・・蒼い月・・ ☆八月の長い夜☆

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1.渚の誘拐

 真夏の太陽がキラキラと照り始めた、ある日の午前。

「ジュール。悪いが、出かけてくれ」

 兄貴分である黒髪の彼に、安らかに読書をしている所その様に言い付けられ、ジュールは渋々としながらソファーから起きあがる。

「なんですか? いきなり。今日は、私の仕事はないでしょ?」

 黒髪の兄貴分『純一』は、ジュールより5つ年上で、この時は28歳だった。
 ジュールは、彼より5つ年下だったのでこの時は23歳……。

 それだけ差があっても、彼に命令されると腹が立つこともある。
 逆らえないのは、やはり、彼にはいくつも敵わぬ所があり、『組織内』で訓練されてきた『精神』がジュールを洗脳的に動かすだけ……。

 すると、いつも無表情で心情が読みとりにくい彼がそっと話し出す。

「私用なんだが『ある人間』をここに連れてきてくれないか? 俺は手が放せない取引の準備があって、今は、出かけられない」

 ジュールは黒髪の彼が言い付けたことに驚愕!

「ここに!? 私達以外の人間を入れるって事ですか?」
「そうだ」

 ジュールの驚きようも『予想済み』とばかりに、黒髪の彼の表情は崩れない。
 そこがまた、憎々しい!

「ここは私達の『隠れ家』ですよ!? いいのですか?」
「だから……『私用』だといっているだろ?」
「あなたの『私用』ほど、『面倒』な事はない。いつも『冷や冷や』する!」

 ジュールが興奮して反抗しても、黒髪の兄貴は『ニヤリ』と笑うだけ。
 いつもは彼同様に落ち着いているジュールを、からかって楽しんでいるようだった。

「信頼しているジュールだからこそ……頼んでいるのだが?」
「そんな言葉にほだされませんよ!」
「小遣いをやる。街で買い物がてら、そいつを連れてきてくれ。嫌なら……お前が俺の代わりに『商売取引』してくれるのか? 今から、ある大会社の社長と商品契約の最終打ち合わせの準備だぞ?」
「……わ、解りましたよ……」

 ジュールは渋々としながら起きあがって、上半身裸にしていた肌にサマーセーターを着込む。

「どんな人ですか?」
「写真があるからもっていけ。場所は……フロリダ海軍訓練校だが」
「軍関係者ですか? まさか、『御園のご主人』?」

 『御園』が黒髪の彼とジュールと深い関わりがあるため、『ご主人』を連れてこいと言うならジュールも喜んで出かける。
 ジュールには家族がいなかったせいか、御園のご主人と夫人は大好きだった。

 それなら、スーツに着替えようとクローゼットに足を向ける。
 すると黒髪の『純一』が、着ている白いワイシャツのポケットから一枚の写真を取り出す。
 ジュールが一等の格好に着替えようとしているのを止めることもなかったが、その横で、側のテーブルに一枚の写真を置いたのだ。
 ジュールは、お気に入りのネクタイを締めながら、それを見下ろし、その写真に写っている人間を確認するやいなや、純一を確認するように見た。

「なんですか? こいつは!? 『ガキ』じゃないですか!?」
「ああ、そうだ。とんでもない『ガキ』だ」

 兄貴分の純一が、ジュールの反応が面白かったのか『ニヤリ』とまた笑う……。

「冗談じゃない!」

 ジュールは、ネクタイをほどいて床に叩きつけた。
 純一は、そんな反抗的なジュールにため息をついて、床に叩き付けられたネクタイを拾い上げ、ジュールに差し出した。

「小遣いをやると言っているだろ? 今夜九時までに帰ってこい。それまではのんびり遊んでくればいい……時間だけ厳守だ」
「馬鹿らしい……。こんなガキを、うちに入れるなんて! 俺が嫌です!!」

 すると彼がまた『ニヤリ』と意地悪そうに微笑んだではないか。

「こいつが簡単に捕まえられたら……お前も一人前だな」
「なんですか!? それ! このガキ、そんなにすごいのですか?」
「ああ。強くはないが侮れないぞ。逃がして帰ってきたら大いに笑ってやる」

 純一の『挑発』に、ジュールは心ならずとも『火』が点いてしまった!

