「……雨だ」
今夜も、丘のマンションのテラスでノートパソコンと向き合っていると、このガラスに囲まれているテラスの窓を滴が伝い、ザァッとざわめく音が響き始める。
「明日……俺達の初訓練なのに……」
隼人は、テラステーブルの椅子からそっと立ち上がって、窓辺に立った。
丘を覆う雑木林の緑が、雨に揺れ始めていた。
結構、激しく降り始めている──。
そうして雨に霞み始める夜海を眺めていると、リビングの奥から『バタン』という大きな音が響いて、隼人は振り返った。
「どうしよう……雨だわ!」
風呂に入っていた葉月が、バスローブ姿で慌ててテラスにやって来た。
「明日……澤村チームとの初めての訓練なのに!」
彼女も同じ心配をしていたようだ。
「この様子だと、一晩降ったら、朝は晴れるかも知れないぞ?」
「……そうだといいけど。嫌よ、視界が悪いとショー的な飛行訓練はあまり効果ないし」
「だよな。式典当日も雨が降れば、ショーは中止だ」
「冗談じゃないわっ!」
「あはは! 大丈夫だよ。晴れる、晴れる。明日も当日も!」
安易に隼人は笑い飛ばして、テラスの椅子に戻った。
隼人が気楽に笑い飛ばしただけで、葉月は安心したのか、濡れ髪を拭きながら、またバスルームへと見繕いをする為に戻っていった。
「皆のからかいに拗ねていたけど……」
隼人はキーボードを打ちながら、クスクスと笑い出す。
『明日……澤村チームとの初めての訓練なのに!』
先程、窓辺に駆けてきた時の、あのせっぱ詰まったような心配顔。
「葉月も楽しみにしてくれているんだな……」
そっと微笑む。
明日は、コックピットで操縦管を握る彼女を、隼人の声と判断で飛ばす日。
「やっと、ここまで来た」
昨年、葉月に『メンテキャプテンの仕事を……』と言われたときは、怖じ気づき、拒否したのに……。
「大型台風にやられたな。すっかり……」
隼人が動かすノートパソコン、マウスの側に小さな白い箱。
家に帰って直ぐに……今日届いた『小包』の包装を解いた。
白いすりガラスのケース。
その中に確かに、お揃いのプラチナリングが入っていた。
隼人がはめる指輪は、シンプルに刻印だけの物。
それより小さいリングは……彼女の物。
華奢なリングには、本当に小さい若草色の石がはめ込まれていて隼人は微笑んだ。
『カボティーヌのような色だ』
隼人が葉月をイメージして贈った香水の瓶と同じ色。
皆は『リトル・レイには青色』と決めているようだが、隼人としては若草色がイメージされる。
そして二つのリングの裏を同時に確かめる。
──『共に勇気ある前進』──
隼人がフランス語訳をして、販売員の菅原に託したまま……ちゃんと刻印されていた。
『それ何?』
一緒に帰宅して直ぐの事。
葉月は大事そうに片手に抱えている隼人の荷物を指さした。
隼人が手にしている小包を目ざとく見つけた葉月には……『本島の電気店で注文していた“部品”』と言って、このパソコン側に置いたのだ。
すると葉月は、こういう事は疎いので『そうなの』と信じ込んだようだった。
「しかしなぁ……」
正直──。女性に指輪を買ったのも贈るのも初めてなのだ。
どうやって渡せばいいのかなんて……今更ながらに隼人は考え込む。
そりゃ……『届いたよ』とサラッと渡せばいいのだろうが……。
「それって葉月は“あっそう”と簡単に指にはめて、終わりって感じがするなぁ?」
眉間にシワを寄せながら、隼人は腕組み唸った。
こちらとしては、結構……飛び降りるような気持ちで買ったのだ。慣れない宝石店で──。
どうせなら『絶対に忘れない形』で渡したいと、前から考えているが思いつかないのだ。
よくドラマやら、メディアで見るような……あんな『おいおい』と言いたくなるような渡し方は、どうも『男として』は、なんとなく『胡散臭い』気がして……。いや? むずがゆいとでも言うのだろうか?
なんだか、ぎこちないのだ。
どこか『真意』でなくて、何かに操られているそれこそ『演技』になっているような気がして?
そして……彼女が瞳をキラキラさせて『嬉しいわ』なんて──!
