*苺記念*【明日もSunny!】

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3.もうすぐパパですね!

 

 玄関で真っ黒な革靴を手にして、葉月は靴磨き用のスポンジで艶が出るように磨いていた。

「葉月、何しているんだ!」

 玄関で大きなお腹を抱え、しゃがみ込んで靴を磨いている葉月を見つけ、隼人が飛び上がったように驚いた。
 それを見て、葉月はもう……うんざりの溜め息。

「なにって。これぐらい大丈夫よ。だって、貴方の革靴が汚れていたんだもの」
「汚れているのは、いつもだ。それにお前だって今までしなかったことを、急にするなよ」
「それは貴方が自分の靴は自分で磨いていたから」
「今だってそうしてるだろ。俺のことは俺で。葉月のことは葉月で。互いに自分のことは自分でやる生活を結婚前からやっていたじゃないか」
「……そうだけど」

 せっかく。妻になってそれらしいことが出来るようになったのに。なんで喜んでくれないのよ――。毎度の如く、そういう女性らしいことが言えず、葉月は口ごもるだけ。
 そうして黙って俯いてしまった妻を見て、隼人も我に返ったようだった。

「ごめん。せっかくやってくれたのに。いや、嬉しいよ。本当に。だけどな。今のお前、軽くて済んでいるけど早産気味で薬を飲んでいる程だし、安静にしていなくちゃいけないんだぞ。側に、階下に右京兄さんとジャンヌ姉さんが一時的に住むようになって毎日様子を見に来てくれても」

 その通りで。36週目になって、少しばかり子宮口が開いてしまっているからと、入院までは診断されなかったが、早産用の薬を服用し家から一歩も出ない生活をしているところの葉月――。
 お腹は突き出て、張り裂けそうで、葉月自身も苦しい。産休に入って家でのんびりしているのが嘘のようで、それでいて退屈で、ノートパソコンで四中隊本部と連絡や通信が取れるように隼人が整えてくれたが、大佐嬢が妊婦になっても頼っている男達と見られたくないのか、困ったことがあっても副隊長を任命した達也のところで全て解決してしまっているようだった。
 葉月に連絡が来るのは、一日の報告。そしてその時にやっと、困っていることの相談がある。そんな仕事の世界は遠のき、丘のマンションに隔離されているような生活。
 かと言って。葉月だって『今度こそ』、そして『やっとここまで来た』という達成感一歩前の大事な時。ここまで来ればもう大丈夫だとは思うが、やはり出歩いたり、張り切った家事をして事故など起こしてもいけない……。

「分かっているわ。やっと、貴方との子供を腕に抱けそうなんだもの。絶対に無理はしない」

 そこはきちんと言葉にして伝えたので、隼人がこの上なくホッとした顔に崩れた。

「仕事場から離れて退屈かもしれないが、こんなにのんびり出来るのもあと少しだけだからな。今のうちに堪能しておけよ」

 なんて、隼人じゃなくても誰もが言う。そりゃそうなんだろうけどと思いながらも、葉月はどう過ごして良いか分からない。以前にゆっくり休んだのは……。胸の傷を押さえた。あの時はそれでもまだ不安に押しつぶされそうな日々で。でも今は、こんなに穏やか。産む不安? なんだか実感がない。産む時すごく痛いとか……。痛いって、この胸の傷ぐらい? 達也に撃ってもらった時ぐらい? それとも。葉月は身体中のあちこちの傷のことを思い出してしまう。

「じゃあ、行ってくるな。大人しくしていろよ」
「い、いってらっしゃい」
「あ、俺が適当に磨くよりぴかぴかだ。やっぱりいいな」

 笑顔で靴を履いてくれたので、葉月もようやっとにっこり。
 でも……。『いってらっしゃい』のキスが出来なかった。未だにそんなことが恥ずかしいなんて言ったら、隼人は笑うだろうか。

 行ってくると玄関を開けようとすると、チャイムが鳴った。隼人は構わずに玄関を開ける。

「よう。そろそろ隼人が出かけるだろうと思って」

 玄関を開けると、そこには栗毛の従兄がヴァイオリンケースを持って立っていた。

「お兄さん、おはようございます。では、交代ですね。葉月をよろしくお願いいたします」
「おう。なにかあったら直ぐに工学科に連絡するからな」
「はい。お兄さんがサポートに来てくれたから、安心して仕事に専念出来ています」

