12.翼の姫君と……

 

 

 『カラン……コロン……』

 真っ赤な枠のガラスドアを開けると、上に備え付けている鐘がそんな音を鳴らした。

 

「あ、来たわね! 私の黒髪♪」

「ボンジュール、これ、差し入れ」

大人っぽい巻き毛の髪型になったセシルは、益々、セクシーでスタイリッシュな女性になっていた。

真っ赤なカウンターにレトロな機械調の黒いレジ。

そこに、テイラードのジャケット、パンツスーツの黒い姿をしたセシルがやってくる。

「いつも有り難う。今日は何かしら〜?」

「海辺のレストランまで行ってきたんだ。オヤジさんがいつも作っているレモンパイ。

セシル……好きだっただろう?」

「わ、メルシー♪ あそこのおじさんのパイは美味しいもの。

あら? でも、持ち帰りは作っていないはずよ?

その為にいつも二人で自転車をこいでは、あの坂道登って、通っていたじゃない?」

「予約して頼んだんだ。どうしても渡したい人がいるからって……」

隼人は神妙にセシルを見つめた。

「やだ……どうしちゃったの? そんな特別な事、してくれちゃって……?」

彼女も隼人の顔に何か感じたのか、不安そうな苦笑い。

 

「セシル……今日で、君にカットしてもらうのも最後なんだ。

今日はお別れに来た……。『日本へ転属』するんだ」

「──!? 本当なの!」

「ああ……来週、生徒の卒業を見届けたら……オガサワラという離島の基地へ行くんだ」

「……ハヤト……自分で望んだの?」

「ああ」

セシルが涙を浮かべた。

別れを惜しむ涙もあっただろう。

だが……隼人には解った。

『ハヤトが帰る気になった』

隼人の前進はそこにあると知っていたセシルは、その感激も含めていると──。

隼人は、彼女の顔を見ると色々な懐かしい事が過ぎり始め……もらい泣きしそうで顔を背けた。

 

「結構な部署への転属で、今度は大きな中隊を仕切っている中佐の側近なんだ。

康夫の同期生で、父親がフロリダ本部で中将をしているという名門一族でエリートの……」

「え!? それって……すごい栄転じゃないの!?」

「まぁ……どうなんだろう? 殉職した先輩が仕切っていた中隊で、その引き継ぎだから

まだ……その部隊はまとまっていないらしくて……」

「やりがいがあるじゃない! 殉職した先輩って……あのハヤトが尊敬しているっていう

フロリダに行ってしまった先輩の事でしょう!? その先輩の跡を継ぐ訳ね!

それは頑張らなくちゃ駄目よ!」

セシルとは祐介が転属した後に、出逢ったのだが……。

彼女には『尊敬している先輩』として彼の話は良くしていたし、

昨年、彼が殉職した時もその話をした。

「さ! ハヤト! 新しい基地で見劣りしないように切ってあげる!」

セシルも涙を引っ込めて、目を輝かせた。

そして、真剣な顔。

「ああ……頼むよ。そう思って、来たんだ」

「任せて!」

ケープをバッと広げた彼女に、隼人は微笑んで、シャンプー台へ……。

 

「雪江さんから聞いたよ。マルセイユの中心街に二店目を進出させたって……。

ローカル雑誌の『若き実力』のコーナーでもインタビューで掲載あったな。見たよ」

セシルに髪を洗ってもらいながら、隼人は呟いた。

「お陰様で。監督とオーナーは私がするけど、店長はレイモンにさせているの」

「へぇ! やったな、レイモン」

どうりで今日は彼がいないと隼人は思ったが、納得した。

 

セシルは今や、飛ぶ鳥落とす勢いでこの界隈では名が知れ、

そして一番人気の店にのし上がっていた。

若者を集めて、皆で力を合わせて常に新しい『ヘアアート』を目指している『リーダー』として

雑誌に、若き力を取材するコーナーで掲載されていたのだ。

隼人には解る……。

セシルは無邪気で自由奔放で気さくな女性。

この殻に籠もりっぱなしの隼人が、心を解放出来た程の女性だったから……。

きっと、周りの仲間に後輩達の彼女を信頼する『力』が、この店を大きくしたのだと。

セシルはなにもオーナーとしては威張ってもいないし、いざというときは、率先して前面に出て

責任を果たす使命も心得ている。

『オーナー』と言うよりかは本当に『リーダー』

そして自分一人の力で、若くして成功した訳じゃないことも、彼女は良く知っていた。

そんな彼女が、自分の元恋人である事は、本当に隼人は誇らしかったし、

あの時、彼女をパリに送り出したのは……彼女の為であったと……満足だった。

 

