・・Ocean Bright・・ ◆黒猫が往く◆

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9.独り立ち

 その日の朝、従兄と一緒に大佐室へ出勤した。
 従兄は今日の日中、小笠原海軍音楽隊の式典マーチングの指導をすれば、夕方には帰る予定だった。

 

 

 本当に……隼人が出て行った。
 昨夜、仕事が終わり、右京と共に丘のマンションに帰ると、一足先に仕事を終えて帰宅した隼人が、林側の部屋で荷物をまとめていたのだ。

 それを右京は、申し訳なさそうに黙って見つめ……葉月は、幻を見るように眺めているだけだった。

『じゃぁ……困った事があったら、いつでも──』

 笑顔で出て行こうとしている隼人は、このマンションに来た時のように『スーツケース』ではなく、肩にかけられる旅行バッグひとつだけ持って……。

『お兄さん、俺の部屋、散らかっていますけど気にせずに使ってください。あ……元々御園の家なのにこうは言えないですね……』
『いいや……大丈夫。あそこはお前の部屋だよ』
『夜中の12時と1時……一度、彼女を確認してくれると助かります』
『……。解った──。俺も宵っ張りだからそうするよ』

 子供を置いていくように心配そうな隼人のそんな『日常の習慣』を知って、従兄はとても驚いたようだった。

『とりあえずなんで……置いていった物をまた取りに来るかもしれませんが……勝手に入っても……』
『澤村──そういう言い方はもうやめてくれ……。俺まで哀しくなってくる──。当然、今まで通り入ってくれても構わないから──』
『有り難うございます──』

 そして、隼人は玄関を出ていった。
 葉月はそれを本当に、従兄の背中から黙って眺めていただけだった。

『お前も……決心したんだ。これから暫くは、心を強くしてかからないとな……』
『……』

 従兄のその言葉は聞こえていたが、葉月は隼人が去ってしまい、扉が閉じられた玄関の戸をじっと見ているだけ。

『葉月──?』
『!』

 そして、葉月はそのまま思いついたように、裸足で玄関を飛び出していた!

『葉月──!』

 従兄が止める声はもう聞こえない。
 葉月は必死になって走って……自分の家を厳重に守っている鉄の自動ドアも飛び出す──!

『……葉月』

 エレベーターに乗ろうとしている隼人がそこにいた。

『待って……! お願い、待ってよ!』
『葉月……』

 彼の背中に抱きついた。
 むずがる子供のように、彼の背中に顔を埋めて、無我夢中でこすりつける。

『もう……止められないのは解っているわ。でも……お願い、私が今まで嘘を無意識についていただなんて思わないで──!』
『……』
『あなたとの約束、ちゃんと忘れない。いつでも忘れないように何度だってあなたの声で唱えるわ──!』
『ああ……』
『私だってどうなるか解らないわ。でも──これだけは忘れないで! 私……本当にあなたの事も愛しているの!』
『葉月……悪いけど……』

 今まで、葉月が信じられないほど晴れやかな笑顔を超越したように浮かべていた隼人が……初めて、唇を噛みしめ……葉月をスッと自分の身体から離した。

『約束したし、気持ちも確かめ合った……俺も充分、解っているから……行かせてくれ……』
『隼人さん──』
『……俺だって、こんなことしたくなかったんだ。でも、もう限界なんだ──。一人にしてくれ──。お前の為もあるが、なにより俺の為でもあるんだ。悪い──』
『……』
『嬉しすぎて、戻ってしまいそうだから……頼むから、もう……』

 彼の苦悩の顔──。
 やはり、どれだけの思いで、ここまで自分を追いつめた事か──!
 葉月は隼人のその顔を見て、彼の本当の『苦悩の姿』を見てしまったと思った。
 それは──間違いなく、葉月が彼に与えてしまった『苦悩と裏切り』だった──。

