寮の門は鉄格子で高い。
だが、門限までは閉まってはいるが、鍵は開いている。
夏目が事務室で、部下である他の管理官と共に門に取り付けているカメラで監視しているし、外からは呼び出しインターホンで呼び出す仕組み。
押さずに入ろうとすると、監視している管理官がまず確認に来る。
父は敷地内で現れた。
この入りやすそうな門は侵入には選ばなかった。
でも、夏目と対面する事には恐れなかったようだ。
そんないくつかのカメラがある門を、父が平気で開けた。
真一は……カメラの前で緊張。
きっと夏目が見ていると思ったのだ。
「そこでいいか……」
「でも、警備口が見えるし……」
「避けると余計に怪しまれる──」
父はそう言うと、スッと目の前の車道を渡り、向こうにある『防波堤』まで突き進んでいった。
真一も、戸惑いつつも……ただ、父親の背を追って、道路を渡った。
目の端、100メートル程先には、実弾を込めたライフルを携えている警備員が見える基地一番の警備ゲート。
そこの隊員達が、フッとこちらに視線を集めているのが解る。
だが、父はそのコンクリートの防波堤に腰を下ろすと、口にくわえていた短くなった煙草を足下に落として、靴で踏む。
さらに……ポケットからくしゃくしゃになっている紙の煙草箱を取り出して、また口にくわえた。
「お前も座れよ」
「やっぱりここ……落ち着かないよ」
「なんだ? さっきは右京がどうやっても届けようとした物だと言い張ったのは……なかなかの度胸だと見直したが?」
「……」
必死になるとああいう嘘も出てくる物かもしれない?
だけど──じっくり話す気になってくれたようだが……? 何もこんな人目がある所じゃなくてもいいじゃないか? と真一はふてくされた。
でも、父は平気な顔で足を組んで……ジッポーライターで煙草に火を付け、煙を気持ちよさそうに空に吹き上げるだけ。
『もう……』
ふてくされながら、真一はそこに遠慮がちに腰をかけた。
フッと青白い煙を夕暮れた空に吹き付ける親父。
その顔が……いつにない柔和だった顔が、急に堅くなる。
「こうしよう」
「え?」
くわえ煙草で、ポケットに手を突っ込んで腰をかけている父が空を見上げながら呟く。
真一はその顔を見上げた。
けど……そう言った父は、それから暫く黙っていた。
煙草の匂い。
汗の匂い。
男の匂いが潮の香りに混ざって、真一の鼻に届く。
これが……父の匂い? なんてぼうっと見上げていると……。
「お前の質問に何でも答えよう。だが──『黙秘権』をくれ」
「はぁ? 黙秘権を与えるって事は、不都合な事は言わないって事だろ!? そんなの俺に不利だよ!」
「だが……質問すれば、答える可能性はあるぞ?」
口の端の煙草を、クイッと唇だけであげ、父はまたもや余裕のにんまり。
「……じゃぁ……」
真一は呆れながら、栗毛をかきつつも……それに乗る事にした。
「葉月ちゃんの結婚は……」
「エドの伝言は聞き届けた」
「……」
即答で少し、真一は戸惑う。
「最後まで聞けよな! エドに伝えたんだから、聞き届けていて当たり前だろう? そんな事、俺にだって解るよ!」
「いや、わるい、わるい──」
これまたふてぶてしく手を振って、彼が謝ったりする。
なんだか調子が狂って、真一は眉をひそめる。
(って……親父も何を聞かれるかと焦っているのかな?)
そんな風にも取れる『即答』に思えてきた。
「それで……親父はどう思っているの? 仲の良かった義妹の結婚……それもあの葉月ちゃんだよ?」
「いいんじゃないか? 葉月がそれでいいのなら……だがね?」
「……だがね? じゃぁ……親父は葉月ちゃんは本気じゃないと思っているのかよ?」
「いや? 『異性』にはある意味、引っ込み思案のオチビが決したのだから本物だろうよ? なまじっかな気持ちではアイツはそうは言い出さないだろう事は俺が保証する」
「だったら……祝福できるよなぁ?」
なんだか、彼の言い方が写ったかのような口調になってしまい真一はハッとしたり?
