・・Ocean Bright・・ ◆黒猫が往く◆

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7.不格好な蝶

 息子との初めての語らいをすませ、夕暮れの帰り道を悠々と歩いていた黒猫ボス。
 そこに宿敵? ともいえるライバルの側近が現れた。
 彼は、純一の昔の後輩であるが、それは軍人として軍に在籍していた時の昔の事──。今は顔を合わせれば、『表の軍人』と『闇世界の一介のボス』として本来なら接点があってはならない、敵対している関係だ。

 そんな彼が、たった一人で、分かりきった様に現れた。
 彼は後輩といえども、純一も一目置く『抜け目ない男』だ。
 今はそんな敵対する素振りは見せない後輩だが──油断は出来ず、純一はさりげなく、海際に身体を寄せて警戒は怠らない。

「困りますよ。空母鑑からひょいひょい侵入されちゃ──」
「入り易すぎて俺は首を傾げたが、お前の仕業か──」
「フフ──。先輩こそ、解っていたんでしょ? 入り口は通りやすく、チェックは厳しく。敵は懐に入れて、確実に把握する。しかも連絡船が着岸する桟橋に取り付けていた小型監視カメラ、見つけたでしょ? そこで自信満々にグッドサインなんて出しちゃぁいけませんよ」
「そんな事だろうと思った」
「あんまりそちらも余裕なので、ロイがカンカンで」

 リッキーが高らかに笑った。

「それで? お前一人で俺を捕まえに来たのか?」
「いえいえ……まぁ、そちらも宣戦布告のつもりのようですが、こちらも『入りやすく』はしていますけどね。警備員も試しましたね? あんな目の前で『俺はまだ日本にいる、小笠原に来ている。ボウズと話している』とわざと解るようにあんなところで──。すぐに報告が来ましたよ。不審な男性が御園子息と話しているとね──」
「なるほど? 行き届いているな」
「まぁ……そういう事で金髪の坊やにも宜しく。楽しみにしていると──」
「やっぱりそうなるのか?」
「レイをさらえますかねぇ?」
「別にさらうつもりはない」
「……」

 そこで、いつもの笑顔で楽しそうに微笑んでいたリッキーの表情が、静かに……硬くなる。

「こちらとしても大切なポジションにいる大佐なので、安易に渡すつもりはありませんよ──。それがロイの伝言です」
「──」
「迷われていますね? 少しはその気がありますか?」

 そしてリッキーは、また元のにこやかな笑顔戻り、淡々としている『先輩』に微笑んでいた。

「お前とロイには……二度ばかり、高報酬の依頼であったターゲットを先に取られた事はあったが?」
「そうですね……。今まではこんな風に一般的に暮らしている『女性』を取り合うなんて事しませんでしたからね──」

 そう、純一が裏で請け負った依頼である裏の男をターゲットにしていると、時には軍隊が狙いを定めている犯罪者であった時もあり、そこで何度か衝突した事がある。
 ロイもなかなかの男だ。
 そんな時、リッキーとジュールが鉢合って、あのジュールがあっさりリッキーにやられるほどだ。
 そんな『ライバル』とも言える彼等と『義妹』を取り合うなんて……それは、今に始まった話ではないが、今までは『論争』であり口でのすれ違いだけだった。
 確かにロイは、小笠原内に純一が近づかないように警戒はしていたが、どこか見て見ぬふりをしている時もあったような気もする。
 これは純一の独断であって、ロイは口先では『怒り』ばかり現してはいたが?
 それが──今回こそ、その義妹を巡って『行動的に決着をつけようじゃないか?』と、ロイが言い出しているのだ。

 さて──? と、純一は一度首を傾げる。
 純一の『決意』は、もう……動きだし、息子の手にゆだねられたばかり。
 こんな勝負、受けようが受けまいが、同じ事なのだが──。

「俺は俺なりにやるだけだと伝えてくれ」
「解りましたよ。まぁ? 先輩が本気かどうかはわかりませんが? 今回のロイは本気でかかってきますよ」
「だろうな──いつもの事だ」
「あなた達の論争も、それで決着がつくでしょう──」
「……」
「では、それだけです。ああ……歩きなら、途中までおくりますよ?」
「断る。それにお前は、そうやって笑っている時は怪しいからな──」
「あはは! 何もしませんよ? ここであなたを捕まえたら、金髪の坊やに恨まれるでしょ? 俺としても、徹底的にあの坊やを打ち負かしたいのでね──」
「まぁ……そうだろうがねぇ?」

