朝方は、日が昇るまでは幾分か涼しい……。
満ちていた潮が引いて行き、渚の白浜に美しい曲線の跡を残していた。
『ふぁ……』
夜が明けきり、太陽の日差しが燦々と輝き始めた早朝に、ジュールは、『起床』。
(寝付いたのが朝方だったモンなぁ……)
それでも、『ボスのお客様』が来ているから『気楽な寝坊』は出来ない。
『悲しい部下魂』というのか? 何なのか? 目が覚めてしまった。
ところが、いつものメインリビングに入ると、既に純一の姿があった。
『お早うございます。先日の件ですが──ああ、ハイ、ハイ……』
相変わらず『仕事一筋』、抜かりのない兄貴がもう、商談の段取りで仕事を……。
この『マメさ』と『一途さ』があって、この兄貴は若くして上手く軌道に乗りはじめていたのだ。
そこは今のジュールには『真似』は出来ないし、感心するところ……。
だから、兄貴には勝てない。従うだけ。
「お? ボンジュール。ジュール──『お目覚め』か?」
純一は時々こうして、ジュールを『王子様』の様にして接することがある。
「だから、そういう扱いは、止めて下さいよ!」
ジュールがムキになると、彼はすぐに『クスクス』と笑って、いつも楽しそうだ。
「冗談だ。俺は今、手が放せないから、義妹に『ミルクティー』を運んでくれないか?」
「ミルクティーですね? って──! 俺が持っていっていいのですか?」
「放って置くわけにもいかないだろう? アイツは目覚めが最高に良すぎるんだよ。とっくに起きているから、何かしてやらんと」
『俺は忙しい』とばかりに、純一はすぐにまた、電話の受話器を耳にあててしまった。
「おおっと、ジュール。ミルクティーでも、『ロイヤル』で頼んだぞ!」
「もう……。仕方ないですね〜」
確かに兄貴は忙しそうで、ジュールも『商事』には手が出せないし、まだ『代理』が出来る身分ではなかった。
それに昨夜、純一が側にいないだけで、子供のようにむずがっていた彼女を放っておくのも『可哀想』と言うところ。
それでも、なんだか彼女には向き合いづらい気がして、渋々ながらキッチンに移動する。
『ロイヤルか。懐かしいな……』
ジュールは昔、『レイチェル』が良く入れてくれた最高のミルクティーを思い出した。
彼女にその『入れ方』を教わったが……。
『ふふ、ジュール。まだまだね』
そんな彼女の声が耳に蘇って、ジュールはそっと眼差しを伏せた。
そうか……『ミルクティー党』なのだ、彼女は……。
やはり彼女は『レイチェルの孫娘』という証拠なのだろうか。
そう思いつくと、急にジュールの腕が鳴る……!
もう、二度と彼女に作ることはないと思っていた『ミルクティー』を、代わりに飲んでくれる『彼女の化身』が突然に現れたのだ!
ジュールは急に気合いを込め、冷蔵庫を開けて、牛乳瓶を手に取る。
メインリビングからは、まだ、兄貴の流暢な英語の取引をする声が響いていた。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
『失礼いたします』
ジュールは、『ロイヤルコペンハーゲン』のカップに入れたミルクティーを、金色のトレイに乗せて持っていく。
純一の寝室に緊張した面もちで入室すると、潮風と渚のさざ波の音がする水色の景色の中、彼女がソファーでくつろいでいる後ろ姿が目に入った。
彼女は、ジュールが入室しても振り向かず、反応もせず……。
入り込んでくる朝の潮風に栗毛を揺らして、ジッと窓辺の景色を見つめているようだ。
ジュールは、固い面もちでガラステーブルに歩み寄る。
彼女の肩越しから、うつろな瞳が徐々に見えてくる。
葉月は、ただ白い頬に栗毛を揺らし……。兄貴が選んだのだろうか? 白い肌の上には、白いコットンのガウンを着ていた。
ヘチマカラーの襟や袖のはしには、愛らしい水色の小花が刺繍してある清楚なガウン。
その様な服を用意するとは、兄貴にとってもまだ、葉月は『リトルレディ』といった扱いであるのがジュールには解った。
兄貴の『好み』は、もっと『シックでセクシー』だ。
それでも、その女性に合う物を選ぶところが、押しつけがましくない兄貴の『女扱い』。
そこは、ジュールも『毎度』唸ってしまうところだ。
兄貴の側から香ってくる『女性の匂い』の中で、葉月のような『幼いお嬢様』は初めてだ。
