そんな日々が何日経っただろう?
葉月が訓練に出て行ったある午前。
隼人と達也はお互いに向き合った席で無言で……それぞれ仕事をしていた。
「おーい? 兄さん?」
「!」
達也の声がして、隼人はハッと顔を上げた。
「……」
額に汗が滲んだ。
そう……どうやら少しばっかりうたた寝をしていたようだった。
そんな事、今までなかったのに──。
「……」
恐る恐る達也の方へ顔を上げると、彼がちょっとしらけた目線で隼人を見つめている。
「寝ていたな」
ハッキリ突きつけられた。
「……どれぐらい?」
誤魔化しようもないので隼人は、素直に尋ねてみる。
「俺が発見してから、五分ぐらいかなー?」
「そ、そう──。有り難う……気を付けるよ」
隼人が御礼を言うと、達也が拗ねたように鼻息を飛ばした。
そして……
「なんだかやつれたように見えるのは、俺だけだろうか?」
彼は腕を組んで、椅子を回転させ大窓に向かって呟いた。
「……やつれた?」
隼人は頬に、そっと手を当てた。
そうかもしれない?
自分の感情がコントロールできない日々が続いていた。
そして……完全に溺れている。
──葉月に──
いつだったか彼女に『支配されている』と思っていた時は、出したい力を出せないもどかしさを彼女に『制限されている』と思ったが、今度は逆だった。
出したい力を、思う存分に彼女にぶつけていた。
葉月は抵抗するどころか、本当に言葉通り『奪われても良い』というぐらい……隼人の激しさに従順すぎるのだ。
「男として解らないでもないよな〜? 最近の葉月はめちゃくちゃ『可愛い』……」
毎日顔をつきあわすようになり、毎度の『うるさい口喧嘩同期生』である達也ですら……近頃の葉月はそう見えると解って、隼人はヒヤッとした。
男として解らないでもない。イコール……溺れていると見抜かれている?
「俺が兄さんの立場だったら、もう……側に置いておきたくて仕様がないぐらいかもな〜? 外では以前の顔だけど、この大佐室では俺とも気心しれているせいか、みょーに……輝いているんだよな? 女として──」
達也がシミジミと呟いて、やっと隼人に向き合った。
「それから……もうちょっと『俺』っていう相棒がいる事も思い出して欲しいな。一緒に『目撃』したのに……兄さん、俺が転属してきてから一言も相談してくれない」
そう……やつれたというなら、『それ』も原因の一つだろう。
不安が彼女を求めて縛り付けているとも自覚していた。
なのに……身体と心が言う事を聞かないから……困っているのだ。
だが──勤務中にこれでは『問題』だ。
もう限界はそこまで来ているのかもしれない?
「……俺ってさぁ? 元秘書官だろ?」
達也が勿体ぶるように何かを告げようとしている。
「調べたんだ」
「調べた?」
「ああ。フロリダを出る前に──ちょっと理由を付けてジョンの所に行ったんだ。ブラウン少将秘書官室でね……『隊員データー見せてくれ』と。ま、あれやこれや理由つけて……本当はいけないんだけどさ。俺って運良くジョンより上の『主席側近』で、元はあの部屋の『長』だったわけだからー」
「!」
つまり将軍秘書室でしか解らないデーターを達也が探ってきた……と言うこと!?
隼人は驚いて、目が覚めた!