「解りました! なんですか? こんなガキに私が振り回されるとでも??」
「だから、試しにお前に連れて来いと、頼んでいるのだ」
「……だったら……スーツでなくても良いですね! 着替えるところだった」
「いや……スーツで行け」
「は?」

 真顔で兄貴がそう言いながら、また……ネクタイを差し出す。

「その方が良いと思うぞ?」
「もう……解りましたよ」

 これ以上、何を考えているのか解らない兄貴分と言い合う気力もなく、ジュールは言われるまま、一等のスーツにそのまま着替えた。

「ベンツを貸してやる」

 いつも厳しい純一が気前よく小遣いを多めにくれるし、仕事でしか乗らせてくれない『黒いベンツ』まで貸してくれる。
 それで気をよくして、ジュールは久々の『ショッピング気分』に気持ちを切り替えることにした。

 兄貴がくれた写真を眺めながら海沿いの『隠れ家』から出る。
 ここは『フロリダ・キーウェスト』。
 『黒猫』の隠れ家は、今は『アメリカ』だった。

「よく見ると……何処かで見たような顔だな?」

 ジュールは、純一がくれた『栗毛の少年』が写る写真を眺めながら、車に乗る。

『ああ……そうだ。こいつは夕方には訓練校近くの海辺でヴァイオリンを弾いているかもな。この場所を悟られないように、眠らせてさらってこい。傷つけないように大切に連れて来いよ』

 純一の最後の『アドバイス』を、ジュールは頭の中で『復唱』。

(なんだよ。隠れ家を知られたくないのに、隠れ家には入れたいてことかよ? しかも……傷つけるななんて……もしかして……軍高官の御曹司か?)

 それならば……? なにか『仕事がらみ』の『誘拐』だろうか? と、ジュールは顔色を変える。
 それならそれで仕事仲間、そう言ってくれても差し支えないのにと腑に落ちなくなる。

(相変わらず、ワケ解らないことばかりあの人は言い出すんだから……)

 ジュールはまた、ため息をついて、黒いベンツで海岸を走り出す。

 目指すは『マイアミ郊外』
 そこで可愛い女でも引っかけて楽しんでから、夕方、訓練校に向かう事にする……。

 

・・・*・*・*・・・ ・・・*・*・*・・・・

 

 賑やかで陽気な『マイアミ』に来たのは久しぶりだった。

 心得てはいるから耐えられるのだが、『許可』がない限りは『隠れ家』から出ることもない。
 それにジュールは出かけるよりも、静かな場所で本でも読んでいる方が、気が楽。
 たまにこうして外の空気を吸うぐらいの方が『性に合っている』。

 午前中に出かけたので、先ずは腹ごしらえ。
 目に付いたレストランに入って『ランチ』を取る。

 スーツ姿のジュールが入っても、若い男と見てそうは上等の扱いはしてくれない。
 だけれども、これが黒髪の兄貴と一緒に出かけると、そうではなかった。

 まだ三十歳を越していないのに、兄貴の風貌がそうさせるのか、どこに行っても『身なり、風格』で、店の者が顔色を変えて上等な接客を始める。

(確かに……。俺、まだまだかもな)

 同じ訓練をしてもやはり、そうして『兄貴』には勝てない何かがあった。

 それでも、久々の開放感。
 兄貴は『日本人』のせいか、礼儀などにうるさかった。
 勿論、ジュールもそれを素早く身につけて心得てはいるが、兄貴がいるといないとでは、気の持ちようが違う。

 従っているのは──。

『いい? ジュール……このお兄さんの言う事を良くきくのよ? 間違いないから』

 敬愛していた『ある女性』が、そう言いながら死んでいったから。
 ジュールは『彼女』をそっと思い出しながら……独り、ランチを進めた。

 『彼女』を思い出したせいか、『ナンパ』をする気が失せてしまった。

(ショッピングでもするか)

 思わぬ『収入』があったので、ジュールは日頃出かけない間に欲しかった物を、片っ端から買いそろえることにした。
 ネクタイに、ワイシャツ、普段着をブティック街にて『ブランド物』で揃えて、あとは雑誌に書物。そして、パソコン用品。

 最後に何故か……。

(仕様がないな……)

 隠れ家で一人仕事をしている『兄貴』の為に、ブランデーを一本購入。
 そうしているうちに、夕方が来ようとしていた。

 

 マイアミから一路、北──ウェストパームビーチ方面へと『連合軍海軍訓練校』を目指した。
 その海岸が続く中、街の郊外に『御園源介中将一家』が住む家があるのは知っているし、お遣いで何度か行ったことがある。

(たしか……『孫』がいると聞いていたけれど、一度も見た事ないな?)