「絶対に、俺もそうだが、葉月もなるもんか」
隼人は断言できる。
それどころか、隼人が予想するとおりに……。
『わぁ♪ 届いたの? 見せて! 見せて!』
……と、葉月がすぐさま手にとって、あっさり指にはめてしまう。
『お。似合うジャン』
隼人もそれだけで、終わるだろう……。
『そう? うん……良いわね。大切にする!』
それで終わりであり……もしかすると? 案外、どのカップルもその様に終わっているような気がするのだ。
「お先に。お風呂、今なら丁度良いわよ?」
腕組み唸っていると、葉月がいつもの黒いシルクガウンを羽織って出てきた。
「あ、うん。有り難う」
「今日は、入浴剤もちゃんと入れたから」
「うん……俺、あれ気に入っているんだ」
乳白色の入浴剤。
これも葉月が女性だからこそ、今は入浴時に味わえる物でもある。
隼人一人なら、絶対に使わないのだが、葉月がよく使うので隼人にもすっかり馴染んでしまった。
そして、それが使われていることで、女性と暮らしているのだと実感でき、落ちつく物になっていた。
葉月はそのままキッチンへと入っていった。
「今日はバラの香り」
「そうなんだ。俺は……ラベンダーとかが落ちつくかな?」
「バカに出来ないのよね。結構、気分が落ちつくの」
「それ、解るな。同感──」
キッチンから出てきた葉月は、缶ビールのプルタブを開けながら、ダイニングに座った。
伸びてきた髪をタオルで拭きながら、テレビにスイッチを入れてくつろぐ彼女。
「それと……近頃はこれも効くのよね。寝付きが良いの」
テラスからリビングに戻ってきた隼人に、葉月はニコリと缶ビールを見せる。
実際に、葉月はすっかりと言っていいほど、『安定剤に睡眠薬』も手放していた。
これも『希』ではあるが隼人でも驚くぐらい、うなされて飛び起きることがある葉月。
この一年の間に数回あって、その時は隼人もどうして良いか解らずに『薬』を勧めた事がある。
飛び起きた彼女が、震えながら泣いてばかりで、隣で寝付かないと言うのは隼人としてもどうしようもないほど、手の施しようがないのだ。
だが……それも『数回』で、近頃はまったくない。
そして葉月は僅かな寝酒や、アロマで自分をコントロールするようになってきたようだ。
「程々にしておけよ? 大事な訓練中なんだから──」
それでも隼人は、そこには触れずに、極々一般的な『返事』にて小言を返す。
「隼人さんは毎晩、呑んでいるじゃないの?」
「パイロットはまず体調管理が第一だろ? 本当ならトップパイロットは煙草も吸わないんだ」
「あら? 私だって吸うと言っても、当時は一日に数本で、デイブ中佐も吸っていたわよ? 私がやめたら、中佐までやめちゃって驚いたけど? それに私トップじゃないし。小笠原で、尊敬されるトップパイロットと言えば……第一中隊ダッシュパンサーフライトキャプテンの『ウォーカー中佐』ぐらいじゃない? あの中佐は、ほんと、すごいわよ。うちのキャプテンとはタイプが違うけど。デイブ中佐が、唯一認めているパイロットだもの。そういう人ならねぇ?」
ツンとそっぽを向き、缶ビールを傾ける生意気な横顔に、隼人は溜息。
「減らず口! だけど、お前とキャプテンは、絶対に怖い物知らずの良いコンビだな。ウォーカー中佐は、寡黙で冷静沈着に飛び、刃物のように鋭くてスマートだもんな」
「あら、コリンズ蜂さん軍団は、ブンブンとうるさいだけって?」
「そうは言っていないだろ? 呑みすぎるなよと気遣っただけなのになぁ?」
小言を言うと、全く言う事を聞かずに小さな反論ばかりする葉月に、隼人はちょっと睨んでバスルームに向かった。
葉月は、『アハ』と悪戯っぽい顔で面白がっているだけ──。
隼人の小言に、ちょっとだけ……たてつく事を楽しんでいるだけなのだ。
それがなんだか……やっぱり『背伸びのお嬢ちゃん』みたいで、憎めないから困ったもので。
きっと、幼い頃から周りの『兄貴軍団』にもちょっとたてついては困らせて……そして彼等を楽しませてきたに違いない。
それが葉月の愛されている所なのだろうう。
そんな風に、隼人は思っていた。
