・・Ocean Bright・・ ◆白鷲兄様ふたり◆

TOP | BACK | NEXT

5.夢想

 小雨がサラサラと降り続けている夜。
 窓辺から見える霞む渚をジッと見つめていた。
 窓を少しだけ透かして、そっと肩にヴァイオリンを構える──。
 今夜は両親がいない──。

 両親がいない夜だから……。
 外の小雨がとっても寂しく見えたから……。
 薄闇の霞む渚がとっても切なく胸のさざ波を騒がすから……。
 だから、ヴァイオリンを自宅で構えた。

──ヴォゥー──

 弦の上に置いたボウを滑らせると、低くて響きある音がそっと広がる。

──ヴォゥー──

 二度ほど、試し弾きをして……彼女は息を整えた。
 弾き始めた曲は……シューマンの『トロイメライ』。
 『夢想』という名の静かに流れる曲──。
 いつもよりボウを重く、じっくりと引いてみる。

 夜が更けた週末の夜。
 一人きり……。
 お祖父ちゃまは、数時間前に、もう寝ると言って部屋に入ったきり──。
 週末の夜更かしは、大好きだ。
 誰にも邪魔されずに、自分の世界にじっくり浸れる。
 明日、学校に行く心配もしなくても良い──。

 心ゆくまで自宅でヴァイオリンを弾けることも……今はもうないから。
 今夜はなんだか、とっても気分がいい。
 そっと微笑んだ栗毛の少女。

 短い髪に、白いシャツ……そして紺色のスラックス。
 白いロマンティックな机には、不似合いな詰め襟の制服上着が椅子にかけてある。
 白く透き通った肌に、早熟な桃の様なちょっぴり染まった頬。
 小さなピンク色の唇が、誰気にする事なく無意識に……愛らしく緩んだ夜更け──。

 その時だった。

──ざぁ……──

「?」

 小雨なのに、窓辺に沢山の水滴が落ちたように思え、振り返ってしまった。
 少女の肩先から、ヴァイオリンが降ろされ……ボウも腕から降ろされた。
 そっと、窓辺に近づくと──。

「──!」

 思わず『きゃぁ』と、出そうになった声!
 少女が次に、しっかりと窓辺に眼を開くと──。

「随分と静かで……眠っちまいそうな音色だな」

 長くて黒いコートをずぶ濡れにしている、細長い身体の青年が一人!
 二階の窓辺、外枠にちょんとつま先を乗せて立っていた。

「お、お……」

 彼女は声にならず、ただただ驚いているその間に……彼は彼女が空かしていた白枠の窓をスッと開けたのだ。

 

「久し振りだな」

「お兄ちゃま──!?」

 

 屋根から続いているワイヤーが彼の腰についている。
 その金具を、彼は『カチ』と黒い革手袋の手で外し、滴を散らしながら、構うことなく少女の白い部屋に飛び込んできた。
 フローリングに……ポタポタと、彼のコートの裾から滴が滴り落ちた。

 久し振りに会った。
 彼が消息を絶ってから……初めての再会だった。
 彼は以前以上に無表情で、何かに疲れているかのように頬がこけていた。
 引き締まった表情は、以前、垣間見せてくれていた『穏やかさ』を失ったのかと思わすぐらいに、険しい眼差しを携えて、彼は出現した。

 暫く、いろいろと話をした。
 『近頃の葉月』について、お兄ちゃまが質問をして……そして彼は嘆き、そして……叱ることなく耳を傾けてくれ……話をしているうちに『妙な提案』が飛び出た──。

 

 青い小花柄のアップシーツにくるまっていたのを、そっと剥ぎ、白い敷きシーツには、夜灯りにぼんやりと浮かぶ、『私』の小さな身体。
 雨に濡れたまま、艶やかな黒髪から滴を払はらい、彼女が手渡したバスタオルを首にかけ、背を向けている青年の『お兄ちゃま』。

「どうしたの? お兄ちゃまが言い出したのに……」
「……」

 幼い身体を一目確かめてから、彼は背を向けてずっと溜息をついていた。

『子供じゃだめなんだ』

 彼女はそう分かって、すっと小花柄のアップシーツを胸元に引き寄せ……彼に背を向けながら寝返りを打った。

『お姉ちゃまみたいな……大人じゃないとダメに決まっている』

 無理な提案をしてきた義兄。
 葉月だって『覚悟』をしたのに──。

「大人になってからでも……いいよ」

 近頃そんな少年のような口調になっている葉月は、そう呟いた。

「怖くないけど……いいよ。別に、うんと望んでいる訳じゃないし……」

 その時、シーツから出ている背中に、ゾクッとした感触!

