47.男はつらいよ
「あー! 今日も終わった!」
窓の外にみえる海が陰ってきた夕方。
定時時間を少し過ぎて、隼人は臨時席で伸びをした。
「あら? もうそんな時間?」
側の席で明日のスケジュールの調整をし、
隼人がまとめた採点表のデーターを作成していたマリアが赤い腕時計を眺めた。
「今日はご苦労様。強い日差しの中での見学、疲れただろう?」
「いいえ? いつも室内の業務ばかりでしたから新鮮でしたわ」
「今日はもういいよ。また、明日の残りの見学のためにゆっくり休んだらいいよ」
にこりと優しく微笑む隼人にマリアも微笑み返す。
「……中佐はまだされるのですか?」
「ああ、うん……まぁね?」
だが……隼人のマウスを動かす動きは、なんだか遊びのようだった。
(葉月を待っているって事ね?)
マリアはそう悟った。
マリアは隼人の側に来て、彼の『集中力』にとても感心していた。
仕事が早いのなんの──。
あれだけ出来れば、本当にマリアのアシスタントなんていらないだろう。
だけど、そこを敢えて受け入れてくれた事はマリアはラッキーだったと感謝している。
こんな男性に工学科では出逢ったことがない。
それこそ、父が許可してくれた時言っていたように
『この先輩方に鍛えてもらうと良い』
そう……その言葉のまま、マリアの世界が広がる感じだった。
そんな『集中力』を発揮している隼人には、マリアでも怖くて声はかけられないオーラを発する。
なのに……今はマウスをただ転がして同じ様な画面を行ったり来たり
ただ確認をするために流しているように感じる。
葉月を待っているなら……と、マリアは気にせずに帰り支度を始めた。
「お疲れ様です。お邪魔しに来ました」
隼人とマリアの臨時席に男が一人現れた。
「やぁ、お疲れ様。どうしたんだ?」
隼人は、抵抗無くニコリとその男性に微笑んだのだが
マリアはその男性を見て……固まってしまった。
彼もマリアを見つけて、なんだかしらけた視線を送ってくる。
「よぅ、どうだよ?」
そう……先輩のブルースが何故か!? メンテ本部の隼人を訪ねてきたのだ!
「……」
マリアは昨夜の事を思い出して、何故? 彼が隼人を訪ねてきたのか混乱して
言葉が出なかった。
だが、ブルースはマリアのそんな様子には目もくれずにあたりを見渡す。
「大佐嬢……いらっしゃらないんですね?」
「ああ……彼女の拠点はお父さんの秘書室だよ」
「そうなんですか……。将軍秘書室じゃ訪ねにくいですよ?」
「なにか用事があるなら伝えておくよ?」
「そうですか? 一応、うちの少佐があらかたの直しをしたので見ていただきたかったんですが」
「!!──早いなぁ!?」
「あの後……少佐と一晩かけて相談したので」
「へぇ? それは大佐嬢も大満足だ」
マリアは眉をひそめた。
あれだけ葉月を目の前にしてやられたプライドの高い先輩が
彼女に何か会いに来て……?
それで? マリアの上司である少佐が大佐に見て欲しい物があるだなんて?
一晩だけで彼女と彼等の間に『何があったのか』マリアは少し不安になる。
「いいよ。俺が預かっておいて、明日にでも彼女から会いに行くように伝えるよ」
「そうですか? 残念です。今日中に見ていただこうと講義外の時間も割いて
少佐と作り上げたので……急いで持ってきたんですよ」
「悪いね……仕事に縛られていないと
彼女ほど、何処をうろついているか定かじゃないお嬢さんも他にいないからね」
「なるほどね? なんとなくそんな感じ」
「解るだろう〜? 放っておくと飛んでもないからな?
小笠原の大佐室に閉じこめておいた方が、俺としては安心だったりして」
隼人の冗談に、ブルースも可笑しそうに笑いをこぼしている。
(ど、どういう事??)
