薔薇の家には変わらずに、父が通っている。
孫が二人、いっぺんにできたお祖父ちゃん。緋美子の兄『大(まさる)』が引き継いだ本家と交互に過ごしている。
薔薇の別宅は、どちらかというと父の書斎。仕事の家と言っても良かった。
「お義父さん、お帰りなさい!」
「ああ、拓真君。今日は非番だったか」
大学教授の父が、薔薇の家にやってきた。
夕方だった為、緋美子は既にキッチンで夕飯の支度を。拓真が玄関まで父を出迎える。そして、もう一人。
「じいちゃん、かーりなさい」
「お、一馬。『お帰りなさい』と言ってくれたのかな?」
たどたどしいながらも、言葉を喋りだした一馬は二歳になった。
すくすくと順調に育つ孫を見るたびに、父はとても嬉しそうな顔をする。
夫と息子と父親が明るい笑い声をたてながら、キッチンにいる緋美子のところまでやってくる。
「ママ。ごはん、まだかなー」
「まだかなー」
拓真に抱かれている息子一馬。
パパの言葉を真似して同じような顔を揃えて、二人は緋美子に微笑みかける。
「ただいま。緋美子」
そしていつまでも変わらぬ存在の父。
「おかえりなさい、お父さん。パパとカズ、もうすぐ出来るから手を洗ってきてね」
最後に仕上げた主菜を皿に取り分けて、食卓が出来上がる。
緋美子も微笑み返す。
この三年、既に緋美子にはなくてはならないものが出来上がっていた。
・・・◇・◇・◇・・・
夜になり、小さな息子を寝かしつけた緋美子も、今夜はもう横になろうと思った。
息子が二歳にもなると、子育てもすっかり日常になってくる。それでも、やはり時々こうして疲れてしまい何もする気もなくなって早い時間でも横になってしまう。
父は二階奥部屋の書斎で仕事をしている。夫の拓真は、まだ一階でテレビを見ているようだった。
時折、一階から拓真の元気な笑い声が聞こえてくる。
パジャマに着替えていた緋美子は、いつも明るい夫の姿が目に浮かんで、ひっそりと微笑んでいた。
本当に明るい人。賑やかで、彼がいるだけで家族の誰もが笑う。時には坂を下りた市内にある実兄が住まう本宅へと皆で集まるが、兄の大も義姉の里佳子も、今ではもうすっかり拓真に慕ってくれ、いつだって賑やかな拓真を見ては楽しそうに笑ってくれる。
実兄の大も良く言う。『緋美子、早い結婚だったけれど、俺はあいつが義理の弟になってくれて良かったと思うよ』と。時々、兄と拓真と男同士で市内の居酒屋で親睦を深めている事もある。
父も拓真の事をすっかり『息子同然』と思ってくれるようになり、拓真には絶大なる信頼を置いてくれるようになった。
拓真は二十二歳、緋美子は二十一歳。
まだまだ若いが、家庭には落ち着きが生まれ、そして二人は若いながらにも実社会に足をつけ始めていた。
そのおかげで、揃って若輩ではあるが、周りにいる年輩や先輩からも、それなりの頑張りを認めてもらえるようになっていた。
拓真は消防官として。あれから彼の活躍はめざましい。いろいろな競技会で、若手では上位にはいるようになったとか。現場での勘も鋭く、あらゆる救助で成果を上げているらしい。『落ち着きが出た』ことが一番の成果だと、仲人を引き受けてくれた『田畑小隊長』がいつもそう緋美子に報告してくれる。
田畑隊長の妻にも良くしてもらい、緋美子は時々一馬を連れて、彼女のお誘いにて家を訪ねる事も多く、そこで消防官妻同士の語らいをする。
そして緋美子も、若いながらにも、近くの主婦や同世代の子供を持つ親との付き合いを広げ、徐々に生活を確実なものにしていた。
残念な事に、大学は本当に中退してしまった緋美子だが、今は満足の日々を送っている。
でも……。
パジャマのボタンを締め終わった緋美子は寝室の出窓に立つ。
そこに、この日は誰もいない。
ここのところ、彼を見なくなった。
それで良い。緋美子はほっとしていた。
しかしながら。胸の奥の何処かで何かが欠けた感触を覚えてしまう。それを知っても緋美子は言い聞かせる。『それは私が感じているものではなく、私の覚えのない霊の本質が感じているだけなのだ』と。生まれる前から決まっている本質が感じているだけで、緋美子自身にはまったく関係のないもの。緋美子はそれを分けて堪えていた。
それだけ彼との符合の一致は恐ろしいものであり、驚異的なもの。そして毒々しい誘惑。
あの危うい夏の公園での再会以来、正樹とはまったく関わりのない者同士として冷たい関係を築き上げていた。
でも、緋美子は知っている。彼が時折、その垣根に立って、婚前も自室として使っていたこの出窓の部屋を見上げているのを。
しかし年のうち、数えるほど。そしてその回数も減っている。
だから、緋美子はほっとしている。
でも、時折燃え上がるこの身体はどうしてしまえば良いのだろう?
