冬でも眩しい陽射しが降り注ぐ、御園家丘のマンションの朝。
香ばしい朝食の匂いが漂うリビングには、葉月お気に入りのティーカップに、二人が横浜のデパートで揃って選んだ白い朝食プレート。
そこには真っ赤なプチトマトと二人で半分このゆで卵と半月型のオレンジと――。
「私、貴方のフレンチトーストが食べたいのに」
「昨日の朝、食べただろ」
「今日は、レモンの皮をすって乗せてねって頼もうと思っていたのに」
「割とカロリーがあるから、あれを毎日は駄目だ。今日はフランスパン。バターよりもジャムがおすすめ。ちゃんと俺が作ったんだぞ。マルセイユのマリーから、砂糖少なめで美味しくできる作り方を教えてもらったんだからな」
「あー、はいはい。確かにこのマーマレードと苺ジャムは美味しいわよっ。でも、レモンのすった皮が乗っているフレンチトーストが食べたいの!」
ゆったりとテーブルに座っているのは妊婦の妻で、エプロンをして彼女の隣で小言を言っているのは夫の隼人。
また食べ物のことで文句を言う妻と、それを制する夫という図式で朝が始まる。
「あー、食べたい時に食べられないなんて……」
だったらお前が朝飯つくれよ、と言いたくなる隼人だが、そうすると本当に好きな物ばかり食べそうで恐ろしい。
「次回のフレンチトーストは、日曜日だ」
「え〜、あと何日よ。じゃあ、明日は作ってくれるとか言ってくれないの? もうっ」
「明日はライ麦パン……と考えていたが。それなら今日の帰りはキャンプのマーケットに行くから、そこで好きなパンを買って帰るか」
と言っておけば、機嫌も直るだろうし、葉月がなんのパンを選ぶかも監視できる。案の定――。
「キャンプのマーケットに行くの!」
案の定、葉月はすぐさま喜んだ。
「お前の実家の味の基本が、あっちのマーケットにも結構あるから。スパムにケーキミックスにピクルスにブラックオリーブの漬け物。あっち独特のやつな」意地でも『甘い物』に行くのかと、隼人は顔をしかめた。
「いただきまーす。アメリカキャンプのマーケット大好き。楽しみー」
急にご機嫌になって、薄味のコンソメスープも文句も言わず『美味しい、美味しい』と食べ始めたので、隼人ももう良しとした。
(はあ〜。確かに、なんで男の俺がここまで管理しているのかなー)
周りの男達にも最初こそ『サワムラらしい、よくやるな』と言ってくれていたが、最近では『そこまでやっているのか』と呆れている男も見られるように。
特に、一年だけ先輩パパの達也が。『女自身にやらせろよ。まったく、葉月も子供じゃないんだぞ。母親の自覚、そこから持たせろよ』と言われた。それは隼人だってそう思うのだが? なのに、葉月が紅茶を飲んでいるのを見ているだけで、ドキドキしてしようがない。それが原因で、また、……。あんな思いをもう一度するだなんて、嫌だ。そう思っているだけだと達也にも訴えたら、流石の彼も『……まあ、それは俺も嫌だからなあ。あいつの適当加減を思うと、俺もそこは心配だなあ』と納得してくれた。
「着替える時も慌てなくてもいいからな。スカートを穿く時に片足になって転ぶなよ。ちゃんとベッドに腰をかけて……」
は……っ、しまった。
俺、また言っているよ! と、隼人は口をつぐんだ。
「わかっているってば。それより貴方も朝ご飯一緒に食べてよ」
揃えた白いモーニングプレートを付き合わせ、新婚当初から向き合って朝食を取ってきた。だから目の前に隼人がいないと、葉月は随分と機嫌が悪い。
