敵対していたと思っていた『慕っているおじさん』と『クソ親父』が、真一の目の前に並んでいる。
信じられない光景……!
「まぁ……ゆっくり話でもしたらどうだ? 俺達は、車で待っている」
ロイがまたにやついた勝ち誇ったような笑顔を父親に向けた。
その『宿敵』である旧友の嫌味っぽい笑顔を見ても、純一はこれまた痛くもない、感じる事もなにもないと言った素っ気な反応で受け流している。
純一が呆れた溜め息をひとつこぼすと、あまり相手にしてもらえなかったかのようにロイがふてくされていた。
「では、少しばかり『真一』を『借りる』」
ボウズじゃなくて『真一』と言ってくれたのに──『借りる』という父の言葉に、真一はなんだかショックを受けた。
俺は借り物なんかじゃないのに……と。
だが、純一のその『借りる』という発言に、ロイが顔をしかめる。
「──『借りる』なんてよせ。それに俺は『預かった』覚えもない。お前が右京に頼んで『大事な息子』を預けたのは『愛しい義妹』だろ」
ロイはつっけんどんに言い放つと、怒ったように黒塗りの車に姿を消した。
リッキーは、ロイとは違って、息子の元に足を向ける先輩を見て、嬉しそうな笑顔を浮かべ、同じく車の中へ。
「色々と心配をかけたようだな。すまなかった」
「すまなかった──!?」
いつも妙な威圧を持って、真一の気持ちを制してきたような意地悪い親父が、向かうなり『すまなかった』などと神妙に呟いたので、真一は思わず叫んでしまった。
「べつに俺、そんな事言われるようなたいそうな事、していないよ」
「葉月に『あれ』を渡してくれただろう。独りになるかもしれないのに、俺の所に送り出してくれたのだろう?」
「え、うん。だって、葉月ちゃんが『あれ』を渡さなくても『休暇を取って、兄様を捜す』って言い出したから、それ程だと思って……」
「!? 葉月はそんな事を言っていたのか……」
「うん。葉月ちゃん、元気? ヴァイオリンを弾いている? 仲良くしているんだろう?」
「……」
純一が黙る。
彼は眼差しを伏せ、緩く微笑んだだけだった。
「親父?」
「葉月は、小笠原に帰ってきて、今朝から大佐室に出ている」
「え!?」
「別れたという事だ」
「別れたって!?」
「お前が予感していた『仲』の事だ」
「そ、そうなんだ?」
真一が予感していた『異性である恋愛関係』にピリオドが打たれ『別れた』には、ドッキリさせられた。
ピリオドを打った過程に理由などは、ティーンの真一にはくどくどと説明されても、首を傾げるような『大人の感覚』なのだろうからあまり関心が傾かない。
でも、『別れた恋人達』のその後は『もう逢わない』と言う流れが真一には浮かんだのだ。
それは困る! 真一としてはどちらも大事な『家族』だ!
「安心しろ。『義兄妹』としてこれからも協力し合って行く事は確かめ合った」
「本当?」
ホッとした。
またクソ親父が姿を現さなくなるのではないかと思ったから……そうではなさそうで安心した。
そんな真一を、彼は急に愛おしそうに見下ろしていたので、真一はまたドッキリとした!
この前、宅配業者を装って会いに来た時も、触れた事がない彼を何度も垣間見たのでドキドキしたが、今度の顔はまたあの時以上に『優しい顔』だったのだ。
父親と信じ慕っていた『真』を思い出させるような……そう、ずっと心の奥で憧れ続けてきた『親の優しい笑顔』がそこにあった。
彼の方も、先日の顔よりも『ぎこちなさ』が取れたような自然な笑顔だ。
驚いたというか、感激したというか。
とにかく真一は、そんな父親の妙な変化に唖然としてしまっていた。
「今までお前を放っていて悪かった。許してくれ」
「え!?」
「いいや……生まれたばかりのお前を置き去りにしてしまって……許してくれ……」
「ど、どうしたんだよ!?」
いきなり始まった『懺悔』に、真一はただ驚くばかり。
だが、目の前の父は真剣だった。
「俺に『やり直し』のチャンスをくれるか?」
「やり直すって……?」
「──『家族』として『父子』としての」
「!」
「お前と葉月と一緒に──それを言いに来た」
『家族』、『父子』──そして、親愛なる『若叔母』と三人で。
今度はお互いの疎通を図り合うような秘密裏な関係ではない。
しっかりとした位置が分かる関係だ。
それは真一がずっと願っていた事だ!
