『こちら管制──発進チェック待機中』
「こちらフライトメンテ、ビーストーム1、パイロット搭乗待機中──」
そんな管制との連絡の取り合いを、カタパルトの側で隼人は交信をしている。
甲板の艦内入り口付近では、姿を現した細川に従えられ、コリンズフライトチームがいつにない……間が長いミーティングをしている。
『オーライ!?』
『ラジャー!!』
いつものデイブのかけ声、そして、彼を囲む円陣を組んだメンバー達が、威勢良く声を張りげたかと思うと、コリンズチームは各機体に解散していく──。
いよいよだ──! まだ本番ではないが、これが最後の『呼吸合わせ』。
隼人は村上を従えながら、コックピットに乗り込むデイブの姿を確認して、手元のダイバーウォッチのタイマーをゼロにリセットし、フライト発進への心構えを整えた。
ふと、その隣の機体に……少しばかり不安を募らせながら視線を変える。
『レイ! いよいよだな!』
『大佐──応援しています。気をつけて!』
『オーライ♪ 任せてよ』
ホッとした──。
機体に梯子をかけて、彼女をコックピットへと送り出すエディと、それを見守るトリシア。
そして──そんなメンテパートナーである二人に……葉月は、笑顔で応え、グッドサインまで示していたから。
(寝起きが悪かっただけだろう……)
今朝の自分もそうだったから、彼女もそうであったのだ──隼人は、やっとそう思えて安心し、いつもの『全体』を見渡すべく『キャプテン』の気持ちに切り替えられた。
「レイ──昨日のリクエスト、なんとかやっておいたぜ」
梯子を登ってコックピットに乗り込んだ葉月に、そこからニョキッと赤毛のエディがニヤリと顔を出した。
「有り難う。じゃぁ……今からの最終演習で、感触を確かめておくわ」
「レイの感覚にマッチしているといいんだけど──今日で、何回目かな……なかなか、合わせられなくて悪かったな」
「とんでもない。ミリ単位なんでしょう? スロットルも計器の針のブレを調節するのは──毎日、変化を感じているわ。流石、エディね。細かい変化を実感させてもらえるリクエストに応えてくれて、私は満足」
「いや……スロットルは柔軟で敏感だ。操縦も大げさに言えばミリとも思える程の感覚がないと高度な方向感覚が得られないはず。レイはそれを存分に感覚として取り込んでいるし、俺もそういう機体を整備できるやり甲斐があるってもん。本当──マッチできたら、俺達二人もやっていけそうだな」
「……」
エディのその前向きなチャレンジ精神に、葉月は微笑みながらも……言葉が何故か出てこなかった──が、しかし──。
「うん。行ってくるわ、エディ」
「オッケィ!」
コックピットのシートに、葉月は身体に巻き付けてある安全ベルトを各所シートに固定する。
それを確認し、エディが梯子を下りる。
彼が降り立ったと同時に、梯子がコックピットから外された。
それを確認し、葉月はキャノピーでコックピットを封鎖し、ロックする。
『ビーストーム1、誘導します』
隣に並んでいたデイブの機体は、既に村上の誘導にてカタパルトへと進んでいた。
(……)
葉月はふと……朝方の体調を思い出した。
あの後、達也が温めの飲みやすいホットココアを入れてくれ、それを一杯飲んだら、隼人が言うように落ち着いた気がした。
だけど──その後、キッチンで全て戻してしまった。
側で付き添っていた達也は、狼狽えていたが、葉月としては『こんな事で、棄権はしない』という意志が強かった。
ところが──やはりどことなく、緊張しているくせに強がっていたのだろうか?
