-- A to Z;ero -- * 朱花は散る *

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3.正義と慈愛

 なにがあるとか、なにがないとか、そんなことすらもじぶんはきめない。
 すべてしぜんにまかせる。

 もし、言うとすれば、そう言うことだったのか。
 それでもたぶん、己のこだわりは人一倍あったのだろう。
 だから、悲劇は起こるのだ。
 そして起こした。

 あの赤い女が、そのイメージの如く真っ赤に染まった瞬間。
 アルドの中で『全てが終わった』と思った。
 そしてそこで痛みに悶えることも出来ず、最期を確実に目の前にしながらも、まだ生きようとしている女の悪あがきに、燃え上がるような憎しみを爆発させた。
 俺はお前を刺して、もう既に『死んだ』と言うのに、お前は生き返ろうとしているのか? と。
 最期の一突き。それが一番の致命傷。決定打。

 その時、その赤い女が今から異世界に旅立つ道連れに、アルドの心もなにもかも、持っていった。

 だから、その後は淡々と『殺し』は出来た。
 殺しと言っても、正義の名の下であるのだが、躊躇いなどなかった。
 たまに軍に言われて、共に行動をした『エリート隊員』ですら、命令下と大義名分を与えられていてもいざとなると躊躇する『未熟者』もいた。
 だから、アルドが重宝される。こう言う時、冷徹に何も考えず、心を持たず、『やれ』と言われたことをすればいいのだから。

 言ってみれば、この重宝な男は、その赤い女のお陰で誕生したと言っても良いだろう。

 

 ──その昔、アルドは二十代半ばで、波に乗り始めていた。

 本部という場所は、その基地の中枢により近くある部署だ。
 当時、横須賀の陸部隊は大所帯で、統括する部署『大本部隊』にアルドは純一と共にいた。
 そこで、アルドは既に『隠れた仕事』をしていた。いわゆる『秘密隊員』……とまではいかないが、その候補のように──。
 知っているのは本部隊長の大佐のみ。アルドは本部員の仕事はしていはいるがこれは『片手間』だった。

 ある時から隣にやってきた幾分か若い青年に、アルドは興味を持ち始めていた。
 アルドの『片手間』の仕事ではあるが、そこは決して怠らない。上から言い渡されている使命を全うするには、この『片手間』の仕事も馬鹿にはしない。そして、隣の青年もそこは黙々とこなしていた。
 この後輩の、寡黙さ、的確さ、そして落ち着き。アルドの波長を掴むかのような接し方。それはアルドに限ったことではなく、彼は誰にでもそのように接し、そつなく過ごしている。目立ったトラブルを起こすことはなかった。もっと言えば、遭いそうになったらトラブルにならない行動をしているのをアルドは見抜いていた。特に同性との付き合いが上手いようだ。彼にもそれなりの後輩がいるのだが、彼等には頼られているし、同期生にも信頼されている。そして、『女っ気、一切なし』。むしろ避けている節がある。そして女性の目に付かない行動を──いや、単に己が硬派を貫き通しているうちに、多数の女性が好むような男の姿からは遠ざかっていたようで、女性達が騒ぐという雰囲気の男ではなかった。

 それだからか? いつも『彼女』が独占状態。
 そして彼女は真っ直ぐに純一を想っている。
 誰の目にもそう見え、それは基地ではちょっとした有名な話。それも他の女性が寄ってこない理由だろう。なにせ、基地一番の『お嬢様美女』がお相手では、戦意も喪失するという訳だ。

「おい、谷村。もう、帰って良いぞ」
「え? まだこんなにありますよ。俺、やりますから」

 日が落ちるのが早くなった秋の夜。
 すっかり暗くなり、この大本部の大きな事務所でも人はまばらになっている。
 アルド一人の方がはかどるのだが、隣の後輩は別かとそのまま置いておく。やがて二人の手元が一緒に空く。共に本部を出た。