「でも……兄さんの中で、ちゃんと自身での消化が出来ているなら余計な話はしない方が良いと思って、言うまで黙っていたワケ。でもさ……日に日にやつれていくじゃないか? それって我慢しているんじゃないのかな〜」
「……」
ごもっともで……隼人は達也をジッと見つめた。
「聞く勇気ある? と、言っても確かな情報じゃないぜ?」
達也が変に真剣な顔をしつつも、スッと目を逸らした。
「俺から質問する」
「いいぜ?」
隼人も深呼吸をして、達也に臨んだ。
達也から聞きたくないことも出てくるかもしれない。
そんな恐怖心を抱いてしまい……情けないが自分が知りたい分だけ聞こうと思った。
「その男──軍の人間?」
「……その男に関するデーターは何処にもなかった」
それだけでも充分な答えだった。
だが──まだ、気になることがある。
「秘密裏に動く隊員が存在すると聞いたことがあるけど……そういう隊員のデーターは?」
「ちゃんと把握できるようになっている。ただし、極秘情報」
達也が淡々と答える。
「その極秘データーでも彼はいなかった?」
「そう言うことになるかな? 俺も秘書官になってから……ミャンマー救出隊の男が気になって、数年前に調べたけど、その時もいなかった。数年経っているからデーターも変わっているかと思って調べたけど、今回も見あたらなかった」
「他に? そういうもっと極秘の情報は?」
「そうなると、もう──中将以上のレベルの範囲になると思うな」
「じゃぁ……あるのか……?」
「でも少将室でも、中将周りの秘密裏隊員のデーターは把握できるんだけど」
「じゃぁ……軍の人間じゃない?」
「そうなるかな……」
「俺は……軍人と感じているんだけど」
「俺もだぜ?」
「……」
話が止まった──。
(軍人でないなら……もう、何も手がかりはないじゃないか?)
隼人が唇を噛みしめていると、達也が溜息をこぼした音が届いた。
そして達也が言い出した事は……。
「俺……思うんだけど?」
「なに?」
「この際、葉月にハッキリ聞くとかサ……。でなければ、スッパリ忘れてあげるか……だな?」
口では簡単に言えるのだ。
隼人だって今まで、葉月の痛いところにあたるのだろうと、最低限、気にしないように努力した。
それに葉月は、あえて……隼人に告白してくれた部分もたくさんあった。
それでも尚……『言えない』部分が存在しているようだから、聞けない──。
それに──今の葉月との状態で聞いてしまうと……『やり直すって言っているのに……信じてくれないのね』……そんな風にも取られ兼ねない。
隼人はまたもや……ボールペンを握りしめつつ、唇を噛みしめた。
「ごめん……口では簡単に言えたな。今のこと──」
隼人の様子を見て、達也がちょっとしょんぼり俯いた。
隼人もハッとする──。
「いや……確かにそうだと思うし」
「まぁ……そういう風にも考えられるよって、それが言いたかっただけ。だって……もう、その『谷村の兄ちゃん』? それらしき男が見あたらないんだ。腕が立つなら、フロリダに絶対にいると思ったんだけど──。小笠原にいるなら……葉月と頻繁に会える距離だからこれもなさそうだし?」
「葉月は……フロリダにはいないと言っていた」
「それは嘘ではなさそうだな……。本当に見あたらなかったから……」
「そう──。サンキュ……達也。ちょっと、落ちついた」
なんだ……話をこうして聞いてもらえるだけでも、随分と気が楽ではないか……。
隼人はそう思って、久し振りに落ちついて微笑んだような気がした。
「ちょっとだけ、兄さんの役にたてて、俺も嬉しいぜ? なんたって──。兄さん以外の男は認めないんだ。俺──!」
拳を握って断言する達也に、隼人は心より感謝をしていた。
「さ……。ちょっと気持ちを入れ替えなくちゃな……」
「そうだぜ〜? 来週、引き抜いたメンテ員の班室が出来て、勢揃いだろう? 踏ん張りどころだぜ? 恋も大事だけど、兄さんらしくないって……ちょっと俺も調子狂うよ〜」
「アハハ……そうだな」
隼人が笑うと、達也もホッとしたのか柔和な笑顔を見せてくれて、彼は彼の仕事に集中し始めた。
『ハッキリ聞くか……』
それが出来ないなら……
『スッパリ忘れてあげるか……』
その『忘れる』に何度もチャレンジしている。
今までは……サラッと何もかも受け入れられたのに──。
何故? その谷村の男らしき彼がこんなに気になるのだろう?
葉月と一番長いこと……付き合ってきた縁ある男だからだろうか?
近頃、隼人はそんな風に思っていた。
・・・◇・◇・◇・・・
午後──隼人は、細川に呼ばれた。
「まぁ……そこに座れ」
ロイの連隊長室があるすぐ側──。
そこに細川の中将室があった。
ロイの連隊長室のように立派であるが……秘書官は少ないようだった。
白髪混じりの50歳ぐらいの秘書官が、隼人に日本茶を持ってきてくれる。
(なーんか地味な将軍室だな?)
