「キャプテン……! 今の見た!?」
「ああ……」
今は静かな空母の甲板──その甲板の上で、着艦に向けての準備整備をしていた隼人の元に、エディが血相を変えて、走り寄ってきたのだ。
今──甲板にいるどのメンテ員も、遠く正面で起きている『不自然な飛行図』を見上げていた。
当然……隼人も、トリシアや他のメンバーが驚いてあげた声に気が付き、顔色を変えて、たたずんでいた所だ。
だが……隼人が茫然としても、もう次の瞬間には、空母より少し先の海上上空で、その二機が無事な姿を現し、旋回をしていた。
「まだ……やるつもりみたいだ!」
隼人の横で、流石のエディも度重なる本番での『再々挑戦』に驚きを隠せない様子。
隼人は……その『度重なる挑戦』に関して、驚きはしなかった。
あの二人が『秘密談合』をしている姿を見ていたから……『こういう事だったのか』と呆れたぐらい。さらに……『そうだ、それがコリンズフライトのトップ二人だ!』と、心の中では押していた。
それに、細川がジッと腕組み落ち着いている所を見ると──総監も承知済みだという事が隼人にも分かっていた。
ただ──やはり、『限界に挑む』姿にはハラハラさせられる。
そしてやっぱり! 葉月とデイブはそういう『危険に近づく』という事を試しているのだ。
驚く……というのならば、『おい、死ぬぞ!』という危機感を煽られる瞬間ぐらいだ……。
「……キャプテン。止めたくないのかよ……?」
側にきたエディは、真顔で空を冷静に見上げている隼人を心配そうに見つめてくる。
「止めない──止めたいとも思わない。彼女はあれで……彼女らしいから……。それにきっとやるって信じている」
元の作業を続ける為に隼人はフッと身を翻した。
「……俺も手伝う!」
「ワイヤーを点検してくれ」
「オーライ!」
そんな隼人にエディは微笑み、やるべき作業を一緒に続ける。
『また……滑走路に戻ったぞ!』
他のメンバーのそんな声が聞こえた。
その時ばかりは……隼人もエディも手元を止め……遠く見える滑走路上に引かれている噴煙を見つめた。
そして──。
「ボス──」
「……またか……」
金網フェンスの側でも、流石の男達も手に汗握って、たった今、我に返った所だ。
黒猫ファミリーの正面の滑走路上空には、不自然な飛行図が、風に流され、もう消えようとしていた。
そして──そこにいる金髪の彼女は……その男達よりも茫然とし……がっくりと腰が抜けて、地面に座りこんでしまった所だった。
「──? 大丈夫か……アリス」
それに最初に気が付いたのは、ジュールだった。
そして、純一が振り向いた。
さらに……ぺったりと座りこんでしまったアリスの顔を覗き込んだのは、エド。
「顔色……悪いぞ」
「ああエド……。腰……抜けたわ」
立てない事もないが、本当にそんな感触だった。
だって──先程、目の前で起きたヒヤッとする瞬間!
上空で、二機の戦闘機がニアミスを起こしたその瞬間──!
その瞬間──あの純一とジュールがもの凄い青ざめた顔で、二人揃って金網に張り付いた程だ。
あんなに……彼女がニアミスを起こした瞬間……あの純一が……静かでしなやかな『黒猫ボス』の顔とは言えない表情に変貌し、何もかもをかなぐり捨てたような慌て振りで金網に飛びついた程だった。
アリスが知る限り──そんな『彼』は見た事がない。
その上──あの冷静沈着なジュールまでが『冗談じゃない!!』とかなんとか叫んで、二人揃って金網に飛びついたのだ。
そのニアミスは一瞬で、彼女の機体は直ぐに危機から回避したから──普段は寡黙な二人の男性も、大きな溜め息を吐いて、すぐに落ち着いたのだが……。
アリスはもう、何度も繰り返される演技、そしてジュールから聞かされた『彼女の未踏へのチャレンジ』に向かうその姿を目の当たりにしているだけで、絶句し──何もかもを失ったような絶望感と、何か心の奥底を揺さぶられている感じた事がない感触に震撼し続けていた。
そのアリスが追いつけないような事をしている『彼女』が、また! 『燃え尽きよう』としているみたいに突っ込んでいく姿の果てに起きた『ニアミス』──また……『極限』に挑み、『散っても良い』とでも言うような意気込みに、すっかり呑み込まれ震えさせられた!