 そこで純一もクスリと笑い声をこぼした。

「今日は、シンとのお話だけで? レイは……」
「まさか、本部には近づけるわけないだろう? こんな一業者が」

 いかがわしい業者制服の胸元を、純一は引っぱり、とぼける。
 本当なら通気口なりなんなり近づく手だては思いつかない訳でもないが……それよりも今回の純一は、『息子も共に』という決断をした。
 それには息子と話す必要もあった──その過程で、今まで黙秘してきた事も、話さねばならぬ覚悟も……どう話すかも、ぐうたらと一人で部屋に籠もっていたあの期間に考え抜いていたのだ。
 その為、今までなら有無を言わさず、義妹に近づいてきたのだが、今回は間に息子をと考えた。
 息子を無視して今回の事は強行できない──。それが純一が出した答え。
 息子に非難される事も覚悟でやって来たが……予想以上に、息子は叔母とクソ親父の関係を抵抗無くすんなりと自然に受け止めていたようだ。
 それが今回の『散歩』の目的であって……義妹に近づく事は念頭にはなかったのだ。 

「残念でしたね──。ですが、レイはつつがなく元気にやっておりますよ。『幸せそうに』ね──」

 何かを煽るようなリッキーのニヤリ顔。
 しかし、純一の表情は崩れなかった。

「それなら、良いがね──」
「そうですか──。まぁ……俺は、先輩とレイは会った方が良いと思っていますよ? なんなら……『手を貸します』けど?」
「だから、断る」
「そうですか──。では、これで──」

 そこでにこやかな表情は崩さないリッキーが、車の窓を閉めようとしていた時──。

「リッキー、ロイに頼みたい事があるんだが──」
「? 珍しいですね……。なんでも一人でやろうとする先輩が……」

 純一のいつにない躊躇ったような顔に、リッキーは眉をひそめる。

「……ボウズが色々と気にしている。かなり追求された」
「そうですか……仕方がないでしょう……。いつかは判ってしまうのも無理はありません。真実は真実ですから──。子として父親から聞きたいというのも当然の衝動でしょうから──」
「俺からは言えなかった──」
「……言えないでしょう……当然。それはロイも理解していますよ」
「だから……もしかするとロイの方に、ボウズの覚悟が出来たら追求が行くかもしれない。ロイも悩むだろうけど、俺は告げてくれても構わない覚悟をしたと言っておいてくれ」
「──よろしいのですか? それで……」
「皐月の事を許してくれると……俺はせがれを信じる事にした」
「! そ、そうですか……分かりました。ロイにはそう言っておきますよ──」

 珍しく狼狽えた口振りのリッキー。
 今までにない純一の素振りに驚いたようだった。

「じゃぁな……」
「ええ……」

 帽子のつばで目元を隠すようにかぶせながら、純一が一人歩き出す。
 リッキーはその背を暫し見つめていた。
 そして……運転席を降りてしまった。

「ジュン先輩!」

 リッキーの叫び声に、純一がチラリと肩越しに振り返り、立ち止まった。

「先輩……変わりましたね」

 リッキーのその顔は、なんだか純一を案じるような……そして、不安そうな彼らしくない複雑な表情を刻んでいた。

「……リッキー。俺が変わったというなら……誰のおかげなんだろうな?」
「……誰のおかげ? レイですか?」
「……きっと、澤村とかいう男が俺を動かしているに違いない。そうだろう? 義妹もせがれも、俺は泣かせ続けても、待たせているだけだった。なんの変化もなかったではないか? 俺はその男は、なかなかだと認めているがね……。間違いなく、葉月の事も息子の事も任せられるだろう……」
「──先輩?」