この小笠原に来た頃、恋人とのそんな付き合い方など感覚ゼロだった葉月。そんな彼女が結婚をして『一緒じゃないとイヤ』と拗ねてくれるようになったのは、ある意味嬉しい変化でもあった。
だが、隼人はキッチンでもう一仕事――。
「あと少しで弁当が出来るから、待っていろ」
菜箸を片手に、隼人は小さなランチボックスに本日の特製おかずを詰め込む。だがテーブルで食パンをかじっていた葉月の大きな溜め息があからさまに聞こえてきた。それどころか、業を煮やしたのか、葉月自身もキッチンにやってきた。
そして旦那が丁寧に詰めているランチボックスを覗く――。
「ねえ、本当にそんなに貴方が頑張らなくても……。私、ちゃんと食べ過ぎないようにするし、食べちゃいけないものだってちゃんと我慢するわよ。そんなに私が管理が出来ない母親だと思っているの?」
隼人は黙った。そんなことは思っていない。ただ、同じ事を繰り返すのが嫌なだけ。今度の今度こそ、絶対にお前のお腹に宿った命を、俺達の手で抱きしめるんだ。迎えてやるんだ。だけどお前のお腹の子達は……あっちに行きやすくて……。それが言えないから黙ってこうして。
「私だって、二度とあんなことにはなりたくないし。貴方があんなに傷ついたから、二度と貴方を悲しい思いをさせたくないって。ちゃんと思っているわよ」
心の中を読まれていた。流石、奥さん――。と言いたいが、隼人は黙々とランチボックスにおかずを詰め……。
「ちょっと、隼人さん。これは、なに?」
黙って菜箸でちょこちょこと詰めていた手を、葉月に握られ止められる。最後の仕上げのおかずを乗せて完成というところで。
「なんだよ。なにか不満か? お前、嫌いな物なんてないだろ」
「そーじゃないわよ! これよ、これ!」
最後のおかずをつまんでいる菜箸を持っている手を、葉月が上に掲げるように持っていく。そのおかずを葉月が眉間に皺を寄せながら、指さした。
「なんで貴方が『たこさんウインナー』なんて作っているのよ!」
葉月に握られ、上に持って行かれた隼人の菜箸の先には、隼人がこしらえた『たこさんウインナー』が、確かにある。
「あれ。定番だろ? この前、登貴子お母さんに聞いたんだよ。お前が小さい頃、どんなお弁当が好きだったのかって。そしたら『たこさんウインナー』とか『お花のにんじんグラッセ』とか教えてくれたからさ……」
「いつの間に! でもちょっとやめてよ。私のお弁当はテッドやテリーが見たりするんだから。ミラー中佐にデイブ中佐だって貴方のお弁当を見て、今こそ褒めているけど、これやりすぎでしょ。普通のでいいのにー」
え、そうなんだ。と、隼人が知らぬ妻の昼休みを知る。だが、なんとも思わない。
「それに、これは……? くまさん卵焼き! もうっ、私、子供じゃないんだから。しかも旦那さんがこれを作っているだなんて知られたら……」
「なにがおかしいんだよ。いいじゃないか、笑うヤツは笑わせておけば。それに俺、お前のために作った訳じゃないから」
真顔で言い返すと、葉月が『え。じゃあ、誰のために?』と訝しむ。
「子供のために決まっているじゃないか。どーせ、そのうちお前だけじゃなくて、俺も弁当を作るようになるんだから。練習しておきたいんだよ」
しらっと言い切ると、葉月が黙ってしまった。どうやら納得が出来たよう……だが?
