御園右京が手にしているナイフ。
春の朧気な月明かりの中で、青白い閃光が素早くアルドへと弧を描いて向かってきた。
だが、アルドにはゆっくりと緩やかに飛んでくる蝶のようにしか見えない。
そこに自分が手にしているナイフを向ける。
アルドの手元で、がっちりとした金属音、鋭い刃の擦れあう音が響いた。
「くっ……!」
「馬鹿にしないでもらおうか? ヴァイオリンや楽器と毎日お付き合いしている細腕と一緒にして欲しくない」
片手、その手首をぐうっと返しただけで、ただ美しいだけの男の綺麗な手が弾かれる。
彼が目をつむり、腕を弾かれた飛ばされたその瞬間──胸が無防備に開かれる。
返した手首を元に戻し、アルドはお返しのように、蝶がふわりと弧を描いて舞うようなナイフの閃光を、右京の胸の上に描いた。
彼が着ている白いシャツ、左肩と右肩を結ぶような線が血色でさあっと浮かび上がる。
血飛沫はなかった。それほどに傷つけてしまうと、『使い物にならなくなる』からだ。
それでも、右京は初めて知る痛みに顔を歪め、血が滲むシャツを握りしめながら、力無く床に跪いた。
ナイフは飛ばされ、薄汚れたシャツは血で染まり、彼の美しい顔にも傷が付き、そして耳からも血が流れている。
しかし右京の戦意は喪失していない。彼はすかさずナイフを取り返そうと動き始めたのだが、アルドにはその行動も読めていた上で眺めていたので、すかさず、床に付かれていた手をブーツの踵で踏みしめた。
「お兄さん、あんたじゃ駄目なんだよ」
見下ろすアルドの静かな目を、御園右京は下から燃える目で睨みつけてくる。
むかつきはしないが、アルドはその手をさらに踏みしめた。
「ヴァイオリンが弾けなくなるかね。粉々に骨が砕けて再起不能になっても構わないかね」
アルドは無表情のまま、右京のその手をぐりぐりと踏みつけた。
彼が呻き声を漏らしながら、その腕を軸についにごろごろと床に転がり始める。
軍隊で一番華やかに、優雅に過ごしてきた『貴公子』の無様な姿。
それはまるで、『あの時』、真っ白な光の中で咲き誇る赤い花を手折り、泥だらけで我先にと群がってくるイキモノの中に放り込んだ、あの光景を彷彿とさせる。
私は決して汚れないと真白き光を行く花が、もみくちゃにされて美しい花びらをこれでもかというぐらいにじっくりいたぶるように、一枚、一枚、引き抜かれ、しわくちゃにされ、地面に踏みつけられる……あの汚れていく姿。
ここにその赤い花と同じところで咲いていた凛とした白き花が、泥水の中で悶えているような光景に、アルドはふと微笑んだ。
「お兄さんは、お呼びじゃないんだ。これがあの『純一』だったら、まだ手応えありそうな物を──。再起不能になったらどうする? あの哀れな従妹のように、必死になって取り戻すか? 無様にはいつくばりながら、取り戻すか? 従妹のように歯を食いしばれるかね。このおぼっちゃんは?」
すると、切れ目ない痛みに悶えている右京が言った。
「構わない。俺はもう弾けなくても構わない。今、欲しいのはお前の死だ!」
それを耳にして、アルドは右京の手から足を除けた。
少しの間、顔をあげ何かを知ったかのような右京と見つめ合う。
そして、アルドは深呼吸をすると右京の襟首を掴み、頬を殴り、腹を蹴り、床に叩きつけても暫くは踏みつけ蹴り付けを繰り返した。
ある程度でやめると、アルドの思惑どおりに右京は咳き込みながらうずくまり、動かなくなる。
暫くは、なにも出来ないことだろう。アルドはふと微笑みながら、テーブルの上に置いてある右京の携帯電話を手にした。
その電話のカメラ機能を起動させ、床にうずくまっている右京の姿を数カット撮影する。
記憶されているアドレスから、一人探し当て、そこに送信した。
「さあ、暫く休もうか。兄さん」
ボロ布のように、白き花が薄汚れたまま横たわっている。
アルドはソファーにゆったりと座り、足を組んだ。
・・・◇・◇・◇・・・
さざ波、潮騒が聞こえる。
その音は、純一にとってはちょっとした甘い囁きにも思える音。
朝方の青い夜明けの中、海辺のモーテルで一緒に迎えた朝を思い出す。
彼女はその香り漂わす肌に白いシーツを巻いて、一人……何かを思うようにして、純一の隣で海を眺めていた。
「皐月──」
「あ、純兄。起きちゃったの? ごめんね、寒かったわよね」