「……そうか。葉月が望まないなら別に……俺は……ただ……」

 義兄の雨に冷えた手が……静かに優しく葉月の背筋を撫でていた。

「……私、ただ……今ならお兄ちゃまなら、そうなっても構わないと思っただけ……」
「月曜から、大丈夫か? 少し冷静に物事を考えてから……」
「触らないで──!」

 身体にシーツを巻き付けながら、葉月は海老のように丸まった。

「……」

 葉月が言うとおりに、スッと背筋から義兄は手を除けて行く──。

「大人ぶって……お兄ちゃまも、パパもママもありきたりな事ばかり!」
「葉月……だから……」
「もう、帰ってよ! お兄ちゃまなんて嫌い。私とシンちゃんを置いていったんだから! 何処にでも消えてしまったらいいのよ。私の事は、放っておいて──!!」
「……」
「皆……なんにも解っていない! 大嫌い、大嫌い、大嫌い!」

 短くなった栗毛を一人掻きむしる。

 もう、戻らない時、時代。
 それを『夢想』とは解らずに、幼い葉月はただ切望しては絶望するだけ。

「だから……どうなってもいいんだから! 私は冷静だし、月曜からも変わらない!」
「──解った」

 その声……義兄のその声。
 急にピンと張り、凛と葉月の耳に届いた。
 フッと振り返ると……彼が衣服を解き始めている。

「お、お兄ちゃま?」
「──俺とお前、一心同体になってみるか」
「!」

 その義兄の顔は……先程までの躊躇いもなく、そして理解あるお兄ちゃまの顔ではなかった。

「本気になった俺は、お前が止めても、もう止まることはない。覚悟は良いか」
「……」

 いざとなって、その『男』としての眼差しに輝いた『彼』に怯えた。

「痛みはあるだろうが……嫌な思いはさせない」
「……さっきの言葉、もう一度言って?」

 その一言が葉月の耳にまとわりついている……。

「……『一心同体』の事か?」
「うん……」

 『一心同体』──なんだか呪文にかけられたように、葉月をグッと捕らえていた。

「もう一度、聞く。俺は本気だ……いいな?」

 その眼差しは、昔……『大人のお兄ちゃま』として姉に向けられていたような?
 そんな事を思わせる特別な眼差しだと……。
 どう例えて良いのか幼い葉月には表現が思いつかなかったが……そう感じた。

「……うん。大丈夫」
「だが……途中でどうしても嫌だったら言え」

 葉月がこっくり頷くと、彼は全裸で葉月の花柄のベッドに横たわった。

 

『うん……ううん……』

 身体が熱い。
 痛くて、熱い。

 額に滲む汗、湿った短い栗毛──。
 大きな彼の手が、葉月の顔をいたわるように両手で包み込む。
 彼の顔は、始終……乱れることなく、硬い表情で葉月の瞳をただジッと見つめている。
 義兄が自分を抱いて、何を想っているのかなんて……。
 想像できないような、そんな表情。

 だけど……これで『お兄ちゃま』と『私』は『一心同体』。

『……俺は、この夜をずっと忘れないだろう』

 義兄の手にまとわりついた鮮血の光景。
 離れていても、お兄ちゃまは絶対に私を忘れない。
 その印。

 その指に染まった鮮血を、彼は唇でなぞり口に含んでいた……。
 処女を抱くのは初めてだと……義兄は妙に満足そうに微笑んでいた。
 姉は……どうも違っていたのだとこの時、初めて知った。
 後になって……姉の初めての男性は『ロイ兄様』だと知った。