これが腰が抜けないわけがない。
彼女がアリスがなる事が出来ないパイロットだから──と、いう『問題』ではなくなっていた。
アリスにはそう感じたのだ。
彼女の……そういう『立ち向かう強さ』にだ!
彼女が今している事に妙な『共感』を持ったような気さえするし、そういう事に立ち向かっている彼女に『羨望感』を初めて持った!
だからこそ── まるで自分が『ニアミス』を起こし、死にかけた気分になってしまったのか? 腰が抜けたのだ。
だが──。
「いつもそうだ──葉月は、ああやって本当に行きやがる……」
強い日差しのもとサングラスを外していた純一が、渋い眼差しを伏せつつも、空を見上げた。
そして──再度、海上で旋回する為に、落ち着いた水平飛行にて黒猫ファミリーの頭上に差し掛かった戦闘機二機に……微笑みを投げかけていた。
「きっと……まだ諦めていない」
ジュールの眼差しが真剣に輝いた。
その顔は……ジュールも、彼女の信条に信望している様子がうかがえる確固たる顔だった。
「今の──ニアミスは起こしたが、キャプテン機は今まで以上の軌道取りに成功していた。お嬢様も! 今まで以上にキャプテン機と合った軌道取りをしていた! 次だ……」
エドも拳を握って、空に何かを強く念じているようだった。
腰が抜けているアリスの目の前の海。
キラキラと波間が輝いているその海の上──青い空の中で、二機の戦闘機が先程の荒い飛行もどこへやら……優雅に旋回し、また……こちらに向かって来ていた。
「さぁ……葉月。お前──行くんだろう? 俺にはいつもお前は止めれない……だが、いつも通り──“行って帰ってこい”!」
向かってくる戦闘機に──純一の眼差しも強く輝き、何かを願うように……。
このボスにこういう希望を持ってもらえる『彼女』を……押してもらえる、応援してもらえる『彼女』を……アリスは女としてかそれとも人としてか? それはともかくとして、初めて『羨ましい!』と、心を引き裂かれるような『強烈な嫉妬』に襲われた程──!……もう、涙で景色が曇っていた……。
『お嬢様は……また、行くんですね』
『ああ……葉月は……いつもそうして自分が存在する事、生きている意味を確かめている……』
「?」
泣きながらもアリスはふと首を傾げたのだが……。
『葉月は……それに気が付いていないだろうがね……』
「??」
その会話…… ジュールと純一が空を見上げて、また寡黙に見守り、固唾を呑んでいる姿は、アリスにも分かっている。
でも──彼等が最後に呟いた『生きている意味』という会話の真意は分からなかった──いや……もう、絶望感につつまれ、自ら認めた敗北感で心が麻痺し始め、聞こえなくなっていたのだ──。
戦闘機は──もう、滑走路の上に舞い戻り──再度のトライに挑もうとしていた。
・・・◇・◇・◇・・・
「嬢──お前……」
「そっちこそ……」
最後のトライに向け、開始地点へと四度戻ろうとしている中──デイブのそんな囁きが葉月に届いた。
『守りを破って、攻的に立ち向かう』──葉月がそれを挑んだ事が、デイブには通じたようだ。
二回目まで変化がなく、結果が得られなかった──だから、三度目のトライでは『今までとは違う意気込みがなくては、突き破れない』と思った。その結果、やはり『ニアミス』という危険を呼び寄せる程の『極限』に近づく事が出来た。
手応えはあった!
