事だろう」
「そうね。私には決して起こる事のないものだと思っていたわ」
「目の前の男のせいでなあ」
アルドが『そこまでお前を滅茶苦茶にしてきたのは俺なんだ』と再度、彼女の憎しみを煽ってみたが、彼女はまた人形のような顔、アルドでも何を考えているかちっとも読めやしない無表情さで黙り込んでいた。
アルドは、まあヨシとしようと、自分の足下にいる『従兄』を踏みつけた。
その踏みつけが『人質』として今から存分に使われる事の合図。それを悟った右京が従妹に向かって必死で叫んだ。
「葉月。俺の事は構わないから、隼人と純一のところに戻るんだ!」
傷の痛みで憔悴しながらも、従妹が一歩一歩とアルドに近づいてくるのを彼は『来るな、来るな』とやっとの声で訴え続けている。
アルドは今度こそ、ナイフで傷ついた右京の胸元へ、『黙れ』という意志を込めた片足の力を思いっきり降ろし、ガシリと踏みつけた。
彼の苦痛に歪む顔。痛さに悶える呻き声。
さあ、思い出せ。
お前はこの血池が残るこの場所で、この従兄のように痛みに悶え、こうして俺にいたぶられ、人質のために言いなりなるだけで眺める事しか出来ない姉を意識が遠のく中見ていたはず。それを今、お前が姉となって従兄を眺めているのだよ──と。
「お嬢ちゃん、覚えているか? この兄さんが倒れている場所」
さらに右京を踏みしめると、彼の堪えきれなくなった声がリビングに響いた。
アルドはどうだろうかと、その涼しげな彼女の顔が真っ赤になるのを待ちわびたのだが──。
青い彼女は、そんな痛めつけられている右京をちらりと見下ろしただけで、何ともない顔でアルドの顔へと視線を戻してしまった。
「覚えていないか? 小さかったからなあー。覚えていないか……。それはそれで幸いな事だ。だろう? 実際にお嬢ちゃんはつい最近まで俺の事もまったく思い出せずにいて、一番怖いところとは対峙しない『安泰』で生きてきたのだ・・から……」
「覚えているわ」
じわりじわりと葉月の中にあるだろう、染みて染みて痛いばかりのその傷をぐりぐりとえぐるように突きつけていたアルドに、葉月はまたなんともない冷たい顔のままそう言った。
すると真っ正面でアルドと向き合っていた葉月が、片腕の杖を床に放り、片方だけの杖でリビングを歩き始める。
見ていると、何故か、この家に上がってきた時より、徐々に彼女の歩き方がしっかりしてきたように見えてきて、アルドの中で妙な焦りような物が生じ始める。
だが、それだけではなかった。
葉月はその凛とした足取りで、アルドが座っていたソファーへと向かっていく。
そしてその杖で、ソファーの角を指した。
「ここ。このソファーとソファーのこの角、この直角になっているここに姉様は裸のまま床に座らされて、上からも横からも下からも、男達に囲まれて触られていたわ」
アルドの中で、緩い衝撃が走った──!
