14.戻ってきて……
ガラス張りテラスの窓に銀色の滴がまた流れ出す。
隼人は雨音に気が付いてそっとテラスのテーブルから立ち上がった。
キッチンからは水の音。
『お茶を飲む?』と言った葉月が準備をしているところだった。
テラスからリビングに戻って隼人はキッチンを覗いた。
「真一。もうついたかな?」
隼人は紺のニットワンピースでキッチンに立つ葉月に話しかける。
「そうね。雨降ってきたの?」
「ああ。小降りだけどね。」
カフェオレをキチンとボールで作る葉月の横に隼人は寄ってみる。
いつもかっちりとした軍服を着ている彼女は…
自宅にいれば、女性らしい身体のラインを出す優雅なお嬢様だった。
「なに?」
そばを離れないジーンズ姿の隼人を葉月がいぶかしそうに見上げた。
「別に?」
と…言いながらも…隼人は葉月のほっそりとしたウエストに手を回していた。
栗毛がしっとり頬を覆っている所に隼人もそっと頬を寄せてみる。
葉月がコーヒーとミルクを注いでいた手を止めた。
「だから…なに?」
隼人の眼鏡の縁がヒンヤリ…葉月の頬に伝う。
彼が栗毛を邪魔とばかりに大きな手で払って…唇を求めているのが解る。
葉月が目をつむるまもなく隼人がそっと唇を重ねてきた。
いつもの『挨拶』のような軽い口づけでなかったので
葉月は戸惑いながら…手元にあった道具をシンクに落としてしまった。
『はやと…さん』
真一がいなくなると途端に彼はこうして熱っぽくなる。
それが葉月も嬉しいのだが…時々戸惑う。
前はもっと…冷たい男だった。淡泊な男だったのに。
今だって…ほとんどはそうなのだが彼は急にこうして熱っぽくなることがある。
昨夜…葉月が見た夢のうわごとを気にしているように感じた。
(まだ…気にしているの?)
彼の唇がなかなか離れなくて…逞しい腕で腰は彼の身体にキツク引き寄せられた。
「もう!なに??どうしたの?」
やっと彼の唇が離れて、葉月は隼人を腕で押しのけようとしたが…
隼人は葉月の身体を引き寄せたまま離そうとはしてくれなかった。
その上まだ…唇を求めてくる。
だけれども身体は触ろうとしないのだ。
すると…隼人が葉月を見下ろして『にやり』と微笑んだ。
『?』
「お前。今日いっぱいアイス食べていたからな。『甘い』んだよ。」
「え?」
「いつも、デザートを食べた後は『甘い味』がするって事。」
「!」
隼人の『楽しみ』が解って葉月は一気に頬が赤くなったのが自分で解った。
「まだ。味がするから…。味がしなくなるまで〜…」
そう言って隼人はふざけながら葉月を抱き寄せる。
「もう!いや!そんなこと考えていたの!!」
「今頃気が付いた?もう随分前から楽しんでいるよ♪『甘党』さん♪」
「バカ!!デザートを買ってきてくれるのはそうゆう事なの!?」
葉月が腕を振り上げると隼人はずれた眼鏡をなおして『アハハ♪』と
面白そうにキッチンから逃げていってしまった。
『もう…。』
葉月は唇を指でさすりながら…でも、そっと微笑んでいた。
何時も葉月をからかって面白がる余裕な兄様であるのは
フランスで出逢った頃から何も変わっていない。
ムキになる葉月をみて隼人は面白そうに笑う。
ちょっと、葉月が戸惑うような熱っぽい触れ合いも
隼人がそうして最後は茶化してしまうので結局…
葉月が戸惑っていたものはどこかに飛んでなくなってしまう…。
そんな彼の上手な葉月の扱いが…葉月の心を少しづつ…。
『普通に愛したいの』と言う願い通りに持って行かれてしまっていた。
隼人のリードがこんなに上手とは葉月も予想はしていなかったが…
「カフェオレまだ?」
「隼人さんのせいで!途中で全部こぼしちゃったじゃない!」
(ほら。また…)
無感情な自分はこうして怒るにせよ喜ぶにせよすべて隼人の手の上のような気がした。
「じゃ。葉月の分は、俺が入れて上げるよ。」
「え?」
「ロイヤルミルクティー。練習しておかないとね。」
そう言って彼は結局、葉月が最後に「有り難う」と満足する方に持っていってしまう。
「合格、何時くれるかな?うちの隊長。」
照れくさいときは何時も「うちの中佐」とか「隊長」で隼人は片づける。
天の邪鬼も全然変わらない。
葉月もおかしくなって…隼人のカップにカフェオレを入れて
キッチンのポジションは彼に譲った。
『まずは。ミルクを温めないとね』
隼人がそう言って冷蔵庫を開けたときだった。
『ピーピーピー』
二人そろって…顔を見合わせた。
今このインターホンを鳴らす事が出来るのは…葉月と隼人と…そして…
「シンちゃん!?」