その葉月は、ジュールがガラステーブルに跪いて、そっと目の前にコペンハーゲンのカップを静かに置いても反応しやしなかった。
ジュールもやはり、かける言葉が見つからなくて……。しばらくジッと動きを止めたが、彼女がそっとして置いて欲しい……という雰囲気だったので、立ち去ろうとした。
「純兄様は? 起きて直ぐ忙しそうに出ていったきり……」
彼女がやっと日本語で呟いた。
ジュールは硬直し、まるでウェイターの様にトレイを礼儀正しく脇に挟んで直立不動。
やっぱり……すぐに言葉が出てこなかった。
「私の事……嫌になっちゃったのかな?」
葉月が拗ねたように、でも、しおらしくうつむいた。
その顔は、昨日、ジュールの第一印象であった『侮れない少年』という面影は、一つもうかがえない。
「An……えっと……お兄様は今、取引先と商談の為の連絡をしておりまして……」
「あ。そうなの? お仕事中なんだ」
やっと、それらしく僅かな微笑みを浮かべて安心したようだった。
「あなたが入れてくれたの?」
葉月がやっと、ジュールが渾身込めて入れた『ロイヤルミルクティー』に視線を向ける。
「ウィ……」
「!? あなた……フランス人なの?」
ジュールは、『ハ!』として口元を思わず塞いでしまった。
葉月の横顔に見とれていて……つい……『一応』になるが、母国語にて返事をしてしまったのだ。
「……」
またしても、返答が出来ず、言葉が出てこないジュール。
フランス人であってそうでないから、『その通りですよ』とは答えられなかったのだ。
『哀しい性』──自分の血は、半分はフランス人だが、半分は消えた祖国の血。
『フランス人』と言えばそれで良いのだろうが、ジュール自身『消えた祖国』を、どうしても消せない『誇り』をまだ持っている証拠だった。
そんなジュールの『動揺』は、幼い彼女にはまだ解らないようで……。
「私もね? 今、学校で習っているの」
昨夜、カクテルを差し出した時と変わらない『無邪気な笑顔』をジュールに向けてくれる。
「昨夜のカクテル、ご馳走様。とっても美味しかったから、きっと、この紅茶をいれる腕前も素晴らしいのでしょうね?」
そう言い、しなやかな白い指でカップの柄に通した葉月の仕草……。
初めて、『レイチェル』と重なった!
伸びた指先に『品』があった。
指先から、香りが立つような感覚を感じた。
16歳に成り立ての『少女』から、初めて『高貴』な匂いをジュールは感じ取ったのだ。
その上、カップをそっと上品にソーサーに戻した葉月は、その味に満足したかどうかは判らないが、長いガウンの中でそっと足を組み、膝の上で頬杖をつき、またジッと渚を見つめ始めたのだ。
その眼差しに『表情』
唇にほんのり浮かべた『微笑』
先ほどは、感じられなかったのだが、ジュールはまたまた『はっ!』とした!
『女の顔だ……!』
そう──彼女は昨夜、男に愛されて満足を得た『女性』と同じ顔をしたのだ。
その顔の方がジュールには『衝撃的』だった!
あんなに子供のようにむずがって、言葉もまだあどけないのに……。
彼女の『大人への変化』を見てしまった様な気になってしまった!
『兄貴にそんなに……良くしてもらったのか!?』と……言葉を失った。
清楚で清らかに見えた葉月から、初めて『性的な匂い』が今、放たれたのだ。
それが『汚らわしい』とかではなく、ジュールの中では『甘い香り』として胸を貫いた。
だが、それはやはり、なにか『見てはいけないもの』を見てしまったと言うショックも含まれている気がした。
「待たせたな。葉月」
新しいワイシャツにカフスボタンを付けながら、純一が、やっと戻ってきた。
葉月も、ようやく安心したようにして義理兄に微笑みかける。
「彼が、お茶入れてくれたの」
「そうか? こいつは何でも器用だぞ? 上手く入れているだろ?」
「うん! こんな紅茶入れる人……家族以外で初めて!」
その一言に……ジュールはワケもなく『感動』をしていた。
『レイチェル』の代わりに、いや、『レイチェルの家族』と関わり、彼女の家族により近い存在として生きてきた。
それを『レイチェル』の家族に認めてもらえた……そう、感じたのだ。
(もしかして、兄貴は……それで!?)
ジュールは、純一がワザとジュールに紅茶を入れるように差し向けたと、やっと、解ったのだ!