でも……途端に父が黙り込み、煙草の煙を一吹き──。
「そこは黙秘」
「早速かよ!? じゃぁ……祝福していないって事なんだ! その訳を言えよ!?」
「黙秘を主張する」
「あっそ……」
なんだかムカムカしながら……真一は暫くそんな気持ちを抑える為に黙り込む。
「……さっき、お前を敷地内で見つけた時、女子訓練生が目の前にいて戸惑っていたな」
「!」
その時から、見ていたのかと思って真一はドッキリ。
「お前も皐月と一緒で目立つのだろうな? マッキンレイの親父も男前だったが、せがれの方もなかなかじゃないか? 放っておかないのだろうが……お前はどうしようとした?」
とっぴもない質問が逆に来て、真一は固まったが……暫くして、思い切り答えた。
「今は女の子とどうこうなりたいなんて願望はない。俺……早く医者になってフロリダに行きたいんだ。それが先──エリックも一緒だから……。だから、もし……あの時、アプローチされたら、ハッキリと断ったよ」
「なるほど。賢明だな……」
「期待させるのが一番いけないと思う!」
「そうだな。それがいい──」
(まったく……自分にそう言えよ?)
『期待させるのが一番いけない!』と、あてつけるように言ったのに──そんなあっさりと『分かりきった返答』に、真一は納得できなかった。
「親父は? 女の人にはそうするんだろう? 勿論!」
絶対にそうではないという確信の上で、真一は声を父に向けて張り上げた。
すると──彼が綺麗に潤んでいる黒い瞳で、スッと横にいる真一を、腰をかがめて座っている低い位置から見上げる──。
「そうだな──。基本的には……だが?」
「基本が守れていないって事かよ?」
「何故? 俺がそういう男だと判るんだ?」
「……」
また、真一は唇をとがらせながら……でも、言いたい事が言えずに黙り込んだ。すると──。
「葉月の事か? それともお前のおふくろ……皐月の事か?」
「!」
向こうから……向かって来たので真一は息が止まる──。
「疑問に思うなら、言ってみろ。まぁ……黙秘権は使わせてもらうがな?」
「……」
聞いても良い、でも──言えない事もある。
だけど──それも覚悟でやって来た……。
真一にはそう……理解できた。
だから──溜め息をひとつ、いや? 深呼吸だったかもしれない。
一息ついて……真一は改まる。
「──俺、あんたに初めて会った後……何度か会ったじゃないか。あの頃は、葉月ちゃんとは恋人かもしれないと思っていたから……」
「なるほど。ガキにしては、ませた発想を持っていたわけだ」
「ませているって?」
「いやいや、これは失礼──」
何かと揚げ足を、取られているようで、真一は始終ムッスリしたのだが……こういう人なのだと徐々に分かってきたような気がして、いちいち気にする事をやめる。
「で……? 真相はどうなの?」
「知って──どうするのか? どうしても知りたい事なのか?」
「……」
こうしてかわされている気はするのだが……隣にいる男は、父は……その顔は真剣だった。
「いや……もう、分かったからいいや──」
「分かった……か……」
ハッキリと否定するだろうと思っていたが、こうも不透明で迷っているような応対をされただけで、もう真一は充分だった。
「母さんと、葉月ちゃんはどう違うの?」
「そうだな──。お前のおふくろは……真っ赤に咲き誇る、香り高き花。オチビは木陰の日差しに輝く緑の葉」
「──」
なんだか……真一は唖然と父の顔を覗き込んでしまった。
だって──どうやったら? こんな厳つい男から、そんな綺麗な例えが出てくるのだろう? まったくイメージになかったからだ。
「な、なんだ? おかしいか?」
「い、いや? 別に──」
気のせいか? 彼が照れているように見える。
その証拠に、煙草をあんなにふてぶてしく吸っていたのに、まるで真一の視線を避けるよう、誤魔化すように急いですぱすぱと煙を吸い込んでいるのだ。
なんだか……やっと、真一にも微笑む余裕ができ、肩の力が抜けてきた。
「親父は……御園姉妹が好きなんだ」
「どうだかね……」
「俺の母さんの事──本当に……愛していた?」
『愛していた?』なんて──なんだか聞きづらくて、そしてなんだかこっちも照れくさい。
「……だから、お前が生まれたんだろう」
「そうだけど……」
こんな男から、『愛している』なんて言葉を引き出せるわけもなく、真一は分かっていたが諦め加減の溜め息を落とした。
「そうだな──。俺も……今のお前と一緒で、年頃にも関わらず、女にはそうは興味はなかったな」
「そうなんだ……」
「なのに、右京はあの通り、皐月と一緒で華やかな男だから何かと、そういう付き合いに駆り出されたりはしたが、右京の顔を立てる程度で本気になった事なんてない。お前と同じく……女からのアプローチは全て素っ気なくかわしていたかな?」
「……でも、母さんとはいつ?」
「皐月も一緒だ。皐月は俺に何度も向かって来たが……俺としては他の女と一緒だった」
「……」
なんだか……『皐月のアプローチが強かったから負けた』と聞こえてきた。
じゃぁ……? 俺が生まれたのは『偶然』だったのか? と──。真一は、近頃……彼と若叔母の関係を気にし始めてからそんな風に思う事もあり、そうである事を恐れていた部分がある。
それが……今、父の口から明白になろうとしているのだろうか?
