・・Ocean Bright・・ ◆光と影の羊達◆

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5.レヴォリューション

「兄さん、今夜は何もなし?」
「当たり前だろう。いつも通りだよ」

 二月のある朝──達也と二人きりの大佐室。

 あれから数ヶ月経ったと思う。
 この日は土曜日だったが、本部は閑散としていた。

 日本暦で動いているこの職場も、『祝日』と週末休暇の飛び石連休の最中。
 有給休暇を利用して連続休暇を取ったものが多く、最低限必要な人数しか出勤していないからだ。
 隼人と達也は出勤している。
 だが、大佐席の『女性』はそこにはいなかった。

「味気ないねー」
「人の事いえるか?」
「俺はその気になれば、その都度、食事が出来るぐらいの『女』は、すぐ見つけられるから」
「だったら、そうすればいいだろう?」

 達也は基地の中でも、すっかり『目立つ気になる異性』としての存在感を定着させていた。
 だから、時には気軽そうな形での女性との食事なども出かけるようになったのは事実だ。
 『味気ない』とは──連休中なのに出勤しているだけで、本当は私生活でも何も予定がない生活をしている隼人の有様を、達也がわざと突きつけているのだ。
 その意味は、『この前まで恋人だった彼女と約束をしていない』を確かめる為か、はたまた『そろそろ葉月ともっと話し合う機会を作ってはどうか?』という当てつけなのかは判らない。

「兄さんも結構、もらったな」
「最初から、こういう事にも興味はない」

 お互いに、デスクの上には、華やかにラッピングがされている箱が数個、積み重なっていた。

「去年は一個もなかったのになー?」
「葉月からも?」
「あのお嬢さんが、『バレンタイン』なんてイベント事に浮かれると思うか?」
「思わないけどー」

 日曜日がバレンタインの為、『明日から休むから』と様々な日数で休暇を取った女の子達が──連休前の水曜日、連休開始の木曜日、そして飛び石挟んで平日の金曜日、本日週末土曜日──机の上に『チョコレートの贈り物』を置いていき、それが徐々に山となったのだ。

「兄さんの、金色リボンのその箱。『本命』っぽいぞ! 誰!」
「え? これが『本命』なんだ?」
「そーだよ! こう言うのが『義理』で、こういうのが『本命』!」

 達也が大きい箱を『義理』と言い小ぶりな箱を『本命』と説明した事に、隼人は眉をひそめる。

「この小さいのが?」

 ふんわり花柄のアイボリー包みに金色のリボン──上品な小箱。
 達也に言われた『本命箱』を隼人は手にして、首を傾げる。

「高級チョコだって言っているんだよ。『大きいから本命』ってなんだそりゃ」

 達也が心底呆れたと言った風に、自分の『戦利品』をデスクに放り投げた。

「だけどー、どの子も置いていく時、『いつもお世話になっているから』って……それって『義理』って事だろ?」
「やだね。この兄さんは」
「なんだって? だいたいにして、日本のバレンタインは『おかしい』! こんな遠回りな表現で変な駆け引きをするからこの日に『誤解』が生じやすいのではないのか!?」
「また始まった。もう『理屈っぽい』のイヤよ、ワタシ。ここは日本なの! たとえ、兄さんが『本命』を相手にする気がなくても、そこ見抜いておかないと正に『兄さん理論』で言う所の『誤解』が生じるから、気をつけろって言っているの!」
「ああ、そうかい? ありがとうさん、気をつけるように致します」

 『はぁ』と、溜め息をつきつつ、隼人は席を立ち上がった。
 手は胸ポケットに行く。
 そう煙草を吸いに行こうと立ったのだ。

 それを見て、今度は達也が溜め息。

「チョコはもらえど、俺の『本命』ちゃんは……どこへやら?」

 頬杖をついて、達也は大佐席を眺めていた。
 隼人は聞かない振りをして、自動ドアに向かう。

 

「おはようございます。澤村中佐」
『!』

 隼人が煙草をくわえて席を立ったその時、大佐室に一人の女性が入ってきた。

「テリー! 今日は休んで良いって言っただろう?」
「そういう訳にもいきません。直属の上司が出勤しているのですから」
「その『直属の上司の命令』だったはずだ」
「こちら、昨日の夕方あがった訓練通信のデーターです。数値はディスクに落としておきました」
「!」
「これで、中佐は本日もお仕事が出来ますでしょう?」