きっと……黒猫の兄貴にも、そうしてきたのだろう……。
朝……隼人が目を通す新聞を、晩になって葉月は眺める。
それも、いつもと変わらぬ夜──。
一年経って、すっかり馴染んでしまった二人の『リズム』は、テンポよく続いていた。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
隼人も入浴を済ませた。
バラの香りがうっすらと肌を包み込み、隼人も白いバスローブを羽織って、リビングに帰る。
「またか……」
隼人がリビングに出ると、もう灯りも消されて真っ暗だった。
そう……葉月の早い就寝である。
体調管理について……流れに任せて小言を言ってはみたが、葉月はこんな風にして夜が早い。
ひどい時には23時も回っていやしないのだ。
残業をして、夜ちょっと遅く帰宅して、夕飯を食べて、ちょっと談話して……そして、葉月は片づけを済ませたら、すぐさま入浴をしてサッサと寝てしまう。
体調管理というより、『仕事以外の事には』……余裕がない、興味がないかの如く。
もし、葉月が夜更かしをするというなら、やっぱり週末になる。
葉月がベッドに潜っても、寝付いている日もあれば、もぞもぞと起きている日もあり、それはその時によって違う。
平日の『例外』があるとしたら、隣に忍び込んだ隼人が時たま『欲して起こしてしまう』時。
頻繁な時期もあったが、ここの所は落ちついていた。……隼人の休暇後は特に。
また元の『早寝の彼女』と『宵っ張りの彼』に戻りつつある。
「はぁ……ま、いいけどね……」
隼人も灯りをつけないまま暗いキッチンに向かって、冷蔵庫から缶ビールを取りだした。
これもいつもの事で、隼人は僅かな灯りのリビングとテラスで『一人宵』を楽しむ。
こうして隼人特有の『過ごし方』は、以前と変わらないし、葉月も壊さなかった。
そして、隼人も彼女の『早寝』は、一緒に暮らし始めた当初のまま放っておいている。
まぁ……あまり早く寝付かれると、時々放っておかれている感覚には陥るのだが……。
それでも、隼人もこうして『一人』の余裕を与えてもらっているので、本当にこの『一人宵』のちょっとした時間の間は、悠々自適と言ってもいい。
まだ、雨音はやまない……。
結構激しく降っている。
またテラスの椅子に座って、外の雨風情を眺めていた。
「見慣れたな、この景色──」
最初は大展望的な景色が、本当に『リゾート感覚』でおののいていた。
だけど──この最高の景色が『生活の一部』に浸透していた。
晴れた朝も、満天の星の夜も……休日の青い空と輝く海、そして、今夜のような雨の日も。
この海が見える窓辺の様々な表情を刻み込んできた。
隼人は微笑みながら、テラステーブルに重ねて置いている雑誌を眺めたり、ノートパソコンをいじくったりして。暫く『一人宵』を堪能する──。
このテラスの席も隼人の『指定席』になってしまっていた。
さて……そうは言っても隼人も体力を温存せねばならぬ『メンテナンサー』ではある。
葉月に対して『体調云々』というならば、こちらも考慮はしているのだ。
それに明日は大事な『チーム出発の日』。
この晩、隼人は24時前には寝床に入ろうという気になった。
葉月が部屋に消えてから、一時間半は経っていた。
隼人の自室は『林側の書斎部屋』と定着しているのだが……近頃、なにがなくとも『彼女の部屋』に入るようになっていた。
そっと……大きな音をたてないよう、彼女を起こさないよう葉月の部屋に入る。
そして壁際を向いてベッドに横になっている葉月の状態を一時、確かめるように眺めて、彼女の横へと隼人も入る。
『ふぅ……』
一息ついて、隼人は反対側……ベッドの外へと身体を向けて目を閉じる。
「うん……」
彼女の声……。
眠りが浅いのだろうかと、隼人は肩越しに振り返って確かめる。
「う……ん……」
壁際から隼人の方へと寝返りをしたようだ。
首を隠すようになった栗毛が、彼女の唇をくすぐるように被さっていた。
隼人はそれを、そっと指で弾いておく。
「うー……ん……」
その声を最後に、『すぅ』という安定した寝息に変わった。
白い手が葉月の頬側に添えられる。