 義妹が『夫に』と選んだ男性を、彼が認めている。
 では? 彼はそれを見守るつもりなのだろうか?
 だが──リッキーは次には違う彼の真意に気が付いた。

「やはり……!」
「……」

 リッキーがそう気が付いた時には、もう、純一は歩き出していた。

「間違いない男と認めているのに……? 先輩はそれが故に『変わった』?」

 その先の事は……やはりリッキーにも驚愕だった。
 それは『解決・決着』という論理の中では『そうなればいい。そうすればいいじゃないか』と思ってきたリッキーであっても、急に考えさせられた。

「先輩は……」

 『本気の決意』を固めたのだ──。

 皮肉な事に──澤村隼人という男が築き上げてきた真摯の愛に、目覚めさせられて──。
 その為に、息子と向き合い、さらに『真実』を知られる事も覚悟した。
 彼が……闇という世界から少しだけ顔を出し始めている。

 十何年もの沈黙を破って──。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「ただいま──」

 溜め息をつきつつの葉月が、空軍ミーティングから本部へ帰ってきた。

「お帰り、お嬢! ん〜? なんだか浮かない顔だね?」
「ええ……ちょっとね……」

 葉月はさらに深い溜め息を落とした。

 式典まで、あと数週間という時期に来ていた。

『今日は皆に大事な知らせがある──』

 先ほどのミーティングでの事だった。
 デイブは教壇に立つなり、細川と示し合わせたかのように頷きあい、皆に真顔で向かっていたのだ。

『今回のショーを最後に俺はこのチームを去る事になった』
『──キャプテン!?』

 チーム中がどよめいた。
 そして、デイブの隣に寄り添っていた葉月も驚きを隠せなかった。
 何故なら──葉月もその『報告をする』という話をデイブ自身から聞かされていなかったからだ。
 どうやら、細川とデイブの間だけで、『メンバーに報告する時期』と言うのを話し合っていたようだった。

(もう──私も、ただのメンバーなんだわ)

 そう思えた瞬間だった。
 一番の先輩は、自分で決めて、自分で進み始めている。
 もう……葉月と一緒に前を向いて進んではいない。
 違う方向へと向かっている。

 デイブは……去る詳細を皆に分かりやすく説明し、最後に……。

『嬢が誰よりも早く昇進するだろうキャリアは皆も認めていたはずだ。決して……彼女の昇進の為に俺が去るとは思わないで欲しい。嬢を責めた者とは今までは偽りの仲間だったとして、俺は口は聞かない。分かったな──。お前達の今後の前進を考えて決めた。それが俺の唯一のチーム引退の理由だ』

 デイブのその言葉に、葉月は目頭が熱くなるのを感じた。
 そして、メンバー達も戸惑いながらも頷いてくれていた。
 だが──ミーティング後、いつものちょっとしたティータイムはこの日は行われず、皆、沈んだ様子で……誰も葉月には声をかけずに班室に戻ってしまったのだ。

 覚悟していた事だ。
 皆がデイブが言っていた事を理解したとしても、皆が頼っているのは葉月ではない……やはり、デイブなのだから──。
 葉月を責める気持ちはないとしても、これから『この小娘』と『正体も知り合えない新キャプテン』が赴任し、その二人を頼るなんて不安で仕方がないだろう。

 そんなミーティングだった故に、葉月は溜め息をついて帰ってきたのだ。

 さらに──もう一つ。

 近頃……隼人の様子がおかしいのだ。
 なにが変化というと、口では表せない。

 彼は仕事も機敏にこなしているし、メンテチームの始動は順調に滑り始めている。
 先輩チームのサポートも数少なくなり、サワムラメンテチームは単独行動になっても問題なく動いているし、担当も滞りなく決まったようで、日に日にまとまり始めていた。
 担当を決める時にも『きっと一悶着ある』と葉月は佐藤と共に予想していた。
 聞いた話では、葉月とデイブ……それと同じ日本人である平井の担当希望が集中していて、『お試し期間ローテーション』の間に『希望変更』を願い出るメンバーは一人もいなかったそうなのだ。
 特にエディと三宅は、葉月の担当を声を高らかにして主張していたそうではないか?
 なのに──。

『ああ、皆──納得したよ。別に確定したポジションではない事は伝えたから。いつでも変更あるという心づもりで、虎視眈々と狙う者もいれば、今回得たポジションを死守する者もいるだろうけどね──』

