15.子守唄

 

 『もう……! 泥だらけになって! お風呂はいりなさい!』

 部屋に入った途端に葉月はいつものお小言ミニママに戻って

紺の上着を無理矢理脱がされ、真っ先にバスルームに放り込まれてしまった。

(もう…なんだよぅ)

先ほどまで、血相を変えていたくせに途端の調子に真一はふてくされた。

洗面台に映る自分を改めて真一は眺める。

頬に赤いすり切れた傷が意外と大きかったので驚いた。

『いって〜…』

指で触ると傷に染みた。

『くそ親父!たった一人の息子にこの扱いかよ!』

だけれども…今まで触れてきた彼のイメージには

良く合った『接し方』だと真一は何処かでイメージが崩れなくて安心していた。

その反面…真・父と触れたような穏やかで優しいジュンにも会ってみたい…と

甘えたい気持ちもどこかにあって…。

満足と、不満が入り交じった複雑な心境に陥った。

『もう…いいよ。』

ため息をついて…時計はスラックスのポケットに大事にしまって裸になる。

シャワーのお湯が、頬の傷。指と手の傷にものすごく染みた。

その染みる痛さが…きっとこの晩のことも…

鮮烈な記憶として残してゆく『刻み』の様だと真一は…そっと血を洗い落とした。

バスローブを羽織って、リビングに戻ると…

葉月が早速、頬の傷を手当してくれる。

『もう!乱暴ね!!』

葉月は、真一には解るように…でも、隼人には聞こえないように

そっと…小さく吐き捨てるのだ。

(お兄ちゃまのバカ!もっと大切に接してよ!相変わらずね!)

彼女の顔がそう言っているように真一には感じた。

父親に強く叩き込まれたような『傷』を…

『ママに一番近い女性』が優しく柔らかく包んでくれる。

葉月の白い指は何時もヒンヤリしているように感じる。

小さい時から、ずっと甘えてきた彼女の手先。仕草。

真一は目をつむってそっと…噛みしめるように大切に感触を拾った。

『はい♪おわり!』

頬を消毒してくれた葉月が大きな絆創膏を二枚も貼り付けてくれた。

「なんか・かっこわりぃ…」

「そう思うなら…もう・自転車で転ばないこと!」

(解っているくせに…親父の仕業だって…)

やっぱり…『秘密は共有しない』…問いただそうとしない葉月に

真一は呆れたが…やっぱり・真一からも切り出せない何かがまだあるのだ。

いまは…葉月がそう言うままに従っておくことにする。

『汗引いたら…ちゃんとパジャマ着なさいよ』

テレビ前のソファーで手当が済んで、葉月はいったん部屋に入ってしまった。

隼人は、『ロイヤルミルクティー』作りに専念。

真一もやっと一息ついて、リモコンを手にテレビを付けてみる。

『出来たよ〜。』

隼人がカップをダイニングテーブルにセッティングをする。

すると…。

葉月が銀色のケースを手にして部屋から出てきた。

(よかった…弾いてくれるんだ)

真一はホッとした…。隼人を気にして弾く気は起こらないかもと…思ったから…。

「…。どうしたんだよ。急に…。」

銀色のケースには、何が入っているか隼人は知っているようで、

ちょっと腑に落ちないような顔をしていた。

(フランスに持っていったなら…きっと隼人兄ちゃんも聞いたことあるな…これは)

葉月も…滅多に出さないヴァイオリンを

本当は『義理兄』の為に出したものだから…

恋人の手前、なんだか後ろめたそうにうつむいていた。

「……。たまには…いいかな?って…。」

葉月がそう言って、ケースをテーブルに置くと…隼人がそっと彼女の側による。

「そうだね…。たまじゃなくて…これからは弾いたら?」

ジュラルミンのケースを『パチン』と開けた葉月の手元を

隼人はにっこり…見守っている。

「そうね…。」

葉月から静かな微笑み。

彼女の手から重厚なピカピカのヴァイオリン…。

叔母がそれを手にすると真一は小さい頃から嬉しくなる。

「隼人さんが…好きなのは…『悲愴』だったかしら?」

「…。そう。一度・パパの家で弾いてくれたっけね…。」

(アリアは弾かないのかよぅ!!)