「確かに──。皐月の突っ込みに負けた。と言う部分もある。けどなぁ──」
「……けど?」
母の熱愛に圧された──。
だから、その勢いで真一が出来た。
けど──?……その先が真一にとっては重要だ。
真一は固唾を呑む。
だが──隣の厳つい男は、もう今にも終わりそうに短くなった煙草を口の端にくわえたまま──黒髪をくしゃくしゃとかいてる。
また──照れくさそうだった。
「俺にとって、女の素晴らしさを一番最初に教えてくれたのは皐月だったな。皐月との事がなければ、いつ女に本気になっただろうか? それぐらい、俺にとっては興味が薄くて、さらに面倒な事だったからな……それを皐月が『熱』を持たせてくれたとでも言おうかね?」
「そ、そう……」
いざ……望んでいた返事が返ってくると、真一は胸がドキドキしてきた。
普通の家庭でファミリーでつつがなく過ごしてきた子供なら、こんな事は解っていても改めて聞きはしないかもしれない?
大人になって、両親が歳を取って──彼と彼女が昔の青春を懐かしむように話してくれる──そんな感じなのではないだろうか?
真一の歳で……父と母が異性であり熱愛を交わした事をあからさまに聞くのは、やや抵抗があった。
だけど──何処かでそれを聞いて安心した気がする。
「それで……母さんの方が一方的だったみたいだけど……親父は好きになれたのかな?」
「……そうだな。皐月はほんっとうに男勝りで今の葉月以上だった。言い出した事は、その通りにならないと気が済まない気性で。だが──曲がった事は嫌いで。正義感も強かった──。そんな女が、本当の意味で女になった時……これ程、可愛い女だったのかと思えたからな──」
「母さん──可愛かったんだ……」
「他の女よりかは、気心もしれていたし──俺にとっては幼なじみで、そして──手のつけようがない妹みたいだったから、女として見るようになっても、それほど違和感はなかった。なかったが──俺が素直になるのが遅かったな──」
「そう……あの……真父さんは? 俺、父さんが本当に母さんの事を大切に思っていたから……だから、本当に父親だと信じて疑わなかったよ。それぐらい──愛していたみたいだけど──」
「そうだな──。真は頑固な弟で、俺と違って本当に皐月の事を愛していた……」
「うん──」
そこで何故か、父子揃って無言になる。
きっと……同じ事を考えていると真一は思えた。
真叔父ほど、彼女を深く愛した男性はいないだろう。
それは兄貴である父も『俺以上だった』と思っているのだろう。
だけど──必ずしも、愛する女性が、深く愛せば振り向くわけでもない。
そんな……叔父の唯一の純愛。
彼はその純愛ひとつで、真一を育て……そして、その純愛を全うしてこの世を去った──。
きっと、兄であった父は……そんな弟の真剣な思いに遠慮していたのだろう──。
今までも、そう予測していた。
そして、今──育ての親であった真叔父の兄の口からそれを聞いてみようと思った。
でも、何故だろう? そのお互いの沈黙だけで『予測』であった事は『聞いた事に等しい』確信に変わっていた。
「うん──。それで親父も兄貴として悩んだんだ……」
「まぁな……」
気の良い笑顔を浮かべた真一を一目見て……珍しく彼が深い溜め息をついた。
「兄弟で譲り合ったんだね?」
「しかし──真に叱られてね。『俺は彼女の幸せを一番に優先する。だから、受け止めてやれ』とね……。一度言い出すと、これ程筋金入りの頑固は、真が天下一品だったからな──」
「それは……すごいね……真父さんらしいというか──」
「何故……人は上手く噛み合わないのだろうかなぁ?」
