19.黒髪姉様
夕なずむ、横浜の街を見下ろそうと隼人に誘われて
ワンピースに着替えた葉月は、彼のエスコートで庭に出ることになった。
花壇には、黄色、白、紫の愛らしいパンジーがそよ風に揺れている。
「綺麗にお手入れしているのね」
「ああ」
美沙が手入れをしているからだろうか?
隼人は、ジーンズのポケットに手を入れたまま……
そっと坂のずっとしたにある一望できる町並みを静かに見渡すだけ。
葉月もそんな彼をそっと横で感じるだけ。
「やぁ。見違えたね!」
玄関からそんな声……。和之が出てきたのだ。
「お父様」
着替えた葉月を見つけて、この上なく嬉しそうだった。
「軍服以外の葉月君を初めて見たよ。思った通り、素敵なお嬢様になったじゃないか」
「いえ……そんな……。でも、有り難うございます」
気恥ずかしくなって、葉月は背が高い隼人の脇に無意識に隠れようとしてしまった。
「……まったく、フランスでもそうだったな」
そんな葉月を見下ろして、隼人はやっとそれらしくいつもの兄様笑顔で笑い始めた。
「そうだったかしら?」
「ああ、そうだったよ。ほら……えっと」
隼人が人差し指を立てながらその場面を言葉にしようとしている。
「ほら! 海辺のレストランに行った時」
「ああ……うん。あの時ね」
最後のお別れの食事会をした、あの『記念の宵』の晩……。
私服で出かけた葉月がそっと……ご主人に見つめられて隼人の背に隠れた事。
葉月もふっと思い出した。
「なんで恥ずかしがるのさ? せっかく女の子らしくしているのに……」
「……らしくないから」
葉月は俯いてそっと……膝下でメロウウェイブの裾が揺れるのを見つめる。
「もっと、女性として自信を持っても損はないと思うよ?」
「…………」
そうして後押しをしてくれる彼の言葉はとても嬉しいのだが
自分自身はどうにも納得出来ない部分が残っているのだ……葉月の場合は。
でも──
そんな息子とその彼女の庭先での会話を目にしながら
和之がにこやかに庭隅にあるホースを手にしたのが二人の視界に入った。
「さぁ……! そこで仲がよいのが羨ましいから邪魔でもしようかな?
水をまくから、どきなさいーー!」
和之がそう言いながら蛇口をひねって、ホースの先から水が出たところで
隼人と葉月の足元に水を飛ばしてきた。
隼人は過剰に反応してよけようとしたが……葉月はまったく水をよけようとしないので……
「うわ! 親父! いい加減にしろよ!」
隼人が驚いて、さっと葉月が濡れないように背中に隠した。
「あははは!」
「なにが『あははは!』だよ! せっかく葉月が着替えたのに!
葉月! お前も! お兄さんがくれた服が濡れるって言う危機感持てよ!?」
「あはは! 大佐嬢は動じなかったが、中佐君は動じたな。葉月君の勝ちだ!」
『中佐君』と、バカにされた為か、隼人が途端にムッとした顔に。
葉月は思わず『くすり』とこぼすと、今度はしらけた眼差しで隼人が見下ろしてくる。
「まったく。なんでもかんでも、葉月優先だな。ふん!」
隼人が腕組みぼやいている隣に和之がホースを持って花壇に水をまき始めた。
高台にある住宅の上の空は、焼けるような夕暮れ。
水が綺麗に弧を描いてキラキラ輝いているのを、葉月は澤村親子と笑いながら眺める。
愛らしいパンジーの花びらがベルベットのように小さな水の珠を弾いて踊っているよう……。
花壇側にしゃがんで、葉月が指先で花びらを弾きながらうっとり眺めているのを