その通りなのか、純一は何故かにっこり……ジュールを見つめていた。
御園の一家にお世話になっていた。
『レイチェル』に救ってもらったジュールの『人生』。
彼女を『母親代わり』と慕っていたけど、『本当の家族』ではなかった『虚しさ』。
レイチェルという女性は『御園の物』。
ジュールの手には入らない『美しく優しいママン』だった。
時には、葉月達『孫娘』や同じ孫である『右京』に『嫉妬心』を抱いたこともあった。
だが、それを葉月や右京に差し向けるのは『お門違い』。
だから、その気持ちは殺してきた。
だけれども、その『呪縛』を、純一がいとも簡単、さり気なく解いてしまった。
レイチェルに似た『孫娘』の言葉で……。
しかし、純一が与えてくれた感動を味わっていたのも束の間──。
純一が、そっと微笑みをこぼして、葉月の横に腰をかけた。
そして──ジュールの目の前にもかかわらず、薄着のままである彼女の肩を抱いて胸元に引き寄せる。
さらに、彼女の耳に口づけながら、純一は呟いた。
「葉月。こいつは俺の弟みたいな『部下』だ。新しい兄貴が増えたと思って、これからも、遣いに来たときは大人しく応じてくれ」
耳に口付けられた途端に、葉月はジュールの手前か、頬を染めて身体を強ばらせていたようだった。
『やめてよ……人の前で』
恥ずかしそうに小さな声で純一に『抵抗』していたのだが、純一はなんら動じる事なく、そんな様子を改めやしなかった。
その彼女の耳元に唇を寄せたままの純一が、冷めた目つきでジュールに囁く。
「悪いな……今日の仕事を始めておいてくれ。俺はもう暫く義妹と話がある」
先ほどまで、いつになく柔らかに微笑んでいた兄貴が、冷たい上司となってジュールを部屋から出るように促す。
ジュールの感動も束の間……。
また『邪魔者扱い』。
いや、きっと兄貴には見抜かれた。
『気に入っても構わないが、今は俺の手の中、手を出すな』──葉月は自分以外の男には『触らせない』。
『家族』としての、深い関わりは認めても『男』としては譲らない、任せない。
そんな『視線』であるのがジュールには判り、ジュールもすぐにいつもの冷たい顔に整え、気持ちをおちつかせた。
『ウィ、ムッシュ』
最後の抵抗、『自分らしい欠片』の言葉遣いを残して部屋を後にした。
キッチンに戻るなり、ジュールはテーブルに金色のトレイを乱暴に叩き付けた。
『なんだよ! むかつく!!』
そう──近づきたい『御園』の一員に紹介されて浮かれたところを、ジュールは一歩前で兄貴に差し止められたのだ。
葉月の身体に触りたいとか、そんな『不純な気持ち』は今は湧かない。
そうじゃなくて……。
ジュールも、『兄貴のように優しく』、あのいたいけな少女に優しくしたい気持ちが湧いただけ。
『兄』になって、彼女をいたわりたくなっただけ……。
すこし、仲良く明るく話せる『妹』になればどんなに楽しいだろうか?
でも、不純な気持ちはなくとも、兄貴はそこまでは今のジュールには許してくれなかったのだ。
自分自身でそれに気が付いて、ジュールはダイニングテーブルの椅子に力無く腰を落とす。
額を両手で覆って、うなだれた。
『こんな寂しい気持ち……久しぶりだ』
葉月がやってきた『八月の一夜』。
ジュールが『凍てついた心』を自分自身で育てるようになってから、初めての『揺さぶり』だった……。
この日も、熱い太陽の日差しが燦々と、キッチンに入り込んできた。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
「ジュール……義妹を送ってくる」
メインリビングは『オフィス』として使っていた。
ジュールはそこで、パソコンにて『経理整理』を黙々とこなしていたところ。
「そうですか。お気をつけて」
急に淡泊になったジュールを分かってか、純一がため息をつきながらリビングに入ってきた。
「見送らないのか?」
「私など、いてもいなくても同じでしょ?」
ジュールも仕事らしくスーツには着替えていた。
もしかすると、『送ってくれ』と言われるかも知れないと……。
それは『お迎え』をやらされたから、そう思っただけで、『葉月と一緒に外に出たい』と言うわけではなかった。
「そうか……。では、少しばかり、義妹と外で観光でもして、源介爺さんと待ち合わせているところで返してくる。爺さんに伝えたいことあるか? 言っておいてやるぞ?」
