夜空には満天の星。
そして闇に包まれた紺碧の海。
さざ波の音──。
水色のカーテンが揺れて、そっと潮風が青と白色の部屋に吹き込む。
この程度の『そよ風』など、そこにいる二人の情熱を冷ますには……少し……。
「ああ……あ、もう、ハ、ハヤトさ……ん」
「なに? まだご不満かな……」
「もう……ちょっと……」
「ちょっと、なに?」
「もっと……」
「もっと……ね?」
水色のシーツの上。
日に焼けた黒髪の男と、色白の栗毛の女が向き合っていた。
彼女は向き合って座っている彼の腕にがっしりと抱きかかえられて、そして、彼女は彼の肩に歯を立てて背中にしがみつく……。
「あっ……」
彼女がしっとりと汗を滲ませた身体で、隼人の肩を押しのけるように背を沿った。
彼女が昇った。
それを確かめて、隼人はフッと一人ほくそ笑む。
身体を震わせている彼女をそのままシーツの上に押し倒した。
今度は俺の番──。
「も、もっ……もう……」
彼女の足が暴れた。
それを片腕できっちり押さえ込んでから、隼人は彼女の首筋に唇を寄せる。
「葉月……どう?」
耳元で囁く──。
彼女は首を振って、ただ……隼人の両肩に爪を立てて首を振る。
『だめ……だめ、だめ……』とずっと首を振っていた。
彼を押しのけようと腕に力を込めて、もがくように首を振る。
──『どう?』──
なんて……本当は聞く意味がない。
彼女は今、もう何もかも考えられないほど隼人の手の中。
そんな事、聞かなくても……ちゃんと解っている。
こんなに乱れているじゃないか?
こんなに──。
隼人がすることで、彼女が頬を染めて汗を滲ませて、我を忘れるほどもがいている。
喘いでいる。
よがっている。
それでも『どう?』と尋ねてみて、如何に余裕がなくなっているか、ただの『確認』だった。
そう……それは以前と違った反応。
いまなら……彼女が押しのける力は、耐えられない程の官能を感じているから。
以前の隼人が、ちょっと不満に感じていた『反応』とは違うことも、彼女が身体で仕草で感覚で……全部、隼人に正直に伝達してくれていると解るから──。
だから隼人は、構わず肩の力で、遠慮なく彼女の腕を押し返す。
彼女の爪が痛い。
痛いほど……それが葉月からの『返事』だった。
明日になれば、もしかするとクッキリと爪痕が残っているかも知れない。
それでもいい……。
隼人は存分に、今にも噴き出しそうな想いを彼女に注いだ。
「……い、いくよ……」
『うっ・・』
隼人の詰まった声が、小さく響いた。
「はぁ・・はぁ……あ、ああ……隼人さん、ああ『すごく』イイ……!」
彼女の感極まった泣きそうな声。
隼人もこの時は何もかも吹き飛ばされるぐらいの熱い感触を堪能する。
目を開けると、ガラス玉の潤んだ瞳が彷彿と隼人を真っ直ぐに見つめている。
「俺も……サイコウだ」
それだけ呟いて、彼女の身体の上に力を抜いた。
「もう……いつになったら小笠原は涼しくなるんだ」
そう息を吐きながら、いつもの口調に戻った隼人に葉月がクスリと、胸の下で笑った。
「解っているくせに──。もうすぐ隼人さんがここに来て、一年よ?」
だが……葉月の落ちついた言葉ではあるが、彼女の声はまだ息切れていた。
「あー。去年はそうは思わなかった。こんな熱くなかったし」
「……」
葉月が解っているのか、ちょっと微笑んだだけ。
「あ、忘れていた」
隼人はすっと身体を少しだけ離して、彼女の白いプティングのような手のひらに収まる乳房の先に、『終わりの甘噛み』
そして彼女の顔を正面から見つめて、栗毛に指を通して『締めくくりのキス』
そうすると彼女が幸せそうに微笑む。
『また……やっちゃったなー』
隼人は一人心の中で呟いた。
どうも最近、いや? 任務から帰ってきてから どうも? 『頻繁』だった。
平日でもお構いなしに彼女との夜を楽しむ。
官能の世界を堪能する。
ぜんぜん……飽きない。
彼女がどんどん変わって、隼人をそこにいるだけで翻弄して、そして……引き込んで。
そして……彼女は益々『女らしく』なってゆく。
そう思いながら……隼人は葉月の『中』から、そっと去ろうと身体を引いた。
だが──
「あん……まだ、ダメ」
「ダメって……」
葉月が甘たるい声で、隼人の首に両腕を回して、引き止める。
葉月がスッと目を閉じる。
とても幸せそうに微笑みながら──。
「もうちょっと……一緒にいさせて」
「……」
「今、一番、隼人さんが私の側にいるから──」
「そう……?」
そのまま彼女の身体の上に戻った。
目を閉じたまま……微笑んだまま……、今、葉月が味わっている物。
前はこんな事、表現もしてくれなかったし……こんなに素直じゃなかったし……。
一年間、不満な事もあったけど……彼女がそこにいるだけで、それだけの満足感は得ていた。
なのに……フロリダから帰ってきてからの葉月は……。
隼人の中で、急に『匂い高き』女性に花開いたよう──。
そう……つい最近までは『ヴィジュアル』だけで、匂いはなかった。
『ヴィジュアル』の中の彼女は、真っ赤な薔薇に包まれて、花びらを隼人に吹いていたのに。
近頃は、芳醇な香りを放つ白い花園の中。
百合の花を手にしてジッと麗しい眼差しで、静かに花びらに口付けて隼人を見つめている。
その眼差しだけで……芳醇な香りを隼人に届けるような?