シャンプーが終わって、鏡の前に移動する。

セシルが、今日は随分と考えてから、隼人の髪に櫛を入れた。

 

「格好いいビジネスマン風にしてあげるわ」

「なんだ、それ!」

いつも通りに笑い出したのだが……ハサミを持った途端に、セシルは真剣になった。

彼女が濡れている隼人の黒髪を指に通した。

隼人は鏡の中に映る、成長した彼女をジッと見つめる。

「可愛いチェックのミニスカートを穿いていた君が……遠い日になったな」

「そうねぇ……学生だったわ」

「本当に可愛かったよ」

「なによ……やめてよ……」

彼女の瞳が潤み始めた。

だが、セシルはグッと唇を噛みしめて……『職務』を全うしようとしている。

その姿──。

 

「セシルに似ているかもな……」

「誰が?」

「俺の新しい上官、女性なんだ」

「ええ!? なに!? その中佐って女性なの!?」

セシルが驚いて、ハサミを髪から外した。

「ああ、セシルと歳も変わらない」

「うっそ!? ヤスオほどのエリートはいないと思っていたけど!?

ヤスオより若いって事でしょ!?」

「ああ、康夫の訓練生の時からのライバルだってさ。彼女、パイロットなんだ」

「!!」

若き成功者となったセシルも、絶句したようだった。

「つい最近まで、こっちの基地に出張に来ていて、二ヶ月間、一緒に仕事をした」

「それで? 意気投合したの……」

淡々と語る隼人の黒髪に、セシルが何もかも理解したような微笑みでハサミを入れ始める。

「ああ……。前に突っ走る姿が、セシルに似ているかもと……今、思った。

仕事に関しては……半端じゃない」

「でしょうね……。そういう女性なら、私も多少は解るわよ。心意気」

「……それで……」

隼人は言葉を躊躇った。

「……あら? もしかして?」

ハサミを止めた彼女が、意味ありげにニンマリと微笑む。

「え? ああ……そうなんだよなぁ? 自分で認めるのに一ヶ月もかかった」

女としてその『中佐』を好きになった──。

それを言わずとも、気が付いてくれるところも……彼女といる時の気安さだった。

彼女は、基地外の人間という事もあって……何故だかすんなり報告している。

「ふーん。その彼女、すごいわね。ハヤトを動かしちゃったのね。

大尉としても、男としても──」

『逃げられた事』を思い返して、隼人は、そっと苦笑いを浮かべた。

「羨ましい人ね。その人……私の頑固な黒髪さんを動かして、追いかけさせるなんて……」

セシルがちょっとふてくされる。

「さぁ……彼女は何に置いても、たぶん……軍人なんだろうな。家柄もそうだし」

「……大丈夫なの? 追いかけるだけ追いかけて……ハヤトの方が疲れちゃうんじゃないの?」

彼女が心配そうに、鏡に写る隼人を見つめた……。

「いや。たぶん……ずっと追いかける形になるだろうな」

「え?」

「そう……彼女はいつも前を突っ走っているから、追いかけたくなったんだ。

俺──彼女が何処まで走るか追いかけるよ。彼女の背中をずっと──。

彼女は『風』なんだ……。だから、その風が吹く方向に俺も吸い込まれたんだろうな。

彼女が転んだら……後ろから助ける。だから『側近』で調度良い」

「ハヤト……!」

鏡を真っ直ぐに見つめた隼人の黒い瞳が輝く。

それを見たセシルが、とても驚いたように……そして、見入っていたのだ。

 

