10.走る王様
ミツコが出ていって一週間が経とうとしていた。
彼女は、基地では無視しているが、あの友人もいないような彼女が
飛び出してどうしているのかが気になる。
だが──夜、アパートに帰ると、ちょっとずつ彼女の荷物がなくなっているのだ。
だが、身の回りのものだけで、全てが一度に消えて行くことはない。
その様子を確かめて、隼人も決めた。
『引っ越そう』
そう……一片に悟られないようにサッと引っ越す決意は、以前から決めていた。
マリーにも相談した、そして、彼女が出ていった事も打ち明けた。
「そう……。色々あったのね」
マリーは淡々とした表情で、これまたホッとした顔もしなければ
当たり前だが、残念そうな顔もしなかった。
だが──。
「だったら……私がお部屋を探しておいてあげるわ。それまではうちにいなさい」
「本当? 出来れば……今度は基地の近場がいい。康夫と近所が良いのだけど──。
ここから離れてしまうけど、隣町だから自転車では帰ってこれるし。
それから、今度はもっと狭い部屋でいい。ワンルームで荷物も減らそうと思っているんだ。
今あるもので余計なものは、もう売るか捨てるか、ここに引き取ってもらうよ」
「そうね。今まではあなたが一人で慣れるまで不安だったから、近くにしていたけど。
もう大丈夫そうね。お勤め先から近い方が良いでしょうね。解ったわ」
マリーはそうして甘えてくれる隼人に、にっこり満足そうに微笑んで協力してくれた。
ダンヒル家に一時帰宅することになった。
きっとマリーは彼女の気持ちのほとぼりが冷めるまで、引っ越さない方が良いと思って
一時帰宅を勧めたに違いない。
隼人は後になって気が付いた。
パパは何も言わない。
マリーから、絶対に聞いていて知っているだろうが
『アパートを見つけるまでの一時帰宅』という事で、快く迎え入れてくれたのだ。
アパートを引き払う事になったのだが、問題が一つあった。
ミツコの荷物である。
捨てるわけにも行かずに、どうしようかと考えあぐねた末──。
彼女に声をかけることにした。
「ミツコ」
基地でのランチタイムを狙って行った。
一人で食事をしていた。その姿も相変わらず──。
「あら? なにかしら……」
彼女はツンとしていたが、会話には応じてくれた。
「明後日の土曜日に、あのアパートを引き払って、ダンヒルの家に戻るんだ。
荷物を取りに来て欲しい。
もし、来なかったら、俺が処分するものと一緒にするけど──」
「!!」
彼女がとても驚いた顔をした。
「?」
無視をされるほど嫌われたのに、彼女のその顔が隼人には意外だった。
その訳は後で嫌というほど、知ることになるのだが──。
「それだけ──じゃぁ」
「もう、一人暮らしはやめたの!?」
「さぁ? 今まで有り難う」
それだけは最後に一言、言っておきたかった。
彼女との同棲生活で、幸せな時期もあったし……そして、救われていた時期もあったのだから。
嫌な想い出ばかりじゃない。
隼人は『失敗したやり方』をしてきた自分を慰めるために、自分の為にそう言って、
自分自身が最悪の恋をしてきたわけではないと、思いたかっただけだったかも知れない。
ちょっとだけ怯えたのは、引っ越すと知って、彼女がまた猛烈な引き止めに
夜やってくるのではないかと思って構えていた。
だが……来なかった。
そして金曜日の夜、帰宅すると綺麗に荷物がなくなっていた。
段ボールが二箱あって『処分』という紙が貼られている。
その後、隼人はダンヒル家に一ヶ月ほど身を寄せた。
その頃に、マリーが一人住まい専用の小さなワンルームを見つけてくれた。
隼人は、勤務を抜け出してまでマリーと一緒に下見に行った。
「ね? 基地の近く、それにヤスオが一人で住んでいる側よ。
そして──あなたの行きつけレストランがあるホテルアパートの近く。