 一ヶ月前から、右京とジャンヌの従兄夫妻が下の階に仮住まいしている。この頑丈なセキュリティでも家族として玄関までは自由に行き来出来るようにして、葉月に何があっても直ぐに駆けつけてくれるよう鎌倉から来てくれていた。

「おーい、おはようー。もうすぐ会えるなー。おじちゃんだぞー」

 右京がにこにこ顔で毎朝大きなお腹を撫でてくれる。隼人と同じようにするので『どっちがパパか分からなくなるかも』なんて、隼人と右京とジャンヌと笑って過ごしていた。

「さあ。今日も演奏会だ。おじちゃんがママと弾くからな」

 こうして、隼人が出勤する時間になると右京が交代でやってくる。そして小一時間、二人でテラスでヴァイオリンを弾く。

「パパ、いってらっしゃいだな」

 また右京がそうして話しかける。隼人も照れくさそうにして、今度こそ『行ってくる』と出かけていった。

 従兄と暫くは二人。正午頃になるとジャンヌが診察がてらやってくる。

「気分は良いか。無理しない程度に今日もやるか」
「うん。気分は大丈夫。ヴァイオリンを弾くと私も気分が良いし……。この子も本当に聞いているわよね」
「あったり前だろ。お前が感じていること、ぜーんぶ感じているんだぞ」

 お腹を撫でる葉月に、右京は当然だとばかりに言うのだが。葉月はお腹を下から支えるように……その子を既に抱き上げるような気持ちで包み込んだ。

「じゃあ、私が時々、嫌なことを思い出していることも? 痛いって言うのがどれか分からなくなっていることも?」

 ふいに、そんなことを右京に漏らしてしまっていた。
 本当は隼人に言えばいいのに、言いたいのに。心配させてしまいそうで……。
 俯いていると、いつだって頼りにしてきた従兄が葉月を抱きしめてくれていた。

「そうだ。感じている。でも、それでいいんだよ。きっと痛みを良く知っているママから、生きていく痛みを知って、何も知らないよりずっと強く優しい子になるさ」

 今度は涙が滲んでしまった。お兄ちゃまはやっぱりお兄ちゃまだった。

「本当は隼人さんに言いたいのに。言えない」
「それもいいんじゃないか。隼人もわかっていると思うな。お前が痛みを忘れる日なんてない。それは子供を産む時も、抱いた時も。いつだって、それと一緒に生きている。それを誰よりも知っているお前に一番近い人間じゃないか」

 それを聞いても、葉月は涙をぽろりとこぼしてしまう。こんなに泣いてしまうのも、お腹に子供がいるせいなのだろうか。

「あはは。お前、毎日、心がじんじんしているんだな。ちょっと前のお前のことを思い出したら、今の泣いて笑っているお前はすっごく良いと思うから。好きなだけ泣いちゃえ」

 お兄ちゃまだって、誰よりも私を心配してくれた家族よ。そう言うと、こんどは右京がちょっと驚いた顔をして。

「ばかやろう。俺までじんじんしちゃっただろ」

 そうだった。葉月は無感情ロボットだったかもしれないが、右京は逆に明るく華やかに虚構の貴公子になって、心の奥に潜む憎しみや苦しみを覆い隠してきた人。
 そんな従兄が最近言うのは。『お前から子供が産まれたら、命が生まれたら。俺もあの日の後悔から救われる気がするんだ。だってお前が生き抜いてきた証拠だろ。あの日、お前を置き去りにした俺も……』。それで暗闇に落としてしまった末の従妹が子供を産むほどの幸せを手に入れたとこの目で見られたら……。
 だから従兄の右京も『生まれる瞬間を見たい』と強く願って、それもあるから階下の空き部屋にジャンヌと一緒に仮住まいをしている。
 とても助かっているし、右京が言うとおり、互いに罪や後悔という暗闇の中で出会って結ばれた従兄夫妻にとっては、とても癒される日々を送っていて、傍目に見ても、新婚夫妻のこちらも霞んでしまいそうなほど、穏やかに幸せそうに過ごしている。
 そして葉月が何よりも安心したのは、ヴァイオリンを避けていた右京が『胎教だ、胎教だ』と言って、こうして毎日、葉月と一緒にヴァイオリンを弾いてくれるようになったこと!