だが──葉月は『ニアミス』を起こして、機体が安定した飛行に戻り、自分のやや興奮している意識が落ち着いた時に、ふと気が付いた──。
『デイブ中佐も……同じ事を決していた!』──のだと!
向こうも『守り』を捨て、『嬢を見失わないよう──至近距離で行く』という決心をしていたのだと!
二人が初めて『恐れていた至近距離飛行』を実行した……その為だったのか? 慣れていない距離感で『ニアミス』を起こしたのだと!
「だが──感触はつかんだ。ほんのちょっと近寄りすぎただけだ」
「では……」
「今度は俺が……感覚を少し離してみるか……」
「オーライ」
二人の最後の心積もりが固まった!
「ラストだ!」
「ラジャー!!」
再度──開始地点で、デイブが機体を傾け、斜めに消えていった。
葉月も一瞬……眼差しを閉じ、深呼吸をした。
そして──目を見開いて、操縦桿をしっかりと握りしめる!
──ゴゥゥゥ……──
デイブの機体の音が右下から、左下に移動したのを耳で聞き分け、葉月も機体を傾け見定めた『一点』へと飛び込む!
『ワン……!』
『オッケイ!』
『ツー……!』
『オッケイ……!!』
もう……デイブの声は息切れている!
間違いなく……これが最後のチャンスだ!
『スリー……!』
『オッケ……イ……』
葉月も胸のあたり、息を吸う力が浅くなってきている──。
喉のあたりも、もう……マラソンを走っている時のように痛い。
でも──そこはもう『苦しい』という意識を持たなかった。いや、持てる状況ではない!
それに、操縦桿が重く感じる。
だが、葉月はそれを手首でしっかり固定し、後ろに振り返る──。
『よし!』
先程のニアミスを起こしかけた場面に来たが、サッと確認した瞬間でも、三度目より確実に次なる軌道を予測出来る位置をデイブが過ぎ去っていった!
すぐさま正面に視線を戻し、葉月は素早く機体を正常位に起こし上げ、『焦点』を定める!
不思議だった……。
戦闘機はハイスピードで飛んでいる物なのに……目の前、定めた焦点を軸に、デイブが下から美しく巻き上がってくるのが絵筆で描くようにゆっくりと見えた瞬間だった。
焦点も軌道も合っていた──美しいぐらいの図形が、葉月の目の前、コックピットで描かれようとしている。
が──!
『嬢! 遅い──!』
本来なら、デイブが巻き上がる前に、葉月が一瞬早く直線で抜けて行かねばならなく、コックピットで美しい図形を想像出来るはずもないのだ。
『降下しろ──!』
『!!』
先程と同じだ!
あらゆる『位置と焦点』を葉月が見定めている間に、ほんの僅か、タイミングがずれているのだ!!
また、機体をひねって、急降下せねばならない──!
だが、デイブはもう──上部の弧を描ききり、下巻きを行う旋回に入っていた。
先程と同じように急降下旋回などしたら……またニアミスどころか、今度は間違いなく『衝突』だ──!
『いや、上昇!?』
葉月の手元は、デイブの声と同時にその方向に動き始めている!?
いや……迷っている!?
『違う──!』
迷いなど──あってはならない!
考える間もない葉月が野性的な閃きで選んだ道は──。
「くぅっ……っ!」
固く握りしめたスロットル。
コックピットに見定めた『焦点』
変更はしない──。
その『一点』が……『私が見定めた行き着く地点』!!
もう自分を守ろうなどという……守りたい為の判断も操縦も葉月にはなかった!
『そこにいきたい、いかなくてはいけない!』──その思いひとつで、その『点』に飛び込んだ為に、起こりうる『危険』も『リスク』も『恐怖』も、もう、ない!!
『嬢──!!!』
いつにないデイブの叫び声が聞こえる!