デイブ達と落ち合い、デイブやリュウ、マイケルといったいつもの仲間と話しているうちに……いつもの気分に落ち着いていたのだ。
コックピットに乗り込んだ今となってはもう、気分云々よりも──目の前の青空に対し、妙な闘志が自分を後押しし、空へと突き飛ばそうとしている高揚感につつまれた。
そう──これだ。これがいつも、毎日、何年も葉月を空へと向かわせていた『たまらない気持ち』だ。
葉月は自分自身で、それを感じた事を確認し──ホッと胸をなで下ろしていた。
『発進チェック開始──。こちらメンテ、発進準備完了。ビーストーム2、発進OK?』
目の前には、広大な海──煌めく水平線、そして壮大な青空。
コックピットの『スクリーン』に、葉月を幾度となく吸い込み、誘い込んでくれた『異世界』。
白い雲のたなびく先端は、葉月に『来てみなさい』と囁く女神の手招きのようだ。
『ビーストーム2! 発進準備OK!』
『大佐──大丈夫ですか……?』
いつもその空……『異世界』へと向かう時にかかってしまう呪文の儀式。
その合間に、遠慮がちな声が、まだ引き留めるように現世から聞こえたのだ。
「ええ──大丈夫。ほら……空が私に来いっていつも通りに言っているわ。今日は空の方がご機嫌よ」
『そっか、良かった──』
真っ赤な服を着た彼の安心した声。
彼は知っている──葉月がそんな何処かへ行ってしまうような例えを言う事を。
それを彼に初めて口にしたのは、ベッドの中だった。
そこでは不思議と、人には言えなかった事なんかも、独り言のように呟ける事も結構あったから──。
『毎日、知らない世界に出かける気分。空のご機嫌をうかがいながら、お邪魔するのよ。時々、女神を怒らせると煙に巻かれちゃうの』
そう言った時、彼は多少……戸惑った顔をしていたが、すぐに同じ世界観を理解してくれたように笑っていたのだ。
だから──今、そう呟いた葉月の状態が、『空への心構え』を完璧に整えていると解ってくれたようだ。
『いってらっしゃい──大佐!』
「オーライ!」
敬礼をしてくれた彼の顔、眼差しが──いつも以上に真剣だった。
だけど──葉月はいつもの笑みを向け、敬礼を飛ばし、彼に向けてグッドサインを突きだした。
『嬢──! もっと父島に近い沖合で最終調整だ。会場上空で、来客の視界にはいらない所でやれとの監督命令だ』
「ラジャー! 父島方面へ今から向かいます」
『待っているぞ』
パイロット相棒のデイブも……今日は流石に堅い声であり、気合いが入っているようだった。
「スロットル──馴染んできたわ」
エディと幾度となく調整し合った感触も、ここに来て完成したかのように葉月のイメージ通りだった。
順調だ──今日は特に、気分が高揚している、良い具合に。
・・・◇・◇・◇・・・
彼の頭上高く──戦闘機が二機、通り過ぎていった。
遠くまでとどろく轟音を引きずりながら──。
「いよいよですね──」
彼──ジュールは、船首の手すりに腰をかけ、上空を見上げている純一に声をかけてみた。
「ああ──客に見られないように、父島上空で最終調整のようだな」
ここは、遠目に空母艦が見える沖合──純一は、クルーザーの甲板で潮風に揺られていた。
「成功しなくても、三回転ならそれなりに見応えはあるでしょう──」
「さぁな──本人が納得するかね……? ああいう所は結構、頑固だからな」
「そこがお嬢様の……」
ジュールは、そこまで言って、急に口をすぼめる。
そして、チラリと船室へと視線を馳せる。
いつもなら、純一の背中にひっついて猫のようにすり寄っている『子猫』が、そこで大人しくして出てこようとしない。
その彼女が、大人しいのは今に始まった事でなく、本島の房総に戻ってからずっとだった。
純一とは別行動の日々を送っていた。
エドとジュールが交代で房総のホテルへと、アリスの付き添いをしているのだが──彼女は日に日に、口数が少なくなり、何もしなくなってきていた。
まさに……ジュールが思っていた通りに『生気をなくす』と言った具合で、近頃、エドなどは『接し方を持てあます』ようになり、エドまでストレスが溜まっているようではないか?
「ボス──まだ、お話していないのですか? お嬢様が、どのような女性であるのか」
「話そうと思ったのだが、聞きたくないという雰囲気だったんで……。それっきり、今朝、お前が連れてくるまで、逢っていないしな」
「……まったく。そういう彼女の態度に甘んじて、貴方……先延ばしにしているだけでしょう?」
「……かもな」
まったく、本当に──とばかりにジュールは呆れた溜め息を落としていた。
こうして連れ愛人だったアリスに対して、彼女以上、絶対に捨てられない女性がいる事を理解させていたとしても、幾らなんでも説明がなさ過ぎると言う物だ。
彼女が、『ただの連れ愛人だった』と根っから理解させる為に連れてきたのではないのか?