「……お孫様を大切に可愛がってやってください。と、伝えて下さい」
「それ聞いたら……爺さん、今度はお前を心配するぞ?」
「では、可愛いお嬢様で驚きました。ボスと一緒に見守ります……と。あ、そうだ。『ママンを久振りに思い出せて嬉しかった』と……」
そう言うと、やっと納得したようにして、純一は、また柔らかく微笑んでくれた。
「わかった。そう言っておく。本当に良いのか? 葉月がお前に礼を言いたいと、さっきから……」
「……」
ジュールは、最後に葉月の顔を見収めておきたかったので、迷ったが──。
手元にあったメモ用紙を一枚破って走り書きを……。
それを純一に渡した。
「これだけでいいのか?」
純一は、二つに折り畳まれたメモ用紙を読もうとはせずに、片手であげてジュールに問いただしてくる。
「はい。読んでも構いませんよ? やましいことは書いてはおりませんから」
無表情に返事をすると、純一は『そうか。では、行ってくる』と、そっと微笑んで部屋を出ていった。
『制服、忘れるなよ?』
『うん! ちゃんと持ったわよ。お祖父ちゃまは、いつ、何処に来てくれるの?』
『昼過ぎだ。それまでは、俺と散歩だ』
『どこいくの♪』
兄貴とお出かけで上機嫌の彼女の声が、ジュールの耳にも伝わってきた。
その声は、徐々に遠のいて庭へと。
ジュールはリビングの窓辺の影からそっと、二人の様子を眺める……。
『お兄ちゃま。お祖父ちゃまとランチ一緒に食べよう!』
『ダメだな。源じいとお前と一緒にいると目立つ。黒髪の日本人同士の男の中に栗毛のオチビが一人……妙な光景だ』
『どうしてー? おかしくないわよ! いいじゃない!』
『我が儘を言うな。その代わり、今から一緒に美味いモーニングを海辺で……』
『本当に!?』
兄貴が用意したのだろうか?
昨夜の紺色のシックなワンピースとはまったく違った、軽そうな生地で出来た明るい水色のノースリーブワンピースを着せられて、楽しそうに黒いスーツ姿の兄貴の腕にしがみついていた。
素足には、可愛いリボンが付いた白いサンダル。
その愛らしい格好の方が、今の葉月にはしっくりしている。
少なくとも、ジュールには、そう思えた。
兄貴が選んでくれた洋服を着て、はつらつとしている葉月は兄貴の腕に甘えながら、ベンツの助手席に姿を消した。
──オ・ルヴォワール……マドモアゼル──
ジュールはそっと微笑みながら、フランス語で葉月に別れを告げる。
純一と葉月……。
どんな『蜜愛』をこの一夜交わしたかは解らないが……。
二人の後ろ姿は、どう見ても今は『兄妹』にしかみえない。
そんな複雑そうで妙な間柄がこの日始まったことを、ジュールは見届けた一人になったのだ。
ジュールの心に何かが舞い降りた──『八月の長い夜』が終わった。
日は高く昇り、ジュールはそっとネクタイを首からほどいた。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
『はぁ……』
ワイシャツのボタンを胸まで開け放しているジュールは、煙草をくわえながらカフェオレで一服。
暑い『キーウェスト』の昼下がり、砕けた格好でパソコン画面に食らいつき、一人で集中的に仕事を……。
「帰ったぞ」
時間は14時。
純一が帰ってきた。
「お嬢様は? じい様に返したのですか?」
「ああ……」
「怒られませんでした?」
「別に……。葉月もじい様と買い物がてら帰るとさ。今頃、祖父さんと孫娘二人で楽しみながら、昨夜はどこでどうしていたと、亮介オジキと登貴子おばさんに悟られないよう口裏合わせているだろうさ。今夜はあいつの誕生日パーティーを家族だけでやるそうだ。久振りに昔のように笑っていたせいか……源じいも嬉しそうだった」
「そうですか……それは良かった」
この『良かった』は、昨夜、純一と葉月の間に起きた事を、御園家の当主である源介に悟られていない……か、悟られていてもとりあえずは許されたのだ、と言う安心からだ。
本当の意味では、そして、ジュールの心の隅では、祖父である源介には咎めて欲しいと言う気持ちもあるが……。
口出しが出来ない立場ではあるが、源介はそれなりに純一を孫娘の『お相手』にとは考えているのでは? とも、思えたので、ジュールはそれ以上はやめる。
