葉月が16歳の誕生日を、義理兄と過ごして数日後──。
ジュールは、またウェストサイドビーチ方面にあるマイアミ郊外の『連合軍海軍フロリダ訓練校』へと出かけた。
青い空の下、訓練校の校舎外壁を回り込むと海辺近くの草場の中に滑走路──飛行場がある。
そこは、民間道路との間は金網で仕切られており、そこから渚に向かって広い草場の敷地内。
道路に隔てられた金網横、道路の路肩にジュールは車を止めた。
ベンツは目立つので、この日はありふれた自家用車で来てみた。
クーラーをつけて、ジュールはスーツのポケットからさり気なく『オペラグラス』を取り出し、茶色のサングラスに垂直にあてる。
眺める先には、爽やかな潮風がそよぐ中に赤と紺のラインを引いた白い小型セスナ機。
そして、その機体横に、紺色の繋ぎ服を着た栗毛の生徒と、白い半袖に黒い肩章を付けている金髪の男。
『さぁ、ミゾノ。今日はこれくらいにしておこう』
『はい──教官』
そんな話し声が聞こえてきそうな『ムード』の師弟が見えた。
(あーあ、お嬢様ったら。兄貴の気も知らないで、あんなに笑っちゃって)
オペラグラスから見える栗毛の少年のような訓練生。
だけれども、爽やかな昼下がりの潮風の中──『葉月』は、兄貴にも見せていたような『笑顔』を浮かべているではないか?
その笑顔は兄貴の側……いや、あの夕べのように、許された『空間』でしか浮かべられない物なのではかなったのか!?
ジュールは急に、葉月の笑顔が外で振る舞われるのは『勿体ない』ような気になった。
(兄貴の側だから、やっと無邪気になれたのでは?)
だから──側にいるだけのジュールにも、やっと無邪気に微笑んでくれたと思いたかった。
『初対面の男ジュール』と遭遇した時のように、冷たい氷の少年のように、外ではそうあって欲しい。
(うーん。純一兄貴も、こんな感触で悩んでいるワケかな?)
なんとなく、兄貴に同情してしまう自分が出てきて驚いたり……。
それとも? あの『教官』が兄貴と同じぐらいに包容力があって、あの二人の周りの空気が、あの兄貴の寝室と同じぐらい『葉月にとっての安心感』を作っているのか?
だとしたら!? 『ジェフリー=トーマス』なる教官は……!
(なるほど? 兄貴が珍しく躊躇うわけだ)
ジュールが見たところ、まだ小さな少年のような葉月を見下ろす金髪の男は、その瞳で一心に『生徒』である葉月を優しく見下ろしていた。
教官の男が、そよ風の中で草場を歩く後ろを、葉月が大人しく付いて歩いている。
それを確かめてジュールはひとまず、オペラグラスを降ろして車を発進させた。
この二人が今からどうするか?
葉月が一人で家に帰るかどうか、正面門で『チェック』をするために移動だ。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・
その初日が何事もなく終了し、数日後──。
それが今、葉月とジェフリーが飛行場で『セスナ操縦訓練』をしていた先程の事。
正面門に移動したジュールは、煙草をくわえ、シートでリラックスした姿勢にて、ひたすら目線を門に貼り付けていると……。
その門から、葉月が元気良くマウンテンバイクで出てくる姿を『確認』!
ジュールは、素早く起きあがり、車のエンジンを急いでかけながらも、何故かホッとしていた。
距離を置く為に、葉月のマウンテンバイクがある程度、遠ざかってから車を発進。
葉月は当時は珍しく『現場訓練』の女性訓練生だったので、特別に寮でなく、自宅からの『通学』を認めてもらっていると、これも純一から聞かされた。
おそらく葉月よりも、彼女の両親が『男との生活』を許さなかった事がうかがえる。
姉と同じ『惨劇』に遭わないために、そうさせたのだろう。
ジュールは、そう考えながら、葉月が素直に自宅に戻るのを祈った。
だが? ジュールの予感は『的中』!?
葉月は自宅がある界隈を、サッと通り過ぎていこうとしている!?
(あああ……! お嬢様、そっちはご自宅じゃないでしょう!?)
だが、彼女は軽快なスピードでマウンテンバイクでグングンと遠ざかっていく。
(もしかして──)
なんだか、結構、距離があるのにグイグイと自転車をこいでいる葉月の後をつけると、ジュールが見覚えあるところに辿り着いてしまった!
