31.久しぶりに
あれから、葉月は山本少佐にいっさい連絡を取ろうとはしなかった。
どうしたことか、山本も葉月が相手にしてないと解り始めたのか
あれだけ怒っていたのに内線をかけてこなくなったのが
隼人としては逆に恐ろしいぐらいだった。
その内に、そんな騒がしかった一週間が過ぎてまた週末がやってくる。
隼人は、山本騒動で遅れてしまった事務作業のため、珍しく残業をすることになる。
勿論、葉月も17時の定時が来ても残業はしていたのだが…
「隼人さん。おわりそう?」
「いや。もう少し…。なに?珍しいね。もう・終わったのかよ?」
「うん。今週末は二連休でしょ?明日・明後日と訓練ないから…。後は週明けにするわ。」
「そう…。じゃぁ。先に帰っていて。俺・後で行くから」
この一週間で隼人はすっかり『丘のマンション』に帰る習慣が付きつつあった。
葉月は『先に帰っていて。後で行く』の一言にかなり満足を得たのか
いつも以上の輝く笑顔をこぼして『じゃぁ。お先に…』と隊長代理室を出ていった。
あんな笑顔をこぼされたら、隼人でも嬉しくなってしまうではないか?
仕事が終われば…葉月が待っていてくれるかと思うと…
やっぱり。侘びしい官舎に一人きりで帰るのとは訳が違う。
『俺も…変わったかもなぁ…』
本当に一ヶ月前…フランスを出てきたことが遠い日に思えてきたのだ。
隼人が帰ろうと隊長代理室を出ると目の前の席にいるジョイも帰り支度をしているところだった。
「あれ?隼人兄も今帰り?」
ここ二・三日でいつの間にか彼には『隼人兄』と言われるようにまでなってしまった。
勿論隼人も…
「ジョイも今帰り?」と…急に接する距離が縮まったのだ。
ジョイは、若い青年らしく色々なステッカーを張り込んだ銀のファッショナブルなアタッシュケースに
書類を詰め込んで、いつもの屈託のない笑顔で『そうだよ!』と答えてくれる。
「知っている?今日の夜勤食は『ロールキャベツ』だって。
カフェに夕飯食べに行くけど、良かったら隼人兄もどう?」
(ロールキャベツ!)
カフェテリアは夜の21時まで開いていて、夜勤当直や、夜間訓練をする者達のために
きちんとした夕食も作られているのだ。
勿論。ジョイや隼人のような独身の男達のためにも開いているのだが…。
隼人は葉月が待っているだろうとは思いつつも…久々の『洋食』に心が揺らいだ。
そんな風に、思いとどまっている隼人をみてジョイがニヤリと微笑むのだ。
「あ。いいよ。別に♪いい人が待っている人にはよけいなお世話だったね〜♪」
週末とあって、葉月の自宅に行くことを見抜かれて隼人はグッと紅くなりそうになったが…
「別に。帰れば誰も待っていやしない、『やもめ暮らし』だよ。解ったよ。お供しよう!」
(ごめんなぁ。葉月…)
心では、そう思っていたが本心半分…こうした男同士での『お出かけ』も
隼人としてはここ最近乏しかったのでジョイの誘いは心から喜んでついていった。
(あいつなら…解ってくれるよな?)
これが…あのミツコだったら許されないところだが…葉月なら大丈夫だろう…と…。
同じ女性だからどう出るか解らないが…隼人は『勝手にやって方針』の葉月を信じることにした。
ところが…ジョイと親しくなってから初めて迎えた週末なので、つい話が弾んでしまった。
カフェテリアで食事がすんだ後、すっかり意気投合したジョイの次のオススメは
『基地内倉庫にあるバー』であった。
基地の倉庫の一角を隊員のために作ったバーがあるとかで、
そこでは独身の男やアメリカキャンプにいる男達が主に集まっていると言うことだった。
経営は退官したアメリカ人の男が細々とやっているとか…。
隼人はそこにジョイに誘われて、軽く酒を飲んでまた…話を弾ませた。
お互いの経歴に…同じ畑の『システム工学』の話に
少しばかり…葉月とジョイが幼かった時の想い出話を聞いたりした。
倉庫を改装したバーなので雑然としていたが、ユーロービートが流れたりしていて
若いアメリカ人男性に、金髪の女性隊員が週末を楽しむようにフロアでダンスをしている。
『そろそろ…帰ろうか』とジョイが言い出したときは22時を廻っていた。
「お嬢。待っているかな?ゴメンね。俺が引き留めていたって言ってよね?」
ジョイは車で出勤をしていると言うことだったが、飲酒をしたためタクシーで帰ると
基地の警備口でタクシーを拾ってアメリカ人独身官舎がある
隼人と同じ集合団地まで一人で帰っていった。
隼人は、隠すまでもないだろうと…葉月のマンションに行くから自転車で帰るとジョイに言い、
駐輪所にていつもの自転車にまたがって『丘のマンション』を目指した。
(週末だからなぁ。真一君が来ているかもな?)