「……うん」
どうして彼が……そんな『ボウズ』である真一なんかに問いかけているのかは解らないけど──真一は素直に頷いていた。
両親と叔父を取り巻く関係。
母の熱愛を優先するなら、父が受けれたら良い。
だけど──誰よりも深く愛していたのは、母が望んでいない相手、弟の方。
兄は弟の本当の純愛をよく知っていた。
女に興味もなく、面倒くさいと思っているような男より、絶対に幸せになれる──。
それも──母の為を思っての事だったのかもしれない。
「分かったよ──。どんな親父と母さんだったか分かった」
「そうか? これでひとつ解決だな」
「まだ……聞いて良いの?」
「どうぞ? 気が済むまで──」
「……」
こんな風に来てくれたなんて、まだ、真一は信じられない。
何を思って……決したのか? それが気になる。
でも──こういう機会はなかなかないだろう。
真一が望まなかったら、この隣の男はきっと『俺が親父だ』という名乗りもしなかったに違いない。
何故なら──やっぱり弟の事を思っていると、真一には思えた。
皐月を譲り合ったほどだ──父は真一を置き去りにして姿を消した。その後は真が父親として真一を守ってくれた。
捨てた自分が、育てた弟の手前……どうして名乗りが出来ようか? そんな風に彼が思っている……いや、そういう性分の『くそ親父』なんだと──。
だが──ここからが、真一が一番知りたい事だ。
でも──聞くのは勇気がいる。
『どうして俺を捨てていなくなった?』──なんて、自分を捨てた理由を知るのは、やっぱり怖かった。
「どうした? もう──終わりか?」
彼の足下に、煙草の吸い殻が潮風に吹かれてうごめいていた。
それを父は、スニーカーの先で紛らわすように転がしている。
「……何故……俺を一人にしたの?」
「やはり、そこが一番気になるか……」
「……」
父も、聞かれて当然──という覚悟で来てくれた事が、それで良く解る。
「……黙秘権使う程の理由?」
「……」
また……父はポケットから煙草箱を取り出し、三本目を口にくわえた。
「吸い過ぎだ──」
「そうか? ドクターの言う事は聞いておくか……」
これまた、神妙に父はいったんくわえた煙草をくしゃくしゃの紙箱に戻した。
「……俺も説明に困る」
「言えない事なら……今はいい」
真一も怖いから……そんな事を呟いていた。
「でも──これだけ教えて……」
「なんだ?」
彼が俯く真一を、そっと覗き込んだような気がした……。
「俺は……親父と母さんを信じても良いよね? 何があっても……信じても良いよね?」
「……」
「親父が俺を置き去りにした事も! 母さんが俺を産むなり、俺を置いて命を絶った事も! 信じても良い深いわけがあるって……そう思って良いよね!?」
「──真一」
「!」
彼が……初めて真一の名を呟いてくれた!
なんだか哀しそうな瞳で真一を真っ直ぐに見つめている!
それだけで……息が止まりそうなった。
いや……もう、涙が出ていたかもしれない!?
「……当時の事を、ありのままにお前に説明したとして、お前が俺と皐月がした事を、非難するか、許してくれるかは……解らない。だが──おふくろの事、皐月の事だけは、許してやってくれ。皐月はお前を産もうと一生懸命だったし、事件後──己の命を削るが如く、自分を追いつめていたから……。俺の事は、どう思ってくれても良い。どうせ、見たとおり、やさぐれたくそ親父だ」
「……何があったの?」
恐る恐る聞いてみる。
彼が母を一番にかばっている──確かにうさんくさくて、やさぐれているクソ親父だけど、やっぱり真一は自分の父親を信じたい──!