「どうだ、たまには一杯。俺の知っている店、連れて行ってやるぞ」
「いいっすね。先輩は一見、ジガーバーという雰囲気だけれど、やっぱり居酒屋?」
「お、解っているな」

 二人で笑いながら、警備門を出て暫くすると……。ひとつの角から栗毛の女が姿を現した。
 制服姿の『御園皐月』

「今、終わったの? 遅かったのね」
「あ、ああ」

 純一は、アルドの手前かサッと彼女から顔を逸らした。
 彼女も声をかけたものの、少し気後れをしている。
 『一緒に帰りたい』と言う顔をしているのだが、純一は先輩との約束を優先したいようで、そして彼女もそうさせたいが、暗くなるまで待ってた手前、直ぐには引けないと言ったところか。

「じゃ、じゃあね。私もさっき終わったから……。純兄もそろそろかなあと思って……」

 『お先に』と彼女は手を振って、背を向けた。
 アルドはちょっと溜息をこぼす。どう見ても、何時間か待っていた風だった。
 ──余程、この幼馴染みが好きなんだなと思わされる。
 そんな一途な女は嫌いではない。だが、ちょっと目立ちすぎるなと。

 そんな皐月の背にアルドは声をかける。

「良かったら、御園さんもどうかな。こいつと飲みに行くところだったんだ」

 彼女が振り返る。そして迷うことなくそこは首を振った。

「有難うございます。でも、男同士でどうぞ。うちは門限が厳しいので帰らなくてはいけませんから……」
「そうか。では、また」

 皐月は純一を一時見つめ、そして寂しそうに帰っていく。

「一途で、正直だなあ」

 可愛らしいじゃないかと、純一の背を叩きながら笑った。
 彼はむすっとしていたが、やがてその去っていく幼馴染みの背を案じるような目。暗がりの中、鎌倉まで一人で帰って大丈夫か、どうかと言う目。
 アルドはふと微笑み、純一の背を押した。

「またにしようぜ。行ってやれ」
「いえ、俺は……」
「何かあってからでは、遅いだろ。武道に長けてるとはいえ、万が一もある」

 そう言ってからの方が、谷村青年は不安を煽られたように、その無愛想な顔に素直な心配顔をやっと見せた。

「すみません。先輩と行くの初めてだから、俺、行きたかったです」
「そうか、俺もだよ。お前とはじっくり話してみたいな。だから、またにしよう」

 純一は一礼をすると、さっと皐月を追いかけて行った。
 なんだ。青年もまんざらでもなかったかと、アルドは笑う。
 しかしアルドには解らない世界だった。生まれた時から側にいる相手に色恋が存在する、またはそこに変化するものなのだろうか? 彼女は完全に恋になっているが、青年の方はまだ『兄妹愛』の方に限りなく近い気もするが、時間の問題かも知れないとアルドは思う。そう、二人は年頃の男女。惹かれ合ってもおかしくないのだから。

 アルドは腕時計を眺める。
 独りで呑みに行くことに決める。
 これが少し前なら、『女』のところにでも行こうかと思いたくなる気分ではあるが、こんな自分に飽きたのか呆れたのか、唯一認めていた女が逃げるようにして生まれ故郷に帰ってしまい、アルドは独りだった。その後も、とりたてて特別の異性を見立てようと言う気も湧かず、今のアルドには『性』よりも『志』であって、そこに『欲』はない。晴らすならいくらでも方法はあり、その方法で事足りていた。
 しかしそれもやはり室蘭に行ってしまった彼女だけという気持ちがどこかにあるのだろうか? 今は、解らない。
 この時、既に北国で自分の血を分けた娘が生まれたとは知らずに、アルドは横須賀の第一線を目指し走っている時だった。

 