そんな静かに落ちついた雰囲気を、熱い薔薇の花びらの時より、感じていた。
──『今、一番、側にいるから』──
そう呟いた彼女の顔を、目を閉じて微笑みを浮かべている彼女を、隼人はずっと眺めていた。
栗毛を撫でながら……ずっと。
今まで以上に彼女がとても愛おしい。
去年よりもずっと隼人の心は狂おしく、燃えている。
もう、止まらないほど──。
そして、葉月がスッと目を開ける。
気持ちも満足したのか、隼人の下で両腕を頭の上に、伸びをするように伸ばした。
背を沿った彼女の胸が、隼人の素肌に押しつけられる。
まだ重なっているお互いの部分にゾクッとした感触が再び、波を打つように……。
隼人も少し震えた。
「……?」
そこで腕を伸ばした葉月の手先に、何かが当たった様で、彼女が急にいつもの落ちついた顔にハッと戻った。
「……これ」
葉月が笑いながら、手先に当たった『銀色のくず』を隼人の目の前にちらつかせる。
「そんなもの。笑いながら俺に見せるな」
隼人はムスッとして、葉月が目先でちらつかせた銀色のアルミパックのくずを、バッと奪い取る。
そして、むくれながらベッドの側にあるくず籠に放り込んだ。
葉月がクスクスと笑っている。
「お前、最近……時々意地悪いぞ」
隼人はその隙に、彼女の身体から離れた。
『あん……もう』
葉月が眉をひそめて、不満そうな顔。
隼人はお構いなしに、彼女からのいて横になった。
ちゃんと『避妊』を続けている隼人をからかうなんて……。
(まったく──)
やっぱり彼女には何処か操られているようで、どこかまだ適わない。
そこがまた面白いとも言えるのだが?
今度は『頑な』でなくなったと思ったら、変に『弄ばれている』感覚に陥るときがある。
『生意気お嬢ちゃま』といった所だ。
(ま。これぐらいいいけど……)
──かと思ったら今度は、後始末をする隼人の手先を面白そうに覗き込んでいる。
「お前、もう寝ろ!」
「アハ……だって……」
葉月の頭を手で払って、丸めた白いティッシュをくず籠に放り込む。
葉月はクスクス笑いっぱなしでシーツにくるまるだけ。
「その内に見ていろよ」
「そんなの知らない」
途端にいつもの素っ気なさで壁際に向いてそっぽを向くのだ。
隼人はため息をついた。
(ほんと、コイツは小悪魔か)
最近……そんな風に心で例える事も増えてきた。
隼人もシーツにくるまると、葉月がすぐに身体を反転させて肩に頭を乗せてくる。
「おやすみ……隼人さん」
「……ああ、おやすみ」
シーツの中で彼女から隼人の手を握ってきた。
そのまま……葉月が笑顔を浮かべて目を閉じる。
隼人もそっと微笑んだ。
なんて至福の時間だろう。
やっと手に入れられたような……そんな日々を噛みしめていた。
彼女の寝息が聞こえる。
隼人の顎の下にその息がくすぐるように──。
・・・◇・◇・◇・・・
「隼人さん! お願いがあるの──!」
朝、いつもの朝食を終えて……葉月はバスルームの洗面台で化粧中。
隼人はそれを待つために、カフェオレを楽しみながら、ダイニングテーブルで新聞を読んでいた時だった。
洗面台からそんな彼女の叫び声。
「なんだよ?」
ドアを開けて、彼女を確認する。
葉月はビューラーでまつげをカールさせている所だった。
フロリダで素敵な『姉様』が出来た影響だろうか?