それとも、またもや? ジュールがこうしてヤキモキしているままの『バカ兄貴』と思わせておいて、本当は、奥の手でもまだまだ隠し持っているのだろうか?
ジュールはもう我慢限界が目の前に来ていると感じつつも、なんとか堪えて従っていた。
もう──こうなったら、ジュールから諭し役をかって出たいぐらいだ。
──と、考えていたのは数日前までの事、今は、純一の『さぁな』や『……かもな』の真意は確かめていないが、ジュールは、いつになく静かに見守れるようになっていたのだ。
──それは……なのだが、話はここ数日間、房総へと戻る。
近頃、エドがアリスの扱いにストレスを感じているようだったので、ほぼジュールが房総に出向いていた。
アリスは食事すらも怠るようになっていたので、ホテル側に言いつけて、彼女の部屋にきちんと運んで欲しいとまでジュールは頼んだ。
「困ったもんだ。やはり──お前は馬鹿だな。覚悟の程度が甘かったようだな……」
「……」
「俺も一緒に食う。お前も、ちゃんと食べないと、義妹様と『対決』したいと思っていたのだろう? 出来ないじゃないか?」
「……」
夕食だけは一緒に取る事を心がけた。
だが──アリスは心を閉ざしてしまっていた。
勿論──純一にもその旨は報告した。
「そうか──『元に戻ってしまったか』……」
報告した時──純一が呟いた言葉が意外だったので、ジュールは少し驚いた。
『元に戻ってしまった』──それが何を意味しているのか。
そう……彼女が純一に拾われて、黒猫隠れ家に無理矢理連れてこられた時同様の姿に戻ってしまっている。
『確かに……!』と、ジュールも数年前の彼女を思い出した程だ。
そして純一は溜め息をつきながら……義妹を迎えようとしている広い部屋にある窓辺に揺れる緑を静かに見つめていた。
「俺は結局……アリスには何もしてやれなかったし、残してもやれなかったのだな……」
「……一つだけ。方法がありますよ」
「そのたった一つの方法だが、ジュール。お前も分かっているのだろう? 無理だ」
「そうですけど。期待を持たせてしまったのは、貴方の悪い癖というか……責任ですよ」
その『責任』という痛い所に触れると、純一はいつにない苦悩顔を浮かべた。
彼女の気持ちに応えてやれないのに……彼女が生きる為ならと『一時』のつもりで受け入れてしまい中途半端な結果を生んでしまった自分の事。
それは彼も解っているのだ。
ジュールもそこは理解しているが、彼の中だけで終わらないようにちゃんと外に出すべく役として、口にしているだけだ。
なのに──その苦悩を見せていた純一の眼差しが……急に窓辺の闇夜へと輝いたのだ!
「いや……まだ、アリスは終わっていない。俺は信じている」
「!?」
純一はそれだけ言うと、ジュールに背を向け何も言わなくなった。
ジュールもそれ以上は聞かなくとも──なんとなく? 兄貴の狙いが分かったような気がしたのだ。
(ボス──もしかして……)
それはジュールも願っていた事だ。
そういう女性であるべきだと願っていた事──同じ事を、兄貴も狙っていた!
