2.ストップ
俺は彼女が勝手に去っていた朝…。かなり打ちのめされていた。
それでも、側で彼女の親友である康夫が『なぁ…行って来いよ』と
暫くまとわりついていた。
しかし、追いかけた所で俺は何にもしてやれなかった。
勿論…。腕の中、ウサギを持って帰ろうとしていた気持ちは嘘じゃない。
でもウサギの方が違うところに行くことを望んでいるのだから…。
ウサギをもう一度腕に抱きたいのなら、俺の方が追いかけて行かなくてはならない。
しかし…その追いかけるが…出来ないのだ。
彼女は…俺よりずっと持っている世界を捨てにくい立場にあった。
普通の女性なら、ここで軍人をやめて俺の側に来る…とか言い出すかも知れない。
しかし、彼女は一中隊の『隊長代理』。俺より立場がある。
そして…軍人一家の跡取り娘と言ってもおかしくない。
おまけに…
『私は…戦うことでしか救われない』
そう言っていたことを思い出した。
彼女が一番大切なのは…きっと前に進んで『戦うこと』
男と惚れた惚れないよりずっと昔から大事な事に違いなかった。
その事については、俺は何にもしてやれないのだ。
だから…追いかけられなかった。
それ以上に、『また、逢えるよね』なんて気休めみたいなことを言うのなら
彼女とあんな風に肌を交えた『情熱』は嘘のように思えてきてしまう。
綺麗なサヨナラなんか…もう出来ない。
彼女の気持ちが良く伝わってきた。
俺と彼女は…『情愛』を選んでしまったから…。
今までのような『兄と妹』にはもう戻れないのだ。
それに…彼女がせっかく作ったきっかけ…。
俺が受け持っている生徒達を華々しく卒業させなくては、彼女がフランスに来た意味が無くなる。
これは、俺が引き継がなくては!
そう思って…。俄然、仕事に気持ちが傾いた。
そんな俺を見て…康夫もやっと諦めたようだ。
暫く。彼女が去ったショックから落ち着いた頃。
俺は開いていたノートパソコンからメールボックスを開く。
彼女からもらった『アドレスのメモ』を取り出して…
『さようなら』のメールを打ち込んでそっと送信した。
彼女だけにこんなサヨナラをさせるわけには行かない。
俺も…キチンとケリを伝えておきたかった。
メールを送信した後…。
俺は彼女からもらったメモを破ってゴミ箱に捨てた。
きっと彼女も二度と俺に連絡はしてこないだろう。
勿論…メールボックスに残る彼女のアドレスもすぐに『削除』した。
これでいい。
これで、全てが想い出になる。
想い出だけはキレイに残しておきたかったのだ。
だが…。『さようなら』を告げた途端に…急に彼女のこれからが気になった。
昨日、一枚の写真が無くなっていたのだが
それを彼女が持って帰ったのだと俺は思っている。
それでもいいと思った。昨夜のウチは…。
それで、今朝、彼女にあったら『あげるよ』と言うつもりだったのに…。
彼女はいなかった。
よけいにその写真に対する重要性が俺の中に生じてくる。
彼女があの写真を俺の許可無く持って帰ったのは、
愛した男を二人一緒に閉じこめて想い出のカケラにしようとしているという事…。
彼女が勝手に去っていって、その重要性はさらに重くなった。
どんな気持ちでその写真を見つけて…拾って…眺めて…。
黙ってもらって帰ろうとしたのか。
その時の彼女の気持ちを考えると…俺までやるせなくなってくる。
あの写真が未だに俺の部屋に残っていたのなら、
彼女とのことはただの一時の相手として俺の中でも綺麗サッパリ断ち切れる。
だけれども、彼女が持って帰ったのなら…。
彼女はその写真一枚にこの世を去ったもう愛すことが出来ない男と
これから想い出になる男…の、この俺を…。
フランスまで来て追ってきた男と出会った男をこのフランスで閉じこめてそして…、また、
新しく歩む決心をしてと言うことなのだ…きっと…。
俺との肌の営みでさえ、彼女が一人で持ち帰ってしまったのだ。
だから…あの写真が見つからない限り…遠く離れた日本で
一人の女が俺のことをずっと、見つめてゆく、思い返す、そしてそんな風に心に残したまま
前にゆくのかと思うと、綺麗な想い出すら勝手に持ち帰って俺には何も残さず
勝手に置き去りにされて、彼女のことだけが抜けた、『抜け殻』になった自分が今ここにいるように感じる。
もしかして?
