灰色の甲板には、昼に向かい強まってきた日差しが跳ね返り、ゆらゆらとした陽炎が揺らめき始めていた。
その上、スチームカタパルトの蒸気で、そこに君臨している『スズメバチ機』を熱く空気中に投影している。
『ビーストーム1、発進OK』
『ラジャー! カタパルト発進します!』
隼人の手合図、そしてデイブからのグッドサインと敬礼──そして隼人も敬礼で送り出す。
いつもの発進の挨拶を交わし合い、1号機はまたたくまに、甲板を滑り大空へと向かっていった。
(来たな──)
ついに『本番』だった。
さて──次なる発進機は、2号機の大佐嬢だ。
「発進チェック開始──。こちらメンテ、発進準備完了。ビーストーム2、発進OK?」
「ビーストーム2! 発進準備OK!」
いつも通り、この時はしっかりとした低い声、安定ある彼女の応答が返ってくる。
コックピットへと隼人が目線を上げると、彼女は真っ直ぐに海原へと視線を馳せていた。
「ラジャー。こちらメンテ、発進OK──。管制、お願いします」
『ラジャー。こちら空母管制、上空障害無し、発進許可OK』
空母管制からの滞りない返答。
「ラジャー。こちらメンテ、発進許可OK。ビーストーム2、OK?」
「ビーストーム2! 発進OK!」
「ラジャー! カタパルト発進します!」
赤いランプが二つ縦に並び、その一番下が青ランプ。
一番上の赤いランプが点滅を始める。
二番目の赤ランプが点滅を始めると、いよいよ発進の合図である青ランプが点灯──それでカタパルトが動く。
今、その一番上の赤ランプが点滅を始めた所だ。
隼人も、コックピットにいる葉月もそれを眼で確認ながら、発進のタイミングを待っている。
待っていると言っても、ほんの一瞬、あっという間に発進時がやってくる短い待機時間。
その僅かな瞬間だった──。
「有り難う──あのね……」
「どうした!?」
こんな時に、妙に切羽詰まったような彼女の声が弱々しく聞こえてきて、隼人はヒヤッとした感触を感じながら、かがめていた体勢から立ち上がろうとしたほどだ。
もう、ランプは二番目の赤ランプが点灯していた。
「……こうして飛べる事の意味を、今日はなんだかとても実感している」
「?」
一瞬だ──!
もう青いランプが点灯した!
「今日は、ここに貴方も乗っている。一緒に飛ばしてくる!」
彼女のグッドサイン──そして、敬礼──。
「葉月──!」
その彼女のいつもの発進の『挨拶』──。
それが何故? スローモーションで、隼人の目に映ったのだろう?
ヘルメットの日差しよけにもなる黒いシールドを額に上げている葉月の目線……。
それが妙に……凛々しい輝きではなく、何かを達観したような静かで熱く潤んでいる……そんな何かをしっかりと見定め、それを空へと持っていくというような眼差しに、隼人は固まってしまった。
彼女の機体が甲板を滑り出した──。
『!』
隼人はハッとして……間に合わなかったが、尾翼に向かって敬礼をしていたが……。
「俺も乗っている……」
彼女が……何か隼人も認知していない、彼女だけの『隼人』を連れて行ってしまった事を……見送ってしまった気持ちになった。
彼女を飛ばした。
もしかすると? これが最後かも知れない──。
この時の為に、彼女と突き進んできたというのに、この華々しい始発点になるはずだったこの瞬間は──ひとつの『集大成』という『結果』としての締めくくりになったのかも知れない。
彼女が青空に機首を向けて飛んでいく──。
自由に羽ばたく鳥のように、大空で旋回をし始める。
直ぐに次の機体を飛ばさなくてはならない為、直ぐに現実に戻される。
だが──隼人の眼には、自分の、この『隼人という男』が、空へと放った『彼女』が自由に飛んでいく様は、まるでこれからの『一種の別れ』を物語っているようにも感じられた。
──『こうして飛べる事の意味を、今日はなんだかとても実感している』──
一瞬、何の事か分からなかったが、彼女を飛ばして隼人にもなんとなく通じてくる。
『葉月──ただ危なかしく、盲目に飛ぶだけじゃなくなった』
彼女が徐々に何かを確実に実感している……その葉月の『波動』が、いつになく隼人にも通じていたのだ。
・・・◇・◇・◇・・・
『嬢──行くぞ』
「ラジャー!」
先に沖合で待機していたデイブの機体と合流をする。
デイブの機体からは赤色のスモークが噴射されていた。
葉月の機体は青色だ。
やはり、隼人が『大佐は青色がよろしいでしょう』などといって、デイブに無理押しをしていたのだ。
『私の色──』
そのスモークを放ちながら、デイブと機体を並べた。
目の前には、小笠原の大滑走路!