星空の中。隼人は酔いもすっかり醒めて冷たくなってきた潮風に頬を冷やしながら
葉月が待つ『バビルの塔』にいつになく急いだ。
『おじゃましまーす』
リビングのガラスドアを開けると、葉月はテレビのソファーに座って
この日はのんびりとテレビ鑑賞をしているところだった。
しかし…いつもと違うことが一つ。
「もう、来ないのかと思ったわ。いらっしゃい。」
ちょっと寂しそうに微笑んで立ち上がった葉月は…
黒いシルクのガウン姿で濡れた髪を結い上げていたのだ。
そんな彼女の夜の姿は…隼人は初めてみたのでかなりの刺激…いや、衝撃を受けた。
ウサギどころか…そこにいるのはしなやかなシャム猫のような悩ましさだったのだ。
「………。えっと。その…」
隼人は目のやり場に困りながら、ダイニングテーブルにリュックを置いた。
「官舎に戻ったんじゃないの?制服のままで来るなんて…」
「その…ジョイに誘われて…食事をして話が弾んでしまったんだ。」
ジョイと一緒に出かけていたことが意外だったのか葉月は一瞬驚いていたが
「へぇ。そうだったの?楽しかったのね♪こんな時間まで一緒だったなんて!
ジョイは私の幼なじみだから…そうして仲良くなってくれると嬉しいかも…」
と、弟分とやっと親しんでくれるようになったことにかなりの喜びようで微笑んでくれた。
「ゴメン…。もしかして…夕飯作って待っていた?」
「え?ええ。でも、明日のお昼にも食べられる物作ったし…。気にしないで。
シンちゃんだって…最近はお友達との約束が多くなって来たり来なかったり…。慣れているわよ。
それよりね?隼人さんがそうやって男同士で仲良くなってここに馴染んでくれた方が…。
私としては…フランスから引っぱり出した手前…嬉しいから…。気にしないで…。」
そう言って、少しばかり寂しい顔つきで出迎えてくれたクセに…
葉月はめいっぱい明るく微笑んで喜んでくれたので隼人は妙に感激してしまった。
「携帯…もってたよな?これからは連絡するよ。」
「いいわよ。そうゆうの嫌いなの…」
葉月は、上着を脱いでダイニングチェアに腰をかけた隼人の向かい側に
そっと…しなやかに椅子を引いて腰をかけた。
「束縛みたいでイヤって事?」
葉月らしいが女性としては、意外な反応で隼人は思わず突っ込んでしまった。
「私が束縛されるのではなくて…『葉月が待っているから電話しなくちゃ』
そうゆう。重荷みたいにはなりたくないの…。私。ただでさえ普通にできないのに…」
「普通…って何が普通なんだよ?葉月は葉月らしいのが一番の『普通』なんじゃないの?
俺・別に…葉月が待ちくたびれたらいけないと思って…
必要ないなら、いちいち『連絡』はしないようにするよ。俺もその方が気が楽だから。」
「そう?…そう言ってくれると私も気が楽。」
「待っていてくれないのも…ちょっと寂しい気はするけどな。」
こんな事。隼人は今まで口にしたことないのに…
どうしたことか葉月はいちいち拍子抜けする答えが返ってくるので
天の邪鬼な隼人でも、心の奥底の本音がつい出てしまうのだ。
「待っていないわけじゃないけど…。遅くなってもこうしてきてくれたじゃない?
