あのじゃじゃ馬奥さんが、ママになろうとしています。
もうお腹も膨らんできて、もうすぐ六ヶ月を迎えるんですけどね……。
赤や緑、金色に彩られた会場は、沢山の隊員にその家族が集まり、熱気に包まれ賑やかだった。
「Merry Christmas!」
コリンズ中佐夫妻の乾杯で、アメリカ隊員もマルセイユから来ている隊員達も、そして日本隊員も、取り混ぜ皆がグラスを一斉に上に掲げる。
「はあ〜。いいわね、皆、美味しそうに飲んじゃって」
金色の泡が揺れているグラスを口に付けた隼人を、隣から睨んでいるのは奥さんの葉月。彼女の手には、レモネードのグラス。
「我慢しろよ。お前、お腹の子に今からシャンパンの味を覚えさせるつもりか」
「わかっていますっ。紅茶も飲むな、菓子も食べるな、シャンパンも呑むな、でしょ」
つんとそっぽを向かれてしまう。仕方がないなと、隼人は溜め息をこぼした。
今日は、コリンズ中佐夫妻主催の『アメリカキャンプ・クリスマスパーティー』だった。キャンプ内の食堂を借りて、そこでアメリカ隊員妻達が揃えた料理で、皆で騒ぐ。御園若夫妻も勿論、招待をもらい、二人揃って喜んで訪れた。なのに、時々奥さんは不機嫌になる。
まあ、今に始まったことでもない。妊娠してから、いつもはあんまり感情的にならない葉月も、近頃はちょっと無い物ねだりを隼人に呟いたり、愚痴っぽくなったり、たまに拗ねたり。そういう小さなことだけれど、無関心無感情だった彼女がこんなになるなんて……と言うことが目に付くようになった。
「んー、そうだな。俺も悪かったな」
すんなりと、奥さんのどうしようもない不満を受けたのが意外だったのか、そっぽを向く葉月の視線がこちらに戻ってきた。
「悪かった。俺だけ身体のリスクがないからって、シャンパンを呑んだのは不公平だったな」
持っていたグラスを、隼人は手放した。そして側にある空のグラスに、自由に飲めるように置いてある紙パックのオレンジジュースを注いだ。
「メリークリスマス。お嬢さん」
「もうお嬢さんじゃないってば」
やっと、良く知っているウサギの顔で、葉月が頬を染める。
『でも有り難う、貴方』と、やっと二人揃ってグラスをカチリと鳴らした。
「メリークリスマス、葉月! まあ、本当にお腹が目立ってきたわね」
乾杯が終わるなり、そんなマタニティ姿の葉月へと一目散にやってきたのはコリンズ夫人のサラ。互いに付き合いが長く、仲も良い為、葉月は直ぐに笑顔になった。
「そうなの。だんだんと動きづらくなってきて……」
「今何ヶ月になったの」
「もうすぐ、六ヶ月」
「もう性別はわかったの?」
そんな質問をされて、葉月はまた頬を染め、とても照れくさそうだった。どこかに隠れたいほど照れてしまうのか、そんな助けを求めるかのようにして、隼人の目を何度も見るではないか。
「えっと、まだなんです。次の診察でわかるかもしれないところかな」
ついに、隼人が答える始末。あんなに冷たい顔をして男達を束ねている大佐嬢ではなかった。
サラも同様に、葉月の滅多にない反応を理解したのか、ちょっとニンマリとした笑みを隼人に向けてきた。
「もう〜。毎度の如く、隼人が守りまくっているみたいね〜。聞いたわよー。お手製の愛夫ランチボックスを葉月に持たせて、カフェテリアの食事はさせないって」
「いや、そりゃ栄養士がついてしっかりした食べ物だってわかっていますよ。ですけどね〜」
「あーら。じゃあ、今日、私達奥さん軍団が作ったものも、隼人は葉月には駄目って言いそうね〜」
「いいませんよ。今日は無礼講……」
と、言った途端、『本当に!』と葉月の顔が輝いてしまった。
「ちょっと隼人、あなた、葉月を相当束縛しているわね。いくら健康に気遣う妊婦でも、あんまりストレス溜めさせないことよ」
「そうなのよ、サラ。先輩ママとして、もっと言ってやって」
女二人が急にタックを組み始め、隼人はこれは敵わんとばかりに、ここから逃げ出したくなる。
「あー、もうわかった。では先輩ママさんに今日の食事は任せます」