目標は、真ん中の高官棟。
その上を抜けていく事だ。
コックピットの中では、下界の景色は模型のジオラマの様にしか見えない。
多数いるであろう『観客』も一瞬は眼にはいるが、それも何か絵筆で点描に描かれた色帯にしか見えない程だ。
『ご挨拶飛行だ。スマートに行こうぜ』
「勿論」
デイブの声も高揚し、そして、彼特有の熱き闘争心による興奮する声が届く。
葉月も声色には表さないが同じだ!
二人の機体、お互いの操縦する姿が確認出来る程に接近し、機体を半分ずつ重ねるような体勢、そして斜めに機体を傾け……滑走路の上を差し掛かろうとしていた。
「ほら、来たよ、和人君! あの青い煙が大佐の機体だ」
「あれだね? 海野中佐──!」
その頃──滑走路の中央に設置された『来賓席』にて、目の前に迫ってきた戦闘機を見上げ、皆がどよめきを漏らし始めていた。
白い布で綺麗に囲まれた壇上の来賓席は、昨日、山中の陸班が設置した物だ。
壇上には綺麗にパイプ椅子が並べられ、前列ではロイが一番客である『御園夫妻』を、いつもの親しさでもてなしている。
御園夫妻の横には、フランスからやってきた『航空訓練校の現校長』と、この基地がある町の『町長』とその重役達だった。
つまり──隼人の出身校の現校長が招待されていた。
隼人がキャプテン、そして、その後輩、教え子が今回の催しで活躍する。
それを考慮してのロイ自らの招待だった。
達也はその来賓席の一番後ろの席で、澤村一家に付き添っていた。
後ろから、テッドや柏木、そしてジョイがそれぞれの担当客をもてなし、話し相手になっている様を監視する。
澤村一家は、この来賓の中では申し訳ないが大佐の招待という程度になってしまい、ロイ直々の招待客より後の扱い、後列席になってしまっていた。
だが、親子、夫妻はとても楽しそうにパレードを眺めていた。
ジョイと話した結果だが、達也は後ろで監督を含め、この一家の相手をするという事に決まったのだ。
ロイにもそうするようにと言われていた。
ロイとしても、澤村一家をもてなしたいが、そこまで手が回らない──だが、丁重におもてなしする気持ちは変わらないらしく、それで達也が指名されたのだ。
「来た!」
達也が貸した双眼鏡を、和人が真上へと傾けた!
「……まぁ、すごい音!」
「頑張れ、葉月君!」
まるで戦闘機に襲われるかのように、美沙が夫の肩に隠れるように怯える。
そして和之は、空を見上げて、頭上真上を結構近くに通過しようとしている二機を見上げて、拳を握っていた。
「すげー!!」
葉月が操縦しているという事がまだ不思議だと一家が揃って呟きながらも、その迫力を一家は味わえたようで興奮気味だった。
達也もそれを眺め、微笑む──。
だが……。
今朝方──隼人が出て行った後も、葉月の体調は思わしくなかった。
彼女が出て行く時も、顔色も悪いし、胸をさすりながら……それこそ、よろめくような歩き方だったのを達也は思い出す。
せっかく達也が作ったココアさえも、受け付けない程だった。
彼女が緊張する? あの葉月が? なんでも怖い物知らずで突っ込んでいく彼女が?