「悪いが、今は黙秘だ」
「……俺が聞いたら、立ち直れない事?」
「……どうだろうか?」
彼が試すように、真一をスッと見下ろす。
「俺、覚悟……出来ているよ? だって、そうじゃなくちゃ、『聞きたい』なんて嘘になる……!」
迷いと躊躇いは、そんな風に何かを試すような父親の眼差しに促され、いつの間にか吹っ切れていた。
すると──父は、また……しまったはずの煙草を口にくわえた。
「すまない──1本分、考えさせてくれ」
「……」
良いよとも、やめておけよとも……待てないとも言えなかった。
『1本分』──それが父の『迷い』を現す短い時間?
それで……彼は『真実』を言ってくれるのだろうか?
──カチッ、カチッ!──
彼が手にしているジッポーライターの火がなかなか点かないようだ。
海際の潮風のせいなのか……それとも彼のちょっとした迷いが指先に現れているのかは真一には解らない。
やっと火が点いて、彼がゆっくりと紫煙を燻らせ始める──。
「自分の事を、子供ではないと思うその気持ちは分かるが……」
まだ全て吸いきっていないのに、父はそんな事を……独り言のように呟き始めている。
「果たして──それがお前の為なのだろうか……いや……」
そう、やはり独り言だ。
でも──そう、彼は独り言を真一に聞かせてくれている。
「俺の為というなら、俺は酷い事でも……真実を知りたいよ……。確かに、知らない方が幸せと言う事もあるかと思うけど──。そんなに迷うなら、さっき、俺が言ったように『信じても良いかどうか』を……」
でも、真一はそこまで言って……うなだれた。
「違った──。ごめん、親父──。俺……本当は信じて良いか? なんて人に聞くのは間違っているよな? だって、信じるか信じないかは自分だけが決める事だもん」
「お前はおりこうさんだなぁ? 俺のせがれとは思えないなぁ……」
「……」
彼はなんだかとぼけたような口調で驚いているのだが……。
「では──こうしよう」
「今度はなに?」
「──信じて欲しい……かな?」
「……!?」
「この先──お前が御園の男として前に立つ日がやってくるだろう。その時に知り得る事も必ず出てくる。が……何を聞いても俺の願いは……『皐月を許して欲しい』──そして、俺の今の姿が『皐月そのもの』だと」
「──! 親父が消えたのは……母さんの為だって事?」
「それ以上のヒントは言えそうもない。ここから先は……今は黙秘させてもらう」
そして、吸いかけの煙草を、彼は惜しげもなく足下にフイッと放り投げた。
「俺は──お前より皐月を選んだ。そう言う風に思ってくれていたらいい。それがお前に憎まれる事も覚悟で、お前を真に預けた……いや、お前を置いていった。一生──名乗らないつもりだった。お前の父親は……真であればよいとね──」
「そんなに……そんなに俺の事……『いらない子供』だったの?」
「悪いが──その時はそうだった」
「──! 本気でそう言っている?」
「ああ……嘘じゃない」
「……」
もう、涙が止まらなかった。
何があったかは今は言えそうにない──そう言った父の顔は、とても申し訳なさそうで、真一の目は見てくれなかった。
でも──哀しそうな瞳。
やっぱり──自分は捨てられたのだ……。
何があっても、どんな訳があっても──その事実は変わらない。
憎まれるのも覚悟、父親を名乗らないは、捨てた親として当然の『罰』。
そう聞こえた──。
「……最後にひとつだけ……」
「なんだ?」
声をしゃくり上げながら、真一は何とか声を出している。
こんな親父の前で、絶対に泣くもんか──! そう思っていたのに、涙は止まらなかった。
腕でぬぐっても、ぬぐっても涙はあふれてくるし、声は声になりそうにない。
慰めの言葉も、言い訳の言葉も親父は言わない。
それで良い……ここで優しくされたら、彼を責めてしまいそうだ。
そんな感情の波が荒れている中、真一はやっと声を出す。
「親父は……その時から、何かの為に身を隠しているの?」
「──そういう事も考えて当然だろうが……。それも黙秘だ」
真一が言おうとしているのは……一年前、彼が父親だと知ったその後、五人の犯人が揃って死んでいる事を……真一は『父が復讐した』と予想した。
そして──今日、父は『皐月を選んだ』と言った。
つまり──怒りを抑えつつも真一の側を離れない暮らしよりも、怒りの全てを犯人にぶつけた。皐月の無念の為に──そう取れる。
「……」
父が何故か黙っていた。
「それが解る解らないだけでも、俺の考え、少し変わるし──違う理解も出来ると思うんだけど──」
覚悟した──。
父が手を汚してまで復讐をし、そして彼は闇世界に身を隠し、それを苦にした母が自殺したと──。
「いつまで黙っていても……お前はいずれ知る事になるだろう。俺からはどうにも言えない。ただ……右京とロイは見届けている、皐月の最期を──。しりたきゃどっちかに聞いてくれ。だが──これだけは言っておく」
「──?」
急に彼の眼差しが……そう『黒猫』と呼ばれる戦闘員の名にふさわしく輝き始める!