そして葉月がこんどは容赦なく続けた。
「このソファー。長い方で、男達は交代で眠っていた。私はそこ。前はそこにグランドピアノがあって、そこの椅子に貴方と座っていた。貴方はずうっと私を手放さず、私の世話をしていたわ。ご飯も一緒、トイレも貴方の同伴でなくては出来なかったし。でも、学生達はあまり食べさせてもらっていなかった。どれぐらいかしら? 子供だったから覚えていないけれど。ある時から、五人の学生がとっても疲れた顔をして姉様を触るのをやめたら、貴方がすごく怒った。一人が言ったわ。『俺達にも休養を』。貴方は渋々と言った感じで、ちょっとしたものだけしか食べさせなかった。交代で眠るように許して、それでその男達が交代でそのソファーで眠ったの。私は貴方の側にさえいれば、眠る事も食べる事も許された。よだれを垂らして魂が抜けたように眠っていた者もいた。男達は気の抜けた野獣のよう……。目の下に隈、歳を取っていくように、しぼんでやつれていたわ」
淡々と喋りまくった葉月。
そこまで言うと、テープレコーダーの録音が終わったかのように、ロボットがプログラムを終えスイッチが切れたかのように、彼女が黙り込み、しんとした空気が入り込んできた。
アルドも呆然だったが、足下で悶えていた右京も従妹の思わぬ姿に、目を見開いていた。
そしてまだ彼女は続ける。
その銀の杖で、アルドと右京が居るこの血池を指したのだ。
「最後はそこ。私を座らせて学生達にナイフの訓練だと言って何度も飛ばさせたわね。足首が切れ、脇腹が切れ、腕にも飛んできてあちこちが切れた。だけれど学生達は誰も私の身体に刺さるような投げ方はついには出来なかった。だからよね?」
葉月がふうっとアルドを見た。
その時、初めてだった。アルドの中で背筋に何かが走るようなものを感じたのは──。
彼女の目は涼しいままで、今宵の冴え冴えとしている蒼い月を映しているのだが、冷たく冷たく燃えていたのだ。
顔は無表情なのに、目が冷たいのに燃えている。それが初めて見せた変化だった。
「だからよね? 貴方が仕上げとして私を殺そうとしたのよ」
しかしその青い炎は、ひゅうっと消えてしまうかのように、彼女の目がまた湖のように冷たく静かになる。
「ね、覚えているでしょう」
今度はアルドが答えられなくなっていた。
ずっと記憶がなく忘れていたという事実の中で、アルドの中ではそれがショックから心理的に彼女が記憶の底に沈めたものだと判っていた。いつ思い出すか、いつ思い出すのか。それもある意味ではアルドを『長生きさせ』、『スリリングに楽しませてくれた』要素でもあり、本当にこのお嬢ちゃんはアルドにとっては『生きていく上でお楽しみの人材』だったのだ。
そして彼女が思い出した時、この『魔王』を思い出してどんな顔をするか。それだけじゃない。お嬢ちゃんの周りにいる彼女を愛する親族に親しい者達がどれだけどん底に落とされるか、見てみたくて見てみたくて──。だが、十八年。彼女はついに思い出さなかった。
だから、アルドの鐘が鳴った時に、『今こそ、その時』と彼女の前に姿を現し、思い出させた。
目と目が合った時の、彼女のあの恐怖の顔はアルドが待ちに待っていた顔だった。
それなのに。あれだけの恐怖と絶望へと突き落とし『これが最後の仕上げだ』とピリオドを打ったつもりが──。彼女は厭わずに蘇生してしまったのだから……。
もう一度、恐怖におののき、アルドの目の前であの姉のようにすがるように墜ちていってもらわねばならない。
だから、こうして──。
しかし──。目の前の彼女には、それが『あってなかった事』のよう。また、第三者から聞いた話をただ語っているだけのようなその淡々とした口調で出てきたものは、アルドが彼女の恐怖のために握りしめていた全て──彼女にとっては何もかもが恐ろしくそれだからこそ記憶の底に埋めてしまった程の、真っ黒く泥のように記憶にぬるりとまとわりついている数々の忌まわしいシーン。それを克明に語っている無機質な唇と言葉、そして無表情な顔。
初めて……ナイフを握りしめているアルドの手のひらに、僅かな汗が滲み始めていた。
足下の右京とて、皐月が何をされたか従妹が何をされたか、どうしてこうなったのか全く判らず、それをアルドから聞き出したくて堪らなかったはずだ。だが、その一部が一番思い出して欲しくない小さな従妹の愛らしい唇から次々と繰り出されたのだから、呆然と言ったところだ。
これはもしかすると、『とんでもないものが生まれたか』とアルドは冷や汗を覚える。
……いや、そんなことがあるはずがない!