たとえ緊張があってもやりのける彼女だからこそ、よけいに彼女でも『どうにもならない体調不良』なのだと達也は心配した。
達也は葉月が『もういい、やめてくれ』と言っても、管制塔まで彼女に付き添っていった程。
なのに──葉月は大佐室を一歩出ると、いつもの『凛』とした涼やかな顔つきになり、そして、しっかりした足取りで廊下に出る。
廊下を歩けば、歩く程、葉月の顔色は良くなっていく。
『それが御園大佐だ』──と、達也は分かっているし、達也はその信望者の一人だ。
彼女のその『プロ根性』は、この自分を自信を持つという事で律している達也でも『参った』と言える程の『信念』? いや? 彼女をずっと見守ってきた達也が言うと『執念』とでもいえる彼女の軍人として己を『鍛えてきた力』に、惹かれてここまでついてきたのだから──『流石だ』と唸った程。
その証拠に、見送った達也の目の前で、デイブと合流した葉月はいつもの活き活きとした生意気な挨拶で彼等の中に混じっていった。
『有り難う、緊張していたのかしら?』
『……らしくないが? まぁ、ここのところ、お前でも考えざる得ない沢山の出来事があったからな……疲れもあったのかもしれない』
『……大丈夫よ。この日の為に、頑張ってきたの。“彼と”』
その時、フッとしおらしく伏せた葉月の眼差し。
そこには、『彼』と築き上げてきた全てを今こそ『空に放つのだ』という彼女の『情熱』を見た気がした。
達也はその葉月の見た事がない熱い眼差しに……引き込まれながらも、それが『隼人の為の眼差しだ』と思うと、いつにない嫉妬も生まれたぐらいだ。
『心配して損した。お前なんか、あれぐらいの不具合でめげる女じゃないって……忘れていた!』
『だから言ったじゃない? 大丈夫だって。それがなぁに? まるで父親みたいに見送りに来ちゃって』
途端にいつもの憎まれ口だ。
『あほくさ。じゃぁな』
『あっそ。じゃぁね』
二人揃って、これまたいつもの如くそっぽを向け、背中を向け合った。
『頑張れよ。地上で見守っている』
『うん。達也が応援している事、覚えておくわ』
お互いに振り向きはしなかった──。
背中越しの本音を交わし合って、そこで別れた。
その葉月の機体が──今! 青いスモークを美しく一直線に引きながら、来賓席の上空、達也の頭上を、しなやかな飛行で通過していった。
『大丈夫そうだな』
達也は微笑んだ。
来賓席の前列では、ロイと亮介がフランス校校長と拍手をするなどして盛り上がっていたが、母親の登貴子は笑顔を見せながらも……膝の上で、両手は祈るように合わさっている。
来賓席の周り、そして滑走路上に詰めかけている観客達も歓声をとどろかせ始め、いよいよ始まった航空ショー、その興奮の渦が滑走路に広がるのが分かる。
「達也、おい!」
ベニヤ板で作られた壇上、その下から誰かが達也を呼んだ。
見下ろすと、白い正装姿の山中だった。
「お連れした」
「ウンノ! いいの? 私はね──」
「サラ──今、そこに席作るよ」
「いいのに……私たちは……」
山中が連れてきたのは、デイブの妻『サラ』とその娘達。
今日の本当の主役は、この飛行がチームで最後となるデイブだと葉月が言っていたし、隼人も達也もそう思っている。
そのキャプテンの妻でも、一般客だ。
そこで、葉月と隼人と話し合った結果──せめて……という事で、ささやかな『席』をつくろうという結果がでて、その役を達也に任されたのだ。
だから、達也が山中に頼んで、観客ゾーンから探し出すように頼んでおいたのだが──。
達也が叫んでも、サラは遠慮がちに一段高い来賓席を恐れるように目を背け俯いた。
「おや? 達也君……どちら様?」
「いえ……その……」
達也の直ぐ側にいた和之が、席を立っていつのまにか達也の隣で壇上から下を見下ろしていた。
「フライトキャプテンの奥様で……その、キャプテン、今日の飛行でフライトチームを退くので……」
「そうなのかい? では、こちらに上がってもらったら良いじゃないか」
「そうなのですが〜」
達也は言葉を濁した。
それが出来ないから……『せめてでも』という思いで、サラ母娘の席をこの中央の片隅に設けようとしたのだが。
「そうかい、なるほどね」
和之が途端に……腑に落ちない厳しい顔つきになったのだ。
しかも、その和之がフッと強き視線を向けたのが……ロイと一番客である亮介だった。
『まさか!』
達也の勘がフッと走ったのだが、遅かった──!