「何かあったのか?」
葉月はすぐに玄関に向かい、隼人も牛乳パックを放り投げてまでキッチンから出てきた。
玄関に急ぐと、真一が丁度良くドアを開けて入ってきたところ。
彼の姿を一目見て、葉月と隼人は硬直した。
「どうしたの!?その格好!!」
葉月は驚いてすぐに真一に駆け寄った。
隼人も…葉月が真一の頬に手を当てて擦り剥けて赤くなっている所に息を止めた。
紺色の制服は、灰色の泥で濡れているし…真一の手も血がにじんでいた。
葉月はもう…言葉を失って真一の頭を肩に引き寄せていた。
真一の眼差しは何か輝いている。
いつもの無邪気な男の子の瞳じゃなかった。
「どうした!?悪い大人に何かされたのか?」
抱きしめている葉月と同じ身長になった真一は葉月の肩から
隼人を見上げてそっと無口に首を振る。
「だったら…どうしたんだよ?」
無言になってしまった小さいママに代わって隼人が問いつめると…
「転んじゃった。雨で…自転車滑っちゃって…。官舎の前で…。
寮に帰るよりこっちが近いから…雨が降ってきたから…戻ってきた。」
無表情に…真一は落ち着いて淡々と隼人に告げる。
瞳が…「はは♪転んじゃったんだ!」と何時もおどける真一でなくて
隼人は、その言葉をすぐには信じることが出来なかった。
「………。本当か?」
隼人がそう疑り深くもう一度問うと…真一はしっかり…真っ直ぐ…
隼人の視線から逃げずにこっくり頷いた。
それ以上は、問いつめることが出来なかった。
勿論…葉月も信じていないようで真一を肩から離して
ジッと彼の瞳を見つめていた。
真一が腕の時計を『カシャッ!』と一振りして頬の擦り傷を拳で拭った。
葉月の動きが一瞬止まったように隼人には見えた。
真一が拳で傷を拭いながら妙に長く…同じ背丈で…同じ目線の叔母と見つめ合っていた。
葉月もそんな甥っ子の視線をジッとみていたのだ。
(あんな時計していたっけ??)
隼人は嫌に銀色に輝く時計に違和感が走ったが…
その疑問を抱いた途端に…葉月が裸足のまま玄関を出ていった!
「葉月!?」
「葉月ちゃん!!」
隼人もビックリしたが真一も驚いたようで
二人そろって玄関を出ると葉月は裸足にも関わらずいちばん外の
鉄扉すらも飛び出してしまったところだった。
二人で葉月を追いかけると…既にエレベーターに乗られてしまった!
「何だよ!いきなり!!」
隼人が悔しそうに閉まったエレベーターの扉を叩いた。
このエレベーター以外に降りられる階段があるが一番下の扉は
何時も鍵がかけられていてロバートじゃないと開けられないのだ。
「真一!葉月はお前が誰かに襲われたって思っているみたいだけど!?」
隼人に食いつかれて真一はヒヤッとおののいた。
葉月が飛び出したのは甥っ子が転んだと言っても
『襲われたから』その相手をひっつかまえに飛び出した!と思ったようだ。
確かにそうだが…。
「違うよ!本当に転んだんだよ!!悪い事されたら俺ちゃんというよ!」
『だったら・アイツの早とちりか?』
隼人が『チッ!』と葉月の慌て振りに舌打ちをしているとやっとエレベーターが
三階に戻ってきた。
二人一緒に乗り込んだ。
「頭に血が上ると…確かにコントロール効かなくなるみたいだからな!」
隼人は葉月のそんなところも良く心得ているようだった。
おそらく…葉月がロッカールームで男に襲われたときのことを
言っているのだろうと真一は思った。
しかし…真一にも予想外の葉月の行動だった!
(どうして!?時計をみたら…すぐにヴァイオリンを弾いてくれると思ったのに!)
なのに…葉月は『義理兄と甥っ子』が今し方接触したと知って飛び出してしまった。
葉月が追いかけようとしているのは『ジュン』
真一はやっと解った!
(葉月ちゃんも逢いたいんだ!)
写真を思い出した。小さい葉月が頭を撫でられて写っていた写真を…。
『真お兄ちゃま!』
葉月は真が生きていた頃、可愛らしい笑顔で何時も真にひっついていた。
だから…『初恋のお兄ちゃま』という言葉は信じていた。
いまだって。真・父と葉月の仲の良さは疑っていない。
でも!それと同じように…葉月は『純一』の事も慕っていたに違いない!
側にいると知れば…会いに行きたいのが葉月の気持ち…。
真一よりもずっと前から葉月は谷村の兄弟に甘えていたに違いない。
真一が『しまった…』ともっと上手く間をおいて時計を見せるべきだったと
反省をしているとエレベーターが一階について、
真一より早く隼人が飛び出していった。
(ああ!隼人兄ちゃんが変な疑問を持つかも知れない!!)