 担当を発表したという隼人の……その時の淡々とした様子。

『そう……良かったわね……』
『いつまでも“理想”という物は捨てては欲しくないが、“理想”より先にあるのは目の前の“現実”だ。それがこなせなくて、どうやって理想を手に入れるんだ? デイビットもその意見に賛成で、俺と一緒にそう説いたら、メンバーからは文句ひとつでなかったよ。その後もご覧の通り、甲板で上手く立ち回っているだろう? 皆……一生懸命だ』

 その時の彼も……なんだか、葉月を厳しく見下ろすように淡々としていたのだ。
 そう……いつもの余裕ある穏和な笑顔でなかったのだ。

『──疲れているの?』
『疲れもするさ。式典が終わったらゆっくりしたいね──』

 なんて、溜め息を落とし今度は空軍管理の事務に集中する彼。

 その頃から、なんだか様子が変わったような気がするのだ?

 達也とは大笑いをして、二人で仲むつまじく騒いでいる姿も見る。
 後輩達にもいつもの笑顔と厳しさでバランス良く接している。

 そう、一緒に住んでいる葉月だけが分かる『なんとなく』の様子が気になり始めていた。

 その証拠に、近頃、隼人は『あまりにも疲れているから、一人でゆっくりしたい』という事を言い始め、林側の部屋で眠るようになっていた。
 久しぶりの事だった。
 なのに──。

『ちゃんと、眠れているか?』

 夜中に一度は葉月の部屋を確かめに来る。
 眠ってない葉月を見つけると、隼人はその時はいつもの優しい仕草で、葉月の側に寄って眠るまで側に付き添ってくれる。
 だけど──朝、目覚めると隼人は隣にいないのだ。

(分かっているわ……)

 葉月は額を押さえて、朝日の中うなだれる日々が続いていた。

 彼には仕事がありすぎる。
 彼は、今、葉月とも自分自身と向き合っている。
 彼は、葉月に気遣う余裕なんてない。

 それぐらい……今の忙しさの中、起きている問題について考えると『一人でゆっくり休みたい』という気持ちも当然じゃないか?

 だけど──違うのだ。
 やはり……葉月だけに解る何かが違うのだ。

 そんな事も、本部に帰ってきた葉月の溜め息に含まれていた。

「なんでもないわ? ジョイ……どう? 招待客の宿泊先……割り振り終わった?」
「うん。予約も部屋も確保は出来たよ。後は式典後の『昼食会』だね。仕出しを『玄海』と『Be My Light』に頼んでいるんだ。玄海はOKしてくれたけど、Be My Lightのマスターは迷っているみたい。その日は、この基地のいわゆるカーニバルだろ? アメリカ系隊員達が家族連れで沢山来るだろうから、そこまで手が回らないかもしれないって……」

 ジョイもそこで溜め息だった。
 彼もかなり疲れている様子で、ここのところ、夜の九時以降までは必ず……テッドや柏木といった主力の後輩達と本部に残っている。

「そうね……。Be My Lightは諦めたらどうかしら? ほら……ジョイは和食も洋食もと思っているのかもしれないけど? フォスター隊長が来た時のように、洋風アレンジをしてもらったらどうかしら? 大将は外国人相手も慣れているからきっと良くしてくれるわよ」
「そうだね……そうしようか。そうすれば、メニューの話し合いに着手できるし」
「それともう一つ。ロイ兄様が恒例のご自宅招待の慰労会パーティーをするじゃない?」
「あー。もう、張り切っていたよぉ? 毎年だけどね!」

 そこで、二人は張り切る兄様をお互いに思い浮かべて笑い合った。

「きっと兄様は、外国から来る主要来賓もその夜のパーティーに招待するはずよ。その時は間違いなく洋食だわ」
「美穂姉ちゃんと、ハウスキーパーのおばちゃんの手料理にくわえて、出張シェフを呼び寄せるって言う豪華版だもんな──。そっか! だからランチは和食よりで大丈夫って事だね!」
「うん」
「さっすがお嬢♪ 迷いが吹っ切れたよ! おい! 柏木!」
「はい──」