「やっだ、隼人さんたら……! もう、やだ、おかしいっっ!!」
隼人の隣で、膨らんでいるお腹を抱えながら大笑い。
「貴方が凝り性だってよく知っていたつもりだったけど……! こんなに気の早いパパだったなんて……!!」
「もう、お前。支度の邪魔。あっちいけ!!」
いつまでもケラケラと笑っている葉月をテーブルに返し、食事の続きをさせた。だが、葉月はいつまで経ってもくすくすと笑いながら食べている。
「お前も出来るようにしておけよな!」
「いえ、絶対にパパには勝てない気がする……。パパのお弁当がいいって言われたら私、どーしよーかなー」
笑い事か。お前、母親としてちゃんとやれよっと言いたくなったが。確かにこれでは達也が言うとおり、父親としてやりすぎなのかも知れないなあ? なんて初めて思った。
「あー。笑いすぎたせいか、お腹の中で、ちびちゃんもクルクル動き始めちゃった」
ティーカップ片手にゆっくりとお腹を撫でている葉月を隼人も見た。
朝日の中でゆったり、柔らかに微笑んでいる妻のマタニティ姿はとても微笑ましい。
そうして沢山笑って、その声がちびっ子に聞こえていたらいいなと隼人も思う。
気の早いパパは、キャラ弁当の本を既に買ってしまったことを、暫くはママにも内緒にしておこうと思った。
あれからも。二人の生活はこうして笑いもあって気兼ねない会話もあって変わっていない。
『何故、自宅出産?』――隼人のその問いに、葉月は『その理由は、右京兄様がうちに来た時にね。その方が私から話すより、隼人さんはすごく理解してくれると思う』と言っただけ。その間、あれこれ心配しあって言い合いになるよりかは良いだろうと、隼人もそれまでは一切、詮索しないことにしていた。
右京は今、身重の従妹を心配し、定期的に小笠原にやってくる。それがもうすぐ。隼人は心待ちにしていた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
「自宅出産だと〜?」
妻の葉月とまったく同じ栗色の眉を吊り上げている男性が一人、隼人の目の前でしかめ面になっていた。
「そうなんですよ。右京さんからもなんとか言ってくださいよ」
クリスマスも終わり、年の瀬。鎌倉から右京とジャンヌの夫妻が丘のマンションを訪ねに来てくれた。
従兄の右京は今は無職。花屋でアルバイトをしたり、園芸学校に行く準備をしたりと、今は自分の思うまま『今から人生』とばかりに悠々自適に暮らしている。
だから、こうして月に二回ほど、従妹の様子を見に小笠原にやってくる。というのも、妻のジャンヌが今でも非常勤の産科医として軍と契約していて、月二回は小笠原に出張に来る。それも右京が小笠原にやってくる理由のひとつ。つまり妻の仕事にひっついてきてしまうのだ。その時に葉月の様子伺いにも来てくれる。そんな右京はいつだって、身重で今は自由に本島に行き来が出来ない従妹のために、いろいろな物をお土産に持ってきてくれていた。
「右京兄様、いろいろ有り難う。やっぱりお兄ちゃまが選んだマタニティのお洋服、すっごく素敵」
「だろ。お前も最近はお洒落に目覚めてきたのに、買い物に行けなくて不自由しているだろうと思ってな。ジャンヌも一緒に選んでくれたんだぞ」
『これ、着やすそうだし可愛い』、『そうね。これなら産後も着られるわよ。授乳もしやすそうだと思って選んできたのよ』。栗毛の従妹と、お姉さんになった金髪の義理従姉。女二人は男達の会話もそっちのけで、テレビの前にあるソファーでお土産のマタニティウェアを何枚も広げ、肩を並べて楽しそうに語らっている。
それを右京がとっても嬉しそうに見つめているのだ。
なんだか『お従兄さん』のそんな顔を見ると、隼人は声がかけられなくなる。御園姉妹の不遇を防げなかったのは二人を置き去りにして放っておいた長兄の俺だと、何年も自責の念に苦しんでいた人だから。華やかな貴公子生活と見せかけた放蕩御曹司ぶりで、女性関係も派手で地に足が着かない生き方。『俺だけ特定の女性と結婚したり、愛を誓い合ったり出来るものか』と自ら架していた人。そのお兄さんも、今は自分の心にある素直な気持ちで人生選択をし、妻を迎え、慎ましやかに暮らすようになっていた。