隼人の慌て振りにも真一は戸惑ってしまった。
隼人を追いかけると…彼がロビーで立ち止まった。
『?』
背の高い彼の背中を覗くと…。
葉月が裸足で…自動ドアの外、辺りを見渡していたのだ。
「………。」
彼女が誰かを捜している。
隼人の目にそう映って…悪い奴を捜しに行ったのじゃないと…
恋人の異様な行動に隼人が呆然としているのが真一には解る。
たまらなくなって…真一は雨の中、
義理兄を捜そうかどうか迷っている叔母の元に走った。
「葉月ちゃん…帰ろう!」
真一の声にやっと葉月が振り返る。
彼女の強ばった表情…。
真一にはすべて見抜かれてると戸惑っている表情。
みていられなかった…。
「戻ってきてよ!葉月ちゃん。隼人兄ちゃんが心配している!」
(追いかけたって…あんな親父…姿現すわけないジャン!!)
真一が隼人を指さすと…葉月はやっと何かから目覚めたように
隼人とをジッと見つめていた。
葉月が見つめるので…隼人も安心したのか…
オートロックの自動ドアを抜けて…いちばん外の自動ドアも出てきた。
「頭冷やせよ。隊長。甥っ子は転んだだけだって言っているぜ?」
隼人がそう言って…この場を収めようとしているのが真一には解った。
だが…いつもの穏やかで静かに落ち着いてる優しい彼じゃない。
冷静さは何時も通りだが…葉月に何か疑問を抱いた冷たい顔をしていて…
真一はそんな隼人の顔と鋭さにヒヤッとした。
しかし…
「隼人さん…」
葉月が…困ったようにしんなり…隼人の胸に飛び込んだので
真一は目の前でビックリしてしまった。
初めて二人が抱き合ったのをみたのは隼人がこの島に来たばかりの頃…。
それ以来は二人は絶対に真一の目の前では、男女の触れ合いは見せなかったから…。
しかも…男には冷たい若叔母が…
男の胸に飛び込む姿など…達也と付き合っているときだって見たことがなかった。
隼人もそれには戸惑っていたが…。
葉月が…恋人が飛び出していっても自分の胸に帰ってきたので
『それで良し…』としたらしく…もう葉月を抱きしめて栗毛を撫でてニッコリ微笑んでいた。
「バカだな。叔母バカだな。甥っ子がやられたと思いこんで、頭に血を上らせるなんて…」
本当はそうは思っていないだろうに…
隼人は胸から離れない葉月をいたわるようにきつく抱きしめたものだから…
真一の方が『うわぁ…』と頬を染めてしまった。
葉月がそうして離れないので隼人が今度は困っていた。
真一は、若叔母の寂しさを見てしまった気がした。
昔からあるべきだった…優しい年上の姉や兄たち。
今はもうない…。
葉月はそれを振り返りたくなくて一人…
厳しい訓練を重ねることで忘れてきたのかも知れない。
取り返したいのに取り返せない。
一人でいたくないのに、誰も信じられない。
やっと出来た頼れる人。
その男の胸に今飛び込んだのだ…。
真一の優しくて寂しい叔母はいま…ちゃんと行く胸があるのだ。
でも…まだ逢いたい大好きな兄がいる。
だから…追いかける。
でも。逃げられる。
(それで良いんだよ。葉月ちゃん。隼人兄ちゃんで良いんだよ)
闇に身を投じた男は葉月には似合わない。
真一の父親でも…母が願う妹の幸せはきっと…今目の前にある
表の世界で見つけることなのだ。
二人がいつまで経っても小雨の中、抱き合っているので真一は呆れてため息が出てきた。
「俺…やっぱ。帰ろうかな…。」
しらけた視線を二人に向けると、やっと隼人が我に返ったようにして
葉月の背に回していた両腕をパッと離した…。
だけれども…葉月はまだ、隼人の胸に頬を埋めて…
彼が着ている白いシャツを握りしめていた。
さすがに、隼人もそんな葉月に途方に暮れているのだ。
「いいなぁ♪おーれも・一緒♪」
隼人から離れない葉月の背中に真一もピタ!と抱きついてみた。
すると…やっと葉月が反応した。
隼人の胸に、身長170pの人間二人分がのしかかって
彼は『おっと…こら!?』とよろめいた。
「なんだよ…まったく。おんぶウサギ…。」
『ウサギ?』と、葉月と真一はそろって首を傾げた。
「はは♪」
隼人は誤魔化したように笑いつつも葉月と真一を
一緒に両腕の中、包み込んでくれた。
真一も大満足♪
三人一緒…。明日も、明後日も…。ずっとこうして…。一緒♪
そう思えてきた。
そして…時々。本当の父親がやってくる。
『それでいい♪』
葉月もいつの間にか微笑んで真一を隼人と一緒に包んでくれていた。
『ミルクティー、作っていた途中。さぁ。一緒に飲もう?』
隼人がそう言って葉月と真一の肩を抱いて、マンションの中に連れてゆく…。
でも…。
隼人の肩越しをそっと…外へ振り返る葉月を真一は見逃さなかった。