「やぁね! それってノロケじゃないのぉ!?」

「え? 何言っているんだよ。俺は仕事面の事で言ったつもりなのに」

隼人はちょっと頬を染めた。

「まぁ……でも。なにはともあれ……その人じゃないと駄目なんだって私、解るわよ」

「解るって?」

「ハヤトが恋をしたと教えてくれたから、私も白状するわ」

「白状?」

隼人は、指に髪を通して軽やかにハサミを操っているセシルを見つめる。

「そ。覚えている? 二年前に私がここに戻ってきた時の事」

「ああ……基地の警備口で三日待っていたと、車で待っていてくれたな?」

「あの時ね……」

「うん」

「本当は『下心』があったの」

「!!」

隼人は驚いて、鏡の中のセシルを見入った。

だけど、彼女はニコリと微笑んでいるだけ。

「こっちに帰ってきて真っ先に思い出したのはハヤトよ。

ハヤトがもう一度、私を見てくれるなら……『戻りたいな』という気持ちもあったの。

恋人がいるかしら? とか、もう日本に帰ってしまったかしら? とか──。

もう付き合ってくれないかもとか……ダメモトで行ってしまったの。

でも……あなたは全然変わっていなくて……。だけど、私が声をかけた途端に

『寄りは戻したくない』という反応だったでしょう?」

「あー、いや……あの時は、俺にとって女性と付き合うという気持ちがなかったから……。

べ、別にセシルが嫌いで避けようとしたわけじゃなくて……」

「解っているわよ。嫌われているなら、この店の『幸運の黒髪』と呼ばれるようになるわけないもの。

ハヤトは本当に良くしてくれたし……男以上に信頼できる男性になったもの。

知っているのよ? ハヤトが『帰れない訳』──」

「誰かから聞いたのか? 康夫とか雪江さんから」

「ちょっとだけね? 実家が会社なんですってね?

お母さんも亡くなっていて、新しい若いお母さんに遠慮しているんじゃないかって……。

ユキエがそういっていたわ」

「……」

雪江の事だから、それぐらい話さなくとも知っているだろう事は、隼人も解っていたが……。

フランスに来て、こうして面と向かって実家の事を話すのはこれが初めてだった。

ミツコ以外は──。

「それにあの黒髪のお姉さん? 実家の事でしつこかったんじゃないの?

別れ話もそのあたりじゃないかという女性の勘ね」

まったくその通りなので、隼人は『女性の勘』に、ちょっとたじろいだ。

「……あの後、実家の事が益々、鬱陶しくなったのは本当だよ」

隼人は初めて口にした。

「……」

セシルが少し黙り込む。

「ハヤトは、やっぱり日本人なのよ。向こうにいつだって帰る気持ちがあるなら

世界の何処にいたって、何年でもやっていけるわよ?

やっぱり……自分の『ルーツ』がしっかりしていないと……『原点』がないと……。

何処にいてもずっと『本当の自分』で頑張ることは出来ないと思うの。

私だって……マルセイユがあるから、もう一度ここから始められたのだし。

ハヤトの場合、実家に未練があるのよ。あるから……ここでも始められないのよ。

止まってしまっているの! 私だって……動かしてあげられるならそうしたかった。

でも──私じゃ駄目なんだと……この二年、さらに噛みしめたわ」

「そうだったんだ……。ごめんな」

それでもセシルは、笑顔でそっと首を振るだけ。

「彼女、日本人?」

「え? ああ、国籍はね……父親が日本とスペインのハーフで母親は日本人。

クウォーターなんだ」

「へぇ! そうなの……混血なのね?

でも、日本人同士じゃないとハヤトの事、解ってくれないとか思わなかったわよ?

それだったら、黒髪のお姉さんがとっくにハヤトを動かしていると思うし……。

だからといって……私でも駄目だったというのはそういう事ね。

彼女という人間が、ハヤトを動かす要素を持っている人だったというのが最終的な答なのだと」

「……彼女は、最後まで、俺の中まで深く追求してこなかった。

俺が……それを強く望んで、そして誰であっても拒んできた事だから。

それはセシルも一緒だったけどな……。でも、彼女はなにも言わなかったけど俺は思ったんだ。

『私は先に前に行く、それに付いて来れないなら、そこまで──待っていられない』と……

そう言われた気がしたんだよな。俺は……」

 

「もう、手放しちゃ駄目よ。突き放されても追いつかなくちゃ」

二人はそっと鏡の中に写る瞳と瞳を合わせて微笑んだ。

ややもして、セシルがブローを始めた。

 

「さぁ……どうかしら?」

随分、さっぱりと切られたが、確かにお堅いエリート風だった。

隼人は思わず吹き出しそうになった。

「俺じゃないみたい!」

「なによ? その笑いは! ステキじゃないの!」

横に分けられた前髪に、さっぱりとしたうなじ。

新調した眼鏡をかけると、セシルまで『隼人らしくない』と指さして笑い出した。

だが……確かに何処から見ても『凛々しいビジネスマン風』だった。

 