細川の『ロイよりでしゃばらない』という信条が、そこに滲み出ているような気がした。
ややもして、細川がドッシリした中将席から、書類を手にして応接ソファーにやってくる。
「これだ。確認してもらおうか?」
「有り難うございます」
細川が差し出した書類を、隼人は手にして眺める。
それは……『日本人メンテナンス員』だった。
フロリダから……最後の引き抜きをしたマリア推薦の若い男の子を入れて四人。
そしてロベルトが、フランス航空部隊から隼人の後輩や教え子を中心に四人。
隼人を入れて九人。
そして葉月ご推薦の岸本吾郎が引き抜けたら十人。
それを見て……細川が……『足りない』と言い出したので隼人はヒヤッとしたのだ。
もう……それ以上の引き抜きは式典には間に合わないと思ったから──。
すると──。
『後は日本人で固めるというのはどうだ? お前が日本人キャプテンだ。小笠原で日本人中心の特有チームを作っても良いと思うのだが──』
隼人の理想は『源中佐』だった。
彼のように外国人と日本人をバランス良く取り混ぜ扱って、それでいて日本人でキャプテン。
最初は十人で、十機あるコリンズチームの機体を一人一機、皆で力を合わせてやるつもりだったが。
『最初からそれは無茶だ』と細川に叱られたばかりだった。
『仕方がない……ロイの無茶にお前も巻き込まれたな』
細川が呆れたようにそう言って、だったら……日本人は俺に任せろとばかりに、この時期に来て、本島航空部隊にいるめぼしい隊員を調べてくれたのだ。
「日本人をここに転属させるのは簡単だ。ここが今は国内トップの基地だから喜んでくるだろう──。移動しやすい男共を選んでおいたぞ」
「……」
隼人は唸った……。
自分がフロリダやフランスで目を付けたような条件の男達ばかり。
「……私、間違っておりました。灯台もと暗し──。側にも目を向けるべきでした」
「まぁ──。そう気に病むな。フロリダとフランスからの引き抜きは必須だったわけだ。六月から動き始めていたそうだが? この短期間でお前とハリスは良くやった」
細川が日本茶をすすりながら無表情に呟く。
彼にそう言われると、隼人もホッとした。
「こちらで……お願いします」
「そうか……。だったらついでに『総監』も付けようと思っているが? その男に引き抜きを任せても良いだろうか?」
「総監……? ですか?」
「そうだ。私は空を飛ぶことは良く知っているが、メンテはさっぱりだ。その手の『監督』を付けると言っているのだ」
『ひえっ!』と、隼人は背筋が伸びた。
細川が一人がいるだけで、神経ピリピリに訓練をしているのに、その上さらに総監がつくのかと!
「あの……他のメンテチームに総監はついておりませんが……」
自分だけ子供のようなキャプテンとして見られているようで、隼人はちょっぴり納得行かなく、恐る恐るながら細川に僅かな抵抗をしてみた。
すると──あの鋭い眼光で鬼将軍が隼人を一睨み。
隼人は冷や汗を流しながら……また背筋がさらに伸びた。
「ふん。すぐに出来ると思ったら大間違いだぞ。澤村──」
「ご、ごもっともです」
確かに。結局、最後に細川の力で総勢十五人ほどのメンテチームを作れるようになったのだ。
なにも抵抗が出来ずに、隼人はそのまま細川の言う事に従った。
「まぁ……総監と言っても、お前が上手くチームを回せるようになったら外そうと思っている」
「では……その総監と仰る方は? 短期間の為に小笠原に来てくださるのですか?」
「いいや? その男は既に小笠原にいる」
「え!?」
隼人はまたビックリして頭の中に、どの上官がつくのだろうとザッと思い浮かべた。
「六中隊の佐藤だ」
「ええ!? 確か……教育隊の中隊長では!?」
「ああ……その佐藤だが?」
そう──葉月の甲板復帰のトレーニングを受け持ってくれた『伊藤』や『中嶋』が所属するあの六中隊だ。
あの中隊は、中隊というが小笠原の中では特徴的な構成の部隊だった。
『教育』と名が付くだけあって、その手の教官達を集めている部隊。
あのマクティアン大佐もこの部隊配下で『工学科』を取り締まっているのだ。