澤村父子が、見守るように微笑んで見下ろしていた。
そうしていると──
アイボリー色のローバーミニが門から入ってきた。
美沙が帰ってきたのである。
『バタン!』
運転席から出てきた美沙が、夫と義理息子が一人の女性を見守るように花壇にいるのを
目に留めた瞬間の所で葉月も座ったまま振り返った。
「ご苦労だったね。美沙」
和之がいつもの穏やかな笑顔で微笑みかけた。
隼人は……当然、無反応。
葉月もそっと立ち上がって、美沙に会釈をしたのだが……。
美沙は夫の微笑みに、表情でも何を返すわけでもなく後部座席の荷物を取ろうと動いただけだった。
葉月の心に……訳の解らない痛みが走る。
それで……
「手伝います!」
花壇から美沙がいる車へとサッと走り出す。
車とお揃いのような色のアイボリーのパンツスーツを格好良く着込んでいる美沙は
まさに……『女優』の様な優雅さで
首から、さり気なくジャケットの襟内側に沿わせているスカーフは
エルメスの華やかなスカーフだった。
葉月が、ワンピース姿で走り付くと、やっと美沙が微笑んでくれた。
「まぁ……そうしていると可愛らしいわよ。思った通り、軍服よりずっと素敵だわ」
「いいえ。従兄によそ様への訪問だからと、無理矢理着せられたような物です。
私は……自分からは、こういう恰好はあまりしない性分なので」
「勿体ないわ……『隼人』が、がっかりするわ」
「……あの、美沙さんも……背が高くて女優さんみたいでパンツルック素敵です」
背が高いと言っても……葉月と同じ様な身長だったが……
葉月は思ったまま、おべっかでなく言ったのだ。
目の前に、柔らかなカールをふんわり肩先で揺らしている大人の女性。
自分がなれない姿。まだ、届かない大人の香り。
フッと……ロイの妻、美穂や……そして、姉を思い出す香りを感じていた。
彼女が優しく微笑むと、なんだか切ない甘い懐かしい想いに連れて行かれるような……
気持ちがよい心地よさを葉月に与えてくれるのだ。
美沙の手には大きな丸い包み。
それが後部座席や助手席にまだ沢山あった。
「中に運べば良いのですね?」
葉月もサッと助手席ドアを勝手に開けようとすると
「構わないのよ!? 怪我しているでしょう?」
「いえ。もうだいぶ良いのですよ。これぐらいの軽い物なら持てますから……」
「でも──」
「いいのです」
葉月がそう言って勝手に助手席にある丸い器を薄い紙風呂敷でつつまれた物を
二つ一辺に……腕いっぱい抱えたところで、やっと隼人が駆けつけてきた。
「お前……無理するなよ」
葉月の腕からサッと……包みを二つ奪い去ったのだ。
「じゃぁ……後ろの物を……」
隼人が抱え込んでも、葉月が手伝おうとするので、今度は和之が駆けつけてくる。
「葉月君! ダメだよ!」
その様子を見て……美沙の顔が急に曇ったのだ。
そして……
「あら? 私、一人だと誰もこの家の者は来ないのに。
葉月さんに手伝って頂いた方が、本当、助かるし気持ちがいいわ!」
ツンと夕風の中、柔らかい黒髪を揺らして美沙がそっぽを向けた。
「こら。美沙──。葉月君がお客様だから私は……」
和之が子供のように拗ねる妻に言い聞かそうとしたが……
「放っておけよ」
隼人が冷たく言い放って、荷物を抱えてサッと先に歩き出した。
それを見て……葉月はまた、握り拳をそっと握る。
隼人の背中を追いかけて……
「貸して!」
隼人の腕から、荷物を二つ奪い取ってやった!