でも、信じられないし……そして、そう言われたからとて、じゃぁ、『これからどうやっていくんだよ?』と言う事がまず頭に駆けめぐった。
その時──父が、微笑みながら何かを差し出してきた。
名刺のような白いカードだった。
「これは、今後の連絡先だ」
「!」
これからは『こっちの声』も、父親に届ける事が出来る!?
しかも、それを父親が受けてくれる!
今までは父親本位の勝手な一方通行でしかなかったのに──。
真一は半信半疑のまま、そのカードを茫然としながら受け取った。
「ただし……俺が危ない仕事をしている事も分かっているだろう? コンタクトは第三者を通じての間接的になる」
「──『テクノポリス』の『若槻』? って!? あの……最近、テレビに良く出ている社長さん?」
「俺の軍時代の後輩で、表稼業の『部下』となっている」
「うっそー!? じゃぁ、『テクノポリス』って親父の持ち会社って事!?」
「最終的にはなぁ? 若槻が一から作った会社だから、全てはあいつに任せてるけどな」
「そこが連絡先?」
「若槻社長の直通だ。葉月にも同じ連絡先を渡しておいたが、義妹よりも息子からのコンタクトは大事に迅速に扱って欲しいと念を押しておいた」
「葉月ちゃんにも……渡したんだ」
「何かあれば知らせるようにとね──若槻以外、それ以上の手段での連絡方法はない、と思ってくれ」
「分かった……」
これからは……言いたい事は伝えられる。
そう──『会いたい』という意志も伝えられる。
何処にいるか、どうすれば会えるか分からなかった事に悩む事などはなくなったのだ。
「その分──お前は『黒猫の息子』だと言う事には、気をつけてくれ。分かるな? それが危険をはらむと言う事が」
「うん。分かっている」
もう、嬉しくて……もう、素直に真一は父に向かって微笑んでいた。
向かい合っている彼も、今はただ優しく微笑み返してくれる。
「お前、今度の正月休みは鎌倉に帰省するのか?」
「え? するよ」
「じゃぁ──その頃に一度、『俺から連絡をする』」
「え!?」
「俺も日本に来るようにするから、一緒にメシでも食おう」
「マジで言っているのかよ? 子供を騙すと結構面倒だって分かっているのかよ?」
本当に信じられない事ばかり言い出すので、真一もちょっと不審そうに睨んでしまう。
だけど、『子供を騙すと面倒』に、父が可笑しそうに笑う。
「ああ、特に俺のせがれは手強そうだ。緊急を要する用事が出来ない限り、必ず行くようにする」
「……そう。んじゃ、待ってる」
『家族宣言』だけではなかった。
言葉だけじゃない……今、彼が出来る限りの事を、行動として示してくれた。
今度は信じられそうだ。
それだけ言い終わると、父・純一が、空に向けて遠い眼差しを投げかけた。
真一も『何を思って見上げたのだろう?』と思いながら、その視線を追って空を見上げる。
「葉月には感謝している」
「そうだよ。親父にはもったいないよ! 俺は最初からそう思っていたんだから! 今まで『俺達の間』の為に、どれだけ気遣ってくれていた事か。これからも大切にしろよ!」
「言ってくれるなー」
彼が可笑しそうに笑い出す。
笑い出したのだが……少し寂しそうな眼差しを落とし、ジャケットの内ポケットに手を忍ばせていた。
そこからは、チラリと『白い花』が垣間見え、父はそれを撫でていたのだ。
「そんな所に、花?」
「ああ、葉月がくれた……」
「そうなんだ……」
真一には、それが『別れの花』であったのだと判った。
そんな内側に忍ばせているのが、終わったのだろうけれど、今まで以上の『密やかさ』が残り続けているようで、それ以上は何も聞けそうにない。
「えっと……ロイおじさんとはなんで? 一緒に?」
「お前を置き去りにした俺の事を、ロイは許してくれないんでね。見届けてもらおうと思って、訪ねた」
「見届けてもらおうと……」
寮の正面玄関前に停まっている黒塗りの車。
そこの後部座席から、ロイがこちらを見守っていた。
「あと、いくつか『商談』もあったんでね。『表の顔』として──」
「そういう繋がりはあったんだ」
「極々、希に、今回も『特別な話』でね。あと、お前の事も改めて頼みたくて」
「……」
それがこの前の『隠されている真実』を『知りたければロイか右京に聞け』と言った事と繋がっているような気がしたのだが……。
「俺、正月休みに会えるの……楽しみにしているよ」
「ああ」
まだ自分の中で、この事については決心がついていない。
だから、大人達が子供達(オチビ達)に対して、これから『どのようにしていくか』を話し合う為に、父はロイを『旧友』として堂々と訪ねに来たのではないかと思う。
きっと『表顔』と『裏顔』の繋がりを使い分けている『関係』だと、真一は直感した。
『表顔』では『軍の若将軍』と『企業社長』。
『裏顔』では『軍人』と『闇男』。
裏向きの関係では、『いかがわしい裏社会の男の侵入は許さない』というロイの将軍としての確固たる姿と、それをあざ笑う裏社会に関わる男としての線引きをキッチリして『実は無関係』を装っているのでは?