ジュールは『あーあ』と、額に手を当て、車を『昨晩と同じ場所』に駐車。
そのジュールの『落胆』も束の間、葉月が自転車を止めたのを見計らったように、白い四輪駆動車が葉月の横に『停車』したのだ。
そう──葉月が来てしまったのは『ジェフリー宅』。
あの白いアパートだった!
(兄貴は知っていたのか!?)
ジュールは、兄貴が珍しく躊躇ったり、戸惑ったり……。
その上、思ってもいなかった行動──義妹に手を出したのは……。
(お嬢様が、男と二人きり……。部屋に入るという警戒心を解いていたのを見たとか!?)
そうとしか、思えなかった。
それを目にして『嫉妬』か『不安』か……?
そんな割り切れない気持ちを抱いたから、任せていた実弟の真が亡くなってからも、葉月の前には姿を出さなかったのに『16歳のバースディ』を名目にして、あの様に? 義妹を自分に手なずけようと? それで、あの日隠れ家に呼んだのだろうか??
ジュールの中で色々な憶測が飛び交っている内に、葉月はアパートの階段に、しっかりチェーンを巻いて自転車をくくりつけ、教官の彼は車から降り、二人揃って彼の部屋に、入ってしまったのだ!
(……まさかなぁ……出番はないと思ったのに)
ジュールは、車のラジオダイヤルをクルクル回しながら、胸ポケットからイヤホンのコードをだして耳に付ける。
これほど、自分の『プロ魂』を哀しく思ったことはない。
実は、ジュールは『考えたくはない、あって欲しくない』と思いながらも『万が一』を考え、彼の部屋の側に、昨夜、夜中去る前に『盗聴器』を仕込んでから帰宅したのだ。
そのイヤホンから流れてくる雑音を調節……。
この技もすべて純一から教えてもらった物だった。
──ザーザー……キュゥゥン……キーィー!──
雑音がクリアになるダイヤルポイントを探る。
そして、ついに!
『ハヅキ、そこに座っていな。喉が渇いただろう? お前、相変わらず自転車でも、息をつかせぬ前方まっしぐらの猛突進だな。全然、追いつかなかった』
そんな声が聞こえてきて、ジュールは『ピリ!』と気を引き締めて『集中』。
『喉は渇いていません。お構いなく。教官、それより……早く始めて下さい』
葉月の声が、ジュールが知っている色ない声、素っ気ない声であったのでホッとしたが。
『あはは……! ハヅキは本当に、息抜きもしないんだな』
少しも気を抜かない生徒に、教官が呆れた笑いをこぼしているのが分かる。
『……』
『まぁ……今、冷たいオレンジジュース持って行くから。それぐらいは待ってくれても良いだろう? ミゾノ隊員』
『サンキュー。教官』
『明日は──航空学の講義だったな?』
『はい』
『あの教官はベテランで、ペースが速いから予習は必要だしな』
『ですから。教官に予習を見てもらっているのじゃないですか』
『はいはい。そんな怖い顔をするなよ。美人が台無しだ』
『そんな言葉、私じゃなくて、まともな女性に言ってあげて下さい。いらっしゃるのでしょう? 大人だもの……教官は』
『他の女性に言え』──ここはいつもの冷たい声だったのに。
『いらっしゃるのでしょう?』──そこは探るような? 僅かながらに、しおらしい声にジュールには感じられた。
兄貴が言ったとおり、葉月が少なからずとも、この歳が離れた大人の男に『好感』を抱いていることを感じ取った。
そして、師弟の会話は続き、ジュールも集中する。
『見ていれば解るだろ? こんな汗くさいやもめ男、すぐに飽きるみたいでね? おっと……ハヅキには、大人すぎる話だったかな?』
ジェフリーがクスクス笑っても、葉月が反応する声は聞こえない。
そして『冗談はこれまで』と、案外と真面目にマンツーマンの『予習授業』が始まったのだ
(このまま、終われよ──)
ジュールは、聞き慣れない『空の専門用語』の会話を聞き流しながら祈った。
一時間半経った頃、個人授業が一段落した。
『今日はこの辺で良いだろう? 送ろうか? 夕暮れだが自転車で将軍宅に帰る頃は暗くなるから』
『いつも有り難うございます』
『自転車も積める車だから気にするな。お前に何かあったら俺の責任だからね』
『……』
いつもの会話のようだ。
ジュールが恐れていたような『男と女の危うさ』は一つも盗聴中はうかがえない。
(うーん。少なくとも、彼トーマスの感じでは、男として意識するところなど、何処にもないようだけど?)