もう華やかな貴公子ぶりは影を潜めたシンプル生活だが、それでも右京の美的センスは廃れないし、生活の中にそれとなく織り込んで彼らしく生きているし、今だって隼人の目の前にいる右京はやっぱり華やかな雰囲気をなくさないお兄さんだった。
だが、隼人は腹を据え、雰囲気に流されまいと続ける。
「それでなくても、ちょっとのことでも注意したい体質なのに」
小声で言った。妻の葉月に『お前のお腹は流れやすいから、人一倍要注意』だなんて聞かれたくないからだった。それを一番気にしているのは葉月であって、そして彼女はそれを気にしないように、押し潰されそうな不安があるだろうに隼人の前では微塵も見せなかった。何故か? 二人の子供を流した時、隼人が暫くはとても立ち直れなかったから。それを葉月自身が気にしているから。
だから葉月が弱みを見せないなら、隼人も……なるべく葉月の体質には触れまい。なんとか『普通のマタニティ生活を送る夫妻』でいようと心がけていた。だから、『なんで自宅出産なんだよ。やめろ』だなんて突き返せなかった自分がいたのだ。
しかし今日。このお従兄様が来るので、隼人は助け船になってもらおうと待っていたのだが。
「ふうん、そっか。葉月はそんなことを言いだしたのか」
右京はもう、落ち着いていた。しかも、にこりと嬉しそうに微笑んで葉月を見つめていた。
「何故か、葉月から聞いたのか?」
「いいえ。それが……訳は右京お兄さんが来た時に話すと」
だから二人での言い合いも保留になっていたが、隼人は悶々とした数日を過ごしていた。
しかし、穏やかに微笑むだけの右京が、静かにティーカップをテーブルに置いた。
「それを願ったのは何故か――。それはだな、葉月自身が、あの鎌倉の家で生まれたからだよ。俺達、御園の子供、皆、あの鎌倉の家で生まれたんだ」
それを聞いて、隼人は驚かされた。
「じゃあ、右京兄さんも、留花さんも、薫さんも? 皐月姉さんも、葉月も?」
「ああ、そうだ。あの家、俺達の本拠地みたいなもんだろ。本来は亮介伯父と登貴子伯母さんが当主をしているはずだけど、当主ながらもフロリダに行ってしまったから、うちの親父『弟夫妻』が守っているけどな。親父達御園兄弟が少年期を過ごして巣立った家であって、祖母ちゃんの匂いも残っているし……。誰が当主とかじゃなくて、兄弟を中心に妻も子供達も皆家族だったからさ。俺の母親も、登貴子伯母さんも、出産はレイチェル祖母ちゃんが見守る中、産婆さんの手助けで生まれてきたんだ俺達」
あの日本邸宅で――。レイチェルお祖母様を中心に、出産に湧く御園家の面々。それがすうっと自然に隼人の脳裏に浮かんできた。とても自然に。
「俺は長兄だから、妹と従妹の出産もなんとなく子供心に覚えているんだが。一番記憶に残っているのは、やはり歳が離れた葉月の時の出産なんだよな」
「葉月の……。どのような感じだったんですか」
それはとても興味が湧く昔話だった。自分の妻が今現在、妊娠中。その奥さんが生まれる時、彼女が言いだしたのと同様に『自宅出産で誕生』だったなんて。
右京もとても懐かしそうに目を細め、楽しそうに語ってくれる。
「その時、小学校最後の夏休みで俺は六年生。なにが起こるかちゃんとわかっていたから、余計に落ち着かなくてさ。俺がこんなだもんな。十歳だった皐月も、妹の留花に薫も、そわそわしていた。その中には勿論、俺達御園の兄妹と毎日一緒にいた谷村の純一と真も」
「義兄さんに、真さんも……!」
「ああ。俺も皐月も、谷村の二人も、登貴子伯母さんがお腹が大きくなって、その中で動いていた葉月を毎日見て触って感じてきたから。妊娠して出産っていうプロセスの最終段階だろ。そりゃ、自分達がなにか仕事をするみたいに大騒ぎで。伯母さんの陣痛が始まったのは夕食が終わって暫くした夜だった。なのに俺も皐月も、谷村の家で待っている純と真に情報を伝えるために、あの竹林の小径を行ったり来たりして『まだ伯母さんが大きな声を出しているだけだ』とか『レイチェル祖母ちゃんが、まだ何時間もかかるって言っていた』とか情報伝達してさ。夏の蒸し暑い夜。俺達にはまるでお祭りで――」