セシルが小さなブラシで、肩やうなじに散らばった黒髪を払ってくれる。

彼女の手が徐々に震えていた。

「もう、切ることも無いかも知れないわね……私の黒髪」

「……」

彼女が瞳を潤ませていた。

隼人はそっと……肩を綺麗にしてくれるセシルの手を握った。

「ハヤト?」

「……さっきな。『ルーツ』と『原点』と言っていたな、セシル」

隼人は回転椅子をそっと彼女の方へ回して、今度は両手を握った。

「ちょ、ちょっと……!?」

スタッフの目を気にして、セシルが頬を染めたが、隼人は真剣に彼女を見上げた。

水色の瞳がアクアマリンのように濡れて揺れていた。

「確かに俺の『ルーツ』は横浜にある。だけど『始まり』はここだと言い切れるよ。

その『始まり』の中に君がいる。康夫がいる、雪江さんがいる、先輩もいる。

だけど……もっと向こうにある『原点』を、もう一度、確かめに行ってくるよ。

だけど──始まりはここだったと言う事は、絶対に忘れない。

俺もマルセイユがスタート、セシルと一緒だ。

一緒にここから始めた仲間として……忘れないでくれよ」

「ハヤト……」

セシルがやっと涙をこぼした。

「セシル、君も頑張って……。活躍の知らせを楽しみにしているからな」

両手を握る彼女の手の甲に、涙がポツンと落ちた。

隼人はスッと立ち上がる。

「ああ、それから──」

立つと頭が下になるセシルを見下ろした。

彼女の涙が伝う頬にそっと手を当てた。

そして──首を傾げて、頬にキスをする。

「!」

セシルがちょっと驚いて、でも……隼人を見上げた。

「このフランスで、一番の恋人は君だけだったよ。本当だ──」

「なによ……最後にそういう素敵な言葉を残して去っていくなんて! 意地悪ね!」

むくれたセシルに隼人はそっと微笑む。

「そんな元気な君が好きだったよ」

あのミニスカートを穿いていた無邪気な少女の頃のまま。

彼女は愛らしくむくれているだけだった。

涙がまた……流れている。

店内のスタッフも、隼人が今日が最後の来店と知ってか……

皆がそっと無言でこちらを静かに見守っているだけだった。

 

最後の精算──。

「今日ぐらいはきちんと払いたいな」

「結構よ。最後もいつも通りで……」

「セシルが良ければ……なんだけど。メールのアドレスとか教えてくれるかな」

「え?」

「良ければだよ。康夫とかジャンとかともそうしているから──友達として。

これからも良ければと、改めて申し込んでいるんだ。

『ルヴォワール』、サヨナラじゃないよ……。これからも……というように今日は別れたい」

「……」

セシルは俯いて、黙っていた。

「そっか、俺の勝手だったか──。ごめんな、二年間、君の気持ちも気が付かないで」

すると──セシルがレジ横のメモを一枚破って、サラサラとペンで書き始めた。

「失礼ね。私は二年も待っていたりなんてしていません!

とっくにハヤトの事なんか、お友達になっていたんだから!」

彼女がサッとメモ用紙を差し出してくれた。

「その代わり、絶対にメールの返事をちょうだいよ!」

「ああ、メルシー。これでさようならが出来るよ」

「ったく、なぁに? その爽やかな笑顔!」

「……また、くるよ……」

「ハヤト……」

「オヴォワー」

 

いつもその店を出るように、隼人はそっと背を向けてドアを開けた。

『カラン……コロン……』

真っ赤なドアのベルが鳴る。

 

石畳の路上を歩き出す。

 

『カラン……コロン……』

そんな音がして、隼人は振り返った。

 

「帰ってきたら……承知しないから! 納得するまで帰ってこないで!」

セシルが店先で思いっきり叫んでいた。

「……セシル」

「……風の中佐さんを大切にね」

「ああ……」

「いつか……紹介してね。その人じゃないとお店に入れないから!」

「あ、ああ……」

隼人の目の前が曇ってくる、堪えていた涙が我慢できずに溢れてきていたのだ。

すると……セシルの方から、彼女も涙を拭ってサッと店に戻ってしまった。

 

彼女は、また店内で、活き活きと動き出す。

 

隼人はそれを見つめて……前を向いて歩き出す。

 

最後に、会いたい女性がもう一人いた。

その女性との待ち合わせ場所に、隼人は向かう。

 

×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×

 

 

「ハヤト……待った?」

海が見える噴水がある公園だった。

そこの白いベンチで、ぼんやりとしていると彼女がやって来た。

 

「ニナ……」

白いワンピースを着た清楚な奥様が、ニコリと手を振っていた。

昔のように、おかっぱ頭に戻った彼女がそこにいる。

「ごめんな……。昨日、フィリップに頼んで、こんな所に呼び出して。

食事と行きたいところだけど……ニナは家庭の主婦だからどうして良いか解らなかったんだ」

「ううん……フィリップにも行ってこいと、念を押されたのよ」

「坊やは元気?」

「ええ、本当にやんちゃで……。もう学校に行く歳になったのよ」

「そっか、あれからそんなに経ったのか! あ、座って……。何か買ってくるから」

「いいわよ、気を遣わないで?」

「俺が食べたいし、飲みたいんだよ」

「そお? じゃぁ……お任せ」

お互いにニッコリと微笑んだ。

隼人は近くの屋台で、テイクアウトを取ってベンチに戻る。

「トマトサラダサンドは、フィリップには負けるかな」

「覚えていてくれたの?」

「当たり前だろ?」

それに似たサンドと、アイスカフェオレを手渡して、隼人も隣りに座った。

 

「転属と聞いたとき、驚いたわ」

「だろうね……この、俺がねぇ」

隼人は笑って誤魔化した。

「ごめんね? この前、送別会をソニアママンの所でしたみたいだけど。

子供がいるから夜は駄目だったの……」

「解っているよ。それでも会いたかった訳なんだけど……」

「なにか? フィリップから色々聞いたわ?

