自分の身を男から守るため、絶対に許さないため、完全に受け入れないため──。
そして……これさえ飲んでいれば、男なんて、どんなに自分の中に入り込んでも怖くない……安心。
そんな葉月のある意味『精神安定』の為に飲んでいたような『ピル』。
避妊という理由以上に……そんな屈折した理由で手放さなかったピルを、葉月が『捨てていた』!
隼人はそれに気が付いて……茫然として葉月を見つめていた。
正直──嬉しかった。
だけど──『しまった』とも思った。
何故か?
葉月が隼人を許してくれていた、それは喜びだった。
今後、何が起きたって……彼女を守ろうと気持ちが強まった。
だけど──この『捨てた行為』が本来の『目的』である『避妊』と遠ざかっている様に、隼人は直感したのだ。
きっと……葉月はここで妊娠してもなんとも思わないだろう。
隼人も受け入れるつもりだ。
だが? その『妊娠する』という意味を、この『マイナス10歳ほどの小さな女の子』が、本当に解っているのか?
そう思ったのだ。
「葉月──これは……覚悟が出来てした事なのか?」
隼人はまるで子供を諭すような大人の口調で、葉月に語りかけた。
「……なんで、そんな怖い顔をするの?」
そして……葉月も大人に叱られる子供のように、ちょっと身を固めて怯えているよう。
「だから……これがどういう意味かちゃんと解っているのか? と……」
すると葉月がちょっと拗ねたように唇を尖らせる。
「隼人さん……フロリダで言ってくれたじゃない? ……『しない』時は覚悟しているつもりだからって。『俺はそのつもりだから、いつでも。後はお前次第。お前がその気になったら……覚悟は出来ているよ』って言ってくれたじゃない?」
「ああ、言ったぞ。そのつもりだけど」
「じゃぁ……なんで困っているの? それに隼人さん、ずっと自分から気を付けてくれていたから。止めても大丈夫だって思ったんだもの」
「……本当に大丈夫なのか?」
「どうして? ここ最近、私も飲んでいなくて、隼人さんもしていない時があったから焦っているの? 言っておくけど、ここの所は安全日だったから私も大丈夫だと思って──」
「そうじゃなくて……! もう二度と飲まなくても気持ちは大丈夫なのか?と聞いているんだ!」
やっぱり、解っていないかも知れないと隼人は焦れったくなって声をあげてしまった。
葉月が驚いて固まった。
そして、途端にふてくされて隼人の真っ直ぐな視線から目線をそらした。
「……なによ。大丈夫だから止めたのに、なんでそんなに怒るの!!」
葉月も反撃の声をあげた。
だが……瞳に涙を浮かべているじゃないか!?
「葉月──」
「フロリダで、隼人さんが私に言ってくれた事は、格好付けの嘘だったの!?」
「ち、違う……本心だよ」
「私があなたの何もかもを許しているって、信じてくれなかったじゃない!」
「!!」
こんな子供のように感情をむき出しにして、葉月が叫ぶことに隼人はとても驚いた。
そして……隼人は『やっぱり!』と……愕然とした!
根本的に『子供が欲しい』という願望が第一でなくて……。
──『あなたを受け入れていると信じて欲しい』──
それが第一で葉月はなにもかも身を投げ出してきたのだと、確信した。
(俺のせいだ──!)
隼人はまた……茫然とする。
ここ最近、確かに隼人は情緒不安定で、葉月を不安にさせていたのだろう。
──『隼人さんは、私の決心を信じてくれていない』──
──『兄様の事を気にしている』──
だから──『私が言った事を信じていないから……隼人さんは私を不安そうに求める』
それを……鋭い葉月が感じないはずはない。
──『ちゃんと愛してくれないと、許さないから』──
──『隼人さんなら奪われるように抱かれてもいい──』──
すべて……揺れてばかり、不安なばかりの隼人を安心させたい、信じてもらいたい。
その一心で……葉月がなにもかも捨てて、隼人に身一つでぶつかっていた事。
今、やっと──実感できた!
だけど……それは葉月をまた追いつめていた!
