その日、アルドはついに『眼鏡』でも買ってみようかと、そんな店に入っていた。
店員のアドバイスを聞いているうちに、やはり視力の衰えは歳のせいだとアルドは思った。
そうと判ったら、急に買う気がなくなった。
付き合ってくれた店員には悪いが『少し考える』と言って、店を出る。
何故か、眼鏡を買うことが妙に『俺にも未来があるから、用意せねば』と言うように思えたのだ。
確かにこの歳まで生きてきた。
あの女の屍を踏み越えて生きてきたが、実際にあの時に『未来』という言葉も消えたと思う。
そうなると未来など考えずに、ただ淡々と生きてきたのは何故なのか──。
太陽が高く昇り始め、すっかり春めいてきた街並み。
街路樹の枝先は、緑の息吹を見せ始めている。
そんな舗道に伸びるアルドの影、また、先っぽに、成長した少女が現れる。
『未来があるからでしょう。貴方も認めなさいよ。ほんとうは──』
アルドは、その先を言うな! と、影を踏みしめる。
すると少女はすうっと消える。
あの眼。姉と違って、妹の目は涼やかで落ち着いている静かな眼。まるで湖のように波がなく、それでいて何処まで深いのか判らない眼だ。
アルドは時に、その水色の少女の静かな眼、言い換えれば、冷たい目に『共感』を持つことがある。こう言って良いのかは分からないが、なんとなく──『俺と同じ眼』だと思える時があるのだ。
それは果てしない絶望を秘めた目。決して世の中を信じない目。そして希望を抱かない目。なにがあっても結局はやはり期待をすることなど無駄なのだと思う目。
そしてその少女にその目を与えたのは、この『俺』なのだ──。
アルドはその時、これこそ、俺の娘がいたと知るような喜びを感じるのだ。
俺だけじゃない。そう俺はあの時、あの赤い花の女に心を持っていかれてしまったが、それと引き替えに生き残った妹の心を奪ってやったのだと。その時、あの水色の少女は『俺と同じ人間』になったのだ。
希望を持たず、ただただ生きている。
そしていつ朽ち果てても良いと思いながら、無駄に生きている。
『皐月。お前の妹を代わりにもらったぞ』
その時、アルドの中でほんの少しだけ光が灯るのだ。
あの水色の少女が絶望のまま死ぬ日を待っていた。
どんなことをしたって希望を抱くことなく、誰も救うことが出来ず、そして彼女自らその人生を諦め、朽ち果てる日を。
それがさらにアルドを苦しめた『皐月』への、一番の『復讐』だった。
皐月が決して曲げなかった希望やら愛やら清さなんかでは、妹は決して救われない。お前が一番だと謳った素晴らしきものは、妹すらも救えないのだよと。アルドは腹を抱えて笑う日を待っていた。実際に、そんな気分の良い日は何度か味わった。
時には彼女はその姉をなぞらえるように、女の身体を辱められ子供を身ごもり、ある時の彼女は戦闘機に乗ったまま自爆しようとしたり、ある時の彼女は任務で部下のために人質にもなっていた。それにアルドにとっても『おまけ』もあった。そんな彼女が何度子供を宿しても、なかなかその手に子供を迎えられないという体質であったことだ。彼女の周りには、そんな『絶望』が渦巻いて、渦巻いて、どんな男が近づいても、どの男も決して救えなかった。
ただ一人──。その渦中で彼女を抱きしめたまま、果てようとしている男がいた。アルドはそれを知った時、そう言うことなら、お嬢ちゃんにも一つだけ希望を与えても良いと思った。その『男』と一緒に朽ち果てるなら、その男を隣に置くことは許してやっても良いと。お嬢ちゃんの義兄──彼女の側に寄り添っていたのは、あの純一だった。
純一。お前を巻き込むつもりはなかった。
だが……と、アルドは舗道を歩く中、目をつむる。
今度の任務で最後にしよう。
そしてその後もだらだらと生きるのはもうやめよう。
その前に、アルドがずっと握りしめてきた少女を道連れにして行かねばならない。
許さない。