マリアの怪訝そうな顔に、ブルースはニヤリと勝ち誇ったような笑みを送って出ていった。
「中佐?? いったい?」
すぐさま隼人に食らいつくと、隼人もブルースを同じ様な微笑みを
ニヤリとマリアに見せた。
「……まぁ、大佐嬢から言ってもらわないと……俺の一存では言えないかな〜?」
隼人が片手で肩越しに挙げたのは、白い書類を束ねた物だった。
「それ……なんですの?」
「なんだろうね〜?」
隼人は何喰わぬ顔のまま、ササッとそれを他の書類束に紛らわせてしまった。
「中佐ったら、意地悪!」
マリアが癇癪を起こすような歯ぎしりをすると、隼人が可笑しそうに笑いだす。
「でも、君にとって悪い事じゃないよ。それは葉月を信じて待っていたらいいさ」
「……そうですか? それならいいのですが……?」
途端に穏やかになった隼人の笑顔にほぐされるように、マリアもスッと心をなだめる。
「本当に……そういえば葉月もさっき、変な事言っていたわ?
『工学科に帰ったら楽しいことが待っている』だなんて……」
マリアはまた『仲間はずれ』にされているようで、ぷっくり頬を膨らませた。
「楽しいかどうか? でも、きっと君は自分で楽しくしてしまうよ……」
「……」
心底、マリアを認めてくれている隼人の寛大な微笑みに何も言い返せなくなった。
「あー、なんだか妬けてきたわ。帰ります」
マリアは今まで触れたことのない大人の男性を目の前にして
そんな彼に『溺愛』されている葉月が羨ましくなってきたのだ。
それは悪気があるわけでなく、同じ女性として本当に羨ましくなっただけ。
ちょっとふてくされて、赤いバッグを肩に掛けて立ち上がる。
「なに? 妬けるって?」
「なんでもありません!」
「なに怒っているんだよ? お嬢達は時々解らないな?」
マリアの途端のお嬢的不機嫌に隼人が困惑した顔に。
「今度、付き合う男性は中佐みたいな男性が良いと思っただけです。
中佐みたいなやり手のお兄様と通じている葉月が羨ましくなったんです」
ちょっとした『やっかみ』のつもりだった。
マリアがツンとしていうと……隼人が眉間に皺を寄せて首を傾げる。
「そんな事いうなんて……『旦那』は?」
マリアはハッとした。
昨夜と今朝……達也ときっぱりケリを付けた話のことは
まだ目の前の中佐は知らない。
「……」
達也がフォスター隊長にそれとなく何かを匂わせた事は……
朝、隊長が隼人を訪ねに来たことで解っていた。
「……あの」
マリアが言いにくそうにモジモジとしはじめると、隼人が席を立った。
「ちょっと、外に出ようか?」
「……」
達也から隼人に申し込んで欲しかった。
だから……マリアは頭を振る。
「達也から……聞いて下さい」
マリアの気持ちをこれ以上……達也を差し置いて
『小笠原に連れて帰ってくれ』とは言えなかった、言いたくなかった。
それと同時に……自分から突き放しておいてなんだが……
それをマリアの口から言うと本当の『別れ』が来ているようで何も言えなくなっていた。
「そう……解ったよ」
やっぱり、目の前の中佐はニコリと寛大に微笑んで
それ以上の『詮索』はしようとはしなかった。
「有り難うございます。あの……先程、やっかんで言いましたけど
私、本当に中佐のような男性に出逢ったのは初めてなんです。
葉月が羨ましいと思いました」
「なんだよ? 急に──俺をそんなに持ち上げなくてもいいよ?
俺なんかより、達也の方が断然、男らしいし、動きも良いし……勘も良いし」
「比べているつもりはないんです。達也には達也らしい素晴らしさがあります。
中佐はそれとは全く違った男性で……私が今まで触れたことない男性で」
しおらしく呟くマリアに隼人は怪訝そうに眉をひそめていた。
「どうしたんだよ?」
「……そういう中佐だからこそ……葉月の今までも受け入れられたんですね。
そんな所が素晴らしいと思っているんです……同じ女性としてとても強みです」
「……今まで?」
また隼人が不思議そうに眉間に皺を寄せた。
「……ほら……あの、任務での事です。ご存じなのでしょう?」
「……岬の任務でのこと、何か……聞いた?」
隼人の表情が強ばった。
フランス航空部隊の岬基地奪回任務で、確かに葉月は犯人達の手に拘束されていた。
『女性的に』
でもそんな話、マリアが聞いていたとしても『今まで』というには
岬の任務は新しい過去に過ぎない。
隼人もそれなりに気にはしたが、
葉月は女性的にはまったく最悪の状態で手元に帰ってきたわけではないから
最悪の状態よりかは、心の整理が付きやすかっただけだ。
それにマリアはまだ葉月の『肩の傷』については知らないはず?