そう──ジュールが苛つきながらも、子猫を冷徹に捨てきれないのは『その素質』を知ってしまっていたからだ。
だから……見守っている。
だから……まだ子猫を捨てずに、こうして面倒は見てはいる。
彼女は話さなくなった。
しかし──ジュールがやってくる夕食だけはちゃんと食べる。
エドにもそうしてやるように言いつけ、彼もそれに従ってくれたが……やっぱりエドに対しても同じで食事はするが無言だったとの報告が続いていた。
昨夜の事だった。
『明日は、例の航空ショーがあるからボスと再度小笠原に出かける。天候が良ければ、夜遅くに一度ここに来るからな』
生気をなくしているアリスだが『航空ショーには行かない』とだけ……一度、呟いたのだ。
ジュールはその気持ちも仕方がないだろうと『そうなのか、分かった』とだけ応えていたのだが。
『やっぱり……連れていって! ジュール、連れていって!』
『……アリス』
『良く分からないけど、やっぱり、このままじゃいけない気がする! お願い……迷惑は絶対にかけないから!!』
『……よし、いいだろう』
その時、アリスの眼差しに、切羽詰まった表情は──今まで以上に『生きたい』と必死に立ち上がる『崖っぷちの悪あがき』に、ジュールには見えた。
だが──ジュールは、それを馬鹿にするのではなく、寛大にそして穏やかに微笑み受け止めていた。
そう──『生きる』という事は、これ程に『格好悪い事』だと、今、彼女はそれを知らない内に己の内側から燃やし始めた。
ジュールは……それを願っていたのかもしれない。
誰がいてくれるから『生きる』のではなく、『格好悪くても、自分で生きる』。
これをなくして、人を愛する事も、愛してもらえる事も『高望み』と言っても良いだろう。
第一に、生きている事も、人を愛する事も……本当は我を見失うほど『格好悪い事』なのだと──。
『明日の朝──ボスの所に連れていく』
『うん……』
『もう、寝ろ──明日は早朝、日が昇る前にセスナに乗らなくてはいけない』
『分かったわ』
アリスは一人で使っているスイートルームの寝室へと颯爽と消えていった。
その背中がとても……今まで以上に『凛』としていたのだ。
ジュールは微笑んでいた。
しかし、ジュールは『それだけ』では安心していない。
次なる試練は『認めたくない事実』から目を逸らさない事。
さらに──『格好悪い自分』を認めて、自分自身で受け入れられるか……であった。
(まだ、崖っぷちで踏み耐えただけだな……)
そう思った。
今朝方、純一と待ち合わせている千葉県下にある小さな民間空港に、アリスを連れて行くと、とても驚いていたのだが……。
『行く気になったのか』
『そうよ。だって──私だけ知らないのはシャクだから』
アリスはツンと……いつもの気強さに戻っていたので、ジュールは一人こっそりと笑ってしまっていた。
そして──エドはやや戸惑っていて、純一はジュールとも同じく、アリスを見守るように微笑んでいるだけだった。
移動中も──アリスは、いつもの騒々しさでじゃれる事もなく、何か聞きたい事があれば、エドに聞くほど……徹底して純一を『無視』しているのだ。
それを見て……ジュールはまたもや、笑いが堪えられなくなった。
(そうだ、そうだ。それぐらいやってやれ)
なんて──まぁ、純一はその方が楽しそうな顔をして、痛くもなさそうだったが、ジュールとしてはアリスのツンとしている気強さに、心で煽っていた。
戸惑いはしなかった。
もう……ジュールには解っていたから。
アリスの『本当の戦い』が始まったのだと思ったのだ。
彼女には必要だと思っていた事に対して、アリスは期待通りに向き合い始めた。
そうだ──まだ、始まったばかりで、アリスは崖っぷちにいる事には変わらない。
だが──昨夜、彼女は崖っぷちで落ちる所を『踏み耐えた』。
その必死な形相は、『美しくありたい』と思っているだけの人間には、絶対に出来ない形相だった。
生きる事に必死で、ありのままの、人間味ある形相だ。
彼女は──今、たった独りで、『生きる意味』を感じ始めているはずだ。
それが……ジュールには嬉しかったのだ。
素直に──。
それが出来ずに、自ら命を絶った者達を沢山見てきた。
また──そうならずに済んだという、喜びだ。
自ら命を絶って逝ってしまうなんて……『その命、俺にくれ』といつも言いたいのだ。
それを心ならずとも、死んでいった者達──ジュールが愛してやまない、還ってこない者達に与えられたのなら……。
だから、腹が立っていたのかもしれない。
彼女が崖っぷちで踏み耐えなければ、予想していた通りに『死』があったはずだからだ……。
そんないきさつで、只今──小笠原の海上にて、クルーザーで回遊中であった。
『ま。まだ……安心できないがね?』
純一は甲板で、灰皿片手に煙草を愉しんでいる。
アリスは船室にて、ばっちり決めた黒いスーツを着込んで、化粧を直していた。
・・・◇・◇・◇・・・
「よし、フライトが着艦するぞ──」
『ラジャー!』
コリンズチームが空に出て行ってから一時間後──。
細川の着艦命令にて、空母上空に、各所から戻ってきたホーネットが次々と姿を現し、順番待ちの旋回を始めていた。
いつもの手順で、甲板にホーネットを着艦させる。
最後はいつも葉月かデイブで、その二人も着艦した。
『ガッテム……!』
デイブはコックピットから降りるなり、いつも以上に悔しそうな声を吐き捨てていた。
最後なのに……結局、自分達が狙っている目標に辿り着かなかった悔しさだろう。
『キャプテン──』
そして……一足先に着艦していた葉月も、デイブの側に寄ってうなだれていた。
『嬢、耳を貸せ』
『はい?』
『あのな……』
細川の元へ集合する前に、二人は戦闘機の影になる目立たない所で、なにやら怪しげな談合をしているようだ?