『絶望』の果てには何もない。
決して、あってはいけない。
お前はまた幸せから転落する。
それを俺が、もう一度思い出させてやろう。
・・・◇・◇・◇・・・
あの件から、皐月と二人で落ち合うことが多くなった。
約束をするとか、そんなものではなく、アルドも皐月もなにかを言いたくてどちらかが待ち伏せていると言った感じだった。
「あれほど頼んだのに、どうして穏便に済ませてくれなかったのですか?」
アルドの中では『無事に完了した仕事』であったのに、その件を蒸し返し、最初に突っかかって来たのは皐月の方だった。
だがアルドは淡々と答える。
「あれを黙って見過ごせと? 黙って見過ごすことが奴らの為か? 逆に調子に乗ってなんでも許されるとつけあがる。その歯止めが利かなくなった方が、悪い道により一層踏み入れると俺は思うね。悪いことは悪いと言ってやらなくては駄目だ。それに『自主退学』という名目で辞めたのだから、ただ軍組織には馴染めなかったという理由で今後も通せるだろう。今から大学に行くなり、就職するなり、今回の事を反省しつつ、また違う道でやり直せる。それが『穏便』ではないと?」
これでもアルドなりに、上官に頼んでみた方だ。それでも、アルドにしては珍しい行為だったと言うのに。
本来なら、即刻『退学宣告』だ。そこを『未遂』だったということで自主退学という形に、上もなんとか収まったというのに。
「中には、ただ従っていただけの子もいたのですよ?」
「知るか。従ったのも、黙って見ていたのも同罪だ。自主退学の形になるまで、きちんと奴らからも事情聴取をしたが、そんなことを言った者は誰もいなかったようだぞ」
「そんなの! あの中のリーダー格の三人に言い含められて従っただけだわ!」
「そうかもしれないな。だが、結局は、最後まで脅され従ってしまったわけだ。己の身の潔白を晴らす勇気も努力も度胸もなかった。そんな男は、軍ではより一層やっていけない。今から、違う道を探す方がもっと良いものを見つけるかも知れない」
「いいえ! 中には本当に子供の頃から軍人に憧れていたと言っていた真面目な子もいました!」
「はん? 真面目な子? そんな子が女を男の力十人分で辱めようとしたわけだ。そりゃ、真面目だな」
自分を襲った学生の自主退学後、皐月はこの件はまだ解決されていないと引きやしなかった。
一番の言い分は、全員が自主退学はおかしいと。自主退学は実際は軍が言い渡した強引なもので、それ以上に、それを承諾した学生の誰もが、その意志ではなかったと『御園教官』は退かないのだ。
勿論、アルドはこのことも上司に報告している。上司はあからさまに面倒そうな顔をし『なんとか黙らせろ』と言っていた。何故なら、それは皐月が言うとおりに『やや強引な上の判断』は確かにあったからだ。誰も口にはしないが上司や教官が望んでいたように『これをきっかけに、女身で海陸軍の教官だなんてでしゃばったことは諦めてくれないか』と思っているのだ。その気持ちには裏がある。彼女が女でなければ優秀であることは間違いなく、いずれは三世として家族と同じように実力で将校に登りつめていくのが目に見えている。しかしそこに『期待』しながらも、ここまで上官達が危惧しているのは、やはり『女』だからなのだ。今回のような異性であるが故のトラブルが、組織をまとめる時、いざという時に、綻びの元にならないかというもの。……いや、違うか。とアルドは考え直す。やはり単に『扱いに面倒なだけ』であり、早速問題の渦中にいたから『なんとか現場から外したい』のだと……。
彼女はそこにまだ気がついていないようだ。だから、気がついていないから、この押し問答が何日か続き、ただ上に言われたままに実行していたアルドに言ってもどうしようもないと思ったのか、ついに皐月は上の者に抗議をするようになったのだ。
その時、アルドは上司に呼び出され『何をやっている』と叱責されたぐらいだ。