私。それでいいの…。」
確かに。遅くなっても隼人は真っ直ぐにここに来てしまった。
時計はもうすぐ23時を指そうとしている。
平日なら…もう、葉月は先に寝ていて、隼人もおいとまをする時間だった。
「そう言えば。こうして向き合って話すって…島に来てからなかったよな?」
隼人は向かい側で、少しだけ待ちくたびれているように微笑んで座っている葉月に話しかけた。
「そう言えば。そうね…。」
「葉月は、隊長代理室に落ち着かないし。夕方は帰るのが遅いし。
俺の勉強中は邪魔しないし…。先に寝ているし…。」
「なに?私が悪いみたい…。」
葉月の方が忙しくて、自分のペースだけで暮らして…
隼人のことなどお構いなし。そう言っているように聞こえたらしく葉月は表情を曇らせた。
「俺と、葉月っていったい何?」
突然の隼人の質問にまた、葉月は困ったように首を傾げた。
「なに?って…言われても…。」
『恋人でしょ?』そうゆう返事を隼人は待っていたが、
そんな事すぐに言わない彼女の方が葉月らしくて隼人はそっと微笑んでしまった。
「葉月らしいね。まぁ。俺も…逆に葉月に『私達って何?』って聞かれたら
照れくさくて、素直には言えないな…。」
「何が言いたいの?」
「この一ヶ月。俺とお前は本当に仕事中心でやってきた。
葉月は俺には『少佐になるため』を第一に…。
俺は葉月には『隊長であって欲しい』を第一に…。
仕事では、一緒にやっていけるって自信…少しずつ確信している…。」
葉月の瞳を見ずに、隼人は照れくさそうに横向きに座ってそっと微笑んでうつむいた。
「どうしたの?急にそんなこと言い出したりして。」
いつも天の邪鬼で本心は言おうとしない、奥手の隼人の素直さに葉月は戸惑っていた。
「でも。仕事は第一でやっていけるパートナーだと確信もできたけど…。
俺達はやっぱり…『男と女』の情愛は分かち合った仲だって事も事実だよな?」
隼人はそこでやっと葉月のガラス玉の瞳をジッと見つめた。
葉月も率直に突っ込んできた『男』の隼人にやや戸惑ったようにうつむいていたが…。
「そう…。感じてくれていることは口で言わなくても…解ってくれていたんでしょ?」
「勿論。葉月だって…そうだろう?」
「………」
隼人もそうだが、葉月もはっきりと表現はしない女だった。
お互いに、意志疎通ができれば…感じることができればそれで良いという感じだった。
「葉月。今夜はゆっくり話したいな。ほら。フランスではたくさん…いろいろ話したじゃないか。
そんな風に…仕事以外でゆっくり向き合いたいんだけど…。」
隼人がまた、照れたように葉月から視線をはずしたが、
葉月はそんな隼人の思いきった申し出にそっと微笑んでいた。
「いいわよ。週末だもの。息抜きしたって良いわよね?