 その通りなので、隼人はぐうの音も出せず……。
 彼女がにっこりと微笑みながら、ディスクケースを隼人に差し出した。

 ばさばさと言いたいような密度が濃いまつげにおっきな黒い瞳、そして一つに束ねているカーリーヘア。
 ちょっと浅黒い肌の、プエルトリカン。
 ツンとした少し大きめのバストに、それに対してバランスがよく引き締まっているウエストにヒップ、長い足。
 黒人系に良くいるモデルそのもの──。
 初めて大佐室に姿を現した時、達也が絶賛した程のスタイルの持ち主だった。

 彼女の名は『テリー=マイヤー』
 葉月が隼人を怒らせた『あのアシスタント』だ。

 

 あの後、あれだけ隼人が怒ったにもかかわらず、葉月は何事もなかったかのように、計画通りに彼女を大佐室に連れてきたのだ。
 当然、隼人のみならず達也も『どうしてアシスタントが必要なのか』と、それまで以上に葉月に反対した。
 のに……葉月よりも、このテリーが『私の何処がいけないのか、使ってみてから仰って下さい。それから通信科に帰ります』とまで言い張る『強気な女の子』だった。

『──ですって。その通りだわ。三日でもいいわ。使ってみて?』
『宜しくお願い致します』

 同じようなスレンダーなモデル体型の女性二人が、そろって企んでいるかのように『にっこり』

(そうだ、そうだ。兄さん、いつものように女だからって甘くしないで、きっぱり厳しく突き返してやれ)

 達也の進言。

(そうだな。三日だ。三日……必ず追い返してやる)

 まるで大佐室の中で『女ふたりVS男ふたり』の対決のようだった。
 ところがだ! 彼女の手際の良い事、良い事!
 既にこの四中隊を把握しているかのように、隼人と外にいる空軍管理官達の『パイプ』を上手く担ってくれる。
 隼人が『あー、忙しい。あれもしなくちゃなー、これもしなくちゃなー』と思い描きつつのいつもの忙しさに集中していると、彼女がそれを察してくれたように、隼人がすぐに手がつけられるような下準備を済ませてくれるのだ。

『やるじゃん……あのこ。俺も借りて良い? 葉月ぃー』
『いいわよ。その代わり“直属の上司”である澤村中佐の許可がとれたらね』
『……だって! 兄さん♪ 今度、貸してね、彼女』

 『裏切り者』──と、隼人は達也を睨んだ。
 テリーの美貌と見事な仕事ぶりを認めた達也は、あっという間に『女性ふたり側』に寝返ったのだ!
 が──実は……隼人も三日で答えは出ていた。

 どこか心に余裕がなくなりそうな状態で、仕事をこなしていた。
 その上、プライベートでも精神的に大打撃を受けている中、隼人が今手が回らない所は、本当にテリーがよくサポートしてくれ、この三日間で職場であるべき自分を取り戻したような気がしたのだ。
 自宅に帰っても、どことなしに心に余裕が出来ていた。

 悔しいが……葉月の言う通りだった。 

『よっ。澤村君──テリーはどう』
『小池中佐』

 四中隊通信科隊長──葉月が長年信頼を置いている外部署の中佐。
 その彼にカフェテリアで声をかけられた。

『ええ、とても良い子ですね。驚きました……ウチの中隊にあんな良い子がいたなんて』
『だろ。お嬢の秘蔵っ子だからな』
『え?……いつから……』
『さぁね? いらないなら直ぐに返してくれ。こっちは惜しんで、惜しんで、でもお嬢が“どうしても”と言うから“手放してやったんだから”な』
『はぁ……』

 小池のちょっと悔しそうで、それでいてもったいぶるような言い回しが気になる。
 この様子だと、隼人の下で働くのは『イヤ』と彼女が言えば、この中佐が喜んで引き取ってしまうらしい。
 隼人がどうこうより、葉月と小池の間での『テリー争奪戦』をしているように見えた。

 確かに──テリーの仕事ぶりは、本部の優秀な男性隊員に匹敵していた。
 小池にここまでいわれると、隼人も手放しがたくなってきたではないか?

 それで……葉月の思惑に、またまんまとはめられた気になりつつも、彼女をアシスタントにと十二月に受け入れたのだ。

 それから彼女は大佐室を頻繁に出入りしている。
 デスクは空軍管理班の片隅に設置したが、彼女の役所は『大佐室アシスタント』となっていて、彼女のボスは『サワムラ』という配置が定着しつつあった。

 そして彼女が来て、数ヶ月。

 

「サンキュ」

 隼人は、『せっかくの連休だから休め』と言う言いつけを聞かずに尽くしてくれる事に感謝しつつも、その言いつけを素直に聞いてくれないアシスタントにふてくされながらそのディスクを受け取る。
 受け取ると、テリーが真っ黒い大きな瞳をさらににっこりと緩め、三日月のような曲線を美しく描く。
 そのまばゆい笑顔を隼人が見ていると……。