近頃は訓練があっても葉月は多少の『お洒落』をするようになってきた。
それがまた……あまりにも彼女を輝かせ始めたので、隼人も嬉しいやら戸惑うやら。
「あのね? 今日、ゴミの日なんだけど……」
「ああ」
「私、昨夜の片づけでひとまとめにしたんだけど、キッチンの小さなゴミ箱あるでしょう?」
「それがまだ、まとめていないって事? 解った。しておくよ」
「ごめんね?」
彼女が可愛らしく微笑む。
その顔。
隼人はドッキリ、顔を逸らしてドアを閉めた。
(……いけない。どうも、最近の俺はやばすぎる)
胸を押さえた。
もう、夜なんて待てなくなるほど溺れたらどうするんだ? 俺──と……。
こうなりたくないから、当初は隼人側からセーブをしていたが、それが葉月からも上手く感じ取られて、彼女もセーブをかけてしまって。
それを取り除くのは、彼女の方がとても頑強過ぎて手こずった。
それが……こうなると、本当に手が着けようもない『邪な男心』。
(お、落ち着け……)
隼人は深呼吸をして、葉月に頼まれた事を全うするためにキッチンへ向かった。
コンロの脇にある小さなゴミ箱。
レジ袋を入れて、そこに料理をするときにサッと野菜のくずなどを
放り込んだり、切った袋などを放り込んだりしている。
それを葉月が家中のゴミをまとめている袋に放り込んで、口を結んだ。
そして、彼女が支度をしている内に、外に出て駐車場にあるゴミ捨て場に捨てに行った。
(なんか……この生活、慣れたな)
ずっと男独身暮らしだったのに。
随分と生活感が出てきたような気がする。
すっかりこの家の住人だった。
3階の葉月の部屋に再び戻ると、リビングには溢れるばかりの太陽の光がこぼれ……隼人はテラスに出て光を仰いだ。
「もうちょっと待ってね?」
元気良く出てきた彼女。
もう足元は『ソックス』ではなく……ストッキング。
こちらもフロリダから帰ってきての『変化』
勿論、履いていく『靴』は、ヒールがあるパンプスになっていた。
その『靴』は、マリアと達也が揃ってくれた『誕生日プレゼント』。
なんでも……マリアが言うには……。
──『あんな動きやすい靴を履いているから、いつでもOKとばかりに、暴れるの!』──
つまり──『暴れ馬防止策』という事らしい。
達也もそれに賛成して、二人で職場で履けるようなストラップ付きの……葉月でも履けそうな安定感ある太いヒールの革靴をくれたとの事。
『今日で27歳。今日から履くの』
八月六日。葉月の誕生日。
その日から葉月はストッキングにハイヒール。
ちょっとしたお化粧。
それで出勤したら、達也が大喜び。
『マリアも喜ぶ』と大絶賛だった。
ヒールにストッキングになった彼女の『エレガント』な小さな変化。
なのに──基地中の男達は見逃さない。
『ちょっと……最近、綺麗になったんじゃないか? 色っぽくなって』
隼人にからかいでも、驚きでも、そう告げに来る知り合いが増えた。
『さぁ? 毎日一緒にいるので、解らないな〜』
──なんて。隼人はいつもの天の邪鬼で誤魔化しているが、内心……一番側にいる自分がどれだけ『ときめいているか』なんて、一緒の部屋で勤めるようになった『新男相棒・達也』にだって悟られたくないところだった。
その恰好で、葉月が今……洗面台から出てきて次にやることは。
毎朝、決まっている──。
彼女がダイニングテーブルの端に置いている『モザイクの小物入れ』
赤とピンクの薔薇の模様が施してある高級そうな入れ物。
それに手を伸ばす。
指で中身をクルクルと回して……そして手の中に錠剤を握ってキッチンへ行く。
隼人は朝日を浴びていたテラスから、それを見つめていた。
『別に良いけど──』
以前ほど、気にならなくなった。
もう葉月が自分を受け入れてくれているという『確信』は充分に得ている。
なんで昨年はあんなに敏感に気にしていたのだろうか?とすら思えた。
