11.侘びしさ
『終わりました』
隼人が言いつけられて始めた『模擬試験』の回答を終えたことを伝えると…
応接テーブルで葉月をつつきまくっていたロイの声が止まった。
『よし!葉月。解答もってこい!!』
急に威厳ある声を出すと、葉月も急に『ハイ!』と部下らしく動き始めるから隼人も緊張した。
葉月に採点させると言ったものの、どうやらロイは早く結果が知りたくて
葉月の隊長室にやってきたと言うことらしい…。
そんな勢いでロイは無言で採点を始めた。
葉月も応接テーブル、ロイの傍らにたたずんで心配そうに固唾を飲んでいる。
「中将??」
採点が終わったのか、葉月が一言…動きを止めたロイに声をかけた。
隼人も緊張が高まり…。つい…。
ついたての向こう側を身を乗り出して覗いてしまった。
「葉月。これを持って一緒に来い。ウィリアムと打ち合わせだ。」
ロイは採点が終わった解答用紙を葉月の胸にパシリと突きつけた。
(うわぁ。駄目だったのかな??)
隼人は葉月が言ったとおりに『簡単』に書いたのだ。
その上…。葉月がロイに突きつけられた回答用紙を目にして…
ビックリして隼人を見つめたのだ。
隼人はドッキリ…硬直したが…。
「何しているんだ。行くぞ!葉月!!」
ロイが険しい声で葉月をせかした。
「はい。只今…。」
葉月はロイの背中を追って出ていこうとしたが…。
「まって。兄様。書類全部持っていきますから…」
『早くしろ』
ロイはサッと大佐室を出ていったが、葉月はサッと大佐席に戻ってきた。
「俺…駄目だったのかな??」
隼人が心配げに尋ねると…。
葉月がニッコリ…満面の笑みをこぼした。
「隼人さん。ロイ兄様を本気にさせたわね。すごいわよ♪」
「え?」
「この回答じゃまだ、試験には不十分だけど…兄様の採点ではほぼ満点よ♪
たぶん…今後の『澤村育成』に力の入れ方変えてくると思うわよ。
良かった!私達の『簡単回答作戦』当たったみたいね!!」
葉月はやや興奮気味に隼人の回答用紙を大切そうに元の茶封筒にしまい込んで
『じゃぁ。お留守番よろしく♪』と元気良くロイの後を追いかけていった。
隼人はそれを聞いてホッと一安心…。椅子に身体をグッタリ沈めたが。
それと同時に腕に鳥肌が立っているのに気が付いた。
『私達の作戦当たったわね!!』
葉月は『私達…』と言ってくれたが…。
葉月のアドバイスがなければ回答用紙は真っ白に近い形になるところだった。
葉月のアドバイスもさることながら、ロイの『簡単回答』を『専門用語回答』に置き換えてくれた
二人の『柔軟さ』にも驚いた。
その上…。
『ロイ兄様を本気にさせた』が、一番鳥肌ものだった。
ロイが初めてあったときのように砕けた若中将から急に冷酷な声を出して飛び出していった。
『澤村を育て上げるぞ!!』そんな声が聞こえてくるような気がした。
(俺…。本当にすごいところに来たな…。どうなるんだろう??)
自分が思わぬ所に心の準備も無しに連れて行かれるような恐ろしさが鳥肌を立てていた。
褒められたのが、良いのか悪いのか隼人には解らなくなってきていた。
その後…。葉月はなんだか上機嫌で四中隊に戻ってきたが
隼人に話し合いの内容は報告してくれなかった。
その代わり…。『指示』をしてくれた。
『康夫の補佐をしていただけあって基本的には問題ないけど…。
試験に合格するには『専門用語』叩き込まないとね。それを目標にしろって兄様に言いつけられたわ。
参考書、選んで持ってくるからね♪』
それだけで、とにかく…年末に『少佐になる』が『育成』の第一歩らしく。
それまではウィリアム大佐が言ったとおり、とにかく島の内勤になれよう…と言うことらしい。
隼人は毎日。大佐室で事務をして訓練やミーティングに出掛ける葉月がいない間のお留守番だった。
葉月にかかってくる『内線』を取ることも慣れてきた。
『君が新しい側近??』
まずこの質問をされて、『側近』と言う言葉に戸惑っていたが一週間もすると
隼人も慣れて平気で堂々と『ハイ。今後とも宜しくお願いします』と言うようになった。
フランスからも荷物が届いてやっと『自転車通勤』をする事が出来た。
官舎の部屋もフランスにいたときと同じように整いつつあった。
山中と一緒にカフェテリアに行くのも慣れてきたが…今度はやっぱり…
『御園嬢の側近だってさ』と言うような声が良く聞こえるようになってきて
一人で行くのは慣れず…それを知ってか必ず山中が昼食には一緒に行くようにしてくれていた。
そんな風に…少しずつ…隼人は島の雰囲気に馴染んでいったのだが…。