実際に、アルドも一人の人間としては、皐月の言い分は分かるつもりだ。
しかし、ああいう事件が何度も起きては困るのだ。そこは上官達が不安に思っている部分に同感だった。特に『皐月』──彼女はこういった件を何度も引き起こしそうだ。彼女は分かっていない。自分がどのような『女』であるかを。人にはそれなりに性質があって、それを己が知ってこそ、初めて生き方が分かるとは思うのだが、それに己がなかなか気がつかない事の方が多いのかもしれない。だが、皐月はあまりにも自分を知っていない。若いせいもあるが、今の彼女はまさにそれを一番に知るべき出来事の中にいるのだ。
そして、アルドはある日、彼女と向き合っている時に言った。
「皐月、お前は陸部隊には向いていない。辞めた方が良い」
『陸部隊』とは言ったが、アルドの中では『軍人は向いていない』が正しかった。
彼女はまだアルドを尊敬してくれているのか『何故!?』と言う、もの凄いショックを受けた顔を見せてくれた。そして、この活発な彼女が言葉を失ったほどだった。
「どうしても『師』がやりたいなら、軍の武道教官ではなく、教師になったらどうだ?」
自分がやるべきは『正しきこと』を真っ直ぐに曲げずに。そうして正々堂々と生きていくのが『軍人』だと思っている。
まあ、それでも良いとしよう? ただその『正しい』『正しい』と言うばかりで適度な隙間と柔軟さがないのがやや問題。今のままでは、彼女が教える訓練生達は何かと窮屈な思いをするのではないだろうか。もしかすると、今回の彼等もその窮屈さから、皐月に反撃したのかも知れない……。
「そもそも何故、陸教官なんだ? 家を継ぐにしても、何も男と身体が接するなんてリスクが高すぎる仕事を選ばなくても、本部員のような仕事もあるじゃないか」
だが、皐月はきっぱりと言った。
「私は、祖父や父と同じように生きたいだけです。元々祖父の実家は道場を持っていました。そんな家系を守りながら、私もここで、武道で身を立ててみたいんです」
「それがお前の正しい生き方なのか?」
「そうです」
アルドは口をつぐみ、目を閉じた。
彼女に上官達が望むような説得は無理だろう。
では、とアルドは質問を変える。
「皐月。お前の身体には人一倍に男が寄ってくる。何度も、今回のような事が起きる。軍内だけではない。もしお前が任務に出るようなことになれば、今回のような目に遭うだろうし、そして、それを作戦とされる場合も出てくるだろう? それでも、陸部隊員でやっていくのか」
「はい。そうならないために、武道を精進していこうと」
「身体を使えと、言われたら?」
「そのような手を使う作戦には参加しません。そのようなやり方は卑劣です」
もう、いいか。とアルドは思った。
彼女に『そうか。分かった』とだけ言い、彼女のために言いたいことを、ごくりと飲み込み抹消した。つまり『言う気がなくなった』のだ。
そしてアルドの中で『彼女は軍教官になれても、軍将校には向かない』と判断された。もしかすると警官の方が彼女には性に合っているだろうに? 軍人一家の家柄に拘っている彼女にそんな『行く先変更』なんてものは今後もないだろう。
この日から、アルドは皐月と話そうという気が失せた。
隣の席にいる純一が『最近、姿をみせない』と漏らしたが、アルドは『そう言えば、そうだな』と答えただけ。
これだけなら、まだ『価値観の違い』と言うレベルでの決別で終わったはず。
そしてアルドの中でも『今はあれでも、そのうち嫌でも軍隊の組織の本性を目の当たりにし、考えを変えるかもしれない』と──。彼女はまだ若いのだと僅かに彼女を受け入れている部分は残っていたというのに……。
・・・◇・◇・◇・・・
「なんだか最近、忙しそうにしているんですよね」
「ふうん、そうか。それは残念だな」
純一がなにやら近頃の皐月を不審に思い始めている。