枕に頬を埋めて、スースーと頼りなげな寝息をたてる葉月を、隼人は暫く眺め、そして、頬にある手の甲に指を滑らした。
『!』
急に閃いて、隼人は起きあがる。
そして……もう一度、リビングにそっと出た。
☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆.。.:*・ ☆
夜が明けて、朝になる──。
水色のカーテンから、うっすらと輝く日差しが柔らかに差し込んでくる。
もう、雨の音はない……。
「うーん……」
寝返りが悠々と出来たので、葉月はフッと目を開けた。
「……」
ベッドには自分一人だったのだが……肌がけの上に白いバスローブがあったので、昨夜も彼が自分の寝床で休んだのだと、葉月はぼんやりと眺めていた。
暫く、目が開くまで時間がかかる。
いつもゆっくり目覚める。
だけど……こんな事が出来るようになったのも、隼人と一緒に住むようになってからだった。
それまではいつでも眠りが浅く……そして、毎朝同じ時間に目を覚ます習慣があった。
リビングから、人が歩く音。
そして……キッチンの流しの音、フライパンで何かを焼く音、食器がぶつかり合う音。
それをぼんやりと耳にして、葉月はムックリと起きあがる。
それでもぼーっとしていた。
頬にかかる栗毛を、片手で額へとかき上げながら、隼人が脱いだバスローブの側に、なにげなく重なっているシルクの黒いガウンを手にする。
それをカフェオレ色のいつものスリップ姿の上に羽織って立ち上がった。
部屋を出ると……。
「おはよう──。昨夜は早く寝たようだけど、途中、ちょっとだけ眠りが浅かったようで」
既にカッターシャツ姿になって、愛用の黒いエプロンをしている隼人が眼鏡をかけた顔で、朝日の中……微笑んでいた。
「そう? でも、ぐっすりだったみたい。途中で目が覚めた覚えもなかったし……」
朝日が自分の白い肌を明るく照らしているのを眺めながら、葉月は伸びをした。
「……だったら良かったけど。支度、早くしろよ」
「……うん」
隼人はフライパンを片手に、ダイニングテーブルに用意してある皿の上にスクランブルエッグを乗せていた。
彼のスクランブルエッグは、絶妙だった。
半熟で、ふわふわ……そしてマイルドで優しい味がするのだ。
どこかのホテルの特上モーニングのように……。
「今日はどうする?」
「うん……ミルクティー。自分で入れるわ」
「解った」
カフェオレの場合は、隼人が一緒に入れてくれる。
それが当たり前の様にして、隼人はいつもの笑顔でキッチンに消えていく。
葉月はなんだか、急に……そんな毎朝の慣れてしまった風景を、ジッとたたずんで眺めていた。
『昨夜は──だったね』
隼人の朝の一言は、こんな風に始まることが多い。
よく寝ていたね。
うなされていたね。
途中で起きただろ?
寝言を言っていた。
自分より宵っ張りの彼……。
まるで暫くは、葉月を見守ってからでないと眠れないかの如く……。
いつからか葉月は──『私が眠ってしまっても、起きて見てくれる人がいる』──と、思うようになったのか急に寝付きが良くなった。
驚くのは、朝まで隼人が隣で寝ていたことなど判らない日だってある。
朝、目が覚めると、隣でグッスリ寝付いている隼人と、肌と肌が密着した状態で目覚めるのだ。
葉月がうごめくと、隼人もそっと目を覚ます。
『おはよう……昨夜はよく寝ていたね』
彼の黒くて大きな瞳が、宝石のように輝くのだ。
それも見て、葉月はまたぬくぬくとした温もりの中に潜り込んでしまう。
『ゆっくり……』
彼がゆっくりと起きあがって、大きな背中を寝床から眺める。
直ぐにリビングに出ていってしまった後も、彼の温度がシーツの中に残っていた。
それをずっと抱きしめるように、また葉月はまどろむ。
そんなとろけた朝を過ごしても、彼は一言も文句を言ったことはない。
『ねぇ? どうして叩き起こさないの?』
一度だけ、聞いたことがある。
『え? どうしてって? だって眠そうだったから……』
『隼人さんの方が、夜は遅いのに──』
すると……。
『今までの分、ゆっくり眠れば良いよ。葉月が気持ちよさそうに眠っている姿は安心する』