葉月を預かることができたサラは嬉しそうに『任せて』と言い、葉月も葉月で日頃の忙しさで滅多に会えない為にそのままサラに連れられ、アメリカ奥様達の輪に行ってしまった。
膝丈のふんわりとした黒いマタニティワンピース姿の葉月を、アメリカ妻達が出迎える。葉月の膨らんだお腹を見て、皆が口々に祝福しているのが見て取れた。葉月も頬を染め、やんわり微笑みを浮かべ、照れている。それは哀しい日々を乗り越えてきた妻を知っている夫として、とても嬉しい光景だった。
それでも隼人は落ち着かない。そりゃ、自分でも『過保護』だって自覚している。だけれど目を離している間に、もし。二年前のように、また悲しい別れがあったら……。
それだけなのだ。隼人が怖れているのは。それにあのじゃじゃ馬。葉月自身もこの上なく『ちびちゃん』がいるお腹には敏感になって大事にしているのに、時々、いつもの突発的な思い切りで思わぬ行動をすることがある。何度も痛い目に悲しい思いをしてきたはずなのに。
そう思って隼人はため息をつく。『仕事だな。手を抜かないからな』。産休なんか待たずに、もう家でのんびりしていて欲しいぐらいだ。だが隼人もどうしようもないのはそこで『俺が仕事に行っている間、家でなにかあったら……』と思うと、結局は同じ大佐室の目の前で仕事してくれている方が、目につくので安心でもあるのだ。
奥さん達の輪から、『きゃー、いいわね!』なんて。女同士のお喋りが益々盛り上がっていく。その中心にいるのは妻達の姉御であるサラで、そして大佐嬢の葉月だった。
しかもよく見ると、普段は滅多に交流がない大佐嬢と会話を楽しんでいる妻達が気をよくしたのか、葉月が持っている皿の上に、それぞれで沢山のご馳走をとりわけ乗せていく。『あーまた、そんなに。食べ過ぎだ、食べ過ぎ!』。いつも気持ちが良いぐらいに平らげる葉月だが、お腹が大きくなって、つわりも終わると、今まで以上にものを食べたがる。見張っていないと『こいつ、どんだけ食べるんだよ』と夫の隼人以上に大食らいになる。
ああ、やっぱり隣に付き添っていれば良かったかなあ。いや、サラが言うとおり過度の心配も良くない。奥さん達に囲まれている大佐嬢を眺め、隼人はそんな葛藤と戦っていた。
「今日は、女房達に逆らわない方がいいぞ〜」
気が付くと、デイブが隣にいた。彼がさりげなく、隼人が手放したシャンパングラスを差し出してくれていた。
「いや、俺は。あいつが呑めないのに俺だけ」
「なに言っているんだ。お前もストレス溜めるなよ」
隼人が持つまで、デイブは何度もグラスを押しつけてくる。
「まあな。俺もサラが妊娠中にビールをがぶ飲みしていたら、怒られたもんだよ。だけれど、今日はいいだろ」
こちらは旦那同士の分かち合い?
隼人はついに先輩パパの手から、グラスを受け取っていた。
こちらは男同士で、ひっそりと乾杯。
「任期やら当直やらで帰国が出来ない奴らの集まり。特にこういうイベントは旦那についてきている女房達が楽しみにしているからな。女を主役にしなくてはいけない。男は黙っているべし」
「肝に銘じます。先輩パパ」
これからは、デイブにも父親として話し合うことも出てきそうだなと、隼人もそっと笑った。
「いたいた。サワムラ、来ていたんだな」
デイブと並んでいると、ミラーがやってきた。
「あ、お疲れ様。ミラー中佐もご家族と?」 葉月と小笠原で共に空部隊を作り上げていく志を誓い合ったミラー中佐。その為、彼も一年前に、別れてしまった妻と息子と復縁し、小笠原で新たなる家族生活をスタートさせていた。
だからだろうか。職務中は、葉月同様に冷たく固い雰囲気で近寄りがたい男の顔をしているが、今日の彼はとてもにこやか。
「うちの奥さんは、もう大佐嬢とサラの輪にいるよ。息子はあっち」
ミラーが指さす方向では、既に奥様達の輪に溶け込んでいる妻と、食べまくって騒ぎまくっている子供達が集まっている輪があった。
その子供達の輪を見て、隼人は目を見張った。
「す、すごいですね。俺……子供の集まりってまだ慣れていなくて」