 そこでジョイは早速動き出していた。
 そして柏木に、仕出しの手配をするようにの指示。 

 葉月もそれを微笑みながら見守りつつ……大佐室に入ろうとしたのだが。

「あら? テッドがいないじゃない?」

 いつもジョイに負けないぐらいの集中力で机に向かっている彼の席が空席だった。
 すると、ジョイが苦笑いをこぼした。

「大佐室かな?」
「え? 今日は皆とお茶をするからいらないと言いつけて出て行ったのよ? 最近、朝は練習で入れてもらっているけど……お昼の中休みは達也が留守の時だけ許していたけど……? 今は──」
「まぁ……入れば解るよ?」

 ジョイのニヤリに葉月は胸騒ぎがして、大佐室に急いで戻る。

 自動ドアを開けた途端だった。

「帰ってきたな! 葉月、ここに座れ!」
「お、お兄ちゃま!?」

 なぜか? そこに鎌倉にいるはずの従兄が、再度来ていたのだ!

「……また、一日早く来ちゃったの?」
「悪いか? 式典まであと少し、あんまりアラが多いから心配になってマーチング指導日を増やしただけだ!」
「……」

 このところ、『予定』を無視して、右京は頻繁に来る。
 週末に帰ったかと思ったら、週明けにはまた来る……とか、二日空けたら、また戻ってくると言った具合だった。
 だが、どうした事か、ロイは『お前、小笠原に来るのが多すぎる』なんて呆れた事はないらしく、くれば二人が仲良くカフェでお茶をしているのを何度か見かけていた。
 その時の二人の目立ちよう。
 丁度良い具合と言えば良いのかは解らないが、葉月の存在感が薄れるほどだ。
 女性達の視線は近頃、本島からやってくる連隊長の仲良き『友人音楽少佐』に釘付けらしい。

『お前の兄ちゃん……ほんっと目立つなぁ……』

 ミーティング後、一息の一杯をパイロットメンバーと取りに来た時も、デイブがそう言った程だ。

『何度見ても、そっくりだよな?』

 フランシス大尉も、後輩のマイケルも、そして……リュウも……遠くにいる右京と葉月を交互に眺めて、毎回、驚いている。

 だけど、右京はそんな同僚と一緒の葉月を見つけても、手振りの挨拶をするだけで、兄貴面でメンバー達に近づく事はなかったので、葉月は胸をなで下ろしていた。

そんな右京が、テッドを従えているかのように、大佐室キッチンにいたので、葉月は悪い予感を走らせた。

「今度はなに! お兄ちゃま!」

 毎度、口うるさい従兄の言い分などは聞く耳持たないつもりで、ミーティングのバインダーを小脇に抱えながら、側近二人が向き合っている席に戻ろうとしたのだが……。
 キッチンにテッドが困ったようにそこにいる。

「なに? 兄様──。うちの大尉がなにか?」

 内輪以外の男性がそこにいたので、葉月は『兄様』と口調を改めた。

「今、海野にも文句を言った所だ! ラングラー君が上手にお茶を入れてくれたが、お前と海野に任せられていたかと思うと、黙っていられなかったんでね!」
「!?」

 そう言われて、葉月は中佐席にいる達也に振り返ると、達也も困ったように葉月から視線を逸らしたのだ。

「よぉし。ラングラー君? 大佐嬢がお帰りだ。お茶を差し上げなさい」
「ちょっと。いくら兄様でも、私の部下を勝手に使わないでよ!」
「なんだと? 『オチビ』──。俺様に大佐面か?」
「──!」

 その目が、小さい葉月を諭す時の、『大人の目』だったので、葉月はおののいた。
 そして……渋々ながら、従兄に言われた通りに大佐席に座った。

 隼人は近頃の素っ気なさで黙々と自分の仕事をこなしていて、介入する気は見せようとしない。
 対して、達也は、落ち着きなく……テッドを心配そうに見守っているのだ。

(お茶入れで何か?)