 初めてのキスは『血の味』。

──『キス……してくれないの?』──
 キスは、『お前が心より愛した男からもらえ』と最初、言っていたのに。
 奇妙な熱いひととき……その締めくくりに、義兄から貪るような口づけをしてきた!
 初めての印で湧き出た鮮血で手先が染まり、口に含んでいた彼の唇。
 血の味。
 頬を撫でる彼の指は血塗れで……それが葉月の頬に筋を描いた。
 血の跡、血の印。

 真っ赤で熱くて……そして、夜灯りに白々としている渚が雨に霞んでいた冬の夜。

 

『うん……う……ん……』

 熱い、とても熱い──。
 うっすらと開いたまぶたの向こう……。
 そこには、なんだかとろけるように夢中に愛してくれる男の人がいる。
 貪るような熱い口づけは、痛みが身体を裂くような交わりよりも……ずっと官能的。
 ちょっと甘いチョコレートのような可愛い甘さじゃなくて……胸が焦がれるような、薫り高いリキュールのように、急激な感触。
 それを……彼が葉月に刻印した。

 

 

『うん……うん……。──ちゃま……?』

 額に汗が滲んでいる。
 手の甲で拭っても、拭っても背中は熱がこもって汗が滲み出ている。

『……な? もう一度、昔のように笑ってくれないか?』

 彼の泣きそうな声。

『葉月……昔のお前が見たい……もう一度、見たい』

 

「……お……に……ちゃま……?」

『あんなに皐月が綺麗に可愛がっていたじゃないか? 忘れたのか? 思い出してくれ』
『少しずつでいい。自分で許せる部分だけでいい。偽らないでくれ』

 何かを切望するような、彼じゃないような声。

『葉月──』

 青年だった彼の美しい瞳。
 夜灯りにもハッキリと輝く……綺麗な黒い瞳。
 それが真っ直ぐに葉月を力強く見下ろしている──。

『葉月──!』

 中年になって益々、強くてまばゆい眼差しを見せる無精ヒゲの彼が……葉月を奪うように力強く見つめている……!

 

「──はぁ! お兄ちゃま!!」

 息を切らして、葉月は起きあがった!

「!」

 かなりの声をあげて、急激に跳ね起きたようだ。
 隣で、白い姿の『人』が、ビクッとうごめいて、目覚めたのも目の端に映る。
 だけど、それが何なのか葉月には、今は認識できなかった。

「……何処に行くの? 何処に行っちゃったの? ねぇ??」

 汗でぐっしょりになっている素肌。
 掻きむしった栗毛も、しっとりと湿気を含んでいる。
 指先も、つま先も燃えるように熱かった。

「──葉月?」
「!」

 その声は、とても透き通っていて柔らかい声。
 トーンが低い義兄の声じゃない。

 その男性が、白いパジャマ姿でムックリと起きあがった。

「大丈夫か?」
「……隼人さん?」

 ふと、葉月は栗毛をかき上げながら首を傾げた。
 『夢』を見ていたのだと、気が付くまでに暫く時間がかかった。

「……隼人さん」
「なに? すごかったな。目が覚めるほどの声だったような……」

 彼も眠いままのようで、額を抱えて暫く唸っていた。

「夢……」

 やっと気が付くと……身体中がぐっしょりと汗をかいている事に気が付いた。
 急にスッと、身体中の熱が逃げて行くのが解って、葉月は震えた。

「すごい汗じゃないか?」

 スリップドレスがべったりと肌に張り付いているのに気が付いた隼人は、それを目にして急に、まぶたがぱっちり開いたようだ。

「……うん」

 なんの夢を見ていたか、葉月はハッキリと覚えている。

「……うん」

 なんであんな夢を見てしまったのか、記憶が鮮烈に引き出されたのか……。
 そんな『無意識』が起こす『自意識』に、葉月は力が抜けていった。

「──ひどいな、顔色……良くないようだけど」
「大丈夫」
「待っていろよ」
「?」

 葉月の肩を、軽く撫でると……隼人はスッとベッドを降りる。
 そのまま部屋を出ていった。

(どうして……!?)