確かに、まだあどけないままの葉月を、上手くリードしている年上の男としての余裕は見られど、あの黒猫兄貴が過敏に意識をしていた程には、教官男からは『男的な危険』は感じられなかった。
夜に訪ねてくる女もいない。
本当に訓練校と自宅の往復のみ。
彼が余暇で外出する様子もないが、いつも窓辺で分厚い書物を手にしているのは何度か目にした程度。
本当にただ『教える、導く』という教官の使命のみで、日々を過ごしているとしか、ジュールには見えなかった。
そんな『真面目な男』だ。
葉月に手を出さない。
まだ判断しかねるが、計算高い出世欲を露わにする様子もない。
葉月がその気になれば、この男でも……。
純一がその気になれば、この男でも……。
もしかすると、葉月にとっては新しい世界なのか?
彼は純一が心配するような『クロ』ではない。
けれど、純一が怖れるような『シロ』ではある。
どちらにしても、複雑な彼の心境がジュールにもヒシヒシと伝わった気がするのだ。
『ああ。言い忘れていた』
『はい?』
葉月が鞄にテキストを詰めているような音が暫くしたが、ジェフリーのその声で音の気配が消えた。
葉月が手元を止めたのだろう。
『実は九月の年度スタートから、シアトルの訓練校に転勤に……』
『え!?』
葉月のかなり驚いた声。
ジュールも『!!』と、驚いた。
それと同時に『なんだ! 離れてしまうなら、もう心配ないじゃないか? 調べて損した!』──と、腹立たしくなったほどだ。
『どうして!?』
だが、葉月の素になったような哀しそうな、その一声に、ジュールの胸が『キュ!』と引き締まった。
その声は、やはり教官を一心に頼っている彼女の否定したそうな声だったから。
『ハヅキも、九月からは、さらにランク高いクラスに入るだろうから。俺如き、若僧の教官は、もうどっちにしろ必要ない……。同じ事さ』
『……』
なぜか、葉月が言い返す声が聞こえない。
『大丈夫さ……。ミゾノは息も抜かずによく頑張るから、そこら辺の男子訓練生よりずっと前に進んでいけると確信しているから、安心して去ることが出来るよ』
『……』
『いつまでも、俺のような若教官の所に留まっていちゃいけない。もっと良い教官に叩き込んでもらわなくては……なぁ?』
『……』
まったく葉月の反応がジュールには伝わってこない。
いや──その『無言』が語っている。
葉月の『ショック具合』を……!
今のジュールには葉月の表情は確かめることが出来ない。
でも──それを、ジェフリーが伝えてくれるような言葉が聞こえてきた。
『なんだ、お前でもそんな可愛い顔するのか? もっと早く見せてくれたら良かったのに……』
(!?)
ジュールは思わず……息が止まる。
(どんな顔をしたのだろう!?)
ジェフリー教官が『可愛い』というのだから、葉月がそれなりに『素』になってしまったのだろう。
(このまま……なにもするなよ! お嬢様に手を出すなよ!?)
『もっと早く見せてくれたら良かったのに』──そういうからには、もっと早く見せていたら何をしたんだ!? と、ジュールは意気込んでいた。
盗聴だから、姿様子は会話の雰囲気でしか読みとれない。
だが、おかしな事をすれば、葉月は怯えて逃げるか暴れるか……? 万が一の時は、葉月がそうしてくれる事をジュールは願う。
さらに! もっと考えたくない万が一だが、兄貴がそうした時のように『すんなり受け入れ』たら……!?
(そうなるなよー!?)
ジュールはそう思いながら手に汗を握って、イヤホンに集中。
それから暫く、二人の会話が聞こえてこないから余計に……!
『……そうか……髪も触らせてくれないのか。仕方ないか?』
やっと、聞こえてきたその教官の言葉に、ジュールはまた冷や汗。
(お嬢様に触ろうとしたのか!?)
などと、いつの間にやら『兄貴みたい』になっているではないか!?