だったら? なんの『今まで』を言っているのかと隼人は合点が行かなかったのだ。
すると……
「いえ……岬の任務ではなく」
マリアがそこで言いにくそうに言葉を止めた。
「……その前はミャンマーの任務だと聞いているけど?」
「……」
隼人の様子にマリアがちょっと違和感を持ったように顔を上げた。
そして……隼人を試すかのようにジッと見つめている。
そして──
「いえ……あの、そう……岬の任務のことですわ」
マリアが慌てて言い直し、変に繕った笑顔を浮かべたように隼人には見えたのだ。
「……ミャンマーの任務で何か? 腕に怪我をしたと藤波から聞いているし
彼女の腕の裏にうっすらと傷が残っているのは知っているけど?」
(身体に傷がある女性を受け入れていると言いたいのだろうか?)
隼人は取り繕ったマリアを見逃さずに、ミャンマーの話に無理矢理に戻す。
すると彼女の顔色が変わった。
「そうです。やっぱり……女性にとって身体に傷がある事……気にしていると思って」
「……まぁ……そうだろうけど? そんなに今はナーバスじゃないみたいだけど……」
「……それを中佐が上手に受け入れていると言いたかったんですわ」
マリアがまた無理そうな笑顔を浮かべているように隼人には見えた。
「いけない……私、今日は車じゃないのでバスで帰らないと……」
マリアはまた赤い腕時計を眺めてササッと『お疲れ様です』と足早にいなくなってしまった。
「……」
隼人の中に、何か拭えない違和感だけが残る──。
「はぁ……」
こちらは、陸部棟にあるフォスター特攻隊班室。
そこで達也は夕方の事務作業をしながら、ぼんやりしていた。
「ウンノ、お前……朝からおかしいぞ」
隣席にいる隊長が、今日の訓練日誌を眺めながら
達也の緊張感がない様子に軽く釘を差してくる。
「あーあ」
「……お前はなんだ? まったく、言いたいことがあるならハッキリ言えよ?」
「俺の今の『aーa』は、『転属』の事じゃないっすよ……」
「プライベートの事で唸っているなら、そんな声をここで出すな」
厳しい隊長のたしなめに達也は『チェ』と小さくこぼしたが
また隊長に一睨みされてしまい背筋を伸ばして、任された事務作業に向かった。
「ウンノ……!」
「なんすか? 隊長……ちゃんと今からやりますよ!」
フォスターにまた呼ばれて、達也はふてくされて書面から顔を上げる。
だが……隊長は今度は怖い顔でなく、当惑したように入り口ドアに視線が釘付けだった。
「?」
達也も不思議に思ってドアへと視線を移すと……。
そこに長い栗毛の女性が立っていたのだ。
「マ、マリア!?」
彼女が陸部棟の班室に来る事なんて滅多にないはずで
達也は驚いて席を立った。
それに……隊長を始めとして、他のメンバー達も皆、達也の元妻が訪ねてきたので
入り口に釘付けに……。
「……どうしたんだろう?」
なんだか顔色が冴えないマリアが入り口に幽霊のように突っ立て
達也ばかりを見つめているので……
フォスター隊長が無言で『行け』と顎で達也を促してくれる。
「ちょっと、行ってきます」
達也も一言、隊長に断って席を離れた。
「マリア? どうした? あ、今朝は車で送ったから足がないのか?
終わったなら……送ろうか?」
昨夜の熱愛の事。
今朝の別れの話。
達也の中には、焼けるような情熱、別れに関する切なさ……。
そんな事が一日中まとわりついて
思い出す事といえば……
昨夜の妻の美しい姿だったり、朝の清々しい輝く妻の笑顔だったり……。
それで彼女から会いに来てくれたから、つい……誘ってしまったのだが。
「……」
マリアは入り口に立つ達也を見上げたかと思うと、瞳が潤んでいた。
「──!? どうした? また、誰かに何か言われたのか!?」
昨日の今日……工学科の上司に何かきついことでも言われたのかと
達也は顔をしかめる。
すると……
「達也──! どうしよう!!」
マリアが途端に抱きついてきたので、達也は驚いて背筋が伸びた!