恋人同士の想い出話に真一は焦ってしまう…。

ヴァイオリンを出したなら『G線上のアリア』を弾いてもらわないと困る!

母と父の想い出の曲をさしおいて、恋人優先は困る!

そう…一人で『オロオロ』していると…。

「俺の為に弾いてくれるのは嬉しいけど…。

ヴァイオリン出したなら…先ずは…お姉さんのために『アリア』をね…。」

隼人が葉月の髪を撫でながら…諭すように葉月に微笑んだ。

そんな…隼人の気遣いに葉月も嬉しそうに微笑んでいる。

真一も…ホッとしながら…。

隼人の寛大な気遣いに…皐月の息子として涙が出そうになったくらいだ。

(この人なら…本当大丈夫そう…)

葉月がスッと一人でテラスに入る。

そして…テラスの雫がまとうガラス戸を一枚…全開に開けたのだ。

小雨が降る中…葉月が外に向かってヴァイオリンを構える。

海の水平線を切るようにボゥが高く弧を描いた。

ゆっくりと…とろけるような甘い音色が響き出す。

そんな葉月を隼人はリビングでそっと見守っていた。

『兄ちゃん…側で聞かないの?』

真一がそう言うと隼人は首を振った。

「あの曲の時は…二人きりにさせてあげたいから…。」

そう言って、静かに隼人はカップにミルクティーの準備を淡々と始めた。

真一は…隼人がそこまで葉月に対して気遣っているとは…思っていなくて。

今は…隼人は『姉妹二人きり』としてそっとしてくれているが…

きっと小雨の中、義理妹の演奏を聴いているだろう父との

義理兄妹の邪魔はしなかった様な感じがして…

なんだか…いろいろな人間の…大人達の生き様に

涙がフッと…浮かんでしまった。

「なんだよ。どうしたんだよ??」

「だって…」

隼人が泣き始めた真一に驚いているが…

「ママが好きだった曲だからか?真一の子守唄なのかな?」

隼人が仕方なさそうに微笑みながら真一の栗毛を撫でてくる。

真一は…隼人の大きな手を暖かく感じながら…

葉月の『アリア』に切なさを感じながら…

そして…涙が染みる頬の傷に父の感触を感じながら…。

暫くは…ダイニングチェアで膝を抱えて泣いてみたのだ…。

やっと。来てくれた。

『待っていた』重い物想いから解放されていくような…

しっとりとした春の小雨の夜…。

 

 

 窓辺で久々のヴァイオリン演奏をした葉月が

隼人のための『悲愴』を弾き終わる。

やっと三人一緒に『お茶』を楽しんで…真一は、『疲れた』と言って

すぐに林側の部屋に入ってしまった。

隼人は『風呂はいる』といってバスルームにこもってしまった。

葉月は、ヴァイオリンを眺めて…もう一度テラスに向かい…。

(純兄様…聴いてくれたかしら?)

辺りを一人見渡したが、人の気配など何処にもなかった。

隼人がシャワーを浴びる音が静かにリビングに響いて

葉月はため息を一つついて、テラスから離れた。

ヴァイオリンを乾いた布で綺麗に拭いてから、大切にケースにしまう。

自分の部屋に戻ってベッドの下にジュラルミンのケースを閉まった。

そして…ジュエリーボードの前に立つ。

時計が閉まってある、収納ケースを開ける。

(また…触ったわね?)

それとなく位置がずれていることは、どんなに真一が

『元通り』と戻したとて、葉月には解ることだった。

(仕方ないわね…)

葉月は…真一が『戻ってきて!』と止めた時。

近いうちに彼とは『真実』を語る日が来ると『覚悟』した。

真一には…何か問われたら自分がどんな顔をするかが今でも怖い。

あの可愛い甥っ子に哀しい目で見つめられるのも耐えられない。

だから…彼が突っ込んでくるまでは、葉月も『さも当たり前の今まで』を

通してゆくつもりは、今でも変えないつもりだった。

でも…。

葉月は一番上の『写真袋』を手にとって数枚の写真を外に出した。

ビューローの机を久々に開いて、引き出しから封筒と便箋を出す。

そして…短い文章を綴る。

写真と短い手紙を封筒にしまう。

それを手にして、ビューローの机を閉じて部屋をそっと出る。

隼人のシャワーの音はまだ響いていた。

ホッと…して、今度は林側の部屋を覗いた。

甥っ子は言葉通り『疲れた』のか、毛布にくるまってスヤスヤ眠っている様子。

それも確認してドアを閉める。

甥っ子の定位置、テレビ前のソファーにある真一のリュックを手に取ってみる。

(あら?結構・荷物持ちね?)