時は年の瀬。その朝方に開けられた窓からはひんやりとした空気が入り込んでくるのに、彼女は素肌のまま震えることもなく、どこか哀しい眼差しで外を眺めていたのだ。
彼女にとって、昨夜の出来事はあまり良きことではなかったのか──。男として初めてだった純一はふとそう思ってしまったことを思い出すのだ。
初めて素直になった夜。初めて彼女を女性として愛おしいと思った夜。初めて男として熱くなった夜。
朝方のひんやりとしている空気で目覚めた純一は、隣で遠くを見ている皐月を抱きしめた。
彼女の冷えた肌が暖まり、そしてその寂しげな顔から笑顔が広がり、いつもの情熱いっぱいの彼女に戻る。
口づければ、彼女の方が直ぐに燃え上がる。彼女は真っ赤で熱くて情熱的な女。そうだ、お前は寂しげな顔よりも、勝ち気な花の方が似合っている。そう思うのに、いつだって、こんな時だって、素直に心に思った愛の言葉を彼女に伝えることは出来なかった。
「嬉しい。私、本当は純兄にはやっぱり受け入れられないと思っていたから──」
そして皐月が小さく呟く。
「きっと純兄には、素敵な女神がいるのだわ」
「女神? そんなにロマンティストではないと分かっているくせに。お前にやっとだったのに。俺がそんなに女に興味があるとでも?」
「ないわね、きっと。硬派を気取った堅物だもん、純兄は」
彼女がいつものようにころころと笑った。
それが誰であるか、純一も判っているような皐月も知り尽くしているような。
でも、この時、二人は口にはしなかった。
どちらにしても、その女神はもう女神で終わろうとしていたからだ。小さな女神が入れる隙はもうない。
ここは大人と大人である二人の世界が先に出来上がったのだから。
ここのところ、皐月は少し元気がなく、いつもはつらつとさせていた自信が溢れるその笑顔に、初めて影が宿ったような気がしていた。
「お前、痩せたな」
「そう? 身体を動かす仕事だからでしょう?」
痩せたなと純一は言ったが、本当に言いたかったのは彼女の顔つきで『やつれたな』と言いたかったのだが。
それとも彼女も社会人となって、その奔放な精神のままではやっていけないと思う壁にぶつかっているのだろうかと思った。
シーツを巻き付けたままベッドを降りて、目の前のドレッサーに座った皐月を目で追う。
そこにある櫛を手にして、短いけれど艶やかなその栗毛をとかし始めた。
純一は昔からふと思うことがある。短くても皐月は皐月なのだけれど、その綺麗な髪がもう少し長くて、女らしい顔つきを見せてくれたならと……。
だが皐月がそうすることは一度とてなかった。
そんな彼女が髪をとかしながら、近頃急に大人びた顔で、そしてあの寂しい目で呟いた。
「ねえ、純兄。私って間違っているのかな?」
純一は『はあ、なんのことだ』と応えたのだが、皐月は髪をとかしたまま黙ってしまう。
そして暫くしてまた呟く。
「自分が信じていることで、人を傷つける事ってあるのかな?」
純一は今度は答えた。
「あると思う」
そう言うと、涙をいっぱいに浮かべた皐月が振り返る。
昔からそうだった。なにか解らないことがあると純一にそう問い、純一が答えたことを正面から受け止めようとしている彼女の顔は変わらない。自分とはちょっと違う答でも純一だから聞いてみようと考えてみようと言う、彼女が一番迷っている時に見せる顔。それは純一という人間をただ愛してくれている勝ち気な彼女が、純一にだけ見せてくれる顔だった。
純一もベッドを降り、その若い男の肌、胸の中に、赤い彼女を後ろから抱きしめた。
「でも、お前はお前らしくなくちゃ、魅力はない。自信を持って、いつものお前でいろよ」
いつになく強気の彼女が、むせび泣いたあの朝。
初めて愛し合ったのに、あんなに哀しそうに泣いたから良く覚えている。
冬の渚は真っ白で、海は青く、空は水色だった。
白い息を一緒に吐きながら、二人は初めての夜と朝を迎えた渚の白いモーテルを後にする。
何かぴりっとこめかみに電気が走ったような気がして、純一は目覚める。
窓の外は真っ暗で、今日も月夜。
寝室にあるデスクに向かっていたのだが、どうやらうとうとしていたようだ。
うとうとしていたのか、それともそのまどろみの中で、懐かしい日に思いを馳せていたのか?