 だから──葉月は、そんな隼人の為に、涙を拭って彼から離れた。

『……大佐、また、明日』

 振り返らない彼が……もう葉月とは呼ばずに、一人の同僚となってエレベーターの扉にかき消されるように姿を消した──。

 裸足でたたずむ葉月を、右京が自動扉の影で見守り……そのまま迎えに出てきた。

『よく言った……。さぁ……中でゆっくり休もう。お兄ちゃんがハーブティーを入れてあげよう──』

 従兄は笑顔で葉月を迎えてくれる。
 葉月は黙って俯き、従兄に手を引かれるまま、子供のように部屋に戻される。

 右京が入れてくれたナイトティーは、何故か良く効いた。
 ラベンダーの香りがとっても効いているお茶。
 そして──リビングから葉月の部屋へと流れてくる、従兄のヴァイオリンの音色──。
 まるで子守歌のように……従兄は葉月がベッドに入ってからずっと演奏していた。
 その晩は、従兄が夜中のいつ、確かめに来てくれたか分からなかったから、よく眠れていたのだろう──。

 

 そして──朝を迎えた。

「おはようございます。お兄さん」

 隼人の何事もなかったかのような笑顔。

「おはよう──お嬢さん」
「おはよう──中佐」

 『おはよう』をいつものリビングでの太陽の日の中でなく、こんなところで聞く事に葉月は憮然としていた。

「おはようございます。お兄さん──! 今日も良い天気ですね!」

 達也はいつもの如く、天真爛漫、元気いっぱいに右京に挨拶をしたのだが……

「おはよう、大佐」

 葉月には憮然としていた。

 昨夜、従兄からも聞かされた。
 達也には、『谷村純一』という男の話をしたと──真一の本当の父親であり、今は表世界から隠れている闇部隊のボスであり、そして葉月とは切っても切れない関係で、義兄妹でありながら……表と裏の住む世界が違いすぎても、始終惹かれあっているのだと。
 それを右京から聞き届けた達也は非常にショックを受けた様子で、一言も……質問もしなければ、納得いかない抗議もしなかったと聞かされた。
 これは補足の様に右京が最後に付け加えてくれたが、『葉月の初体験』の相手だという事は、流石に伏せたとの事。
 それでも達也は、ショックだったようだ。

『一人にして欲しいというから……海野を置いて、俺だけが大佐室に戻ったんだ。そうしたら──今度は澤村があんな事を言い出して……』

 あっちもこっちも『我が家の末っ子問題』で板挟みになる今回の事で、右京も『長兄』としての責任や役割に、やや疲れを見せていた程。

『海野にも、お前は辛く当たられるかもしれないが……仕事はきっちりする男達だ。お前も……そこは彼等に申し訳なくおもうなら、全うするんだぞ』

 葉月も分かっている──。
 もう、後戻りは出来ないし、彼等には最低限の『信頼』……同僚としての信頼までは失いたくないから静かに頷いたのだ。

 だから──達也は葉月には……従兄が言った通り憮然とし、笑顔なき無言の『棘』を感じたが──。

「おはよう──達也」

 葉月も、以前の『無感情令嬢』この上ない反応で、スッと挨拶を交わすだけ。

「おや? 珍しい……今日は百合か──」

 そんなぎくしゃくしている従妹の仕事場の空気を、少しは変えようと思ったのか、右京がそんな一言。
 大佐室へ出勤すると、今回は大輪の『カサブランカ』が活けられてあり、いつにない芳醇な香りが広がっていた。