だが、ジェフリーのその言葉からすると、葉月の頭か頬でも撫でようとした所、葉月が拒否反応を起こしたとうかがえ、ジュールもホッと一息……。
『教官の事は信頼しています。でも……』
葉月の声がやっと聞こえる。
『はは。いや……いいよ、分かっているから。去年、お前を病院に運んだ後、お祖父さんであるミゾノ中将から聞かされた。ハヅキがどうして……アメリカに来たかもね?』
『……私も、祖父から聞きました。事情はそれとなくトーマス教官には告げたと。だけど、教官はそれを知っても今までと変わらなかったから……』
『いいんだ……。俺も考えたくなかった。そんな事、信じられなかったから』
『寂しくなります……』
『俺もね。お転婆に振り回されなくなって退屈するかも?』
彼の大人である余裕の笑い声。
『本当に──ハヅキは、よく喧嘩するし、負けん気は強いし。でも、俺は、よこしまな男も、いじけて力で向かってくる男も、バタバタと達者な口と武道で倒していくお前が羨ましかったな。男より男らしいなと!』
『人聞き悪いじゃないですか? ひどい!』
『あはは!!』
どうやら、それらしく『別れ』に対しての会話が終わろうとしているようだ。
それもジェフリー自ら、葉月に触れようとして気まずくなった所を上手く和やかな空気へと導いていた。
そのさり気ない気遣いも、余裕にも、ジュールは溜め息が出てきた。
『ハヅキ、言っていたよな? 日本に帰るんだと。早く帰りたいなら、やっぱり、俺といつまでも一緒ではダメだ。来年、無事にステップしたら……再来年は日本に帰れるだろ? 頑張れよ』
『教官──』
『その目標が今は一番大事なことなんだろう? 別に最後の別れじゃないだろうし、今度、会う時は仕事で隊員として会おうな。その時は『ハヅキ』はもう綺麗なレディになっているかもなぁ……楽しみだな! それまで、恋人は作らないでいようかな!』
また、ジェフリーが冗談交じりに軽快に笑い飛ばしたのだが、ジュールは『本気っぽいなぁ……』と、溜め息。
ジュールでさえ、葉月の将来に何かを期待してしまたのだから。
毎日、側にいたこの教官男も少なからず恋愛感情か、でなければささやかな異性感情を持ったのであろう? そう、思えてきた。
同じ男だから、余計に──。
『さぁ……帰ろう。ミセス=ドクターが、夕飯を作って首長くしているぞ、きっと……。いつだったか、ご馳走になった博士の日本食も、もう食べられないかと思うと寂しいな』
『母に言っておきます。転勤の前にもう一度ご馳走してあげて……と……』
『なんだか、ねだってしまったみたいだ』
『いいえ。お世話になった教官ですもの。母もきっとそうします』
そこで二人の会話が遠ざかり、ジュールの目の前、アパートの階段に白い半袖制服姿の師弟が外に出てきた。
二人はそのまま、葉月の自転車を車に積んで、去っていった。
ジュールはすぐには追いかけなかった。
その教官が『将軍宅』に上がり込んでいることには、ちょっと腹が立ったが、耳からイヤホンを引き抜いて、そっとため息をこぼした。
『100パーセント……シロだな』
これから離ればなれになるのだから、なおさらに葉月には『害』のない男と判ったが、何かが腑に落ちなかった。
そう──『ジェフリー=トーマス』と言う男が『良い男』だったからだ。
良い男だから……生徒としても、女性としても、訳ある過去を持ち合わせた『葉月という個人』としても、彼は彼女を『大切』にして、男としてむやみに突っ走らなかった。
きっと、こんな男が彼女の心を癒して解いてゆく……。
ずっと側にいたり、今後、仕事で再会しようものなら、今度は『同職務人』という『大人』としてどうなってもおかしくなだろうし、その極当たり前のあり得る展開を考えると、少しばかり勿体ない気にさせられる程の男だった。
でも、きっと、今はこれでいい……。
何とか、二人は離れる。
兄貴が恐れているのは『今』でなくて『将来』。
だから兄貴は、今回『先手打ち』をしたのだろう……。
『ボロは出ない』──今は……。
でも、近い将来、彼女の『害』でなくて、『正しき相手』として、上手く行く男かどうか? それを見極めると言うことだったらしい……。
では、葉月の将来の相手としても『ふさわしかった』と報告するか? それとも……!?
そのジュールの『判断』は……!?
──『大丈夫。兄貴だってこれからさ……。ただの男になんか、今だって負けていないさ』──
ジュールが認めている男はただ一人……。
御園の家族以外は、『純一』だけだ。
いつも反抗をしているのも、いつかは彼を追い越したいと言う『男心の憧れ』から来ているだけ。
純一より、上の男が現れるのはジュールにとってもまた『新しい壁』だ。
トーマスは確かに『白き佳き男』だったが、今の葉月と並べても、『今』よりか『将来性』の話だ。
それなら、純一にだって『将来性』があるのではないか?