(随分と、懐かしい……)
若い自分と若い彼女との想い出。
振り返ると後ろに並んでいる二つのベッドのひとつに、栗毛の息子がすやすやと眠っていた。
時計を見るともうだいぶ夜が更けている。
近頃、ぐっすりと眠ることが出来ない。
何かが起きるような気がして精神を休めることが出来ない。
まあ、これもいつも裏の仕事を請け負った時などは、こんな状態になるのは当たり前なのだが……。今回は精神的な打撃もだいぶあり、純一は深い溜息をつきながら、目を覚ましてくれたこめかみを指で押さえた。
少しだけでも気分転換をしようと、下を守ってくれているエドの元へ、珈琲をもらいにと部屋を出た。
息子が目覚めないように静かにドアを閉め、そしてふと廊下を奥へと眺める。隣の部屋──義妹夫妻が休んでいる部屋をふと見つめていた。
状況的に苦況にいる現在だが、義妹とその旦那は今まで以上に仲むつまじく過ごしている。その二人だけを見ていると、その間に『苦難の影』などはどこにも見えない。必ず二人の間で抱えているのに、二人はそれをちっとも見せやしない。それだけ二人で分け合って、そうして愛で支え合っているのだろうと純一も安心して眺めていた。
義妹のあんな笑顔が見られるだなんて、夢のようだ。
純一はふと微笑んだ。
廊下にもその月明かりが小窓からこぼれ、床を青白く照らしている。
すると隣の部屋のドアがカチリと開いた。
純一がそれに気がついて眺めていると、すうっと静かに義妹が出てきた。
「義兄様──」
「どうした、葉月」
義妹は、エドが見立てた水色のロングガウンを羽織っていた。
この深夜に義妹が部屋から出てきたのも驚きだし、そして葉月も深夜だというのに純一がまだシャツとスラックスの姿で起きているのに驚いているようだった。
その月明かりの中、葉月がふと微笑んだ。
純一は何故か、目を細めた。
昔から思っていたが、義妹にはひっそりとした月明かりがとても似合う。柔らかくて優しくて、ほのかに暖かく大らかにどこまでも包み込んでくれる静かさが……。姉と似た顔をしていても、純一はそっくりだとか似ているとか思うことは少なく、むしろ対照的だなと思うことが多い。だが、それはそれで各々の魅力を存分に引き立てていると思っていた。
その義妹が『起きていたの?』と、愛らしい笑顔を見せてくれる。
「ああ。仕事がね、たまっていたのでね」
純一も素直に微笑みかける。
本当は仕事なんかでなく、眠れないだけで……。そして少しだけうとうととしていたら、ぴりっと突然に目覚めただけで。
すると葉月が不思議なことを言い出した。
「どうしたのかしら? この時間に目覚めることはあまりなかったのに。急に──。なんだか姉様に起こされたような気分」
「皐月に?」
「うん、姉様の夢を見ていたわ」
葉月は『久しぶり』と笑ったが、純一はややヒヤリとした。
自分も皐月の夢のようなものを見て? 思い出して? まどろみから目覚めたのだから……。
途端に嫌な予感がして、暫く俯き、純一は黙り込んでいた。
葉月がそれに気が付き『純兄様?』と顔を覗き込んできた。
栗色の長い髪、胸先まで伸びきったその髪が、月明かりに綺麗に反射し煌めいている。
茶色のしっとりとした眼差しも、光を吸い込んで奥まで透き通っていた。
白い肌は……ガウンの下はどうやら素肌のようで、よく似合っているその色できっちりと包み込み、そこには間違いなく純一が愛してきた義妹がいる。