彼女がこれから愛すかも知れない男達も…今まで彼女が愛した男達も
皆。こんな気持ちにさせられるのだろうか?
『私は…男の人を幸せには出来ない』
そう言っていたことも…。
彼女はこうして自分から諦めて…去ってゆくのか?
これは今に始まった事じゃなく、終わったことでもない。
俺の後にまた、すぐに彼女を慰めようと近寄る男がいるだろう…。
きっと…同じ事の繰り返しだ。
そうして、俺のように、彼女にひどく惹かれているのにどうしようもなく離れてゆく。
俺のような男は…きっとたくさんいるだろう。
そう考えると…。彼女との分かち合いは『俺だけ特別』じゃないように思えてきた。
それもなんだか…哀しすぎた。虚しくなってきた。
そんなちっぽけなものだったのか?と。ありきたりなことだったのか?と。
『また…明日ね…』
そう言った彼女のドア越しの『サヨナラ』を思い出して俺はまた腹を立てていた。
彼女にそんなやるせない一言を言わせてしまったこの自分に無性に腹が立っていた。
そんな風に悶々と考えていると一日が終わろうとしていた。
この日俺は気分が乗らなくてとうとう講義を自習にしてしまい、机にただかじりついていた。
そんな俺を見て…訓練から帰ってきた康夫が一言。
「あのさ…。葉月はおそらく…フランク中将に『ダメだった』って報告するかも知れないけど…
日本行き…俺の方からはまだ断っていないぜ?」
(だから…なんだって言うんだよ。)
俺は腹が立っている分、よけいにそう思ったが、声にはならなかった。
康夫はそう言うが…、彼女の方はもう気持ちを決めている。
あんな風に去ったぐらいだから。あんな別れを選ぶのは半端な気持ちでは出来ないことだ。
どんなテコでも動かない男と俺のことそう思って彼女は退いたのに、
男と女として肌を交えた途端に『日本へ来る気になった』と言ってみろ!?
それこそ…雪江さんが言っていたように
『真実じゃない』と彼女がそっぽを向くじゃないか?
彼女は自分の中にある『女としての気持ち』は最後の最後に出してきた。
『側近』の話にケリが付くまで…本当に最後のほんの一時だけ女としてぶつかってきた。
そして俺があの彼女の美しい肌を手放したくないと『側近になる!』と言いだしたら…。
いくら、『好きよ』と囁いてくれた彼女でも『それは真実じゃない』と、そっぽを向くに違いない。
雪江さんが言うように、『葉月』はそんな女だった。
俺とはじめて出逢ったときだって、絶対に『地位』は振りかざさず、『一人の葉月』として接してきた。
研修生との『デビュー』も、なにが大切か自分から提案して、
自分を試すような形で研修生に答を求めた。
その真実の一つ一つで周りの人間を動かしてまとめて…引きつけてきた。
そんな彼女だからきっと『甘え』はひとかけらも見せないはず。
『来てくれたの?隼人さん…嬉しい…』
肌を預けたからってそんな風にひと思いに崩れる女じゃないはずだ。
でも…。
康夫の『断っていない』が妙にこびりついた。
ここで、『あ・そう。関係ないね。終わったんだよ』とはまだ割り切れなかった。
彼女との約束では『時間があるなら考えてもいい…』と言う結論を出したのだから。
彼女の方はそれでももう…終わらせたという気持ちの整理がついているかと思うが…。
彼女が終わらせてしまっているなら、最後の望みはこの俺の『決断』しかない。
彼女にもう一度胸張って逢うのならそれしかない。
でも…そんな決心が付かないから『白紙』に彼女がしてくれたのに。
今すぐは決断なんか出来やしない。
でも…これが『最後のチャンス』に違いないのは確かだ。
「わかった。答はどう出るか解らないけど。側近の話…『保留』にしておいてくれ。
近いウチに…必ず返事をするとフランク中将につたえてくれるか?」
そう俺が疲れたため息混じりに答えると、『本当かよ!?』とかなり康夫が驚いた。
「ああ。どう答が出るかは今の俺でも解らない。でも、今度は真剣に考えてみる。
それから…俺が迷って保留ににしていることは絶対彼女には言わないようにと頼んでくれるか?