お風呂…はいる?私テラスでビールとおつまみ準備して待っているから…。」
「それは、泊まっていけって事?」
「別に。泊まるも帰るも隼人さんが選ぶ事よ。」
隼人は引き留めてくれない…そんな葉月にガックリはしたが…。
やっぱり意地っ張りな女でそれが彼女らしいと笑ってしまっていた。
「俺。葉月の『勝手にやってくれ』ってとこ。結構気に入っているよ。」
「何?それ…」
「待ちくたびれて怒り出すって女には良くあるじゃないか?」
「そうなの??」
「だろうね。葉月は『待っていたのに』って事ないよな。
なんたって。先に寝ちゃってるくらいだからな。」
隼人のちょっとした皮肉りに葉月は、ムッとした顔を浮かべたのだが。
「俺は、そうゆう風にしてくれた方が気が楽なんだよ。
葉月とは、本当に、これからやっていけそうだよ。
葉月も俺にかまわず勝手にやってくれたらいい。」
そんな隼人の妙な感慨深げな微笑みに葉月もムッとした感情をスッと収めた。
「………。フランスで…自分の生活を苦労して確立させていたのに…。
それを無理に無にして引っぱり出したのはこの私よ。
隼人さんの今まで持っていた『ライフスタイル』は…これ以上壊したくないの。
それだけよ…。」
今度は隼人の黒い瞳を葉月が真剣に射抜いた。
葉月はそれだけ言うと、黒いシルクのガウンをしなやかに翻しながらキッチンにこもってしまった。
隼人は…普段は女としての心を垣間見せない不器用な葉月のそんな想いに
また。感激していた。
フランスから連れ出したこには、葉月なりにかなり気にしているようだったこと。
いつも、自分の女としての気持ちは殺してでも
中隊のため、連れ出した隼人のためにそうして自分を殺しているのかと思うと
それは、有り難い気持ちだったが…やはり…少し哀しいお嬢さん。
隼人を置いてフランスを黙ってい出ていった葉月らしい…。
(そうやって…ハリス少佐のこと諦めたのかよ…)
ふと・そう思ってしまった。
自分は『普通にできない、男を幸せにできない女』と葉月は思っているから
隼人のことも引き留めないのだ。
だから…隼人が…今までこんな事したこともないのに、葉月のマンションに通ってしまい、
葉月の本心を探り出そうと言ったこともない本心を口にしてりしていた。
天の邪鬼な隼人以上に、葉月は心を硬く閉ざしているのだ。
隼人には、まだ…時々だがすべてを投げ出してさらけ出そうとしてくれることはある。
葉月には、これから少しずつでも良い。
フランスで最後に思い詰めたように飛び込んできたときのように…。
先週の週末に、隼人に受け入れて欲しいとせっぱ詰まっていたように…。
そんな素の彼女をこれからも隼人は見て…見守っていきたいからフランスから出てきたのだ。
だから。仕事ばかりで向き合う時間が少ないから、このマンションにやってきてしまう。
今夜は。本当なら顔を少し見て…隼人の今までのポリシーで行くと帰るべき時間なのだが…。
隼人はダイニングをたって、キッチンを覗いた。
葉月が冷蔵庫からちょっとした野菜を出して何かを始めている。
「泊まるよ。いい?風呂…借りるから…」
そっと、告げると葉月もニッコリ微笑みを返してくれた。
「その格好…結構刺激が強いんだけど…」
ニヤリとガウン一枚のような格好の葉月をからかってみたが…
「これがいつもの私よ。見慣れてくれないと困るわ」
葉月がムキになって恥ずかしがるかと思ったが、結構強気な平然とした返事が返ってきた。
隼人は、クスクスと笑って…キッチンで酒盛りの準備をする葉月をおいてバスルームに向かった。
その晩。
漁り火が美しく見える、ガラス張りのサンテラスで…。
涼しい風を堪能しながら隼人は明るく微笑む葉月と遅くまで
他愛もない話ばかりをして楽しんだ。
当然の如く…。
隼人が次の朝目覚めたのは…やはり、ミコノス八帖部屋。
小さな寝息をたてる葉月の横だったのだ。
先週とは違い…隼人は横で安らかに眠る葉月の肩先にそっと口づけていた。
『フランスにはもう帰れないよ。』
昨夜、葉月を抱きしめながらささやくと少し・いぶかしそうに葉月が戸惑っていた。
『毎日・色々なことがあってビックリしたりハラハラするけど…充実しているんだ。
俺も…走り始めたって感じ…もう・帰っても何もないから…。ここにいる。』
普段は言えないことは…どうしてかこんな情愛を分け合っているときには
感極まって口に平気でできるからおかしな物だった。
しかし…そんな隼人の黒髪を葉月はしっかり抱きしめ返してそっと口づけてくれたのだ。
『私も…もう・一人じゃないわよね?』
その時の切なそうな葉月の瞳を隼人は思い返す。
きっと・あの小さな女の子のような瞳が本当の葉月に違いないと…。
垣間見せてくれたからには…はやりその時は守ってやりたいな…と、
隼人は朝日の中。シーツに広がる葉月の栗毛をそっと撫でていた。
もう…このマンションに来ることも…そう・こだわることではない。
自然なことで良いのじゃないかと思えてきたのだ。