 その数日後、だった。

 アルドが廊下を歩いていると、女性に声をかけられる。
 またかと思いながら振り返ると、そこには『皐月』がいた。

「お疲れさまです。大尉」
「お疲れさま。どうしたんだ? 珍しいな、この辺りに教育部隊員がいるのは」
「いえ、また、お遣いなんです。まだまだ下っ端隊員ですから」

 彼女がにっこりと笑うと、本当にそこに花が咲き誇ったようだ。
 しかも不思議だった。本当にほのかな甘酸っぱい香りが漂ってくる気がして……。聞いたことがある、『特殊な媚香』を持つ者がいると。その者は男女に限らず、そういった何とも言えない香を発し、周りの者を虜にするのだと。普通の人間が普通に持っている『フェロモン』以上の効果を持っているのだそうだ。
 アルドはこの女はそれの持ち主だとこの時思った。
 と、なると──あの堅物の谷村も本当に時間の問題かと、『男の塊』で通している自分が彼と共に敗北したかのような気持ちになり、眉をひそめる。

 そんな彼女に声をかけられたせいか、周りにいる隊員の誰もが、皐月とアルドに振り返る。
 美男と美女の向かい合う姿は、もう昼にはランチタイム一番の噂にでもなりそうだ。まあ、そんなこと、どうでも良いが──。

「あ、すみません。これでも、こっそり声をかけたつもりなんです」
「ああ、解るよ。仕方がないな。君と一緒では」
「いいえ、先輩こそ。女性達がいつも噂しているのを良く、耳にしています」
「この顔がなあ。もう少し親父似だったらと何度も思ったよ。お互いに、日本人離れしている顔は、隠しようがなくて苦労するよな」
「本当に」

 彼女がクスクスと笑うその様は、兼ねてからの噂で耳にしていた『貴族の末裔』ということを思い出させるような、ふんわりしっとりとしている優美な微笑み。
 それには流石のアルドも、ふと気を緩めてしまったほどだ。

「あの、先日は谷村と一緒のところをお邪魔して申し訳ありませんでした」
「別に。あいつが心配そうな顔をしていたから、行ってやれと言っただけで。また、俺達はいつだって出かけられるんだから」
「彼が? 本当ですか?」

 皐月の驚いた顔。そして、その直ぐ後に広がる喜びの笑顔をほんのりと浮かべ──。
 その時、アルドには、純一が『先輩に行けって言われたからだ』と自分の気持ちを隠した姿が目に浮かんだ。あの青年はそういう素直じゃない青年なのだ。
 だから彼女は、実は想い人が自分を想って追いかけてきてくれたことを知り、嬉しくなったのだろう。

「プライベートのことまで、気にしなくていいさ。では、そういうことだから」

 だから、わざわざ謝りに来るほどの事じゃないと、アルドはそこを去ろうとした。

「あ、あの……!」

 皐月の妙に切羽詰まった声に、アルドは振り返る。

「彼、瀬川さんのこと、すごく尊敬しているんです。あ、私もです。仕事のこととか、私も出来たらお話を聞いてみたいです」

 アルドは『そう、有難う』と微笑み返しただけ。
 皐月に背を向け、歩き出す。

 そうだな。今度、谷村と出かける時に、一緒でもいいかと思った。
 アルドは皐月のことは、女云々以前に、それなりに認めていた。
 それは純一を評価するのと同じように。『彼女はものになるだろう』と。

 さらに、今、アルドが任されている『本職』は──『身辺調査』。
 それは民間人から、この軍内まで様々だ。上から『調べて欲しい』と言われたら、徹底的に洗い出し、報告をする。
 そして怪しい隊員がいれば、それも逐一報告する。つまり『秘密監視』のようなものだ。
 ある時、この『立派な家柄をお持ちの三世隊員』──つまりこの『御園皐月』を調べるようにと言われたことがある。今、将軍である父の威光もなんのその、自らの実力でのし上がってくる二世兄弟揃っての評判は上々で、孫娘に何かあれば、その一族を貶めようと言う腹なのか。そこはアルドが考えてはいけない範囲。考えたとしても、考えなかったことにすべき部分。言われたとおりに調べた。勿論、孫娘として娘としても彼女は清きものだった。
 そしてなによりも、彼女は『本気』だ。本気で三世として女身で御園の一族の基盤を確かなものにしようとしている。それだけじゃない。彼女の情熱そのものが、『家』の枠を越えて、一生懸命であることはアルドにも通じていた。

