※【警告】※
当作品は、[性R18]と[反社会的R]指定を設けている作品です。
特に『倫理』とは多少ずれた展開がある為、苦手な方は閲覧にご注意下さい。
「あれから、貴女の言い分を真っ正面から受けて考えることもしてみました」
たった一人で訪ねてきた英治の言葉に、緋美子は驚きを隠せない。
「……そんな、私、すっかり嫌われたかと」
「いえ……誤解しないで下さい。そんな懐が広い人間ではありません。ただ早紀があれから私とも口をきいてくれないんです」
彼女と仲違いをしたくないから思い直してみた。
そんな英治の言葉は、意味の取り方が違えば『好きな女が口をきいてくれないから理解しようとしただけ』、結局は緋美子のことを信じていないことになる。
だが緋美子としては当然だと思って承知しているのだが。
「早紀は貴女が言ったことをまだ信じられないけれど、それでも信じようと心を砕いている最中なんです。彼女は貴女を理解したい。それまでは私などとは会う気にもなれない様子で……」
英治はちょと情けない顔。
まるで惚れた女を緋美子にでも取られたかのような、振られたかのような、そんな敗北を滲ませている。
でも英治はちょっと照れくさそうに頭をかいて、眼鏡の顔で緋美子に笑った。
「でもそんな親友を信じようと苦しんでいる彼女を見て、惚れ直しました。本当に貴女という幼馴染みで親友を、彼女は愛しているのだと。そんな愛を持っている女性なんだと余計に」
だから、英治も思い改め、早紀のように『信じられないけれど、信じてみよう』と緋美子の異常だった発言をもう一度噛み砕いてみたとのことだった。
もう、緋美子もそっと微笑んでいた。
「まあ、のろけにこられたのかしら? なんならもう少しお聞きしましょうか?」
緋美子が『どうぞ』と家の中へと促すと、英治も迷わずに入ってきた。
「今日は、一馬君は――」
「いつものようにお昼寝なんです。今日は主人が神戸から帰ってきますので、朝からはしゃいで張り切っていまして、疲れて眠ってしまいました」
『そうですか』と、英治は微笑ましそう。
訪ねてきた時の息子の愛らしい姿を思い出したとのことだった。
リビングへと案内すると、英治は先日座った同じ場所に腰をかけた。
彼の目の前で煎茶を準備している間、英治は庭を見つめていた。
「私も何度かこちらのお庭を拝見しております。市内では有名なお宅ですよね」
「祖母の代からですから、いつの間にか皆様に愛して頂けるようになって嬉しく思っています」
「お若いのに。貴女がお継ぎになったとか」
「はい。でも、慣れております。父と通ってきたのもその為です」
今日の二人の会話は、先日の荒々しい事件に諍いなどなかったかのような穏やかさだった。
英治はいつもの柔らかい物腰の紳士でそこにいるし、緋美子も、獣になって男と荒れ狂い夫を裏切った一夜を過ごした人妻であることなど窺わせないほどに、いつもの緋美子だった。
「今年の夏も、また楽しみですね」
「ええ。今年は……身重でしょうが、庭の手入れは欠かさないつもりです」
自然に『身重』と言った緋美子に、英治がものすごいショックを受けた顔。そして唇が震えていた。
「貴女という方は……!」
「本当のことです。逃げられない。私の霊感がそう言っているんです。本当に生命の小さなエネルギーを感じるんです。それが証拠に、植え付けに成功した雄はちっとも私を奪い返しにこないではありませんか。正樹さんも同じなんです。終わったから来ないんです。ですから、本当に私たちは男女のしがらみでもなんでもなくて、獣の本能的な強い縁で引かれあったに過ぎないのです。私が平然としているのも……」
「わ、分かりました。それ以上は、結構です」
困惑したままの英治に、その先をも平然と語ろうとした口を制された。緋美子も黙る。
「その落ち着きと口ぶり。確かに、言い訳にしては『どこか自然で本気』とも見えます。だからこそ『こちら側の人間』には理解しがたく――」