「しかし──この前から思っていたが……」

 右京は、ピンク色の愛らしい花瓶を眺めながら、顎をさすってしかめ面だった。

「葉月──クリスタルか、日本焼きの花瓶はないか? 見ていられないセンスだなぁ……出来れば、少し高さがある花瓶で、一輪挿し風が良い」

 カサブランカは値段が高かったのか、花は大輪でまだ固いつぼみが二個ほどあるが、一本だけさしてあったのだ。

「あるわ──。備前焼の細長い花瓶が……」
「そうか──貸してくれ」

 右京が真顔で動き出す。

「あ、葉月。俺に考えがある──。俺にやらせてくれ」

 あれだけ憮然としていた達也だが、何か職場の事になると、いつも通り、機敏に対応してくれる男になっている。

「なにするんだよ。達也──」

 ニヤニヤとした顔で動き出した達也に隼人も訝しそうだったが、葉月は任せる事に。

「ちょっとした、お仕置き」
『お仕置き?』

 隼人と葉月は一緒に首を傾げた。
 そして──達也が大佐室を出て行く。
 葉月はその間に、キッチンに置きっぱなしにしている花瓶数個を従兄と眺める。

「おお? 良い花瓶が揃っているじゃないか。使わないなんて勿体ない。まぁ……お前がこういう気遣いをしないと思ってはいたが? どうせ使うならなぁ?」
「鎌倉の叔母様と叔父様がよくくれて、これだけあったんだけど」
「なるほど。流石、親父とおふくろ」

 茶道や華道と言った日本文化にはたしなみ深い両親が右京の親だ。
 両親が姪っ子に持たせた花瓶の数々に、右京は満足そうにして、葉月が『ある』と言った備前焼の花瓶と、ベネチアガラス風の若緑色の花瓶を手に取った。

 そこへ達也が戻ってくる。
 なんと──!? テッドや柏木と言った大佐室に良く出入りしている後輩と、経理班の洋子配下の女の子を数名……大佐室に連れてきたので、葉月はたじろいだ。

「今から、御園少佐が、お花を活け変えるそうだ。勉強させてもらえ」

 達也はそういうと、後輩数名を、花瓶をもっている右京の前に差し出したのだ。

「なんだ……海野。そこまでされると、俺の手が震えてしまうだろ?」

 若い子達に囲まれた右京は苦笑いをこぼしていたが……。

「お願いします。御園少佐──これから大佐室には『お花を』と思っていたので、教えてください」

 元気良く意欲を見せたのは、テッド。

「えっと……この柏木は、実家で母親が華道をしております。それに彼、お菓子の並べ方とかセンスが良いので、フランク中佐もそのセンスかっているんですよ!」

 その上、テッドは、いつもは控えめである相棒の柏木を、スッと前に出したのだ。

「いえ……僕は……華道は母がしているだけで……」
「お! いいね。俺は美意識高い奴は大好きだよ。じゃぁ……柏木君。君ならどの花瓶を選ぶかな?」

 右京はテッドから柏木のセンスを耳にして、その気になってしまったようだ。

「……色的には今の季節、緑色も素敵だと思うのですが……えっと、ちょっとボリュームが足りないような……。けど、備前焼では、寂しいような……」

 ちょっと優柔不断とも言える柏木の迷いある発言だったが、右京はにっこり微笑んでいるだけ。

「そうだな──。これ以上豪勢に活けるには、ちょっと出費がかさむな。勿論──この緑の花瓶は非常に爽やかではあるだろう最高の素材だが……。さて……それでは、ちょっとの付け足しをカフェに探しに行こうかな? グリーン葉でいいだろう……」
『はい!』

 元気良く返事をしたのは、柏木とテッドの男の子組。
 女の子達は、美意識に過敏で、事細かい右京のセンスに唖然としていた。

「ああ、大佐嬢。これはお兄さんの勝手な講習なので、今回の生け花代は、俺にお任せ!」
「……そう? 宜しく。兄様」

 葉月もなんだか、急に張り切っている従兄をしらけた目で送り出した。
 達也までカフェへ補助花を後輩達と一緒に探しに出かけていった。

「なるほどな……なまじっかな気持ちで大佐室に花を生けるなって……達也は女の子達に解らせようとしたんだろうな? そして、やる気がある男の子達との違いもね……」

 隼人が横でクスクスと笑い始めていた。

「ほんと……俺も腹立っていたんだ。こんな時だけ、大佐嬢に気前よくてねぇ……。嫌だ、嫌だ、女の下心──。お花をちょいと活けたら振り向くお兄さんだと思っていたのかな?」
「そこまで言わなくても──」
「あはは。葉月は同じ女の子だから、俺よりかは彼女等の心理解ってあげられるのかな? 確かに可愛らしいアピールだけど? でも、俺はご免だから」
「あなたらしいわね──」