「お、おい!? 本当にどうしたんだよ!?」
マリアの両肩に手を添えると……
『ヒュゥ♪ みせつけてくれるな!』
サムや他の特攻隊のメンバー達の『ヤジ』が飛んできた。
「こら……お前達」
フォスター隊長がマリアの様子がただごとじゃないと感じたのか
サム達を静かに諫める。
「ウンノ。プライベートなら外で頼むぞ」
そして……達也にもそれなりのお諫めが来たが……
『早く彼女を連れて、話を聞いてやれ』という、時間制限なしの『離席許可』をくれたようだ。
「ちょい、マリア──」
達也は、既に涙をこぼして混乱しているマリアの肩を抱いて外に出た。
達也の班室は一階だったので、近くの裏庭にとりあえず連れていこうと歩き出す。
「どうした? マリア……」
マリアも涙が出て落ちついてきたのか、彼女はハンカチを出して目元を拭い始める。
「……私ほど、知った風な振りして馬鹿な女っていないと思うわ!」
自分を卑下してマリアはまたひとしきり泣き始めた。
「……どうしたんだよ、俺の所まで来たって事はそれほどの事なんだろう?」
達也がマリアの顔を覗き込むと……
「あのね……達也? ひとつ聞いても良い?」
「なんだよ?」
マリアはハンカチを握りしめ、唇を噛みしめて……また黙り込んだ。
陸隊員達がよく使う体育館へ続く芝生の道まで出てきた。
夕暮れ時の外の風がマリアの長い髪をなびかせ、フッと達也の胸元でそよいでいる。
「……葉月のミャンマー負傷……、サワムラ中佐は知っていると思う?」
「──!!」
達也はそれを聞いただけで、元妻が混乱した様子で何故?自分を訪ねてきたか悟ることが出来た。
それと同時に、サッと血の気が引いた!
「マリア! まさか……!」
マリアの両肩をかなりの力で達也は握っていた!
「……ごめんなさい!! あんなに信頼し合っている二人だから
サワムラ中佐は知っていると勘違いしていたの!!」
「兄さんは、その話は知らないんだぜ? 全部──言ってしまったのか!?」
達也の険しい表情にマリアは首を振った。
「言っていないわ。遠回しに『あの時の事』とほのめかしたら……」
マリアはつい先程、『噛み合わない葉月の任務の話』について
隼人と交わした会話の一部始終を達也に説明した。
すると……達也がホッとしたように力を込めていた両肩にある手をスッと下ろした。
「なんだ……。それなら、兄さんは不思議には思っただろうけど?
モロには内容は知ったという事じゃないじゃないか?」
達也は、気が抜けたような安心感を漂わせてマリアを見下ろしていた。
「でも! それでも……! 葉月がまだ中佐に打ち明けていない事……。
私がほのめかしてしまったんだもの!
どうなるの──? 葉月が……ミャンマーで『敵の男との間で妊娠した』なんて──!」
マリアは自分の『思い込み』を呪った。
論理的に『きっとそうだろう』と思っていた事が、論理的に正しいなんて事はないと言う事……。
これで身に染みた気がした。
だけど……目の前の元夫は、なんだか変に落ちついていた。
「まぁ……葉月の口から『達也以外の男の子供を身ごもって、その後流した』……。
それは兄さんには知らせているって言う話は、この前の任務で葉月から聞かされているから」
達也は妙に呑気に黒髪をかいていた。
「──!! そうなの!?」
でも、マリアはまだ安心できない。
「まぁ……兄さんの事だから、なんとなく『いつ頃、二人目の父親と出会った?』ぐらいの疑問とか
どんな『父親』で、何故そいつが『今、いないか』って事は考えているとは思うけど?