ただ、あの時は『ピルさえ飲んでいれば、男の人と寝るのは怖くない』
そんな彼女のちょっと屈折した『防御策』が、本来の『服用する目的』とは不自然のように感じたからこだわっただけ──。
『ジャー』
葉月が水をコップに汲む音。
『あら? 隼人さん、捨てに行ってくれたの!?』
そんな声が聞こえてきた。
「ああ、手が空いていたから……」
『そこまで気遣わなくていいのに……』
「お前こそ、そこまで気にしなくていいよ……」
別に、これが初めての事でもなく、時々隼人がそうしている。
なのに葉月はそれでも『これは私がする事』と決めているのか、毎回、そういう──。
おそらく料理に関しては、隼人が台所に立つことが多いせいだと思っていた。
時には葉月にも台所仕事は譲る。
その時は、隼人が片づける。
それは逆も同じ──。
どちらかが忙しい時は、全面的に片方が台所仕事をするというのも、この一年で、すっかりお互いの『バランス』が取れるよう確立されてきていた。
隼人にしてみると『快適』だった。
葉月も、そうだと信じている。
「お待たせ。もうちょっとしたら行く?」
「ああ、そうだな」
「ママったら、帰省したときの荷物にたくさん入れるんだもの」
葉月が溜息をつきながら、開けているモザイクケースを指でかき回した。
「なに? サプリメント剤とか?」
「そうそう……飛行機乗るならどうのこうのって……。貧血気味になったらいけないから鉄分を飲めとか……。カルシウムを採れとか……科学的な話になるとうるさいの」
隼人もフロリダで荷物を作ったので、それは知っていた。
登貴子がマルチビタミン剤などをたくさん入れたのだ。
それも毎朝、葉月は飲んでいる様子。
「隼人さんも飲んでよ」
「えー? 俺はいいよ。別に──」
「いっぱいあるんだもの!」
「気が向いたらね」
素っ気ない隼人の反応に、葉月はむくれて自室に荷物を取りに行った。
そして二人で玄関を出ようとする。
葉月は腰をかがめて、マリアと達也が贈ってくれたヒールのストラップをくるぶしで止める。
「さぁ……行こうか」
隼人が腕時計を見ながら、玄関のドアノブに手をかけた時──。
葉月に後ろから、袖を引っ張られて振り返った。
ヒールを履いた彼女の顔はすぐそこに……。
「……」
「なんだよ──」
その潤んだような眼差しに、隼人はちょっと頬を染めながら素っ気なく振り払おうとした。
そういう『顔』をしていたのだ。
「達也が先に行っていると思うんだ。アイツ、早いから──」
「……ねぇ……」
そうして払おうとする素っ気ない隼人に構わず、葉月がまた袖を引っ張る。
「ねぇ……私を見てよ。最近……時々だけど、どうして私の目を避けるの?」
悟られていた。
「ねぇ……?」
また袖を引っ張られる。
「……」
暫く、暫く……隼人は胸の中で渦巻く物と闘って……。
葉月に振り返った。
「……避けていないよ」
「……!」
葉月の肩を抱いて、そのまま力任せに彼女の背を玄関の鉄ドアに押しつけた。
『ん──っ』
葉月の背中をしっかり抱きしめて、上から唇を押しつけた。
『うんっ……』
隼人の荒い口づけに、葉月がうめく……。
そして……彼女の肩から力が抜けて、手に持っていた黒いリュックが、ポトリと足元に落ちた。
濃厚な口づけは、隼人だけの行為でなく葉月も必死になるように隼人に応えてくる。
「だ、だめだ……」
隼人はそうは呟いた物の……何故か余計に葉月を強く奪っていた。
「……う、ん……」
うっとりとした葉月の眼差し。
ピンと立っている艶っぽいまつげの影から、うっすらと隼人を見つめていた。
隼人は、振り切るように葉月を押しのけた。
「そういう事だから……あまり刺激を与えないでくれって事なんだけど」
また葉月を真っ直ぐに見れずに、顔を背けた。
これ以上は『危険』だった。
朝? 今が朝だって?
え? 今から仕事?