 葉月は頭を抱え、うなだれた。

(もう、忘れるのでしょう? 会わないと決めたのに)

 普段の自分は、隼人を目の前に、とても穏やかで幸福な気持ちを噛みしめながら、満足な毎日を送っているというのに……。
 『潜在意識』が、そんな自分を否定するように……無防備に眠っている葉月を襲う。

 隼人がコップを手にして帰ってきた。

「ほら」
「有り難う。起こしてしまって、ごめんなさい」
「いいや。俺は大丈夫」

 隼人は微笑んではくれず、ただ葉月を硬い表情で見守るように、ベッドに腰をかけた。
 隼人が持ってきてくれた水を一口。
 コップには氷が二つ、入れられていた。
 隼人のこんな『プラスアルファ』の気遣いが現れていて、葉月はそれを暫く眺め、残りの水を飲み干した。

 ヒンヤリとしていて、火照っていた全てを冷ましてくれるような、気持ちよさだった。

「裸同然だと思うけど? 一応、換えた方がいいんじゃないか?」
「うん……」

 スリップ一枚で眠っている葉月だが、本当に……乳房の先まで透けそうなほど、スリップが肌に張り付いて濡れていた。

 葉月もベッドを降りてクローゼットに向かい、サッと新しいスリップに着替える。
 それを隼人が眺めていた。
 当然……素肌になった所も一部始終だ。
 だけど、彼の顔はそういう『異性的』な反応は何一つうかがえず、ただ葉月の様子全体を観察するような真剣な眼差しだった。

(寝言……聞かれちゃったのかしら?)

 『お兄ちゃま』と叫んで起きたことは、自分も解っている。
 隼人がそれに気が付いているのか、胸がドキドキした。

「朝……早いから」

 葉月はそういって、そのままベッドに潜る態勢に入り、やり過ごそうとした。

 だが──。

「ちょっと、ここに座ってくれないか?」

 シーツを手にした葉月に、隼人の眼差しは深刻そうだった。

『聞かれた』

 そう確信した。

 葉月は観念するような気持ちで、隼人の隣、ベッドの縁に腰を下ろす。

「……」

 隣で俯く葉月を、隼人は暫く上の視線から黙って見下ろしている。
 すると……葉月の肩にフワッと何かが被った。

「大事な訓練をしているからな。風邪、ひかれると困る」

 肩に被ったのは……いつもかけているアップシーツの上に、無造作に脱ぎ捨てている『ガウン』だった。
 そんな彼の優しさが、とっても痛い。
 嬉しいのに痛い。
 葉月は黙りこくったまま……気遣いを噛みしめるように、そのガウンを両手で肩から引き寄せる。
 そのまま俯いている葉月のこめかみから上へと、隼人の手櫛が、栗毛をかき上げた。

「この前から、ちょっと気になっていたんだけど──」
「なに?」

 瞳を覗き込ませる隼人の視線、それが静かに葉月の視線と重なる。
 葉月の胸の鼓動は早くなる。
 何を言われるのだろう?
 そんなドキドキだった。

「無理しているんじゃないかと……」
「無理? 何に対して?」
「……」

 真面目に首を傾げる葉月に、隼人はちょっと迷うように黙り込んだ。
 黙り込んだが──。

「……だから、『兄貴』の事」
『!』

 やっぱり、寝言……聞かれていたんだと、分かっていて葉月の心は愕然とした。
 どうしてこうも、彼を追い詰めてしまう事ばかり、自分はやってしまうのだろうか? と、いう……そんな気持ちだった。
 また葉月が力無くうなだれると、隼人が深い溜息をつきつつも、そっと、葉月の肩を長い腕で抱き寄せてくる。

「あのさ……。この前、兄貴のことを告白してくれただろう?」
「う、うん……」
「あの晩、葉月は『兄貴の事』を、俺に沢山、話してくれただろう?」
「う、うん……」

 何を言われるのかと、不安でいっぱいの葉月。
 上手く返事が出来なくて、声が震えそうだ。

「俺……あの時、『これからは、葉月が一人で抱えていた事、一緒に考えられるんだ』と、すごく嬉しかったのにな……。あれから、また、全然話してくれなくなったな」
「!」