 そうとしか思えなかった……が……葉月は以前から気になっていた事を従兄が察したと気が付いた。

 それで、テッドが厳かに葉月が好きなロイヤルミルクティーを運んできたのを固唾を呑んで見守る。

「失礼致します──」

 テッドは葉月の右側に来て、達也に教わった通りに静かにカップを葉月の前に差し出した。
 カップの持ち手は、右利きの葉月がすぐに手に取れるよう、右側になっていた。

「違うわ……テッド」

 葉月はそう言って、カップを取ろうとすると──。

「では、こうですね」

『!』

 テッドが『改めた』事を見届けて、右京ですら……そこにいた葉月も隼人も達也も一瞬、驚いた。
 そう──テッドはカップの持ち手を葉月が直す前に、左に直したのだ。

「以前から疑問に思っていたので──」

 テッドはそれだけすると、スッと礼儀正しく退いて、大佐席から離れた。

「ラングラー君。何故? それが『正式だ』と解ったのかな?」
「いえ。大佐と中佐の指示が正しいと思っていましたが……こういう事を教わるようになってから、カフェや外の喫茶店などで色々観察しました」
「それで?」

 右京の大人としての厳しい眼差しにも、テッドは怯んではいない。

「一般的には中佐と大佐の指導通りでした。けど……私が一番注目していたのは『ホプキンス中佐』です。あの方、カフェで連隊長にコーヒーを運んできた時に、持ち手を左側にしていました。すると、連隊長はその持ち手を左手で持ち、スプーンは右手でシュガーを混ぜるように自然に──。その後、ホプキンス中佐を追って、失礼ながらお聞きした所──『それが正式だ』と、ごく一般的に右側だと『無難』。うるさい方は『左側』だと言うだろうと──。なので、きっと御園大佐も海野中佐もご存じだとは思ったのですが、ごく一般で無難である方を選んでいるのだと思いましたけど。御園家の一員であって、あの日本茶道には通じている御園准将のご子息であるお兄様が、お気に召さない事なら、こういう事とだろうと……」

 そのテッドの立派な説明に、葉月も達也も唖然としていたが、隼人だけは笑っていた。

「確かに──横須賀で、お兄さんの事務室で後輩の方が出してくれたのは左側でしたね。俺も、いつ言おうかと思っていたんですが……」

 と、解りきった隼人の笑顔。

「気が付いていたの!?」
「まぁ……元秘書である俺の継母も左で出すからね──」

「……と、言う事だ葉月。もし、この大佐室に俺の親父、フロリダのおじさん、そしてロイ、それに細川のおじさん。ここら辺が来たら、『無難』じゃすまないからしっかり教えておいてくれないとな」
「……」
「なんだ。立派な後輩がいるじゃないか。ラングラー君、君は合格だ」
「ありがとうございます」

 右京に褒められる男も珍しい?
 葉月は憮然としていた。
 そして──指導が奥まで行き届いていないと突きつけられた達也も同じく憮然としていた。

「海野が無難を後輩に教えたのも間違いじゃない」

 その右京の補足に、達也はちょっと気が軽くなったように……でも、右京に言われて反省したのか神妙に右京に頭を下げてしまう始末。

「だが──葉月。お前にはもっと自覚を持って欲しいな」
「それは、それは……失礼致しました」
「茶化さないで、良く聞けよ? 自覚というのは『ただの大佐』ではなくて『御園』という『大佐』としてだ。いいか? お前のこの立派な補佐に後輩達は、お前の名を背負ってお前をたててくれているんだ。『これが御園の下の者がする事、やっぱり御園だ』と彼等が誇れるのはそこなんだから、無難でごく一般も構わないが、うるさ方のおじさん、もしくは『うるさい兄貴達』がそれは認めない事も良く覚えておけよ。御園の名を背負っているのに恥をかくのは彼等だ。見ろ、海野が今、申し訳ない顔をしているが、させたのは『葉月』……お前だ」

「──!」

 従兄が言っている事は正しいだろう。
 御園という一族にずっと属してきた葉月には、幼い頃からとくとくと言われ続けてきた事だ。
 今更否定するつもりはない。

 だけど──今日は、『腹の虫』がぐるっと暴れ始めていた。

──バン!──
『葉月!?』
『大佐!?』

 そこにあったバインダーを、葉月は思いっきり、机にたたきつけていたのだ!
 驚いたのは達也とテッドだけ。
 右京と隼人はまったく息があったように、落ち着いていて葉月を冷ややかに見ているだけ。