(なんだ? 嫌な予感がするな〜)
デイブの機体の整備をする為に、隼人は一号機のコックピットに乗り込む際に、尾翼下あたりでコソコソとしている二人を見てしまい、そう思った。
『あの二人』程、危険な『賭』を平気でするコンビもいないだろう。
隼人はそれをよく知っていた。
訓練中でも、あの細川が『ヒヤッとした』といいつつも、それ程にヒヤッとしたものだから、頬を真っ赤にして怒鳴るほどの『内緒の挑戦』をしているのを何度も見てきたのだ。
しかし、叱られながらも、それを『我、覚悟の主張』として細川を頷かせてきたのも彼等の経歴であるのだ。
だが、周りは堪ったもんじゃないらしく、あの細川が『目が離せん』と目を光らせているぐらいだ。
その二人が……最終調整でも変化を成し遂げられなかった為に? 細川の目を盗んでヒソヒソとしている様子は、非常に隼人の不安を誘う。
しかし、いつもは『にやっ』と悪戯っぽい子供のような顔をする二人が……まるで『覚悟』をしたかのように、確固たる表情で頷き合い、尾翼の下から甲板へと走り出していた。
『……』
(怖いな〜)
隼人はそう思った。
その後、その不安はさて置いて……本番で事故でもあれば普段でも問題だが、普段以上の問題になる為、念入りの機体整備をメンバー達としていた。
もし、会場で事故がおこれば、観客を巻き込む大事故になるだろうから──。
パイロットの命の犠牲だけでは済まなくなるのだ。
「いいか──再々のチェックを怠るな! それからカラースモークの色間違いをしないように!」
隼人は十機全体を廻って、声をかけた。
「澤村キャプテン──」
「はい?」
そんな声がして振り返ると、葉月が立っていた。
「ああ……大丈夫か」
「うん……今朝は心配させてごめんなさい」
彼女の気後れした笑顔。
でも──先程、一時間のフライトをやってのけたのだ。大丈夫そうだ。
「そりゃ……今のフライトを乗り切ったんだから、もう大丈夫そうだけど……」
隼人は、先程のデイブと彼女の『示し合わせ』の様な姿を思い出し、それで得た不安を密かに訴えるように……葉月をツイッと、白けるような眼差しで見下ろした。
「なぁに?」
葉月は途端に頬をふくらませ……隼人がなにやら『小言』を言う前のデモンストレーションをしている事に気が付いたようだ。
「まぁ……コリンズキャプテンと一緒なら、俺が何を言っても、やめないだろうけど? なにやら、ちょっと『不審なお二人』を目撃しちゃったんでね〜」
「あら、そう……」
甲板を撫でている潮風に、葉月の栗毛がサラッとなびきながら……それを葉月がさらにかきあげ、空へと、とぼけた顔。
隼人も、いつも通りの呆れた溜め息をはいただけだ。
「……お前の空での活躍は、俺も楽しみだし、成功を祈っている。だけど──」
隼人の周りにも、潮風が取り巻き始める。
「だけど……なに?」
葉月の涼しげな落ち着いた表情。
透き通った白い頬、冷めた落ち着いた眼差し、そしてベビーピンクの唇だけが、ツンと日差しに照り輝いている。
いつも共に職務を進んできたパートナーとしては安心をさせてくれる、安定ある顔つきだった。
「いや……なんでもない。何があっても、俺──お前はやり遂げるって信じている」
「有り難う──」
彼女がニコリと微笑んだ。
隼人のその言葉がとても嬉しかったのだろうか?