そんな事、後から理由を付ければどうにでもなる。
そういう『悪魔』が側で囁かない内に、隼人はサッと玄関を開けた。
「……」
葉月もなんだか戸惑ったように、隼人の後をついてくる。
一番前の厳重な自動ドアを出て、エレベーターを待っていると──。
「あの──」
その顔。
隼人を困らせたのではないか? という、気後れした顔。
そんな顔、以前の葉月ならしなかった。
もっと隼人に対しても、堂々と、いや? 何事も感じなかったように素っ気なかったのに。
「頼むよ。そういう顔、しないでくれよ……」
隼人は葉月の頬に手を添えて、安心させるようにそっと頬に口付けた。
こういう甘い事も以前ならあまり隼人からもしなかったし、葉月ならする必要もなかったのに──。
「そんな顔……している?」
葉月は、自覚していないようだった。
「……している。でも、それはここまで。今から先は『大佐』でよろしく」
「うん……」
彼女が隼人のキスに満足したのか、またもや愛らしく微笑んでエレベーターに乗り込んだ。
そして──。
外に出て、太陽を浴びた途端に彼女の顔が涼やかになる。
「さて……そういえば、『晃司さん』がもうすぐ来るのよね?」
いつもの落ちついた彼女の口調。
そう──隼人の幼なじみで父親経営会社社員である『結城晃司』が近々来る予定だった。
隼人は葉月の赤い車の運転席ドアを開けながら答える。
「そうそう。この前、仕入れた本部の端末メンテナンスと……達也のためにね」
「来たら二人でゆっくり、お食事でもしたら? 私は構わないから」
そういう気遣いは、以前通りだった。
ただ、単に……隼人と二人だけだと急に『甘えん坊』になる傾向が近頃見えてきた気がする。
「そうだな……そうさせてもらうよ。あ、お前も行きたければ、勿論」
葉月が首を振った。笑顔で──。
「幼なじみ同士とか、男同士とか……そう言うのは二人にしか通じないと思うし。どうしてもという事でなければ、私は遠慮しておくわ。隼人さんにだって……そういう時間は必要だと思っているわよ?」
「ありがとう……ウサギさん」
そのしっかりした感触も、決して失われていない。
良い意味で『甘えん坊』が、上乗せになった状態である事に隼人は満足をしている。
ただし──先程のように、あの『部屋』にいる内は大変に『危険』な状態であるが。
それもそれで……隼人が求めていた最高の形であるには変わりないのだろう。
葉月のいつものしっかりした横顔、眼差し、そして笑顔。
それに隼人も微笑んで、一緒に車に乗り込んだ。
丘のマンションの坂を下りて、赤い車は海岸沿いのガードレールを沿うように走り、基地へと向かう。
車が真っ直ぐな道を走り出すと、葉月が口紅と手鏡を出した。
助手席で、スッとした眼差しで塗り直している。
こういう『お姿』も以前の彼女にはなかったお姿だが……。
それを眺められるようになったは、これまたなんかときめくのだ。
きっと先程の口づけで、隼人が全部吸い取ってしまったからだろう?
隼人は思わず、手の甲で自分の口元を拭う。
まさか自分の口周りにもかなり付いているんじゃないか?
まぁ……葉月が愛用している口紅はニュートラルなカラーが多い。
唇に溶け込むような薄い色ばかりだから、そうは目立たないと思うが?
確かめると、うっすらと桜色の筋が手の甲に現れたのでドキッとした。
「ふふ……気が付いちゃった?」
葉月がピンク色のルージュを口元に当てながら、ニヤッと笑ったのだ。
「お前……それでどうするつもりだったんだよ!」
葉月が楽しそうにケラケラと笑い出す。
(ほんっとうに、もう! どうなったんだよ? このチビウサギは!)
こうして隼人をからかう。
きっとギリギリまで、隼人がいつ気が付くか楽しんで、職場目の前になったら、ちゃんと言ってくれたのだろうとは解っているのだが!
「このっ!」
隼人はアクセルをグンと踏み込んでやる。
車が急にスピードを上げて、葉月がシートの背に頭を打った。
「あん!」
口紅を口元に当てていた葉月の手が、グッとぶれる。
「もう! 急に何するのよ! せっかく塗ったのに!」
葉月は手ではみ出た口紅を拭って、また鏡に向かったがかなりご立腹。
「アハハ!」
道沿いの海がキラキラと光る中の出勤──。
こんなに彼女が可愛らしく変化して……。
『これは夢じゃないよな〜』
隼人は時々……頬をつねりたくなる。
皆が願っている方向へと葉月は向き始めている。
これが……本当の彼女なのだとしたら、とても良い変化だと隼人だって嬉しい。
だけど──。
なんだか隼人は、まだ心の何処かで何かが『しっくり』こない。
あの男の影がずっと……今まで以上にまとわりついていた。
それは……『目で見てしまった』からかもしれない。