兄さんは……きっと葉月からその話を全部打ち明けてもらった所で、何とも思わないって……
俺は……そう思えるな?」
「でも──! それが……相手の男は……」
『女性の意志を無視して無理矢理』とマリアは口にしそうになって……言葉をすぼめた。
「……確かに一番最初は『レイプ的』だったろうな?」
「……『──的』って?」
この話をここまで話し合うのもマリアは初めてだった。
達也と葉月が若い頃別れた一番の理由。
達也にとっても『一番の痛手』
恋人が任務で暫く行方不明になり、必死に捜索して救出してみれば……
達也の愛する女性は『他の男の子供を産む』という『決意』を込めて帰還してきたのだ。
達也がどれだけ……屈辱を味わったか……。
マリアはそこは達也から言い出すまでは絶対に自分から触れようとしなかったのだ。
その苦悩した本人があっさりと『──的』と……決定的に『被害』という表現を
使わなかった事に驚いたのだ。
「……なんていうのかな? 出逢いはともあれ、結果的には『絆』があった『男女』だったって事さ?
葉月と……その『ベイビーのオヤジ』はな……」
「……絆?」
「ああ。子供を挟んで守ろうと……命がけに別れて、それで男はしんじまったらしいから……。
出逢いはともあれ……それも葉月が選んだ『男の一人』
いつしか俺はそう思えるようになったし……。
それが、葉月が無理矢理に従えられた事より『悔しかった事』
つまり……俺と付き合っていながら『寝取られた』っていう悔しさに俺は耐えられなかった。
アイツが『達也が父親になってくれ』と言ってくれた方が、俺は救われていたかもしれないから。
それでも俺に側にいて欲しいと……言ってほしかたんだ、きっとな。俺は……」
「……」
3年間、達也がそうして一人で心の整理を……
ここまでつけていたなんて……と、マリアは驚いた。
こういう話ももっと早くしていれば、達也の気持ちが
幾分か葉月から離れていることも、昔ほど彼女との辛い想い出に『嫌悪感』を抱いていない事も
マリアはもっと早くに知っていたかもしれない……と思った。
「……つまり、当人の俺がそうだから。
兄さんも葉月から聞かされた所で、俺と同じ様な心の整理はつけると思うぜ?」
「でも! 私が言いだした事で、サワムラ中佐は葉月に何か問いただすかも?」
マリアはまだ不安で、また涙が浮かんできた。
だけど……目の前の元夫はニコリと微笑んだだけ。
「……今までも葉月に問いたださなかったんだ。
兄さんは葉月が自分から言うまで、知らない振りぐらい全然平気な男だと思うぜ?
葉月から『ある程度は話している』と聞いたとき……。
それで、兄さんはそれ以上は問いたださなかったのかと思うと、
俺はそれだけで、この兄さんは葉月を大切にしているって思えたから」
「……そうかしら……大丈夫かしら?」
「葉月は、『いつかは言う』と言っていたけど……
俺は『二度と口にするな』と言っておいたよ」
「……そう」
そこに、岬基地任務で二人の『わだかまり』が解けている事をマリアは初めて知ったような気がした。
岬任務へ行く達也を引き留めた。
何故なら……葉月が着任していると知っていたから。
達也は、彼女の為なら『命をかける』と……そういう男だと。
それで彼女と別れた、いや達也的にいうと『彼女を捨てた』事を『詫びる』様な……
『その為の任務参戦』だとマリアには解っていたから。
無茶をする事が怖くて引き留めた。
だが……帰還してくると『無茶』をしたのは葉月の方だと聞いて驚いたのだ。
だが……達也にとっては、あの任務で葉月と再会したことは
一番良かったことになっていたようだ。
マリアは、また……自分は何をしているのか解らなくなってうなだれる。
結局──マリア自身が一番……葉月に関する事には恐れを抱いていて
達也の為に避けていた事が、一番……今の自分達の状態にしてしまっていた様な気がした。
彼を本当に愛しているなら、勇気を出してぶつかって受け入れていれば良かったのかもしれない。
一番痛いところを避けて来た事が、達也を見守っているつもりが
結局、自分を一番『守っていた』のではないかと……。
『真実』に目をつぶって得た愛なんて……結局こうなって当たり前だったのだと思えてきた。
もっと早くに……避けるという術でなく、彼の中にある彼女ごと……
そのまま受け入れていれば良かったのか?