帰りに食事も出来るでしょう?」
「うん──いいね。ここにする」
家賃も繁華街である隣町に比べると、郊外にあるこの基地周辺の場所は、格安だった。
「再出発ね。頑張りなさい」
「うん。ママン、メルシー」
すぐに契約して、隼人は荷造りを始める。
隼人は、マリーに手伝ってもらって、無事に基地街への引っ越しを終えた。
暫くして──。
「康夫、これ……俺の新しい住所。今度は近所なんだ。遊びに来てくれよな」
「え──!?」
誰にも引っ越すことも、別れた事も言わなかったので、康夫はとても驚いた顔。
「ああ、別れたんだ。アイツから家を飛び出していってね。今は隣町のパパの家から通っている」
「マジ!?」
出て行くなら隼人の方だと思っていたのだろう。
康夫は二重にビックリしたようだった。
「行く、行く! 絶対に、遊びに行く! 今まで行けなかったし! 嬉しいよーー!」
どうして別れたかなんて、康夫には関係がないようだった。
とにかく、康夫はとても喜んでくれた。
その次は同期生のジャンに伝えた。
「ジャンとも近所なんだ。今度、遊びにこいよ。ワンルームで狭いけど」
「やっと別れたか。壮絶だっただろう?」
ジャンは毎日一緒にいるので、それなりに察していたようだったが
『待ちくたびれた』という疲れたため息をこぼしただけだった。
「本当だ、俺のアパートと近くだな♪ 早速、行ってしまうぞ!」
「どうぞ、どうぞ! ビールを用意して朝まで大騒ぎだ」
「やったな! この! 祝杯だ!」
そう──皆が『おめでとう』と言ってくれるのだ。
でも……隼人的にはやっぱり『失恋』の気分だった。
恋に破れた哀しい『失恋』ではなくて……『やり方を失敗した恋』という『失恋』
この事は、きっとずっと……隼人の『汚点』となるに違いない。
そしてきっと……これがいつかは糧になるだろう。
そう……隼人も色々学べたのだ。
最後に報告したのは祐介。
「もう転属するから関係ないと思いますけど、俺の連絡先という事で」
「へぇ──お前にしては随分、思い切ったな。魔女の追っかけに気を付けろよ」
渡したメモを見せても、祐介は皆のように『おめでとう』という顔はしなかった。
「最後まで……駄目だったか。俺の事はどんなに悪く言われても構わないと思っていたが。
高橋は……お前のことを最後まで理解できなかったんだな」
本当は心の底で感じている隼人の『無念』
それを祐介だけが、同じように感じ取ってくれていたのだ。
「せ、先輩……」
「こういう事もあるだろうな……。努力しても報われない仲ってさ──。
ああ……高橋の事だ。子供っぽく拗ねた振りしてお前が迎えに来ると勘違いしているかもな?
彼女も最後の『賭け』に出たんだと思うぞ? だけど、隼人の答が『引っ越し』となると
決定的に突きつけられたと思って、暫くは打ちひしがれているかも知れないが……。
今頃、どうやってお前を取り戻すか、あれこれ考えているかも知れないぞ」
いつもは冗談で言うのに……この時、祐介はかなりの真顔で隼人に『忠告』をしたのだ。
隼人は……さすがの先輩の言葉に、初めて『ヒヤリ』とした。
「あいつから出ていったと言うが、縁を切ったのは隼人が先だ。
あいつが追いかけてきても、毅然とした態度を貫き通さないと、もとに戻るから覚悟しておけよ」
先輩の顔は真剣で、まるで隼人に『同じ繰り返しをしないよう』にと言い聞かせているようだった。
「お前は優しいからな……。また、俺じゃないとどうなるか解らないだなんて
中途半端な気持ちは、この際、捨てろ。たとえ、高橋が『自殺』を試みてもだ」
「ま、まさか……」
隼人はゾッとした。
彼女は本当にここ数年、隼人にべったりで、隼人さえいれば
後はどんなに我が儘に振る舞っても、嫌われても『大丈夫』という事もあっただろう?