オガサワラから来たミゾノのお嬢様と仕事をしているとか。

その彼女ととても有意義な仕事をして評判になったとか──。

最後の滑走路デビューは連隊長まで顔を出した程ですって?」

「ああ、まぁ……そうなんだけど」

「フィリップも言っていたわ。カフェで毎日、お嬢様を見ていたけど、素敵な女の子だって──」

ニナが何かを解っているかのように、ニコリと微笑んでくれた。

「やだな……フィリップはなんて言っているんだよ?」

「……きっとハヤトにお似合いだって言っていたわよ?」

ニナがクスクスと笑った。

あの日と同じように、そよ風が彼女の白い頬に赤毛を揺らしている。

「その事よりもね……ニナに伝えたいことがあって。ここを出て行く前に」

隼人は神妙にニナを見下ろした。

「なぁに? 彼女との恋人宣言? もし、そうなら祝福するわよ?」

「いや……。その彼女なんだけど、フィリップから聞かなかったかな?」

すると、ニナの表情が少し強ばった。

夫のフィリップから聞いていると、隼人は悟った。

「お嬢さん……先輩の側近だったという事」

「ええ、聞いたわ。それが?」

ニナは『もう、聞きたくない』という、いつにない頑とした固い顔つきに。

だが、だからこそ隼人は敢えてニナを呼び出したのだ。

「ニナ……去年、先輩が殉職した時、泣いたよな。

『ユウは幸せだったのか?』と──」

「……」

ニナの中では『ユウは思い届かず死んだ』と思っているだろうし、

『奥さんのせい』と思っている事を、フィリップからも聞かされていた。

彼女の英雄が、無惨に散った無念さを、ニナはまだ忘れていないのだ。

だから……呼び出した。

「御園中佐が来た時……彼女もその疑問についてかなり悩んでいたよ」

「そうでしょうね? 同じ事の繰り返しに違いなかったんだわ」

「彼女……先輩を愛していたよ」

「そう……ユウも相変わらずね」

ニナは素っ気ない声で、アイスカフェオレのストローに口を付ける。

「一つ……違うことがあったみたいだ。

彼女の話では……先輩は、遠征から帰ってきたら『正式離婚』が決まっていたらしい」

「!!」

「遠征中に奥さんは他の男との間に子供が出来ていたらしくて──。

本当に、二人の間では『夫妻』として終わっていたと……。

先輩は彼女と一緒になることを胸に……遠征に出かけたんだってさ……」

「それ……本当!?」

「ああ……」

隼人もそっと眼差しを伏せて、カフェオレを飲んだ。

「じゃぁ……ユウは彼女を愛していたの? その……ミゾノのお嬢様を……」

「ああ……彼女、先輩のライターを持っていた。出かけるときに彼女のライターと交換したらしい。

彼女の小さなライターをお守りにしてね。先輩の遺体、手にそれが握られていたらしい──」

「じゃぁ……ユウと彼女は愛し合って。それで? ユウはそのまま!?」

「ああ……先輩の最後の思いは叶わなかったけど、愛し合っていたよ。

哀しい結末だっただろうけど、先輩は彼女に希望を託していたよ。出かける前から。

最後まで、彼女だと思ってライターを握っていたんだろうな?」

「ユウ……」

淡々と伝えた隼人の言葉を聞いて、ニナの灰色の瞳から涙が溢れだしていた。

「彼女とは結ばれなかったわけだけど……先輩は、最後に人を愛していたよ。

彼女も先輩を愛していたよ。ただ……満足に逝かせられなかったという疑問は持っていた。

でも──俺は思うよ。先輩は彼女に愛されて、きっと幸せだった。

新しい希望に向けて全力で向かって、終わりが……殉職だっただけ──。

そして……彼女は泣きながら、このフランスまで先輩を捜しに来てしまったんだ」

「それで……ミゾノのお嬢様はハヤトの元に?」

「ああ、内緒だぞ。ニナだけに話しているんだから……」

表向きは、研修と隼人の引き抜きだったのだが──。

実際は、遠野祐介という男の影を探しに来てしまった事も事実でもある。

そこは、お嬢さんとは関係ない人間には、口が裂けても言えないが……。

ニナには、それは伝えておきたかった。

すると──。

「アハハ! もう……ユウとハヤトって相変わらずね!!」

ニナが急に大笑いを始めたのだ。

「な、なにが??」

隼人が面食らっても、ニナは、お腹を抱えてまで、まだ笑い続ける。

「だぁって! ユウ関係の女性に、その後、ハヤトが必ず関係するの!