あれだけ『純兄、純兄』とひっついているのだから、急に姿を見せなかったり、避けたりしていれば、純一も気がつくというものだ。
それに三人で語り合った短い時期も、すでにアルドの中では終止符が打たれている。再度あるとすれば、皐月が軍組織で将校になることがなんであるかを悟った時だろう。……ないような気もするが。まだ僅かな思いが残っていた。
実際に彼女は、男より賢く立ち回る。情熱は人一倍激しい。それで隣の幼馴染みと『同期』になるべく女性で初めて二期飛び級をしトップクラスで軍隊に現れた花のような女戦士。それが故に、己が定めた『志』も一歩も退かない強気なお嬢様。汚れなく真っ白に突き進みたい彼女の理想。
その彼女だからこそ、いつかはきっと解る日が来ると思っていた。
だがアルドと皐月の距離は縮まらない。
彼女が忙しそうにして、恋しい幼馴染みの前にも姿を現さなかった訳が判明する。
いつも秘密裏の命令を告げてくれる上司に呼ばれ、アルドは出向く。
そこで思わぬ報告を上司から受けた。
「瀬川。何をやっていたのだ。御園嬢が、自主退学させた訓練生数名を連れて、復学を願い出てきたそうだぞ」
その話にアルドは、固まった。
上司は珍しく驚きを表しているアルドに向かい、深い溜息をついて話し始める。
自主退学をした、いや、皐月にすれば『自分のせいで軍から辞めさせられた訓練生達』を一人一人訪ね歩いたとのこと。そこで彼等一人一人の気持ちをねばり強く聞き出し、彼女自身が『真実の調書だ』と上に叩きつけたとのことだった。
彼女がアルドに言い張っていたように、リーダーだった三人は非を認め、軍隊に戻る意志は見せなかったとのことだった。後の七人の中で、彼等の後悔の念を聞きだし、彼等一人一人の正直な気持ちを聞きだし、そしてやはり『言うとおりにするしかないと思った』と言う軽い気持ちで仲間にいた者の中から『本当にもう一度軍隊でやり直したい』と言う者が二人ほどいたというのだ。
そうして皐月自身が、この件は他部署には漏れないよう二度と触れない蒸し返さない事を条件に、頭を下げて『もう一度、彼等を訓練生に』と願い出ているとか。
「問題を受け持った教官や、最終的な判断を下した校長の面目丸つぶれだ」
「そ、そうでしたか」
「確かに間違ってはいないことなのだが……。教育隊はちょっとした騒ぎになっていて、外部へ漏れるのを防ぐのに精一杯のようだ」
アルドの中で、味わったことのない焦りが押し寄せてくる。
彼女の自分の志に対する執念──。
そして目の前の、アルドにとっては現在は絶対的存在である『ボス』の冷たい鋭い眼。
「瀬川。やられたな。放ってしまった時点でお前の敗北だ」
その言葉がアルドの胸を突き刺した。
深く鋭く……。それは上司に刺されたのではなく、見えないところで戦っていた皐月が送り込んできた『矢』だった。
アルドの急所を、真っ直ぐに一ミリも違わず、命中したのだ。
さらに上司が言った。
「この調子だと、お前が本当はなんの業務をしているか疑問に思い始め、徹底的に洗われ公表されるかも知れないぞ。こそこそと裏で動かず、表だって堂々とやれと言いそうだな、あの子は」
それはシークレットの業務を言い渡された者には『最も恐れる失態』だ。
姿を隠して仕事をするのに、それを表に晒され正体を暴かれるのは『幽霊隊員』にはあってはいけないことなのだ。
上司の目が──『お前もものにならなかった。潮時か』という目をしている気がしてならなかった。
アルドは知っていた。『秘密隊員』として白羽の矢を立てられたことは軍人として名誉だが、その仕事から転落した者を、秘密を知っているだけに軍隊は厄介者としてお払い箱にすることを。秘密隊員になった以上、後戻りは出来ない。白羽の矢は、その隊員をその世界へと呼び込む道しか残してくれていない。もしここで、首を切られたら……。もうアルドには軍隊での居場所はなくなるだろう。もしくは余程の部署に飛ばされるかだ。