そう……葉月の決めた『賭』に、デイブも巻き込まれているのだ。
葉月の機体下部が、おそらく──デイブの機体、上部キャノピーがすれすれに接近しているのだろう!?
彼は思いもしない葉月の『突進』に、逆に恐怖を感じているかも知れない!?
──ザザ……──
葉月の耳に、そんな無線が途切れた雑音が聞こえた。
あたりが……静かになったように感じる……?
とても静かで、目の前が真っ白で……力が抜けている気がした──。
・・・◇・◇・◇・・・
『ワァ──!!』
滑走路の会場中──! そんな歓喜の声がとどろいた!
来賓席にいる達也は……空を見据え……茫然としていた。
観客達の歓声──広がる拍手の波──。
そして、目の前で立ち上がったロイと亮介の姿が目に飛び込んだ!
「や、やった──! 見て、見て!! 海野さん──!」
感極まった和人が、達也に飛びついてきたのも……分かった。
でも──達也はまだ……茫然と空を見据え、伸ばした人差し指で『1、2、3……』と赤く巻かれているスパイラルを宙でなぞり……。
『4……!』
「!?」
やっと脳中枢に伝達の電気が辿り着いた!
「よっしゃぁ!!」
達也の両手は拳を握って、大きくガッツポーズをしていた!
「やったわぁーー! デイブ!! やったじゃない!!!」
「ママ!! パパ……四つ出来たわよ!」
「パパ〜出来たぁ!」
興奮し飛び上がっているサラに、娘二人が抱きついていた。
その横では、登貴子が力が抜けたように座りこんでいたが……眼鏡を取り去り、目元を白いハンカチで拭っている。
感極まって、涙が溢れているのが、達也には分かった。
「……ああ、もう私……」
興奮している和人はもう、身を乗り出して握っていたデジカメで出来上がった噴煙を一生懸命撮影している。
その横で、美沙も茫然としている。
「やったね。流石……君たちの大佐嬢! 私はまた……葉月君にスリリングな思いを味あわされ……そして、こんなに興奮しさらなる爽快感……ああ、本当にあの子はやるんだね──!!」
そして──和之も興奮さめやらぬ様子で、達也に微笑みかけてきた。
「ええ! やるんですよ!! やった! 本当にやった!!」
達也も我を忘れて、大興奮だ。
それは、この楚々としていた来賓席にいる誰もがそうであるようだ。
ロイと亮介は立ち上がって空に向かって拍手喝采。
ジョイがいる場所では、ジョイの母親であるオリビアも興奮した様子で息子ジョイに抱きついていたが、ジョイは母親と一緒に歓喜の声をあげて飛び跳ねている。
その横で、静かなジョイの父親ジョージが連れてきた栗毛の若い彼女と穏やかに微笑みながら拍手をしている。
テッドと柏木も、空に向かって、来賓と共に拍手を送っていた──。
達也が祈っていた『奇蹟』が起きたのだ!
俺の女神はまたやってくれたのだ!!
こんなに誇らしい事はない! 達也はそんな満足感で一杯だった。
そんな中──突然だった。
「葉月──!?」
感動の渦の中──そんな切迫した声で立ち上がった女性がいる。
登貴子だった──。
彼女は、青ざめた顔で、この一段高い来賓席を降りる階段を駆け下りていった!
「おふくろさん──!?」
登貴子のその尋常でない様子に、達也は初めて我に返る。
「──! まずいわ! 葉月──!」
今度はサラだった!
その声に促され……達也が空へと再び視線を戻すと──。
「──!?」
『どうしたの? あれ! おかしくない?』
『青い噴煙のホーネットが、降下しているぞ!』
そんな声も会場から飛び始める──。
「葉月──!」
そう! 目の前──かなりの高度に達した上で四回転目のサークルを真っ直ぐに突き抜けた葉月の機体が、真下に棒を折ったような噴煙を描き始め、下に降下していたのだ!