なぁに? あなた達って、五年も離れていて……ユウったら死んでまで、ハヤトに!?

やぁだ……よっぽどね! あなた達の関係って!!」

「あー。そういう事」

隼人は、嫌なことを思い出させるなぁと、バツが悪くて切ったばかりの前髪をかき上げた。

「そうなんだよなぁ? 先輩と来たら、死んでも俺に女を押しつけてきやがって」

「あら? ハヤトもそう思ったの!?」

「ああ──。もう、彼女の落ち込み様は半端じゃなかったぜ?

女を哀しませて最後に逝ってしまうなんて、本当にもう」

「でも……ハヤトも彼女を好きになったのでしょう?」

「え? ああ、まぁ。その……」

「ユウとあなたは似ていると思っていたけど……」

ニナがそっと、優美に微笑んだ。

「ユウが愛した女性を愛してしまった事なんて、どうってことないわ?

これからは……あなたと彼女だけの世界で始められるわよ」

「うん……まぁ」

隼人はまだ人前で『恋』をした事が言いにくい。

「じゃぁ……彼女もユウの後輩になるのね?」

「ああ、先輩が置いていった部隊を……女手一つで維持してきたらしい。

先輩の意志を引き継ぐと……サッサと帰っちまったよ」

「それで? 初めて置いてかれた事にショックを受けたの?」

彼女も何もかもお見通しだと……隼人は降参して微笑んだ。

「ああ。俺がいつもどおりに拒んだ訳だけど、そう、置いていかれる事に初めて焦りを感じた。

そして──もう、誰にも置いていかれたくないと……」

「そう……」

ニナがそっと満足そうに眼差しを伏せる。

「ニナ……好きだったよ、本当は。これも気が付くのがすごく遅かった」

「!──なあに? 急に!」

今度は、ニナが頬を染めて……隼人をビックリ仰天の顔で見上げる。

「私だって、あなたの事、好きだったわよ?

だけど……私があなたともう一度始めたいと思ったときは……あなたは」

ニナが苦々しそうに俯いた。

そう──隼人はその時はもう、ミツコと同棲していたと言いたいのだろう。

隼人も溜息をついた。

「ニナが結婚した夜に初めて『好きだ』と、気が付いた。俺──その時に置いていかれた。

その次はセシル。彼女がパリに行くときに、俺はまた置いて行かれた。

そして彼女が美容室を始めた時も……俺はもう追い越されていたし、まだ、走れなかった」

「ハヤト……」

「今度は、彼女を追いかけて、追いかけて……そして一緒に走ると決めた。

もう……『彼女達』には負けないつもりだし、置いて行かれるつもりはない!」

隼人の黒い瞳が輝いて、目の前に広がる海を見据える。

「そして彼女と一緒に先輩が残したものを、俺達が動かす。先輩は死んでいない」

「ハヤト──!」

再び、ニナの瞳から涙が溢れ始めていた。

「じゃぁ……じゃぁ……ユウのためにハヤトは彼女と飛びたいのね?」

「ああ、そうだよ」

「じゃぁ……私の英雄はまだ生きているのね」

「彼女の部隊の中にね……だから、俺もそこに行く」

「……見送るわ。あなたの為に、寂しいけど、それがハヤトが見つけたものなのね?」

「ああ」

隼人は笑顔で言い切った。

 

ニナの瞳に輝きが戻った。

 

「いつか──そのお嬢様に会いたいわ。きっと、私の新しい英雄よ」

「そうだな……きっと」

 

二人は潮風が吹く公園で、そっと笑い合ってカフェオレを飲んだ。

 

「ユウに新しい翼が二つ、付いた感じがする」

 

ニナはとても嬉しそうだった。

 

その次の週──隼人はマルセイユを飛び立った。

あの日、先輩が飛び立った……同じ滑走路から──。

もう片方の翼が待っている『島』へと……。

 

×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×

 

 

次に巡ってきた三月。

隼人はマルセイユにいた。

それも『姫様』と一緒に──。

 