葉月とはまったくすれ違いの日々を過ごしていて本当に『肌を合わせた仲』なのか
解らなくなるほどだった。
一緒にいるのは、葉月が午前の訓練を終えてランチを取って大佐室の戻ってきてからの
午後の事務作業の時だけ…。その後は『ミーティング』に出掛けてしまって
夕方は本部員が大佐室を何人も出たり入ったりして葉月も忙しそうにしていた。
午後の訓練の時はまったく一緒にいる時間は無いに等しかった。
一中隊の『隊長代理』だから当たり前なのだが…。
隼人はこうして振り返ってみると葉月はフランスにいたときの方が
悠々と仕事をしていて余裕があってのびのびしていたと懐かしくなってきたほどだ。
隼人が望んだことだから仕方がないし、常識なのだが…。
葉月は仕事中は一切隼人には構ってくれず、隼人の面倒は補佐のジョイと山中に任せて
後は知らぬ振り…という徹底振りだったのだ。
ゆっくり喋る間もなかったが…隼人の方も今は慣れるのに精一杯で
葉月が恋しいとは一つも思わないから自分でも『さすが』と思ってしまうところだ。
ここでジャンがいたら…『お前達らしいな』と呆れるか…。
『男のお前が気を利かせろ』と説教をされているところ…。
それでもふと…振り返ると…。
(俺とアイツって…いったい何なのだろう??)
と腑に落ちなくなったりしていた。
『お前が頭下て泣いて女に拝み倒すのが見られるかもなぁ』
同期生・ジャンが言っていたことを思いだして隼人はハッと頭を振った。
(いいか??俺とアイツはまず…仕事から)
まずは少佐になるのが当面の目標…。
葉月もそう思っているから今の状態を保っているのだろうと思っているのだが…。
忙しそうに立ち回って。隼人を定時に先に帰して毎日残業している姿を
一週間目にしていると…
『一緒に食事にでも…』と言い出せる雰囲気でもなく葉月とは会話すらも減っていったのだ。
隼人は毎日、夕方になると『お先に…』と机にかじりついている葉月を見送って帰っている。
『お疲れ様。また明日ね』
それでも葉月が隼人には26才の女の子らしい笑顔で送り出してくれるので
また次の日逢えることを胸に秘めてニッコリ帰ることが出来るのだ。
隼人は海岸沿いの夕日を眺めながら…やっと慣れた道を自転車で漕いで
町まで買い物に行って…一人…官舎で夕飯を取る日々が定着してきていた。
それもフランスとは変わらない生活だが…仲間がまだそうはいない隼人にとっては
まだまだ…わびしい日々だった。
『参考書持ってくるからね』
葉月はそうはいっていたが…あの模擬試験の日から一週間経っても持ってきてはくれなかった。
その代わり…。ウィリアム大佐が必要なテキストを渡してくれた。
それがあるから葉月が持ってくるのはやめたのだろうと隼人は思った。
葉月もあの忙しさでは参考書を選ぶと言うところではなさそうだった。
『さって。飯くったし。また始めるか…』
葉月が定時で帰してくれるのは『試験勉強のため』と隼人は知っていた。
残業をしている彼女のためにも『勉強』は怠ってはいけないと
毎日寝るまでテキストを開いていた。
隼人の部屋にはまだテレビを付けていなかった。
日本製のものをこの離島で買うと手間がかかるし
戦闘機が良く飛び交う為に電波が乱れるから面倒くさくて付けるのをやめることにした。
それにあまりテレビを見る習慣が無く、日本に来てからはすぐに新聞の契約をして
ネットのブロバイダに新規で入会しなおしたぐらいでそれで充分情報は確保できていた。
そうして午後11時まで勉強はするのだが…。
林の側にある隼人がいる官舎の部屋に、ざわめく木々の葉の音が響くと
何とも言えない寂しさがこみ上げてくるのだ。
夜の十時になって隼人は休憩がてら机から離れてベランダの窓辺に立ってみる。
ブラインドが…外国の窓とはサイズが合わないので中途半端なサイズで
日本の官舎の窓にぶら下げていると本当に『仮のすまい』みたいで
わびしくなる一方だった…。
離島なので大きなスーパーはあるがデパートはなかった。
カーテンをその内に買いたいと思うのだがまだその時間がなかった。
隼人はブラインドの紐を引っ張り…部屋の灯りを消して
その夜も出ていた月を眺めた。
マルセイユの石畳み。町を行き交う人々の声。車のクラクション。
船の汽笛。潮の香り。波の音。
目をつむるとこんなにくっきり浮かぶのに…。
目を開けるとまったく違うものが目の前に存在していた。
康夫も同期生のジャンもあの騒々しいミツコさえ、もう…誰も訪ねては来ないのだ。
葉月も心得ているのか連絡もよこしてこなければ、かいがいしく通ってこようともしないし