 ──と、この時はそう思っていたのだ。

 彼女は解っていたのだろうか?
 この軍隊という世界が、どれだけ覚悟がいる世界であるか。
 『正義』だ『正義』だとそればかりでは、決してやっていけない場所なのだと。

 

「先輩!」
「アルド先輩、こいつと二人で一時間も待たせるのは勘弁してくださいよ」
「なによ、純兄ったら。だったら、私から離れて待っていればって言ったじゃない!」

 アルドはついに二人を一緒に誘った。
 皐月は嬉しそうで、谷村は少しばかり、ぶすっとしていた。

「悪い、悪い。いつもの残りがなかなかね」
「残りってなんですか? 時々、俺が判らない事をやっていません?」

 アルドはややドキリとする。
 見ていないようで、見ていて、疑問に思い始めているのだなと。

 それでも、三人で呑みに行けば、『軍はどうなる』とか『仕事はどうだ』とかそんな話ばかりで盛り上がった。
 そこから言っても、『この二人ならやってくれる』と、思ったのだ。

 だが、ある時から『皐月』との思いがすれ違っていく。
 そしてアルドが案じていた花が故の出来事が、もうすぐ起きようとしていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ある日。ふとした情報を耳にした上司に言われ、『教育隊』を訪れる。
 時間は、そう──人もまばらになる夕暮れか、または、とっぷりと日が暮れた頃が『頃合い』のはず。
 その情報にはアルドも『個人的』な感情が多少入り交じるものだった。
 だが、ここは冷静に、そして目にした時も冷静に対処せねばならない。
 そしてその『上からの情報による指示』は、『アルドの嫌な予感』を的中させたものだった。

 数日、時間をころころと変えながらひっそりと教育部隊の各所を、パトロールをするように廻った。
 一番怪しい場所を隈無く、時間を変えて廻っていると、ついにその日、アルドは『発見』をしたのだ。

 そこはあるクラスのロッカールーム。
 あまりにもお決まりすぎる場所。
 そこから物音、そして女性の微かな呻き声、そして男達の荒い息遣い。

 アルドは躊躇わずに、ドアを開けた。
 勿論、大声で『何をしている!』と──。
 見つけた訓練生は、きっちりと上に報告することになっている。
 情報は、訓練生による『セクシャルハラスメント』。大事になる前に、『取り締まれ』だった。
 連れ込まれている女性がどれぐらいで、どこの部署か、それは不明だ。だが、上もアルドも大方の予想をしていた。

 『何をしている』と叫び、薄暗いロッカールーム、そのロッカーの影に駆け寄ると、男子訓練生が数人が固まっていた。
 そこには、もう殆どと言って良いぐらいに着ているものをはぎ取られた『皐月』を、若い学生が取り巻いていた。
 皐月は口元にガムテープを貼られ、そして両手は紐で縛られていた。男の数は、十人ほど。これでは、武道に長けている彼女もひとたまりもなかったのか?
 だが、若い青年達はアルドの出現に、青ざめていた。

『逃げろ!』

 誰かがそう言ったが、アルドは逃げる一人一人の足を蹴飛ばしては転ばし、間をすり抜けていく者の肩を掴んで跳ねとばし、ことごとくその地面へと一人残らず倒した。それでも一人、二人、居たたまれなくなったのか必死に逃げ抜けた者も……。
 残った青年の顔を眺める。