「中佐。お煙草は、廊下の喫煙場に着いてから、くわえてくださいね」
「あ!」

 にっこり笑顔の美しきアシスタントに、くわえていた煙草をサッと唇から奪われた。

「いいだろう? 今日は休日出勤なんだから」
「いけません。海野中佐も同じく、気をつけて下さい」
「はーい。テリーちゃんの言う事は良く聞いて、お利口さんにしまーす」
「ったく……」

 達也はどちらかというと、テリーを非常に可愛がっている。
 だが、隼人は達也程、彼女を受け入れてはいない。
 彼女の何が気に入らないかというと、『口うるさい小言』が多い事だ。

「返してくれ。それに俺に指図をするな」

 テリーの手から、奪われた煙草を取り返す。

「そういう訳にもいきません」

 胸を張って彼女が隼人の前進を遮った。

「なんだと? 通信科に帰ってもらうぞ」
「それでも結構です。ですが最後にその決定を下すのは『御園大佐』ですよ」
「俺は、大佐嬢の側近で、君のボスは『俺』だ」
「違います。私の『ボス』は御園大佐です。貴方は『ただの直属の上司』──大佐に言われているんです『女房になったつもりで、なんでも口うるさく反抗して結構』とね」
「……もう、いい!」

 テリーの生きの良さに、隼人はたじろいで、ついに逃げ出す。
 そんな風に逃げた隼人の背で彼女のクスクスとさざめく笑い声。
 達也が他人事のように、楽しんで笑っている声も聞こえた。

 喫煙場に辿り着いて、奪い返した煙草をやっと口にして、火を点けた時だった。

「……ええ、仰る通りに、大佐席のバインダーに紛れていました。いますぐエアポートに行きます──! え?」

 テリーが携帯電話を耳に当てたまま、廊下に出てきた。
 小脇には茶色い台紙の冊子を抱えて……。

 どうやら今朝は不在の『大佐嬢』からの連絡らしい。
 そう、この頃──外出中の大佐嬢が仕事で困った事があると、連絡するのは『テリー』だ。
 隼人に用事があったとしても、達也になにかして欲しい事があっても、ジョイや山中、そしてテッドに伝達があったとしても……彼女テリーがすべて『中継』という訳だ。

(なるほどなー)

 隼人は、またもや納得していた。
 テリーの新配属に関して、何度も、この『なるほど』を体感していた。
 この『なるほど』は達也も感じていた。

『兄さんが葉月の言う事を、素直に受け止められなくなる。仕事関係も元通りって訳にはいかなくなる──その為に、ワンクッション置いた配置を考えたってわけか。それに兄さんのこれまで現時点での『仕事量』の負担がもう限界に来ている事も、分かっていたんだなー。その為のテリー配属。結果は上々じゃないか。あっぱれ』

 達也がそれだけ感心していた。
 そして……隼人も。

『仕事関係も元通りという訳ではなくなる』
『兄さんが葉月の言う事を素直に受け止められなくなる』

(確かになぁー)

 テリーの話が出た時に、非常に感情を露わにして、怒り出した隼人。
 あれを思えば、『素直に聞けなくなる』という説は大当たりだ。
 仕事量の負担減少については、言うまでもない……。

 だが、とっても気になっているのは『葉月に対しての徹底的な忠誠心』──。
 今まで、女性隊員の中でこれほど葉月を慕って、たててくれ、徹底的に従う女性は『経理班長の河上大尉女史』以外には見た事がない。
 それも日常は、離れている部署にいる通信科の隊員なのに……いったい、何時? 二人はこれまでの意思疎通を確立させていたのだろう?
 小池と話した時は『さぁ?』なんて流されたが、隼人はそこが気になっていた。
 こんな助手が何年も同じ中隊にいたのなら、とっくに本部に採用されていてもおかしくないものを……?

 だが、そこについてはなんだかジョイにも山中にも『さぁ?』と言う反応しかもらえず……葉月とそんな深い話を最近はしなくなってしまったし、テリーはそのあたりの『真相』をちらつかせる気配もない。

 煙草をくわえ……目の前を過ぎっていこうとしているテリーを目に、隼人はふと唸っていた。

「ですが、大佐。もう搭乗時間ではありませんか? 私、そこへ急いで行きますから!」

 そんなテリーが葉月に何を頼まれたのか判らないが、携帯電話を耳にしたまま隼人の前を走り抜けていった。

(楽譜か……?)