それはまるで、女性に月に一度来るモノのように、生理的にやってくるかのようだった。
眠る支度が整った緋美子だったが、いつも寝ているベッドの前に立って横になることを躊躇う。
緋美子のベッドは、婚前、娘時代に使っていたまま。夫と、初めて睦み合ったベッドのままだった。
夫の拓真は、和式の布団を好む。だから床に彼が寝る為の布団を毎日、緋美子が敷いている。それも緋美子のベッドの隣、足下に。
『その気』になった時はどうしているかというと、夫の拓真が緋美子のベッドに忍び込んできたり、緋美子が拓真の布団の中に引き込まれたり……。まあ、だいたい夫の誘いに合わせている。だが、たまに……緋美子が、誘ってしまう事もある。
どうも、今夜は『その日』のようで、緋美子が『その気』になっているようだ。
だから、緋美子は……。拓真の布団の中に潜り込んだ。
そこで妙な気持ちで夫を待っている。
このまま眠ってしまえばいい……。いつもそう思うが、こうなった時の緋美子は気が立っている。
これでも数日前からこの身体を持てあまし、我慢に我慢を重ねていた。その我慢の限界を超え、どうしても抑えられなかった時にこうなってしまう。
あの甘く毒々しいエロティックな十五歳の出来事より、ずっと恥じていたこの身体。しかしいつしか、夫にぶつけて消化する事を覚えてしまったのだ。
階下リビングから聞こえていた微かなテレビの音。
そして拓真の笑い声も聞こえなくなった。
階段を上がってくる足音──。
緋美子は寝たふりをする。起きて待っているだなんて……燃え上がっている身体を横たえて、『鎮めてくれる男』を待っている女。
まるで緋美子じゃない女が、拓真を手ぐすね引いて待っているようだった。それは別の女性が夫を誘惑し始めているようで、緋美子は益々恥じてしまう。
でもこれから愛し合いたいと欲しているのは間違いなく最愛の夫で、そして夫が愛してくれるのは紛れもなく、彼にとっても最愛の妻。なのに……緋美子は僅かながら違う想いを交えている。
ドアが開いた音。
小さなベッドに寝ている息子を確かめている夫の気配。
そして彼が、小さく笑った声が聞こえた。それは息子の寝顔を見ての愛おしさを表すものではなく、どこか悪戯めいたもの。きっと自分の寝床に、妻が横になっている事に気が付いて、喜んでいる声。
だから早速。暗がりの部屋で、彼が衣服を脱いでいる。それもわざとなのか、寝たふりをしている妻を驚かすかのように、彼の下着が枕元まで飛んできた。
やがて布団に寝そべっている緋美子の足にくすぐったい感覚──。
思わぬ方向からの侵入に、緋美子は小さな悲鳴をあげそうになり、でもぎゅっと堪える。
まったく……。無邪気な悪戯が大好きな彼らしい。妻の隣に忍び込むのではなく、そんな布団の足下からごそごそと入り込んで来るだなんて。
しかし、拓真はそれだけで終わらせなかった。這い上がってくる途中、緋美子の両足を大きく開き、その頂きに早速吸い付いて離れなくなった。
今度こそ、待ち構えていた女は、その望んでいた性感に濡れた声をこぼしてしまう。
まだ姿が見えない布団の中で、夫が楽しそうに妻を愛している。
それが暫く続き、緋美子は密かに満足の微笑みを浮かべ、それを堪能した。
待っていた、この感覚。やっと毒を抜いてもらったような爽快感さえ……。
「タク……」
呼んでも彼の声はない。
妻の身体の感触を夢中で楽しんでいるよう。
そのうちに、大きな手がぎゅっと緋美子の乳房を握りしめて、また布団の中にいる拓真が、土の中でモグラが前進するかのように緋美子の喉元に向かって動き始めた。
彼が息継ぎに水面から出てきたが如く、『ぷは』と緋美子の胸元にその姿を現した。
既に彼も裸で、そして妻の衣服を手際よく剥いで、緋美子の素肌の上にいた。
「ミコ」
いつもの屈託のない笑顔で、見つめられる。
その微笑みは本当に緋美子にとっては太陽だった。