「分かっております。今の私は、緋美子という女の他に、私が生まれた時から持っている本能で生きていこうとしている雌が同居しています。先日からその感覚です」
なおもきっぱりと言いのける緋美子に、流石に英治も呆れ顔だったのだが。すぐに飲み込んだかのような神妙な顔つきになっていた。
「雄と雌ですか――。『人』という目から見ればなんて生々しく狂気じみたことか。そう感じます。ですけれど、確かに私は生物的には雄で貴女は雌、そう妻となる早紀も雌。言われてみればそうです。そして、貴女とご主人がそうであったように、私と早紀もいずれ同じ営みの道筋を通って、それこそ生物の皆がそうであるように生命を宿し世に送っていくのでしょうね……」
考えた末、最後に辿り着くのはそこでしかないと英治も降参したかのような言い方だった。
だが緋美子は考えた末に、皆最後はそこに行き着くと無理矢理納得したわけでもないのだ。本当に、サバンナのど真ん中で正樹という雄が緋美子という雌を見て『お前だ』『貴方だ』と生殖の使命を果たすパートナーとしてインスピレーションが合致したに過ぎない。
自分は人で霊感がある。だがその向こうには、人が以前はどのようなものだったかを感じさせるもっと古代的な積み重ねを緋美子は感じるのだ。それを英治という『現世だけを感じて生きている男』にはどんなに言っても理解はしてもらえまい。緋美子はそう思っている。
黙って入れた煎茶を静かに英治に差し出し、緋美子も向かいに座った。
「何度も言いますが、生命を宿したからには母として守っていくという本能が働いております」
頑として、自分は正樹に奪われたとしても、女として嘆くことはないという緋美子の様子には、英治ももう言葉もないよう。
「わかりました。では、改めてお聞きします。早紀が今も貴女のこれからをとても案じています。私達にそのような告白をして下さったぐらいです。もしかして、ご主人の鳴海さんにも……そのように悪びれることなく全てを伝えるつもりですか? それはあまりにもご主人には酷ではありませんか」
流石に、緋美子は黙ってしまう。
やはり夫となると……。
「緋美子さん。雄と雌とか本能的なことを貫き通すような体質に生まれてしまったというならそれはそれで仕方がないことだったと致しましょう。正樹さんと貴女はそれで納得済みということは分かりました。ですけれど、貴女と拓真君は違うでしょう。貴方達は『夫妻』という『人と人』の関係なのですよ。その間に、獣の道を割り込ませて拓真君を納得させるつもりなのですか?」
あまりにも惨すぎる。
同じ男として、それはあまりにも。
拓真君の代わりに、男としてそれは絶対に許したくない。
英治はそう言う。緋美子はそこをつかれると、俯いてしまう。
「……いえ。本当のことを言う言わないではないんです。拓真というとても純真で真っ直ぐな夫に、嘘をつくかつかないかなんです」
「つまり。嘘をつくなら傷つけない為に貫き通す。でも嘘をつかないなら、傷つけても、彼を騙さない。そういう選択ですか」
「……ええ。私の気持ちは『嘘をつかない』に傾いておりますが。でも英治さんがおっしゃるとおりに、拓真を傷つけてしまうことは必然です」
英治も『ごもっとも』と、自分自身のことのように唇を噛みしめている。
彼の男としての悔しさが滲み出ていた。
「早紀にも話したのですが、彼女は今は貴女を心配することで精一杯で今後どうするべきかという判断力を持つ余裕がなさそうでした」
そして英治は緋美子を見て唐突に言った。
「どうでしょう。私達が全面的に協力しますから、貴女のお腹の子はどうあっても拓真君の子供であると、一生嘘をつく覚悟をもたれませんか?」
「なんですって?」
夫を一生騙し続ける。
そんな提案だった。
「なんとしても産み月を誤魔化すんですよ。今の時期ならなんとかなりませんか? ご主人が神戸に行かれたのは一ヶ月前。なんとか誤魔化せるとは思うのですよ」
だが緋美子は毅然と答えた。