 その言葉に驚いて、葉月は今度こそ……抱き寄せてくれている隼人を見上げてしまった。
──『一緒に考えたいから、兄貴の事を話して欲しい』──
 葉月には、そんな風に聞こえた。

 本当に、心からそう思っていてくれている事……隼人の発言にいつだって裏はない。
 信じている。
 だけど、『葉月を悩ませている捕らえている男の話。聞きたい』なんて……。

「……聞いてどうするの?」

 茫然とした顔をしていたのだろう。
 隼人は、そんな不思議そうな顔をしている葉月が可笑しいのか、『クスリ』と微笑むじゃないか。

「今、言っただろう? 『一緒に考えよう』って……。なんだか、また元の状態に戻っているような気がしてね。時々……。勿論、訓練にメンテチーム発動に、いろいろ忙しくて話し合う時間もあまりなかったし。葉月が指輪を受け取ってくれた朝は、すごく嬉しかった。それに……葉月が『本気』だと言うのも俺には伝わっているよ」

『だけどね……』

 隼人はそこまで言うと、また……溜息を落としながら、一端、言葉を切った。

「だけどね……。なんていうか、それも葉月らしいというのかな?」
「私らしい?」
「ああ。無理に『本気だって信じて欲しい』と頑張りすぎている気がする……」
「!」

 その言葉も、なんだか衝撃的だった。
 葉月が知らない『葉月』を、隣の側にいる男性は良く見ている!
 そう思った──。
 葉月が『追い詰めていた』のは、『隼人』じゃなくて『自分』!?

「指輪を受け取ってくれた気持ちに嘘はないと信じてるよ。それを『証明しよう』と一生懸命な葉月の姿は嬉しいよ。だけど……そのせいで、葉月が本来の『俯き加減の自分の気持ち』を無理に殺すのは、俺にとっては『葉月は嘘をついている』という様に思えるんだよなぁ……」
「……」

 葉月は、目が『ぱちくり』としていた。

「だけど……。私が『義兄様』の事を考えてばかりいるのは……。『婚約者』としては、困るんじゃないの???」

 語尾は思いっきり、疑問符がいっぱい付くような声で上擦りそうになった。
 ごく一般的に『普通はそうでしょ?』と葉月は思うのだ。

「あー。ごく一般的にはねぇ? でも、俺はそうじゃないから。それじゃぁ、納得できないな!」
「え? ええ??」
「そして……。ごく一般的に『早く忘れてくれよ』なんて、突きつけるのはね……。俺としても、『俺も現実から逃げて、葉月に無理強いしている』となるから、嫌なんだ」

 彼の眼差しは、葉月ではなく遠いあさっての方向に力強く輝いたのだ。

「……」

 葉月が途方に暮れていると……。

「あ、ほら……。葉月が俺によく言うじゃないか? 『ズレている』って。それそれ」
「あ、ああ……そうね?」

 葉月は解ったような、でも……理解できないような気持ちで何となく応えるだけ。
 そして、隼人はそんな『ズレている』自分を、自分で笑い飛ばしているのだ。

 なんだか、急に肩の力が抜けた気がした。
 ホッと一息ついて、葉月はガウンの袖に手を通して落ちつく。

「で……。何、うなされていたんだ?」
「!」

 安心したのも束の間、今度は見逃してくれないような眼差しが、ちくっと葉月を見下ろしている。
 隼人が言っている意味も、理屈では理解できたが、だったらそれを口にするのはやっぱり躊躇った。
 躊躇ったが……。

「お兄ちゃまが夢に出てきたの」
「そう。『何処に行ってしまったの』かと、むずがっていたな。子供みたいに──」

 そこまで聞かれていたかと、葉月はゴクリと喉を動かす。

「いつも会いに来ては、私とシンちゃんを置いて行くから……」
「兄貴はどうして、置いて行くんだろうね?」
「あっちの世界でやることがいっぱいあるからよ。きっと……」