膨らんでいるリュックが何時もと違うような様子を感じながらも

葉月は甥っ子の荷物を開けてみた。

『!?』

先ほど、甥っ子から脱がせた紺の上着は…汚れたのでランドリーに放り込んで

今乾燥機にかけているはずなのに!!

リュックの中から紺の上着が出てきて葉月は驚いて手に広げてみた。

(どうして!?)

自分の胸に宛てると、葉月が着てもちょっと大きめの上着だった。

(今夜。帰るとき…『明日頼む』って言っていたのに??)

葉月は、いぶかしく思いながら紺の上着の裏をめくってみた。

『!!』

胸ポケットの裏に白い糸で『猫』の刺繍がしてある!

(お兄ちゃま!)

大きくなった息子に…今着ている制服が小さいことを知って

彼がそれとなく調達した物だと知って…

葉月は自分が間に入らなくても義理兄はちゃんと息子に接しているし、

息子を気にかけてこんな贈り物を『時計以外』にしているのだと…。

(おにいちゃま…相変わらず。冷たい振りして…)

そんな彼のひねくれた『愛情』に葉月は涙がこぼれてくる。

(お姉ちゃま…お兄ちゃまは、ちゃんとシンちゃんを見ているわよ)

葉月は紺の上着を頬に宛てて暫く涙を流した。

シャワーの音が止まった…。

葉月はハッとして、慌てて紺の上着をたたむ。

その間に白い封筒を挟んで、急いで甥っ子のリュックに押し込んだ。

葉月は涙を拭って、素知らぬ振りでダイニングテーブルで

残っているロイヤルミルクティーを口にしてみる。

「あー。さっぱりした♪」

バスローブを羽織って黒髪を拭きながら隼人が出てきた。

「葉月も入れば?」

「ええ。ここを片づけてから…。」

「いいよ。俺がするから、早く入ってこいよ。」

「いいわよ。先に休んでいて。」

「いいから…。出てきたら…すぐ・部屋に来いよ。」

カップを片づけようとする葉月の手は…。

なんだか瞳を真剣に輝かせた隼人の手で止められた。

『すぐ・部屋に来い』

それには、彼が何かを…いや。

また。彼の不安を煽ったことが葉月には解った。

昨夜もそうだったが隼人は今夜も葉月に『安定』を求める。

彼は口で、疑問に思っていることは問いたださない。

葉月が言うまでは待っている。

だけれども『不安』だから…葉月の無言の反応を求める。

「解ったわ。」

葉月は隼人の言葉に従って、彼に片づけを任せてバスルームに向かった。

葉月の予想通り。

隼人は、毎夜は葉月を求める男ではないのに…。

部屋に入るなりいつも以上…昨夜以上に激しく求められた。

『葉月…。いいんだよ。俺待っているから。』

彼が、『扉を開けない葉月』にそう囁く。

彼の身体が長いこと離れてくれない。

「いや…。私…ダメ…。」

なんだか…隼人に後ろめたさを感じながら…

どうした事か、黒猫の義理兄にまで後ろめたさを感じていた。

(おにいちゃま。見ているの?私が今…こうして抱かれているところ)