 葉月はフッとフランスにいた時の素っ気ない隼人を思い出して、目を細めつつ溜め息をついた。

「でも──俺のじゃじゃ馬さんは、そういう事とっても疎いので、俺は爽やかだったね〜」
「過去形にしないでよ」

 葉月がムスッとすると、隼人がにっこりと微笑んだ。

「思ったより元気みたいで良かった。昨夜は眠れた?」
「……」

 その顔は、いつも葉月を見守ってくれている優しい笑顔だった。
 その笑顔が、昨日からとても遠い。
 側にあって当たり前だった彼のその笑顔が……とても新鮮で、得難い物に思え、葉月はもう少しで涙ぐみそうになった。

「でも……あなたとこうして話せるから、私も安心した」
「まぁ……今まで通りではないけど、俺だって決定的な結果を出したつもりもないし、出し難いからなー」

 とぼけた口調の隼人に、葉月は笑いつつホッとする。
 だけど──葉月の心は忘れない。
 昨夜、去っていく時の彼の苦悩の顔。
 今の笑顔ととぼけた余裕ある口調の裏でも、きっと……我慢している所もあって当然なのだと、安心はしない。

「本当に、官舎に行っても良いの?」
「勿論。昨夜は達也と一緒に夕飯作って食べたんだぜ」
「へぇ……」

 そこで、『義兄』について、二人が真剣に何かを語った事は間違いない。
 どんな話をしたのだろう? 男同士で──。

「達也、俺の作った飯、大絶賛。暫くは達也が押しかけていると思うけどな……お前も、食べるものがなかったら、いつでもおいで」
「そうしようかな?」

 葉月も、それなりの余裕でサラッと呟く。
 すると、隼人が嬉しそうに微笑んでいた。

「葉月なら……いつでも歓迎だよ。お前が好きな物作って待っているよ」
「……」

 葉月はまた、涙を堪える。
 泣いちゃいけない──。だって、隼人だって泣きたいはずなのに彼は笑顔だ。
 そんな彼に対して、泣いていては……隼さんの翼には追いつけないのだ。

「去年は、私が官舎を訪ねる事、鬱陶しそうだったくせに!」

 口から出たのは涙を堪える為の、減らず口。

「あの時と今は違うだろ? 公認なんだし、変な想像する奴が悪いんだ。同僚だろ、同僚……ま、恋人としてのご想像は公認なんだからご勝手に、って感じだ」

 『同僚・同僚』という言葉が出る所が……もう、以前の仲のままであっても、もう違うのだと葉月はうなだれそうになり、堪える。

「そう? じゃぁ、気にせずに伺わせてもらいます」

 そこも素っ気なく葉月は気強く答えるだけ──。

「ああ、どうぞ、どうぞ」
「やっぱり、隼人さんの料理は最高だもの。達也に取られたなんてショックだわ」
「あはは!」

 葉月の精一杯の『平静』。
 隼人が笑っている。
 葉月も笑っていた。

 この向こうにきっと──『私たちの答え』が必ずある。

 葉月はそう信じる事にした。
 自由になった自分を無駄にはしない──。
 隼人の為にも……もう、葉月は『一人で立つ』事をしなくてはいけないのだ。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「これで良いだろう──」

 応接テーブルでは、カフェから帰ってきた右京と達也と後輩一行が、今朝方のカサブランカを活け直している所。

 備前焼の細長い花瓶に、優雅にしとやかな雰囲気にカサブランカが際だっていた。

「わ……本当だ。雰囲気全然違う!」

 一緒に覗いていた隼人も大絶賛のようだ。
 葉月は、もうすぐ訓練に出る為に、無視するように朝の事務作業に取り組んで我関せずの態度。

「ついでに──これもどうかな?」

 そんな事務作業をしている葉月の目の前には、右京が却下した女の子が持ち寄ってきたピンク色の花瓶が置かれたので、葉月はフッと顔を上げる。
 そこには、白い薔薇が数個だけが、丸くこぢんまりと活けられ、愛らしくも爽やかな変身を遂げていた。