「佐藤は、結構、暇を持て余しているそうだ。話を持ち込んだら即刻、快諾してくれた」
「佐藤大佐が──!」
「あいつも昔は、結構、名が知れたメンテナンス員だったんだぞ? 知らなかったのか?」
「はい……」
「あそこは『老いぼれ部隊』などと、若者達が言っているそうだな?」
隼人はドッキリ。
確かに現役バリバリの若い者達は、そういって笑っているところがある。
隼人はそうは思わないが、確かに全盛期を下り始めたおじさん達が、最後に回される部署というイメージがある。
それが伊藤のような熟練だったり……。
その中に将来有望な『教官職希望』の若者が混じっている。
それが中嶋のような男。
「お前達には解らないだろうな? やりたくても出来なくなる『老い』というもの。だがな──身体は動かずとも、ついていかずとも……お前らなんざの若僧よか、頭は立派に働くぞ」
「仰る……通りでしょうね」
隼人は苦笑いで従った。
確かに細川はもう戦闘機には乗れないだろうが、頭でコリンズチームを、ものの見事に動かしているのだから──。
「ジジ捨て山の存在を知らしめてやると、佐藤は張り切っている。お前の許可も取っていないわけだが、佐藤はとっくに引き抜きの手配を始めているしな?」
「では……これは? 佐藤大佐が?」
「そうだ。お前がフロリダとフランスとあっちこっちと手配している間に、佐藤が国内を見渡してくれた物だ」
「そ、そうでしたか……」
「どうするか? 澤村キャプテン?」
細川はフッと目を閉じて腕組み……黙り込んだ。
(……そこまでしてもらって嫌だなんて言えるわけないじゃないか?)
それに……隼人は一人で自活したいとは思っているが、滑り出すまでの不安はある。
ここは細川に従った方が、フライトチームに迷惑は絶対にかからないだろう。
もし──コリンズチームが式典ショーに選ばれたら、絶対に失敗は許されない。
「宜しくお願いいたします」
隼人はスッと細川に頭を下げた。
「うむ。嬢にも私から説明しておく──」
細川が少しだけ満足そうにニコリと微笑んでくれた。
「早速──佐藤に挨拶をしておくと良いだろう」
「勿論です」
隼人はフッと佐藤の顔を思い浮かべた。
あまり言葉を交わしたことはない。
なんといっても小笠原全六中隊ある中の、中隊長六人の内の一人。
葉月なら常日頃、会話を交わしているだろうが……。
隼人はトリシアの父親であるマクガイヤー大佐とだって一度、二度言葉を交わしたぐらい。
結構、遠い存在なのだ。
だけど──。
(確か? 結構なおじさんだった気がするなー?)
中隊長連中でも、結構な高齢だった気がする?
でも──穏和そうなにこやかなおじさんだった気もする?
でも──『大佐』だ。
甘く見てはいけない。
隼人はなんだか思わぬ展開にドキドキしながら、細川中将室を後にしようと席を立つ。
「失礼いたします」
細川に一礼をして敬礼をすると……何故か彼がジッと隼人の顔を見ていた。
「あの……?」
相づちをしてくれない細川が、まだ、なにか言いたげな顔。
「澤村……」
「はい……」
「お前、疲れているな。さらに忙しくなる前に休暇でも取ったらどうだ?」
「──!」
ここでも『やつれている』と言われたようで隼人はドッキリと胸を押さえた。
「だいたい春の岬任務から、お前は働き過ぎだ。あのじゃじゃ馬のフォローに、メンテナンスチームの結成、フロリダ出張。さらに海野の引き抜きまでこなしてきて──精神的にも疲れているのではないか?」
らしからぬ鬼おじ様の心配振り。
そんな事は日頃は絶対に口にしない細川が……やっと口にしていると言った風だった。
きっと彼が口にするほどなら『限界』と見なされていると思った。
「これから二ヶ月ほど……式典とチームの結成完結まで、さらに忙しくなるぞ。海野が四中隊で式典ホストを引き受けたそうだが、尚更だ。それに聞く所によると? 嬢がまたもや何かを水面下で始めているそうだしな──。式典が程良く終わっても、その後もお前は振り回されるぞ」
「しかし──そこまでしなくても、土日はきちんと休養は頂いていますし」