「解っているな。一人残らず、処分だ。覚悟しておけ」

 青年達はうなだれる。
 いずれ逃げた青年の顔も割れるだろう。

「大丈夫か。まさかと思ったが」
「……あ、有難うございます」

 こんな目に遭ったというのに、皐月は落ち着いていた。
 だが、それでも泣いていた。驚きや哀しみと言うより『悔し涙』か。唇を噛みしめ震わせ、目は怒りで燃えていた。
 アルドはその無惨に剥がされ切り裂かれている彼女の衣服の上へと、制服の上着を被せる。
 すると、皐月は床の上に手を付いて声を震わせ、アルドに言った。

「言わないでください。谷村には……決して……! それから……『あの子達』を悪いようにはしないでください」

 その時、アルドの中で何かが爆発したような気がした。
 そしてアルドも震える声で、皐月に言う。アルドの知らせで駆けつけた教官が青年達を連行していった方向を指さし、その指も震わせて……!

「あれらを!? 女としてどんなことをされたか解っているのか? 一番許されないことをされたのに『許す』というのか!?」
「私が……私が、油断していたからいけないのです! あの子達だってちょっとした興味で、本当は……」

 アルドは『馬鹿野郎!』と皐月に怒鳴った。

「いいか、男を甘く見るな! あの状況なら、十人連鎖反応と仲間がいるという安心感から確実に、『凶暴化』してたぞ! 男はそういう『イキモノ』だ! 未遂に終わったからそう言えるかも知れないが、俺がここにこなかったら間違いなく犯さ・・れ……」
「未遂だから! 未遂だから、それだけのことでなんとか見逃してください! もしかしたら、途中で、本当に思いとどまったかも知れないじゃないですか? 私を困らせるためだけだったのかも。日頃、私が投げ飛ばしたり抑え込んだりしているちょっとした仕返しで……」

 そして彼女が思わぬ事を言った。

「心改めれば、彼等はまだまだやり直せるし、『将来有望な隊員』ではありませんか!」

 アルドは言葉を失った。
 その時、何かの糸も切れた音がした。
 こんな事は有り得ないと──。

 なにか味わったことのない『パニック』が起きていたのだと、後に思う瞬間だった。

 だが、アルドは事の有様を、この青年達の直属の責任者へと先ず、報告をする。
 中年のその教官は驚き、そしてこう言った。

『やはりな。あのお嬢さんに一度はそんな問題が起こると思った』

 さらにこうも言った。

『だから、本当は来て欲しくなかったんだがなあ』

 見るからに、面倒な存在であるようだった。
 何かあれば、祖父である御園少将に睨まれるかも知れないということもあるだけに、より一層『扱いにくい』ということだった。
 以上に、まだ女が受け入れられる風潮もなく、女が安心して働ける環境ではない時代だったとアルドは思い返す。

 それを依頼をしてきた上司に報告すると、彼は難しい顔で『今後も問題が大きくならないよう頼む』と言っただけだった。
 そして彼はこうも言った。『できれば現場でなく、事務職にでも移ってくれるといいのだが』と。男と身体が触れる教官である以上、彼女にはその問題はつきまとい、若い青年達の性を支配して行くにはまだ彼女は未熟だった。

 『今日までのアルド』なら、『皐月、頑張れ』と言っていたのか?
 だが『今のアルド』には何処か彼女には、ここにいて欲しくないという気が芽生えていたような気がした。

 その『そんな気がした』アルドの些細な気持ちが、その後、大きくなり決定的なことが起きる。
 彼女のその真っ直ぐな気持ちが──。
 この青年達の諸行は大きくは公表せず、彼等の自主退学という形で処理をしたことが……。

 

 ふと、目覚める。
 そこは昨夜の安ホテルで、カーテンからはうっすらと日が射してきていた。

「どうもな。近頃──あの頃が、妙に蘇る」

 思い出す。
 そしてこの回想の果てに、またあの鮮烈な場面が蘇るのだろう。
 その時、きっと目の前には、あの花の匂いを漂わせながら逝ってしまった女の『妹』がいるはずだ。