だが、もう、遅い。
アルドの黒星は消えないだろう。
生徒は皐月の願い通りに復学が叶ったとのこと。
自主退学という形だったため、女教官との間に何があったか知らぬ周りの訓練生は『考え直し、戻ってきた』ぐらいにしか思っていなかったようだし、皐月自身がそう持っていったようだった。
彼女の思惑が勝ったのだった。
・・・◇・◇・◇・・・
だからとて、上司の様子は特に変わらなかった。
アルドのことは、今までと変わらずに使ってくれた。
それから幾分か時が過ぎ、季節は年を越し冬になっていた。
「先輩、最近、忙しそうですね」
「ああ、色々な」
「あの……」
「なんだ」
「いえ……」
隣の青年が身支度をして、帰路につく。
純一とは変わらぬ付き合いをしていたが、だが彼も何かが変わったことを知ってしまっているだろう。
本当に短い時期だった。だが、あの日々の濃い色合いがくっきりと心に残っているのはアルドだけではなく、純一も同じなのだろう。だから、不審に思っている。
時々、少し思い詰めた顔でアルドを見つめ、何かを思いきって言い出しそうな様子を見せるのだが『いえ、なんでもありません』と引き下がる。
皐月と何かあったのかと言いたそうで、でも、結局は短い付き合い。向き合っている内に反りが合わなかったぐらいにしか思っていないのだろう。
だが、それすらもアルドの『読み違い』だった。
純一はこの時、もっと違うことをアルドに言おうとしていたのだと、後になって気がつく。
この横須賀にも雪がちらつく程に冷え込んでいたある日の夜のことだった。
アルドが帰路につくと、警備口を出たその『いつもの角』から、雪をかぶった『皐月』が現れた。
少しの距離を置いて、小雪の中、夜道の上、久しぶりに二人は向かい合う。
どちらも言葉を発せず、しかし避けようとすることもなく。少なくとも、肩に栗毛に小雪を乗せている彼女は、アルドと真っ正面から向き合うために長い時間待っていたことを窺わせている。
そして何故か、彼女はアルドに向かって泣きそうな顔をしていた。
「貴方に反した訳ではないのです。かえってご迷惑をかけたと思っています」
「終わったことだ。振り返る気はない」
心にもないことをアルドは口にしている。
あれからアルドの中では、どうにも消化されない気持ちが渦巻いていた。
それをこうして触れに来ただけでも、アルドには腹が立つというのに──。
だが、皐月の気持ちはそれでは気が済まないようだった。
そして彼女は、あの華々しい彼女が、やつれた顔をしている。
お前も、少しは悩んでくれたのか? 俺のように『解らない』と自分の中では不純と分けられてしまう塊を呑み込めずに、苦しんだのか? アルドはふとそう思った。
そんな彼女が小雪の中、アルドに微笑みながら言った。
「私、貴方のことは間違っているとは思っていません。でも、私は私の信じる道を行きます」
その言葉の裏に既にアルドの本業務が何であるか悟っていると感じられた。そして『私はそれを口にすることはない』などという秘密隊員をあり方を理解するかのような寛容な含みも……。だが、アルドは、ただ『そうか』と静かに答えただけ。それでも心の中では彼女が『貴方は間違っていない』と言っただけで酷く荒れ狂い始めていた。
「貴方と私の行く道が、違うだけ。でも、また何処かで交わることもあるかもしれません。その日まで……」
──さようなら。
今までの楽しかった日々に感謝を。
そして貴方に敬愛を。
そして、貴方を信じています。
皐月のその女神のような言葉に、逆にアルドは汚されていくような気さえしてきた。
彼女がアルドを目の前に、自分だけが白く白く染まっていく分だけ、アルドは黒く黒く染められていくのだ。
彼女が白くあるのはアルドが黒いから。アルドが黒くなってしまうのは、どこまでも彼女が白くなっていくからだ!