その笑顔は、職務で見せる笑顔でなく、隼人がいつも……丘のマンションで見ていた彼女の笑顔で……胸がギュッと締め付けられた。
この時に、誰もいなければ抱きしめてしまっていただろう──そういう笑顔だ。
「お、お前は? 何? 俺に何か用事があったみたいだけど……」
隼人は……ちょっと彼女と距離を置いている時期だからだろうか? そんな風にギュッと胸が締め付けられた感触が、妙に意外と新鮮に感じ、頬が火照った為、フイッと顔を背けてしまった。
「……ショーが終わったら、あなたに、プレゼントがあるの。私達、来賓にこの姿でご挨拶だから、着替えないけど、隼人さん達は着替えるのでしょう? だから更衣室で待っているからね」
「え? ああ……なんだろう?」
「内緒。でも──決めていたの。絶対よ。だから……ちゃんと帰還する。無茶な事で自分を無駄にしないって誓うわ」
「そ、そうか……」
「それだけ……」
隼人は茫然と……穏やかな笑顔でそう言う葉月にあっけにとられていた。
しかし──直ぐに笑顔になる。
『俺に何かしようと決めているから、向こう見ず無茶はやり通さないで、絶対に戻ってくる』
それを聞いて……デイブとの『怪しげな談合』も、それほど危険な事ではないのではと、安堵する事が出来た。
「じゃぁね……艦内でミーティングをするの。ああ、メンテにも艦内食堂で軽食が出ているのでしょう?」
「ああ、らしいね。整備が終わったら、後輩達と行くよ。お前──朝、何も食べていないみたいだから、食べておけよ」
「うん、ちょっとサンドウィッチぐらいつまみたい気分になってきたわ」
「お前らしくないな〜。やっぱり緊張していたのか?」
「そうなのかしら〜」
そこで二人は穏やかに微笑み合っていた。
緊張感漂う中……そして、彼女との関係が薄まっていく中で……本当に穏やかな一時で、隼人はこのまま時が止まればいい、と、一瞬気が遠くなりそうになるほど……葉月のそのいつもの仕草に、髪の色、そして……飾らない微笑みを見つめていたのだ。
彼女の顎のラインをくすぐる、肩先でちょこんと巻き毛になってしまう栗色の毛先が揺れている。
手を伸ばせば、いつもそれに触れている事もできたし、いまだって、手に届くのに──。
心の距離で言えば、まるでブラウン管に映っているアイドルを眺めているが如く……遠く感じるから、手が伸ばせないでいた。
『嬢! いくぞ!』
『はい!』
いつもの如く、彼女が側にいないと落ち着きなさそうなデイブが葉月を探し出したかのように、艦内に連れて行った。
そんな彼女が青空の中、甲板の潮風の向こう──先輩と消えていく背中。
本当に……もう、遠くて、自分の物ではなく『遠い映像』として隼人は眺めて見送る。
隼人も独り──甲板を撫でていく潮風に揺られるだけだった。
フライトとメンテはショーが終わるまでは陸に戻る事はない。
なので、艦内で食事や休憩が出来る配慮が、この日は施されていた。
そこで、パイロット達が一足先に軽い食事休憩をすませた様で、狭い食堂は入れ替わりで、隼人達が使わせてもらう事になる。
「あードキドキするな!」
エディが自分の事のように興奮しているのだ。
「だって、俺が調整したスロットルでレイが大チャレンジをするんだっ。それってワクワクしない?」
「そうだな、メンテした機体が空を飛んでくれるって、そういう気分だよな」
隼人も笑っていた。
サワムラメンテチームはそのムードメーカの様子を、皆で笑いながら『本当に』と和やかな休憩を過ごしていた。
九時には、基地の警備口が解放される。
十時からは『式典・祝辞会』があり、その後は連隊長が従えるパレードが滑走路で開催され、音楽隊に、第一中隊の陸隊行進が披露される。
その最後に……十時半から十一時の間に、フライトチームが発進される予定だ。
パレードの進行具合によるので、陸からの『発進OK』の指示が空母艦に届けば……こちらはいよいよ『本番』になるのだ。
『こちら管制──只今、十時四十分。陸から発進準備を整えるようにとの指示有り。陸滑走路通過予定時刻、十時五十分との指示有り──』
甲板でそろそろだろうと、機体をすぐに誘導する体勢に整えていた隼人の元に、管制からついに……『指示』が出た!