 アルドには解る。
 あの小さかったお嬢ちゃんも『俺に会いたい』と思っていると。

 カーテンを開けた時、床に写ったその影の先っぽには、また、赤い彼女が現れる。
 妹には何もしないで欲しいと、あの時、泣いて泣いて頼んだ時と同じ顔をしているではないか。

「お前と繋がっている限り、妹と俺も切れないのだ。そうだろう? 皐月」

 彼女が哀しそうに消える。
 彼女も分かっているのか?
 妹が助かるのは、この男が死ぬ時だと。
 俺は殺されない。殺されるとしたら、そう、お前の妹の手によるもの──。
 そうでなければ、俺は死なないし、そしてなによりもその妹に殺されるつもりだってないのだ。
 何故なら、その妹を葬り去れないと自分も葬れないからだ。
 最後に残ったこの『生ける亡骸』を、アルドは今度こそ、跡形もなく消さねばならないと思う。
 その前に、俺を苦しめた『不純物』を残してはいけない。すっきり綺麗に処理をしてから、俺も逝くのだ。
 皐月は果てたが、お前の代わりに生き写しのように生きている妹をもらっていくよ。アルドは影が消えた先に、微笑んだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

『家を建てる!?』

 目の前で驚いているのは、葉月の父と母。
 特に、いつもオーバーなリアクションをする父が、その陸部隊特有の大きな声をリビング中に響かせた。

 葉月はちょっとやめてよと、一瞬むくれつつも……。隣に寄り添うように座っている夫の手が、そこで優しく葉月の手を包んだので、両親の手前、気恥ずかしくなって俯いた。

 その隣にいる夫が、手を握りしめたまま言う。

「はい。お父さん。是非、ご了承頂きたいのですが……。いえ、その前に、あの、御園の男として、何処に住まなくてはいけないとか、あるのでしょうか? それをまず聞いておきたくて……」

 婿養子になった手前、そこは御園に従うという夫の意志。
 だが『隼人』と言う男としては、『妻と小笠原に腰を据えたい』と言う意志を、きちんと伝える。

 暫く、父は葉月の顔を見て、隼人の顔を見て、そしてやはり葉月の腿の上でしっかりと握り合っている娘夫妻の手と手を見下ろしていた。
 葉月は、恥ずかしくて、恥ずかしくて。でも、振りほどきたくなくて……。そんな気持ちが入り交じり、顔は熱くて仕方がない。その上に、父がそこを見つめれば、見つめるほどに、隼人がぎゅうっと力を込めてくるのだから。

「いいじゃない。素敵な提案だわ」

 快くそう言ってくれたのは、母・登貴子だった。
 登貴子は、いつものキラキラとしているグラスコードを揺らし、優美な微笑みを娘夫妻に向けていた。

「何処に住んでも、何処にいても、そこに『御園』があればそれでいいのよ」

 そして父も満面の笑顔になる。

「そうだな。離島だからどうかと思う部分はあるけれど、でも、お前達がそうしたいいならそれで良いと思うよ」
「そうよ。鎌倉は鎌倉であれは京介さんが守っているのだし、右京だって。それに私達だってそうしてパパと一緒にフロリダで家を持ったんですもの」

 二人の笑顔と快い承諾に、葉月は笑顔になり、そして勿論──隣で力を込めて手を握ってくれている隼人も笑顔になる。
 そして、隼人は二人に頭を下げた。

「有難うございます!」

 さらに隼人は顔をあげると、両親に向かって臆することなく堂々と言った。

「子供と住みたいんです。子供のためにも、もう少し広い住まいを」

 亮介と登貴子が面食らった顔をし、そして次には『本気なのか』とばかりの顔を、娘の葉月に揃って向けてきた。
 葉月は、また真っ赤になりながら、こっくりと頷くことでその意志を明かす。
 もう何度も妊娠で辛い思いをしてきた葉月なら、子供が欲しいとはきっと言わないだろうし、その可能性も薄いことだろうと、両親は思っていたに違いない。
 だけれど、『娘はまだ諦めていない』という驚きを今、両親は揃って見せているのだ。
 しかし、やがて葉月の頷きに、二人の顔がとても輝いた。