「万が一、それを近いうちに知っても──絶対に、『葉月』には言うな」
「──!」
「もし、お前がうっかり口を滑らしても、俺は子供扱いはしない。この話を知ったからには右京やロイ同様に! 一人の責任ある男としてぶっ飛ばしに来る!」
「──それほどの事!?」
「ああ……」
一呼吸置いて、彼がハッキリと言い切った。
いつものらりくらり、ひょうひょうとした口調の父が……ここだけはといった風に、堂々と──。
(やっぱり──葉月ちゃんを愛しているんだ)
何故か……そう思えた。
そんな真剣な顔だった。
それが男とか女とか、義兄とか義妹とか……そんな括りなんて関係ない、何か本当に心の底からの彼の本心をそこに見たような気がした。
何も違和感がなかった。
どうしてだろうか? 葉月とも父とも血を分けているから? 二人の事を『両親』と言ってもおかしくない存在だから?
そうじゃない気がした。
そう──父の、彼のその『真剣さ』──それが純粋だと真一の胸に伝わったような気がしたのだ。
なんにも区切りなんてない……そういう物だった。
「分かった──。聞く、聞かないについては、もう少し俺も考える。葉月ちゃんに影響する程の事なんだから、慎重に考える。俺も受け止められるか分からなくなってきたけど……」
そして──真一は乾いてきた涙の跡を、水色の半袖でもう一度ぬぐった。
「でも──嬉しかった。親父が『俺を信じてくれ』って言ってくれたから、俺はやっぱり自分でそう思いたかったように、信じるよ」
「──」
次には微笑んだ真一を見て、父・純一の表情が止まる。
黒い瞳と茶色いガラス玉の瞳の眼差しが、かっちりと噛み合った。
「……そうか」
彼のホッとしたような……肩から力を抜いた姿。
急に──普通のおじさんに見えてきた。
「俺からの質問はもう、終わりだけど──? 親父の話って何?」
「ああ……」
思い出したかのように黒髪をかく彼──。
「真っ先に葉月の事を追求されると覚悟していたのだが──」
「真っ先に黙秘を使ったくせに──」
「そうだったな──」
可笑しそうに彼が笑う。
楽しそうに笑っているので、それを見上げている真一も、自然と笑顔をほころばせていた。
「やっぱり、祝福できないんだ──。大事な大事な義妹だから、『義兄として!』」
義兄として! は、当てつけだった。
本当はそうではない事は、もう真一の中では分かりきった事。
「……葉月ちゃんを……本当に好きなら、どうして? 一緒になろうと思えば、今までだって……」
そこまで自分で口にして、真一は初めてハッとした!
(もしかして──!?)
それに気が付いて、父の顔を見上げると、彼はまた……真っ直ぐに真一を見下ろしていた。
「もしかして……今まで? 俺の為に? 俺の側に葉月ちゃんについておいて欲しくて!?」
そう──もし? 父と葉月が一緒になってしまえば……真一はまた、こちらの世界に独りきりになってしまったのだ。
父は……葉月に自分を託していた。
信頼して任せていた。
だから──奪えなかった。
そうとも考えられるじゃないか?