しかし、この目の前のお嬢ちゃんにはどれほどの『予想外』を見せつけられてきた事か。
どんな苦境に墜ちても墜ちても、彼女はまた立ち上がる。月が満ち、そして欠けて姿を隠し、またほっそりと徐々にその姿を見せるように、または明けの夜空に儚く消えていく月がまた夜に煌々と昇ってくるように……。彼女はそうして必ずアルドの前に何度も姿を見せた。
実はそれは『俺の希望』だったのかとアルドはふと感じ始めている。彼女のように、もしかすると『生きていけることもあるのか』──いや、やはりそれはない! 駄目な物は駄目なのだ。そう定められたらそれしかないのだ。だから彼女は何度も昇っても、また何度も墜ちて行くではないか!? それがアルドの『絶望』。彼女が墜ちていくたびに、つい最近まで登りつめたその努力は簡単に一瞬で無になるのだと。彼女がその境目をどちらとなく彷徨っている姿は『希望に絶望の繰り返し』。当然、結果は『絶望しかない』。それがアルドが選択した物。彼女から得た答。
また、握りしめている手がブルブルと震え始めていた。
それに気が付き、アルドはそれが収まるようにとナイフを握っている手首を握りしめる。
ふと気が付けば、その淡々としているだけの彼女がアルドの手の震えに気が付いたように、じいっとそこを見つめていた。
アルドは咄嗟に跪き、右京の艶々としている栗毛をむしるように鷲づかみにし、ぐいっと持ち上げる。そして既に切れて血が流れているその頬へと再度、ナイフを当てた。
だが、彼女は先ほどのように、またチラリと従兄を一瞥でもしているかのような冷めた眼差しで見下ろしただけ。
本当にその目はアルド以外にはなにも見えていないかのように、すぐにアルドの瞳へと戻ってくる。
俺しか見ていない。
それはもしかすると気分が良かったかも知れない。
だが従兄がどんな目に遭うか分からないと言うのに、騒がない彼女のその恐れない人形のような顔が気に入らない!
お前は十八年前のように、この恐怖の魔王の目の前で泣き叫んで、姉の為に許しを乞い、そして震えなくてはならない。それが『俺のお嬢ちゃん』なのだから。
そんな葉月に、アルドは右京の頬にナイフを滑らせながら言う。
「脱げ」
その一言に、右京の頭が暴れる。
『俺はどうなってもいいから。なにも言う事は聞くな。お兄ちゃんの言う事を聞いてくれ。これ以上、お兄ちゃんを苦しめないでくれ──!』
彼は自らその美しい横頬に傷を作り、新たなる鮮血を流していた。
「お兄ちゃま、やめて! うるさいから黙っていて!! 余計な事をしないで、その人の言う事を聞いて大人しくしていて!」
彼女のその叱責にも、アルドは目を丸くし、右京も暴れるのをやめ唖然とした顔で従妹を見上げていた。
それが彼女が初めて真っ赤になって怒った瞬間。
だがそれもすぐにさあっと波が引いていくように、冷たい青々としている彼女に戻ってしまう。
そしてついに、もうひとつの杖も外し、床に置いてしまう。
そしてその月明かりの中、彼女がふわりと白いコートを脱いだ。
腰にナイフのベルトを付けている。アルドがそれに警戒をする前、外せと命令する前に、彼女から躊躇うことなくごとりと床に置いてしまった。
何のために持ってきたのかとアルドは思ってしまった。
だが彼女は白いフェミニンなブラウスもしなやかな指先を滑らすようにしてボタンを外しさらりと脱ぎ、最後には花のように揺れるスカートも、そして白い清楚なランジェリーも……。
白いブラジャーが月明かりを反射している床へと落とされる。
彼女は胸を隠す事もせず、最後の一枚になったショーツへと、指先を腰骨に沿わせるように中へと滑らせ脱ごうとしていた。
・・・◇・◇・◇・・・
夜明けが近い。
それまでに男は決着を付けようとするだろう。
隼人に純一がそう言った。
彼等は仕事をするには『夜』を好む。明るい日の光の中での遂行はリスクもあり、何倍も気遣うからだと。
隼人の隣にいる黒い戦闘服を着た男は『黒猫』。その真っ黒な大きな目を月明かりに反射させている。