その日は、隼人がどんなに激しく抱いても葉月の心は燃えやしなかった。

だから…よけに隼人は離れない。

「葉月。俺だけ見て…。何も考えないでくれよ…!」

葉月の心に住んでいる『男の影』と戦う彼。

彼は今夜気が付いたかも知れない。

葉月の心に住んでいる男は『生きている男』だと。

それでも、隼人は葉月には問いたださない。

「ごめんなさい…隼人さん…。」

少しも波長が合わない葉月に、隼人はやっと諦めたようだった。

「いい。そんな日もあるさ。俺も悪かった。」

いつもとは違う睦み合いは、隼人の一方通行でこの晩は終えた。

必死に愛してくれた彼が寂しそうに背を向けて横になる。

葉月はそっと、その背中に頬を寄せて、抱きついてみた。

「いつかきっと…」

ふとその言葉が出て…自信がなくなって言葉を止める。

言葉を止めた葉月が気になったのか…隼人が肩越しに振り返った。

「いつかきっと…何?」

自信がないから、隼人の視線から葉月は逃げてしまう。

「何?言ってよ…葉月。」

彼が背を向けていた姿勢を反転させて葉月を胸に引き寄せた。

汗ばんだ熱い彼の肌。自分の冷たい白い肌。

その温度の差が、葉月を余計に無口にさせた。

「『いつかきっと…』俺にすべてを預けてくれると…信じているよ。

俺もね…。すべてを抱えるほどの男じゃないから。今は…。」

『だから…お互い様』

そういって優しく微笑む隼人を見て葉月は胸が詰まってしまった。

葉月は半身おこしあげて、栗毛の中、涙を少しだけ流していた。

「お願い。私を離さないで…。ここに一緒にいて…ずっと…。」

そんなことをやっと口にしていた。

葉月自身…自分で驚いていた。

勿論…隼人も驚いたのか、彼も起きあがって

小さな拳で涙を拭う葉月を見下ろしている。

「ビックリしたなぁ…。葉月がそんなこと言うなんて…。」

「私だって…自分で驚いているわよ!」

何故か怒っていたりする。

そんな葉月がいつもの『じゃじゃ馬嬢』にやっと戻ったように見えたのか

隼人は『アハハ!』と笑い出して葉月の肩を抱き寄せる。

「もしかして…俺が初めて?今まで言いたくても言えなかったことやっと言ったとか?」

葉月も素直じゃないので、『うん』とは頷けずに、硬直してしまった。

「それで良いよ。早くそのセリフ。他の男に使ったら良かったのに…。

でも?そうしていたら俺はここにいなかったね?俺の勝ち得♪」

「『勝ち得』?なにそれ…。」

葉月はおかしくなって思わず笑ってしまった。

葉月が笑ったので、隼人も安心したように胸に引き寄せてくれる。

「葉月。お前の中に忘れられない『人』がいたとしても…。

その人が側にいないのなら、やっぱり俺の物だよ。

その人がもし…葉月を迎えに来ても…」

葉月はやはり…隼人は今夜の一件でそこまで察したと知って『ドキリ…』とした。

隼人を見上げると、かなり真剣な瞳で葉月を見下ろしている。

「譲らない。葉月の側にいれない奴にはね。」

「隼人さん…。」

「それからもう一つ…。俺。やっぱりお前と暮らし始めて良かった。

そうじゃないと…。何一つ、お前が持っている世界に触れることもなかった。

今まで、どんな男も葉月の世界に触れることないまま去っていたのだろう?

俺は…乗り越えてみせるよ。それが『御園葉月』と一緒にいるって事だから。

俺より先に葉月を守っていた人たちには、適わない部分があって当たり前。

それぐらい解っているよ。それは…これから少しずつ埋めてゆく。

時間がかかっても…。その分。側にいるから…。」

ほら…。解けてゆく。ほどけてゆく…。

彼の言葉が、いつも、葉月の絡まった糸をほどいてゆく。

気持ちがいいほどに、さらりと…シルクの下着を脱ぎ落とすように…。

鍵を差し込んだ錠が少しゆるんでゆく。

『もう少ししたら…開くかも…。』

葉月は…今まで感じたことない緩やかな愛を隼人から感じて微笑んでいた。

「やっぱり…隼人さんって『ズレている』♪」

彼の胸に抱きつくと、隼人は呆れて『お調子モン!』葉月を払いのけた。

それでも、二人一緒に寝ころんで、天井に向かって笑い始めていた。

『雨。やんだみたい?』

『そうだね…。』

この晩。葉月は彼に背中を向けないで…彼の胸の中で

初めて眠りについたようだった。

眠りにつくまで、彼が栗毛をずっと撫でてくれる。

優しい葉月の子守唄のように……。