「そ、そうなの! そうね、それなら、そうよね! ね、パパ」
「う、うん、うん! そうだ、そうだ。それなら、あのマンションでは手狭だな。よ、よーーし、パパもお手伝いしちゃうぞ!」

 なんだか、嬉しさを通り越している両親の落ち着きない喋りに、葉月は益々、気恥ずかしい思いで、ただただ頬を染めて俯いてしまうばかり。
 だが、そこも隼人はしっかりしている。ちょっと浮かれている両親を前に、葉月ときっちりと話し合った言い残している事を伝える。

「あの、出来れば葉月と俺だけの力で建てたいと思っています」
「私も──。彼と私の力で、頑張ってみたいと思っているの」

 いつまでも照れて俯いてばかりではなく、葉月も両親に自分の意志をはっきりと告げる。
 それは金銭的なことは勿論、あの丘のマンションのようにただ与えられたものではなく、自分達でなにもかもをやってみたいという申し出。
 それにも両親は面食らっていたのだが……。

「そうしなさい。私達だって、フロリダのあの家はそうしたよ」
「そうよ。貴方達は貴方達の家を、探して見つけて考えて建てなさい」

 両親の承諾と後押しを得て、隼人と葉月は顔を見合わせ微笑み合う。
 そしてまた結ばれている手はお互いにきつく握り合っていた。

 そんな両親が微笑みを揃えて、呟いた。
 『これからが、楽しみだね』と。
 葉月は『私もよ』と微笑み返す。

 そう、私は、新しい家に住む。
 新しい家族と一緒に。

 だから、なにもかもを『精算』しなくてはならない。
 葉月は密かに、眼差しを伏せ、心に秘めている『くすぶる炎』を揺らめかせていた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「良かった。お父さんとお母さんにも喜んでもらえて」
「そうね、私も──」

 二人で寝室に戻る。
 隼人が駆けつけてきてから、二日が経っていた。
 隼人はまた、臨時休暇。これ以上は休めないはずだけれど、『葉月の側にいろ』と達也の協力を得て、今は側にいる。
 仕事、せっかく復帰の波に乗り始めていたのに……。葉月はそう思うと何度でも溜息が出てしまう。だがそう言うと、隼人は何度でも『今は奥さんが大事』と言ってくれる。

「俺達、今まで仕事を優先にすることが多かったけれど、でも、もう……俺にとっては先ずは葉月がいてくれなくちゃ意味がないんだ。大佐嬢より『ウサギ奥さん』。分かるかな?」

 葉月は分かると頷いた。
 そうすると隼人がまた満足そうに、その腕に柔らかに抱きしめてくれる。

 戻った寝室のベッドの側。
 そこでいつもの窓辺から、昼下がりのそよ風が入り込んでくる。
 もう、来週は桜が咲くかも知れないと言われている時期に来ていた。
 そこはかとなく薄桃色。そんな色合いの風を思わす。

 そんな中、こんなに愛おしい人に深く深く抱かれ、葉月は新しい夢を見ている。
 ぼんやりと外を眺めていると、腕の中に抱きしめているその手が、また……葉月が着ている服のボタンを外そうとしていた。

「もう、駄目。夜って言っているのに」
「待てない」
「や……本当に、駄目ってば。昨日だって……」

 だが隼人はその都度、かなり燃えている。

「今は何度だって、お前を抱きたい」

 本当に何度真顔でそう言って、葉月をシーツの海へと誘い込んだことか。
 思わず『その為に休んだのか』と言いたくなるぐらい、隼人はあれからちょっと二人きりになると、葉月を素肌にしてしまう。
 昨日もそう。大胆にも昼間から、周りを気にせずに葉月をベッドに誘い込んで、本気で抱かれた。そして葉月も、まだ周りを気にする気持ちが残っていても、結局はその熱愛に飲み込まれてしまう。そして最後にはとろけて、夫にされるまま、言われるまま。