……彼は気後れした笑顔で、そっとフレンチトーストをかじり、新聞に顔を埋めてしまった。
それが、今までの不安定な睡眠状態の事を気遣っているのだと判って、どれだけ葉月が感動したことか……。
そして、その感動をどう彼に伝えて良いかも解らないまま一年が過ぎようとしていた。
近頃、彼は自分の部屋で寝ることの方が希になってきていた。
最初は、葉月が自分の部屋で寝付かなくても、寝る前に一度は葉月の部屋を覗いて眠っているのを確かめてから、林側の部屋に隼人は行っていた。
『眠れないのか?』
『ううん……大丈夫』
そう言えば、スッと彼は去っていった。
葉月も早朝に一人で目が覚めると、すぐに隼人の部屋のドアを開けて、彼がちゃんといるのか確かめに行ったりしていた。
起きなければ、そっとドアを閉じて、葉月が朝食を作っていた。
もしくは──。
『早いな……もう、起きたのか?』
──眠たそうに彼が目覚めてしまい、早朝だけにちょっと申し訳なくなり、すぐにドアを閉めてキッチンに入る。
それでも隼人は着替えて、率先してキッチンに立ち、一緒に朝食を作ってくれる。
葉月がそうして朝、彼を確かめに行く事も……今はもうない……。
今はもう、彼の体温は毎日側にあるもので、なくてはならないものだった。
隼人がいない朝は、やはりいつもより早く目が覚めて、この温暖な小笠原といえども、肌寒く感じるときもあった。
「どうした?」
キッチンから出てきた隼人が、エプロンで手を拭きながら、まだそこに突っ立っている葉月に少し驚いた顔。
「ううん……なんでもない」
葉月はそっと微笑んで、はだけそうなガウンの胸元を閉じながら洗面台に行こうとする。
「葉月?」
そう呼ばれて、葉月は彼に振り返った。
「なに?」
「なにか……あった?」
彼が急に真顔に──。
ちょっとした葉月の変化も見逃さないといった真剣な顔。
いつもぼんやりと、迷うことなく洗面台に向かう所を、リビングでぼうっとしていたことが『いつもと違う』とでも思ったのだろうか?
葉月はそんな鋭さに『適わないな』と、ちょっとだけ顔をしかめつつも、すぐに笑顔を向けた。
「なんにも? ただ……隼人さんがいてくれて良かったと思っていただけよ?」
「それだけ?」
「?」
葉月の顔をうかがうような彼の眼差しに、葉月の方が違和感を抱いた。
「それだけよ?」
「……」
隼人はちょっと困ったような顔をしていたのだが──。
「そう、早く行っておいで。もう、トーストも出来るから」
直ぐに彼も笑顔になって、またキッチンに戻ってしまった。
「──?」
キッチンからは、ジュウッとした音と、甘い香り。
『今日は特別仕様で、レモンのすり下ろし付きフレンチトースト』
キッチンから隼人の弾む声。
(わ。美味しそう……!)
葉月のお腹の虫が急に元気良く目覚めたようだ。
喉をごくりとならしつつ、葉月は急いでバスルーム前にある洗面台に向かった。
「さってと……」
なんの違和感だったのだろう? と、思いながら、前髪をカチューシャで除けて水道の蛇口をひねり、出てきた水をひと掬いしようとした時だった。
「!」
──ジャー……──
暫く、水が流れるまま……水をすくうために揃えた両手を葉月は茫然と眺めていた。
「うそ!?」
両手と言うより、左手……しかも薬指。
そこに計ったようにはめられている銀色のリングが……!
葉月は水も流しっぱなしで、すぐさまリビングに飛び出した。
そこに彼はいない、キッチンだった。
キッチンまで行き、エプロンをしてコンロに向かっている隼人に立ち向かう。
「隼人さん──!」
「なに?」
彼の顔がにやけていたのだ。
もう、彼も気が付いている!
「これ!」
葉月は左手を突き出して、薬指を指した。
すると……隼人もニッコリと、フライパンを揺すりながら左手だけを葉月に付きだした。
彼の指にも、銀色のリングが──!
「……え? ええ??」
暫く混乱して、葉月は両手で頬を覆って黙り込む。
「眠りが浅かったようだけど、起きなかったな」
「あ!」
寝ている間に、そぅっとはめられたのだとやっと気が付いた!