それも隼人には目に浮かんだ。まだあどけなさを残している純一義兄に真義兄。そして右京。可愛らしい少女の鎌倉姉妹と、そして既に美しき人だったのか?皐月義姉。小学生の彼等が落ち着きなく、忙しい大人達の目を縫って、互いの家を行ったり来たり――。
気が付くと、いつの間にか。ソファーで賑やかだった葉月とジャンヌも静かになって、右京の話に耳を傾けていた。
「兄様、もっと話して」
葉月が急かすと、右京も笑顔で頷く。
「夜中に家の外に出て、竹林を行き来する子供達。それを見逃してくれていたのはレイチェル祖母ちゃん。夜中の夜中になっても、俺達は互いの家を行き来して情報を伝えあった。だけれど、そろそろって時に、祖母ちゃんが俺達が外に出て行くのをついに見つけて――」
右京の話で、鎌倉のあの家の庭からこっそりと出て行く右京や皐月を思い描いた隼人の中で、咎めるような顔で、あの綺麗なお祖母様が長兄である右京の首根っこを豪快に掴む絵図を浮かべてしまったのだが……。
「なんでもわかっていた顔で、祖母ちゃんは『純とマコを呼んできなさい。あと一時間で生まれるってね』――て、真夜中に隣の家へ駆けていく俺達の背を叩いてくれたんだ」
もう、隼人も感嘆のため息――。
妻が生まれる時に、そんな皆が興奮して待ちかまえていただなんて――。
「だからさ。みーんな集まっちゃったんだよな。そわそわしているのは、亮介伯父さんだけじゃなくて、うちの京介親父も。純一と真も来たけど、結局、医者だから少しは手伝えるって谷村のおじさんも、由子おばさんも手伝いに来てくれて。うちのおふくろも、レイチェル祖母ちゃんも、源介祖父ちゃんも。みーんな揃って待ちかまえていた。それでやっと生まれた葉月の産声。わあってなったよ」
葉月がどうして自宅出産と言いだしたのか。もう隼人には理解できた。
自分は見たことがない、そこに居合わせたことがない。でも沢山の家族に迎えてもらった幸せを、今度は自分も見てみたいし体験したいし、そして自分の子供にもその幸せを残してあげたい――。
そう思ったら、隼人も胸が熱くなってきたから不思議。御園の家の空気が、ふんわりと隼人を包んでいるようだった。
「生まれた葉月を囲んで、俺等子供達で怖々と抱っこしたんだ。一番最初が姉の皐月、次は俺、そして純一。あの純一がさ、葉月を初めて抱いた時のあの顔。俺、忘れないなー。あいつ、いつも強ばった顔しているのに、葉月を抱いた時だけ真と一緒にニコニコしていたからな」
「あの義兄さんが!」
その時から、あの兄貴の愛は始まっていたのか――と、隼人に少しばかりの衝撃? そして葉月はその時から自然に、いつの間にか大きなお兄さんを追う日々を過ごすようになったんだと。
「真一の時も同じ顔していたけどな。だから俺達、葉月が産まれてきた瞬間を知っているんだ。そんな末っ子だから、ついつい皆で妹にしちゃってさ。それでこの話を、よく葉月に話したよ。葉月だけはその瞬間を知らない赤ん坊だったわけだから、悔しさもあったみたいで、その反動だったのか『お兄ちゃま、あの話をして、あの話をして』と、ある時まで良くねだられたもんだよ」
それで、葉月は――。
隼人はソファーで黙って聞いていた葉月を見た。目が合うと『私もそうしてお腹の子を迎えたいの』と言いたそうに微笑みかけてくる。
「あの、その時。亮介お義父さんは、葉月を取り上げたんですか」
葉月の願いは、もしかしてその影響かと思ったのだが。
「うん。取り上げたっていうか。出てきそうなところを産婆さんと一緒に受けたってかんじかな」
「そうだったんですか……」
「今では産院で産むのが一般的になってきたが、俺達の鎌倉のあの辺りの集落では自宅出産はまだ当たり前だったからな。それに、やっぱりその家で産まれると愛着が湧くもんだよ」