そうなると……やっぱり責任は俺にあるじゃないかと隼人は思った。
でも──。
「安心しろ。ああいう女は絶対に死は選ばない。むしろ──お前を取り戻そうと躍起になるさ。
俺はその事で、お前が逆戻りしないか心配しているだけだ」
祐介のあの眼差しが輝いた。
『俺の最後の忠告、今度、破ったらお前もそれまで──』
隼人の『王様』が、そう言い聞かせているかの様だった。
隼人は神妙にこくりと頷いて、さらに心を強くして『決して後戻りはしない』と決めた。
「それが高橋の今後の為だ。お前では……もう、アイツは成長しない。
そして……お前も優しい分、苦しいだろうがそれが今までの『ツケ』だと思ってな」
それも厳しい言葉だったが、隼人は充分理解が出来た。
こんな話をしてくれるのは祐介しかいなかった。
厳しいけど、本当のことを、隼人に教えてくれるのもこの『王様』だけだった。
そして隼人が自分自身で『理解』するまで、ジッと見捨てずに見守ってくれていたのも……。
王様がもうすぐいなくなる。
小さな王子である隼人は、今後は一人で頑張らなくてはならない。
「な! 一度、俺の所に泊まりにこいよ! 転属前で荷造りで散らかっているけどさ!
お前の美味いメシを一度は食べさせろ!」
途端に彼が明るくなって、そう言いだした。
隼人もニッコリと笑顔になる。
「ええ! 是非!」
「じゃぁ! 今度の週末な!」
「じゃぁ……市場で材料をいっぱい買って押し掛けますよ!」
二人で笑いあって、やっと──隼人も『開放感』が得られた。
誰にも束縛されない生活が始まった。
祐介の家に泊まりに行ったが──その時、彼がちょっと元気がなかった。
どうも奥さんとの『移転話』が、上手く行っていないようだった。
『まだ、一度帰国するから……その時が最後の勝負』
そんな事を、彼が呟いていた。
そして──その数週間後、王様は皆に激励されてこの基地を去っていく事に。
「お前にはもっと格のいい女がいるはずだ。いつまでも自分の殻にこもっていないで
早くフランスを出るか、もっと上に行けよ。応援しているぜ♪」
見送りの際──、祐介が隼人に残した言葉はそれだった。
「先輩こそ。いつまでも同じ所をぐるぐるしていないで決着、つけたらどうっすか?
がつんと決めて下さいよ。先輩ならすぐにいい女、見つかりますよ」
それが奥さんの説得に成功することでも、離婚することでも……。
彼にもフランスで味わった同じ繰り返しは、もう意味がないのだから──。
早く今の葛藤から解放されて欲しいと思っていたのだ。
「ったく。お前は時々、グッサリする事言うな!」
祐介が別れ際の挨拶にも生意気な一言を言う隼人に顔をしかめた。
でも──。
「アハハ。お前のそうゆう生意気。俺は大好きだったぜ。覚えておくよ♪」
いつもの兄貴の顔で、笑い飛ばしてくれる。そして……
「お前や康夫、雪江ちゃん……それにニナ……ソフィー。
色々な人に支えられて、俺がここで頑張れたことは嘘じゃない。
特にお前──。本当に有り難うな」
「先輩……」
柄にもなく、涙が溢れそうになった。
それは祐介も同じ様だったが、お互いに唇を噛みしめるようにそれは堪えた。
腹を割って、何もかもぶちまけた話し合いなど一度もしたこともない。
だけど──彼とはなんだか通じ合っていた。
「忘れないよ。本当に楽しかったぜ……じゃぁな」
そして隼人の『王様』は涙を振り切るように、背を向けて潔く去っていった。
「先輩、俺も! 有り難う──。先輩……俺も忘れないから!」
飛行機に乗る彼の背に叫んだけど、彼は振り返らずに手を振っただけ──。
これが最後の別れだなんて……誰が予想できただろうか?