別荘の裏に当たる一区画離れた角にやってきた。
まだ百メートルぐらい離れている。
「いいか、隼人。もう一度、確認するぞ」
「うん、分かった」
二人で息が合わないと決して葉月には近づけない、そう思え。
純一に叩き込まれる。
そして敷地内に入ったら、そこからは決して言葉は発しない。これだけ静かな夜、静かな別荘地。どんな音でもプロの男は聞き分ける。だから全て指先とアイコンタクトだけでやっていく。絶対最低限のルール。
それも純一に懇々と言われ、隼人も勿論だと頷いた。
「では、カルロ。行ってくる。俺は物言わぬ男になるから宜しく頼むぞ」
「お気を付けて、かならずお嬢様を──」
「ああ」
耳に補聴器のような小型のインカムを純一が取り付ける。
隼人の耳にもカルロが取り付ける。
腰の装備は純一の方が重そうだった。
隼人は銃とナイフを携帯するのみ。あとは二階まで登るために使うワイヤーとロープ。
純一が他に持っているのは、そのロープとワイヤーを張る道具だった。
「行くぞ。隼人──」
「行こう、純兄さん」
二人は月明かりの中、頷き合い走り出す。
舗装されている道、だが御園の別荘は古い地域なのか、まだ砂利道がある。特に御園の家の前は──。
手つかずにされている別荘が、本当に『幽霊屋敷』のように不気味に月明かりの中、その佇まいを見せていた。
今そこに、妻が。
本当に幽霊と対峙している。
何を語り合っている?
何をされている。
お前は幽霊に何を伝えている?
幽霊に何を言われ傷つけられている?
その時、隼人の脳裏にわあっと浮かんだのは、あの横須賀の駐車場。
血だらけになって倒れ、青空を映し、それを望むように見つめていた妻の瞳が忘れられない。
それを思うと今でも泣きそうになる。
あの時、彼女は微笑んでいた。
それでも隼人の目の前で、目を閉じてしまい──。
隼人は歯を食いしばる。
そんな事、二度とあってたまるか!
隼人は必死に走る。だが自分は全速力で走っているのに、目の前を走っている純一はどんどんと離れていきそうなスピードで行ってしまう。元より運動能力は長けていると葉月から聞かされているが、それだけじゃないパワーで走っているのが隼人にもびんびんと伝わってくる。彼も隼人と一緒で、どんなに心を冷静に落ち着けようと思っても、心は今すぐ、義妹の元へ見守りに行きたい一心で走っているのだ。隼人も一緒だ。その背を隼人も見失わないようついていく。
まだジュールからの決定的な報告はない。
彼は遠い位置から狙撃隊を組み、一番の武器になるスナイパーを固定した車からリビングの様子を見守ってくれている。
だが、そのジュールから連絡が二人の耳元に届く──。
『お嬢様が……脱がされています』
ジュールの戸惑う声。
それは何を意味しているのだろう?
「ジュール! それは襲われていると言う事か!?」
純一がインカムマイクがそう頬へと顔を向け叫んだ。
隼人も心臓がドクリとうごめいた。
それは行かせたからには覚悟をしていた事で、でも、やはり『そうなってしまうのか』と言うとても焦る気持ち。
だけれど、なんだかいつものジュールじゃないような間で、やっと彼が報告を返してくれる。
『それが……。瀬川に触られているわけでもなく、まるでお嬢様が自らの意志でそうしているように見えますが……』
だが、ジュールの声もどこか落ち着きがない。
『今はそれでも、これから何をされるか分からないから急いでください』とジュールもやや焦っているような声。
『そうでないと、私……。ボスの命令を反し、お嬢様の意志を反して、このまま瀬川を撃ってしまいたくなる』
「お前の気持ちも重々分かるが、もう少し待ってくれ」
『勿論です。ボスも会わずにはいられない事でしょう。右京様がそう欲したように──。このままあの男を殺しても何も残らないでしょうからね』
ジュールの苛つく声。むしろ純一の方が落ち着いている。