 テリーが小脇に抱えている茶色の厚紙表紙の冊子。
 見覚えがある。
 ここの所、葉月が良く手にしていたから……。

「おい、テリー。急いでいるなら、俺が持っていくぞー!」

 今度は達也が廊下に飛び出してきた。

「なに? あいつ、楽譜忘れたの?」
「ああ。テリーに『そこにないか捜して欲しい』と言う連絡で、やっぱりバインダーの山に紛れていたらしくてさ」
「大事なコンサートなんだろう? まったく、それなのに忘れるなんて……」
「まったく」

『大佐! 私、持っていきますから、そこを動かないで下さいね!』

 テリーが階段を降りる角を曲がろうとした時……。

 

「そんな事言っても、もう、来ているもの──」

 

 葉月だ──。
 彼女も携帯電話を耳に当て、片手にはヴァイオリンケースを手にして現れた。

 そう、彼女は今日は一日休暇をとって、この土曜、日曜と『鎌倉』に帰る予定だった。
 今回に限った事ではなく、葉月は『あれから』頻繁に鎌倉に帰るようになったのだ。
 それも、このようにヴァイオリンを持参して右京の元へ行っては従兄と一緒に『小さな音楽活動』をしているらしい。
 今回、彼女は右京が音楽仲間と主催した『バレンタイン・チャリティーコンサート』に参加するとの事だった。
 チャリティーが絡んだ催しは今回が初めてとの事で、それまでは、右京の仲間に混じってパーティーの演奏をしたり、時には自分達の演奏を楽しむ為の食事会などもしているらしい。

 楽譜が何故、大佐席にあったかというと、葉月がそんな音楽活動をしている事を知った『弦楽器をたしなむ音楽隊員』達も今回のチャリティーに参加したいとの申し出があり、葉月が喜んで右京に紹介したらしく──それで業務後は、葉月は音楽隊の講堂まで出向いて、まるで『サークル活動』のようにして、練習をしていたからだ。
 それで職場にもヴァイオリンケースと楽譜を持ってくる。
 その為に、席に忘れてしまったのだろう。

 今となっては、基地中で『御園大佐とヴァイオリン』の話は有名になり、今までその特技をちらつかせる事もなかった彼女の思わぬ姿に、大変な話題になっていた。

『もう、俺達だけの秘密……じゃ、なくなるって感じだなー』

 達也がいつか、寂しそうにそんな事を呟いていた。
 隼人はなんだか、その一言にドッキリとさせられた。

『でもあんな葉月、みたことがないな……すごく楽しそうで』

 達也はそんな葉月の変化を、嬉しそうにそっと見守っていたようだが……。
 隼人はどことなく、つまらない気分が疼いていたので、『俺達だけの……なくなる』と言う言葉には、妙に痛い指摘を受けた気分にさせられたのだ。

 ずっと奥まった所に籠もってばかりいた……あのお嬢さんが。
 社交的になりつつある。
 彼女の前向きな変化はそれだけじゃない。

「まぁ、大佐。素敵」
「ほんと、その色、お前らしくないなー?」
「そ、そう? 変かしら?」

 うっとりとしたテリーに、葉月の服装に目を見張る達也。

 真っ白なモヘアのセーター。
 淡いピンクと淡いグレーの花柄が大胆に織りなす、裾が柔らかく揺れるスカート。
 そして、白い華奢なパンプス──。
 小脇に抱えた高級そうなグレーのロングコート。
 そして、だいぶ伸びた栗毛を肩先で大きくふんわりカールをさせて、その毛先がくるんと揺れるたびに彼女の頬をつついていた。

 質素に軍服を着ている日常からは……いや、『今までの葉月』からは考えられない『華やかさ』。
 そこに急に春の花がパッと咲いたよう……。
 隼人も思わず、くわえていた煙草を落としそうになったぐらいだ。

「変じゃないけどさ……お前がそういう色を選ぶなんてな。それに、フレグランスも変えたのか? 兄ちゃんのお見立てだろ?」
「あら、違うわよ。私が選んだの──洋服も香水も。お店を教えてもらったり連れて行ってもらう為に、付き添ってはもらったけれどね。今日の企画はバレンタインでしょう? スウィートっぽくしようと思ったの」
「なるほど、すっごくイイカンジじゃん! それにその香り、ベビードールだな」
「さっすが、達也は鼻がきく事」
「だって、俺。それをつけている女の子、だーい好きだもん」
「そ、そうなの……?」

 さりげなくアプローチをしている様な達也の余裕の笑顔に、葉月がすこしたじろいでいる。
 そう言う所は、まだまだなんだと、隼人は黒髪をかきながら溜め息をついて、立ち上がった。
 そして、和気藹々と和んでいる三人の背後に近づいた。