そんな直感だ。
だが、大人達はそれもぼやかして、隠して行くのだろう。
「純一、終わったか?」
「ああ」
「いや、別に──ゆっくりしてもいいんだ。邪魔した」
「いや、戻る」
ロイが珍しく落ち着かない様子で車から出てきた。
そんな事を黙々と考えていた真一の様子が気になったのか?
ロイが予想以上に言葉を交わし合っている父子が、『思わぬ事』まで話しているのではないだろうか? と案じているようにも見える。
「──じゃぁな」
「うん……」
いつも通りに、父が背を向ける。
もう、途方もない切望を抱かずとも、とりあえず『年明け』には会えると分かっているのに──。
でも、やはり見送るのは寂しい……。
でも、真一は笑顔を浮かべ、顔を上げる。
角張った肩、空に伸びる高い背丈、煙草の匂い──。
昔から染みついてきた『黒い男』の姿を目に焼き付ける。
「いってらっしゃい。父さん」
「!」
彼が立ち止まる。
そして静かに肩越しに振り返った。
「仕事に戻るだけの事だろ。毎度、長い出張。“しくじるなよ” クソ親父」
「ボウズのくせに、生意気言うな」
それでも、そっと微笑んでくれた彼が、また前に向き直って去っていった──。
そう……俺のクソ親父は『世界を駆けめぐる胡散臭いビジネスマン』
『それでいいさ』
黒い車に戻った父の肩を、ロイが労うように叩いていた。
ロイは笑顔で真一に手を振って車に乗ったが、父はもう、振り向いてはくれなかった。
すると運転席にいたリッキーが、頬を指でなぞる仕草を真一に送ってくれた。
『え!? まさか……』
あの人が涙を?
驚いているうちに車は走り去っていった。
後部座席に乗り込んだ父親の顔は……いつもの硬い顔にしか見えなかったけれど……。
・・・◇・◇・◇・・・
夕方の大佐室──。
「まぁ。テッドは大きく出たわね」
「だろう!? 俺もびっくりしちゃったよ」
暫く見る事もなかった『日常風景』が、戻ってきた。
大きなデスクに、革椅子。
そこに堂々と腰をかけている葉月が、達也と向き合って話し合っている所だ。
「昨年、兄さんがその時期に受けた『佐官試験』──。澤村中佐は九月末に転属してきて、たった数ヶ月で年末試験に合格しただろ? 『だったら僕も年末試験で合格してみます』……だってさ!!」
達也の興奮した声。
それは後輩のその意気込みをかっているのか? はたまた、無理だと嘲笑しているのかは判らないが、とにかく騒いでいるのだ。
「よろしいことだわ。ダメモト覚悟なんでしょうね。それで受かればたいしたものよ。やれせてみなさいよ」
「マジで?」
「年末おちても、テッドはフロリダ校出身だから、春にフロリダ本部で行われる総合試験も受験できる。私はその時期を狙っていたんだけれどね。この春の試験に合格しても御の字のつもり。年末試験はウォーミングアップになるし、そう言っておいて」
「ウォーミングアップ……とね?」
達也は葉月の指示に、なにやら不満そうな顔つき。
「テッドは本気で年末に『合格する意気込み』の所を、『ウォーミングアップのつもりで』なんて言ったら、本気を疑われていると怒るぞ」
「知っている? あんなに落ち着いているように見えて、あれで結構『負けず嫌い』だと、私は見ているけどね」
「うわ。意地悪いなー! お前!! テッドを煽る為かよっ」
葉月がクスリと微笑んだ。
達也は呆れた顔。
「解った。そう言えば、確かに──テッドはムキになって本気になるだろうよ」
「よろしく──」
達也が溜め息をこぼしながら、大佐室を出て行った。
「さて……」
真顔に戻り、葉月はいつもの冷たい顔つきで、新たに作った書類の山に向かい始める。
彼女は朝、職務に復帰してから、もの凄い集中力で事務処理をこなしていた。
不在だった間の『業務内容』を確認しつつの作業に、達也が少しでもおちゃらけたように話しかけても──。
『うるさい! あと二時間は声をかけないで!!』
なんて本気で怒鳴ったので、達也も驚いていたぐらいだ。
それからは、この夕方まで誰も彼女の事は、腫れ物を触るようにして必要事項以外はそっとしていたぐらい。
その仕事に向かっている『凄まじい気力』は、ビリビリとした電気を放っているようで、今まで以上の力を感じさせていた。
だが、隼人は密かに溜め息。