「それはそれで……また……」
細川が湯飲みを手にして、また言葉に躊躇っている。
「一人きりになってみるのも、たまには良いぞ……。海野が来たのだ。お前が数日穴を空けても、もう四中本部は動けるだろう。たまには横浜の実家でゆっくりするなどしたらどうだろうか? お前は嬢にかかりすぎだ」
「──!」
葉月の側に居すぎる。
そう聞こえた。
「昨年……お前が葉月に気に入られてここにやって来た時。距離のバランスコントロールを取れているお前に私は感心をしていたのだが。しかし──こういっては何だが……近頃、距離を取っているのはお前でなく……葉月のような気もするし、かといってあの嬢も最近、妙にテンションが高いのが気になってな」
細川が、なにか含むような口調で日本茶を一口すすった。
二人の『熱愛』が今真っ盛りという事を言いたいのだろうと──。
「一度、離れてみるのも良き関係の一つの方法だと私は思うがね」
そういうと細川はスッと立って、自分の中将席に向かって行く。
「じじいの戯れ言だ。それだけだ──ご苦労だったな」
彼はそうして中将席に腰をかけて、手元の書類を眺め始める──。
「失礼いたします」
「うむ。ご苦労──」
隼人はなんだか自分が自分を一番掴めていないような感触を、細川にズバリと指摘されて──初めてそんな自分を振り返る気になったような気分だった。
そう──俺は今……おかしい。
隼人はすっと額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
「距離か……」
確かに、今の隼人は腕の中にガッチリと葉月を抱き込んでいた。
そして──離れられない。
いつの間に……?
葉月が側にいないと、不安なのは自分の方なのではないか──?
初めてそう思った!
廊下窓を見上げると、今日も晴天──。
小笠原は、まだジリジリと暑い夏のままだった。
・・・◇・◇・◇・・・
「ふーん、休暇ねぇ? いいんじゃないの?」
大佐室に戻って、早速達也に細川に言われた事を報告した。
すると彼の反応がそれだった。
午前中に、彼に何気なく話を聞いてもらった事で、いつも人に対して作っている壁が取れた気がしたから──。
「でもな……葉月が何て言うかな? この時期に……」
隼人は実際、業務的に許されるだろうか? と、スケジュールを眺めた。
やっぱり『ビッシリ』じゃないかと……。
そこで普通は休暇が取りたいのならガッカリするのだが……。
今の隼人は何故かホッとしている。
「やっぱり、無理だな」
隼人は自分の手帳をパタリと閉じて、デスクの横に置いた。
「取れよ……。そうだな? 来週の来日組メンテ員の受け入れが終わって……それで、本部端末のメンテが終わる頃にでも──。あ! そういえば、兄さんの幼なじみが来るんだろう? その時、一緒に帰ってみるって言うのも良いかも知れないぜー!」
達也はなんだか隼人に休暇を取らせたい様子。
(俺がいない間に……葉月に何かしないだろうな?)
ふとそんな事が浮かんで、隼人は自分でショックを受けた。
今……誰を信じている?
今……誰を疑った?
葉月も達也も……隼人には一番信頼できる仲間じゃなかったのか?
『フェアで行こう』と、達也をマリアから引き離してでも真実が欲しい、そして──そんな必要はない、終わった過去だと割り切っている葉月の目の前に、元・恋人の達也を連れてきたのは自分じゃないか──!!
万が一、ここで達也がそういう『下心』を持って隼人を陥れようとしていたとしても、『それがどうした。葉月は俺の女』と胸を張れるのが、隼人の『真実』だったのじゃないか!?
──『俺は最低だ』──
「……」
隼人は椅子に座ったまま、かがみ込んだ。
──『気分が悪い』──
体調でなく……なにもかもにめまいが起きそうな程に混乱し始めている自分を自覚し始めた。
「に、兄さん?」
達也が心配そうに立ち上がった。
「だ、大丈夫。ちょっとめまいがしただけで……」
「大丈夫かよ──!?」
心底驚いた様子で、達也が向かい合いになる隼人のデスクにすっ飛んできた!