「あ、中佐……」

 テリーがいつまでも抱えている楽譜を、隼人は少し荒っぽく取り去り、それを葉月にツンと差し出した。

「早く行けよ。いくら大佐でも、定期便を遅らせるなんて事するなよ」
「ええ……そうね」

 無表情に葉月を見下ろした。
 そんな『隼人』は今に始まった事でもない。
 『あれから』隼人は特に、葉月には笑えなくなっていた。

 本当は笑いたいのに、微笑み返してあげたいのに。

 それに、葉月もだ。
 隼人には、何か怖れるかのようにして、遠慮がちだ。
 仕事では見事にやり返してくれるのに、それ以外だと達也とテリーがいないと『間が持たない』程、言葉が続かなくなる事も、今では珍しくもない。

 そんな二人だから、葉月が怖々と言ったように、隼人の手から楽譜を受け取った。

「早く行けよ」

 感情がこもっていないような言い方に、葉月はおろか、テリーも、そして達也も戸惑ったように黙り込んでしまった。

「では、明日の夕方の便で戻る予定だから──本部の留守、お願いします」
「あ、葉月──! 明日の夜、どう?」
「達也……」

 近頃、達也は隼人の目の前でも平気で葉月にアプローチをする。
 それを耳にして、隼人が踵を返そうとしたのだが……。

「ごめんね。たぶん疲れて帰ってくると思うの。一人で休ませて──」
「あ、うん……分かった」

 物分かり良い返答をした達也だが、あえなく撃沈し、ややがっかりした声だった。

 突然現れた『春の花』が、にっこりと三人に微笑んだ。

「行ってきます」

 テリーも達也も、その笑顔には金縛りがかかったかのように表情まで動かなくなったようにボウッとした感じ。
 そして隼人は……心の片隅で、ゆっくりと微笑み、彼女をそっと後押しするように送り出している柔らかい気持ちを感じていた。
 そんな気持ち……どうしてか、久しぶりのような気がした。

 そんな気にさせてくれる、透明感溢れるまばゆい笑顔だったのだ。

「きゃっ!」

 『グキッ』という鈍い音が足元から……?
 階段を降りようと背を向けた途端、葉月がそこで足首をくじいたのか、転びそうに……いや! 階段から落ちそうになる!

「あぶない!!」
「あ!」

 咄嗟に一番に飛び出し、彼女を受け止めていたのは……。

「は、隼人さん……」
「……!」

 今、自分の腕の中に懐かしい感触を思い起こさせる女性がいた。
 目の前に、輝くチェリーピンクの唇をそっと向けて、瞳を潤ませている彼女が、隼人の腕の中にその身を任せている。
 彼女はすっかり力が抜けてしまったのか、隼人の腕にはずっしりと重い感覚。

「わっ! 葉月……ヴァイオリン!!」

 二人で茫然と見つめ合う事、一瞬。
 その長く思えた一瞬から、目を覚まさすような達也の慌てた声。
 すっかり力を抜いていたのは、指先までも抜けていたようで、葉月が大事にしているヴァイオリンケースすら手放す程、ぼうっとしていたようで?

「え!?」

 今度は達也が跪いて、葉月の手元から落ちそうになっているヴァイオリンケースを受け止めていた。

「おいおい、勘弁してくれよ。見つめ合うなら、帰ってからゆっくりしたらいいだろう! ほら!!」

 達也が途端に、拗ねたように怒り出し、ヴァイオリンケースを葉月に突き出す。
 そこで、隼人もそそくさと額の髪をかきあげて、バランスを取り戻した葉月を離した。

「あ、有り難う……」

 なんだかどこかに意識が行ってしまったかのように、頬を染めている葉月が、ぼんやりと達也からヴァイオリンケースを受け取る。

『大佐──!! もう搭乗チェックインが滑走路警備口で始まりましたよ!』
「四谷少佐……」

 階段の下から、一人の青年が駆け上がってきた。
 音楽隊の若手チームの指揮者をしている青年だった。

 その彼がにこやかに現れた途端に、達也がムッとした顔で構え始めるのを隼人は見て、笑いたいがなんとか心の中で抑えた。

「もう、くじくなよ。慣れない靴を履くからだ。甲板で指揮している大事な身体だと忘れるなよ」
「有り難う……隼人さん」

 隼人は『四谷』とか言う葉月の新しい男友達が現れようが、知らぬふりで背を向けた。

「大佐──早く! 他のメンバーも待っているから!」
「え、ええ……行くわ!」

 今度こそ、葉月が階段を駆け下りていった。

「くそー。思わぬ奇兵か、あいつ等は!」
「格好悪いですよ、海野中佐。どうせなら、澤村中佐のように、ドンと構えている方が、大佐嬢のお側の男性って感じですもの」
「なにっ!? テリー!」