「そうなんだよ〜。俺も息子とは暫く離れて暮らしていたから、近頃、子供の凄まじさって言うのかな? あれに圧倒される毎日、一年だったな〜」
彼女彼等は、食べ物を我先にと掴み合い、嬉しくてたまらない声を張り上げ、楽しげに喋って笑っている。そのテーブルの凄まじいこと。食べ物も飾りも、彼等の喜びいっぱいで溢れてしまった感情に掻き乱されていた。
「あはは〜。毎年、こうなるんだよなー。特にラストのプレゼント抽選会が子供達の楽しみで。あ、大人もあるんだけどな」
すっかり馴染みのデイブは見慣れているのか、大笑いするだけ。
ミラーも隼人も初めて来たものだから、驚嘆するばかり。
「やっぱりコリンズ中佐は、パパとしてもベテランなんですね」
「本当だ。俺も復縁してブランクがあるからなー。見習わせて頂きます」
「やめろよ。お前ら。そんなんいつの間にかそうなっているもんなんだよ。だけどな、ブライアンはもう慣れてきたと思うが、これから父親になるサワムラは覚悟しておけよー。あれ、今日だけだと思うな。家では毎日だからな!」
えー、そうなんですかー! と、隼人がおののくと、デイブとミラーが揃って『そうだ、冗談じゃないぞ』と口を揃えて笑った。
「なーんか、楽しそうだな〜! 俺も仲間に入れてくれよー」
今度、男の小さな輪を見つけて寄ってきたのは、ジョイだった。
「ダメダメ。独身はあっちにいけ。俺達は今、父親としての苦悩を分かち合っている所なんだ」
デイブが顎をなぞり、得意げな顔でジョイをからかった。
「意地悪だなー。俺、小笠原でのクリスマスは今年が最後だから、帰国しないで残っていたのになー。冷たいなー」
その通りで。この秋、御園大佐室では大きな変化があった。ジョイ=フランク中佐と澤村中佐が揃って春に『転属』することが認められたのだ。
春になると、隼人は工学科へ移動し、御園大佐嬢の側近を退く。さらにジョイも。今度のさらなる精進を願い、フロリダ本部基地へ帰国する。
「でも、ジョイも来年は結婚するんだろ」
ミラーの問いに、いつもは底抜けに明るくなんでもいなすジョイの顔が固まってしまった。
「やだなあ。ミラー中佐ほどの先輩が。噂話なんか信じちゃって」
「あれ? 噂だったのか? 大佐嬢はすっかりその気で、『フロリダにいたころから姉弟みたいに一緒にいたから、ジョイも幸せになれそうで嬉しい』と言っていたし。あれが嘘だとは思えないんだけどな」
「あ〜。俺のお姉ちゃんは、ちょっと早とちりだからねー」
だがミラーも、気が付いて呆れた顔をしている。そして隼人も。それを見て、ジョイの気持ちを良く知っているので、ついニンマリとしてしまう。あのジョイなりの照れ方なのだ、これは。
「そっか。ジョイも小笠原とお別れか。お前がいなくなるとリサにジュリも寂しがるなあ〜」
「なにしんみりしているんですかっ、コリンズ中佐。中佐が賑やかにしてくれないと。フロリダに来たら、絶対に俺を訪ねてくださいよね!」
結局、皆とは離れることは惜しくて、それでこうして輪の中に入ってきたんだなと。隼人は部署が変わるだけだからまだいいのだが、帰国とは言え基地が変わるのだからジョイも感慨深いだろうなと隼人も見守っていた。
やがて男達の輪も、デイブを真ん中に徐々に膨らんできた。
ロベルトもやってきたし、帰国したばかりの岸本吾郎も中に入ってきた。それぞれの部署の輪ができたりくっついたり。やはり隼人はデイブがいる『空部隊』の輪で甲板や開発機の話で盛り上がる。
こんな熱気の中、同僚達と和気藹々と騒ぐことも、結婚してから増えた気がした。
あまりにも男同士の仕事話で熱が入ったので、あるところで隼人はハッとした。
こんなこと珍しい。身重の奥さんのことをすっかり忘れていたのだ。
まだまだ新婚で、お互いのことばかり目で追っているせいか、いつも奥さんの心配ばかりしていたが。なのに。
しかも驚いたことに、いつの間にか奥様達の賑やかな輪から姿を消しているのだ。任せたはずのサラは、夫同様に姉御さんとして中心で盛り上げている姿のまま。
隼人は慌てて、辺りを見渡した。
「隼人兄、こっち」