「俺とジャンヌは今、ここで小笠原で二人きりで過ごしながら、時間を止めてしまった俺達を動かしてくれそうな命を待っている。良い時間を過ごしている。有り難うな、葉月」
「そんな、私……。私が一番、家族にも皆にも迷惑を」

 そこまで言うと、右京がさらにぎゅっと葉月を抱きしめ、小さいの時のまま頭を優しく撫でてくれていた。
 もう何も言うな、葉月。
 ホッと心が緩む瞬間。葉月はうんと頷いて従兄を抱き返した。

 だから、やっぱり彼の前では笑っていよう。
 従兄がいなくて辛い時は、素直に泣こう。
 お兄ちゃま風に言うと『それでもいいじゃないか』ね。

 笑顔に戻った葉月は、従兄と一緒に陽が煌めくテラスへ向かう。そこには既に葉月のヴァイオリンケース。
 輝くヴァイオリンを、従兄と一緒に構えた。

 

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 この春、やっと自分名義の車を買った。
 黒いSUV車、ひとまずこれで家族が乗れる。後部座席には既にベビーシートも装着済み。
 ピカピカの黒い新車は既に隼人のお気に入りで、これに毎朝乗って出勤するのも一日の楽しみのうちのひとつ。

 ドアを開け、隼人は運転席に乗り込む。シートベルトをして窓を空かすと、今日も妻と兄の『カノン』が聞こえてきた。二重奏のカノンが毎日。既にマンション住人にも評判で、この島民でも噂になっているとのことだった。
 それを耳に留め、隼人は微笑みながらハンドルを握る。

 右京とジャンヌの夫妻がやってきてから、新婚夫妻二人だけの生活よりも、笑いが絶えない日々を送っていた。
 元より葉月と右京は年の差はあれど、仲の良い兄妹そのもの。二人が一緒になると無口な葉月もお喋りになるぐらい、右京が賑やかにしてしまう。それを見てこちらも普段は無表情なジャンヌまで笑い声をたて、そして隼人も。

 基地までの海沿いを、隼人の黒い新車が走る。入り込んでくる春風は心地よく、隼人の黒髪にそよぐ。
 だが、隼人は途中の路肩で車を停めてしまう。
 渚が見える路肩。なにかあって停まろうとするといつもここになっている。
 そこに停め、隼人はシートに背を沈め一息。

 カモメの鳴き声に、波の音。そして五月のこの上なく爽やかな潮風。
 それを目をつむって、隼人は感じ取る。

「この俺に、家族か――」

 父親の再婚で家族として馴染めず、思春期だからこそ深く沈んだ隼人の十代。単身フランスへ渡り、傍で隼人を愛してくれる人はいたけれど、本当の意味で家族とまでは言えなかった。別に……。あのまま、ダンヒルの家にいても幸せだったとは思う。だが心の底で本心で願っていたのは『家庭』だったのだろう。

 確かに、隼人の妻となった女は、これから生きていくとしても障害が残っている人間だ。今までも苦労してきたと思う。でも自分から『結婚して欲しい』と言えたのは願えたのは、そんなリスクがある女性でも、彼女だけが隼人を動かしてくれた人間だから。
 今までも互いに傷つけあったし、苦しくて逃げ出したい時もあった。でも……それが出来なかったのは、マルセイユでたった独り、心を閉ざしていた青年の隼人にもたらしてくれたことが多かったから。
 葉月にはそれがある。

 制服の胸ポケットから、隼人はIDカードを入れているカードケースを取り出す。
 そこには初めて彼女に贈った指輪とペアになっている銀の指輪。そして小さなお守り袋。古ぼけたその袋の中に、父親がある時渡してくれた『へその緒』がある。
 記憶がない母と、確かに繋がっていたという目に見える事実はこれだけ。隼人は近頃、これをよく眺める。この路肩で渚で。

「母さん。全て母さんの仕業だったりしてな。俺と葉月の子供がダメになったのに、また戻ってきたり。まだあの時の俺達では上手く育てられないって連れて帰ったのか」

 そして隼人がよく駐車する渚の路肩は、あのガラスの天使を葉月と波に流した渚だった。
 天使が割れてしまったのは、幽霊の刃から隼人を守ってくれたからだった。あんな小さなガラスの人形がナイフに当たってしまったとはいえ、深手を負わなかったのは奇跡みたいなもんだと、戦闘員のプロでもあった純一が言ったぐらいだ。
 それなら思うことだって一つしかなかった。誰もが『葉月が二人の子供の身代わりみたいにして大事に持っていたから、もしかすると流れたその子が……』。隼人も思った。でも後になって、もっと違うことが浮かんだのだ。