「勝手に捕まえてごめんな──。でも、それ……すぐに外せるから永久逮捕じゃないかも」
彼が可笑しそうに笑う……。
「……」
葉月はやっぱり暫く茫然とした。だが──。
「なによ!」
葉月はその指輪を自分ですぐに、指から抜いてしまう。
「あ!」
妙に怒りながら抜いてしまった葉月を見て、隼人もちょっとだけムッとした顔になっていた。
「……あ」
指から抜いて、葉月はその裏に刻印があるのに気が付いた。
「フランス語?」
『一緒に……勇気、前進』と訳ができ……。
「一緒に、勇気ある、前進……?」
「ああ……」
コンロの火を止めた隼人が、そっと寄ってきた。
「ごめん。勝手に決めた──。エンゲージリングは二人で考えような」
「……隼人さん」
葉月はリングをつまんだまま、眼鏡をかけている隼人を見上げた。
「お互いに、不安や怖いことはいっぱいあるけど、ここまで来た勇気を忘れずに……。この一年間のように、ちょっとずつ進んでいこうか?」
彼の宝石のように黒い瞳が、ニッコリと輝く。
「……うん」
葉月はなんだか操られたように自然に、そう一言、答えていた。
「はめてやろうか?」
その時の隼人は、そっぽを向き、照れているのだ。
「ううん……いいわ」
「そう言うと思った」
がっかりするわけでもなく、隼人は可笑しそうに笑っただけだった。
「そう言うだろうと思って昨夜、俺一人で、はめるのは堪能したよ」
「違うわよ!」
葉月がムキなって突っかかってきたので、隼人はそっと驚き退いた。
「……いい? 見ていてよ!」
「なんだよ? そんなに力んで?」
変に何かに挑むような葉月の意気込む顔に、隼人は眉をひそめている。
「私、捕まえられたんじゃないんだから!」
葉月はそういって、自分の薬指にそっと銀色のリングを通す。
「私が……捕まったの。ほら、捕まえて欲しかったから、自分から捕まるの!」
そういいながら、指の付け根にまで葉月はリングを通して、隼人に突きつけた。
「……」
彼の面食らった顔。そして……。
「アハハ!」
彼が笑い出す。
「葉月らしいな!」
高らかに……葉月の強気で『ちょっと背伸び』を彼は笑い飛ばす。
葉月もそっと笑顔をほころばせた。
「ずるいわよ。勝手にはめるなんて……」
でも……嬉しかった。
はめてくれる姿はなくても……朝起きたら、いつのまにか『隼人のもの』になっているなんて……。
なんだか……隼人らしい『葉月の捕まえ方』。
葉月が意識しない所で、いつの間にか彼の物になっている。
そう……いつだって。
それに気が付いて、葉月はやっぱり隼人のものだと素直に受け入れている自分がいる。
だけど……『このままではダメ。流されちゃダメ』
今度は……ちゃんと『自覚している自分』を彼に伝えたい。
だから……自分から指輪をはめる意志を見せたかったのだ。
「葉月……有り難う」
途端に、隼人に力強く抱きすくめられた。
「……良かった」
ホッとした彼の声……。
あんな風に、葉月を手玉に取っているようで、本当は彼も緊張していたのだと……。
「……大事にするわ。結婚式まで……。その後も大事にとっておくわ」
葉月も……彼の広い胸に思いっきり頬を埋めて、背中に抱きついた。
「私……指輪をはめるの初めてよ。本当よ……」
「そうか……良かった。俺も嬉しいよ」
彼の大きな手が、葉月の栗毛を掻きむしるように撫で、グッと肩に頭を引き寄せられた。
「良かった……」
彼のちょっと泣きそうな程、感激している声が耳元で響いた。
そっと彼の顔を覗き込むと……やっぱり眼鏡の奥で、艶っぽい黒い瞳が宝石のように葉月を映している。
葉月からもう一度、抱きついて目を閉じた。
目を閉じたら、ちゃんとやってくる暖かい感触と、とろけるような彼のくちづけ。
暫く、息が乱れるほど、葉月も夢中になって彼の唇を愛し、そして抱きしめた。
「はぁ……やばいな、やばいな……!」
その内に、隼人はすっと離れ、葉月のガウンの胸元をギュッと閉じたのだ。
「今日の夜までは、規制、規制」
「あはっ! そうよね! 今日はキャプテンデビューだものね!」
「そうそう……。ああ……急に緊張してきた」
隼人はわざとおどけてふざけるようにして、葉月から離れてしまった。
葉月は、微笑みながら薬指を眺める。
朝日にキラリとペリドットの若草の光。
「私の誕生石」
「ああ……カボティーヌと同じ色だろ? 丁度、良かったじゃないか?」
「うん……」
その指をそっと握りしめて、葉月は口付ける。
『私の色』──彼が贈ってくれた葉月の新しい色。
葉月は朝日の中、そっと目を閉じて……ずっと微笑んでいた。
「記念の日だわ」
小さく呟く。
「何か言った?」
隼人には聞こえなかったようだが、葉月は繰り返しては言わなかった。
彼は忘れても、そうは思わなくても……自分だけでも『記念の日』。
だって、今日はこの指輪を一緒にはめて、甲板に出られるのだから──!
彼が銀色の指で大空に送りだし、私は銀色の指で空を飛ぶ……。
今日の小笠原は真っ青な青空──!