『妊娠』は出たとこ勝負──。
何に置いても『信じてもらう』という追いつめられた葉月が、取った手段は──『ピルを止める』。
子どもが出来たとしても、二人で喜びを噛みしめられるだろう。
そんなのは隼人も解っている。
だが──葉月の『後先考えない賭け』。
これをさせてしまった事に隼人は、責任を感じたのだ。
「私……私が悪いの。なにもかも……隠し事ばかりして、隼人さんを不安にさせたの」
反撃を開始したかと思ったら、葉月は瞳を弱々しく緩めて、涙をボロボロと流し始めた。
「私はバカだから……『愛している』ってどう伝えて良いか解らなかったけど、私……ここの所、隼人さんにとっても愛されて、うんと嬉しかったの。本当よ? だけど──私もうんと隼人さんを愛しているってどうやって伝えたら、解ってくれるの? だから──『兄様の事』、話すから、今からでも話すから──」
溢れる涙を、手の甲で一生懸命拭う葉月の姿は、途方に暮れた少女のよう──。
「……葉月」
そこには、男性を愛する心を、ずっと昔に置いてきてしまった少女が蘇ったかのような姿。
とてもじゃないが『大佐』には絶対に見えなかった。
そんな彼女を見ただけで……隼人の胸の中にとても熱い思いが、溢れだしてきた。
「ごめん──。葉月……どうかしていたのは、俺の方だ!」
隼人は葉月の前に近寄って、グッと力強く腕の中にきつく抱きしめた。
「は、隼人さん──?」
葉月の小さな頭を、力一杯、手で肩に寄せた。
「俺が、俺がどうかしていたんだ……俺が……」
そう──『もう、これでいいじゃないか』。
やっと、そう思えてきた。
何を迷っていたのだろうか?
葉月と兄貴が会って『決着』を付けない限り、『これから先は信じられない、受け入れられない』。
隼人はずっと、そう思っていたのだ。
もう……決着はついているじゃないか?
葉月はこうして隼人を真っ直ぐに見つめて、こんなに感情豊かに向き合ってくれている。
そして……奪っても受け入れてくれて、そして隼人をどこまでも受け入れてくれたじゃないか?
隼人は葉月の首筋に頬を埋めて、きつく抱きしめ続ける。
「い、いたい──」
葉月が困った声を漏らしたが、でも……彼女も隼人の背中を、隼人のシャツをギュッと握りしめて抱き止めてくれている。
『もう、いい──。もし……その兄貴が現れたら、その時だ!』
隼人はそう思った。
数ヶ月前にも『一緒に闘う、乗り越える』と誓ったはずだった。
その気持ちはここで確固たる物と変わった。
『一緒に立ち向かえば、それでいいんだ……』
もう、葉月が選んで去って行くなら、それも受け止める──だなんて、そんな事は思わない。
絶対に手放さないと強く思っていた。
こんな風に思えたのも……きっと。
やっぱり葉月の捨て身のおかげに違いない。
隼人はそっと葉月の身体から離れて、彼女を見下ろした。
まだ瞳が濡れている。
流れた涙の跡を、そっと指でなぞり拭う。
「もう、解ったよ──。本当に、解ったから。有り難う、葉月──」
「隼人さん──」
やっと葉月がホッとしたように微笑み返してくれた。
『捨て身』と言ったが……この『捨て身』は無駄にしないと隼人は心に誓った。
「昨夜、俺が言った事、覚えているか?」
隼人はそっと葉月の顎を掴んで、上に向けさせた。
「え? たくさん言っていたから、どのこと?」
「じゃぁ──覚えている俺の言葉、全部、忘れるなよ」
「う、うん……?」
そのまま隼人は目を伏せて、葉月の唇を塞いだ。
朝日の中──輝く二人の姿がそっと重なり合う。
その影が、リビングの床に揺らめく。
葉月の柔らかい唇を愛しながら、隼人はフッと『嵐が去った』と心の何処かで、そう思えた──。
・・・◇・◇・◇・・・
隼人自身が言うところの『嵐』が去って、一週間程──。
「おはようございます。御園大佐──」
葉月の目の前には栗毛の青年。