「顔色が悪い……兄さん、やっぱりここの所頑張り過ぎなんだ」
「葉月には……言わないでくれ」
「……でも、今日だけでも早退した方が良いような気がする。朝も顔色が良くなかったし……だから俺、やつれているって言っただろう?」
「……大丈夫、少ししたら収まるから」
『こんな俺に優しくするな──』
なんだか隼人は達也の心配が本物だと解っていながら、心がそう悪態をついていた。
それにも気分がおかしくなりそうだった。
「ただいま──」
そこへ班室回りに出かけていた葉月が、大佐室に帰ってきた。
「葉月──」
達也がどうして良いのか解らない顔で、立ち上がる。
「──!? どうしたの!?」
葉月も気が付いたようだった。
隼人はその声を聞いて、無理に身体を起こす。
「何でもない」
額に浮かんだ汗を拭って、いつも通りにノートパソコンに向かった。
「何でもないって……顔色、悪いわよ?」
「……少し、体調が悪いだけだ」
「もう、いいから──」
葉月が慌てるように隼人の横に来て、ノートパソコンの扉を閉める。
「何するんだよ!」
「!」
普段は怒鳴らない隼人が声をあげたので、葉月まで固まった。
「いや……俺がやらないと……」
「だったら──。二時間、時間をあげる。マンションに帰るなり、医務室へいくなり、カフェで一息つくなりしてきて。その間は大佐室にいたとしても、一切──業務は停止よ」
あの凛々しい大佐の顔で、葉月はキッパリ言い付ける。
「これ、借りるわよ」
その上、隼人のデスクにある空軍管理の書類にディスクをサッと取り上げられた。
「待ってくれ……俺は!」
「澤村中佐!」
葉月のあの低くて威厳ある声が突き刺さる。
「私はね……最悪の事になるのが一番困るの。あなたが倒れでもしたら、今後の空軍管理はどうなるの? 今なら、まだ大丈夫よ。行ってらっしゃい」
「そうだよ……兄さん」
葉月の顔は本気で、そして──大佐の顔だった。
「解りました」
隼人はスッと立ち上がる。
そして──
「そこまで仰って下さるなら──早退でも構いませんでしょうか?」
もうやけくそだった。
それにこうまで切り捨てられては、もう一度業務に戻る気も……もう、なかった。
「良いわよ。ただし……今日だけね」
声が和らいだ葉月の顔を見下ろすと……彼女は心配そうに瞳を潤ませていた。
それに……『今日だけ』。
明日からはいつも通りにいなくちゃ困る。
それを聞いて、隼人はなんだかホッとした。
「有り難うございます」
フッと肩の力が抜けた。
それですぐに帰り支度をする。
力が抜けた隼人を見て……葉月も達也も心配顔ながら、ホッとしている様子だった。
「これ──車のキー」
葉月がポケットから赤い車のキーを差し出してくれた。
「ああ、じゃぁ……迎えに来るよ」
「どうしても必要だったらね。今日はうちでも何かするのは禁止。ご飯も作らないで」
真顔で葉月は、怖いくらいの視線で釘をさしてくる。
「解った……」
そのキーを受け取って、隼人はノートパソコンをケースにしまい込む。
「葉月、達也──悪かったな。じゃぁ、お先に」
「お疲れ様」
「兄さん、ゆっくり休めよ」
二人が心配そうに見送ってくれた。
『あれ? 隼人兄?』
『隼人──?』
大佐室を出ると、早退など滅多にしない隼人の帰り姿に、ジョイも山中も驚いた声。
それにも面と向かう気力もなく、隼人は急ぎ足で本部を出た。
駐車場に出て、滑走路から吹き込む潮風にあたる。
昼下がりの爽やかな風に、青い夏空──。
たった一人になってその風にあたって……やっとホッとしたような気がした。
何故だろう──?
──『一人きりになってみるのも、たまには良いぞ……』──
急に細川の声が聞こえてきた。
「そうだな。それもいいかもしれないな──」
やっと細川の言葉と心配が身に染みてきた気がした。
隼人は赤い車に乗り込んで──丘のマンションには戻らずに、暫く海沿いをドライブする。
そして──途中で見つけた海岸沿いの白くて小さなカフェに寄ってみた。
基地からは遠くて日常では通うことが出来ない観光地にあるカフェだった。
そこで一人、アイスカフェオレを飲みながら、暫くマリンブルーの海を眺める。
その間に気持ちが固まってきた。
『休暇を取ろう』と──。