すっかり暗くなった渚近くの『隠れ家』に到着。
ジュールは後部座席から、制服姿の少年を、また肩に担ぎ上げ、兄貴が待っているだろう自宅に入る。
待ちかまえていたのか? ジュールが玄関を入ると珍しく兄貴から迎えてくれた。
「ギリギリだな。手を焼いていたのか?」
ジュールが担いでいる少年を見て、純一は『ニヤリ』と微笑んだ。
「いいえ? 五分とかかりませんでしたよ」
「五分もかかったのか? この『ガキ』に?」
確かに……。こんな少年の誘拐に『五分程』時間をとられたのはジュールも心外。
そこを兄貴が読みとったので、ジュールはふてくされて兄貴を睨み付けた。
「ほう? ちょっとばかし驚かされたようだな」
そこまで見抜かれて、ジュールは益々ふてくされたが、口答えが出来なかった。
その上、ジュールが『驚かされた』と言う事で、何故だか彼は嬉しそうだ。
(まったく、いつも俺をからかうんだから……この人は!)
そこも憎々しいのだ。
ところが、その余裕ぶっている純一が急に、少年を担いでいない左手に持っている物に反応した。
「なんだ! ヴァイオリンも連れてきたのか!」
彼はそれが判るなり、いつにない輝く笑顔をこぼした。
「あなたが言った通り、渚で弾いていましたよ。かなり上手かったですね」
それは本当にそう思ったので、否定せずに告げると、純一は『フ……』と微かながらでも微笑み、これまた嬉しそうな顔に。
「どれどれ。ちゃんと続けていたようだな──イイコだ」
まるで、自分の子供でも見るかのように、ジュールの肩で逆さ釣りに担がれている少年に近づいてくる。
丁寧な手つきで、純一はその少年をジュールから抱き変えようと腕を伸ばす。
ジュールも逆らわずに、肩から純一の両腕に少年をそっと置き換える。
すると、両腕の中、グッタリ背をしなる少年の顔が純一と向き合う。
純一がその彼の顔を覗いた途端……!
「なんだ! これは!!」
純一が大きな声を出したので、ジュールは驚いて背筋が伸びる!
それと同時に──純一の腕の中で『グッタリ』していた少年が、兄貴の声で『バチ!』と目を覚ましたのだ!
「なにか?」
ジュールはいつもの落ち着きで、静かに尋ね返してみたが、純一はかなり険しい顔つきで、目を覚ました少年を見下ろしていた。
それ以前、目を覚ました少年も純一の顔を見てかなり驚いた顔をしたと思うと──。
「お……お兄ちゃま!!」
日本語だったがジュールは体得していたので、少年が叫んだ言葉に驚いた!
(おにいちゃま!? ボスには……病死した弟しかいなかったはず??)
それだけではない!!
その少年は驚いた顔も束の間……嬉しそうに純一の首にしがみついたのだ!
ジュールはそれを見て、流石に後ずさり、あからさまに嫌悪の表情を現してしまったではないか。
(き……気持ちワル……ボスにそんな趣味があったのだろうか!?)
確かに『女遊び』をしていることもあるようだが、頻繁ではないようで、兄貴はどちらかというと『仕事一筋』の事が多い。
そうしょっちゅう女を欲さない所は、もしかして『同性愛』でもあるのか!? と、ジュールが初めて思ってしまった『光景』であったのだが……!?
しかし純一は、白い夏制服の少年に抱きつかれても、尚、ジュールを険しく見据えている。
彼が何に対して怒っているのか、ジュールには皆目見当が付かない。
やっと純一が、目を覚ました少年を静かに床に降ろして呟いた。
「俺はお前に……『傷つけないよう大切に連れてこい』と言ったはずだ!」
激しい剣幕で怒鳴る純一を見上げる少年が、ハッとしたようにして頬を押さえたのだ。
そう……純一は彼の顔にうっすらと紅い傷が付いたことで怒っているようだった。
確かに、そう言い付けられたが、少年といえども『男』。
ジュールも本気ではなく『脅し』でナイフを突きつけたし、傷は皮一枚剥けてうっすら出血しただけ。
顔を洗えば、血の跡は消え、二、三日で消える程度の物だ。
それにしては、純一の『反応』は過剰すぎる。
それどころか! かなり怒っている!!