それと同時に、艦内からコリンズチームが一斉に、飛び出してくる!
「これが最後だ……分かっているな」
「オーライ!」
フライトチームの円陣かけ声はいつも以上だった。
そう──どのような雰囲気で、フライトチームがこの日を迎えたかは、隼人は詳しくは知らない。
知らないが……皆が言葉にせず、顔に出さない努力はしているだけの事で、いつも通りの雰囲気の中──『コリンズキャプテンと最後の飛行』だと……。
そうメンバー一同が心得ているのが伝わってくる、声だった。
それを確かめ、隼人はやるせない溜め息をつきながら……こちらも、再度、気合いを入れた!!
『こちらフライトメンテ、ビーストーム1。搭乗開始、誘導始めます』
『こちら管制。了解──待機中……只今の時刻、十時四十二分……陸からの最終発進許可指示待ち。届き次第、報告します』
『ラジャー。こちらも待機、整えます』
『こちら管制、先程の指示通り、パレード終盤に差し掛かった為、予定通りの希望時間に合わせ、発進準備行います』
『こちらフライトメンテ、ラジャー!』
デイブのホーネットがキラリと先端を光らせながら、海原へと向き合い始めた──!
ついに……その時がやって来た!
・・・◇・◇・◇・・・
その頃──基地の外、滑走路の金網がずっと並んでいる小道。
海の波打ち際に近いのだが、道路の脇は雑草が生えている車がやっと一台通れるだろうという砂利道で『黒猫ファミリー』は並んでいた。
会場内には入らずに、人があまり通らない裏道で、ひっそり観覧という所だった。
「ボス──手に入れてきましたよ」
エドが小道を走りながら、笑顔で戻ってきた。
「すまないな」
エドが手にしていたのは、白く薄いパンフレットだった。
それをまず純一に、そして双眼鏡で沖合を眺めているジュールに一枚……そして、男達とは少し距離を空けて、金網の向こうで繰り広げられている賑やかで華やかなパレードを遠く眺めているアリスにも……エドは手渡した。
だが、アリスは興味もないようで、手にはしたがジュールや純一のように直ぐに眺めようとはしなかった。
「ああ……やっぱり、氏名と職位だけですね……顔写真でも掲載されていたらどうかと思ったのですが……」
ジュールはパンフレットをめくり、ある箇所を確認しホッとした声を漏らした。
「以前もそうだったからな……」
そう言いながらも純一も安堵しているようだった。
ジュールはそしてチラリと……パンフレットを手にしているだけのアリスに視線を馳せた。
そこに、そこに……お前が知りたい女の正体が記されているのにと。
だが、アリスは知らないから……自分が知りたいのは、この金網の向こうの賑やかで華やかな客席にあると思って、そこばかりを見ているのだ。
すると純一が、スッと動き出した。
自分達を避けるように、一人きりで何かを探っているアリスの元へと純一が向かったのだ。
距離を置いている位置で、ジュールとエドは一瞬……視線を合わせ、お互いに息を呑んだほどの緊張感に包まれた。
「このページだ」
「なぁに?」
反抗的であるアリスは、純一が掴んだ手首を振りほどこうとしていた。
が……純一は、アリスが手にしているパンフレットを無理矢理開いて、その箇所を指さしたのだ。
「これが俺の義妹だ」
「は?」
パンフレットのページは……『航空ショー』の紹介ページで、細川監督の名前に、フライトチームのメンバーの氏名がそれぞれ掲載されているページだった。
「今から飛んでくる戦闘機。先頭の二機のどちらかが……俺の義妹が操縦している戦闘機だ」
「──!?」
アリスの目が見開き……そのまま動かなくなった!