彼が、葉月お気に入りのティーカップを手にして厳かに大佐席の前にいるところ。
「おはよう、テッド。あなたも大変ね?」
「いいえ──。これも勉強ですから……」
彼は一生懸命『日本語』で話しかけてくる。
時々、彼は熱心に葉月に日本語について聞いてくる。
忙しいからと断って、ジョイに押しつけたことも何度もあったが、彼の今の目標は『フランク中佐』──つまり、ジョイのような米日語ばっちりの補佐官との事。
とにかく、数年……葉月も見てきたが、総合管理官の中では、彼ほど熱心な本部員はいないと思っている。
その彼が、厳かに差し出したのは……葉月が好きな『ロイヤルミルクティー』。
大佐室では『お茶くみ』など、させた事はなかった。
だったら何故? 彼が葉月にお茶を差し出しているかというと……。
「テッド。真ん前から差し出すんじゃないぞ」
キッチンの入り口で、腕組み睨んでいるのは『達也』。
そう──達也の『研修』の一部として『お茶くみ』をさせることになったようだ。
最初、葉月は嫌がった。
出来れば同世代の本部員達には外以外では、そういう『大佐』として威張りたくなかったから。
でも──。
「葉月、甘い! お前がそうして『姉さん気分』でいるから、やらなきゃいけない事、覚えなきゃいけない事を通り過ぎて行くんだよ! あいつらがフロリダに帰って日本作法を知らなくても良しとしても、この基地内の何処かで接待班として駆り出されてみろ!? 恥をかくのはお前だぞ!? 無論、あいつらも恥をかいて、傷つくかも知れないし!? あの鎌倉の御園准将の姪っ子が、そんな事も教えていないって思われるだろ!?」
達也のそういう『説教』に、なんだか太刀打ちできずに了解したのだ。
「今まで本部を維持する管理に忙しくて、何も教えていないからな?」
隼人すら……『達也の言うとおりだ』──なんて言う物だから。
「テッド、大佐と席を挟んで正面からではなく大佐の横まで回って、右側から差し出す!」
「は、はい……海野中佐」
テッドが慌てて、葉月の右側に回ってくる。
他の男の子も何人かここ数日、朝礼後に、こうしてお茶くみをしてくれているのだが、皆、達也に怒鳴られて『惨敗状態』である。
(この子が一番、落ちついているわね……)
達也に怒鳴られて、落ち着きを無くした男の子もいたが、テッドは落ちついていて、達也の言葉をちゃんと吸収して行く。
テッドが厳かに……やっと葉月の側にソーサーとカップを差し出してくれた。
「ご苦労様」
一応、ニコリと微笑んでおくが──微笑にて収めておく。
「……」
カップの取っ手が左側になっていたのだが……。
(今日は、もういいわね)
そう思って、右利きである葉月は取っ手を右側にそっとむき直した。
「テッド……大佐は右利きだ。左利きと判らない限りは右側にする」
「す、すみません……次から気を付けます」
達也の細かい観察に、葉月は飛び上がりそうになった。
葉月は苦い表情で、一口飲むだけ。
訓練前に物をあまり口にしたくなく、達也にも『一口だけで勘弁して』と伝えてある。
テッドが心配そうに、こちらを見ていた。
本当なら『味』などは、人の好みがあるので『上手』とか『好みじゃない味』もあるだろう──。
だけど……『毎日、入れる相手』に関しての点で言うならば『不合格』だった。
「葉月、はっきりいってやれ」
達也が真顔で詰め寄ってくる。
「……」
数日、この様子で……葉月はややウンザリ気味だったが、これも『秘書官教育』の為。
だが──葉月はスッと席を立ち上がった。
「ちょっと、いらっしゃい」
葉月はスッとした表情で、キッチンへ向かった。
テッドの不安そうな顔に、達也の訝しい顔。
それを横目にキッチンに入った。
「達也──同じ物を入れて」
「え……」
達也がちょっと苦笑い。
そう、達也も実は葉月から『合格』はもらっていない。