勿論……左肩に痛みが走って堪えたが、その痛みの反応が顔に思いっきり出てしまったらしい。
「何やっているんだよ!」
痛くても両腕で荷物の落下だけは死守する葉月から、隼人がまた奪おうとしたのだが
「……『お姉様』が、一人でお遣いに行って、一人で荷物を運ぼうとしているのに
俊敏に反応しない男を側近に持った覚えはありません!」
葉月がツンと言い放つと、隼人は一番痛いところを、一番触って欲しくない相手に触られたためか……
「そっか。解った」
冷たくそれだけ言って、一人背を向け家の中に入ってしまった。
「…………ご、ごめんなさい。葉月さん……。私、余計なこと」
美沙がフッと自分が拗ねたことで、二人が仲違いしたことを気にしはじめたのだ。
だけど……葉月はニッコリ。
「……別に。いつものことです。仕事中だって、言い合いはしょっちゅうですよ?」
本当は……こういう風にしたくはなかったのだが……。
本当は……隼人に悪い事したと解っているのだが……。
何事もないように微笑んでいた。
和之も気まずそうにしつつも……
『美沙、私が持とう』と……やっと、夫らしく妻が持つ荷物を優しく腕から受け取っている。
美沙もそれで気が済んだのか……残りの荷物を抱えて車のドアを閉めた。
葉月も抱えて、一緒に玄関を入ったが、隼人の姿は何処にもなかった。
『隼人を呼んでくる』
リビングのテーブルに中華の丸トレイを並べると、和之がそっと二階に上がっていった。
葉月はキッチンで忙しそうに動く美沙と二人きりになった。
「葉月さん? 構わないから……隼人の所に行ってあげて?」
「あの……この包み、ほどいても構いませんわよね?」
美沙の勧めに、従わずに葉月は笑顔でリビングに置かれた荷物をほどこうとした。
「あのね? 葉月さん……」
ジャケットを脱いだ美沙は黒い半袖のセーター姿になっていて
心配そうにリビングにいる葉月の元へやって来た。
「私の事は、気にしないで? それからね……」
美沙が葉月の横に座り込んで、言葉を躊躇うようにそこで止めた。
そして……
「隼人ちゃんの事、一番に考えてあげて? 貴女しかそれは出来ないから……」
「……解っています。だから……こうしてお邪魔しに来たんです」
その時、葉月は真顔になっていた。
微笑まない表情で、ひたすら、沢山の中華の包みをほどいた。
目の前に広がった、美味しそうな光景に、素直な感想を述べたいところだが
それも出来ずに、その表情のまま、包みをほどく葉月を美沙が困ったように見つめている。
「……知っているの?」
美沙が……やっと心を開いたように葉月には感じた。
「……何をですか?」
だけど、いきなり『それ』を認めては美沙にも刺激が強すぎるだろうからと
葉月はとぼけてみた。
案の定……美沙は、葉月への『カマかけ』をそこで躊躇って止める。
おそらく……隼人とはお互いに感じていながらも話し合ったことも、認め合ったこともない事……。
それを葉月に言おうとしているのが通じる空気だったから、葉月はひたすら包みを解くだけ。
「知っているから……ここに来たのでしょう?」
美沙も躊躇いの末だろうか? やっと、そう言った。
「彼からは何も聞いていません」
葉月は、まだ、直接的には美沙の言葉には応じようとはしない。
「では……貴女がそう、感じていたって事なのね? 私を? 確かめに来たの?」
『大人の女性だ』……葉月はそう思った。
彼女は何もかも解っている。
隼人の気持ちも、解っている。
隠しても無駄だろう……。
あの和之の『妻』だ……。
昼間、書斎で聞いた話では『通訳秘書』だった彼女。
頭は良いに違いない。
『御園大佐嬢の勘』がそう言っている。
「確かめに来たという事ではありません。そうじゃなくて……彼の事、知りたかったから」
葉月はそこで……ほどく手をやっと止めて隣にいる黒髪の女性に微笑みかけた。
彼女も……少しだけ頼りない笑顔で応えてくれる。
葉月もその笑顔に救われて……心の隅にある事を話せそうな気がして口を開く。
「今までは……目の前にいる彼『そのもの』だけの存在感だけでした。
彼が……どう育ったとか……私の元に来るまで何があったとか……。
知ろうとはしませんでした。勿論、彼から語らないからと言うのもありました。
だけど……彼は違いました。
私のすべてを知りたがり、その衝動も、私が痛がるところは私に直接触れないで
そっと影から私を知ろうと一生懸命で……影で何か知っても知らない振り。
知らない振りしながらも、今の私よりもっと良い私にしてやろうと、懸命になってくれました。
だから……私もそんな彼から教わったんです。
目の前そのものの彼、以上の彼にしてあげたいんです……。
でも……ダメですね。私……子供です。彼みたいに上手にフォローできません。
さっきみたいに、直接、ぶつけてしまいました……。ダメですね……私。
ちょっとでも彼にお返ししたくて……ここに来たのに……」
葉月がそっとため息を落とす……。
落としながらも……
『なんで、私、会ったばかりの人にこんな事、素直に話しているの!?』
と──、内心、驚いていた。
「そう。そうだったの……」
美沙が葉月の顔を覗き込むようにそっと優しく微笑んでくれた。
その優雅さ、柔らかさ。
また……葉月は泣きたいくらいに切ない気持ちにさせられた。
もっと言うなら抱きつきたくなった。
そんな葉月の顔を見て、美沙が可笑しそうに笑う。
「あら……。しっかりした大佐嬢だと思っていたのに……意外ね?」
自分がどんな顔をしているかは解らないが……たぶん、『少女のような顔』をしていたのだろう?