 よく考えれば、おかしな話だと思った。
 その家に源介に会いに行っても、紹介されたこともなければ、影も見たこともなかった。
 息子の『亮介夫妻』の二人には会わせてくれたことはあったが……。

どんな子なんだろう? ま、関係ないか……じい様の大切な孫なら……俺なんて)

 ジュールは余計なことを深く考えた……と、ばかりにアクセルを踏んだ。

 

 さて……訓練校の正面門に辿り着いた。

(中に入ってみるかな? どうするか)

 時間的に訓練校生が訓練を終えて『寮』に戻る時間だ。
 寮のあたりに、『営業マン』の顔でうろつけば必ず、この写真の『ガキ』を見つけられるだろう……。そう思った。
 何故なら、訓練校と言う物はほとんど『全寮制』だからだ。

 ジュールは正面門からベンツを遠ざけて、訓練校の外壁周りをベンツで一周り。

『よし。ここだな』

 外壁で一番『穴』であろう侵入場所、それに適している所を見定める。
 辺りを見回して──『人影に気配なし』──ジュールはそっとベンツを降りる。
 ベルトに仕込んであるワイヤーを、外壁の一番上に投げて……そっと……音を立てないよう登ってみる。

 まだ、日は高い──。
 細心の注意を払って人気がないうちに、そのポイントから訓練校構内に侵入!
 ──成功!──
 胸ポケットからサングラスを取り出して何食わぬ顔で、ジュールは校内の芝生庭を歩きながら寮を探した。

 ところが……?
 寮はすぐに判ったが、帰宅する訓練校生を眺めること小一時間。
 『それらしき少年』は一向に現れなかった。
 ジュールは腕に巻いているカルティエの時計を眺める。
 時間は18時を過ぎようとしていた。

(じゃぁ……海岸か)

 兄貴が言っていた『ヴァイオリン』を思い出したのだ。
 長居は無用──ジュールはすぐに切り替えて、侵入した外壁とは違う場所を見つけて外に出る。

 次にベンツを海岸際にゆっくり走らせて、『栗毛の少年』を見落とさないよう、夕暮れの渚を目を凝らして車を流してみる。
 水平線には日が沈み、あたりは薄い闇がかかり始める。

『寮では食事の時間帯だ。食べ盛りの男ばかりだろ? 食いっぱぐれるぞ?』

 そんな事は、現代社会の軍隊でないとは思うが……。

『なんだよ。軍人の卵がヴァイオリンなんて笑わせるぜ』

 確かに、写真の少年は軍人ににつかない線が細い少年……。
 見たところ確かに『お坊ちゃん風』である。
 本当に海軍人の『卵』なのか疑わしくなるぐらいだが、写真では確かに訓練校生の制服を着ているのだ。

『兄貴とはどういう関係なのだろうか? やはり……誘拐か?』

 そう思いあぐねていると、ふとそれらしき人影が見えてきた。

『あれか!』

 夕闇の中、白い半袖の制服を着た少年が一人、波打ち際でヴァイオリンを弾いている!
 ジュールは砂浜の上の防波堤側にベンツを止めて、そっと窓を空かして見つめた。
 ベンツを駐車させた側には、マウンテンバイクが止まっていた。
 その少年が乗ってきた物だとジュールは判断。

 丁度、人影がない……。
 今なら『さらう』には絶好のチャンス!
 ジュールは怪しまれないようサングラスをかけ、気配を殺しながらベンツを降りる。
 ──『強くはないが侮れないぞ』──
 兄貴が挑発した言葉をよく心得て、ジュールはさらに気配を殺して砂浜に降りる。
 気配を殺しながらも、彼の演奏が『素晴らしい』事にジュールは気が付いてしまう。

(かなりの弾き手だ!)