 テリーの生意気な評価に、ムキになる達也。
 そんな声が聞こえてきて、隼人は思わず笑い出していた。

 隼人は大佐室に戻って、両手を開いて見下ろした。
 甘酸っぱい香りと感触が残っている。
 目に焼き付いた『春の花』

 忘れていたのに、思い出さないようにしていたのに、この感触を怖れていたのに……。

 どうしようもなく、甘苦しく胸を締め付け、掻き乱されている事に、久しぶりに血が巡ったかのように身体が火照っている事に気が付いた。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「はぁ……疲れたわ」

 日曜日の夕方。
 葉月は、休暇の予定を全てこなし、住まう小笠原に帰ってきた。

 右京が主催した『ヴァレンタイン企画』のチャリティーコンサートは大成功だった。
 コンサートは本日の『ランチタイム』に行うもので、右京がいきつけのレストランに恋人同士をターゲットにした今回の企画を持ちかけて行ったものだ。
 完全予約制で、このレストランの常連客に右京が懇意にしている『資産家仲間』や、同僚達に勧めたようで、そこらからくる客が集まった。
 利益の一部は、右京が手配し寄付するとの事──。

 二月の柔らかい午後の日差しに、こじんまりしたランチコースを楽しみながら、弦楽器とピアノの生演奏。
 テーブルに着いた恋人達の暖かそうな仲むつまじい笑顔の数々。

 葉月はそれを思い出していた。

 コンサートが終えて、すぐに音楽隊員達と横須賀基地に向かい帰ってきたのだ。

『どうです? 僕たちで打ち上げしませんか?』

 葉月よりちょっと年上の四谷が、滑走路を降りるなり、そう誘ってくれたのだが。

『ごめんなさい。明日からまた訓練なので、帰って休みます』

 葉月はきっぱり断った。
 行くべきだったかどうか? そんなに悩まなかった。
 そこは以前の感覚が抜けていない。
 それに彼等とはまだ一、二ヶ月……音合わせをするだけの付き合い、始まったばかりの付き合いだったから。

「ふぅ……今回も、色々と買っちゃった。ちょっと休んでいこうかしら?」

 両手にはペーパーバッグ。
 近頃は、右京の付き添いがなくとも、一人でショッピングに出かけるようになった。
 美容院にだって行くようになった。

 そんな思いっきり時間を使って買ったものが、ややお荷物で。
 それを持って直ぐに駐車場に向かう気にはなれなかった。
 今日は日曜日、それに夕方だ。
 誰もいないだろう『仕事場』へと足が向く。

 荷物を持って本部へと向かうと……訓練系の管理官が数名、デスクにいたのでなんだか驚き、いや、感心した。
 それにジョイの席の前、テッドのデスクのパソコンも立ち上がっている。
 だけど、不在のようだ。
 夕方で、カフェテリアにでも一息付きに行ったのだろうと予想が出来た。
 だから、葉月はそそくさと大佐室に静かに入る。
 そして、テッドが戻ってきて、葉月を見つけ、いつもの素晴らしい気遣いを発揮しない内に退散しようと決めた。

「はぁー。帰ってきた!」

 自分の『部屋』に帰ってきたが如く、葉月は真っ先にソファーに荷物を放って、座りこんだ。
 天上をみつめて、一時ぼんやりして、直ぐに荷物を手にする。
 買ってきたものを、帰ってからニコニコと物色する……この感覚はとても楽しいものだ。

 葉月は買ったものの中で、手に取れる小物をひとつ、ふたつ……テーブルに並べて、一人で微笑んでいたのだが……。

「なんだよ。こっちに寄るなんて」
「!」

 おもわず『きゃぁ!』と言う声が出そうになる程、葉月は飛び上がった。
 驚いたのは、給湯キッチンを仕切るアコーディオンカーテンが、ザッと開いたかと思うと、そこから上着を着ていない隼人が現れたからだ。

「な、なにしているの!?」
「お前こそなんだよ。仕事で何か?」
「そうじゃないけれど……」
「あっそう」

 沈黙が流れる。
 ここ最近の雰囲気が漂った。
 仕事中ならば、それこそ知らぬふりでお互いに目の前の仕事に集中すれば済む事なのだが、今、目の前には葉月が買ってきたものが並んでいるだけだ。

 なにか話さなければ……?