ただでさえ、『欠勤の真相』を自分でぶちまけてしまった『あまりよろしくない状態の復帰』であるのに、なんだか今までの彼女では考えられないような『荒っぽい態度』に見えて……。
だからとて、逆に部下に対して申し訳なさそうな『しおらしい女上官』として皆にへつらう訳にもいかない事は、隼人も解っているし、それは反対だ。
だが、やはり『それにしても』なのだ。
それとも『ワザ』となのだろうか?
そうして荒っぽい上官風を吹かし、とことん『嫌われてやろう』とでも思っての事なのだろうか?
そんな溜め息だった。
「ああ、そうそう……澤村中佐」
「はい」
そんな彼女が夕方になってから、少しばかり力を緩めたように、ゆったりとした息づかいに戻った。
そこを見計らって先程、達也がテッドの昇進試験の話を持ちかけていたのだ。
そして、今度は隼人にお声がかかる。
「クリストファーの事、細川中将に伝えておいたから。まず明日から二週間程、甲板で必要なシステム機材の扱い方を教え込んでおいて。今まで内勤一本だった所へ、訓練生以来の外勤訓練だろうから。彼も緊張していると思うのよね。解らない事は梶川少佐に問い合わせても構わないとの中将のお言葉よ」
ペンを握っている手はこめかみに、空いている指で頬にかかる栗毛をかきあげながら、彼女は書類を眺め、そのままの体勢で呟いていた。
隼人とは視線は合わない。
「解りました。大佐」
隼人も淡々と返答するだけ。
そして、葉月はそのままの体勢で、なお呟き続ける。
「私の側近──」
「?」
「空軍管理のリーダー」
「それが?」
「そしてメンテナンスキャプテンとして、甲板で外勤訓練」
「……だから?」
そこで葉月が書類をデスクに置き、椅子を回転させて、隼人の方に向いた。
今度は真っ直ぐに、見つめてきた。
「本当になんでもやりこなしてくれて……」
「いや……いつのまにかだったな」
「そうね……それでね」
「それで?」
葉月がそこで少し視線を逸らしたような気がしたが、気が付けば、元に戻っていた。
だが、隼人にはそう見えたのだ。
その彼女が言い出した事──。
「あなたにアシスタントをつけようと思っているの」
「アシスタント? 別に、そういう事は『空官』の後輩達が手伝ってくれているから、必要ない」
「専属の──。もしくは、私にも時には付いていて欲しいような。でも基本的には『澤村専属』ってところの……」
「……なに考えているんだよ?」
「めぼしい子がいるの。うちの『通信科』に。もう小池のお兄さんには打診しているんだけれどね」
「おい、待てよ?」
隼人の反応などお構いなしに葉月が話を進める。
その上、葉月がちょっと楽しそうに呟く。
「女の子なの。どう?」
「なんだって──」
ペンを挟んだ指を顎にあて、不敵な笑みをこぼす大佐嬢。
いや……その時、隼人の目に浮かんだ彼女の姿は『ふざけているウサギ』だった。
本当はそんなつもりは葉月にはないにしても、隼人にはそう見えてしまっていた。
「いい加減にしてくれ!!」
「!」
隼人はデスクに両手を激しくついて、立ち上がった。
その勢いで、握っていた光化学マウスが机から跳ね落ちた。
「俺を……からかっているのか!」
さらにデスクを叩いた隼人の有様に、葉月はシラッと椅子を回転させ、机前に戻った。
「からかう? 今の私達の状態で『からかって』どうするのよ?」
「!」
その時、葉月がもの凄く鋭い眼差しで隼人を見た。
その目は『上官の厳しい視線』だった。
「……出て行ってもいいか」
「どうぞ」
葉月はそれだけ言うと、また、書類に向き直ってしまった。
隼人も足早に自動ドアに向かう。
また、指先が胸ポケットの煙草に向かっていた。
今までなら……もっと話し合えていたはずなのだが、葉月はそんな隼人を引き留めようとはしなかった。
「あれ? でかけるのかよ」
「ああ!! 当分、帰ってこない!」
「兄さん?」
自動ドアが開いて抜けると同時に、既に煙草をくわえた隼人と戻ってきた達也がすれ違う。
『葉月ー! お前って本当にやな女だよなー! テッドがさー、マジ本気に……』
『今から一時間は話しかけないで!!』
『うわ、今度はなんだよ……機嫌ワルッ! それも俺にばっかり、八つ当たりしてくれちゃって……』
自動ドアが閉まる背中から、そんな会話が聞こえてきた。
なんだ……アイツも平然とした顔をして、心は穏やかではないのか?