「無理です。二人目はまだ欲しくないと、私達、そうなるような夜を過ごしておりませんから……」
つまり、子供が出来ないよう避妊を欠かさなかったという意味。
英治もそれは分かったのか黙ってしまう。
「……でも、貴女は産むとおっしゃる。お腹が大きくなれば拓真君にだって言わなくてはならないでしょう」
「はい……。ですが、なんとか誤魔化しても、きっと夫はすぐに気がつきます。騙されているのかいないのか、それを疑いながら私の側にいることも苦しめてしまうのではないかと」
「それはそうですが」
英治は一時黙りこくり、しばらくは庭を見ながらお茶を飲んでいた。
そして彼は何かを思いあぐね、迷っているよう……。
「では。拓真君に真実を告げたとして、正樹さんの子供が生まれる。彼にとっても苦痛では。それならば……それならば……」
少し迷うようにして、小さな声で緋美子に言った。
「生まれた子を、私と早紀のところへ養子に下さいませんか?」
これには緋美子も唖然とし、絶句した。
「養子に――?」
「貴女は母親として心苦しい思いをしますでしょうが、それは貴女が夫を裏切った以上はなにかしらの苦は必ず背負わねばなりません。ですが、拓真さんは貴女の罪に巻き込まれて必要以上の苦しさを持たねばなりませんよ。そう、子供が側にいる限り。それならば目の前にいない方が良い。生まれてくる子は早紀の甥か姪になります。なによりも『長谷川家の不始末』。今後、私が婿養子となり当主となる以上、そこは義兄の不始末としてきっちりと責任を取らせて頂きたいと思っています」
緋美子は驚くばかりで、声も出ない。
なによりも、英治はもうすっかり『長谷川家次期当主』の風格を見せつける。
確かに――。不祥事は起きたが、そこで正樹を訴えないと言うなら『示談』とする。それも筋の通し方なのかも知れないが?
緋美子は震える声で聞いてみた。
「早紀さんは……なんと」
「それでも良いと。ただ今はお兄さんがされたことを自分が犯した罪のように苦しんでいますから、後先は考えていないと思います。貴女に許して欲しい一心で。見ていて痛々しいのです」
「あちらの、お父様とお母様は……?」
「いいえ。娘が塞ぎ込んでいることを不思議に思っているようですが、私から『マリッジブルーだ』と笑って誤魔化しています。私が毎日様子を見に行くので結婚に対しての危機はないと思うようにしてもらっています」
早紀がそれほどに――。
緋美子は泣きたくなってきた。
「早紀ちゃんはなにも悪くないわ。言っているではありませんか。私は早紀さんを嫌いにはならないし……」
「貴女がそう言っても! 早紀は貴女のことをとても好きだから苦しんでいるのではないですか! 苦しまない親友などおりますか!?」
また静かな男が烈火の如く憤りテーブルを叩いたので、緋美子も息を呑み引いた。
「貴女は確かに運命を持っていても、今回の出来事に至るには『不可抗力だった』。それでも、早紀にとっては親友と兄の間に挟まれて苦しむ出来事だったのですよ。それは貴女は――平然と――」
また元の不満が口から出てきたからか、英治はそこでやめる。
彼は息を整えると、再び、落ち着いた口ぶりで続けた。
「貴女が産む決意が変わらないと頑としておっしゃるなら、産むと言うことを主張するだけではなく考えて頂けませんか?」
緋美子は初めて。なにやら重い罪悪感がひたひたと迫ってくるのを感じていた。
淡々としている英治の語りかけに、『女獣』に傾いていた緋美子の心が、つい先日まで自分であった緋美子へと徐々に引き戻されていくような感覚。
寒く感じる震えが緋美子を襲ってきた。
「お腹が大きくなることをどのようにご主人に伝えるかは貴女自身の問題として、長谷川の私はノータッチといたしましょう。ですが避けられない今後のことは、ご主人とよくご相談下さい。私達に養子に下さるかどうか。貴女が産む、そして私達夫妻が養子としてもらい受ける。そうとなれば、いずれは長谷川の両親も事情の一切合切を知り得ることとなるでしょう。ですけれど、長谷川の父はあのように世間体を守らねばならない立場にあります。裁判沙汰になるぐらいなら、水面下でことを収める『示談』を望むと思いますから、私の提案は受け入れて下さると確信しております」