「テッドも、出てきているみたいね」
「ああ、年末に少佐になってからの熱の入りようすごいよな。けれど休んでいない訳でもないらしいけど」
「他の空官、陸官の男の子達も出てきているみたいで……」
「テッドの補佐官候補の抜擢、クリストファーの大佐嬢の訓練補佐、そして通信科から思わぬ実力を秘めたテリーの新配属。今まで黙って頑張ってきた若手にも、チャンスがやってきた──。今頃、気が付いたんじゃないか? 上は見ているもので放置はしていないって。そして大きなチャンスはそこからやってくるのだと。年明けから、急に自主性が出てきたんだよ」
「そうみたいね」
「御陰様で──テリーが来たからと言うだけでなく、後輩達もきびきびしてくれるようになって、俺は余裕がさらに出来ましたよ、大佐嬢。メルシー」
「……いいえ」

 こういう仕事の会話なら、いつもしている、出来ている。
 だけど、隼人はいつも無表情で、そして喋り方も淡々としていた。

「なんていうか。やっぱり大佐嬢だなと……思った」
「有り難う──」

 でも葉月はそっと微笑む。
 それを隼人が目にして、サッと視線を逸らしてしまった。

「一息つきに来たのか? 随分な荷物だ」
「疲れちゃって」
「何か飲むだろう?」
「え?」

 葉月がその一言に戸惑っている内に、隼人がまくっていた袖を、さらにまくりながらキッチンに姿を消した

 先程もキッチンから姿を現したと言う事は、彼も丁度、お茶を入れていたのだろうか?
 葉月がそう思っている内に、わりと早く隼人がカップを持ってきた。

「どうぞ」
「!」

 隼人が自分で作って飲むのだから、カフェオレかと思ったら……『ミルクティー』が出てきた。
 ロイヤルミルクティーを入れてくれるのなら、もう少し時間が必要なはずなのに……?

「俺も一息つこう」

 隼人は自分の愛用マグカップを片手に、葉月の目の前に腰をかけてしまった。

「い、頂きます……」
「どうぞ」

 なんだか腑に落ちず、でもせっかくだからと葉月はカップにそっと口を付ける。

「ん!?」

 葉月が一口飲み込んで、驚くと、隼人がニヤリと微笑んだ。

「すっごく美味しいー! まるでジュールが淹れたみたいに」
「──ジュール?──」
「え!? そんな事言った? 私──」
「……」

 葉月はあまりの美味しさに驚いて、無意識に叫んでしまったのだが……。
 無意識のあまり『言ってはいけない名前』を口にしていたようだ。
 不審そうな、そしてどう反応して良いのか戸惑っている隼人の顔が目の前に。
 葉月の体温はあがり、顔まで熱くなってきた。

 だが、隼人はヒンヤリとした顔つきで眼差しを伏せ、マグカップを口に付けた。

「……義兄さんの部下だっけ? 金髪の──フランス語を話す……」
「! やっぱり、知っていたの? ジュールの事!」
「お前だって、気が付いていたんだろう? 『カタパルト停止』の時に『何があったのか』──」
「!」

 今までお互いに『そうではないか?』と予想し、だけれども『相手の負担にならないように穏便に済まそう』と、それだけの為に隠し合ってきた事。
 それを隼人が、あっさりと表にさらけ出させたので、今度は葉月が絶句した。

 でも……葉月も一息、吐くと、なんだかどうでも良くなった気がしてきた。

「彼、昔……孤児院にいたらしくて、私のお祖母様に引き取られて、それからずっと御園の家の為に働いてくれているみたい」
「そうだったんだ──妙に、兄さんだけじゃなくて、お前にも気遣っていると思ったら……」
「エドもなにかしらうちに恩義があるみたいで……義兄様はそんな彼等と暮らして、そして事業をしているみたい。表向きはね」
「なるほど。御園家の裏護衛ってわけか」
「うん……それで、ジュールは、そんなお祖母様の事を親愛しているみたいで、お祖母様も知らない所で彼を可愛がっていたみたいなの。だから、彼が作ってくれるミルクティーは、本当にグランマ(おばあちゃん)の味。昔から──家族でもなかなか出せない味を、いつも私にくれたわ。この前も……」

 『この前』──それは隼人を裏切って愛しい義兄と最後の愛の日々を送った期間の事。
 それを隼人に話すのは初めてだし、聞かせられないものだと思って、葉月は急に口をつぐんだ。