「いや、なんでも。どうだ? 俺も下で一息つこうと思っているのだが、お前もエドにココアでも入れてもらうか?」
「うん……。そうするわ。しんちゃんはぐっすり?」
「ああ。隼人もか?」
「ううん。私が目覚めた時に、一緒に目を覚ましたみたい。いつもよ。私がちゃんと眠らないと、あの人も眠れないの。彼が飲み物を持ってくると言ってくれたんだけれど……。なんだか外に出たくて……」
純一は『ほう』と唸った。
自分が義妹を放っている間、義妹の小笠原での孤独な日常生活の中での彼の努力と愛情のような物を、そこに感じた。
義妹は特に、安眠というものを得るのに苦労をしていた。そんな時、どんな言い訳をしても、この純一は心配はしても傍にいることはしてあげられなかったのだから。
銀の杖を片手にはめ、義妹がゆっくりと一歩を踏み出す。
純一は葉月の側に歩み寄り、そっと腰に手を回し支えた。
「有難う、義兄様」
「まだ、じっくりな……」
月明かりの中、彼女がうんと頷く。
その愛らしい笑顔は、昔、純一が大事にしたいと思っていた無邪気な少女だった頃の笑顔、そのまま。
純一もそっと目を閉じ微笑んだ。きっと、取り戻せたのだと──。
彼女の傍にいる時に感じる幸福を、噛みしめる。
先ほど、月を見て義妹を思っていたように……。そこには、柔らかくて優しくて、ほのかに暖かく大らかにどこまでも包み込んでくれる静かさがあった。
だが、その葉月の寝室からこんな夜中だというのに、携帯電話の音。
耳の良い葉月が先に振り返った。聞こえてくる携帯の着信音は『カノン』──。確か、この義妹はその曲を『従兄・右京』の着信音にしていたのではと純一も振り返った。
「右京兄様ね? おかしいわね、こんな夜中に──」
葉月も眉をひそめる。
右京はあれからあの別荘に通うどころか、綺麗に磨き終わった今となっては深夜までそこで過ごしているとジュールから聞かされている。
その間、純一にも葉月にも、そしてきっとジャンヌにも一切、連絡はしてこなかった。
それが、今……。
純一は先ほどの、皐月の事といい、同じような夢を見て目を覚ました義妹と鉢合ったことといい、妙な胸騒ぎを覚えた。
純一がそうするまでもなく、葉月から踵を返し、部屋に戻ろうとしていた。
するとドアの前に来て、真っ白いガウンを羽織った隼人が出てきた。彼も純一がそこにいることにはたと驚いた顔を見せる。
「義兄さん。起きていたんだ……」
「ああ、今、俺も下に行こうとしたら葉月と会ってな」
葉月もそうだが、隼人も素肌の上にガウンを羽織っていると言ったふうだ。
義妹はきっちりと着込んでいるが、隼人の方はざっくりとラフに着込んでいる。
二人が素肌で寄り添っていたことを、純一は感じ取ってしまった……。
その隼人が、葉月に向けて携帯電話を差し出した。
「こんな夜中に、右京さんのようだけれど。ちょっと気になって、持ってきた」
「有難う、貴方」
旦那の手から、義妹の青い携帯電話が手渡される。
葉月がそれを早速パネルを開いて確かめようとしていた。
「メールね。あら? 画像が添付されているわ……」
葉月が首を傾げながらも『こんな月夜だから、兄様も少しは和やかに思って何かを撮ってくれたのかしら?』と葉月が少し嬉しそうにして、その添付画像を開いた。
純一も風流好みの右京らしいなと、きっと葉月の言うとおりだろうと、手元を覗き込んだ。
そして、その開かれた画像に、三人揃って息を止めた!
そこには、あちこちに血を流している右京の無惨な姿が写し出されていたからだ!