この英治が、何故、長谷川の父に見初められたか分かったような気がした。
穏やかで誠実な性分も彼の特徴ではあるが、その奥底ではこれだけの判断力を持っている切れ者なのだと。この男なら娘と家を預けられるそう長谷川の父は思ったのだと。
「きっかけはともあれ、貴女の手を離れても早紀が育てれば、あちらには初孫。なによりも正樹さんの子供。きっと受け入れてくれるでしょう。旦那様を一生騙せないと言うなら、子供を一生騙して下さい。それが『人』として罪を犯した貴女の代償です。いつまでも『雄と雌』だったなど、それが確かだとしてもそれは貴女がおっしゃるとおりに正樹さんと貴女だけの問題。『獣の事情』なんて、『世間』は待ってくれませんよ」
眼鏡の奥から放たれる厳しい眼差しは、先日、緋美子が貫いた姿を再び非難してる。
そして緋美子もだんだんと目が覚めてくる。大人の英治が提示していることは現実的で尤もなこと。そして緋美子に起きている『罪と罰』も尤もなところ。だから緋美子は自分が恐ろしくなってきてガクガクと震え始めている。
英治のその提案が、緋美子が犯した罪から、緋美子自身が大きな何かを失うという予感を募らせる。
そして厳しい彼が言った。
「そのあかつきには、子供が育っている近所で貴女がのうのうと別の家族として暮らしているのは不都合です。養子として頂くことと共に、もう一つ契約して下さい」
『示談』の提案。養子と、そして……。
英治が緋美子が恐れていることを言い切った。
「お腹の子を養子として頂くと同時に、この薔薇の家も売って下さい。ご安心下さい。薔薇は私達が守っていきます。これも長谷川家不始末のお詫びとして必ず――」
英治が頭を下げた。
まるで、それから逃れられないかのように――。
緋美子はガタガタと震え、ついに泣き崩れた。
子供とこの薔薇の家を手放す。
それが『人』としての。お前の罰だと。
身体に痛みが走った。
・・・◇・◇・◇・・・
英治が去っていき、緋美子は一人テーブルに突っ伏して泣き崩れていた。
『人』として逃れられない罰を突きつけれ、初めて襲ってきた罪悪感にうちひしがれていた。
それでも緋美子は既にお腹の中から感じる、じんわりとした弱々しいエネルギーを既に愛おしく思っていた。
この子を守らなくちゃ。守らなくちゃ。ちゃんと産まなくちゃ。
それは母として当然のことではないだろうか。野生の世界では、見初められた雄を受け入れた以上、宿した生命は産んで守るのが受け入れた雌の使命なのだから。
正樹との間に愛はなくとも、共同体という絆はある。それが野生のインスピレーション。でも、今回は周りの人々にはレイプされたと言われている。確かに緋美子と正樹は、獣としての強いインスピレーションを避けようと必死だった。でも本能に負けて人としてのバランスを崩してしまった正樹に引き寄せられ、まだバランスを保っていた緋美子は襲われる形に。
だけれども、もし――この子を産んでも悪いことしか起きない不幸にしかなれないと思うなら、レイプされて出来た子だから堕胎する。それも人の選択にはあるのだろう。
でも、緋美子は感じていた。
人として獣の本能で宿った命を堕ろしたとしよう。そうすると、あっさりと去っていった正樹がまた舞い戻ってくる気がした。
(あの人の遺伝子を残した子供をこの世に送り出さない限り、雄としてまた使命を果たしに来るわ)
だから、正樹との強いインスピレーションを断ち切るには、産み落とすことが最善とも言えた。それで正樹との強烈な縁もぷっつりと切れるような気がするのだ。
となれば。産むとなれば、やはり夫の拓真を巻き込んでしまう。そして彼がその事情を飲み込んでくれたとしても、長谷川家の要求をどうするかという問題。
薔薇の家を手放す?