「あれも、もしかして。母さんの仕業か」

 流れた子でも母でも、それはあまりにも夢みたいな話だ。でももしそんなことが本当にあるなら、今の隼人は流れた子と並んで、死んでしまった母を思う。

「今度の子は大丈夫そうだな。俺、今まで彼女と傷つけ合ったりもしたけど、これからも傷つけ合っても、俺に家族をもたらしてくれたのは彼女だけだから」

 どんな女性でも、俺が傍にいようと思う。子供達と一緒に。
 俺の家族が出来たよ、母さん。母さんがいなくなって、俺の居場所がない家族になったと嘆いていた時もあったけど。もうそんなふうに考えないし、もうそんな孤独ではない。
 葉月は良く『やっと出来た私の気が安まるところ』と言って、隼人と一緒になったことを喜んだり感謝したりしてくれる。でも……『違うんだよ、葉月』。違うんだ。本当はやっと俺が過ごせる家庭が出来たんだ、『家』が。一番、心が落ち着いたのは実は俺なんだ、葉月。
 隼人の家、家族、家庭。それが今はある、そしてこれからも広がって行くに違いない。葉月だけじゃない。義兄の純一、甥っ子の真一、御園の家族、そして横浜の家族。今は全て、隼人の家族。

「ここまで葉月の腹の中で無事に育ったのは初めてなんだ。これも母さんの仕業なら……大丈夫だよな」

 たまに、この路肩で隼人は母を思う。今までにないことだった。

 

 ―◆・◆・◆・◆・◆―

 

 基地の警備口を通り抜け、無事に出勤。
 ちょっと前なら、四中隊棟へ向かっていたが今は違う。もっと遠い六中隊棟へと向かう。
 しかも端の端、六中隊教育隊のさらに小さな部署の工学科だった。
 しかし、一階の棟と棟を結ぶ渡り廊下を歩いていると、色々な人々とすれ違う。
 工学科を前にして、総務課にいる綺麗なOLさん風隊員の若い子が隼人に微笑みかけてきた。工学科に異動してからの顔見知りだった。

「おはようございます、澤村中佐。奥様、お元気ですか」
「おはよう。大佐嬢なら元気だよ。産休に入ったら退屈そうにしていて、今にも基地に走ってきそうだ」
「まあ、大佐嬢らしいですね。そろそろですよね」
「うん、十日後が予定日なんだ」
「もうすぐパパですね! 産まれたら教えてくださいね。課の女の子達も楽しみにしているんですよ」

 聞けば、栗毛のクオーターのママと、黒髪の生粋の日本人パパと。どっちに似た子が生まれてくるかで、女の子達が話題にしているとのこと。
 つい。隼人は頬が緩んでしまう。

「あはは。どっちだろう。大佐嬢に似てくれると、鎌倉の兄さんそっくりの男前でいいんじゃないかな」
「ですよねー! 奥さんに似たら、あの貴公子みたいな横須賀の元音楽隊長さんに似るはずだって。そうとも話していたんです。でも、澤村中佐に似たらキリリと賢そうな日本男児で頭良さそう……とも言っているんですよ!」

 駄目だ、頬が緩んでしまう。御園に似てくれたらとも思っていたつもりなのに……。いざ、『パパに似たら』なんて言われると、生まれていなくても親馬鹿になってしまいそうで。

 そんな女の子達の間でも楽しい話題にしてくれているようで、隼人も気をよくして彼女と別れた。

「くそー。俺を褒め殺しにする気かよー」

 キリリと賢そうな日本男児で、頭がよさそう! その言葉が何度もこだました。いつもならそんなことは『真に受けるな』と自分の中で嬉しくても、なかったことのようにして流せたはずなのに。
 生まれてくる子が、父親の自分にそっくりで『賢い工学男』なんてなってくれたら、そりゃ、もう! 子供の頃に何を読ませてやろうかと、愛読書を頭の中でセレクトしているという、やっぱり既に親馬鹿みたいだった。だが、それも幸せ。

 