あんなに葉月の事を、真剣に心配しているのだ。
たとえ息子でも、義妹に関しては『男として守ってくれ』と言ってくれたほどなのだから──。
だが──そんな真一の質問に、父はこうして答えてきた。
「これを──お前の『気持ち』で葉月に渡してくれ」
そういって父が作業服のポケットから差し出したのは、これまた細長い箱。
今度は、水色の包みに白いリボンがかけてある。
「俺の『気持ち』って──?」
「お前を利用するつもりもないし、負担にはなりたくない。だから、お前さえ許してくれるなら渡してくれ。渡す事で、お前が悩む、そして苦しむ、『迷う』ぐらいなら渡さなくても構わない。その時は捨ててくれ」
「俺が……許すって……!?」
「まぁ……つまり、その箱に『親父の黙秘』が詰まっていると言っておけば? 察しがよいお前には、何もかも見透かされそうだがね──」
「──!」
つまり──息子である真一さえ……義妹に対する男としての気持ちを許してくれるなら、そこに葉月を引き寄せるだろう『父の気持ち』が詰まっているという事なのだろうか!?
真一は、その箱を暫し見つめ、受け取るのに躊躇っていた。
「先ほど、お前と女子訓練生を見た後、『あの男』が来ていただろう?」
「ああ……そうだね。あれを見ていたなら、その後来た中佐も見たんだ」
「お前に良くしてくれているんだろうな──」
「うん……してくれているし、大好きだよ」
「そうか──その男と葉月の為を思うなら、受け取らなくても良い」
「……」
そこまで言われると、真一の迷いの振り子は益々大きく揺れた。
ここで真一が、この箱を受け取らないと、父から葉月への思いは切断されるのだから──。
「そうか──分かった」
迷っている間に……その美しい水色の箱が、彼のポケットへと戻っていこうとしている。
「分かった──。とりあえず、受け取っておく」
「悪いな……」
「ううん……大丈夫。だって──」
昔──父の存在をそれとなく見えるようにしてくれたのは『葉月』ただ一人だった。
彼女が、周りの反対を押し切って、真一と彼が本当の親子だという真実を、上手に少しずつ教えてくれた。
そして──決して、真一を見捨てなかった。
彼女自身、辛い事もたくさんあって、死にたいと思った事もあっただろうが、彼女はちゃんと今まで真一の側にいる事を貫いてくれた。
そして──父も……そんな葉月の必死の言葉に対して──闇夜へと消えた時に捨てたはずの『父子の関係』を取り戻すように考え直してくれた。そして──真一から、衝動的に感情のまま、葉月を奪う事はしなかった。
そんな二人の為になるか分からないが、考える価値はあるかもしれないと思いとどまったのだ。
この時の真一には、申し訳ないが『隼人』という男の人は、どこからも浮上してこなかった。
後になって申し訳なく思うかもしれないが、そんな昔からの三人の関係しか……浮かばなかった。
「覚えている? 初めてもらった時計を海に捨てられちゃって……」
「ああ、ロイにばれた時の事か……」
「おじさんとの約束を破った事をうんと後悔したんだ。葉月ちゃんが殴られて、夜、一人で泣いていたんだ。時計をなくした事より、軽率に三人だけの約束を破って、葉月ちゃんが泣いている事の方が……哀しかった」
「……」
「これも、俺達三人の秘密にしておくから、安心して──。でも、渡せるかは期待しないで──」
「解った……じゃぁ、ぼっちゃんにお任せだ」
真一がにっこりと微笑むと……やっと彼がそれらしい僅かな微笑みを口の端に浮かべてくれていた。
それで──真一は満足だった。
「ああ、あとひとつ。お前を信用して渡すが……渡す時期を間違えないで欲しい」
「ん? いつ渡せばいいの?」
「葉月は今、忙しいだろう──。あまり動揺させたくないんでね。式典が終わってから渡してくれ」
「……うん、そうする」
それは賢明だと真一は息子として同調した。
葉月もきっと会いたいだろう。
でも──今は一番大事な時期で、確かに葉月は忙しい。
そんな時に──隼人も揺るがす義兄からの届け物が来ては、あの二人どうなるかわからない。
まだ──渡すとは決めてはいないが……。そこは父の言いつけ通りにするつもりだ。
「──渡しても渡さなくても、俺は覚悟している。と言っておこう」
「──!」
『父』が本気だと──確信した強い発言だった。
この人は今度こそ、本当に葉月を連れて行くかもしれない? 真一にそれが嫌なら自分の想いはここで切断されるのも覚悟なんだと──!