「ねぇ? 何処に行くのよ!」

赤いアウディに乗せた彼女は、肩につり包帯。

任務で負傷した為だった。

「お前、自分でそんなにザンバラに切ってしまって! その頭を帰る前になんとかしよ!」

「何言っているのよ? ここ数日、このまんまじゃない?」

「そうだけど、もう少しマシにしないか? 良いところ知っているから!」

「小笠原に帰ってからでも充分よ? それにママが後でカットしてくれるって言っていたのに」

「俺が美容室を知っていると言ったんだ。お母さんが任せてくれたんだから、言うこと聞けよ!?」

 

隼人はジャンに借りた赤い車に『お嬢さん』を乗せて、お互いに制服姿で連れ出した。

任務負傷をして、無理矢理、退院をしてしまった彼女を

医師との約束通り、基地の医療センターに『診察』に連れていった帰りだった。

とにかく、任務中、なりゆきで切ってしまった髪はそのままバラバラとしていて、

母親が買ってきた整髪料を付けてなんとか誤魔化していたのだった。

せっかくの『休暇中』

時間があったので、診察後、隼人は隣町へと連れていくことに。

 

真っ赤な美容室。

 

『カラン……コロン……』

未だに『嫌だ、嫌だ』と億劫がるお嬢さんを、無理矢理に連れ込んだ。

 

「いらっしゃいま……」

栗毛を結い上げた女性が微笑み……そして、レジには赤毛の女性が立っていた。

 

「やぁ……久し振り。ニナもここの経理で雇われたんだって?

フィリップに挨拶に行ったら、そう聞いてさ。ここに行けば、二人に一度に逢えるって聞いたから」

 

「ハヤト──!!」

二人の女性が、とても驚いた声をあげた。

そう……セシルの店に『葉月』を連れていった。

子供が学校に通うようになって、ニナは元の事務職を活かし、

経理を欲しがっていたセシルの店に勤め始めたとフィリップが教えてくれたのだ。

 

「あの岬基地がとても危ないのに、前線に送り出されたと聞いて、心配していたのよ!?」

あの真っ赤なカウンターに立っていたニナが飛び出してくる。

彼女も、働く女性に変わっていて、益々、魅力的な奥様になっていた。

そして──。

隼人は、背中でモジモジしている『お嬢さん』を肩越しから振り返る。

「えっと──。俺の『彼女』」

「え? ちょっと!?」

上官でも、中佐でもなく『彼女』

隼人は、そうして二人のフランス女性の前に『お嬢さん』を突き出した。

 

「まぁ! あなたが『風の中佐』!?」

セシルは、彼女が羽織っている制服の肩章を確かめて、輝く笑顔をこぼした。

「……まぁ」

ニナはやや茫然としている。

「風ってなに?」

お嬢さんは眉をひそめて、隼人を見上げたのだが、隼人は知らぬ振りで顔を背けた。

 

「初めまして、私はセシル。大尉……じゃなくて、少佐に開店当時にとてもお世話になったの。

本当に、彼は素敵な頼れるお友達」

セシルは恋人だった事は、避けてくれた。

でも……勘が良いお嬢さんは、益々、眉をひそめて隼人を見上げた。

でも──。

「初めまして──『葉月』です」

それなりの笑顔を浮かべて、セシルと気の良い握手。

セシルは、葉月を眺めて……なんだか満足そうだった。

 

「あの……ニナです」

控えめなニナも、自分から葉月の前に出てきた。

「私もハヤトにはとてもお世話になったの」

「葉月です……。あの少佐から、うかがいました。

ご主人様がカフェのコックをされていらっしゃいますよね?

先日は、私の甥にとても良くして下さったようで……有り難うございました。

奥様も、元々は、マダム・フジナミとご一緒にお勤めしていた事務官だったと聞きました」

ニナと葉月が握手をした。

「……」

ニナはジッと葉月を見つめていた。

「主人から聞きました。ハヤトを助けたい一心で、指揮側から現場へ助けに行ったそうですね?」

「あ……はい」

葉月はちょっと思い出したくなさそうで、気まずそうに俯く。

「メルシー。私の『英雄』を守ってくれて。二人もいなくなったら、私、希望を失うわ」

「英雄?」

手を握ったまま、葉月がニナを見つめた。

「そう──もう一人の英雄はね?」

ニナはそっと微笑んで、葉月の胸を指さした。

「あなたの胸にもいる『英雄』」

「私の胸にも?」

戸惑う葉月に、ニナはニッコリと微笑んだだけ。

 

「彼女が『しおり』の花嫁さんだよ」

隼人がそっと耳打ちをすると、葉月がとても驚いた顔をした。

そして──。

「私の手帳……出して!」

葉月は隼人に、せがんだ。

手が不自由なので、隼人に頼ってきたようだった。

 