本当に抱きつきたくなった。
『お姉ちゃま!』と……昔忘れた感触が、何故? ここで蘇ったのか困惑した!
困惑したから抱きつくまでには至らなかった。
「ね? 葉月さん……さっきは私驚いたわ?」
美沙のその言葉で、サッとその衝動が収まって目が覚めたように元に戻る。
「……? 何がですか?」
「貴女、さっき私の事、なんて呼んだか覚えている?」
「いえ?」
「ふふ……『お姉様』って言ったでしょ?」
「え!? そうでしたか??」
「ええ。言ったわよ?」
「す、すみません! お母様でしたよね!」
葉月が慌てると、美沙がやっと声を立てて笑い始めた。
「ううん。驚きながらも……そっちの方が違和感ないって初めて気が付いたの。
義理息子に彼女が出来たら……何て呼ばれるのかしらってずっと思っていたけど。
最初、貴女に『お母様』って言われたとき……ちょっと哀しかったわ」
「哀しい?」
「そう! 私も老けたのねぇって」
美沙がおどけて天井に両手をパッと広げた。
「老けたって……ふふ……!」
葉月も上品な美沙が初めておどけたので、可笑しくなって噴き出した。
「ね? お姉さまで丁度良いでしょ? 冗談じゃないわ? お母様だなんて!
和人のお嫁さんに言われるならともかく!」
「あはは……! そうですよね!?」
「そうよ……。だから……」
美沙がそこでフッと表情を和らげて俯いた。
「だから……そう言う感覚であるべきだったのよ。私と隼人は……。
それ……初めて気が付いた感じだったわ。貴女に……『お姉様』と呼ばれて……」
『!?』
まさか! この女性から……核心に迫る話が語られるのかと……葉月は急に硬直した!
だけど……美沙もそこは『痛いところ』なのだろう?
すぐには語り始めようとしなかった。
「あ。また、中華かよ? お客が来るといっつもだな!
あれ!? お姉さん! すっごいお洒落しているじゃない! 軍服もいけていたのに!!」
母と葉月の張りつめた空気の会話を壊すかのように、和人がリビングに入ってきた。
半袖のティシャツの下に長袖のボーダーシャツ。
腰より下で履いているようなルーズなジーンズ姿の茶髪の少年が
ポケットに手を突っ込んだまま入り口の壁に気だるそうに寄りかかっていた。
「和人! もっと品の良い誉め方はないの!?」
息子のはすっぱさに業を煮やした美沙が、柔らかな姉姿から
キリッとした母親になった。
和人は、いつものことなのか? 母親のお小言を鬱陶しそうにして
耳の穴に指を突っ込んでほじくり返している。
「その食事、飽きたんだよね。俺、出かけるから……。
昭雄伯父ちゃんは、親父の書斎に行ったよ。じゃな!
あ。葉月さん……! 俺が買ってきたアイス、いっぱい食べてよね!」
母親には無愛想に、葉月には笑顔で……和人はそう言って出かけようとしていた。
だが……美沙がサッと立ち上がって入り口を出ようとする自分より背が高い息子の片腕を掴んだ。
「和人! 昼間も言ったでしょ? この際、塾をサボったことはもういいわ。
だけどね! 今夜はお兄さんが久し振りに帰ってきたのよ??
お客様もいらっしゃっているのだから、一緒に食事ぐらいしなさい!」
母親としてもっともな言い分だろう。
葉月はただ……ハラハラして見ているだけだった。
そして、予想通りに……
「うっせいなぁ! 兄ちゃんも出かけて構わないって言ったぜ!