会場だけでない! 達也がいる来賓席も騒然とし始めた。
ロイと亮介が席を動き始めたと同時に、達也も登貴子を追うように壇上から駆け下りた。
達也が直ぐに思い浮かんだのは、来賓席後ろに設置されているテントにある『陸通信本部』だ!
そこには空母直結、細川と連絡が取れる無線がある!
しかし──そこには既に登貴子がつめかけていた。
「貸しなさい! 細川中将と話をさせて──!」
「……しかし……!」
娘の危機をすぐに察知した母親の必死の姿がそこにあった。
達也は……いつもの如く、そこでは『目上の博士であっても、絶対的命令を下せる立場でもないただの母親』として、忠実な隊員達にいなされている登貴子の側に並んだ。
「貸してくれ! 細川中将と話したい──うちの大佐が、ああなっているんだぞ!!!」
「……ウンノ中佐……」
無線が設置されているテーブルを拳でたたきつけ、達也はその連隊長付きの通信員に詰め寄った。
これでも『中佐』だ──さらに、達也の迫力が勝ったのか、その隊員はおずおずと無線マイクを達也に差し出してくれた。
だが──それを手に取ろうとした瞬間……誰かに掠め取られていった!
「良和! 私だ──御園だ! 聞こえるか──!?」
亮介だった!
葉月の父親……そして登貴子の夫、さらに細川の旧友である男が掠め取っていったので、達也はそこでホッとして身を引いた。
『邪魔をするな、亮介──! 今──こっちで呼びかけている!!』
「なに? 葉月から応答がないのか──!?」
『……』
細川の一瞬の無言──。
『……ない。高度上空での……それも度重なる極限に挑んでいた為、気を失っている可能性がある……』
「なんだと!? 気を失っている? 誰か助けに行けないのか!?」
『無理だ。レスキューをするなれば……墜落してからになるだろう。気が付くのを祈るか、奇跡的体勢で水上墜落するかだ……』
「……!? 墜落!? 奇跡的……しかないだとぉーーー!」
そう叫んだ亮介の声に──達也は青ざめた。
だが──。
「葉月──今、ママが行くからね!!」
夫とのやりとりに絶望感を感じても、登貴子がそんな風に取り乱しつつも走り出したのだ。
「登貴子──!」
「おふくろさん──!!」
亮介が驚いた横で、達也はすぐに走っていった登貴子を追いかけて、その背を引き留めた。
「離して──! 達也君……あの子が行く所に私も一緒にいるの! もう……あの子を一人で怖い目には遭わせられないの!!」
「お、おふくろさん……!!」
達也は登貴子を抱きしめるように引き留めた。
達也には解る──。
幼い娘を事件から……恐怖から救い出す事が出来なかった母親として、このママがずっと悔いていた事は知っているから……。
その気持ちは分かるが……絶対に無理な事だ。
「おふくろさん──葉月は気が付く! 絶対に気が付く──!!」
小さい初老の女性の身体を、達也は必死に抱き留めた。
自分も祈るように叫ぶと……登貴子が大人しくなった。
「葉月……」
登貴子が静かになったのは──目の前の娘がいる位置が……海上へとするすると降下している光景を見据えていたからだ。
そして──達也の腕の中が急に『がくん』と重くなった!!
「おふくろさん!? おふくろさん──!」
「登貴子! しっかりなさい!!」
そう……達也の腕の中で、登貴子が気を失ってしまったのだ。
驚いた亮介が、駆け寄って、妻の頬を軽く叩くが、真っ白い頬の清楚な顔つきの女性は……目覚める事がなかった……。
「陸からレスキュー隊を出動させます。海上救助は……細川のおじさん……頼みましたよ」
「!」
そんな声がして達也が振り返ると、無線マイクを動じぬ顔で握っていたのはロイだった。
「リッキー。至急だ! レスキュー隊のヘリを出動させろ!」
「ラジャー!!」
またたくまに先を見据えた手配が繰り広げられていた!