ダイニングテーブルで向き合っている男二人の間に、ジャンヌが入ってきた。
「隼人君。もし自宅出産をしたいなら。私が手伝うわよ」
そうだ。この義姉になったジャンヌは産科医。このお姉さんが側にいれば……。
「俺も、手伝う。――なんて言うのかな。何処かに行ってしまいそうで心配だった葉月が子供を産んで母親になる。それって一種の幸せの形が成されることでもあるだろ。俺もそれを見届けられたら、俺の中のあの日が軽くなる気もするんだ」
応えられる言葉が見つからず、隼人は何も言えず黙るしかできなかったが、右京のその気持ちを知っていた。
一番、苦しんでいた従妹が、いつパイロットとして空中消滅してもおかしくない日々を、危うく見守っていた従兄。だが従妹を脅かす『幽霊』との決着はつき、そしてやっと穏やかに出産を迎えようとしている。それを見届けられたら……『俺も進めるんじゃないか』。葉月の妊娠を知って、そう言っていた。
「私も同じよ。私の罪と過去、貴方達に話したでしょう。今まで、どんなに沢山の赤ちゃんを取り上げても取り上げても重くなるばかりの私の罪――」
ジャンヌ姉の過去を、隼人と葉月は、二人が『夫妻になる』と報告してくれた時に聞かせてもらって知っていた。だから、ここでも隼人は何も言えず……。
「罪は消えないことはわかっている。軽くしようだなんてことも思っていないわ。でも……。過去で苦しんでいた大佐嬢を見守って、貴方達家族と共に幽霊との決着に立ち会えたこと。それ以上に、そんな葉月さんの出産に携われて、診察をして、見守って。最後に取り上げる。過去を戦い抜いてきた葉月さんとお腹の子を、ここまで産科医として見守って共にその日を迎える。産まれる子を私の手で無事に取り上げることで、ほんの少し……自分で自分を許せるかも知れないって気持ちなの」
だから『私達も立ち会いたい』。ジャンヌの言葉に、隼人は何も言えなかった。
それとも葉月は……。この従兄夫妻の気持ちを知って『じゃあ、皆で迎えられるようにすればいい』と考えついて、父親になる隼人に持ちかけたのだろうか。そんな気もしてきた。
「葉月が産休に入って、このマンションで一人で過ごす。でも隼人も仕事で外に出て行ってますます心配になってくるだろう。だったら俺とジャンヌが、このマンションで空き部屋に入っても良いし、お前達が良ければあのスタジオに臨月になったら住み込んでもいいよな」
「いいわね。貴方と小笠原でちょっぴりハネムーン気分で夫婦生活の傍ら、従妹夫妻のお手伝いっていいわね」
隼人が答を出す前に、もう鎌倉の従兄夫妻は『その気』だった。
「お前達の邪魔にならない程度に、サポートするからさ。その方が登貴子伯母さんも安心してくれると思うな」
いや、もう。『そんなことまでしなくていいです』とか言っても、駄目だろうなと、隼人は思った。
だが、そんな話を聞いてしまっては――。
すっかり彷彿としている隼人の隣の椅子に、葉月が座った。
「新しい家が建っていたら、そこで産みたかったんだけど。ここも私達が結婚するまでに過ごしてきた場所だから……」
そして葉月は『ジャンヌ姉様がいなければ、自宅出産をしたいだなんて思っても諦めていた』と付け加えた。
そんな葉月の、既に熱気に包まれているようにほんのり紅い頬。そこに隼人は触れてみる。そこだけ熱い……。
「わかった。家族で迎えよう」
隼人の決意に、葉月だけじゃなく、右京も、そしていつもは妻と同じように覚めた横顔で楚々としているジャンヌまでもが、輝く笑顔で湧いた。
「楽しみだわ。早速、計画を立てなくちゃね、右京」
「ああ。一度、小笠原での日常生活をしてみたかったんだ」
目の前で、ジャンヌと右京が憚らずにキスをしたので、隼人も葉月も揃ってびっくり二人で固まってしまった。
「……なんか負けそうね、私達」
「二人きりの時はすごそうだな」
もしかして。従兄さん達、俺達以上に楽しんでません?