息子と同じように無邪気で、憎めなくて、今、彼が愛しているのは男の本能に頼るものではなく、純粋に『妻』だから本能を表していると言ってくれそうな……そんな汚れのないもの。
それだけで、緋美子は嬉しい。
……でも、緋美子ではない『魂』が、それだけでは許さないと訴えている。この苦しみを和らげる為に、緋美子に『行け』と命令し続ける。
抵抗したいが、体格の良い若い男を目の前にしてこの魂が拒むはずもなく。
拓真の首に抱きつき、緋美子から夫の唇を塞いで強く吸い付いた。彼の、ちょっと驚いた声が封じられた口元からこぼれる。
それどころか、緋美子は既にその気になっている夫を自分から掴んで迎え入れる。その、強引な女からの行為。緋美子は恥じているのに、魂は強く求めている。
でも、夫も『慣れてきた』のだろうか。緋美子がこんなふうに貪欲になることは度々ある。最初は驚いていたかも知れないが、彼も『またこんな妻が現れた』ぐらいにしか思っていないだろう。彼はそれをなんなく、疎まずに受けとめてくれている。その証拠に、突然、妻に誘われ食い付かれた急激な感覚に息を止めながらも、直ぐに狂おしそうな吐息を聞かせてくれた。
そして彼の顔が、無邪気な夫から、女を欲した男の色めいた顔になる。
緋美子が誘った男の顔。夫に抱きついている緋美子という妻は、今は性欲を露わにした『女』という生き物に過ぎない。でも、夫が喜んでいるのが分かる。
「すごいな。緋美子は、時々こうなるんだ」
「それ以上、なにも言わないで……」
「言うものか。そんなお前も、俺は好きなんだ」
夫の首にしっかりしがみつきながら、緋美子はただ彼を見つめ、そして繋がった腰を自分から動かした。
また先手を取られてしまった夫が、思わぬものに出会ったかのように『う』と呻いた。でも、緋美子はやめない。そして夫もそれを楽しんでいるようだった。自分が、どのように愛されるのか──妻の動きを上から眺めて確かめているよう。それを止めようともせずに、夫の拓真は淫欲に染まった妻からの誘いを黙って受け入れている。それでもやがて、どうにも堪らなくなった顔に歪める拓真。緋美子はそんな彼に『さあ、おいで』と煽るようにして腰で誘った。
ついに夫が緋美子に上から抱きついて降りてきた。
布団に押しつけられ、彼が力一杯に男性的な勢いで向かってくる。
その時、緋美子の額には堪えに堪えてた間の汗がじんわりと滲んでいた。その汗ごと拓真の大きな手が黒い前髪をかき上げて、妻の顔を見下ろす。
夫の勢いに喘ぐ緋美子を見下ろして、拓真は妻の唇に強く吸い付いてきた。たったそれだけで、緋美子は最初の『毒抜き』が完了したかの如く、天高くのぼりつめた。
「……ミコ、声。お義父さんに聞こえる」
「わ、わかっている・・・わ」
ほんの僅か、夫に愛されただけ、唇を強く吸われただけで──。
それだけ、緋美子の毒が溜まっていたのだろう。
でもこんな夜の緋美子は貪欲だ。
まだ『毒抜き』は終わっていない。
そして夫もまだまだこれからだ。
のぼりつめたばかりの力が抜けた身体のはずなのに、緋美子は起きあがって覆い被さっている拓真に抱きつく。
彼の鍛えられている胸板に、自分から柔らかな乳房を押しつけるようにして、きつく抱きついた。それだけで夫は、まだ抜ききっていない欲をぶつけてきてくれる。
座っている夫の膝に乗り込んで、自分から夫を受け入れやすいように腰を浮かす。そこにちゃんと夫が応えてくれる。
「声、我慢しろよ」
「うん、タク──」
彼に抱きついて、背にしがみついて、夫が夢中になってくれている間も、緋美子は思うままに感じる。
声が出せないのは辛いから、彼の大きな肩にしがみつくまま歯を立てて堪える。
妻の背中を撫で回しながら男の行為に没頭している夫の手、その滑りが良くなるほどに緋美子の肌は汗ばんでいた。
まだ毒は身体中を巡っている。
貴方、早く……全部、抜いて、吸い取って!!