葉月の手荷物から、隼人は葉月の青い革カバーの手帳を出した。

葉月はそれをパラパラとめくる。

隼人も制服の胸ポケットから、手帳を取りだした。

葉月もそれを解っているかのように、待っている。

そして──二人揃って、ニナの前に差し出した。

「それ!?」

「はい。留守を任された私への指示を残してくれた大佐の手帳にこれが。

澤村が転属してきた時に、彼がこれに気が付いて教えてくれたんです。

同じ日に、並んで……同じ花嫁さんから『幸せのお裾分け』をもらった想い出の品だと」

 

そう──。

転属して暫くしてから、葉月が手帳にその『しおり』を挟んでいるのを発見して、隼人は驚いたのだ。

『大佐が残した手帳に、挟まっていたの。裏にどなたかの結婚式でもらった花で……

日付も書いてあったの。随分、昔で──。でもね? 大佐が、大事にしていたから──。

残してくれた手帳に挟まっていたから、今度は私が大事にするの』

それを聞いて……隼人はとても驚いたのだ。

『それ──葉月が、持っていてくれ』

隼人は自分が持っているピンク色のしおりを葉月に見せた。

そして同じ日に、同じ花嫁から……先輩と並んでもらった物だと。

今度は葉月が驚いた。

隼人と『お揃いにしよう』と先輩が言った事。

そして、それが再び揃った事を彼女に話した。

 

『俺とお嬢さんは……同じ後輩。先輩の分は“葉月”が引き継いでくれよ』

それ以来……二人はお互いの手帳に挟むようになったのだ。

 

その『お揃いのしおり』が、今……再び贈り主の目の前に。

 

「これは……結婚式にあげた私のブーケの花。ユウがしおりにしていたものだわ?

ユウは……ずっと持っていてくれたの? それをあなたが? 代わりに大事に?」

ニナは……隼人と同様、もう『王様』にあげた花は散ったと思っていたのだろう。

とても驚いていた。

 

そして──。

 

「嬉しいわ……本当、嬉しい」

ニナは涙を溜めて……そっと葉月の肩に顔を埋めて……

彼女が負傷した肩をいたわるように撫でていたのだ。

「奥様?」

「ユウ……あなた。私に英雄を残してくれたのね」

「奥様?」

葉月が戸惑っていた。

 

「さ! マドモアゼル? あなたはもう、私達の英雄よ?

なんたってハヤトを救ってくれたんですから! いらっしゃい、格好良く切ってあげるわ」

 

セシルが元気いっぱいに、葉月を誘った。

 

「彼女。この界隈で二十代で成功した有名人なんだ。話が合うよ」

隼人はそっと葉月を、送り出す。

葉月も……『先輩』を良く知っているお姉さんがいると解って、気が和んだようだった。

 

「ハヤト……。びっくりしたわ」

葉月の手帳を手にして、バッグにしまおうとしているとニナが話しかけてきた。

「え? 彼女が意外と子供みたいなお嬢さんだから?」

隼人の背に隠れて怖じ気づいている葉月を、ニナが不思議そうに見つめていたから……。

「ううん? 顔つきがユウに似ていたから」

「……あ、俺も初めてあった時、そう思ったよ」

「しおり……もう一度、みせてくれる?」

ニナの真剣な顔に、隼人は圧されるようにして……もう一度、しおりを二枚、取りだした。

 

「……本当に嬉しいわ。こうして引き継いでくれるなんて。

彼女が本当にユウを愛していた事が、こうして引き合わせてくれたんだわ。

そして……ユウとあなたの友情もね……。

ねぇ? 今度はあなたと彼女で、幸せになってね?」

 

「知っていた? 翼は……これだったんだよ。きっと……」

隼人はニッコリと、二枚のしおりをヒラヒラと右手、左手に持って舞わせた。

「翼?」

「俺と先輩の翼。今は……俺と彼女の翼。

なんとか先輩を飛ばしているよ……俺達」

 

隼人は、白とピンク色のしおりを見つめて微笑んだ。

 

赤い店に、女性達の笑い声。

 

隼人をそれぞれに飛ばしてくれた女性達が笑っていた。

 

 

「先輩どう? 俺達の翼の飛び心地……」

 

店先に見える空は快晴。

隼人は、もう一度呟く。

 

 

 

「先輩──。『俺達』、飛んでいるよ……先輩と一緒に」

 

隼人の側で、赤毛の『マドンナ』が一緒に空を見上げてくれていた。

 

=ウィング・ラン! 完=

●あとがき●

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