 葉月の脳裏には……『姉のために復讐し、罪を犯した』と予想しているが、それを口にすると……。

『アイツはそんな男じゃない! アイツは何もしていないと信じてくれ!』

……右京は、いつもそう言って純一をかばう。

 親友だから、『仕方がない罪じゃないか』と、かばっているのだと葉月は思うことも。
 だったら、『恋敵』で純一を良く思っていないロイに……と、一度、勇気を持って聞いてみたことも。すると──。

『俺はアイツのことは、どうでも良いと思っているし。好きなようにやればいいと思っているよ。だけど──。消息を絶った事については、俺は責めるつもりはない』

 その時も、葉月の頭に疑問符が、沢山浮かんだぐらいだ。
 だって……ロイは『真一を捨てた父親』と罵っているのに、『消息を絶った事については責めない』と言っているのだ。
 そして、ただ……一言。

『お前の姉を大事に思っていない適当野郎だと思っていたけど。消息を絶った時、初めて皐月の事を大事にしているんだと理解できたんだ。だからこそ、俺は益々、入る隙がなくなって愕然とした、敗北感を味わった。つまり──息子より、皐月の想いの方を優先した大馬鹿野郎──』

 いつも太陽のように堂々と光り輝いているロイが、憂う眼差しを伏せて哀しそうに俯く。
 その時の彼を葉月は今でもハッキリと焼き付けている。

『それは、どういう事?』
『──犯罪は犯していない。それだけ言っておく』
『じゃぁ、お兄ちゃまは復讐をしていないの?』

 するとロイの眼差しがキリッと葉月に向かって輝いた。

『悪いが。これ以上、アイツのことを口にするのは嫌だ。葉月、勘弁してくれ』

 純一の事を疑っている葉月に対して、ロイが見せた冷徹な眼差しに、葉月はおののいた。

『信じているもん……』
『だったら、お前はそうするべきだ』

 やっといつもの兄様顔で、彼が葉月の頭を撫でてくれた──あの日。
 それから、ロイにも深くは追求できなくなった。

 兄様達は『信じてやれ』というし、『犯罪は犯していない』という。
 だったら、どうして『闇世界』に踏みいったのだろう?
 何も隠れる必要も、逃亡もしなくても良いのならば、帰ってくる事だって出来るのに?
 兄達が言うように、『義兄が犯人』でないのならば……?
 誰があの姉を襲った『汚らわしいイキモノ達』を死に追い詰めたのだろう?

 アイツらは絶対に、自ら命を絶たない。
 アイツらは絶対に、自分達がした事を後悔していない。
 アイツらは絶対に、自分達が追い詰められるならば、何でもする。

 だって──葉月は左肩の治療の為に入院していた病院で『口封じ』に、襲われそうになった!
 その前に、左肩にグッサリと傷を付けて、殺そうとしたじゃないか!?

 アイツらは、自分達がした事を隠すためなら、なんだってやろうと決していた『悪魔』の化身だ。
 悪魔に魂を売ってしまった、暴走した『人間』だった。

「なのに、アイツらはお姉ちゃまが自殺する前に、勝手に自殺したのよ? なのにお姉ちゃまは、シンちゃんが生まれたばかりなのに
アイツらが死んで直ぐ後に自殺しちゃったの……。『事件を苦にして自殺してしまった』と、大人達からは、そう聞いているの。私は絶対に、絶対にアイツらは『自ら詫びるために死を選ぶ』なんてしないと思う!」

 だから……『誰かが復讐した』。
 葉月は、いつの間にかそんな事を隼人に話し始めていた。
 右京とロイが教えてくれる『信じてやれ』という話も全部──。

『うっ……』

 隼人の胸元で、葉月は吐き気を感じた。

「大丈夫か? おい……」
「……思い出すのも嫌」
「ごめん……。いつも嫌なことを思い出すような話を要求して……」

 隼人が肩を包んで、さすってくれる。
 覗き込む隼人の顔は、とても心配そうだった。
 でも──と、葉月は額の汗を拭って顔を上げる。
 そして、隼人の手を頼るようにきつく握りしめた。
 隼人もその『握る力』に応えるように、葉月の手を包んでくれる。

「大丈夫……まだ、聞いて?」

 そんな葉月の覚悟に、隼人も真顔でコックリと頷いてくれる。

 