「この前も?」

 だけど隼人は真剣な眼差しで、真っ直ぐに葉月を見つめていた。

「この前も……お祖母様の愛用していたカップでこの紅茶をいれてくれたわ。とっても懐かしかった」
「へぇー。そういう縁があったんだ、なるほどー」

 意外とすんなりと聞き入れた彼に、葉月は唖然とした。

「怒らないの?」
「なにを怒ればいいんだ?」
「だから……」
「ああ、チョコレートがいっぱいあるんだ。俺はあまり甘いもの食べないから、つまんでくれよ」
「……」

 その場を誤魔化すかのように、隼人が話を逸らしたのが判ったし、その『葉月の好物』がこのバレンタインで貰ったものだとも判った。

「結構です。いくらなんでも、それを口にする程、同じ女性として廃れていませんから!」
「なに怒っているんだよ?」
「せっかく貴方に気持ちを込めて贈ってくれたのに。それを簡単に他の女性に食べさせる?」
「ああ、そう言う事。珍しいな、お前がそんな『乙女』な事を言ったりして」
「乙女じゃなくて『女心』って言って欲しいわよ。失礼ね!」
「失礼なもんか。本当の事じゃないか──『今までは』な」

 それもそうだ本当の事だと、葉月は黙り込んだ。

「これ、どうぞ」

 葉月はツンとして、先程テーブルに出した一つの包みを隼人に差し出した。

「なに?」
「お土産」
「お土産?」

 すると、隼人がなんだか意地悪く微笑んだのだが、葉月は素知らぬ振りでそっぽを向けた。

「まさか……お前が? チョコレート?」
「……」

 言い返さない葉月を確かめて、余裕で意地悪く微笑んでいた隼人が、急に真顔になった。

「義理だよな……?」
「……」

 バレンタインのコンサートで、幸せそうな恋人達を見て、買い物の途中『彼』を思い浮かべたのは事実だ。
 それにバレンタインという日である事を意識しなかったと言ったら嘘になる。
 だけれど『渡そう』と思って買った訳でもない、渡す勇気などなかった。
 ただ──『選んで買って楽しむ』だけの事を、やった。それだけ……。

 隼人が意外だったのか、その包みをやっと手に取り……葉月に対してどう反応して良いのか困惑しているのが判った。
 そして──今度は葉月が『にっこり』と微笑む。

「な、なんだよ?」
「それ、香水よ」
「は?」
「最近、良く覗くの。それで隼人さんなら、どれがいいかしら? と思って……」
「葉月……お前……」
「あら、うぬぼれないで? 何故買ってきたかというと……最近の『澤村中佐』がタバコ臭くってたまらないの!」

 葉月はつっけんどんに言い返し、テーブルに出した小物をバッグにしまい込む。

「達也はバカみたいに『サムライ』をふっているから、そんなに匂わないのよねー」
「ああ、そういうこと」

 荷物をまとめて立ち上がった葉月に対し、隼人は憮然としてしまっていた。
 葉月はそのまま出口の自動ドアに向かった。

「紅茶、ご馳走様──。『最高』に美味しかったわ。ジュールがお祖母様の味なら、澤村中佐は『葉月の味』ね」

 ドアが自動に開く位置の一歩前で、肩越しに振り返る。

「合格」
「!」

 何故──隼人がこの休日に一人で大佐室のキッチンに籠もっていたか、葉月にはやっと判った。
 きっと練習をしていたのだと……。

「香水は使う習慣ないから」

 合格を出しても、隼人の素っ気ない声。

「別に……私が勝手に買ったのよ」

 葉月も向き合わないまま、負けじと返す。

「それに俺、バレンタインに興味ないし」
「私だって同じよ」
「ああ、でも! そう言えば、今日はバレンタインだ!」
「──だから?」

 妙にわざとらしい言い方に、葉月は眉をひそめ、ついに振り返ってしまった。
 すると隼人が可笑しそうにして一人で笑っている。

「分かったよ──。もう、煙草はやめる」
「え!? どうして?」
「ここまでされちゃあね」
「……」

 隼人が照れくさそうに、前髪をかきあげる。

「それに一ヶ月後のホワイトデーなんて、俺、忘れちゃうよ」
「別に──だからバレンタインだからじゃないって言っているじゃない」
「お礼に。この後、久しぶりに一緒に食事に行くってどう?」
「え?」

 それは『あれから』初めての事だった。

「急に知りたくてたまらなくなった──」
「なにが?」

 すると、隼人が葉月の全身をジッと眺め始める。

「どういう『革命』が、葉月の中で起きたのかなと……素晴らしい革命だと俺は思った。それを知れない事が『つまらない』ってね。昨日、『うっかり』……花が倒れそうな所を触れてしまったんで、よけいに」
「花──?」
「葉月の中の『光と影』がどう融合したのか──知りたいよ」

 大海を臨むこの部屋に入り込む強い西日に照らされた彼女が、ゆっくり微笑む。

 

 気のせいかな? 彼女の背にうっすらと、大きく広がる翼が見えたような気がした──。

 

 

=Ocean・Braight 光と影 完=

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