勿論…訪ねてくることはこの一週間一度もなかった。
隼人もそれでイイという心構えだったはずだ。
一中隊長代理の葉月が訪ねてきても困る。
訪ねてきたら…隼人自身も拒否する心積もり…。
しかしそれとは裏腹に…拒否が出来ないのでは?という自分も何処かにいたりするのだ。
だから…葉月が訪ねてこないことを祈っていた。
隼人も葉月が何処に住んでいるかは聞かないようにしていた。
聞くと…葉月の方が『遊びに来て』と言い出すのじゃないかと恐れていたし
それも…拒めない自分がいるように思えたから…。
(さて…もう少しやったら風呂入って寝よう…)
隼人はため息をついてもう一度テキストに向かった。
その晩も隼人は一人きりの夜を過ごした。
ブラインドから入って来る朝日で隼人は目が覚める。
(ああ。朝かよ)
いつも通り。むっくり起きあがると…
ベッドの頭を付けている壁とは反対の壁に掛けた『姿見の鏡』に
固い張りのある黒髪が毎度の如く激しくはねている姿が映った。
その姿を見て隼人はTシャツ姿でベッドを降りる。
習慣だが。隼人は朝シャワーを浴びて寝癖を直すのだ。
キチンと自分でアイロンを掛けたカッターシャツをかごから取り出して
袖を通し、制服を着込む。
モーニングは決まって『フレンチトーストとカフェオレ』そして…
インスタントのスープ…。
それを短い時間で食していると…。
(よく考えたら、フランスにいるときと変わらないか)
急にそんな風に思ってしまった。
葉月がフランスにいたときだって葉月は隼人に連絡をすることもなかったし
アパートに一度も訪ねてこなかった。最後に一回だけ訪ねてきただけだ。
それが気にならなかったのは、やっぱり部隊に行けば葉月が必ず来ていたからだ。
今だってそうだ。
連絡が無くても…訪ねてこなくても…。
部隊に行けば葉月がいるのだから。
隼人はフランスでもこうして一人で食事を作って夜を過ごしていたし
朝も一人で起きて食事をして出掛けていた。
今、無いのは慣れた南フランスの風景と…
気軽に葉月を誘っていたことだけ。
これからは毎日葉月に会えるしもう少し落ち着けば
二人で食事に行くことくらい出来るだろうと…。
一週間。新しい土地で腰を落ち着けるとやっとそう思うことが出来るようになった。
(俺の方がこだわっているのかな?アイツを抱いたこと)
ふと…そんな風に我に返ってしまった。
隼人も『冷たい男』と言われているが葉月もなかなか…『無感情令嬢』と
言われるだけある…。
(この俺をこんな風に惑わすなんて…。ただモンじゃないな。あのお嬢さんは)
隼人は『くそ!』と噛み締めてしまった。
おかしな事に『冷たさは負けるモンか』などと思ってしまう天の邪鬼。
歯を磨きながらも結局、鏡の前で彼女に会う前の身だしなみを整えている自分に
隼人は自分で笑ってしまったぐらいだ。
そうして隼人は乗り慣れたマウンテンバイクにまたがって
船の『ポンポンポン…』という朝の音を聞きながら海岸沿いを走って基地に向かう。
(日本の朝かぁ) 素晴らしい秋晴れ。10月の朝…。
小笠原の真っ青な海の横を走るのも快感に変わってきていた。
「おはようございます」
「おはよう♪隼人さん」
この瞬間…隼人のわびしい夜と朝が一辺に明るい一日のスタートに変わるから困ったモノだった。
いつも葉月は先に来て机の整理をしているのだ。
大佐室の大きな窓辺からはいる朝日に栗色の髪を輝かせて
あのガラス玉のような茶色い瞳もキラキラと輝かせてくれる。
その時ばかりは『真一君の若叔母・血が繋がっている』と納得するほど…。
その瞳には弱くなってしまった隼人はこの瞬間があるから
フランスへのノスタルジィに喰われずになんとかこの島での生活に慣れてきているのだ。
葉月の木箱の上の朝礼も見慣れてきた。
無表情に朝礼をするが、大佐室に二人きりになれば隼人の前では、いつもの女の子。
それだけ隼人には心を許してくれていると言うことだと思えるようになってきた。
しかし。気になることがここで一つ。
「大佐。失礼いたします」
葉月は必ず朝。大佐席の立派な皮椅子に腰を掛けようとするとき
こうして頭を下げてから座るのだ。
それを隼人は最初は何気なく見ていたが…
日を追うごとに心に引っ掛かるようになってきた。
なんだか…。遠野がそこにまだ座って…その上に葉月が座っているような気がしてならなかった。
『おっす。葉月。さて。今日も始めるか?』
『はい。大佐』
その椅子一つに、祐介が葉月を抱きかかえて未だに仕事の指示を手取り足取り…
教え込んでいるような気がしてならなかった。
だからだろうか??