 小さな事務室、工学科科長室に辿り着く。
 本当に小さな部署に来てしまった。
「おはよう。毎日、早いね」
「おはようございます。マクティアン大佐」
 アタッシュケースを手にした通称『工学科の老先生』がやってきた。今の隼人の上司だ。しかし時期に定年がやってきて、同時に任期終了、祖国のアメリカに帰る予定。

「奥さんはどうだい。そろそろ予定日だろ」

 科長席にアタッシュケースを置きながら、先生が毎日欠かさず隼人に聞くことだった。

「あと十日ですね。今度の週末に家族が小笠原に集まるんです。彼女の願い通り、家族に囲まれて自宅出産。自分が生まれた時のように……」
「あの感情なんてないという顔をして、どこも見えていないように何事も期待していなかった、あのお嬢がね。そんな願いを言えるようになった願えるようになったなんて。安心したよ」
「有り難うございます。先生。私も自宅出産と言われた時はどうしようかと思いましたが……。同じく、そんな家族との幸せだった遠い日を思って、しかも願っていたことを知れて良かったです」
「うん、いいことだね。しかしだねえ。そう上手く予定日に、皆が集まれるかな?」
「そこなんですよね〜」

 大佐が案じていることは、隼人も案じていた。離島故、離れて暮らしている家族も予定日の少し前に集まることしかできなかった。
 なにかあったら、義兄の純一がすぐに所有しているセスナを飛ばして家族と一緒にやってくる……という打ち合わせまで済んではいるのだが――。

(まあ、その時はその時だ)

 すくなくとも、右京とジャンヌがいる。葉月も間に合わなくても、右京兄様がいるだけで……と覚悟も決めていた。

 さて、仕事だ。予定日間近で落ち着かないが、来たばかりの工学科に早く馴染まなくてはならない。
 それでも毎日毎日、どこに行っても隼人を見ると『もうすぐパパだね』、『奥さん、大丈夫かな』、『男の子、女の子、どっちが生まれるの』、『名前は決めた?』とか必ず聞かれる。
 そして隼人は、仕事が始まって暫く――。科長席すぐ目の前にある、自分のデスクの上の内線電話を見た。
 そろそろ?
 案の定、内線がなった。しかも直ぐ傍で工学書を読んでいたマクティアン大佐が笑った。
 だがこれも、実は良くあることで――。隼人は内線を取った。

『澤村か、嬢はどんなだね』
「おはようございます、細川中将。ええ、大丈夫ですよ。今朝も元気で」
『傍に両親がいなくて困ったことがあったら、必ず私に言うように。何もしなかったら、あとであのゴルフ馬鹿に何を言われるかわからんからな!』

 『はあ』と、隼人は密かに苦笑い。
 あの細川からも、二日か三日に一度は『どうだ』と連絡がある。
 内線を切ると、周りにいる工学科の同僚達がニヤニヤしているのだ。『あの鬼中将がね』と――。それを見ると、隼人も笑ってしまう。

「あの細川君がね。すっかりお祖父ちゃん気分じゃないか。知り合いの娘とはいえ、やはり甲板で彼女と共に生きてきたから娘のように思っているんだろうね」

 マクティアン大佐の言葉に、そこにいた男達が皆、揃って笑った。
 誰もが御園若夫妻の出産を、そうして見守ってくれている。基地でも穏やかに包まれている日々。
 さて、今度こそ集中と思ったら、机の上に置いていた携帯電話が鳴った。
 内線ではなくて、隼人の携帯。何故か、誰もが隼人の携帯を見てハッとした顔。隼人もだった。しかもパネル表示は『右京兄さん』。
 もし隼人の携帯が鳴ったら、誰もがそんな予感を募らせている。そして、隼人も――。

 そっと携帯電話を手にすると……。

『隼人か。仕事が始まったばかりだろうが』
「どうかしましたか」

 ついさっき。あんなに笑顔だった葉月と別れたばかり。ヴァイオリンの音だって毎朝同じ、ちゃんと聞こえた。

『つい先程、ヴァイオリンを弾いている途中に破水したんだ。ジャンヌが来て診てくれたんだが、けっこう強い張りと痛みが来ているみたいで、陣痛が始まったとか言っている』

 まだ十日ある。でも、もう十日だったようだ。
 隼人の心臓がドクリと大きく動いた。家族勢揃い、間に合わなかったか――。

 

 

 

Update/2010.2.24
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