×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×
祐介が転属後──隼人は一人きりの生活を淡々と進めていた。
「隼人──元気? ねぇ……最近、ここらへんから通っているみたいじゃない?」
ミツコが時々、猫なで声で挨拶がわりに近寄ってくる。
「ああ、ダンヒルの家からより、近所が楽になったんでね」
「そう……あのね。私もちょっと考え方、変えたのよね?」
「俺の考えは変わらないよ」
「その事なんだけどー。えっとね? 私も、もう少し隼人と色々考えたいのよ」
「俺は一人で考えたいんだ。じゃぁな」
隼人は、一方的に会話を切って、彼女を相手にしなかった。
ミツコも以前ほどのパワーでは噛みついてこない。
もう魔法も効かないこと、そして……隼人が本当にもうミツコという女性を『必要』としていない。
一人でも暮らしていける事の決心が揺るがない事を、噛みしめているようだった。
以前のようには、隼人はもう言う事は聞かない。
だから、大胆に噛みつくとまた隼人は逃げて行く。
そう思っているようだった。
ああやって居場所を探ろうとしているという事は、まだ、引っ越し先は嗅ぎ取っていないと思った。
それもそうだろう?
ミツコと同棲していたアパートは、今よりもランクが上の広い部屋に住んでいた。
ミツコが転がり込んできても、大丈夫なぐらいの──。
ジャンや康夫が暮らしているアパートよりも、独身者には贅沢だというぐらいの部屋だった。
皆が遊びに来られたり、泊まれたり……
良ければ、気のあった男友達と『シェア』で供借りが出来ても良いとか考えていた。
そういうのを夢見て『無理して借りた部屋』だった。
もっというとマリーを泊めたい気持ちも当初はあった。
給与のほとんどは家賃と言っても良いほど──。
その隼人が、あんなワンルームの安アパートに住んでいるとは、ミツコは思わないのだろう。
あの部屋を見れば、ミツコは幻滅するに違いない。
それにもう一緒に暮らすスペースもないワンルームだ。
きっと見当違いの所を探していると思っていた。
それに近頃は、ジャンや康夫が頻繁に遊びに来る。
何故かというと──
「お前のメシ、相変わらず美味いなー!? 俺、毎日来ようかな!?」
ジャンは、久し振りに食べた隼人の手料理に感激いっぱい。
そして──。
「う、美味い! 今度、お前も教えてもらえよ!」
「信じられない! 私だってそれなりにお料理は頑張ってきたのに!
隼人さんは、何処で覚えたの!?」
康夫&雪江アベックも、そうして良くやって来ては、隼人の食事を食べて行く。
『あそこに行けば、何か食える』と言う男友達が入れ替わり、立ち替わり訪ねてくるように。
そういう事で、隼人の居場所が見つかっても……ミツコは以前ほど踏み込めないはずだった。
そんなある日。
康夫が一人で遊びに来たときだった。
「あ、先輩から連絡とかある?」
隼人が作ったピラフを勢い良く食しながら、康夫が尋ねてきた。
「ああ……一度、手紙が来た」
隼人は元気なく答える。
何故なら……その手紙には『妻との交渉は決裂した』と書かれてあったのだ。
先輩はまだ『離婚する』とは匂わせていなかった。
むしろ──
『俺はもう少し闘う。隼人だって、最後まで諦めなかっただろう?
決定的にお互いが理解できないと解るまで、俺もとことん……』
まだ妻への希望は捨てていなかったのだ。
そして……康夫が続けた。
「つい最近、俺にも手紙が来て……それで、子供が出来たんだってさ」
「ええ!?」
隼人はびっくりして声をあげた。
「きっと帰国した時の子じゃないのかな? 俺も父親だって喜んでいたぜ?
良かったなー♪ これで先輩も少しは家庭に希望が持てるよな!」
康夫も、ほぼ祐介の気持ちを理解している一人だったが……隼人が知っているほどではないようだ。
隼人にはなんだか……益々、嫌な予感がした。
子供が出来れば女房も動くだろうか?