葉月が隼人を無理に欲してこないのはまだ…遠野祐介が心に残っているとか…。
隼人も…こんな光景を毎日見ていると
葉月が未だに『先輩の女』に見えてしまうから、
彼女を心から欲することが出来ないのか?と思ってしまう。
それでも…。
「はい。これ。何にもいうことなくて本当助かる♪康夫の補佐だけあるわよね♪」
調子のいい声で、隼人に事務処理を回す葉月。
「まったく。だんだん増えてくるな俺の仕事。」
隼人も彼女の調子の良さに天の邪鬼に返すが
葉月は慣れているからニッコリ…笑ってやり過ごしてくれるのだ。
そんなやりとりはフランスにいた頃と少しも変わらなかった。
隼人も任されることが増えてくる度に…葉月が満足してくれる度に『自信』に変えることが出来た。
「あ〜ああ。今日もいい天気。何処か出掛けたくなるわよね〜。」
朝の事務が一段落して葉月がポツリと呟いた。
「ふ〜ん。お嬢さんでもそんなこと思うんだ。『仕事』だけじゃないんだ。」
相変わらず…手元は動かしながら話す隼人に葉月がジッと見つめていた。
「そりゃそうよ。今からまた。うるさい兄様達に揉まれるかと思うと時々サボりたくなるわよ。」
葉月がそこで胸ポケットから久しぶりに煙草を一本取り出したので
隼人も手元が止まって視線が行ってしまった。
すると…それに気が付いた葉月がハッとしてソソと取り出した煙草をポケット返してしまった。
「我慢すること無いよ。吸ったら?側でイライラされても困るしね。」
淡白に言うと…葉月は一瞬…固まるのだが。
「そう?じゃ。お兄様のお許しが出たことだし。遠慮なく♪」と
いつもの調子の良さでソファーに行って煙草をくわえるのだ。
隼人は葉月がそんなに煙草を吸わないことは解っていた。
食後ぐらいで職場でも休憩の時だけ。
だから…。何で苛ついているかは知らないが…。
何か嫌なことがあるなら我慢することないと思っている。
「中佐!!これお願いします!夕方納期なんですよ!!」
そこへ。いつもの如く。若い本部員が慌てて書類を持ってなだれ込んでくると。
せっかく力を抜いてくつろいでいた葉月がライターを持ったまま飛び上がった。
それを見て…隼人は思わずクスリ・・と笑いをこらえてしまった。
「もう!なによ!!煙草ぐらい吸わせてよ!」
まずいとこ見られた…と、ばかりに葉月は本部員から書類を受け取って
「解ったわ。午後帰ってきてすぐに目を通すから。昨夜残ってやったの??さすがね。」
一言はねぎらって「はいはい。もう良いわよ」とシッシ!とばかりに
若い本部員を追い返すのだ。
「もう…」
書類を応接テーブルに置いてもう一度葉月は煙草に火を点けようとしていた。
「中佐!これ!お願いします!!お昼までなんですよ!」
葉月はそれを聞いてとうとう…火を点けたばかりの煙草を灰皿に投げ入れてしまった。
「もう!また!?」
「すみません…。なかなかOK出なくて…」
「でも、ちゃんとやり直したのね」
またそうねぎらって…シッシッと追い返すのだ。
「もう!しかたないわね…」
とうとう諦めて大佐席に戻ってきた。
「大変だね…。隊長代理って」
隼人は毎日そうしている葉月が煙草もゆっくり吸えないのが可哀相になってきたが…
「大尉だって…慣れるまで大変でしょ。お互い様」
慰めたつもりが…こうして年下の彼女にいつの間にか隼人の方が包まれていることがある。
『そうかもね』と隼人が微笑むと葉月もニッコリ…いつもの笑顔を返してくれる。
そうして…何処かで何も変わっていないと解ると…
真剣に後輩が仕上げた書類に向う葉月を見て隼人も『負けるものか』と
葉月が回してくれた書類に向かう気力がみなぎるのだ。