そしてそれは隼人も一緒で、『どっちが先に合格をもらうか』で、二人が争っているのも耳にしたことがある。
「葉月ちゃーん? なんでかなぁ?」
それはともかく『俺の威厳を落とすな』という達也の目が無言で訴えてきたが、お構いなし。
「大佐命令」
葉月が淡々というと、達也が黒髪をかきながら渋々キッチンに入ってきた。
達也がミルクパン片手に、浄水ポットに用意してある水を入れる。
「私は1:2でミルク多めね──」
「解っているよ」
達也がふてくされながら、鍋に入った水を火にかけ……紅茶葉を手にする。
「セイロンが多いみたいだけど、ミルクに負けない味を味わいたい時は、アッサムの方が良いかもしれないわ。だけど──私はアールグレイが好み」
葉月はそう言いながらテッドの顔を見た。
「お客様が来たときは、セイロンで良いでしょう。これが御園大佐室の味の基本にしましょう。一般のお客様用には、水とミルクは1:1でね」
「はい……」
「達也──アールグレーで入れて」
「はいはい」
葉月は達也のする事をキッチンの入り口で眺めた。
(ちゃんと覚えているのね……)
昔、半同棲をしていた時に、達也が何度も葉月のためにチャレンジしてくれた事を思い出す。
達也は鍋に入れた紅茶葉が開いて、色が出るまで目を離さない。
「このミルクティーは色々な入れ方、個人差があるのよ。『御園流』は紅茶葉の味が強くないとダメなの。達也──茶葉を殺さないでよ」
「オーライ」
鍋がグラグラとなる前に、達也が牛乳パックを手にした。
「テッド、いらっしゃい」
葉月は達也の横に連れていった。
「紅茶の色が出てきたでしょう? 葉が開いて色が出たら煮詰めないで、すぐにミルクを入れてね」
葉月が達也を見上げると、達也がこっくりと頷いてミルクパンに牛乳を注いだ。
そして、すかさず達也が中火にする。
やっぱり覚えているなぁ……と、葉月は達也を見上げた。
手順は解っているが、達也も後は『御園の加減』を極めるだけだった。
そこが一番難しいのだろう──。
「中火でじっくりね──」
達也は煮詰まらないように、ちゃんと葉もかき回す。
「このぐらいかな……」
達也が火を止めようとした。
「ほら……鍋の周りに小さな泡が煮立ってきたでしょう? ここで止めてね」
「はい……」
「できれば、お砂糖を2杯、途中で混ぜてくれるとちゃんと溶け込んでいて美味しいんだけど。お客様の場合は、それはしないでお砂糖を添えて出すこと」
「はい、大佐──」
達也が手慣れた手つきで、来客用のカップに紅茶を茶こしで注いだ。
「どうでしょう、大佐」
「なんとか合格──。ただし、私の監視付きだからパーフェクトじゃないわね」
葉月は一口味わって、達也にカップを突き返した。
『ちぇ……』
達也のふてくされた顔に、葉月はニヤリと微笑んだ。
「海野は御園流を良く心得ているから、細かく教えてもらいなさい」
「!」
達也がちょっと驚いた顔に……。
葉月がいちいち細かいことを説明しなくても、手順とある程度の加減は、海野が持っていることを葉月は示したかっただけだった。
「それから──」
葉月は今度は冷蔵庫に、手を伸ばした。
「やるからには徹底してもらうわよ」
葉月がやっと腰を上げたので、達也が驚いた顔に──。
葉月は冷蔵庫を開ける。
「この烏龍茶ね。私が訓練後の一杯に用意して作っているんだけど、煮出すときに、大さじ一杯の『ジャスミンティー』を入れる事」
「わ……葉月」
達也が苦笑いをこぼした。
「あら、言っておくけど。達也も時々飲んでいるわよね? これからは達也も作ってくれると助かるわ」
葉月がツンとして突きつけると、達也が肩をすくめて大人しくなる。