康夫は、『さすがの奥さんも父親がいない生活はしないだろうさ? 動くよ』と思っているようだ。
でも──隼人には解る。
あの安穏奥様が外国での子育てに、立ち向かうことが出来るだろうか?
自分一人が動くことだって、躊躇って死守している女性なのだから?
隼人は、そう思ったのだ──。
すると、康夫からその話を聞いて、数日後。
祐介から手紙が来た。
『同居については、女房とは完全に決裂した。子供は……日本で育てたいと……。
俺も日本に帰ることを考えた。だが──妻は、俺に仕事は捨てるなという。
俺はどうすればよいのか、解らなくなった』
(やっぱり──)
隼人はガックリと肩を落とした。
それって『亭主元気で、留守が良い』と言っているようなものじゃないかと?
さすがに『鈍感妻』
夫の栄光を日本で笑顔で、まわりに振りまいているに違いない。
そういう『見栄』だけを夫に望んでいるのだと、隼人はつくづく痛感した。
彼が、家庭のために、実力を捨ててまで日本に帰ると言ってくれているのに!
やっぱり、隼人は腹立たしくなってくる。
彼に会いたい。
会って……彼の顔が見たい。
きっと一人きりで、打ちひしがれているに違いない。
でも──最後の文面。
『でも、俺は決めた。子供には絶対に不自由をさせない。子供のためだけに生きて行く。
二年で中佐までのし上がる。その為なら危険な仕事もいとわず、俺は絶対に生きてやる。
俺に仕事で頑張れと妻が言うなら、とことん一人で登り詰めてやる。
俺のある力、全部振り絞って……その結果で得た物は、全て息子に捧げる。
もう──それしかできない』
「……」
彼のあの豹のような眼差しが隼人の中で蘇った。
子供の為だけに、生きて行く。
彼の妻への思いは……もう、粉々になったようだった。
それから──祐介からの手紙が暫く途絶えた。
×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×◆×
そして──。
「きゃっ!」
「わ! ごめんよ!!」
ミツコと別れて数ヶ月後、脇道から飛び出して来た栗毛の女の子と自転車同士で衝突した。
薄い水色の目をした女の子。
近くの美容師学校に通う学生だった。
名前は『セシル』
「綺麗な黒髪──」
石畳の上に転んだ彼女に手を差し出すと、彼女が隼人の髪を見てそう言った。
「え?」
「何処の国の人? 東洋人ね?」
「ああ……ジャポンだけど」
「そこの基地の軍人さん?」
「ああ……整備員だけどね?」
「いた……」
立ち上がろうとした彼女の膝が擦り剥けて、血が滲んでいた。
「本当にごめんよ? 俺の不注意で──」
「ううん? 学校に遅刻しそうで私の方が急いでいたの」
「遅刻!? 大変だ! 早く行かないと! タクシー呼ぼうか? 俺が送るよ!!」
「アハハ! 大袈裟ね。子供じゃないわ──これぐらい平気!」
彼女は無邪気に笑うと、ミニスカートで自転車にまたがった。
「待って!」
隼人はその短いスカートから丸出しになっている膝小僧の擦り傷が痛々しかったので……。
「これ、捨てて良いから……あ、洗い立てだよ? まだ一度もトイレにも行って使っていない」
彼女の膝小僧に、その青いハンカチを巻いた。
「アハハハ! なに、それ! そこまで説明しなくても良いわよ!」
彼女は大笑いで、隼人の方が恥ずかしくなって頬を染めたのだ。
でも──彼女は大人しく、そのハンカチを巻く隼人を受け入れてくれた。
「メルシー♪ 軍人さん──アデュウ!」
赤いチェックのミニスカート。
彼女はそれをヒラヒラさせながら、自転車で去っていった。
「ボンジュール♪」
それから数日後、基地の入り口で、あの元気な女の子が自転車にまたがって
笑顔で手を振っていた。
「あ! あの時の!」
「ここで待っていれば、きっと会えると思って! これでも今日で三日目なの」
「三日!?」
「これ……有り難う。捨てられなかったの」
セシルが差し出したのは、先日、隼人が彼女の膝に巻き付けた青いハンカチ。
「ちゃんと洗ったのよ? 私もトイレに行っても、一度も使わなかったから安心して」
ニンマリと微笑んだその無邪気で元気の良い顔。
「──アハハハ!」
とっても気さくな女の子。今度は、隼人が大笑いだった。
「そう、三日も? 学校は?」
「今日はもう、終わり」
「だったら、その三日の努力に何か報わないとね。お腹は空いている?」
「とぉっても!」
彼女と食事に出かけた。
軍人ではない彼女の美容学校の話は、聞いていてとても楽しかった。
アッという間に彼女とは意気投合して、セシルは隼人のアパートに頻繁に来るようになる。
つまり『付き合うようになった』のだ。
とっても、はつらつと元気な彼女。
細かいことは気にしなくて、そして隼人よりずっと若くて夢に溢れている女の子。
いつも元気が良くて、我が儘も女の子らしい可愛い程度。
(やっと普通の恋が出来たかなぁ?)