 『流石、お兄ちゃま』と、葉月はそっと従兄に微笑んだ。

「可愛らしいわね」
「だが……お前にピンクは似合わないなぁ……」
「兄様は昔から、私を青色に例えるものね──。でも、女性らしくて素敵だわ」

 葉月は丸いフォルムの愛らしい花瓶を手にとって微笑む。
 女性がピンク色を好む事、それを好んだ『彼女』がどの子であるか解らないが、葉月は右京に却下されても『女性らしい』と締めくくろうとした。

「お兄様は、妹様である大佐にはブルー……なんですね?」
「水色も似合いそうです」
「お! 柏木君──君は本当に合格! まさにその通り♪」

 メモまでとるテッドと、鋭いセンスを見せた柏木に、右京はニコニコだった。

「今度、涼しげな花瓶も探しておきます」

 柏木もすっかり自分が持っているちょっとした才能に自信を持ったようだった。
 横で達也が満足そう──。

「──と、言う事でお花ひとつも奥深い。それが今回の右京先生の言いたい事でした。さぁ……終わり、終わり!」

 満足した達也は、充実感を見せる青年後輩と、なんだか、しなだれる枝のようになった女の子達を、さっさと大佐室から追い出した。

「これで、御園大佐室のお勤めが一筋縄では行かないと、身に沁みただろう!」

 胸を張って意気揚々と席に戻る達也に、右京がクスクスと笑い声をこぼす。

「お騒がせの元になって申し訳ないな」
「いえいえ! 御陰様で、管理官の青年にも彼女等にも良いお勉強になり、大佐室に対しての気構えが向上したり、甘かったと認識したようで」
「可愛らしいが、俺もそうは簡単ではないんで……独身が長くなってなぁ! あはは!」

 葉月は『よく言うわよ』と、独身である従兄が理想が高いなんて理由ではなくて、妙に女性にのらりくらりしている日頃の様子を思い返して呆れたり。

 それでも、大人のお兄ちゃまは、彼女たちの愛らしい意思表示には、それとなく気が付いていたようだ。

「さて──俺はそろそろ甲板にいかないと──」

 隼人がリュックを手にして立ち上がる。
 メンテ員は、パイロットより先に甲板で機体の整備チェックをしなくてはならない。

「気をつけてな!」

 右京に笑顔で見送られて、隼人も笑顔で大佐室を出て行った。

「私も……そろそろ……」

 葉月も書類をまとめて、補佐一同に回す動きへと移る。
 その時、達也と視線が合った。

「……お前、集中しろよ? 三回転まで行ったんだから……」
「大きなお世話。そっちこそ、テッド達の招待客エスコート研修、ばっちり決めてよね」
「なんだよ、心配しているのに──」
「怒っているくせに」
「解っているなら、ちゃんとしろよ!」

 ツンとしている葉月の平坦な様子に、達也は鼻にしわを寄せて歯をきしませるように悔しがっている。
 葉月はフッと微笑んだ。
 そんな葉月を達也は不思議そうに見つめ……大佐室を出て事務室へと向かう葉月の背を静かに見守っている。
 右京は聞いていない振りなのか、応接ソファーにて、楽譜に集中しているだけだった。

『勿論だわ──』

──『夢に逃げないで、現実にある私を見つけてくれたあなたと……本当の私になって……飛ぶわ』──

 あの夕暮れ潮騒、いわし雲の中で誓った言葉。
 葉月は、もう一度、胸に刻む。

 まだ──自分は、飛べないウサギ。
 本当の自分にはなっていない。
 サナギからかえりきれない半端な蝶。

 それを呪文のように唱え、彼の声で誓いを思い出し……葉月はしっかりと前を見つめ始めていた──。

 まだ暑い……小笠原の初秋が過ぎていく日々。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 今日も白いシャツの裾を出し、裸足で過ごしている。
 口の端に煙草をくわえ、部屋の中は自分の汗と、煙草の匂いで充満していた。
 しかし、つい最近と違う事は、机に向かって、無心にとある事に取り組んでいる事だ。