そんなこと、あってはいけないと緋美子は泣き崩れる。
もしそうなったとしても、『長谷川家の世間体』を守ろうとしている英治は『正岡家から譲り受けた庭』として、近所からの愛着を守る為にも必死に薔薇も守ってくれると思う。
なによりも、少女の頃から『この家にいつか住みたい。緋美子ちゃんと暮らしたい!』と言ってくれた早紀は絶対に大事にしてくれると思う。
でも――! この薔薇の家も、緋美子にとっては家族そのもの、命そのもの、そして生まれてくる子同様に愛おしいものなのだ。
それを子供と一緒に手放すだなんて!
(確かに。私には一番堪える罰だわ!)
生まれてくる子には、この薔薇の尊さを教えてあげたい。
咲き誇る美しさがどれだけ人を癒すか、そして散っていく儚さがどれだけ大事なことかを。
ずっとその手にあると思っていた。
父が緋美子の為に遺してくれた一番のものだと思っていたのに。
手放さない方法が一つだけある。
それはやはり――。
「疲れたわ」
平然としていると英治は言うが、薔薇の家を売って欲しいと言われた時から、緋美子の保っていたなにかの糸がぷっつりと切れた気もした。
本当は、緋美子だってあっちを考えこっちを考え。でも、誰に分かってくれと言うのだろうか? そう……今までだって誰も緋美子が赤いものに悩まされていることなど知りはしなかった。緋美子も言っても分かってくれないだろうと思っていた。
ただ夫だけが。少しだけ。
『時々思っていたんだけれど。お前がさ、赤い花を描いていたのがなんだか最近分かるようになった気がするよ』
『結婚してから知ったミコは、アメリカーナ』
『俺は……今ではそんなお前のこと、すごく気に入っているよ』
見つけた時は白い花のような清楚な女性だったと。でも結婚してから妻となったお前は赤い薔薇。真っ赤で妖艶なアメリカーナ。
誰にも、夫にも言えなかった赤さに苛む自分を。夫の拓真はそれとなく感じ取り、そして、愛してくれていた。
「タク……。拓真」
熱い涙が今になって蕩々と流れてきた。
貴方が好き。大好き。愛している。
どんな私も貴方は本当は知っていて愛してくれた。
今は汚れてしまった私だけれど、でも会いたい。会って、こんなにも不安に震えている私を抱きしめて。お願い。今すぐ、抱きしめて――!!
泣いて泣いて、緋美子は……やがてテーブルに突っ伏したまま眠ってしまう。
『コ、……ミコ』
『ママ、マーマ!』
「緋美子」
その声に、緋美子ははっと目を覚ます。
テーブルでそのまま眠ってしまっていたようだった。
「ママ、おきてー!」
身体がぐらぐら揺らされている。
顔を上げると、そこには怒っている一馬がいた。
「見て、ママ! パパ、おかえりだよ!」
嬉しさいっぱいの笑顔を広げている息子が指さす先、そこを見上げると――。
「ミコ、ただいま」
紺色の消防作業着を着ている拓真がそこで微笑んでいた。
「タク……」
大粒の涙がゆっくりと緋美子の目に膨らみ、それがそっと静かに落ちていく。
「チャイムを押しても誰も出ないから自分で入ったら、お前もカズも昼寝中。起こさないようにそっとしていたらカズが急に起きてさ――。起こしちゃったか?」
いつもの屈託ない笑顔の夫がいる。
「あれ? お前、ちょっと痩せたか? やっぱり……お義父さんがいなくなったのに一人で留守番させたのまずかったかな」
そうじゃないのに、そうじゃないのに!