彼がこれからずっと誰にも敵わぬ相手になれば良いのだ。
それに『何を今更』なのだ。
こんな事、思わず葉月に手を出してしまった純一の為に、尾行を請け負う事でもなかったではないか? と、ジュールは急に我に返ったぐらいだ。
『手を出したんだから、最後まで面倒を見ろ!!』と、言ってやるべきだったな……と。
それでも、一度、請け負った『仕事』だ。
ジュールは車を発進させ、念のため葉月が無事に送られるか確認の『追跡』。
その『追跡』も、さして意味は持たなかった。
葉月は無事に将軍宅に送られ、ジェフリーは葉月を母親に無事届けた。
登貴子のねぎらいの笑顔に見送られてジェフリーはサッと自宅に引き返していた。
そのまま、まっすぐアパートに帰った所も、もう既に『彼らしい』とすら、ジュールには思えたのだ。
そして、ジュールもそのまま『キーウェスト』の隠れ家にすぐに戻ることにした。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
「帰りましたよ」
ジュールが夜遅く隠れ家に帰ってみると、純一はメインリビングをいっぱいに、散らかしていた。
「どうしたのですか!? こんなに散らかして……!」
「ああ……。帰ってきたか。いや、色々な」
「色々って?」
すると純一はジュールに一束の書類を差し出した。
「お前の新しい仕事だ。任せる……好きなところを選べ」
「はぁ?」
帰宅してすぐに、葉月とその教官はどうだったかと聞かれると構えていたのに……。
兄貴はラフなティシャツとジーンズ姿でまったくお構いなし。
仕事場のありったけの書類を整理しているのだ。
ジュールは渡された書類を、とりあえず覗いてみた。
いや……書類と言うより『パンフレット』だろうか?
「!? ボス?? これは!?」
ジュールは、中身を確かめて驚いた。
それは、土地や貸家、建て売りなどの『物件』に関する書類。
しかも『フランス国内の物件』ばかりだった。
「なんだ。『反対』か? お前の故郷だろ……一応? 次の活動は『フランス』と決めた」
「え!? フロリダを出るのですか?」
「ああ。今の商談がまとまったら、どちらにせよアメリカを出るつもりだった。元々、俺達の『商事資本』はヨーロッパにまとめているからな。フランスもいずれは出るつもりだが、先ずはそこが出発点だ」
「それで……今、片づけを?」
「ああ。お前も部屋の荷物を、まとめておけよ?」
珍しいジーンズ姿で、書類を箱詰めにしている純一を、ジュールは暫く見つめていた。
「お嬢様、寂しがりますね。きっと……。ボス、『これからは、時々会ってやる』と言っていたのに」
「……まぁ、そのつもりだけどな。それに、葉月にはこの場所を知られた。何かしらの形で訪ねてこられたら困る」
「あの……今日の事なんですが……」
ジュールは『盗聴内容』を、一部始終、純一に報告する。
その間も、純一は顔色を変えるわけでもなく淡々と箱詰めを続けていた。
「そうか……ご苦労だったな」
『100パーセント シロ』──と、ジュールが最後に付け加えると、これまた、見た事ないような笑顔を純一が浮かべたではないか?
教官が『転勤』と知って、安堵したのだろうか? それとも……? 万が一、自分が彼女になにもしてやれなくなっても、任せられる相手がいるとの安堵か?