「さて──次の配達があるからな……」
「来てくれて、有り難う──」
スッと立ち上がった父親を、真一は切なく見上げる。
「いえいえ──。ぼっちゃま、ご満足頂けましたか?」
まるで、洋画で見たような王子にする丁寧な挨拶。
真一は……ムキになる前に笑っていた。
「最高の誕生日プレゼントだったよ──有り難う」
真一が微笑むと、また……僅かな微笑みが彼の口の端に……。
「じゃぁ……元気でな」
なのに次には、真一もよく知っている寡黙そうな冷淡な眼差しに変わっていた。
「そっちこそ、くたばるなよ──クソ親父。もうしくじりはなしだぜ」
すると、彼は可笑しそうに笑って背を向けた。
そのまま……海岸沿いの道を徒歩で去っていこうとしていた。
真一はやっぱり、寂しさがこみあげてきて、その背をただ見送るだけ──。
きっと──今は引き留められない。
それが、判ったから。
(いいよ──。待っているから)
「ああ、ボウズ──」
「!」
そんな去っていこうとしていた彼が振り返る。
「俺はいつだって皐月に感謝している。そして葉月にも……二人があって今日があった」
「親父──」
「こんな俺を……自分なりに信じると言ってくれて、こっちが礼をいわなくてはな……」
「……」
「お前に会いに来て良かった──」
本当に目の前で笑っているのは……自分の父親?
今更ながら……そんな事が不思議で堪らないほど……彼が笑って去っていく。
「あんなの……冗談に決まっているだろっ! クソ親父!」
そう叫んでも、彼の背は遠くなるばかり──。
そして肩越しに面倒くさそうに手を振ってそれっきり……。
今度は……いつ、会えるのだろう?
だけど真一は笑っていた。
夕暮れに笑っていた。
・・・◇・◇・◇・・・
煙草を口の端にくわえて歩いている海際──。
彼の胸の中に、感じた事がない高揚感が襲っていた。
「ったく。やっぱりお前の仕業かな……」
真っ赤に燃え始めた夕日に、純一は笑いかけていた。
「……俺がクソ親父だってよ」
夕暮れの色は、彼女によく似ている。
夕暮れの河原の帰り道──彼女がその背を追いかけてきた事が何度あっただろうか?
『純兄! 今、帰り? 私も!』
『うるさい、サッチ──ひっつくな』
『相変わらず意地悪ね。そんなの私には通用しないわよ。もうちょっと笑ってくれてもいいじゃない? 良い男になれないわよ!』
『余計なお世話だ。お前が言う所の良い男とやらの基準には興味ないね』
『忠告! 純兄は素直になったらもっと良い事沢山起こると思うし、感じる事も出来ると思うわよ!』
その女性はもういない──。
彼女は、純一に息子を託して一人、逝ってしまった。
自分だけの信念を貫いて──。
「素直とは……こういう事なのか?」
夕日に真顔で問いかけた。
彼女の声は返ってこないが──きっと彼女が褒めるように微笑んでいるように純一には思えた。
「お前のそういう笑顔、久しぶりかもな──」
純一はそっと微笑む。
その時だった──。
純一の後ろに深緑色のジープが一台、キッと停まった。
スッと運転席の窓が降りてきた。
「良いのですか〜? 一人でこんな所をうろうろと──」
「お前か──」
純一は取り立てて慌てなかった。
運転席にいるのは栗毛の中佐『リッキー』だった。
★お願い★
・・・煙草のポイ捨ては見習ってはいけません・・・
・・・ちゃんと携帯灰皿を持ちましょう・・・