「俺の目の前に、二度と現れるな!」
皐月にそう突きつけると、彼女の顔は元の寂しそうな哀しい顔になる。
そうさ。道が違うだけだった。
そう言うこともあるさ。
どうしても考え方が交わらないこともある。
日が経てば忘れる。そんな女もいたと、俺もちょっとばかり感情的になっていたと後悔したりして、何でもないことだったと思える日が来る。
「では、本当に──さようなら」
皐月が背を向け、去ろうとする。
だが、彼女は肩越しに振り返りふとアルドに申し訳なさそうに呟いた。
「谷村から聞きましたか?」
アルドはもう、彼女の問いにはなにも答えなかった。
だが皐月はそれも承知のように続けた。
「私達、いずれ結婚すると思います。近いうちに。彼にはうちに入ってもらおうと思っています」
──アルドの中で、最後の糸が切れた瞬間だった。
あの谷村を、御園の婿のするだと? だがアルドには『婿』ではなくこう聞こえた。
『純兄を御園一族に引き入れた』と。
そして、何か言いたそうで言えない純一の顔を思い出す。『このことを報告したかったのか?』と。だが皐月と何かがあったようなアルドには言えなかったのかと。
アルドと肩を並べ、それとなく通じ合って手を組むように仕事を教え、手伝ってもらった後輩が、今、決別した女の一族に属すると言う。
少なくとも、アルドの中で認めていた後輩『谷村純一』は、アルドのそうした部分を良く理解してくれる『人種』だと思っている。そして彼もそう簡単には変わらないだろう。だが、目の前のどうしても交われない女は、自分の手元に『結婚』と言う形で、『引き離そうとしているのか』? アルドの中でその『結婚』は自然な物ではないと思えた。
なにもかも。この女が上手く引き寄せていく。
この時だった。
このどうにも反りが合わなくなった女を、憎むようになったのは。
そして何もかも、アルドの中でどうでも良くなった瞬間。
それは軍隊で志をと思っていたことも、三十代を目の前に少佐になれそうだという期待も、そして短い間でもアルドを熱くさせてくれた語らいの日々だとか、僅かに残した希望もなにもかも。
そんな『未来』に待ち受けている『何か』に望みを持つ以上に、つけられてしまった黒染みに囚われ、それを付けられてしまうことになった日々を思い返し後悔する。
お前が白くなりたいというなら、白くなってもらおうじゃないか。
そして俺が黒くなってやろうじゃないか。
まるで自分がやったことは白き諸行、そして秘密裏に動いている俺は他人様には顔も堂々と明かせない黒い手段で重宝がられている者なのだと。
それならとことん、そこでお前と張り合ってやろうじゃないか。
そしてお前に見せてもらおう。
どこまでも白く白くなっていけるその素晴らしい心を。どこまでも。
もう、なにもいらない。
瀬川が本当に『幽霊』になる日は近かった。
・・・◇・◇・◇・・・
その別荘にも桜の木があり、今年も美しい花吹雪を見せてくれることだろう。
何度かこの別荘に立ち寄った時に、その花を眺めたことがある。
彼女に花を手向ける気などないが、きっとここで死んだ彼女は、少なくとも心を慰められているのではないだろうか。
時折、この場所に立ち寄るのだが、御園の者と鉢合ったことは一度もなかった。
しかし『今回』は違うようだ。
そこに亡くなった従妹を、初めて正面から弔うように、一人の男が家中を磨き始めていた。
アルドが残したなにもかもを拭おうとしている。
最後にアルドの心が逝った場所を。そこで流れた血は、アルドの黒い染みと同じだった。その染みがある以上、そこに黒きアルドがいた証が存在しているように思えていたのだが、あの従妹と同じようにその従兄もまた、綺麗に綺麗に染みを白く塗り替えようとしている。
遠目から見ても、黒猫がかなりの体勢で別荘を警護しているのが判る。
もし、あの別荘に今、飛び込むとしたなら、一瞬で制さねばならないだろう。
あの日は寒い夜で、その芽も息吹かない冬の桜の木の枝先には、赤い月が見えていた晩だった。
ドアをこじ開け、美しき姉妹が優雅に暖を取っているそのリビングへと、黒き男が踏み込んだのは。
アルドが描いた『皐月嬢への狂想曲』を捧げる晩。
今は四十半ばの白髪混じりの男が、今日も夜が更けたところで、黒猫の包囲網を遠くから眺めている。
深呼吸をし、息遣いを整え、アルドは走り出す。
『来たぞ──!』
聞き覚えのある男の声がした。
ふと横目でみると、金髪の男。純一の傍から離れることがない若い男がこの晩はここを張っていたようだ。
つい最近まで娘と過ごしていた別荘は目の前。四方から黒い戦闘服を着込んだ男達が暗闇の中、アルドを取り囲むように包囲網を縮めていく。
だが、アルドが一足先に別荘に辿り着いた。
リビングに明かりが灯っている。
庭からリビングの窓に向かい、そこのガラスをナイフの柄で割って、侵入する──!