夫の背にしがみついて、緋美子の心が叫ぶ。
毒を抜くには、鍛えている若い夫はとても良い。
一晩に、何度もその気になってくれる。鍛えられたその身体と若さで、どんなにでも緋美子の毒を浄化してくれる。
そんな時の緋美子は、もう獣になってしまったのではと思うほどに、夫に全てをぶつけて預けて、振り乱れる。
今夜。体力がある若い夫は、三度ほど頑張ってくれ、緋美子の毒を完全に抜き取ってくれた。
そしてやっと力尽きた女獣は思う。
十五歳のあの衝撃に敵うものはないが、夫は確実に緋美子の全てを掴み始めていると。
そして彼は結婚した時よりも、ずうっと素敵な大人の男性へと成長していた。
夫の布団に横たわったまま、同じように隣で果てている夫を緋美子はずっと見つめていた。
「なんだよ。そんなにじろじろ見るなよ。こんな時の男って情けなくないか?」
「どうして? 私は……無防備にくつろいでくれているようで好きよ」
「そうか。俺も──時々、こんなになっちゃうミコのこと、結構好きだな」
それがどんな女であるか……。
でも、緋美子は嬉しく思った。
身体の奥底では『これは毒だ』と思っても、素肌で夫と見つめ合って愛し合うことを確かめ合うのは緋美子という女としては至上の喜びである事も間違いはないと言いきれる。
「ミコ。そんな時、俺は……思うよ。俺達、身体の方もすっごく相性がいいんだって」
夫の優しい口づけが、寄り添って寝そべっている妻の頬に落とされた。
出窓には真っ白い月。そして今年も咲き誇っている薔薇がそよ風に揺れる微かな音、そして香りが、二人の上にやってくる。
夫妻、夜の営み後の睦言。穏やかなスキンシップを交えて、心を通わす。
とても、幸せなひととき。なのに、緋美子の心の奥にあるものに後ろめたさを感じる。
でも、緋美子は夫に笑いかける。
「そうね、タク。貴方、うんと素敵……」
本心。
でも、『身体の相性』だなんて……。
それは緋美子にとっては嘘の返事。
気が付かない拓真は、いつもの素直な笑顔を見せて喜んでいる。
それだけに緋美子の心は重苦しくなるが、でも、彼を愛しているからそれを隠し通して、一生、彼の妻でいるのだと誓っている。
毒は、夫がこうして抜き取ってくれる。
たぶん、これからも──。
夜が更け、二人はそのまま床の布団で寄り添って眠ろうとしていた。
先ほどまでは夫妻の睦言ばかりだったが、きちんと眠る為の姿勢になると、拓真がいつにないことを話し始めた。
「あのさ。正樹先輩、今度、内勤に異動になってしまうんだ。中央署の事務官になるんだって」
夫が先輩『正樹』の話をする事は珍しくない。
そして緋美子も、彼が異動するという話を初めて知っても驚かなかった。
「そうなの。早紀さんからはなにも聞いていないわ」
「だろうな。だって先輩、実家にちっとも帰っていないみたいだから」
「早紀さんも、それは心配していたわ……」
と、そんなふうに『なにも分からない』とばかりに話を合わせながらも、緋美子には判っていた。
正樹は、緋美子という女の気配がする場所から去る準備を始めているのだと。
実家に帰らないのも、緋美子の新婚家庭が近所で営まれているから。そして緋美子が妹の親友であるから縁が近すぎること。さらに何年も肩を並べてやってきた同僚である拓真から離れようとしているのも、緋美子の夫だから。
緋美子がそこで正樹に対して心苦しく思うのは、彼ばかりが自分にあるべきものを捨てていく事だった。
跡取り息子であるのに実家に戻らないようになってしまい、有望視されている消防官としての天職であろう現場職を捨て、それを夫の拓真に譲るかのように、事務官として天職を捨てようとしている事。なによりも心苦しいのは、妹の早紀にもそれほど顔を見せなくなった事だった。
『最近、兄さんが冷たいの』
正樹の妹である早紀が、つい最近、嘆いていた。