「なんですか。その程度の傷なら……すぐ消えますよ」
そう……朝、この『お遣い』を命じられてから何かが合点いかない。
この威厳ある兄貴分のこの少年への思いの入れようが過剰すぎるからだ。
そこも『兄貴らしくない』と腹立たしくなって、これが『同性愛のお気に入り愛人』なら由々しき事態!
そんな腹立たしさも込めて、ジュールはいつも通りに反抗的に言い捨てたのだ。
すると純一はかなり恐ろしい目つきでジュールを見据え、なんと! 拳を握ったではないか!?
(くる!?)
ジュールが、そう反応したときは遅かった!
敵わない兄貴の拳がジュールの頬を直撃して、ジュールは廊下床に思いっきり倒れ込んでしまった!
それを見ていた『栗毛の少年』が、ジュールの元に駆け寄って跪いたではないか?
(くそ! お前に同情されてもうれしくねぇよ!)
でも、殴られたジュールを見下ろして心配そうなその顔。
その顔に何故か、例えようがない感触がジュールの中で渦巻く? 何故だろう?
(やっぱり……何処かで見たことある?)
警戒を解いた少年の顔は妙に『安心感』を誘う美しい表情。
「なによ! お兄ちゃまがいけないんじゃないの? 私が『女』だって言わなかったでしょ!」
「オチビは、口出しはするな! 命令は例え何があろうと『絶対』だ!」
「でも!」
そこで始まった『会話』。いや、少年の言葉遣いにジュールは驚愕!!
ジュールの側に跪いて、厳しく見下ろす純一を見上げるその顔。
もしかして? と、ジュールの目の前にある『胸』をジッと確かめると、微かに『膨らみ』が!!
『女! だったのか!!』
そう判った途端に、ジュールの頭の中で『ばらけていたピース』が、すべてくっついた!
ジュールは、『彼女』の顔を見ながら、サッと血の気が引く……!
そして、兄貴に殴られた頬を拳で押さえながら素早く起きあがり、彼女の前から数歩ほど下がって跪く……!
「申し訳ありませんでした……お嬢様!」
ジュールが跪き、頭を下げて『日本語』で叫んだせいか、目の前で同じように跪いている栗毛の『彼女』は唖然として硬直していた。
「誰? この人? お兄ちゃまの……何?」
彼女はジュールを指さして、まだ怒っているような純一を、愛らしい瞳で『キョトン』と見上げているのだ。
(な、な、なんて事だ! 兄貴の『義妹』。ばあやの孫娘。御園のお嬢様だったのか!!)
ジュールはやっと彼女を──『何処かで見たことある人』──それが、何だったかやっと解ったのだ!
『レイチェル=ミゾノ』に似ていたのだと──。
でも……! あの燃えさかるように情熱的だった『ばあや』とは、かけ離れたように『冷たい涼しげな雰囲気』と、艶やかで美しい女性だった『ばあや』と彼女の『幼さ』が、ジュールに直ぐには一致感をもたらさなかったのだ。
そして、もう一つ! 兄貴があんなに怒ったわけもすぐに理解した。
彼女が『女』であれば、『顔を傷つける』なんて、もってのほかだったのだ。
たとえ、あれだけの『お転婆娘』でも、女性に対しては『致命傷』。
手加減をしただけでもジュールは『救われた』のだ。
その上、恩を受けて、敬愛していた女性の『孫娘』だったなんて!!
恩を徒で返すところだった!!