それでもジュールが言うように、今はただ肌を露わにしていても、本当に何をされるか分かったもんじゃない。
二人の走るスピードが上がる。
アスファルトで整っている舗道から、細い砂利道へと角を曲がる。
ついに『御園邸』の裏に来た。
振り向くと月夜のお陰で、走り出してきたひとつ前の角でカルロ達がこちらを見守っている。
彼等もライフルを用意し、こちらに構える体勢を整えていた。
純一が月の下で、隼人を見下ろした。
彼の長い黒い指が、口元に行き『もう喋るな』の合図が送られてくる。
隼人もこっくりと頷く。
木の柵で簡単に仕切られているだけの別荘の裏側。その柵を静かにゆっくりと二人はまたいで敷地内に侵入した。
先ほど、純一と打ち合わせをした時、彼が描いた見取り図を隼人は頭に思い浮かべる。
勝手口、そしてそこがキッチンルーム。向かい側に例のリビング。そこに今、妻と幽霊と右京が居るはず。
純一が選んだ侵入口はその対角線上にある二階角の寝室。その寝室がある下へと壁を伝って近づいた。
その角に着くと、純一が座り込む。そして後ろについてきている隼人に振り返り『ここだ』とばかりに、二階を指さした。
古そうな白いカーテンがかけられている部屋を隼人は見上げ、純一に頷きを返す。彼が腰からワイヤーを結びつけたドリルのような銃を取り出した。それを隼人に見せ、手のひらで隼人の目の前を制す。つまり『今からワイヤーをかけるから待て』と言うこと。さらに隼人は頷き返した。
打ち合わせではまず純一が先に二階の窓を開け部屋に侵入し、そこからロープを落とし純一が見張りながらの中、隼人が登るという手順を言い渡されている。
それを二人はもう一度、確認するかのように目と目を合わせ頷き合う。
ついに、純一が夜空へとドリル銃を構えた。
木造とは言えないこの家の何処に、そんなワイヤーを張るのかと隼人はちょっとハラハラする。
だが、純一の顔は凍っているように平静としたもの。暫くは軒下を眺めていたが、ふと何かを見定めたのかそちらへと銃を構え、隼人がどうするのだろうなんて思っているうちに発射された。
静かにシュルシュルと銀色のワイヤーを繋いだ矢が飛んでいき、何処かに突き刺さったようだ。
それをちゃんと打ち込まれたのか、純一がワイヤーを引っ張り確かめている。そして壁に黒い戦闘ブーツの足をくっつけ、純一がぶら下がるようにして全体重をかけた。ワイヤーが落ちてこないところを見ると、完全に固定されたようだ。
『行くぞ』
純一が親指を二階へと向け、黒手袋をぎりっと軋ませ、ワイヤーを手に腰に巻き付ける。
そして音もなく、ひょいと壁に吸い付くようにして地面から両足が離れた。
一歩、二歩、純一が静かに静かに上がり始める。
隼人は分かっていたのに、凄い物をみたかのように、義兄さんの身の軽さに目を見張っていた。
純一は隼人よりも背丈があり、身体も細身だが、がっしりしている。その大きな体で、音もなく重みも感じさせない軽さで、ひょい、ひょいと、ゆっくり登っていくのだ。
その様はまさに『黒猫』。初めてその名を持つ男の本当の姿を見た気がしたのだ。
そして隼人は、純一の気持ちを思いやる。
そうして冷徹に落ち着きながらも、心は誰よりも悪夢の場所に飛び込んだ義妹を追っているのだと。
それだけじゃない。先ほどジュールが言ったように、『幽霊』に会わずして『終わる事が出来ない』のだ。
妻だけじゃない。妻の周りにいた御園の誰もが──。
だが隼人はふと不安に思う。
幽霊はそれすらも知っていて、皆の心を踏みにじるようにして妻を道連れにあっと言う間に姿を消してしまわないかと……。
彼がいつものように影だけを残し、ふうっと消えずにその姿を見せたのは、もう幽霊ではない覚悟を決めているから。
そして実体を見せたのもこれが最初で最後。彼は今度こそ、幽霊になる覚悟を決めているから、葉月を呼んだのではないか?
そんな気がしてならない。
隼人が見上げる夜空には、ほのかな月明かりだけ。
もう純一が二階の窓へと着こうとしていた。