実家の母親も、正樹が帰ってこなくなった事を不思議に思っているのだとか。
緋美子には嫌な予感が近頃、つきまとっていた。
彼だけ捨てていくのは、バランスが悪すぎる。なにかが偏りすぎると大きな事が起きる。そんな予感だった。
「前から聞こうと思っていたんだけれど……。緋美子、正樹先輩とは本当に会う機会とか話す機会ってなかったよな。妹の早紀さんとはあんなに仲も良いのに。この家だって昔から長谷川家とは近所で親しい方だろ。この家に来た俺だって、あの家のお母さんにお祖母さんとは、もう顔見知りだ。それに、夫の俺だって、ずうっと一緒にやってきた先輩だぜ。なのに、お前だけ、どうして先輩とそんなに縁がないのかな?」
いつか、こんな日が来るかも知れないと緋美子は思っていた。
結婚して三年。心配していた事はちっとも表面化することなく、むしろ怖かったぐらいだ。
だから緋美子にもそれなりの心の準備はしてあったが、夫が正面から問うてくるようになると、やはり焦りはあった。
「……そうね。でも何を話すの? それに今までだって挨拶ぐらいしていたわよ。昔なら……少しは話した事もあるわ」
拓真が知らない子供時代に、当たり前の縁があった事を強調して切り抜けようとした。
子供時代は近所で親しくても、大人になってそれぞれの環境が変われば、縁遠くなる話なんてよくある事だ。
「そっか。でも、変なんだ」
枕に頬杖を付いて、拓真がちょっと哀しそうに窓の月を見つめる。
「俺が入隊した時、先輩は俺をパートナーにしてオレンジの服を着ようって誘ってくれたのに。結婚してからも熱心に俺には仕事や救助や訓練のコツをいっぱい教えてくれたよ。先輩は上手かったし勘も良かった。俺、憧れていたからよく見ていたんだ。最近、俺が上の人達から良く言われるようになったのだって、先輩が一歩引いてサポートしてくれたからだよ。俺なんかより、もっと前に出れば、とっくにオレンジになっている人だよ」
でも正樹は現場隊員としては後退をし、内勤希望を何度も訴えて、ついにそれを上が受け入れてしまったのだそうだ。
微かに、緋美子の唇が震える。夫に、自分がやろうとしていたことを全て引き継ごうとしているように思えた。それも彼から進んで快く……。緋美子は泣きたくなった。
彼、正樹の肉体は緋美子にとっては甘い悪魔。でも心は……もしかして、そう思っても良いのだろうか? 認めてしまえば、彼は緋美子の為に代償を払っているように見えてしまう。そしてそれを黙って受け入れることは、心苦しいなんて軽い言葉では済ませそうになかった。
でも、だからこそ。彼のその犠牲に応えねばならない。
「正樹さんが決めた事だわ。私達はなにも言えないわよ。そのうちに、貴方にもきっと訳を話してくれるわ」
毅然とした妻として、夫の哀しむ心を和らげる。
離れていても分かる。きっと正樹はそれを望んでいる。彼のたった一人の戦いの中には、あのような身体と戦いながら、周りの人々を傷つけまいと言う努力が窺えるから──。
「……だよな。あの先輩の事だから、うんと深い事を考えているんだろうな。そして決して誰にも言わない主義だからなあ」
拓真もなんとか納得できたようだった。
そのうちに、彼の心も落ち着いたのか、拓真の方が先に寝付いた。
隣で寄りそう清らかな肌の青年。優しい寝息。緋美子はそっと肌の暖かみを感じながら、一人でずっと月を見上げていた。
私達は、いったい何処から来て、このように出会って結ばれる事になったのだろう。
私達は、いったい何処から繋がっていて、このように出会って苦しむ事になったのだろう。
夫とあの人。
薔薇の匂いに包まれて、緋美子は二人の男性を心の奥に同時に沈め、眠りについた。
明日の朝はきっと、毒気の抜けた貞淑な妻に戻れる。
・・・◇・◇・◇・・・
夏は薔薇の盛り。
ある日、いつものように賑やかな早紀が薔薇の家を訪ねてきた。
しかし彼女は来るなり泣き狂っていた。