 そんな腕前で『訓練校』──何故だろう?──と、ジュールは思ってしまった。
 彼が今弾いているのは『G線上のアリア』だ。

(う、美しい音色だ……)

 その音色に、心を奪われそうになるぐらい……。
 だが、ジュールの訓練された集中力はそんな事では揺らがない。
 後一歩……彼の小さな背中。

(意外と小柄だな?)

 訓練校に通っていると言うことは……『予備校生』であれば13歳から15歳。
 それぐらいの小さな少年かと予想をしながら、そんな小さな少年とあの純一がいったい何で繋がっているのか?
 それとも、やはり何かを狙った『誘拐』なのか!?

 ジュールはとにかく背後に迫って、何かしら顔を確かめねばと思ったが。
 栗毛で軍制服を着込んでいる御曹司風の少年が、『ヴァイオリンを弾いている』なんて、そんな人物はそうはいない。
 顔は見ずとも『確信』していた。
 兄貴が言っていた『お目当ての少年』だと……。

 ジュールがそっと背後に近づいて、その白い半袖の制服を着ている小さな肩を掴もうと手を伸ばす。

 彼が驚いて振り向く顔を確認し『クロロホルム』で即、眠らせる。
 人違いなら笑って誤魔化しヴァイオリンを誉める。
 その手順を思い浮かべる。
 その手順を頭の中で確かめるように反芻しているジュールの手が、肩を掴もうとしたその時!!

──シュッ!!──
『!!』

 ジュールは、かなり驚いた!
 ヴァイオリンの『弓』、ボウが彼の肩を越して、ジュールの頬を突き刺そうとしている!
 つまり、こんな小さな少年に『気配』を、読みとられていた!?
 ジュールは勿論、避ける事が出来た物の避けたのがやっと!
 背を逸らして、僅差でボウが頬をかすりそうになった状態で、栗毛の少年と『ピタリ』と揃って動きが止まった!

 肩越しからジュールを睨み付ける『茶色の瞳』。
 顔は確かに! 写真の少年だったが……!

(……なんだ? 嫌に品のいい顔をしているじゃないか!?)

 汗くさい、油臭い軍人には似つかない、涼しげで端正なヒンヤリとした表情。
 白い肌。長いまつげ。軍人が持っていないほのかに漂う『香り』。

 だが、目つきは恐ろしいほどにジュールを捕らえていた。
 さすがのジュールもその目つきには、凍らせられる様な……そんな目つき!

「何か用か?」

 しかも、その少年の声と来たら、まだ声変わりをしていない透き通った声だった!

(やはり……訓練予備校生? 子供か!?)

 だが、それにしては彼の目つきに品が『大人びて』いた。
 ジュールは当初の『手順』がすっかり飛んでしまって……つい……ニッコリ。

「あまりにも素晴らしい演奏なのでつい……」

 などと、取り繕っている自分に情けなくなったほどだ。

「……それにしては、不審な近づき方だ。何故? 気配を殺す」
「……」

 白い肌に細い線の体つきの少年のくせに……! 何故? こんなに圧せられなくてはならないのか、ジュールはヒヤリとした。
 発する言葉の強さが予想外で、しかも『勘』が良すぎる!
 ──『逃がして帰ってきたら大いに笑ってやる』──
 兄貴の言葉をふと思い出した!

(そうか……そうゆうことか!)

 確かに『侮れない』何かをジュールも感じ取った。
 余計なことをすると、本当に逃げられる! そんな予感さえ感じてしまった!

 だから……!! 『即実行』を試みる!
 胸ポケットから素早くジュラルミンの平たいケースを取り出し、そこから『クロロホルム』を染み込ませたハンカチを取り出す!
 それを栗毛の少年に向かって押しつけようとしたが……!
 なんと! ヴァイオリンを砂浜に捨てて、勘良く彼はジュールからサッと身を翻したではないか!?

 ジュールの首元をめがけ、少年が柔軟な動きで後ろ回し蹴りを見舞ってくる!

(う!? なんだ! この機敏さは!!)