葉月の手元が震え、彼女は本文を読み始めている。
「せ、瀬川だわ……!」
「貸せ、葉月!」
義妹の手から、携帯電話を奪って内容を再確認する。
隼人も純一の手元を覗き込んでくる。
【兄さんと楽しく遊んでいる。お前も、遊びに来てみてはどうだ? これは俺からの招待状だ。待っている】
その文章を確かめ、純一の中から、やっと怒りが込み上げてきた!
純一は携帯電話を閉じ、腰を抱いていた義妹をより一層抱き寄せた。
「いい。お前は、隼人とここにいろ。俺が行ってくる」
純一はすかさず抱き寄せた葉月を、隼人へと引き渡す。
だが、妻を受け取った隼人が義妹をぎゅっと抱き寄せたかと思うと、まるで義妹の口から出たかのように言った。
「いいや。葉月は行かなくてはいけない」
「なに?」
「義兄様、私、行くわ」
二人は寄り添い抱き合う姿で、純一に揺るがない目を揃えて突きつけてきた。
「行きたいの、義兄様。お願い、ここで終わらせて……」
純一は首を振った。
お前はあの先輩がどんな男か知らないのだと。純一には彼が一番の宿敵だったことは信じられない事ではあったが、あの先輩が本気で事に取り組むと、冷徹でそして確実で『完璧』なのだと。お前は今度こそ、本当に殺される。きっと俺も隼人も寄せ付けない中、お前を引き寄せ……。純一は懇々と説得を試みたが。
「貴方、連れて行って」
「ああ、行こう」
信じられないことを選択した妹夫妻の姿に、純一は言葉を失い呆然とするしかなかった。
隼人が葉月を部屋に連れて帰り、二人は瞬く間に外に出るよう着替えてしまっていた。
純一は拳を握り、深い溜息をこぼし、夫妻寝室の入り口からついに言う。
「分かった。ただし、俺も一緒だ」
二人が一緒に頷いた。
・・・◇・◇・◇・・・
義妹夫妻の部屋、そこにある小さな丸テーブル。
純一は義弟である隼人に向けて、あるものを差し出した。
それはごとりと音を立て、月明かりの中横たわる黒い拳銃。
「隼人、これを持っていけ。葉月、お前もだ」
二丁の黒い拳銃を差し出す。
隼人は頷き直ぐに手に取った。だが、義妹は何処か躊躇うようにしてやっと手にした。
その葉月が言う。
「これはあまり役に立たないと思うわ」
「それでも持っていろ!」
まるで叱りつけるようにして、純一は葉月に握らせた。
「これに着替えろ」
二人は普段着に着替えていたが、純一は自分も着替えた黒い戦闘服を二人に差し出した。
これまた隼人は頷き、すぐに着替えを始めたというのに……。葉月はいつものスカート姿でスプリングコートを羽織り直してしまった。
「いいの、私はこれで」
純一はまた怒鳴りたくなったが、堪えた。
後でなんとしても着替えさせようと思い、サイズが小さい黒い戦闘服を小脇に抱えた。
すると着替えている隼人が言った。
「義兄さん、俺もそう思うけれど。葉月の好きにさせてやってください」
純一はやや呆れた口調で『分かった』と答える。
やや投げやりの、やけくそ。
だが純一には分かる。
義妹のその目は既に『戦闘態勢』だ。
何を思っている?
その目で、その小さな傷だらけの心で、お前はどうやって終わらせようと言うのだ?
だがまるで、それを義妹は知っているかのような落ち着いた顔。
そしてあの大佐嬢である時のように、彼女の頭の中では綿密緻密な思考が回り巡っている最中だと、義兄の目でもそう思えた。
義妹は行く。
いつもの姿で、丸腰で、彼女はその傷ついた心だけを抱えて、あの男と再会する。
そして、戦う心積もりはもうすっかり出来上がっているのだと。
深夜──。
純一は後のことはエドに全面的な守りを任せ、カルロの運転で葉山に向かう。
安らかに眠る息子をそのままに。
そして、義妹の両親にもジャンヌにも何も告げず。
葉月もそれで良いと言い、黒い車に乗り込んだ。
しんとしている紺碧の空に、煌々としている黄金の月が輝いていた。