「どうしたの? 早紀さん」
「聞いてよ、緋美子ちゃん! お父様ったらひどいのよ!!」
リビングに迎え入れるなり、早紀は叫んだ。
ソファーに座ったかと思うと、目の前に、白い本のようなものを荒っぽく叩きつけたのだ。
彼女の隣に座った緋美子は訝しく思いながら、それを手にとって開いてみた。
見合い写真だった。
「でも、早紀さん。今までも何度かしていたじゃない」
「それはお父様の体面を保つ為の、おつきあいで、よ」
市内でも屈指の企業である長谷川の家。その一人娘である早紀と見合いしたいとか、させて欲しいという話は、彼女が学生であっても何度かあったのも本当の話。
しかし彼女の父親はあくまで『お付き合い』、そして企業間の円滑な商談にバランスを取る為の『建前』なのだと早紀も分かっていたそうだ。だからこそ、彼女も『お遊び気分』で楽しんできた報告を、緋美子はいつも聞いていた。
それが今度はそうではないらしい。
「この男性と結婚を決めろとうるさいの」
早紀がわっと泣き出した。
困惑する緋美子だが、いつも何事も大らかに受けとめて奔放に生きている彼女がこれだけ本気で泣くと言う事は、あちらの長谷川家当主である彼女の父親が、如何に娘に口うるさく勧めているかが緋美子にも事実だと伝わってきた。
だから、彼女が持ってきた『釣書』を緋美子は眺めてみる。
不思議に思った。
あのお父様が『政略結婚』でもさせるのかと思ったら、相手の実家はそれほど大きな事業をしている家でもない。しかも三男だし、強いて言えば学歴がまあまああるぐらいだろうか? 勤め先だって実家の事業所ではなくて、市内にあるまあ大きな会社の地方出張所勤めだ。
長谷川家が得する事がなにかあるのだろうか? 緋美子にはそう見えた。
ただ、早紀が泣くのも無理はないかも知れない? と、緋美子は見合い写真を見て思う。なんともぱっとしない平凡そうな男性。眼鏡をかけて洒落っ気もない紺のダブルスーツが彼の特長をさらに殺してしまっているようにさえ見えた。
奔放な彼女はいつだって、若くて素敵な青年に取り巻かれていた。しかし誰と決めている訳でもなく、早紀が誰を恋人にしているとも聞いた事もない。緋美子にもそれは教えてくれない。いや、教えるほどのものなどなかったのかもしれない。でも、彼女は『いつか大人のとってもハンサムなハリウッドスターのような男性と結婚するの!』なんて言っていたぐらい。だから外国に短期留学をしていたほどだ。
しかし父親としては現実的なものを娘に突きつけてきたようだった。
(でも、おかしいわね)
企業的なメリットがないなら、もしかして。と、緋美子は長谷川の父を思う。
そう、きっと父親だもの。父親としてこの男こそと思ったのかも知れない。
だから緋美子は言ってみた。
「ねえねえ。また楽しんできたらどう? どんな男性だったか教えてよ、早紀さん」
「会ったら、結婚させられるわ!」
「そうなったら、またうちに家出してきなさいよ」
いつも家出先はここだった。
でも最近は家庭を持った緋美子に遠慮して、早紀も我が儘の為にこの家に逃げ込んでくる事はなくなった。
だからか、早紀が涙を止めて、とても安心した顔。
「ほんとうに?」
「そうよ。嫌なら断る。当然の事だわ」
「緋美子ちゃんは、私の味方よね」
「勿論よ」
少女の頃からの変わらぬ会話。
後ろに緋美子がいると分かって、見合いを決めた。
だが、これが早紀には思っていたものとは全く違う方へと転がっていく。
彼女は見合い相手の男性を気に入り、結婚する事になる。
その夫となった男性が、まさか、長谷川の『婿養子』になるとは緋美子はこの時は考えつく事もなかった。
既にこの時、跡取り息子の正樹は、父親に見限られていた事も──。
翌年、早紀が結婚した。
夫は『長谷川英治』。
のちに生まれる『幸樹』の父親だった。
Update/2008.2.1