「悪かったな。俺の私的事でお前を動かして」
「真様に真一様、右京様に源介じい様……そして鎌倉のご両親。あなたの『私的事』なんていつもの事じゃないですか? それに葉月様が加わっただけ……」
『でも、彼女は特別』──純一の中では。
それをジュールはもう心得ていた。
だから、純一はいつも以上に『私的事』と言うのだろうと……。
「解ってはいたんだが『良い男』と……。でも……」
純一は一端、そこで手元を止め、言葉も止めしまったのだが、その続きは言おうとせずに、また黙々と手元を動かすだけ……。
手元を止めていた一瞬、彼の眼差しが遠く、そして切なそうに揺らめいた瞬間をジュールは見逃さなかった。
『でも……心配だったんだ。オチビが男にいいように従えられたら、たまらない』
ジュールは何も言わない兄貴に代わって、心で続きを呟いた。
きっと……そうなのだろうと……。
「私も手伝いますよ」
ジュールも、それ以上は追求はしない。
ジャケットを脱いで、テーブルに山積みとされた書類を手に取り、純一と一緒に箱詰めを始める。
そんなジュールを見て、純一はそっと微笑むだけだった。
「ジュール。今、詰めている最終商談、俺と一緒に行ってみないか?」
「え? 宜しいのですか!?」
純一はまだ、そんな『秘書的仕事』には、ジュールを連れていってはくれなかった。
いつも自宅で『経理担当』をさせられているお留守番だったから驚いた。
「俺達の本業は『諜報』──俺も商事ごとにばかり手をかけているわけには行かないからな。ジュールにも少しずつ……外で手分けして仕事をしてもらいたいからさ。次の活動地はお前の『地元』……フランスの担当になって欲しいからな」
「ボス……」
それは……今までにはない程、嬉しいことだった。
でも、ジュールも葉月と一緒で素直に顔に出せない『氷の心』。
でも、純一はそんなジュールの本心も良く知っているのか、沈めた声のトーンだけで嗅ぎ取って『ニコリ』と微笑みかけるだけだった。
「頑張ります……」
やっと言えた一言。
「そうだな。レイばあやが喜ぶからな。ああ、そうそう……ジュール。商談をするに当たって一言」
「はい?」
すると純一は、いつもの意地悪な『ニヤリ笑い』を浮かべてジュールを見下ろしたのだ。
ジュールは一瞬おののき、身構える。
「葉月が言っていたぞ。お前のこと……『頭が良さそうで、何でも見抜かれそう』ってね?」
「お嬢様が?」
「それで……『怖い人、笑いもしないんだもの』ってさ! 商談では冷たい顔も必要だが、あの無感情とか言われているオチビに言われちゃ、せわないな!」
『アハハハ!!』──と、純一が高らかに笑う。
ジュールは葉月に『怖い人』と言われて、ややショック!
純一の方がよっぽど無愛想な顔つきなのに……!!
「今度、葉月に会うときは少しは笑ってやれよ。良い男に見られないぞ」
「余計なお世話です!」
暑い夏の夜中。
いつもの憎まれ口の『黒猫兄弟』。
フェニックスの葉が揺れる木陰から、猫の鳴き声も聞こえてきた。
猫が多いともいわれるこの、ヘミングウェイ縁の地を、この後、二人は間もなく去っていく事となる──。
・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・
──数年後──
「ボンジュール」
その男の言葉に、栗毛の女性が振り返る。
彼女はタイトスカートをはいた薄いグレーの詰め襟軍服を着ていた。
肩まで伸びた栗毛が彼女の頬をくすぐる。
やや驚いた顔をして彼女は、彼にこう返してきた。
「ボンジュール ムッシュ コマンタレ ヴ?」
ご機嫌いかが? と、返してきた彼女に、彼もニッコリと優美な笑みを浮かべる。
「ジュ スイ トレ ズールー ドゥ ブ ボワール」
──お逢いできて嬉しいですよ──
そのフランス語に栗毛の彼女は僅かながらに微笑んでくれた。
ジュールも、すっかり女性らしく成長していた葉月に満面の笑み。
『フランス語覚えてくれたのですね?』
心でしかそう話しかけられないが──。
『ほら……ちゃんと覚えたわよ』
葉月の瞳はそう言ってくれていた……。
彼女のたたずまいから、あのあどけなさが消え失せ、スッと涼しげな女性へと成長していた。
そして──さらに、数年が経つ。
「ボス──思い出しますね? あの時の事を……。ちょうど十年前ですね?」
彼女が26歳になった夏……。
すっかり美しい女性になった『お嬢様』に、今までない男性が『フランス』で現れた。
「ああ……そうだな」
兄貴は相変わらず……。
彼女が一人で崩れそうになった時にしか手をさしのべず、どんな男が義妹に現れても、もう──あの八月の夏の夜ようには、躊躇ったり戸惑ったりしない『大人の男』に落ち着いていた。
でも、今回はジュールも違う空気を読みとった。
それは、兄貴も同じようだ。
「30歳で『教官』──。似ていませんか? あの時と」
「……さぁな……忘れた」
そんな『余裕』を兄貴は持つようになっていた。
そう……今度は30歳といえども、兄貴より年下の男。
兄貴も40歳を手前に控えた良い男振りに成長しきっていたから慌てるわけがない。
そして──あの『八月の長い一夜』
あれから時々……彼女と兄貴は会っていた。
そして、変わらぬ奇妙な『密愛』を交わしている。
ジュールも、今でもずっと、そんな兄貴の不器用な『愛情』につられて見守り続けている。
あれから……その度に一粒だけ、チョコレートを頬張るようになった。
=八月の長い夜= 完
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