ただ、出かけた先で昭雄伯父ちゃんと会ったから帰ってきただけだぜ!」
母親が掴む手を肩から腕を振って強引に振りほどいた。
こんな状況で、よく見る場面。
葉月はまだ、ハラハラ見ているだけ……。
美沙も母親だから怯まなかった。
「和人! お兄ちゃんにいつまで甘えているつもりなの!?
お兄ちゃんがそう言っても……お母さんは許さないわよ!
お兄ちゃんはね! 命がけの任務から帰還したのよ! 一緒に食事が出来ることを感謝しなさい!」
また、息子の腕を掴んだのだ。
美沙は……美沙は……と、葉月は思った。
避けられていた義理息子が、帰省もせずに危険な任務へ旅立った。
どんな気持ちで……隼人の帰省を待っていたかと……。
心が通い合わないまま……もし? 隼人が殉職したならば……
どんな後悔を抱いていたのだろうか?……と。
だから……今日の『食事』は昔のままの家族で迎えたい。
まだ、わだかまりがあっても……そこに息子がいて、隼人が戻ってきた事を。
感じたいのだ──!
葉月が、そう思って胸打たれた時!
「離せよ! くそばばあ! 何でも兄ちゃんが一番かよ!!」
和人の形相が変わった!
その言葉に葉月の脳裏で何かが『パシン……』と、弾ける!
(和人君……そんな気持ちも持っていたの!?)
和人にも……抱え込んでいる気持ちがあると初めて知った!
それとまた同時に……
「きゃあ!」
美沙が息子の男力に跳ね飛ばされて、リビングの床に倒れ込んだのだ!
「美沙さん!!」
葉月が和人の発言に一瞬気を奪われていた隙に、美沙は床に身体を横たえてしまった。
和人がそれを見て……サッと身を翻した。
葉月がサッと垣間見た少年の表情は……やるせなさそうな、気まずい顔。
それを一瞬灯して背を向けた。
だけど……葉月は……
「こら! 待ちなさい!!」
許さなかった!
美沙をお越しあげるより、和人に向かって和人の腕を掴んでいた。
「なんだよ? 離してくれよ! 俺、今からデートなんだよ!」
葉月がリビングの入り口で、掴んだ腕をそっと振りほどこうとした。
母とは違って、葉月なら離してくれると思っている様だったが……
「何が……デートよ!!」
「うわ! なに!? 何するんだよ!!」
葉月が掴んだのは……和人の襟元!
「なんだぁ。騒々しいじゃないか?」
階段の上から、のんびりした昭雄の声が聞こえて……
「何事だ! 美沙、和人、大きな声で!」
和之の声も一緒に聞こえた。
だが……その時は既に……
「うわ! うわ!!」
「女を突き飛ばす男にデートの資格なんてないわよ!!」
ワンピース姿の葉月が裾を翻して、和人を両腕で腰に背負い込んだ所!
和人の身体が軽々床から宙に舞っている……。
『ドシン……!!』
「いてーーっ!!」
リビングドア外の床に和人が叩きおろされて……
葉月は和人の襟首を持ったまま腰をかがめている姿勢……。
「おー。お見事……」
昭雄のちょっと戸惑いつつも感心の声だけが、シン……とした空気に乗ってきた。
「…………」
あの和之さえも……絶句している状態で、暫し空気が止まっている。
「なに? 何か音がしたけど……あ!!」
隼人がやっと姿を階段の上に現して……手すりに身を乗り出し、
下で繰り広げられている光景に流石に驚いた声をあげていた。
一時、止まった空気を動かしたのは和人。
「このやろう! 大佐だか、客だかしらねえけど! アンタ、他人だろ!」
すぐに起きあがって、葉月に飛びかかってきた!!
「和人!」
美沙もやっと気を戻したのか、起きあがって息子を止めようと立ち上がる。
「和人!」
「葉月!!」
階段から和之と隼人が駆け降りようとしているのだが……
「まぁまぁ。大佐嬢のお手並みをもう一度見たいなぁ」
昭雄が呑気に義弟の和之と甥の隼人の肩を掴んで止める。
「昭雄!」
「伯父さん、離してくれよ!!」
父子がもがくところでも……
「この!!」
和人は本気で葉月の襟首を掴もうとしたのだが……
「僕、隙だらけだよ」
葉月がヒョイと身体を横へ避けてしまい、またティシャツの襟首を奪われる。
今度は隙だらけの足……和人の長い足の間に葉月の細い足が入り込む。
足を刈られて、和人はまた腰から床へと落とされる!