 襲われそうになった時に、助けてくれたのは義兄だった。
 その翌日ぐらいだっただろうか?
 義兄は葉月の病室の外での見張りを、かって出てくれていた。

 登貴子が純一がいるからと安心して、買い物にと出かけた隙に、彼が葉月の病室にやって来て、目の前に何かの名簿を広げた。
 軍制服を着た男の人の写真が、いっぱい並んでいる名簿だった。
 義兄は葉月がぼんやりとしているベッドの横に腰をかけてこういった。

『悪いが……。姉貴は犯人の顔を覚えていないと言い張っているんだが……。お前は、覚えているか? オチビのお前に聞くなんて最低だと思うのだが……。覚えているなら、俺に教えてくれ……』
『……どうして?』
『二度と、お前達に近づかないようにお仕置きをする』
『お兄ちゃまが?』
『二度と、お前を怖い目に合わさないようにな──』

 義兄のその時の目は、静かで怒っているようには見えなかったが、ギラギラと静かに輝いているように見えた。

 葉月はそっとページをめくる。
 嫌な顔が、所々で出現して目を逸らした。
 それを震える指で指すと、義兄がそのページの端を無言で折って印を付けていた。

『悪かったな……。気分はどうだ?』

 名簿を閉じた義兄は、ニッコリと優しく微笑んで葉月の頭を撫でてくれた……。

『もうちょっと、ここにいて? 側にいて? ママ……買い物にいっちゃっているの……』
『ああ、いいぞ──。そうだ……コレ、見つけたから』

 いつもより、より一層優しい笑顔で、義兄は側に付き添ってくれていた。
 そうしてポケットから出してくれたのは、イチゴミルク味の小さなキャンディーが数個。

『ありがとう、お兄ちゃま』
『うん、食べてみろよ』

 それを口にすると、心が和んだ。
 酸っぱいイチゴ味と、甘いミルクの味。
 パパがくれる味。

『おいしい……』
『こんな病室に一人じゃ辛いな──』
『赤ちゃん……生まれるの?』
『ああ……秋頃に』

 その時は、春だった。
 事件から、暫く経ったある日の光景。
 登貴子が戻ってきて、義兄は病室内から廊下の見張りへと出ていった。

『あら? 葉月? 今日はご機嫌ね?』
『お兄ちゃまが、イチゴのキャンディーをくれたの』
『まぁ……純ちゃんは相変わらず、気が利くわね。お兄ちゃまと、どんなお話をしたの?』
『……』

 葉月は黙り込む。

『キャンディーのお話』

 嫌な男を、お兄ちゃまがお仕置きする事は言えなかった。
 でも、お仕置きをして欲しいから、葉月はお兄ちゃまに協力したかった。
 だから、ママには言わない。
 子供心にそう思ったのだ。

 その時は『春』だったが……『秋』になって、そのイキモノ達が死んだと聞かされた。

 

「だから……義兄様が復讐してくれたと思っていたの」
「兄貴が消息を絶ったのは、リベンジの為に手を汚したからだと葉月は思っていたんだな」
「その時はね? でも……他のお兄ちゃま達は『違う』というの。だったら、どうして? あんな裏世界に行ってしまったのか? それなら……義兄様は、日本に戻ってきても良いのだし……外国にいたって身を隠すことないと思うから……。だから、私とシンちゃんの所にだっていつだって連絡してくれても良いと思っていたの……」
「ふーん……なるほどね」

 それだけ聞き終えると、隼人はなんだか解りきったような応答だった。

「なるほどね……って?」

 隼人の胸元で、葉月は首を傾げる。

「いや……色々」
「色々って?」

 知らない自分を見つけてくれる彼が、何かを見つけたのなら『知りたい』。
 そう思って、葉月は隼人から、そんな答を引き出そうと追求する。

「いつまでも、葉月がこだわっているのは……そんな疑問もあるからなのかな? と……」
「そんな疑問?」
「兄貴が、葉月を受け入れない理由だよ」
「私を受け入れない理由!?」