隼人にも輝かしい日々がやって来たかのようだった。
勿論、セシルは頻繁に隼人のアパートに入り浸るので、
頻繁に訪ねてくるジャンに康夫とも鉢合った。
当然、紹介した。
「この! お前、あんな可愛くて若い子に見初められてなんなんだよ!」
いつも恋はおいかけっこ、すぐに彼女から振られてしまうジャンはとても羨ましそうだった。
「ヤスオ、ユキエ! 切らせて」
セシルはいつでも美容ハサミを手にして、そうせがむ。
「調度良いわ。綺麗にカットして? セシルは上手だもの」
「任せて。ユキエ♪ ヤスオも格好良く切ってあげるわよ」
「隼人兄みたいに、短くされるのは嫌だな」
「希望通りにしてあげるって!」
隼人の部屋はそうして時には美容室になったりしていた。
仲間を挟んで、彼女と和気藹々……そんな平和な日々だった。
ジャンはすぐに次の恋が生まれる。
そのジャンの新しい恋人と一緒に、セシルを連れてドライブをしたり、マリンスポーツをしたり、
週末の小旅行にも出かけたり、今度はダンヒルの家にも連れていった。
今度はマリーもとても気に入ってくれたのだ。
「まぁ……可愛らしいお嬢様。美容師の卵ですって? 私も切って頂こうかしら?」
勿論、セシルは持ち前の愛嬌の良さと、こざっぱりした性格で
マリーともうち解けた。
そんな誰にも気兼ねしない付き合い。
皆に受け入れてもらえる幸せを、隼人は噛みしめていたのだ。
セシルは隼人の黒髪をとても気に入ってくれていた。
彼女と付き合っている間は、隼人は美容室に行ったことはない。
短期間に色々なカットをされて、『何処で切った?』と仲間に聞かれるぐらいだった。
「隼人。どうしたの? その短い髪!」
夏になって、セシルにつんつんと、髪が立つほどの短髪を希望して切ってもらった後。
ミツコが驚いて声をかけてきた。
「ああ。彼女に切ってもらったんだ」
「──! 幾つぐらいの子?」
「……どうでもいいだろう?」
隼人より年上だった彼女に、二十代前半の若い女の子と付き合い始めたとかは言えなかった。
それに本当にどうでも良い事で、もう……彼女が知ることではないと思えたから。
基地中の皆が『すごくファッショナブルな女の子が警備口で待っている』と噂した。
隼人の急な容姿の変貌振りも噂になっていたようだ。
誰もがあの女の子は誰だと聞いてきたが、隼人は、はぐらかした。
恋人だと思う者はそう思えばいい。
もう、恋人に関してあれやこれやと聞かれるのはウンザリだったから。
「あのね? 今日、ハヤトを待っていたら、綺麗な黒髪の女の人に話しかけられたの」
「え?」
セシルと裸で横になっていた週末の夜。
彼女が肩までのレイヤーカットの毛先を指でいじくりながら、ちょっとふてくされていた。
「お子様だって言われたわ。あの人も日本人ね? ハヤトの知り合い?」
「あー。うん……」
「別れた恋人?」
「……」
「怒らないから、教えてよ。私にだって気構えって必要だと思うし」
「ああ、そうだよ。散々な我が儘な女だったから別れたんだ。
我が儘を許した俺も悪かったんだけどな?」
「ふぅん? 結構、大人の人なのにね? すごい顔されたもの。
二度と基地の周りをうろうろするなって言われたわ」
「そこまで!?」