聞こえてきたのは、ジョイの声。食堂の窓際から聞こえた。そちらを見ると、窓辺に並べられていた椅子に、葉月とジョイが並んで座っていた。しかも葉月は、見るからに気怠そうだった。隼人も驚いて、駆けつける。
「葉月、大丈夫か」
うん。と、頷いてくれたが、葉月はハンカチで口元を押さえ俯いてしまう。
「きっと人の熱気にやられちゃったんだよ。久しぶりで、お嬢もちょっと興奮しちゃったかな」
弟分のジョイに背を撫でてもらって、葉月もちょっとはホッとしたよう。やっと笑顔になった。
「気持ちと身体がバラバラなの。身体が気持ちについていかなくって……もどかしい」
やっと出た言葉に、隼人はジョイと顔を見合わせる。
「でも、お嬢。無理しないで帰ったほうがいいと思うな。誰も咎めないよ。身重で参加してくれただけでも、皆、嬉しかったはずだから」
だが、隼人が見る限り。葉月はそんな弟の諫めに納得していない顔だった。気持ちは『もっと、皆といたい』なのだろう。
無理もない。先月、甲板での挙式をしたばかり。その時、基地中の隊員が参加してくれ、この上ない祝福をしてくれたのだ。その後の、ロイの館で開いてくれた披露宴も盛大だった。きっと葉月は、披露宴では騒ぎの中でなかなかできなかったお礼を、『今日は一人一人に伝えるのにいい機会』と思ったのだろう。しかしそれがまだ、満足ができるまで終わっていないらしい。
しかし、隼人も腹を据えて言う。
「葉月、帰ろう。またお前に哀しいことが起きたら、今度は『心配をかけてごめんなさい』と謝って回らなくてはいけなくなるんだぞ」
「そうだよ。お嬢。あれから一年。あの時、俺達がどんな気持ちで小笠原で待っていたかよく考えて」
夫と弟分の諭しに、やっと葉月がこっくりと頷いてくれた。
「そうね。何事もないように過ごしていれば、いつだって基地で会えるんだし」
気張った顔から、近頃やっと見せてくれるになった穏やかな笑顔になったので、隼人もジョイも揃って胸をなで下ろした。
―◆・◆・◆・◆・◆―
デイブにだけ事情をそっと告げ、パーティーの雰囲気を壊さないよう、夫妻は静かに会場を後にした。
青い芝生の敷地の中、家庭持ちの隊員達が家族と寄宿している白い小さな家が建ち並ぶ道。食堂は賑やかだったが、外に出るとキャンプの街並みはとても静かだった。
「ごめんなさい。隼人さんもせっかく楽しそうにお話ししていたのに」
「それはお前もだろ。せっかくサラに会えたんだから。それより大丈夫か」
しかし、葉月はもう、爽やかな顔をしていた。外の空気を吸って、元気になったようだ。
「あ、動いたわ」
お腹の『ちびちゃん』が動いたらしく、葉月がさっとお腹を撫で笑顔になる。
「きっとまた、パパの声が聞こえたからなんだわ」
「またまた。偶然だろ」
胎動が始まってから、葉月はよくそう言う。最初の頃こそ、隼人も嬉しくて嬉しくて、つい頬が緩んでいたのだが。近頃は『本当にそうなんだろうか』と嬉しいながらも、ちょっと照れも手伝って毎度の天の邪鬼。
「ぜったいそうよ。私には、わかるもの」
それって、母親だけが『ちびっ子』と繋がっているからなのだろうか。そうありたいと思って葉月が言っているのか、それとも、本当にそう感じているのか。夫で父親だから、同じように体感してみたいが、無理は話であり。そして気持ちを寄せることができても、完璧な共感ができないのが『もどかしい』。
「母親だけの不思議か。なんだかなあ、俺だけ仲間はずれかよ」
「えー、どうして。ほら、パパも触ってよ。『ちびちゃん』って呼んでみてよ。絶対に『ここ』って返事してくれるから」
葉月がお腹を突き出して、隼人に迫ってくる。いや、ここ外だし。いくら俺でもなあー、人前ではなー? ただでさえ基地で『過保護旦那パパ』とか言われちゃっているのになー。なんて、思いながらも。見渡せば、皆がパーティに出払っているせいか、いつもは子供達が遊んでいる芝の街はとても静かだった。
「もうわかった、わかった。『ちびっ子、元気かー』。今はママとお散歩中。ママは沢山食べられなくて、とっても不機嫌」