「おお。すごい、すごい!」
とうとう昭雄がニコニコと、階段の上で拍手をする。
「ああ……」
隼人はガックリ、階段の手すりに額を宛ててうなだれて
和之はまた絶句の静止。
美沙も目の前で起きている光景に……茫然としていた。
「いって〜……しんじらんねぇ! 本当に女かよ!」
和人ももう立ち上げれないのか? 座ったまま腰をさすり始めてうなだれた。
「痛いって言ったわね」
和人の前に、ワンピースの裾を翻す女が偉そうに腕を組んで見下ろしていた。
和人が反抗的にキッと葉月を睨み付ける。
「どう? 適わない相手に力で『痛い』って思わされるの……。
あなた……今さっき、その思いを女性であるお母様に男としてさせたのよ。
私に謝ってもらいたいなら、今すぐ、お母様にしたこと、謝りなさい!!」
葉月が叫ぶと……階段の上にいる大人の男三人も何が起こっていたのか飲み込めたらしい。
「いいのよ……葉月さん」
美沙がそっと葉月の背中に近づいた。
「ほら、あんな目に合わされても、『いいのよ』って言ってくれるのはお母様だけよ!?
その力、女性を守る事に最初につかえないなら、格が良い男には先ず、なれないわね」
「……」
和人がそっと唇を噛みしめてうなだれた。
「もどかしい思いがあるのは、解るけど。力じゃ解決できないわよ」
「…………」
「和人……」
美沙が、何か感極まったのか……息子のそんな姿がやっぱり母親として見ていられないのか
そっと、情けないままの息子の側に跪いた。
「お母様……訳もなく、衝動的にご子息を粗末に扱いました。
申し訳ありません……」
そんな母の姿に、葉月も胸が詰まって……『やりすぎた』と反省して深々と頭を下げた。
すると
「ゴメン……かあちゃん……」
和人が下を向いたまま、ボソッと呟いたのだ。
「デートがあるのでしょう? いいわ。行ってらっしゃい」
美沙が和人の頭を撫でながら優しく微笑んだものだから
和人が驚いた顔で母親を見上げた。
でも……和人はまた俯き、首を振った。
「デートなんて嘘だよ。ただのグループ交際で、俺がいなくても皆遊べるし断れるよ。
俺……部屋にいるから……準備できたら呼んで」
それだけ言うと、和人はサッと気まずそうに立ち上がって葉月を見下ろした。
「参った。今度、教えて」
ニッコリ、微笑んだ。
その笑顔が……今までのおちゃらけた笑顔でなくて、
そう……隼人を思わすような柔らかい笑顔だったので葉月も驚いた。
「いいわよ? 私、父にしっかりしごかれているから、厳しいわよ?」
「はは。大佐なんだって……やっと解った」
和人はそれだけ言うと、そっと階段に向かってゆく。
「よ! 和人……かっこわるいな!」
昭雄は始終落ち着いていて、葉月もなんだか可笑しくなってきた。
「良いお灸だ」
和之は末っ子がやられた姿に、呆れたため息をついただけ。
そして……隼人は……
『この! じゃじゃ馬!!』
そう叱られると思って、葉月も構えていたのだが……
父親と伯父の後ろで見た事ない神妙な顔をしていた。
(どうしたの? 隼人さん……)
隼人の視線の先は……腰を押さえながら階段を上がる息子を心配そうに見つめる母親に……。
そう……『美沙』に向けられていた!
葉月の心に微弱な電流が走る……。
彼は……母姿の美沙を見つめて……
とてもやるせなさそうな顔をしている。
(どうして……そんな顔をしているの!?)
葉月が困惑していると……
騒ぎの空気の中……彼はサッと二階の奥に背を向けて消えてしまったのだ。
無理をして……葉月の左肩に……落ち着いていた痛みがずきずきと襲ってきたが……。
それを気にしてくれる相棒は今……葉月の事どころではないのが良く解った……。
『でも……見届けなくちゃ……。今度は……私が……』
葉月もそっと階段を上がる……。