達也が空に再び振り返ると……もう達也が顔を上げなくてもすむ目線まで、降下している!
「葉月──!!」
彼女がこの声で目を覚ましてくれたら! と、達也は大空に叫ぶだけだっ!
・・・◇・◇・◇・・・
『嬢──! どうした!! 聞こえないのか!? 嬢!!』
(デイブ中佐──)
『葉月! どうした──!! 聞こえていないのか? 起きなさい!!』
(細川の……おじ様……)
その声が聞こえている。
聞こえているのに声が出ない!
──ヒュゥゥゥウウウーーーー!!──
そんな音が耳を引き裂いている!?
何故? 音も聞こえているし、目もちゃんと開いている!
なのに声が出なくて……? 手元に力が入らない──!?
『嬢!』
『コリンズ……悪いが、なんとか接近出来ないか?』
『無理です! 彼女の降下が早すぎます──ですが、行ってみます!』
『頼む──だが、お前まで絶対に巻き込まれるような無茶はするな!!』
『ラジャー!!』
(……私、降下している!?)
目の前の景色は、青空だけだ──。
だが──確かに沢山の雲が早送りのようにコックピットの目の前を次々と上へと通り過ぎている!?
(なに──!? 降下しているんでしょ!?)
自分が身体を動かしている感覚がない!
それだったら……機体操作を放棄している事になるのだから、降下しているはずだ!
なのに、目の前の雲が猛スピードで過ぎ去っていく風景は、空の上に向かっているのか下に向かっているのか? 上下感覚がまったく掴めない。
いや──! そんな上下感覚がどうこうという問題ではない!
(何故!? 身体が動いていないの? 声が出ないの!?)
葉月としては、その事の方が顔面蒼白の事実だ!
先程、一瞬──頭の中が真っ白になったのは……思い出せた!
その後だ──急に力が抜けたのだ!?
(腰が抜けたの? まさか──!?)
腰が抜けたとは思いたくないが、まさにそういう表現しか思いつかないし、そういう感覚だった!
葉月の『意識』は戻っているのに、身体が『気絶している』──そういう状態のようだ。
『嬢──聞こえるか!? 何か言ってくれ!! 俺達、成功したんだぞ!!』
「!?」
そんなデイブの悲痛の叫びが……葉月に届いた!
『間一髪、お前とやっぱりニアミスをしかけたけど──お前……驚く程の突っ込みで……ギリギリ突き抜けていってくれたんだ!!』
今度は……あのキャプテンの涙声だった。
『頼む──目を覚ましてくれ!! そんな極限に追い込んだ俺を許してくれ──!! 葉月!!』
デイブの叫び──。
(成功したの──!?)
その時──あの『何もかも振り払った瞬間』を葉月は思い出した。
あの危険もリスクも恐怖も……なにもかもを忘れて『無感覚』になった瞬間を!
あの後──まるで死んだかの様な感覚に包まれたのかも知れない?
そういう『真っ白で無感覚』になった瞬間は思い出した。
そして──その証拠に、葉月の意識は戻っても、身体がなにもかもをやり終えたように、動かないではないか!?
『嬢──聞こえてなくても言うぞ! お前の機体は、上部キャノピーを下にして降下している!! 早く起きてくれ! 直ぐに回転して上昇するんだ!!』
「!!──」
デイブのその声と共に……フッと葉月の左目端に何か映り始めた!
緑色の帯だ!
(嘘──!)
その緑の帯は──山だと気が付いた!
もう──その景色が映ったという事は、海面はすぐそこだ!!
なんでもいい! とにかく……と、葉月は意識だけで、スロットルを握る事を頭に思い描く。
だが──葉月には認識出来ないが、実際的に、スロットルにある彼女の手元は、力無く握り、指先が小刻みに震えているだけだった。
「うっ!」
やっとそれだけ──声が出た。
それもデイブが聞き逃さなかったようだ、そして、細川も──!