「なにそれ。変なことを子供に吹き込まないでよっ。生まれてからもよ。お嬢さんとか、子供の前で言わないでよ」
「……という、元気なママなので。早く生まれて、パパの味方になって下さい」
もう冗談だから、適当に奥さんをからかいながら、膨らんでいるお腹を撫でた。
「お! 動いた!」
「でしょう! だから言っているじゃない。あーあ、この様子だと、生まれたら本当にパパの味方になるかもしれないわね」
そして、ママが呟いた。
「絶対に男の子」
本当に母親って不思議だなと、後につくづく思うことになる。
―◆・◆・◆・◆・◆―
奥さんの赤い愛車で、丘のマンションへと帰る。
運転は隼人が、葉月は助手席で大人しくしていた。そして後部座席には『ヴァイオリン』。
「今日は出番がなかったな」
「うん。でも皆、お喋りで楽しそうだったから、もともと出番はなかったかも」
『大佐嬢とヴァイオリン』という組み合わせが、だいぶ定着したせいか、なにかあると最後に誰かが必ず『大佐嬢のヴァイオリンを聞きたい』と言いだすようになった。
日頃は冷めた顔でパイロット達を見守っている大佐嬢が、その時はとてもしおらしく優雅に音を奏でるものだから、そんな女性らしい穏やかな大佐嬢を見たいという者も少なくはない。
今日だって、主催のデイブが『ヴァイオリンを忘れるなよ』と望んでくれたのだ。大佐嬢がいるなら、締めくくりはヴァイオリン。もうお決まりだった。
「この車だけでは、もう駄目だな。赤ん坊がゆったりと乗れるもっと大きめの車を買わないと」
「そうね。この車はね、家族向けではないわね」
助手席にいるが、葉月は隼人が握っているハンドルを、ちょっと遠い目で見ている。
「別に。乗り換えしようといっているわけじゃないんだぞ。これはお前の愛車でずっと乗っていればいいだろう。今度は俺名義の車を買おう」
「いいの? 邪魔じゃない?」
「どうして。こいつは、俺なんかより、ずっとお前のことを知っているし、お前に付き合ってくれたんだろう」
心の隙間が埋まらなくて、いつだって悶々としていた妻の若い日々。その時、彼女の荒れる心を乗せて、夜中も付き合ってくれていたのはこの赤い車だった。
それがあまりにも、危ない憂さ晴らしのお伴だったとしても。この車が間違いなく、葉月の相棒だったに違いない。そんな愛着があって当然。
「それに赤い車に乗って出勤してくる大佐嬢も、既に名物だからな。これが動かなくなるまで、お前が面倒見てやれよ」
そう言うと、葉月はとても嬉しそうな笑顔に輝く。そして隼人が運転をしているにもかかわらず、その夫の腕にそっと頬を寄せて『ありがとう、貴方!』と甘えてくれる。だから、つい、隼人も頬が……。
一年前には考えられない明るい日々を過ごしている。
そう思うと、隼人の緩んだ頬も引き締まってしまう。
この柔らかで暖かな毎日が、いつまでも続いてくれるのだろうかと。またなにかが俺達の今をかき消そうとしないかと。
だってそうだろう? 去年の今頃。葉月は、血を流して……。
そう思うと、今が嘘のようだった。
隣で葉月が鼻歌を歌っている。先程、アメリカファミリーが、パーティーの最初に揃って歌っていた賛美歌だった。
楽しそうで、清らかなハミングはきっとお腹の子に届いていると、隼人もやっと心が軽やかになってきた。
南の島に雪は訪れない。毎年、珊瑚礁のメリークリスマス。今日も空は真っ青で、アクアマリンの海はどこまでも煌めいている。そんな中、妻のハミング。あの葉月が、明るい音を自分の中から奏でている。
海岸沿いを走っている内に、隼人はふと思うことがあり、とある渚で赤い車を停めた。
「気分はどうだ」
「もう大丈夫」
「せっかくだから、少しだけ海を眺めていこうか」
「いいわね」
赤い車から降りた隼人は、妻がいる助手席に向かう。ドアを開け、身重の妻の手を取った。彼女がバランスを崩して転ばないよう、そっと手を引いて。
丸いお腹を守るようにして、車から降りてくる葉月。渚に向かうなり、ふんわりとした潮風に栗毛が舞う。それをそっと手で押さえる仕草。そして、海と空に向かった途端に、まるで綺麗な光を吸い込んで生き返るかのように、葉月の茶色い瞳がきらりと輝く。