ふとそう思えた時、隼人は黒髪をクシャクシャとかいていた。
ああ、そうだ。
『私以外の女性と、私以上に近い距離で、密接したお仕事をする女性を配属してあげる』
そう聞こえたのだ。
その上、葉月は自分の側に新たに『テッド』を置こうとしている。
彼の事は隼人も認めているが、その後輩が『俺と同じく短期決戦態勢での佐官合格』を狙っている事も……なんとなく心をざわつかせた。
『貴方らしくない』
そんな声が聞こえてきそうだ。
以前の彼女なら、そう言ってくれたかもしれない。
でも、もう……言わずに、『仕事だけの目線』を送ってくるだけのコンタクトしかしてくれない。
口の端にくわえた煙草を、隼人は取り払う。
それを片手で潰して、廊下の灰皿に吸わないまま投げ捨てた。
そうだ──せめて『ここ』では、最高の側近でなくてはならない。
今までも彼女が心底、信頼してくれていたそのままに──。
そう、俺は『御園大佐の側近』なんだ。
そう──それだけは。
隼人は呪文を唱えるように、言い聞かせていた。
『彼女が望まないのに痛みを伴う厳しい世界に放り投げ、俺が望んでいた彼女が帰ってきたのに……どうしてだ?』
呪文の向こう側に、そんな囁きも聞こえてきていた。
・・・◇・◇・◇・・・
終礼が終わった。
だが、葉月の右隣の席にいるはずの彼はまだ帰ってこなかった。
「あのさ……葉月」
達也がそっとうかがうように話しかけてくる。
「なに」
葉月が応答したので、達也のホッとした息づかいが聞こえた。
「戻ればいいじゃん……」
「戻るって?」
「戻ってきてほしいんだよ、兄さん。何も考えずに『ただいま』って胸に飛び込んできて欲しいんだよ。結構、『後悔』しているよ? 兄さん、自分が葉月を突き放して、他の男に『譲った』事」
「……」
葉月はなんと反応して良いか解らず……そして、長年の同期生で元恋人の彼に心を読まれたくなく、黙り込む。
そのまま再び書類に向かった。
やっぱり──達也の溜め息が聞こえてきた。
「なんだかんだと『葉月の為』とか言っていたけれど。うん、確かに葉月の為にはなったようだけど。『狙った結果を得る』方法が、離ればなれになる事でなくても良かったのじゃないかって、俺は思うね。だから、兄さんもそれは『何処かで急に省みた』感じみたいで。やっぱり最後は『無理矢理に葉月を突き放して、苦しい思いや試練を与えてしまったのは俺』だと自分のした事を責めているんだよ。それから解放させてあげるのは、お前が戻ってあげる事だぜ?」
「──隼人さんのせいじゃないって事は、もう一度、ちゃんと言っておくわ」
「だからな……その『言葉だけ』じゃだめなんだって」
「……」
抱かれるのは心苦しくても、彼が望むなら抱かれればいい。
彼が……望むなら。
葉月は、ジュールが教えてくれた言葉の一部を思い出し、溜め息をついた。
確かに……それはとても『心苦しい』事であり、そうなりたい気持ちも否定出来ない。
私は、彼の事をすっかり忘れた時間を過ごしていたのだ。
心の奥に隠していた愛しい人と、愛し合っていた。
今でも私の身体と心には、あの人の指の跡も匂いも強く残っている。
その身体で、忘れかけていた恋人に再び抱かれる。
もし、本当にそれをしたのならば……その時は、どれだけ『嫌な自分』を見る事になるだろう?