「それから……お客様の全員が『コーヒーが好み』とも限らないでしょう。いちいち好みを聞くことはないけど、そういう方のためにも、紅茶、日本茶、烏龍茶。もっとうるさく言うと、アイスティーの入れ方も覚えてね。それは達也も良く知っているし──。でも、一番良いのは水出しでポットに入れて八時間の抽出。ここまでこなせば、鎌倉の叔父も絶賛でしょうね──。だけど……仕事第一なのでそこまで凝らないようにね、ここは喫茶じゃないから。後は──出来れば……そうね、連隊長室ではリッキーが島のフルーツを使ってジュースも作っているわ」
「わ、リッキーらしい!」
達也もリッキーの細かさに驚いたようだった。
「この前は島蜂蜜も、お客様に差し出していたわ」
「へぇ……」
「と、いうことで……達也。そういう所も皆と一緒に考えて、御園大佐室の特徴を出してね」
『以上』
葉月はそれだけいって、席に戻った。
『勉強になりました』
テッドが笑顔で達也に一言。
『あ、ああ……アイツが自ら教えてくれるって珍しいぞ。頑張れよ』
『はい』
テッドは嬉しそうな笑顔で、大佐室を出ていこうとしていた。
「おっと……」
「あ、すみません。澤村中佐」
「いや、こっちこそ──ごめんよ」
テッドと隼人が同時に自動ドアで鉢合った。
隼人がファイルバインダーを小脇に抱えて自分の席へと戻る。
「お茶入れの勉強? 大変だな──男の子達も」
「班室どうだったかしら?」
隼人は席に着くなり、あれやこれやと多数の書類を手にしては、場所を変えて、整理を始めていた。
「ああ、デスクも入ってそれらしくなっていたよ。ディビットに皆のとりまとめをお願いしてね」
「そう、ファーマー大尉はどんなぐあい?」
「ああ、彼はあたりがソフトだから……下の子達も従っているよ。ちょっとエディが我が儘いう事もあるみたいだけど、そこも上手に兄貴らしくね。見ていて安心だよ」
隼人の満面の笑顔。
とても活き活きしていた。
彼とトリシアが数日前に、やっと島入りした。
葉月もディビット=ファーマーと初めて対面。
『初めまして、未熟者ですが宜しくお願いいたします』
金髪に、緑色の瞳──。
アンディと同じだったが、こちらはとても控えめで大人しそうなお兄さんというのが、葉月の第一印象。
『ご新婚だそうで……奥様は落ちつかれましたか?』
『はい、彼女も日本には興味があったようだったので、二人でワクワクしながら』
ニコリと微笑んだ穏和な笑顔に、葉月もホッとして……
(隼人さんとも気が合いそう──)
……と、ホッとしたのだった。
隼人は彼と供にチームを引っ張っていく心積もりは変わらないらしく、その意志もディビット本人と合わせているらしい。
『彼をサブキャプテンにしようと思っているんだ。彼、怖じ気づいていたけど、俺だってキャプテンは初めてだからって……一緒にやるんだと張り切ってくれているんだ』
どうやらそういう志の波長もバッチリ合っているようで、葉月も満足。
『お前が目を付けて、勧めてくれただけあるよ……』
ディビットが転属してくるのを、隼人は首を長くして待っていたぐらいだった。
「……」
葉月は、デスクで書類をいくつも広げて、あっちもこっちも、一片に手を着けている隼人の様子を眺める。
葉月がピルを止めていた事を知った朝……。
あれから一週間ほど経っている。
あれから……急に彼がいつもの彼に落ちついた。
夜も、貪るように葉月を求めなくなったし、だからといって全然求めてこないわけでもなく、以前通りの、バランスがよい彼に戻っていた。
『ああ……兄貴のこと? 話すからと言っていたじゃないか?』
あの朝、通勤中の車で隼人が言いだした。
『別に、急がなくても良いよ。葉月が話したくなった時で……』
『え?』
まるで『今までの隼人さんはなんだったの?』と、眉をひそめたくなるほど、穏やかに落ちついてしまったのだ。
勿論──この方が隼人らしくて、葉月も見ていて安心だったが。
(なんだか、話すタイミング……逃しちゃった気がするわ?)