春先の冷たい夜風にカーテンがふわりと舞い、その向こうに栗毛の男がこちらを見て立ちつくしていた。
『御園右京』。その男の首を抱え込み、ねじ伏せるようにしてアルドは栗毛の頭を床に叩きつけた。
「き、来たな! やっと──!」
「よう、兄さん。久しぶりだな。待たせて悪かったなあ」
さらにアルドは、うつぶせに寝かせた右京をすかさず踏みつけ、彼の美しい顔、その頬へとナイフを振りかざす。
彼の頬の側、その床にナイフが突き刺さった。
彼の美しい横顔に赤い筋が走る。頬と耳が切れ、容赦なく血がこぼれ落ちる。
「瀬川アルド──! お前は囲まれているぞ」
割れた窓ガラス、ふわりとたなびくカーテン、そこから金髪の男が銃を構えアルドに向けていた。
黒猫に囲まれることなど想定内。アルドは不敵に微笑み、その金髪の男に言う。
「ここは永遠に俺の『現場』だ。一歩でも踏む込めば、この御曹司を容赦なく殺す。それぐらい厭わない男だと判っているだろう?」
アルドもジャンパーの下から拳銃を取り出し、それをその男に向けて振りかざす。
「退け──! 半径、百メートル、一歩でも踏み込めば、『御園右京』は殺す!」
アルドは、その金髪の青年の顔にも容赦なく発砲をした。
サイレンサーのついている銃。その鈍い発砲音で放たれた金弾は、その青年の横顔をすり抜けていったようだ。その青年の頬にも赤い筋がすうっと引かれ、彼の反応を上回る瞬間を制したアルドの攻撃に、彼は固まってしまっていた。アルドは再び、銃を構えた。
「やめろ。ジュール! 俺は平気だ。言うとおりに下がれ」
「右京様……!」
ほう、ジュールというのかと、アルドは『青年ジュール』に微笑みかける。
彼の挑発的な眼差しを知り、アルドは踏みつけている右京の頭、その下へと銃口を向けた。
「要求は、目的はなんだ」
「あれば応えてくれるのか?」
「応えよう」
すぐさま応えようと言うのは、彼の駆け引きのひとつに過ぎず、本心ではない。
アルドにだってそれぐらい判る。
アルドは、落ち着いている金髪の青年にもう一度銃を向け、言った。
「黙って見ていろ。手出しはするな。──それだけだ。百メートルだ、今すぐ、退け!!」
それを目の前にし、流石のジュールも唇を噛みしめながら姿を消した。
庭、勝手口、玄関、直ぐそこの階段、二階の窓。それぞれからアルドが嗅ぎ取っていた気配が、さあっと一斉に綺麗に退いていったのが分かった。
アルドは踏みつけていた足を、右京から除けた。
彼は逃げる様子も見せずに、静かに起きあがった。
「兄さんにしては、珍しく頭が悪いじゃないか。自ら人質とは、従妹が泣くぞ」
「お前に会わずして、俺の人生は終わらない」
終わらない? と、アルドは右京をはたと見た。
彼が、いつのまにか、大きなナイフを手に握りしめてる。
「瀬川。お前は従妹には会うことはない。何故なら、この俺と刺し違えるからだ──!」
ナイフ片手に立ち上がった右京の茶色い目が光った。
そう、あの赤い女とそっくりに。
アルドの中の静かな血が逆流しはじめた。