それを、やっぱり隼人は未だに惚けて見とれる。風と光と、そして潮の匂い、海や空の青。栗毛とガラス玉の瞳。本当に、隼人をここまで連れ去ってきた『風の女』。
愛していた。どうしようもなく。だからこうして見とれている。いまだって。
結婚したから最上の幸せであるかもしれないが、隼人にとっては、あの夏に出会ったままのときめきを忘れさせない彼女を、今も追いかけて。こんなに胸を熱くして。
その『風の女』の中に、俺の……。
妻となった彼女のお腹が、日に日に膨らんでいくのを見ると『俺が吹き込んだから』という実感も湧くようになって……。
「せっかくだから。私から貴方へ」
渚の匂いを存分に堪能したのか、急に葉月はそう言い、後部座席にあるヴァイオリンケースを取り出した。
「俺に?」
「そうよ。貴方に、私からプレゼント」
赤い車のボンネットにケースを置いて、葉月はヴァイオリンとボウを取り出す。
海と空に向かう妻を傍に、たった一人の観客として招かれた夫の隼人もボンネットに腰をかけて眺める。
潮風に流れる栗毛。その肩に堂々とヴァイオリンを乗せ、妻が空に向けてボウを構える。
――ボウ。
試し弾きの後、葉月がボウを軽やかに動かし始める。海猫や波の音に混じって、そのメロディーが潮風に乗ってあちこちに広がっていった。
『Happy Xmas、War Is Over』―― ジョンレノンとオノ・ヨーコのクリスマスソングだった。
「ハッピーメリークリスマス。戦争は終わった……か」
ぽつりと呟いたが、葉月は微笑みを湛え、海と空に向かって力強く隼人の為に引き続けてくれる。
――『戦争は終わった、クリスマス』。
確かにな、と。感慨深い想いが、隼人の胸に押し寄せてきた。
去年の今頃。葉月は生死を彷徨っていた。結婚もしていなかった。なのに一年後の今は。
俺の為に、綺麗な姿でヴァイオリンを弾いてくれる妻がいて。その妻のお腹が可愛らしく膨らんでいる。
彼女の戦争は終わったのだろう。だから、それを選んだのか。隼人はそう思ってしまった。
弾き終わった葉月に、隼人は拍手を送った。
「俺って、贅沢。大佐嬢のヴァイオリンを聞きたいってヤツがいっぱいいるのに」
「夫の特権よ」
本当だな〜と、本当に彼女を俺の奥さんにできたんだなあとか、未だに信じられない時があるぐらいだった。
「うん、しみじみと思うことができる選曲で、嬉しかった」
隼人の所感は合っていたようで、葉月もちょっと気後れした顔でボンネットにあるケースにヴァイオリンを置いた。
「気が付いてくれたの」
「ああ。戦争は終わった……だろ」
赤い車のボンネット。渚の潮風に包まれ、二人は見つめ合った。
「そう。今年のクリスマスは一緒よ」
「ちびちゃんもな」
どちらともなく、夫は妻の肩を抱き寄せ、妻は夫の肩に寄り添ってくる。ボンネットに腰をかけ、寄り添いながら見つめてばかり。そんな二人がこれ以上に紡ぐことはできるのは、唇を重ね合うことだった。
彼女とここで暮らすようになってから、必ず側にあるものが、今日はここに。
青い空に蒼い海に、潮風に潮騒。いつまでも寄り添って口づけを繰り返す二人をからかうように鳴いている海猫。
唇がやっと離れ、彼女の頬を包み込みながらも、まだ隼人は彼女のガラス玉の瞳を見つめていた。それが好きだから。
「ねえ、貴方。相談があるの」
「なんだ」
爽やかな青色に包まれ、隼人もとても安らいでいる時だった。妻の頬を撫で、目を見て、いつもの香りをさせている栗毛がなびくのを、気が済むまで見つめていたい。そんな気分の中、妻が言った。
「わたしね……」
うっとりしながら、『うん』と、それとなく相槌を打つと。
「自宅出産をしたいの」
彼女を愛でていた手が、ぴくりと止まった。
『はあ?』自宅出産!? 何故、そんなだいそれたことを……!
そんな隼人の叫びが出る前に、葉月がさらに告げる。
「それで……。パパが取り上げてくれると嬉しいんだけど」
ちょっと待て。奥さん。なんで、そっちに行くのかな?
Update/2009.12.24