和之はなに恐れることなく、ロイと亮介がいる前列席へと歩き出したその時!
和之とロイの視線がかち合ったのだ!
その様子に気が付いた亮介も、首を傾げながら振り向いた。
(うわっ、マジかよ!)
達也は目を覆った。
『うちの親父、ある意味“強靱”だから。気をつけろよ』
──なんて、隼人が言っていたが……『こういう事か!』と、達也は震え上がった。
と、その前に! 止めに行こうと一歩踏み出した時だった。
「海野中佐。お止めにならないで」
「美沙さん──?」
「海野さん? お嬢様が何年もお世話になったキャプテンの奥様が一般客で、お世話になったお嬢様のお父様が地位があるとはいえ前列席では、私も納得出来ません。お止めにならないで──。ここで文句を言われるなら、私達、ここのお席、いりませんから」
「美沙さん……」
れっきとした美沙の確固たる厳しい表情は、夫が向かっていたその顔と同じだった。
すると? ロイがなにやら、達也に向かって指でちょいちょいと合図をする。
それに合わせて、ロイの側に付き添っていたリッキーが亮介の側近のロビンと飛んできた。
「ああ、やっぱり──レイはそう来たね」
「え?」
達也が戸惑っている間に、リッキーは壇上から下を見下ろした。
「サラ、久しぶり。レイがきっと何かしら席を用意しているだろうとロイと予想していたんだけど、あからさまに特別招待できないことは分かってくれているね?」
「勿論よ。リッキー。人混みの中でも構わないのに……葉月ったら」
「いいじゃない。レイの厚意だから、受け取ってくれないかな? 彼女なりの恩返しだと思うんだよ」
顔見知りである二人が、いつもの親しさで会話をしている様子、連隊長の側近が駆けつけ、連隊長が予想していた事を知って、和之が満足したように席に静かに座ったのだ。
達也はホッと……ひとまず、一安心。
「ハァイ! リサ アンド ジュリ! こっちでパパの飛行機をお兄さんと見ようよ」
「ハァイ、リッキー!」
サラの横で、ジーンズに、お揃いで、おしゃまなレエス仕立ての白いブラウスを来た姉妹が、リッキーに愛らしく手を振った時だった。
「達也君、これで何か……お嬢ちゃん達に飲み物を……」
「おふくろさん……」
さりげなく達也の手に、千円札が握らされた。
そこには笑顔の登貴子が、サラに微笑みかけている。
「サラ、お久しぶり。どう? 私ね、ダンナさん達の軍隊話に退屈していたの。話し相手になってくれる?」
登貴子がニッコリと微笑むと、一度は会っているサラもまんざらでもない様子で微笑み返してきた。
「ドクター、お久しぶりです。そうおっしゃるなら……」
「いらっしゃい」
登貴子の後ろでロビンが手際よく、澤村一家の側、気兼ねない場所、でも見晴らしの良い場所に席が設けられた。
そこに登貴子が座り、遠慮がちに階段を上がってきたサラがやっと肩を並べるように、娘達をなだめながら座ったので──達也はこれまた安心。
「山中の兄さん──悪い。行ってくれるかな?」
「ああ、いいぞ」
達也は山中に、登貴子から預かったお札を山中に渡し、買い物を頼む。
山中もホッとした様子で、笑顔で出かけていってくれた。
「今まで、有り難う。うちの扱いにくいお嬢ちゃんを……本当に親身に見守ってくれて……」
「いいえ……私達夫妻も、葉月と向き合ったからこそ、得られた事は沢山あるんですよ」
登貴子とサラが……まるで『娘の母親同士』という様な口調、でもしんみりとした様子で、お互いの手を握り合っていた。
特に登貴子は感慨深げで、それを隠しきれない切ない眼差しをサラに向けている物だから、サラまで感極まった様子だった。
それを確認した澤村夫妻が、顔を見合わせて微笑んでいるのだ。
(うーん、流石……兄さんの家族!)