 ──『とんでもないガキだ』──
 また……兄貴の一言がジュールの脳裏に蘇る!
 少年のその回し蹴りも、サッとジュールは避けたが、目の前の彼は拳を握って『臨戦態勢』を整えてしまった!
 上手い具合に間合いを取られてしまい、ジュールのリズムが狂う。
 当初の……いや、『いつものお手並み』を奪われてしまったのだ。
 これはさすがに予想外。ジュールも動揺した。

「どこの誰だ? 私を怒らせる為に来たなら手加減はしない!」
(なんて、生意気な!)

 こんな小さな少年に逃げられたとあっては『黒猫』の名が泣く。
 本当に『兄貴=ボス』に笑われかねないし、ジュールのプライドも許さない!

「大人しくしてもらわねば、こちらも手加減はしない!」

 ジュールも『本気』になった!
 その目つきを見て、初めて少年が怯えた顔をしたが、その『怯え』によって、さらに表情が険しく引き締まったのが、ジュールにも分かった。

 ジュールは遠慮せずに、少年のミゾオチに向けて拳を振う──!
 だが、寸差でこれも身軽に避けられた!
 次は、ジュールの身長を生かし、少年の首に向けてお返しの回し蹴り!
 これも!? 身長がない少年に逆に頭を下げられてすかされてしまった!

(なんて……勘が良いんだ!)
『強くはないが侮れない』

 それは『本当だ!』、とジュールは、苦虫を噛みつぶしたように、奥歯を軋ませる。
 ただ、向こうも『プロ駆け出し』のジュールが本気で向かってくるので、その男の機敏さになかなか手が出せないと焦っているのも分かった。
 しかし、少年もかなり鍛えられているとジュールは判断。
 『間合い』の取り方はかなり絶妙……。
 油断してうかうかしていると、隙をついて逃げられそうだ!

(仕方ない!)

 ジュールは『プロ駆け出し』といっても『プロ』。
 『確実』を信条として『純一』に叩き込まれていた。
 ジュールは胸元から『ナイフ』を取り出して少年に向けた。

「ふん! そうやって脅したって無駄だよ!」

 ナイフにも恐れるどころか、少年の目は恐ろしいほどに冷たく燃え上がったではないか!?
 これはもう……迷わずに向かうしかない! と、ジュールは意を決し少年に大股一歩踏み込んで、彼の頬にナイフを『脅し』で突き向ける!

『!!』

 ジュールの素早いナイフさばきに、さすがの少年も凍りついた顔に!
 でも! 避けられた!!
 しかし……彼の白い頬からうっすらと、紅い筋が浮き上がった。
 皮一枚、ジュールのナイフがかすっていたのだ。

 その『痛み』に動揺したのか?
 初めて少年の動きが一瞬止まり、警戒が緩んだのがジュールに判った!

(今だ!!)

 その隙をついて、ジュールは少年のミゾオチに一発! 拳を打ち込んだ!!

「う……!」

 少年がゆっくり砂浜に跪いたのに……。

「この……! 屈する物か!」

 立ち上がろうとするので、今度はジュールが動揺した。

(普通なら……気を失うぞ!?)

 手加減をしつつ、小さな少年が落ちるだろう程の力で殴ったのに!
 打たれ強いのか? 彼は膝を着きながらもまだジュールを激しい眼差しで捕らえている!
 だが……それだけ、力を奪われた少年になれば後は、ジュールの物……。
 立ち上がろうとする少年の顔をめがけてハンカチを押さえつけた。

 暫く、少年はジュールの腕の中で『抵抗』をしたのだが。

『俺の勝ちだ。負けるワケないだろ? 俺はプロだぜ?』

 無表情にジュールは眠ろうとする少年を見下ろしていたが、心では勝ち誇った微笑みを描いていた。

 波の音がジュールの耳に静かに蘇る。
 腕の中でやっと、細身の少年がグッタリと、ジュールの手中に落ちたのだ。

『やれやれ、驚かされたが……。人は見かけに寄らずって所か』

 ひとまず『言い付け』は守った。
 ジュールは少年が持っていたヴァイオリンを拾い上げ、彼を肩に乱暴に担ぎ上げる。

 夜のとばりが渚を包んで、人影も全くない。
 『誘拐』には丁度良い具合だった。

 自転車が気になったので、とりあえず目立たないところに隠し、栗毛の少年をベンツの後部座席に寝かせる。
 そして、意気揚々とジュールは『キーウェスト』へと帰宅する道をたどることにした。

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