ジュールとエドは……二人が向き合っている様をただ、離れた位置から固唾を呑みつつ眺めていた。
そして……アリスは、分かったのに分からなかったかのように、馬鹿みたいにパンフレットを見下ろし、純一の顔を見上げ、そして沖合の空へと振り返ったりの繰り返しをしているのだ。
「俺の寝言で、聞いた事がある名前が……そこにあるだろう?」
『ハヅキ──!!』
アリスがその氏名を見つけ……とうとう、パンフレットを見つめたまま、硬直してしまっていた。
それどころか、彼女の唇は震え……そして……手も震え、パンフレットの紙の角がカサカサと震えていたのだ。
それを静かに見下ろしている純一が、その彼女の様子も覚悟をしていたかのように、溜め息をつきながら……ジュール達の元へ戻ってこようとしていた。
「待って!? ジュン……これ!」
「本当だ。義妹は飛行機乗りで、軍職をこなしている」
「でも……大佐って書いてあるっ!?」
「まぁな? そういう家柄の末娘と言えばいいのかね? だが、そういう女であるのは確かだな」
「彼女……! 幾つなの!?」
パンフレットには、氏名と職位だけで、年齢までは記されていなかった。
純一の義妹といっても、純一との歳が近いのであれば、ある程度のキャリアウーマンとして、その地位を得ているのは頷けるかもしれない?
それにアリスにとっては自分が若い方が『若さでは負けない』という自信もつけられるだろう?
女性はなにはともあれ、そこはまず気にするのかもしれないと、ジュールの脳裏にそういうアリスの心理が思い描かれたのだが──。
「お前とそう歳は変わらない。二十代の女だ」
「嘘よ!」
アリスは信じないという形相であった。
ジュールも無理はないと思う。
言ってみれば、葉月のような女性も珍しいかもしれない? 家柄も手伝ってはいるが、彼女の人を巻き込む魅力という物と、妙な威力というのはジュールが御園という一族に出会ってから重々味わってきた物であり、これは触れた事もない人間には常識では理解できないものだからだ。
故に、自分とそう歳が変わらない同性の女性が、それ飛行機乗りだ、大佐だなんて言ってもアリスの常識では信じられないのだろう──と。
だが──純一は淡々とこう応えた。
「確かに──だが、義妹はとんでもないお転婆だ。この『黒猫たる』俺の手を幾度となく煩わす程の『跳ねっ返り』で……」
「!! 煩わすって?」
「俺達が思いもしない危険な所も、飛び込んでいく……そういう命知らずのバカ妹だ。俺の『愛弟子』とでも言おうかね? 義妹には、銃の撃ち方も、気配の殺し方も、色々、教えたぐらいだ」
「!」
やっとアリスが黙り込んだ。
だが……そこには放心してしまった黒い女が、棒のように突っ立ているだけだった。
そして、純一が続ける。
「でも──義妹は、とても儚くて脆い……だから、俺は……どうしようもなく……“アイツを”……」
だから──俺の手の中に閉まっておきたくなる。俺じゃないと駄目なんだ。
最後に語尾を濁した純一の途切れた先に……そんな声が聞こえたような気がした。
それはジュールとエドは当然のように予想が出来たのだが、アリスは予想は出来たのか? それは分からないが、それに等しいほどの泣きそうな顔をしている。
「ジュール……いいのか?」
「ああ、放っておけ」
そんなアリスの衝撃的に打ちのめされた姿をエドが案じても、ジュールはこれは彼女の戦いだと、見届ける姿勢は崩さない。
アリスにとって、対したい女性がパイロットであった事も、大佐であった事も衝撃的ではあっただろう?
だが──本当に胸を貫くほどショックだったのは……おそらく『義妹は俺を振り回し、どうしようもなく俺が手を出してしまう女だ』という純一の『執着心』を見てしまったからだとジュールは思った。
滑走路から、海援隊の『ファンファーレ』が響いてきた。
そして──花火が打ち上げられる。
──『只今より、フライトチームによる航空ショーを開催します』──
そんなアナウンスが、日本語、英語の二カ国語で響き渡り、黒猫達も無言になった。
華やかな客席、滑走路を取り巻いている数々の一般来客達から歓声が広がった。
「本当に……彼女が飛ぶの?」
「ああ……」
しかし、アリスは立ち直ったように、強い眼差しで空を見上げたのだ。
だが、その空を強く見据えているアリスの青い瞳からは、涙が流れていた。
そして……悔しそうに唇を噛みしめている。
『さぁ……子猫。お前は今……何が悔しい?』
またジュールは子猫を煽っていた。
何故、悔しいのか? それをどうプラスに変えるか……『さぁ、これは見物だ』とばかりに、ジュールはニヤリと子猫観察を楽しむ事が出来そうで、微笑んでしまっていたのだ。