「うるさいわね! 『御園・御園』って! それがなんなのよ!!!」

 かんしゃくを起こした葉月を初めて見たのか、テッドが珍しくたじろいでいたのだが……。

「それなら……ただの『大佐』だっていうなら、辞めてしまえ」

 腕を組んで胸を張り、大佐席の前に立ちはだかる厳しい従兄。

「私は! ただの大佐よ!」
「馬鹿者!」
「!」

 右京がこんな風に葉月を叱りつけるのも珍しい事だった。
 だから──葉月は大口は叩いたが、父親に叱られる娘のように、後ろに一歩怯んでしまったのだ。
 なんだか……気のせいか? 従兄も落ち着いてはいるが『腹の虫』の居所が悪いように葉月には感じた。

「間違いなく御園だから、大佐に決まっているだろ!」
「……!」

 葉月が一番言われたくない……でも、自分自身でも『自覚』をしている一番痛い所──『親の七光り』。
 それを右京が真っ直ぐに直接に、突きつけてくる! 逃げ場がないほどに──!

「オチビ。お前はな! この補佐達あっての『大佐』なんだぞ!」
「そんな事、解っているわよ! 私がいつ、彼等をおろそかにしたって言うのよ!」
「お前が努力している事も、それを理解している事も……ああ! “お兄ちゃん”は解っているぞ! けどな! 御園が大前提だって忘れるなと言っているんだ!」
「だから──! そんなの関係ないわよ!」
「御園という大佐が嫌なら……すぐにただの女になっちまえ!」
「──ただの女?」

 葉月は何故、そんな所に辿り着くのかと眉をひそめる。

「お前がここで輝けるのは……補佐達のおかげだ。それを良く……覚えておけ。御園という名を掲げている澤村や海野、さらにジョイにこのラングラー大尉。皆がその為に必死になっているのだからな──」
「だから……それは……解っているって! さっきから……」
「けど……それがなければ、お前はただの女だ。それを願えるか? 願った事もあったのではないか?」
「!」

 葉月はやっと……従兄が何を言っているのか解ってきた!

「……つまり、女になるなら、今すぐ大佐を辞めろって事?」
「その時は、澤村と海野とも捨てるって事だ」
「捨てる?」

 その話に、達也が異様な空気を読みとったのか、慌てるように立ち上がる。

「お兄さん! 待ってくださいよ!? 彼女がそんな事するはずは……」
「……いや、黙っていてくれ。海野──」

 突き刺すように眼差しで牽制されて、達也は納得できないようでも、おとなしく席に座った。
 テッドは、もう、どうしてよいか解らないような内輪話に巻き込まれてしまったという戸惑いで固まっていた。

 なのに……一人だけ、『隼人』だけ、淡々とノートパソコンのキーボードを打ち込みながら……こう言った。

「俺もお兄さんに同感だ。お前がここを捨てるという事は……『ただの女』になる事だ。それを願うなら、俺は止めない。それが……お前がずっと願っていた本当の幸せなら……俺には止められない」
「──!」
「俺が愛しているのは……御園大佐という一個中隊を一緒に守っている女性だから……」

 葉月はショックを受けた!

「あの……失礼した方が良いと思うので……」

 テッドが申し訳なさそうに、大佐室を出て行った。

「あの子なら……口堅いだろう。頭の良い子だ」

 右京は信頼出来る補佐候補である事を、見抜いてこそ……テッドをそこに置いていた様だった。
 テッドが去った扉を、右京は労うように微笑んで見送っていた。

 しかし──葉月の心中はそれどころではない!

「隼人さん──それ、どういう事?」
「お前の為に言っているんだ」

 隼人は葉月の目を見てくれなかった。
 近頃もこういう彼の仕草を葉月は良く感じていた。
 つい先日までのような……『葉月が眩しくて、見ていられない』という照れ隠しの逸らしではない。
 『今のお前は見ていたくない』というまるで嫌悪を示したような眼差しだったのだ。

「葉月──もう、嘘はつかなくていいんだよ」

 やっと隼人が葉月を席から見上げた。
 視線が合えば、彼は本当に葉月を慈しむように見つめてくれる、微笑んでもくれる──。
 彼の『愛』は色あせてなんかいない……そう確信させる眼差しは感じるのに……どうして!?