つまりジュールが言いたいのは『それ』なのだろう。
そしてそんな『好都合に甘んじる』ようになってしまうかもしれない自分を怖れいているこの気持ちも、心に影を濃く落とし、とても重い。
この嫌な気持ちを感じつつも、本当に彼の望むままに心苦しいまま抱かれる事を決するか、決しないか……?
こういうどうにも迷っている心の重苦しさを感じ、頭を悩ませてしまうのも『償いのひとつ』と彼なら言いそうだ。
そうして、そっと溜め息をこぼした時だった。
隼人が帰ってきたのだ。
「おかえり、兄さん。あー俺、テッドと打ち合わせしてくる」
気遣ったのか達也が計ったようにそそくさと出て行ってしまった。
隼人が席に戻るのかと思ったのだが……。
「いいか?」
「……ええ」
彼は葉月の大佐席の前に立っていた。
その彼を葉月は見上げる。
「身体……大丈夫なのか」
「うん」
あんなに怒って出て行った彼が、いつもそうして葉月を見守ってくれていた眼差しで見下ろしていた。
それだけで、葉月は涙がこぼれそうになり、サッと俯いた。
だが、意地でも堪えた。
「土曜日に同じ病院で診察したわ」
「エドから連絡があった……流れた時、痛かったんだろう」
「うん」
「傍にいるはずの俺がいなくて」
「だって、私が出て行ったんだもの……」
「そうだけど」
「貴方は悪くないわ。だから、やめて」
再会したあの日と同じような話になりそうで、葉月が止めると、隼人も黙った。
「でも、あの子は私の中で生まれた……生きているわよ」
葉月は、静かに微笑む。
「生まれ……たん、だ」
思わぬ事を聞いたかのように、隼人が茫然としてしまっていた。
「この子が生まれてなかったら、気が付かない事がいっぱいあったわ。本当、感謝しているの。これからもこの子と私は『仲良し』よ」
「葉月……」
「だから、この子の『ロザリオ』は必要ないわ」
葉月が微笑むと、途端に隼人が泣きそうな顔をしたので、とても胸が痛んだ。
そんな顔をさせる事になった全は私のせいなのだと……。
「有り難う、葉月。そういってくれたのなら、『お前達』を突き放してしまった父親として少しは気持ちが軽くなる」
「ううん……私は……」
だが、隼人も涙は堪えたようだった。
その彼が意を決したようにとても硬い面持ちで葉月に向かって来た。
「葉月」
「はい……」
「この前、あの状況で一度は話にケリが付いた事だけれど、お前が戻ってきたから──もう一度、言っておきたい事がある」
「うん……なに?」
隼人のその言いにくそうな顔。
それを見て、何を言いたいのか、葉月には分かっていた。
その言葉を静かに受け止める心構えを葉月は整える。
「……『結婚』はなかった事にして欲しい」
「……ええ、分かっているわ」
「それから、マンションには戻らない」
「ええ」
「暫く、俺の事はそっとしておいてくれ」
「ええ」
「仕事は今までどおりに協力しあっていくから……」
「有り難う」
沈黙が流れた。
「それから大佐……今日はもう、帰宅してもよろしいでょうか?」
「ええ、よろしいわよ。澤村中佐」
「今日は、ここには……いられない」
「……」
隼人の声が詰まっていた。
それだけ言うと、隼人はデスクを片付け、いつも持ち帰るパソコンを手早くバッグにしまい込んだ。
葉月もただ見ているだけ。
「お先に失礼します。御園大佐」
「お疲れ様……」
隼人が出て行った。
しんとした大佐室に夕暮れの日差し。
葉月をただ、柔らかく包み込む。
「……ごめんなさい。本当にごめんなさい」
葉月はひとり、何処かを彷徨うかのように呟いていた。
葉月の足元……机の下には『ヴァイオリンケース』
彼に聴かせたい音は、まだ……見つけていない。
けれども、葉月は何もかも忘れたいが為に、目の前の書類に向かった。
なのに──どうしようもなく涙が滔々と流れ始める。
泣く事など許されない事をしてしまったのに──それでも、涙は止まらなかった。
もう、彼とかわした『約束』はない。
海猫の声も消えた。
それでも、この日の夕暮れの空は、あの日と同じ──『鰯雲』。