ジュールは、リビングのソファーに疲れたように座り込んだ純一を見て、キッチンにて『ミネラルウォーター』でも持ってきてあげようと立ち上がる。
「ジュール」
メインリビングを出ようとしたところ、純一に呼び止められた。
「なんでしょうか?」
入り口のドアから振り返ると、兄貴はジャケットのポケットをごそごそと探り出した。
そして、ジュールがいる方には振り向かず、ソファーの背もたれから長い腕だけが何かを手にしてジュールに向けられた。
「?」
兄貴の手には、白い布の包み。
「葉月からだ。お前に渡してくれとことづかった」
「!」
憮然とした純一の声……。
でも──ジュールは驚いて息を止めた。
「な、なんですか? それ……」
「まぁ、見てみろよ」
彼が『憮然』としてるのは何故かもジュールは解った。
一緒に二人きりで出かけている最中に、義妹が他の男のためへの気遣いを見せたからだろう……。
しかし、せっかくの『葉月の好意』。
兄貴に気遣って、遠慮する気は湧かなかったから、ジュールは純一の手からそれを受け取った。
白いレエスのハンカチのような布包みが水色のリボンで絞られて結んであった。
そのリボンを解く──。
「!」
ジュールがリボンを解いて手の上に広がったレースのハンカチの中、その中に入っていた物にやや戸惑ってしまい茫然としていると、純一が少し呆れたように呟いた。
「義妹は、まだ子供で。甘い物が好きだから、高級菓子店に連れていった。そこで、ケーキとお茶を楽しませた後、ショーケースを眺めながら『お留守番の彼に持っていって』とか言って、それを買わされた」
「はぁ……。しかし、私は甘い物は……」
ジュールの手の中には『チョコレート』。
金や銀のアルミに包まれたバラ売りの物だと解った。
兄貴御用達の『キーウェスト』でも有名な菓子店の高級チョコレートだった。
「そこがまだ『子供』なんだよ。男が何をもらって喜ぶかなんて知らないのさ。チョコレートを選ぶなんてな……殿下にさ」
純一が、それがおかしいとばかりに『クスクス』と笑い出した。
ジュールも、何故だか笑い始めてしまった。
ジュールも一応、成人した大人の男だ。
子供が喜ぶチョコレートをくれる女性は初めてだった。
あの葉月が兄貴に甘えながら、無邪気に選んでくれたのかと思うと。優しい気持ちにしかなれない。
ジュールはそのレエスの包みを、そっと柔らかく手の平に包み込み、微笑んでいた。
「ボス。『殿下』は余計ですよ。私など……もう既に、陰に属する『黒猫』と言うだけの男」
今日は、怒る気になれなかったので笑って純一にそう言っていた。
そして純一も、そっと微笑んでうつむく。
「そう。俺も『黒猫』さ……」
そこで昨夜、『外の男に任すのが一番良い結果』と言いながら、それが出来ずに、ジュールに義妹の『淡い恋』の見届けを任されたことを思い出す。
「明日。調べに行きます」
「ああ。そうだったな。調書を後で。ああ、そうそう。葉月がお前のメモを見て首を傾げていたぞ? 『なんて書いてあるのか?』と、俺に聞くから読んでしまったが、意味は教えなかった」
「意地悪なお兄様ですね? 大した事など書いてはいなかったのに……」
「それでも、お前が言いたい事、『尊重』したつもりだったのだがなぁ? だから、葉月には家に帰ってから『辞書で調べろ』と言っておいた」
「そうですか」
ジュールはそんな『気遣い』には『機転が効く』純一にいつも感心し──『この人の、そんな気遣いは本当にすごいな』と、それで結局憎めなくて一緒にいるのだ。
「今、水を持ってきますよ」
「悪いな。いつも……」
「いいえ、部下の勤めです」
ジュールは微笑みながらメインリビングを出て、フェニックスの葉が窓辺から揺らいでいるキッチンへと向かう。
──次にお逢いするときは……フランス語でお話ししましょう。それまで、頑張って精進して下さいね? お元気で──
葉月が今習得中の『フランス語』でそう綴ったのだ。
兄貴はそれを勉強のために葉月に調べさせようとした。
『辞書、めくって意味は解けたかな?』
ジュールは、日が下がり始めたキッチンの窓辺を見上げ、手の中で溶けそうになっているチョコレートを一つ口に頬張る。
『ブランデーのお供にしよう』
溶けてしまいそうな甘い欠片は、また冷たく凍らせるために冷蔵庫にしまう……。
ジュールの心も同じ。
溶けそうになった甘やかな心を、日常と言ういつもの冷えた心に戻そうとした。