ずっと頭を上げないジュールに首を傾げながら栗毛の少女が立ち上がる。
「……お兄ちゃまからのお遣いって言えば……あんな事しなかったのに……」
呆れたため息をこぼして、それで『お兄ちゃま』に何か答えを求めるように、黒髪の純一をジッと見つめている。
今度は、純一がため息をついた。
「お前は合格。そこの金髪の男は『不合格』だ」
「なんで、私は合格なの?」
「お前は近づく男に『油断』はしなかったし、今そこでその男が驚くほどに『女を隠し通した』からだ。しかし? そこの男は、命令を一つ破った。たとえ、相手が『男』であっても『傷つけずに大切に連れてこい』の意味を軽く取った」
「……いいじゃない……彼……手加減してくれたみたいだし」
先ほどの男を装った低い声ではなく、彼女の透き通った甘い声。
この声で彼女がジュールをかばう……。
どことなく、暖かみを感じるのは、あの『ばあや』の孫娘だからだろうか?
ジュールは跪いたまま始終、額に冷や汗を浮かべて心を震わせていた。
『皐月には妹がいる』
いつか……兄貴がそう言っていた。
ジュールは『谷村純一の過去』を良く知っている。
ジュールから告白したことはないが、兄貴もジュールの『素性』は知っていた。
お互いにそれとなく把握している『事情』──。
兄貴には小さな『息子』がいることも知っていた。
その息子を、彼と一緒に『日本』までこっそり見に行ったこともあった。
顔は兄貴に似ていたが、『御園の血筋』なのか、不思議な雰囲気を醸し出す愛らしい栗毛の男の子だった。
兄貴がその可愛い息子を、いつも遠くで眺めて近づこうとしないのを、もどかしく思っていた。
『可哀想じゃないですか。ボスだって触れて抱きしめたいし、話したいでしょ?』
彼のお供で息子を確認する旅の後──ジュールはそう言ったことがあったが、兄貴はちょっと切なそうに微笑みながら言った。
『弟に任せている。弟は良くできた男だから、しっかり育ててくれている。今更……俺がしゃしゃり出たら、弟の真に迷惑がかかる』
そう言うのだ。そうかもしれないが。
そして、ジュールはお遣いで兄貴の実弟の『谷村真』には、何度か会ったことがある。
『兄貴……今どうしている? 元気でやっているかな?』
お遣いで、いろいろな物を日本まで届けに行くと、兄貴とそっくりなのに『穏やかで繊細な雰囲気』を持っている穏和な弟『真』は、いつも心配そうにして、ジュールにそう尋ねた。
『兄貴に言ってくれる? たまには真一を見に来て欲しいって。勿論、触れても欲しいのだけど……。兄貴は……いつも俺に遠慮するから。そういう事はいい加減に辞めてくれと、伝えてくれないか?』
『弟・真』の言葉を聞いては、ジュールは兄貴に言っていた。
『弟様の言うとおりですよ。真様も真一様も、可哀想ではないですか?』
と、兄貴に説いてきたが……。
『お前には関係ない。首を突っ込むな! 殿下!!』
ジュールが一番触れて欲しくない所を突いて、切り返されてきたから、ジュールもその内に、本当に首を突っ込むのはやめたのだ。
『皐月』という女性の話は兄貴は良くしてくれた。
でも『その妹』の話は滅多にしなかったし、彼は──『年が離れた子供だ』──と、いつもそう言っていたから、ジュールの中ではあまり意識しない存在だったのだ。
だけど、解っていた。
『ばあや』の可愛がっている『孫娘姉妹』の酷な『体験』を聞かされていた。
姉の皐月の『死』によって、兄貴が『闇世界』に足を踏み入れた事も知っている。
だから……皐月の酷な人生はジュールも哀しく胸に刻んでいる。
でも、姉と共に事件に巻き込まれた、その妹が『その後、どうなった』と言う話は──『痛手を負ったので鎌倉からフロリダの親元に引き取られて暮らしている』──それだけしか聞かされていなく、兄貴がその義妹に関して、日頃、息子や実弟を気にかけているように、同じようにその『存在』を様子から醸し出したことはジュールは見たことはなかった。
だから──! この日、余計に──!!