彼女に期待させたら…いけないから。」
丁度、定時のラッパが基地中に響き渡ったので俺は帰ろうとリュックに荷物を詰め込もうとした。
「わ…わ…解った!!」
康夫は暫く呆然としてやっとウンウン頷いて俺の席に詰め寄ってきた。
「フランク中将ならそう言えば上手くやってくれるよ!
何だよ!!早くそうゆう気になってくれよ!葉月がいるウチに!」
「彼女が…いたときは何にも考えてなかった。
彼女が…俺の所から『あるモノ』を、取り去って行かなきゃ…
こんな気持ちにもなりはしなかったよ」
「は?あるモノ?どうゆうこと??」
と、康夫は眉をひそめて俺の顔をのぞき込んだ。
だけど、そんなことは康夫に言えるはずがなく、
俺は『おつかれさん』といぶかしんだままの彼の肩を叩いてその日は仕事場を後にした。
毎日そうしているように、自転車に乗って基地を出る。
昨日までだったら…。
『大尉!』と、俺の背を追って俺が貸した真っ赤な自転車に乗って
栗毛をなびかせている彼女がいた。
俺が少し意地悪くスピードをあげても、女のくせに良く鍛えた体力で
ムキになって着いてくる彼女はもういない…。
それも判っていて断って、『別れ』も当然のことだし、
この日彼女が黙っていなくなろうが、キチンと挨拶を交わして別れようが、
今のこの状況は当たり前にやってくることだったのに。
基地からいつもの町並みに出て、石畳み…街路樹の緑木の下をゆっくり走ってゆく。
そして…。
彼女が宿泊していたホテルアパートで一時停まって…。
彼女が泊まっていた四階の部屋を見上げた。
客が去った後だからか?窓は開け放たれてカーテンが揺れていた。
『隼人さーん!!隼人さん!!澤村大尉!!』
雨の日の休日。妙な格好で一生懸命呼び止めた彼女。
俺を信用してくれたように部屋に入れてくれて…。
そっと俺の邪魔をしないよう放っておいてくれたあの日。
俺は何処かで、『女は浅ましい』と思っている節がある。
部屋に誘われて、男が入った途端に『恋人気取り』をされても
困るという警戒心があった。
だけれども、そんな俺の思惑なんて何のその。
彼女は…まるで子猫のようにそっぽを向いて
なんとまぁ。不用心にもうたた寝をしていたぐらいだ…。
俺も…俺で…お邪魔しているのに彼女を放っておきすぎたのだが…。
そんな風に、俺のこと男ともとらず…、何ともとらず。
空気のように扱われたことが急に彼女に対する
『安心』を得てしまった瞬間だった。
その時に…彼女の肩の傷を見てしまって…よけいに彼女のことが気にはなったのだが。
しかし、あの雨の日。
俺の中で彼女を一つ信用した日に変わりはなかった。
その、雨の日を過ごした部屋に彼女はもういない。
俺は再びその先にある自宅へとペダルを踏んだ。
部屋に戻ってもう一度ベッドの下を覗いた。
隅々までベッドの下を覗き、『もしや、ベッドサイドボードの下か?』と
手を突っ込んだが…埃まみれになっただけだった。
部屋の他の所もはいつくばって捜したがやっぱり写真は出てこない。
写真が出てきたら…。彼女がそんなに思い入れていないと言うことで
『側近』の話に『NO』が言える。
でも…やっぱり見つからないから…。
『彼女が持って帰ったんだ。今頃どんな気持ちで眺めているんだよ?』
俺の方もいよいよ真剣に考えなくてはならないようだ。
まだ心の整理がつかない。
日本に帰ると言うことは…『家族』の元に戻ることに等しい。
それが一番嫌なのだから。
窓辺のブラインドが西日でオレンジ色に染まってきた。
日が短くなってきている。夏が終わろうとしている…。
日差しも柔らかくなってきた…。
腰をかけたベッドのシーツから『カボティーヌ』の香りがそっとする。
それが彼女が去っていった日の夕方のことだった。