「ま。そんなに心配なら俺からちょっと様子を見てみるからさ。
それに兄さんもそれ以上はマリアには困るような詮索はしないと思うぜ?
そんなにしつこい男じゃないしな? 兄さんは──」
達也が夕焼けを見上げながら、清々しく微笑んでいた。
そこに岬の任務で『もう一つ』……達也が得た物。
それは『戦友』
短い間に、達也はその『戦友』の事を心より尊重し、敬愛している様が伺える瞬間だった。
その達也もとても綺麗に見えた。
どこか……マリアが知らない『夫』が、もう『夫でない』と感じた瞬間だった……。
夕方の警備口近く──。
隼人は一人で自転車を手で押して歩いていた。
葉月を待っていたはずだったのに……。
なんだか急にそんな気がなくなったのだ。
一人でいたい気分だった。
「よっ。今、帰り?」
警備口近くで、背の高い黒髪の男が隼人に向かって手を振った。
「達也──」
制服姿の達也が、この上ない笑顔で待ちかまえていたのだ。
隼人はため息をついた。
そんな隼人に構わず、達也が隼人に駆け寄ってきた。
「隊長の自転車、大活躍だな」
「ああ。助かっているよ」
「聞いたぜ? 昨日からリリィがトレーニングに付き合っているって?」
「うん。将軍とドクターが小さい女の子を隊長が連れて来るんで
今朝も楽しみに待っていたよ」
いつもなら隼人も、今朝、隊長に楽しく告げていたようにしたいのだが
どうも声を出す力が今は入らない。
「隊長が言うには、リリィがかなり興奮して喜んでいたって報告してくれて……。
それに、マーガレットも兄さんが作ったとか言うフレンチトーストのこと誉めていたって!
作り方、教えて欲しいらしいぜ? 俺も食いたいな!!」
隼人とは逆に達也はいつも通り、元気いっぱいだった。
だが──
「なんだよ? 俺を待っていたのか?」
隼人は疲れた声で、達也を見つめる。
「うん、まぁ──まだ、出張に来て二人でゆっくり話していないじゃん?」
天真爛漫に愛想良い達也がニコニコとしているのだが……
隼人はそんな達也に溜息をつく。
「……マリア嬢が達也の所に行ったんだろう?
彼女……狼狽えていたと思うけど?」
「!」
達也の表情が途端に固まった。
結構、分かり易いな……と、隼人はまた溜息を落とす。
「……そんな事、ないけど」
達也は苦笑いで繕っていたが、隼人としてはもう遅い反応だった。
「解っているよ。彼女が急に『ミャンマー』の話なんてするから……。
大方、予想が付いた」
隼人はシラっと呟きながら、自転車を押して達也の前を通り過ぎようとする。
「待てよ! 『予想』ってなんだよ?」
「予想は予想だから……言えない」
「……」
隼人の表情は重かったが……別に取り乱している訳でもなく
そこは『さすが』と達也は隼人の後ろ姿を眺めるだけ。
だが──隼人が自転車を引きながら立ち止まった。
肩越しに、隼人が振り返った。
達也に何かを言いたそうだが……躊躇った様に唇が震えている。
「その時の……父親は、偶然出逢った父親って事が解ったよ。
葉月はその父親は『死んだ』と言っていた。
任務で……『死んだ』
恋人であった達也以外の男との間で『思わぬ妊娠をした』
それも『任地』で……。
これだけ解れば、『最悪の状況』が予想できる。
考えたくないけど……その相手が『敵方』だったら『ゾッ』とする」
「──!!」
マリアが達也を頼ってきた事も。
マリアの僅かな『ヒント』でそこまで予想できたことも。
達也は驚きはしたが、やっぱり『さすが!』と変に唸ってしまった。
隼人の『考えたくない』は当たっている。
葉月の相手は『敵方』だった。
達也も考えたくないことが『一つ』
そんな事はないと思うが……
『兄さんは、受け入れられる?』
マリアには安心させようと、隼人の事は『出来た男』として評価したが──。
勿論……達也だって心からの言葉だった。
でも、隼人だって一人の人間だ。
自分が耐えられなかった様に……この男も耐えられなかったら?
夕日の中──。
自転車を手にしている隼人の背中は、黄昏ている様にも見えた……。