今度はセシルがなにされるか解らないと思って、もう警備口では待っていないように
させようと思ったのだが──。
「でも、解るわよ? あの人が我が儘になっちゃったの。
だって──ハヤトってうんと紳士で優しいのだもの♪
私は平気! それでもハヤトを待っているもん!」
無邪気に抱きついてくる彼女がとても愛おしかった。
だが──そうは長く続かなかった。
セシルには夢があったから──。
「私ね。パリへ出たいの──解る?」
「ああ、解るよ。セシルの夢だもんな……」
「ごめんね……」
セシルは泣いていた。
それに彼女とずっと付き合うと言っても、彼女もまだ若く……
隼人が本当に『日本人』だと解るほど……将来に不安を感じたのだろう。
自分には夢もあるし……そして、日本人の妻になるわけには行かない。
妻と言うより、妻になると言う考えだって彼女にはまだずっと先の……
今は考えることが出来ない遠い話であったのだから──。
たとえ……隼人がフランスに居つづけると言っても、
若いセシルにその『勇気』を持たせるのは酷だった。
それよりも思うとおりの『夢』へ向かわせてあげたいと隼人は思ったのだ。
別れるなら、今しかなかった。
お互いの為に──。
「パリにお店を持ったら、絶対来てね!」
「ああ……それまで帰ってくるなよ!」
今度は『円満』に別れた。
彼女の旅立つ笑顔が胸に染みる。
だけど……偶然の出逢いから得た、隼人の楽しい日々。
……それだけ彼女が上手に残してくれた。
この付き合いはセシルが専門学校を卒業する一年ほどの事だった。
祐介が転属して、二年後……風の噂で祐介は誓い通りに『中佐』に昇進したとの事だった。
「随分、危ない任務に志願しまくっているらしいぜ? 大丈夫かな……」
この時、エリートコースまっしぐらの康夫は『少佐』になっていた。
もうすぐ一つのパイロットチームを持つように上に言い渡され、順風満帆の道を歩んでいる。
そして雪江とも婚約をしたばかりだった。
そんな少佐となり、康夫の方が、そんな情報を拾ってくるようになった。
(きっとヤケになっている──)
隼人はそう思った。
彼から連絡は途絶えて……如何に孤独感の中、暗闇をまっしぐらに走っているか。
わき目もふらずに、彼は自らを闇におとしめて、そして──走っている。
そんな為に隼人は見送った覚えはない。
彼に手紙を書いた。
『お願いだから、絶対に死に急ぐような無茶はしないで欲しい』と──。
すると、珍しく返事が来た。
『死にかけた事は何度かあったが、息子の顔を思えば、死ねるモンか!
お前は心配しすぎ。俺は元気で悠々フロリダの太陽を楽しんでいるぜ?
今の女は金髪に青い瞳だ♪』
(バカ!)
心配して『損した!』と隼人は思ったぐらい。
でも──その手紙をみて、なんだか笑っていた。
「元に戻っちゃったみたいだけど、先輩らしいな……」
これが自分の闇を隠す、明るさかも知れないが……彼が女と遊んでいるうちは
それなりにここにいたときと同様に……元気なのだと思うことが出来た、とりあえず。
最後に一言。
『やっぱり隼人だな──。嬉しかったぜ、メルシー』
それが彼からの最後の手紙だった。
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