あの畏れを見せずに、向かっていこうとした和之、そして、夫の行動を支持する美沙。
この夫妻のれっきとした態度。
本当に、隼人の中にある『スッと通っている芯』のルーツを達也は見せられた気がした。
「わー! 次々来るっ!」
和人のはしゃぐ声。
上空には、葉月達二機が通り過ぎた後、他のメンバー達も二機のセットで、次々とカラフルな噴煙を引きながら『挨拶飛行』で上空を過ぎっている所だった。
・・・◇・◇・◇・・・
その頃──高官棟を目指した挨拶飛行を済ませた先頭の二機は、島奥の一番高い山の上空を旋回し、基地ではなく島の町内上空を通過し、再度空母艦が浮かぶ沖合上空へと戻ってきている所だった。
「きっと、あの青いスモークの機体だ」
ここは滑走路の外れにある人気がない海際の小道。金網の外──。
そこで、たむろしている黒い服を着込んでいる一行頭上に、初めて戦闘機が通過していったのだ。
初めて通過した二機は、島奥の山頂付近から旋回後、海上へ抜けてくると結構な低空飛行で空母艦へと向かっていく。
それを双眼鏡を手にしているジュールが眺め、そう呟いたのだ。
きっと『空母』を演技をする上での『リセット点』にして、そこを起点に様々な演技の開始地点にしているのだろう。
『青色のスモーク』
なんとなく、そんな気がしたのだ。
きっと何処に行っても『彼女の色だ』と誰もが言いそうであって……その機体を整備している男も、まずそう言いそうだ。
ジュールなら、そうする……。
ただ、そう思っただけなのだが──。
「そうだな。きっとそうだ」
金網にもたれかかっている純一も、通過していく青いスモークの機体をジッと見据えながら、ジュールと同じ確信を得ているようだった。
その戦闘機を、目を逸らすことなく真っ直ぐ見据えている彼を見て、さらに眼差しを曇らせているアリスが隣にいた。
上空に最初の二機が通ると、アリスは背伸びをするようにひたすら空を眺め、目で戦闘機を追った。
だが、通り過ぎるのは一瞬だ。
あまりの速さに、アリスはそれこそ『いつまでも掴めない彼女』にまたたくまに逃げられたように、捕まえられないもどかしさで、顔をしかめたくらいだ。
まだ──先頭の二機が頭上を通り過ぎても、『ご主人様の本命女』がそこにいるとは、確信出来ない様子だった。
無理もない。コックピットで操縦する人間は確認する事が出来ないのだから。
それでも──くわえ煙草で、ジッと空母艦がある地点で旋回を続けている二機を見つめているだけのご主人様の眼差しに……。
アリスには、つとつとと伝わってくる『ご主人様の真っ直ぐな執着心』の『真剣さ』に打ちのめされてばかりのようだ。
(やれやれ)
ジュールも、そこの草場に腰を下ろしながら、煙草をくわえ火を点けた。
(ボスはこの日に……目の当たりにさせるつもりだったようだな)
この日まで引っ張っていたのだろう。
ああいう女性を忘れられないでいると、ありありと彼女に現状を見せたかったのだろう。
勿論──こういう状態での『告白』は、アリスには一番残酷な、最悪の方法だ。
一番、傷つきかねない。
言葉で説明すれば、済む事だったはずだ。
でも、ジュールにも解る。
アリスの純一への『執着心と依存』はかなり強力な物だった。
『貴方がいなければ死ぬ』と言い続けてきたぐらいだ。
その強力な信望故、今までは、『義妹』の存在を知っていても、それは『脅威』には至らなかった。
大好きなご主人様──いや『強力な保護者』が、その『脅威』と如何に強く結ばれているか、目を背けていたのか? それとも実感出来なかったのか。
本当に、アリスがもっとこの『脅威』に実感を持っていたのなら、もっと早くに二人の間だけで『いざこざ』が起きていたはずだ。
だが──純一が一人きりで、密かに抱えてきた『壮大なる執着心』は上手く隠されていた為だろうか? アリスがその脅威に怯える事もなかったし、結局、アリスは、『義妹』の存在が気になりながらも、『ある程度の勝算』を無意識に抱え、怯えるまでに至らなかったのだ。それがアリスの誤算だ。