 そのどの睦み合いでも、二人の間には『天使』がいた。
 それほどに、夫は本気なのだと……。
 そして葉月も、本気だった。

 春の暖かい風の中、白い肌を昼下がりの日射しの下に晒した葉月を、隼人がうっとりとした眼で見つめてくれる。
 長い栗毛が、その風にふんわりと長く長くなびき、その毛先が隼人の頬をくすぐる。
 彼がその毛先を捕まえて、ふと微笑んだ。

「初めて会った時の、あの綺麗な栗毛が忘れられない。突然、木陰に現れたちょっと寂しげな瞳をした栗毛のウサギ」

 ──今は俺の腕の中、ウサギは暖かく安まっているか?

 彼のその問いに、葉月はそのまま微笑んでこっくりと頷く。
 もうどこも隠そうとしない自分の裸体は、日射しの中、どこまでも露わになっても、葉月は隠そうともしない、隠れようとも思わない。
 本当に、彼のその熱い眼差しの中、その腕の中、その指先で、『生まれた』ような気になっていた。
 生まれたその姿のなにもかもが、貴方のもの。

 風の中、二人は肌と肌を合わせ、そして唇を寄せる。

「また、いつでも後ろ足で俺を蹴って飛んでいってもいいんだぞ」
「なにそれ。まるで貴方を蹴りまくってきたみたいに言わないで」

 いや実際そうだったと隼人はおどけ、そして葉月はそうだったわと笑っていた。
 いつものように、隼人が葉月を優しく抱きしめ、耳元で囁く。

「だけれど、今度は俺もついていこうと思っているんだ。放し飼いはしない」
「ついて行くって?」

 なにを話し始めたのだろうか? と、葉月は、隼人の胸から離れ彼を見上げた。
 すると、隼人の顔はとても硬い表情に変わっていた。
 そして隼人は意を決したように葉月に言った。

「あの男に会いに行こうと思っているだろう?」
「え?」
「俺も行く。お前は止めても行くだろうし、俺も今回は止める気はない。だけれど、一人では行かせない。いいな!」

 まるで最後は『いいな!』と、命令するような強さだった。
 葉月は何も言えず、でも、戸惑いながら口元を動かそうとしていた『危ないことだ』と。
 だが、その唇を隼人に強く彼の唇で塞がれる。そしてその口先で隼人はまた強く言う。

「俺達、夫妻になったんだ。お前だけ行かせて、安全でいられる夫でなんかいたくない。俺も、後悔はしたくないんだ」
「それで……いいの?」

 本当は黙っていこうと思っていた葉月。
 それはいつものこと。そうして隼人はいつでも、葉月が帰ってくることを信じてじっと待っていてくれただろう。
 今回もそのつもりだった。たとえ夫妻になっても……黙って行こうと。いや、夫妻になったからこそ、夫を巻き込みたくないと。

「いいんだ。頼むから、俺も行かせてくれ。お前が行くというなら、その時は俺も行く」
「隼人さん」

 葉月は頷き、隼人の胸に飛び込んだ。
 一緒に行こう。ピリオドを一緒に打ちに行こう。
 夢見る前に、夢をもう一度見るために、新しい夢へと行く道に向かう前に──。

 今までの全てを二人で見届けよう。

 二人の腕が熱く絡み合う。
 やがて結ばれる指先と指先は、自然と葉月の腹部の上で何かを願うように結ばれていた。

 

 その日の夕方、フロリダから新しい情報が入ってきた。
 『瀬川アルドは、フロリダが受け持っているとある任務に来月、契約している』と。
 つまりアルドは、もうすぐその任務を遂行するために渡米すると言うこと。

 葉月は思った。
 ──もうすぐだ、と。

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