 ノートパソコンのキーボードを打ち、数字ばかりの書類とにらめっこ。
 爽やかに入ってくる風は、心なしか涼しくなってきたように思えていたが、机に向かって入ってくる日差しは強い。
 手元にあるアイスコーヒーを片手で持って、口に運んだ。

──コンコン──

 一日に何度か鳴るノックの音。

「なんだ……構わないぞ」

 後ろにあるドアに振り向かず、手は休めずに純一は画面に集中。

「失礼致します」

 背中で聞き分けた声は、金髪の弟分──ジュールのようだ。

「どうした?」
「急にお忙しそうですね……」
「ヴァイオリンの購入をしようと思って探している」
「……これまた、いきなりどうして……?」
「ストラディバリでもなく、グァルネリでもない──『アマティ』だ」
「……すごい物を探していますねぇ……」

 ジュールの困ったような声。
 純一が何をしているか解ったようだった。

「各国のオークションと業者を探している。問い合わせのメールをあちこちに送信してもらうよう、イタリアの商社部下を手配中だ。ああ、お前のイギリスにいる義兄にも頼んでいるのだが、情報がない。値は問わないのだが──資金繰りも今していたところだ」
「まぁ……あなたの儲けなら、ヴァイオリン名器ひとつぐらいどうってことないでしょうが……」

 ジュールの呆れた溜め息。

「まったく、急に忙しそうに何をしているのかと思えば──。私という商社マンを無視して探すなんてね」
「手伝ってくれるのか?」

 純一は音楽楽器商社も営んでいるが、ジュールの商事経営力は、かなりの力なのだ。
 昔、純一はその商売を使って、右京には『グァルネリ』を贈った。
 右京はプロ演奏者ではない自分には、勿体ない品だと畏れていたが、大事に取っておいてくれているようだった。
 残念だが……義妹である葉月には、そこまでの名器は贈った事がない。
 彼女がヴァイオリンを遠ざける意志を見せていたから……流石の純一も、そんな気構えの演奏者にそこまでの品を用意しようとは思わなかったのだ。
 それでも──そのプロではない葉月が所有するには、贅沢な楽器を右京と一緒に贈ってはいる。

 それを……ここに来て純一は『義妹への名器探し』を始めていたのだ。
 ジュールというツテを頼らずに、一人きりで……。

「アマティですね──。なるほど? お嬢様の音の性質に合いそうですね。透明感がある音がアマティの特徴ですから……」
「手伝ってくれるなら……情報を分けてくれ」
「──情報はおいくらで?」

 ジュールのクスクス笑いに、純一がやっと振り返った。

「手厳しい経営者だなぁ──」
「冗談ですよ。解りました──エドと手分けして探します。こちらへの輸送を含めて、いつまでに?」
「小笠原の式典が終わるまでだ……」
「……なるほど? 自信満々ですね……」
「そうではない。それとは関係なくどうしても欲しいのでね」
「──そうですか」

 ジュールのにっこりに、純一もにっこりと微笑み返し、すぐにまた机へと向き直る。
 そんなジュールの嫌みなニッコリも気付いているのか、気付いていないのか……? あっさり流されたのでジュールはむくれた。

「お前が協力してくれるなら、強い味方だ。早く言えば良かった」
「……。ほんとにあなたは、ちょっと遅い時があるんですよね……」
「なんだと? これでも反省はしているんだぞ」
「反省ねぇ……」

 むっすりとしたままのジュールのねっとりとした反応に、純一が再度、画面から目を離し振り返る。

「……そう言えば、何か用か?」
「……」

 ジュールはまるで拗ねたかのように黙っていた。
 純一も首を傾げる。

「私もちょいと気になって、フラリと『母島散歩』をしてみたんですよね……」
「ほぅ──。何か良い情報でもあったのか?」
「ええ、ええ……。意外な事を見てしまいました──」
「? なんだ。ボウズに何かあったのか」