 それがもう、隼人には判ったのかと、そこは葉月は驚いてしまった。

「俺も判らないけど……例えばだぜ?」
「うん──」
「黒猫の兄貴以外の兄貴達、右京さんやロイ兄様かな……。そこら辺の親しい同世代同志では『通じ合っている何か』があるみたいだな」
「それって何?」
「いや……俺も判らないよ。だけど、そう感じたんだ。一瞬──」
「一瞬……隼人さんの勘?」
「──かな?」

「……」
「……」

 暫く、二人の間に沈黙が流れた。

「でも、俺の勘では……右京さんやロイ中将が言うとおりだと思うよ」
「え?」
「大好きな兄貴が、どういう人間か俺にはまだ分からない。だけど……ロイ中将の言葉が気になるな?」
「どの部分が?」
「──消息を絶ってから、皐月を大切にしていると理解できた。ここかな? なんだか、まるで皐月さんの為に世を捨てたと聞こえるし」
「……」
「彼は今……皐月さんの何かを背負って生きているというような気がする。それが何かは俺には計り知れないけど」
「……だから、私とシンちゃんとは生きられないと言うの?」
「そうなんだろうな、きっと……」
「──!」

 隼人がハッキリと言いきった。
 誰も言ってくれなかった、そして……『言ってほしくない一言』だった。
 義兄は、葉月を愛したくても、やっぱり皐月のために生きている。
 死んでしまった女性の為に生きている。
 それが捨てきれないから、葉月の手元にはやってこない。
 だから……息子である真一にも近づこうとはしない。

 二人の愛は『死』をもって結ばれ、そして義兄も生きながらにして『谷村純一』を捨てて、闇に隠れた。
 ロイと同じく、葉月にも入る隙など何処にもないのだと……そう聞こえた。

「うっ……うう……」

 何故だろう?
 葉月は途端に泣き出していた。
 自然と瞳から、熱い涙が沢山、こぼれ落ちてきたのだ。
 自覚無く、自然に哀しくなったのだ。

「葉月……」
「うっ……ううう……やっぱり、お姉ちゃまには適わないのね」
「葉月──」

 そんな葉月を、隼人がいたわるように、慰めるように抱きしめてくれる。

「そうか……。そうして独りぼっち、誰にも知られないように葉月も恋をして、迷い込んでいたんだな……」

 葉月を胸の中に強く抱きしめてくれる隣の彼は、穏やかに笑っていた。

 彼はどうしてこんな風に、一人の男性に対して一人戸惑うばかりの『私』を懐深く受け入れてくれるのだろう?
 葉月はそんな事も噛みしめながら、ただ涙を流し続けた。

「俺……そういう事、そんな葉月が知りたかったんだよ」

『どうして? おかしいわよ?』

 声にならず、葉月は嗚咽を漏らすだけだった。

「いいよ……それが本当の今の葉月だ」

 髪も、肩も、頬も……触れる彼の指先も、そして心のわだかまりを解いてくれるいつもの声も優しい。

 やっぱり葉月には不思議でたまらないけど……。
 やっぱりそんな彼の側は居心地が良い……。
 甘えるだけ隼人の胸で泣いていたら、いつのまにか葉月はまどろんでいたようだった。

 

「なるほどね──」

 隼人の眼差しが輝く。
 自分の胸の一部は、彼女の涙がスッと冷えていく所──。
 なにか憑き物が取れたかのように、彼女は隼人の胸元で、再び眠りに付いていた──。
 そっと彼女をベッドの上に横にして、シーツをかぶせる。

「……い……ちゃま」

 そんな寝言を再び囁く彼女。

「……そんなに好きなのか」

 唇を噛みしめながら、隼人は子供のような寝顔になっている葉月を見下ろした。

『このままでは駄目だ。葉月も兄貴も……このままでは……』

 隼人はふとある事を決心した。

 彼女はいつまでも『夢の中』。
 夢の中で、彼を思い続けている。

 それこそ、彼女の本当の潜在意識。
 彼女の左手に光る指輪を……隼人は哀しく見つめる。
 それはただの『印』に過ぎないのだと……。

TOP | BACK | NEXT
Copyright (c) 2000-2007 Yuuki Moriya (kiriki) All rights reserved.