だけれど。そうして自分の子が皆が待ちかまえる中、迎えられる。葉月のように……。それを思い描く隼人も、それは良いことだなと、すっかりその気になってしまっていた。
―◆・◆・◆・◆・◆―
では、横須賀と鎌倉の家にも『自宅出産の意向』を伝える。
そう言って、右京とジャンヌは小笠原を後にし、本島に帰っていった。
「わあ、ママのお節料理のお重、ひさしぶり」
ジャンヌがことづかり、持ってきてくれた物だった。
隼人も覗いた。懐かしい古き良き惣菜が美しく詰められているお重を。
「結婚して初めてのお正月だったのにな。今年は小笠原で二人きりか」
なるべく移動しない生活を。そう決めた新婚夫妻は、この年末年始の本島帰省は諦めていた。
「いいじゃない。これから『二人きりのお正月』なんてなくなるわよ。隼人さん、京介叔父様の年賀会を知らないでしょ」
「な、なんだよ。それ……。まさか、叔父様のお点前でお茶会があるとか」
「大正解。川崎の従姉様二人と子供達と、姉様達の旦那様である音楽隊のお兄様達も集まるから、来年からは『お年玉』も用意しないとね」
「まさに一族ってかんじだ……」
「そのうちに、当主家の婿殿だからって、あれこれ進行や幹事や挨拶とかやらされるわよ。まあ、右京兄様も『俺、長兄』って黙っていないと思うけど、今の右京兄様だと貴方に譲ってお尻を叩くうるさい裏方になりそうね」
聞いただけで隼人は『げっそり』。婿になると、やっぱそうなるのかよ――と。
「そっか。だったら今年はお前とゆっくり島のお正月にするか」
「新婚で初めてのお正月だもの。二人でゆっくりしましょうよ。でも三日も過ぎたら、本島の家族が代わる代わる訪ねてくると思うけどね」
「うんうん。それも覚悟している。そうだ。真一のお年玉ってまだあげても良いよな」
「まだ未成年の学生だからいいと私は思っているけど。でも来年以降のことは義兄様と相談して、いつやめるか決めたらいいわよ」
葉月はお重の中身を見渡して、『もう今夜食べる』とか言いだした。
「でもいいな。家族での正月ってかんじだ。こんなお節、帰国して初めてだ」
「そういえば、そうね。私達、なかなか帰省が出来なかったし。色々あったし……」
いろいろ……。その中に、昨年の正月は身動きが出来ず、生死を彷徨っていたことを思いだしているんだろうと、隼人も察することが出来た。
案の定、葉月は母親がこしらえたお節の重箱を見下ろして、急に神妙な顔で黙り込んでしまう。
「こんなこと、ずっとなかった。私達。本当にこんなふうに、家族で迎えられるだなんて」
近頃、流石の葉月も妊娠して感情的になってしまうせいか、もう彼女の茶色の目には大粒の涙が浮かんでいた。
それがぽつりと、漆塗りの蓋の上に落ちていく。
「葉月」
堪らずに、隼人は重箱を見て涙する葉月を抱き寄せた。
「私みたいに、いつ死んでも良いとか、いい加減な生き方をしてきた人間でも、母親になれるのかしら。本当にいい加減に生きてきたのに……」
不意に湧き出てきた、葉月の不安を耳にして、隼人も驚く。
しかし、彼女がそれを気にしないはずはなかった。隼人の前で明るく振る舞って、落ち込んでいる気分をお腹の子に伝わったらいけないと、明るく振る舞っていたのを知っていた。
「だから。そんなママだから、教えてやらなくちゃいけないだろ。ママは頑張ってきたって俺は教える。いい加減に生きてしまう時なんて、俺にもあったよ。そういう人間は他にもいっぱいいるんだよ」
――お前だけじゃないよ。
急に泣き始めた妻を、隼人は強く抱きしめた。膨らんでいるお腹の子と一緒に。
抱きしめている間、隼人に触れていた葉月のお腹から、ぽんぽんとちびっ子がキックしたのが伝わってきた。
Update/2010.1.14