 途端に純一の表情が固くなる。
 ジュールは、ちょっと彼らしくないが、ここ最近の『良き変化』と見てそこは流した。
 流せないのは、今からの彼の反応である。

「ご子息じゃなくて義妹様ですよ」
「──お前らしいな、まずは葉月優先か?」
「失礼な。真一様の事だっていつも気にかけていますよ?」
「葉月の事は、今はいい」

 今は逢う事より、名器探しとばかりに純一はまた机に向かってしまう。
 何があっても、今は義妹に自分を垣間見せるつもりはないようだ。

 それはジュールも解っている。

『ボウズに──託した』

 そういって、先日の母島散歩から一人で帰ってきたのだから──。
 小笠原で、バイオレット色の瞳をしている『彼』と会話した事も、そして、小笠原陣営に『俺は来ている』と姿を見せた事も、ボスは報告してくれた。
 ジュールはそれについては、文句は言わなかった。
 それぐらいで、あちらの手に引っかかるようなヘマはしない自信もあるし、その程度で黒猫は動揺しない物だ。
 それは良かったのだが、彼が息子経由で『決心』した事も解っていたので、今はその時期でもないという彼の言い分も理解している。

 ──が。

「お嬢様と『彼』──数日前から、別居しておりますよ」
「!」

 一時、沈黙が流れた──。

 そう、純一は振り向きもしなかったし、驚く素振りもしなかったが……一生懸命打ち込んでいたキーボードの手先が、一瞬止まったのだ。
 それをジュールは少しは驚いたと取った。
 だが──彼の手先はまたパチパチと動き始める。

「──ジュール、お前はどちらだと思う?」

 背を向けている彼の質問。
 その意味も多くは尋ねずともジュールには分かる。

「……ボスこそ。あなたはどちらだと思うのですか? 彼の『心情』──。手に余って放った、もしくは──? 真の男として、お嬢様を自由にした?」
「……『男』であると思うね」

 キーボードの音は鳴り続く。
 彼の表情は今は伺えない。

「私も……今までの経過で行けば、そうだと思います。が──なかなかですね……」

 彼はまた無言になる。

「……ボス。また、遠慮なさるのですか?」
「いいや? 俺もな……近頃、昔を妙に思い出す。『あの子』が真に見えて仕方がない」
「……でしたら、彼が言いたい事、あなたにはもう、通じていますね」
「ああ、あの子が“マコ”並みの精神ならね──」

 それだったら良いと、ジュールは満足してそこを去ろうとした。
 彼の決心は揺るがない物だと、解ればそれで良かったから……。
 また、同じ繰り返しをしないように釘を刺すまでもなかったようだ。しかし──。

「だがね──。俺の決意とやらの意味を『その子』は解っているのかね?」
「まぁ、格好良い事は口でいくらでも言えますし? 行動もあれぐらいなら……『きっぱり別れた』という様子もありませんしね。彼としても彼女を手放すつもりはないけど、彼女の為にと言うつもりでしょうが? 格好つけだとは私は思いませんね。自分勝手な人間ばかりですから、世の中。その中でもなかなかの物だと思いますよ?」

 また純一が黙り込む。
 だが、彼の背中はまだ何か言い足りないようなので、ジュールはそのまま待ってみる。

「本当にいなくなっても大丈夫なのかね?」
「さぁ──。それは彼もそうなってみないと……彼も私たちも解りかねる事でしょう」
「……そろそろ、『ご挨拶』が必要かもな……」
「……作戦1。ついに実行ですか?」

「ああ」

 一時、間を置いて純一がハッキリ答えた。
 ジュールはニヤリと微笑み、ちょっとした武者震いが起きたぐらいだ。

「数日後、空母艦での訓練中だ」
「かしこまりました。訓練時間に合わせての、侵入経路と彼との接触法をエドと下準備始めます──」
「騒ぎにならない手はずで、頼んだぞ──」
「勿論。では──」

 ジュールが扉を閉めるその時も、彼は背を向けたまま指先は続けて動いていた。

「やっと忙しくなりそうだ。まずはアマティ……なんとかしないと」

 ジュールはにやけてくる頬を押さえきれない。
 何故かって……やっと本当に『お嬢様の男』を試す時がやって来たのだから。

『ここで本物かどうか……はっきりするだろう』

 ジュールの予想は……『そこまで追いつめられても、良い男でいられるか?』であった。

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