アリスには最初から『勝算』はなかったのだ。
彼女のような『一時的な相手』には『長すぎる夢』であっただろう──だが、お互いが承知したはずの、もっというと、アリス自身が提示した『契約内容』の中では『夢』見る事は許されても、『叶える』為の欲求をもったとしても、『要求』は契約違反になるのだ。
さらに──
ジュールは、アリスには『絶対的女性美』という自信があるのを知っていた。
アリスは、今まで『それだけ』で生きてきた女だ。
彼女のせいではなく、たまたま関わってきた人間、もっというと男性達がそうして彼女を生かしてきたのだ。
だから、アリスは『それだけが生きる術』だと思っていたのだ。
しかし──彼女は黒猫と暮らすようになり『それだけ』では通用しない事を初めて知ったようだ。
だが──残念な事にジュールから見ると、『それだけ』以外の『生きる方法』をアリスは見つけていない。
それさえ……もっと早く解れば……。
こういう最悪の結果にはならなかっただろう。
それに気が付かなかった彼女にも誤算はあるが、その彼女を導ききれなかった純一の甘さ──もっというとアリスという女性への中途半端な関心が、こういう結果を招いた。
ジュールから言わせると、どっちもどっちで、この最悪の事態、現状は……どっちが悪いだなんて事よりも、結局は二人が招いた物。
『傷つけられた』なんて言っても『傷つけてしまった』と嘆いても、結局は二人が長々と逃してきた事の『しわ寄せ』がここで大きい波となって襲うだけ。
誰のせいでもなく、二人が揃って招いた事。
お互いを責める事も出来ないはずで、『自分がやってきた事』の『結果』が見事に跳ね返ってきているだけの事なのだ。
だから、ジュールは側で溜め息をつきつつ、見守るだけだ。
頭上には次々と、フライトチームのホーネットが挨拶飛行を済ませ、起点である母艦へと向かって行っていた。
・・・◇・◇・◇・・・
『では──降下開花図の五機は行ってこい』
『ラジャー』
空母艦上空に戻ってきた葉月とデイブは、ここで一端小休止。
最後の大型演技の為に体力温存。
まずは降下し五方向にUターン上昇をする様が花が開くように見える演技をする、リュウを先頭にした『五機』チームが、細川の指示にて滑走路上に向かっていった。
『他の五機──沖合を一周して戻ってこい』
『ラジャー』
母艦上空で旋回し合っていた仲間は、デイブを先頭にして、基地とは反対方向へと姿を消す。
葉月は低い高度で、空母艦の上を斜めに旋回した。
『嬢──高度が低すぎる。危ないではないか? どうした?』
そんな細川の声が聞こえてきた。
『いいえ──少し軌道取りを間違えました。申し訳ありません。上昇します』
『うむ』
それ程、叱られなかったが──わざとだった。
なるべく甲板上空で旋回したかったのだ。
赤い作業服を着たメンテナンサー達……甲板に散らばり素早く動くてんとう虫のようだった。
どれが隼人かは確実に見分けられなかったが、なんとなく──旋回するコックピットを一生懸命見上げている人をサッと確認する事ができて『きっとそれだ』と思う事が出来た。
その『人』と目が合う事が出来たような気がした。
その人の為に──今、飛んでいる。
その姿を見せたかったのだ──。
葉月は再び、操縦桿を握りしめ──デイブの後を追った──。
降下開花が終わると、もう一つの演技の為に編成された五機チームが星形を描く演技を行う。
その後、十機揃って、三年前にデイブが周りをあっと言わせたあの変形タッククロス。
その後、間を置かずに、すぐにデイブと葉月のコークスクリュー。
それがラストの演技だ──。
沖合を旋回しているとリュウの『終わった』という交信が届き、さらなる細川の『次の担当は滑走路へ行け』という指示が出される。
葉月とデイブは、五機チームの演技が終わるまでは悠々旋回中だ。