「……私は偽っているって言うの?」

 隼人に問いかけたのに、彼が何か躊躇っている間に、右京が口を挟んでくる。

「いや? オチビ。お前は偽ってはいないが……捨て切れていない。中途半端も良い所だ。いいか? お前と澤村はまだ……なにも『始まっちゃいないんだ』。お前はただ……脱げきれないサナギの殻を半分着たまま、不格好に片方の翼で飛ぼうとしている蝶みたいなもんだ。澤村が願っているのは、サナギから綺麗に翼を広げて美しく飛ぶ姿なんだよ!」
「……始まってもいない? 偽ってもいない? 私は不格好な片翼の蝶?」
「あっちも嘘じゃない、こっちも嘘じゃない。それも真実だろうが……お前も解っているのだろう? 選べるのはひとつ。共にいられるのはひとつだ──。その上で『兄貴』にも会いたいのなら……もう、ただの女になれと言っている──。ただし、その時は『全て』を捨ててもらう……今のお前が苦労して築き上げた地位も仲間もだ──」
「だから──! 義兄様には会わないって何度も隼人さんにも! お兄ちゃまにも言ったでしょ!」

 そう──先日、従兄が初めてマーチング指導にやって来た次の晩、約束通りに二人きりで『玄海』で食事をした。

『私、本気なの』
『隼人さんと一緒にいたいの』
『共にある愛はひとつだって……ある女性が言っていたの』
『義兄様とは夢の時間で、現実ではなかったのよ……』

 そう語る葉月に対して、右京は無言で頷いて耳を傾けてくれただけだった。

『だから──私、もう、義兄様には絶対に会わない!』

 本当は……会いたいという本心に、従兄によって気付かされたばかりだったのに……。
 葉月はそう言い切っていた。

『私──隼人さんと一緒に前に行きたいの!』

 それにも従兄は無言でうなずき、冷酒をチビリ、チビリと味わっているだけで、今日のような説教もしてこなかった。
 説教はなかったが──。

『まぁ……そう言い張るなら、お前の思うとおりにしたらいい。だか……そのまま突き通せるもんかね?』
『……?』

 従兄の呆れたような溜め息──。

『いや……もう少ししたら、お前も身をもって感じるだろうけどな。その時も、そう言い張りな』
『……??』

 しかし……従兄の予言のような呟きは当たり始めていた?

 葉月が『もう振り向かない。このまま突き進む』と言い張れば、言い張るほど……隼人が遠のいているような気がするのだ。
 しかも──今日、初めて……突き放された!

「俺──佐藤大佐と約束があるんで……」

 そんな彼がスッと席を立ってしまった。

「待って──!」
「勤務中だから──。後で……」
「!」

 振り向かない彼が……背中だけ見せてそう呟いただけ。
 そのまま出て行ってしまった──。

「……ええっと……?」

 達也は、今まで蚊帳の外だったのに──何の話か解っているかの様だった。
 解っているけど、この従兄を挟んだやりとりを目の当たりにして……茫然と席に座りこんでしまったのだ。

「海野──話がある」
「あ、はい──」

 いつになく険しい従兄の様子につられるように……達也は大佐室から右京に連れ出されてしまった……。
 きっと……蚊帳の外だった達也にまで……義兄の正体を告げるつもりなのだと、葉月には解った。
 あんなに……義兄との事は、隼人にもやっと告げられた事なのに……。
 第三者である従兄の口から知られて行く──。
 以前なら、そんな事をされるのなら、従兄の口を必死に止めていたはずなのに……。
 葉月はそのまま力無く大佐席に、座りこむ。
 そんな事はどうでも良くなっていた。

 これで──葉月の想いは……秘密の気持ちは徐々に日の目をあてられ、白日にさらされてゆく──。

 そして、裸にされてゆく──。
 もうがっちりと着ていた鎧は何処も自分を守ってはくれない。

 隼人は……それをしたかったのだろうか?

──『裸では嘘はつけない。誰も騙せない』──

 冷め始めているミルクティーを葉月は見下ろした。
 そこで……そう言って微笑んでいる男性は……黒髪の男性。
 だけど──顔は判らなかった。

 厳つい義兄でもなく、優しい恋人でもなかった。

 だけど──そこで誰かが微笑んでいた。

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