『葉月、しっかりせんか!! もう水面は直ぐそこだぞ!! そのままでは奇蹟でも起きないと爆破するか、機体が水上破散するぞ!!』
『嬢! 意識があるなら、なんとか踏ん張れ!!』
(──!!)
流石の葉月も──もう、諦めようとした時だった。
『葉月──どうした! 気が抜けたのか!?』
(隼人さん──!!)
細川からの通信がいつも聞こえる側のヘッドホンから、隼人の声が聞こえてきた!
細川が、隼人を呼び寄せてくれた事が分かった!
それでも──何も出来ない!!
『葉月──戻ってこい! お前、俺に言ったよな!? 火事場の底力……そんなもんだったのか! いつもいつもその底力で、俺の所に戻ってきたじゃないか!! それともなんだ!? もう俺の所には戻りたくないって? ああ、それもいいだろうさ──!』
「うぅっ!」
(違うわよっ!)
口早に次々と彼が煽ってくれる声が響く──!
いつも通りに、意地悪な隼人の煽りにムキになっても……声も出ないし力も入らない!
『……葉月、いつも、生き抜く事に投げやりで、そして無関心だったお前だ。なんだ──極限に来て、その無関心さがお前を食ってしまったのか? だったら……ああ、もうお前は死んでしまっているのか? いいぞ──そういう大佐嬢がいたって事を、俺が語り継いでやる。そこで終わりだ──』
(!? 生きる事に無関心?)
葉月の心に……何かがビビンと響いた感触が走る──!
『生きたいだろ? 本当は……生きたいだろ!? まだ……お前、やりたい事とやり直したい事も、やり残した事もあるだろ!? 帰ってこい!!』
「ううぅっ!」
隼人の早口の言葉──追い打ちをかけるその言葉は、徐々に葉月の心を熱く焦らせた!
手元に僅かな感触が!?
顎がフッと動いた!?
スロットルの角張った硬い感触が、指先に戻ってきた!?
だが──まだ、スロットルを力一杯動かす力が湧かない!!
だが──最後に隼人のこんな叫びが──。
『俺の所に戻ってこい……いや……兄貴に会うんじゃなかったのか!? このまま、会えなくなってもいいのか!?』
「!!」
その途端だった!
『がちっ!』
スロットルがめいっぱい傾いて、倒れきった音だった!
──ヒュゥゥゥーーー! ゴゥウウーーー!!──
妙に静かだったコックピットに……いつも葉月が空で感じている安心感ある『騒々しく取り巻く音達』が蘇った!
「……!」
(動いた!!)
その感触を得て、素早くコックピットを見渡した!
「う!」
本当に、もう海面と接触をするスレスレだった!
だが、かろうじて、機体は横飛びに海面スレスレを維持する──!
翼が海面に接触すれば、間違いなく破損し、墜落する!
「ぐぅっ……!」
無意識に上昇する為──めいっぱいの操縦を葉月は手早く行う!
『葉月──気が付いたか!』
「……今!」
隼人の驚きの声が届く──!
『頑張れ! 翼が海面に接触する──!』
「わかっている──!!」
──ゴゥゥゴォォーー!!──
エンジン全開! 無理な体勢の上昇!
「くぅ──!」
高度は低くとも、かなりの重圧が葉月の身体を襲う。
だが──徐々に海面がコックピットの中から消えて、目の前には水平線が映り、青空が広がり始める!!
最悪の状態から回避出来たようだ──!!