緋美子はそのまま溢れてくる涙を我慢せずに流し、ついに拓真の胸へと飛びつきしがみついていた。
「タク――! タク!」
お帰りの一言が出てこない。
緋美子はただ拓真の胸にしがみついてわんわんと泣いた。
「な、なんだよ。うわ、参ったな。やっぱりしっかり者のお前でも……寂しかったか」
自分が汚れてしまったことも、雌となって夫を見失ったことも。そしてこれから彼を傷つけることも。
そんな罪悪感を刻みつけていることも。緋美子は忘れて、一番安心できる夫の胸の中で大泣きをする。
そしてやっと『緋美子』に戻っていく気がした。
やはりこの人なのだ。緋美子が緋美子として生きていけるのは、そして緋美子を知ってくれるのはこの夫だけなのだ。
今はただ、安心できる唯一のところで泣かせて欲しい。
一人で彷徨って苛み、そして避けてきた最悪の事態を引き起こし、重い罪を背負うことになった自分を、今はただここで休ませて欲しい。
「緋美子、ただいま」
夫に抱きしめられて、緋美子は嬉しさのあまりに気を失いそうになる。
本当に綺麗で白くて優しい。彼の色に包まれ、緋美子の赤色は浄化されたかのような気分になる。
清らかな夫の腕に抱きしめられ、緋美子は少しずつ安心をする。
そんな夫の大きな手が、傷だらけだった。
そして背中に幾分か『連れてきてしまっている』のに気がついた。
さらによく見ると、夫もやつれた顔をしている。
「タクは大丈夫なの?」
「あ、ああ……」
「神戸、酷かったのね」
夫の表情が固まった。
惨い光景を散々、目の当たりにしてきたようだった。
「少し憑いてきているわ」
泣きやんだ妻に背後を指さされ、拓真がぎょっとした顔になる。
「まじかよ!? それでこの前から背中がだるくて重いのか!?」
「貴方が優しそうだから、ついてきちゃったのよ」
「緋美子〜。丁重にお返ししてくれ〜」
少しぐらいの御祓いなら緋美子も心得ている。
台所から塩を持ってきて、夫を庭に出して肩に振りながら少しばかりのお経を唱えた。
「成仏してください」
夫はその間合掌し、丁寧に頭を下げ、空を見る。
その目尻に涙が浮かんでいた。
「酷い災害だったよ――。容赦なかった」
霊はあっけなく去っていってくれたが、緋美子には彼等がまだ彷徨うのが分かっていた。
帰る家を探している。また神戸に戻っていくことだろう。
拓真はすぐに笑顔を見せてくれたが、緋美子には夫が憔悴しきっているように見えた。
それほどに酷い現場を見てきたようだった。
その夜――。
帰ってきた夫と久しぶりの夜。そうであったように緋美子は独身時代からのベッドに横になり、拓真は床に布団を敷いて眠る。
「ミコ、そっちに行ってもいいか?」
「う、うん……」
夫妻が睦み合う時、夫が緋美子のベッドを望んだ時の声だった。
汚れた身体をこのまま夫に黙って抱かせるのか? 緋美子だってそこは迷う。
だが今すぐにはそれは告白は出来ない。抱かないでという理由も……ない。
拓真が毛布にくるまっていた緋美子の隣に潜り込んでくる。
そして背を向けている妻の身体にぴったりと寄り添ってくる。
暖かくて長くてたくましい腕が、背からぐるっと覆い被さって緋美子を包み込んだ。
いつもならそれから、彼の優しい手が緋美子の肌をまさぐり……。緋美子は目をつむった。罪悪感を忍ばせながら抱かれる。これも罪と罰なのかと。
だが、夫の手はそれきり動かない。
「悪い。今夜はただこうさせてくれ」
拓真の声は疲れていた。
緋美子は思った。夫も……離れている間、独りだけで沢山の事を目の当たりにして戦っていたのだと。
「うん。こうして眠りましょう」
「ああ。ミコの匂いだ。ほっとする」
「私も。タクの熱。ほっとする」
ただ寄り添って眠った。
そんな傷心の夫との、夫妻の営みは暫くなかった。
帰ってきてすぐにあれば、英治が言うように誤魔化す術も出来ただろうが。
やはり避けられそうにもない。
夫にはいずれ本当のことを言わねばならない。
この子は私の子で、薔薇の家も緋美子のものだ。
なによりも。この家は夫拓真と暮らしてきた家、そして出会った庭。
どれも手放したくない。
自分勝手と分かっていても。
それにはやはり拓真に言うしかない。
緋美子はそう思っていた。
そしてその時は来た。
突然襲ってきた不快感。経験ある緋美子にはすぐに分かった。
それが『つわり』だと。
Update/2008.7.20