葉月はちょっと気力抜けした。
でも……決めていた。
『打ち明ける』と──。
あの人が真一の本当の父親であって、そしてどんな仕事をしていて、葉月にとってどういう存在であるか。
そして今まで見てきた『存在』と、ここの所考え抜いた『現在の存在感』の事など、色々。
ただ……話す前に『真一』の反応が気になっているだけ。
(シンちゃん……今度はいつ帰ってくるのかしら?)
真一はまた野外訓練に出かけていて、寮にもいなかった。
「ああ……葉月。マリアから何かメールが来ていなかったかな?」
急に隼人に急ぐように問われて、葉月はハッと我に返る。
「え!? いいえ? マイクからも今日は来ていないわ」
「今度の休暇で横浜に帰るときに、湯浅の伯父さんにも話を持ちかけようと思うんだ。それで、後の共同開発についてはマクティアン大佐が上層部にあげてくれるっていうから。老先生が、マリアがどれだけの専門家を説得したか知りたいって」
「わ、解ったわ。マイクにもそう伝えておくわ」
「それから、今週末にフランスから俺の後輩とか来るだろう? そうそう! 去年さ、お前と一緒に見た生徒の中に……最後の滑走路デビューで『キャプテン役』した男の子、覚えているか?」
「勿論♪ 本当にあの子達の中から、私を飛ばしてくれる子が現れるって思わなかったわ♪」
ロベルトが昨年の実習生を一通り見学してきてくれて、隼人に近況報告もしてくれたのだ。
その中で一番光っていたというそのメンテ員の引き抜きに成功。
昨年、隼人と葉月の元から巣立っていった教え子が本当にやってくる!
それを聞いて、二人で喜んでいたのだ。
「お前に会うのを楽しみにしているらしいから、班室に到着したら顔見せてやってくれよ」
「ええ、勿論!」
「あ、いけね……。佐藤大佐が幾人か引き抜きを始めていて、ロベルトと三人でミーティングなんだ」
隼人が腕時計を見て、またバタバタと書類を探り出す。
「じゃぁ……悪いけど、行ってくるよ。訓練、気を付けろよ!」
隼人はノートパソコンに、ジョイが持ってきた訓練データーをある程度打ち込むと、またサッと席を立って大佐室を出ていったのだ。
「はー、どうしたんだろうねぇ?」
席について、こちらも旧型パソコンで打ち込みをしていた達也があっけにとられていた。
「休暇前に、進めるだけ進めておきたいんですって……」
葉月はちょっと溜息をつきながら、大佐席に戻った。
「先週のあのやつれ具合は、影ひそめちゃって……あれが嘘みたいだな」
「そうね」
葉月も安心した物の、なんだが脱力感で一杯だった。
良い意味での脱力感だった。
葉月も隼人につられるように、あの時は『一生懸命』だったから。
いつもの二人に戻って、急に力が抜けたというか、ホッとしたというか──。
それでも……隼人は時々、一人でジッと何かを考えている。
つい最近のせっぱ詰まったような『深い思い詰め』ではなくて……とても落ちついていて、葉月がうっとりと見とれてしまうほど、男らしい眼差しで夜空と水平線を強く見据えているのだ。
そこがちょっと気になってはいるが、後は本当にいつもの彼に戻っていた。
「お前さ──手加減してやれよな」
達也に急にそう言われて、葉月は頬を染めた。
「て、手加減って何よ?」
解っていたが、とぼけてみる。
達也が目を細めて、ジッと葉月を見ている。
「お前ってさぁ? 時々、男の事を解っていなくてさ。全然気のない素振りとか平気でしてヤキモキさせたかと思ったら、その気になったら、もの凄い全力投球でぶつかってきたりして……。振り回すんだよな、『男心』──」
長年の付き合い、そして元恋人。
その彼が、濁すことなくハッキリと葉月の事をそう語ったので、葉月は益々頬を染めてしまった。
「俺も散々、お前の小悪魔振りにやられたからな。ま、お前は小悪魔ぶっているつもり無いだろうけど?」
「当たり前じゃない! そんな風にして、接していないわよ!」
「それが解っているから、憎めなくてさぁ? 困ったお嬢ちゃんだよな。ホント。俺は兄さんの気持ち、解るぜー。俺は今、お前とは『同僚』という仲だから仕事は一緒で面白いけど、色恋に関しちゃ、一通り終わっているから気が楽だよ。兄さんは、そうじゃないからな。アレぐらいに崩れても当たり前だろうとおもっていたし。これからはちょっとは加減してやれよ。『夜』の方もな」