小笠原基地滑走路上空に、トリコロールカラーで彩られた『花』が見事に開花していた。
『次は星図形か……』
待機中であるデイブから、溜め息が混じった声が届く。
いよいよ……自分達の『最終目標』が迫ってくる緊張感を、心の中で飼い慣らしているかのような息づかいだった。
葉月も同じだった。
早く済ませたい……でも、本番、その瞬間がやってくるのは正直、怖くも感じる。
が──葉月とデイブはいつだってその本番の『怖さ』も『緊張』も『興奮』とすり替え、『ワクワクする楽しさ』にすり替えてきた。
なのに──どうして今日はこんなに気が重いのだろう?
また──胸の中がムカムカしてくるような感触がチラリと襲ってきたのだが──。
葉月はグッと喉元で呑み込み気を逸らそうとする。
さらに──デイブが話しかけてきた。
『嬢──分かっているな』
「ええ、分かっているわ」
甲板での『密かな打ち合わせ』。
その事についてデイブが念押しをしていると分かっていたので、葉月は返事をしたのだが──。
『あのな……嬢。近頃、一つ気になっている事がある』
「はい……?」
最終目玉演技を控えている旋回中──そのゆったりとした本番前の静かさの中、急にデイブがそんな事を呟き始めた。
『お前──何故、パイロットになった?』
「!?」
『俺は……ただ空を格好良く飛びたかった。このでっかい鉄のマシンを操って、空を自由に飛ばせるって、ある意味男的な克服感があるのかもしれないし。訓練生の時に映画で見た神風特攻隊を見て、ああいうスピリッツに余計に感化されて……まぁ、男がよく憧れる極々一般的な気持ちがキッカケだ』
「……」
『でも……お前は違うだろう? 嬢……お前にはもっと他に……』
そこでデイブの声が詰まった。
葉月にも判った。
──『本当は何不自由ない悠々と暮らせる令嬢。ヴァイオリニストという夢を持って輝いていた令嬢』──
そう言いたいのだろう。
それがある日突然、ある程度のキッカケがあったにせよ『パイロット』になると決めたのだから。
「覚えていません。いつの間にか……なっていました」
『いや……そうだろうが。お前はこの道を捨てなかった……むしろ“命がけ”だった』
「……」
葉月の目の前に、青い空、蒼い海、そして緑の島々──。
その風景が、コックピットを包み込み、太陽の光線が自分を照らしていた。
『俺より、命をかけていた……』
「……そうでしたか?」
葉月は旋回しながら、その風景を眼にいっぱい取り込み──独り、眼差しを伏せた。
ああ……そうだった。
何故か、覚えていないけど──『新たな生き甲斐』になっていた事には代わりはない。
この『風景』を見たかった訳でもないけど、この『風景』が見られる『特別な存在』にはなれた事、女性の身でここまでなれた事は確かに『誇り』だった。
葉月の苦くて、痛くて……どうしようもならない『叶わぬ夢』を『塗りつぶしてくれる新しい事』だった。
そんじょそこらの『新しい目標』よりか、過酷でも激しい風が葉月に向かって吹いてきて、『否が応でも』それに立ち向かわずにはいられない『自分』にさせられた。
つまり、自動的に前を向ける『必死になれる事』だったのだ……。
空は過酷だ。
機体は気難しい。
パイロットへの道も、難関だった。
それに挑む、挑み続ける。
それが出来るから、この世界から目を逸らさなかっただけだ。
『その命がけ……俺には怖かった。だが、その命がけで、お前はここまで登り詰めたな……凄かったよ。俺はお前にここまで連れてこられたんだ』
「中佐……」
『近頃、その命がけ……が、守りに入っている気がした』
「──!?」
『何処かで、お前は……ギリギリの限界、スレスレの極限に近づく事を恐れている気がした』
「!」
『だが──それでも良いと思う。守りに入ってしまう事は誰にもあるし、俺もそうさ』
『守りに入る』──何故か、その言葉に葉月は衝撃を受けた!