今日になってその『義妹』が、突然兄貴の生活感の中から、ジュールの目の前に突き出されたのだ!
だから、ジュールにはかなりの『衝撃』!
心積もりも何も与えられずに『兄貴の家族の一員』に対面させられたのだ!
「まったく……もういい。『葉月』、こっちに来い」
やっと、兄貴の怒りが収まったようで、ジュールの目の前の彼女がホッとした息を落とした。
でもジュールをジッと見下ろしていた。
ジュールはその『葉月』という少女と目を合わすことが出来ずに、まだ頭を下げ続ける。
「お兄ちゃま、意地悪でしょ? 私にも……意地悪よ」
色ない声、冷たい声。
でも、透き通った甘い声。
ジュールがそっと顔を上げると、見下ろしている幼い眼差しと視線が合う。
「お名前、なんて言うの?」
青い花柄のハンカチを差し出してくれている。
ジュールの口から血が流れていたから……。
「いえ……その……」
答えられなかった……。
どうしてか解らない。
『葉月』の瞳は、『レイチェル』のように『熱い眼差し』ではなく『涼しげな眼差し』。
本当に『対照的』だった。
その眼差しに──『凍りついている』──そんな感じにさせられている。
「葉月、闇の男は易々自分の名は語らない。そいつを困らせるな。早く来い」
「……うん……」
純一が自分の部屋の入り口から、そう言って、困っているジュールを助けるかのように……いや……ジュールから彼女を早く引き離したいという節もあるように感じられる……。
『義妹』を手元に引き寄せ、そして、彼女は誘われるまま、義兄の下に駆けていく。
『お兄ちゃま……どうして? 突然?』
『明日は何の日か……知っているか?』
そんな会話をしながら自分に近づく葉月に、純一は『にこやか』に話しかける。
──『明日は何の日?』──
その純一の問いかけに、葉月は嬉しそうに駆けより、また『お兄ちゃま!』と、抱きついたのだ。
「覚えていてくれたの? 私の誕生日!」
「お前も明日で16歳か……。まだまだ子供だな」
「ひどーい! 感心しているの? バカにしているの? お兄ちゃま、相変わらず!!」
「そのナリで、大人の女になったと言われちゃ、世の中の女は皆、大人だ」
「なんなのよーー! この格好が一番、安全じゃないのよ! そんな事を言うなら、明日から学校にはタイトスカートを穿いて行くから!!」
「お前も、皐月並みにさえずるようになってきたな。生意気盛りだ」
「もう!!」
ジュールは立ち上がってそんな会話をする『義理兄妹』を羨ましく見つめながらも、『兄貴があんなに楽しそうなのは見た事ないかもな?』と、思ったのだ。
そして、渚であんなに『鬼気』を発していた『少年』が、無邪気な『少女』になって、黒髪の兄貴に甘えているのが急に愛らしく見え、その光景を微笑ましく見つめながら、いつの間にか……自分も笑っていた……。
『そうか……“葉月”は、日本で“八月”。彼女のバースディで呼んだのか!』
それが判り、ジュールは朝から反抗的に『お遣い』を請け負った自分の態度を『未熟だった』と、初めて恥じたのだ。
純一が、自分の一等の寝室に『葉月』と一緒に入って姿を消した。
衝撃的な『出逢い』の興奮は収まったのだが……。
『なんだか……妙に、落ち着かない感じがする?』
兄貴の様子がいつもと違う気がしたのだ。
落ち着かない心の『胸騒ぎ』は、この後……実感することとなるのだが、ジュールはそれがなんなのか、今は『予感』だけ……。
ジュールは兄貴の次の言いつけがあるまで『キッチン』にて、自分一人だけの食事でもとって落ち着こうと決めた。
夜が更けて行くフェニックスが揺れる渚が見える家で、熱い八月の夜が始まろうとしていた……。