「あら、そぉ? ご忠告、有り難う」
葉月は何とか真顔を保って……熱い頬を横髪で隠すべく、ペンを握って書類に向かった。
「お前とこういう話が出きるようになるなんてなぁ。ちょっと嬉しい」
達也のニッコリと優雅な笑顔に、葉月はドッキリした。
こちらの同期生もフロリダで一回りも二回りも大きくなってとても落ちついた男ぶりだった。
「俺も、兄さんの後の休暇のために、スケジュール詰めておかないと!」
達也も急に必死になって画面にかじりつき始めた。
達也は隼人と交代での休暇に、最初は渋っていたが……やっぱり甲府の実家にいつ顔を見せるかというと、この先も時間がなさそうだと言う事で、取る心積もりになったようだった。
葉月もクスリと微笑んで、自分も書類に向かった。
・・・◇・◇・◇・・・
そしてスケジュールが過密な隼人の仕事が、日々と一緒に順調に、こなされていった。
隼人の後輩、そして教え子と言ったフランスメンテ員も無事に班室入り。
「ディビット。日本人メンテ員が揃うまで、源中佐の許可をとって、他のメンテチーム内で訓練をする予定なんだけど──」
「ああ、解ったよ。キャプテンからあちらチームの補助員スケジュールを持ってきたら、皆で、どうやって甲板に出るか取り決めるよ」
ディビットも、隼人とは『同世代』という事で、こうした気楽な関係で隼人に接してくれて、徐々にサブキャプテンの雰囲気も醸し出し始めている。
隼人も班室はディビットに任せて安心だった。
そして……佐藤大佐に、岸本吾郎の引き抜きにストップをかけられた。
それは保留中の段階。
『さて──次は、晃司が来るし……』
班室を出て、隼人は次々と山積みの問題について整理する。
この日は金曜日で、明日の土曜は、本部端末のメンテだった。
そして──いよいよ隼人は土曜日の夕方、晃司と一緒に横浜へ帰省する。
腕時計を見る。
『もうすぐだな……』
隼人は廊下から見える海際の滑走を見つめた。
もうすぐ横須賀からチャーター便がやってくる。
それに幼なじみの『晃司』が搭乗しているはずだった。
隼人は急いで本部へ戻った。
「よーし、もうすぐお客様がお見えだ。ぬかりなく!」
大佐室に戻ると、達也が総合管理官の男の子達に『接待テスト』の如く、迎え入れの準備に追われていた。
テッドを始めとした男の子達が、狭いキッチンで右往左往。
葉月はというと、こちらはいつもの通り、ドッシリ落ちついて書類の書き込みをしていた。
「お帰りなさい──。お迎えはいいの?」
「ああ、一度来ているから来なくていいって言われた。その代わり……一緒に帰れるようにちゃんと仕事片づけておけってうるさくってさ」
「ふぅん♪ なんだか仲良しさんで一緒に帰省っていいわね!」
「あ、お前にもお土産買ってくるよ。ほら……この前も食べ損ねた『中華まん』!」
「うん! 楽しみ〜!」
葉月もきちんと送り出す心積もりのようで、とても穏やかな笑顔だった。
「葉月……あの……」
「なに?」
隼人は言おうとした言葉を躊躇って……そしてやっぱり彼女の輝く笑顔にドキリとしながらも……
「えっと……なんでもない……」
「……? そう?」
……言葉を飲み込んでしまった。
「さって……俺がいない間の事を空官の男の子達にも指示残ししておかなくちゃ」
そうしてバタバタした雰囲気の大佐室。
16時が過ぎて葉月の後ろの大窓に飛行機が一機、着陸したのが見えた。
(来たな……)
そう思いながら隼人もそわそわ。
キッチン前の達也達のテンションもあがってくる。
葉月はいつも通りの落ち着きだった。
ややもして……。
「お、お嬢……いらっしゃったよ……」
ジョイがちょっと固まった表情で、大佐室を開けた。
そして──『どうぞ、こちらへ』とお客様を通そうとしている。
「よ! 隼人、元気だったか?」
相変わらず、地味なスーツを着てやって来た結城晃司が気さくな笑顔で入ってきた。
そして──。
「お邪魔するよ。元気だったかな?」
もう一人……スッとした紳士が晃司の後に入ってきた!