『葉月……見えるよ……』
「え?」
息を切らしながら……なんとかある程度の高度に落ち着く事が出来た。
葉月は酸素マスクを口元から外し、自然な空気を胸一杯に吸い込み、ヘルメットのシールドを額へと上げた。
そんなとき、隼人の安堵した……そして葉月の心が落ち着く穏やかな声が届く。
『お前が……飛んでいる姿が、ここから見える。おめでとう……お前は今、生きているんだ』
「……隼人さん?」
『生きる事をお前は今……選べたんだよ』
「──!!」
その瞬間だった──。
何故か……目の前の青空がひどく滲み始めていた。
青空の水彩画に、水をこぼしたように──滲んでいる。
『う……うう……』
瞳が熱く……そして頬にも熱い筋が伝っていくのを、初めて感じていた。
そう──泣いていた……!
飛んでいるうちに、自然と空母艦へと無意識に戻ってきてしまっていた。
まるで──そこが、何があっても葉月を迎えてくれる母なる港の様に……帰ろうとしていた。
その空母の上空を旋回すると──甲板で上空を見上げているメンテナンサー達が散らばっている。
そこで──手を振っている人を確認する事が出来た!
「手を振っている?」
『ああ! 見えるか!?』
「見える──」
さらに葉月は涙で瞳をくぐもらせながら、空母艦の真上をくるくると旋回し続けた。
『嬢──もう、良い。お前だけ着艦しろ』
「おじ様……」
『よく頑張った! だが、頑張りすぎだ! この小娘!! 戻ってこい!!』
その細川の労う言葉にも……葉月を戻そうと必死な声にも涙が溢れてきていた。
『嬢……良かった……お前がいなくなるかと……もう……』
空を見上げると、上空にはデイブが旋回しているようで、そんな彼らしくない弱々しい涙声まで聞こえてくる。
そして──葉月もとりとめもなく、涙を流していた。
(今……解った!)
葉月は青空を何回も旋回しながら……母なる艦を下に回りながら──息を深く吸い込んで、眼差しを伏せた──。
私は、人が存在出来るはず無いこの『大空』に『存在する事を許してくれるかどうか』……試す為に飛んでいたのだ。
そして……私は、空が手痛くひっぱたいてくる中、反抗するように『存在する為の突進』を飛ぶ事で挑んできた。
空は……時には私を優雅に包み込み、時には私を払い落とすように牙をむく。
だけど──今まで、その『空』で『飛べる事』が『私が勝ち得る自由』なのだと、思って挑み続けていたのだ──。
先程も──空に牙をむかれて『何を空ではすべきではない限界に近づくのだ』と払いとされた!
だけど──私は……今、こうして『生きている!』
それだ──!!
葉月はそれに初めて気が付き……また、涙を溢れさせていた。
なんて事だろう?
本来は、自分が踏んでいる土のある場所で、こういう事に挑み、感触を確かに得て行かねばならない所を──。
そこで生きる事に『無関心』に『無感情』になっていた自分は、こんな『空』で出会えうる『生死の境』で『生を勝ち取る』事で『生きている』という『実感』を求めていたのだ!
地上では『生死の境』にはなかなか出会えない。
私はその『切羽詰まった生死の境』に行かないと『生きる』という選択が出来なくなっていて、そして、そこで初めて『生きるか死ぬか』を突きつけられ、『生きる』という『必死の選択』を感触で得る事ができた。
それが『空を飛ぶ』という事だった……。
だから……空に執着した!?
『私は……こんなにも生きたかったの……』
何度もこういう危機には直面した。
だが──今日こそ、こんなに熱く『生還の歓び』を感じた事はない……。
『私──生きている』
あんなに何度でも……自分は『もう……何も残されていない』と輝かしい世界から突き落とされて絶望した。
なのに──まだ、残っていた。
それがこんなにも……当たり前で、そして、こんなにも切望していた事だったなんて……。
葉月は初めて胸にガンガンと食い込んでくるような感触が、血潮であるような感触に思え、身体中が熱く火照っていくのを感じていた。
空が青い──。
そして涙は熱い──。
そして──私は笑っている……。
これが──生きているって事。
もう──終わった。
葉月はそう思った……。
空との決着は付いた気がしていた。