グローブで握っている手元が一瞬……震えた気がする程、葉月の眼は見開いたまま──目の前の雄大な島景色をただ映しているだけだった。
何故なら……『それを言われて』初めて……『思い当たる事』があったからであり、たった今、気が付いたのだ。
そんな茫然としている葉月に、誰も気が付く訳もない。ここは、たった独りしかいないコックピットだ。
だから──デイブはそのまま話を続けてくる。
『だから──嬢の生き方が、そんな風に“優しく”なった事は、俺は、ある意味良い事だと思う。ただ……その“俺達の意気込み”──それが演技に出るだろう』
そして、デイブは最後にこう言い切った。
『俺は結果は気にしない。だが──最後のこの結果が……おそらく俺達の“今まで全ての答”になるだろう……』
(今まで全ての答!?)
もし──彼と私の『無茶』が成功すれば……いつも彼と突き進んできたパワフルで命がけな日々、そのままが残るだろう。
だが……成功しなかった場合、そこには『優』に目覚めてしまった自分達の一歩控えめではあるが、それでもそこに至ったという日々が残るだろう。
デイブがそう言っているのが判った。
彼も……守りに入ってしまったのか?
それとも、葉月が何処かで手を緩めてしまう『守り』に入っているのか?
どちらにせよ──デイブは『成功したい』という願望より、『その結果が知りたい』という気持ちの方が『強い』という事に、葉月は初めて気が付いたのだ!
──お前は……どういう結果を望む、残したい? 残したい意志で飛ぼうぜ──
(どっち……?)
一瞬……葉月は戸惑った。
この場合、当然──『お互いの答』も一致していないと、息が合わない『最後の演技』になるだろう──それもきっとデイブが自分自身はおろか葉月を試し、『二人の結果』すらも試している事がうかがえたから……。
がっちりとしたグローブで握っていた操縦桿から、少し力を緩めていた為に……機首が下がり始めていて、ハッと我に返る。
考えた事もなかったが、やはり──『守り』に入ってしまっていたと思える節があった。
愛する人が出来た。
愛する人がいる事に気が付いた。
愛して行きたいと願える日々が目の前に現れた。
もう──無茶は出来ない。
自分がしてきた無茶は……無茶の意味は──?
そこで葉月はごくりと、独りで喉を鳴らす。
『私の無茶』が何の為であったのか──なんだか、急にそんな事が目の前に浮かんできていたのだ。
それも──衝撃的に、ぼんやりと……もうすぐに見えそうな『何か』を葉月は感じ始めていた。
それが判らない事が非常に、もどかしい感触で、その事に捕らわれ考え込んでいたが──。
『嬢──タッククロス、行くぞ! その後すぐにスクリューだ。気を引き締めて行くぞ!』
「ラ、ラジャー……!」
ついに……その『時』が迫っていた。
だが──まだ、葉月の中で生じた新たなる戸惑いが、少しばかり、操縦桿を握らす力を鈍らせた。
「……」
暫く……旋回をしながら、空だけを見つめた。
『今までの自分』を思い返した、一瞬だけ……。
「私──やっぱり」
次には、吹っ切れたように葉月は微笑む。
もう決まっていた。
やはり──今までの自分を『証明』したいと──。
彼女の瞳が、太陽の光線の中でもひときわ眩く、強く輝き始めていた。