そう……隼人の父親『和之』だった!
「お、親父!!」
「お父様!」
勿論、隼人と葉月は驚いて立ち上がった!
『来る』なんて連絡は一つも受けていなかったからだ。
そして達也も、見慣れぬ紳士が隼人の父親と知って、ピッと緊張したようだった。
「なんだかねー、色々と気になって急遽、右京君に無理言って許可をもらって来ちゃったよ」
和之のにこやかな笑顔はすぐ葉月に向けられたのだ。
「まぁ……! お父様ったら! 驚かせて!」
葉月もいつものように、嬉しそうに和之に駆け寄っていった。
「アハハ。元気そうだね……これ、お土産だよ。皆で食べなさい」
和之が大きな紙袋を、葉月に差し出す。
「わ……いい匂い……。え? もしかして?」
「中華街の肉まん……私のオススメだよ? レンジで暖めて食べられるからね」
「わぁ! 食べたかったんです! 頂きます、お父様!」
それを見て、隼人はチッと舌打ちをした。
(俺が約束をしていたのに!)
隼人が敵対心いっぱいの眼差しを向けたところで、和之と視線があった。
すると……いつもは意地張り合いの男親と息子なのだが。
和之が隼人を見るなり、ちょっと表情を哀しそうに歪めたのだ。
「?」
そして、キッチン前で大騒ぎの葉月と達也を背にして、和之が隼人の側にやって来た。
「なんだかな……ちょっと気になってな」
「なにが?」
「お前が休暇を取るって言うから、何かあったのかと……。お前……ちょっと痩せたか?」
「!!」
だいぶ精神的にも落ちついてきたし、充実感も戻っていたけど、顔にはまだ『様子』が残っているようで隼人はドッキリした。
「……何か、あったのか?」
和之が葉月を気にしながら、そっと呟いた。
やっぱり……父親だと隼人は心が崩れそうになった。
そして──。
「ちょっとだけ……外、付き合ってくれるかな」
「構わないが?」
隼人はキッチンの様子を見つめながら席を離れる。
「ちょっと出てくるよ」
隼人が父親と並んで、外に出ようとしているのを葉月と達也が、訝しそうに見つめ返してきた。
「いやー歳かねぇ? 手洗いが近くてね……機内で我慢していたんだ」
和之が冗談っぽく誤魔化してくれたが、隼人は苦笑い。
なんとか二人で外に出た。
廊下にある喫煙ソファーまで和之を連れだした。
「どうした?」
いつものグレーの三揃えのスーツに白いシャツ。
そして首には葉月がプレゼントしたブルー色のアスコットタイをしている父親が、神妙そうに隼人を見つめた。
「色々あって……でも、俺も葉月も大丈夫だから」
「それならいいが……」
「横浜に帰ってから、親父に相談しようと思っていたんだけど」
「──!? やっぱり、何かあったのか?」
「……その、ここずっと考えていたんだけど……」
隼人はフッと父親から視線を逸らして、頬を染めて俯く。
「な、なんだ? 美沙も心配していたぞ? お前が休暇を取るなんて余程だって」
「その……身体を休めるのも目的だけど。ちょっとよく考えたいことがあって……」
「なんだ? それはいったい!?」
心配そうに詰め寄ってくる父親に、隼人はもう一度照れくさそうに黒髪をかく。
そして息を吸って、和之を真っ直ぐに見つめた。
「葉月と『結婚』……しようと思っているんだけど」
「──!? 結婚!!?」
父親がもの凄く驚いて、瞳を見開いた。
そして……隼人はまた、そっと照れて俯くだけ──。