■ Mr.BlueSky ■

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7.お兄様、初めてのじゃじゃ馬馴らし

 

 苦労して集めた署名書を『無駄なこと』とばっさりの細川大佐。
 光る銀縁眼鏡の奥に携わる切れ長の眼、またひときわ細めた眼差しが冷たい。
「しかし、よくこれだけ集まったものだな」
 呆れたような、でもふっと気を抜いたような溜め息を彼が吐く。それまでにない顔つきになったので、少し奇妙で、隼人は葉月と顔を見合わせてしまう。
 しかし、それも一瞬。
「どれだけ大佐嬢に騙されている男が多いことか。困ったものだ、この部隊は」
 やはり彼らしい物言いを投げつけられ、隼人は密かにゲンナリ。一瞬、感心してくれたように表情が緩んで見えたのは気のせいか。
 やっぱり細川のおじ様のご子息だと隼人はつくづく思った。簡単に人など褒めない、おだてない、乗せない。予想通りだから、もうガッカリするだなんて気持ちも湧かない。
 そして葉月に至っては何を言われても『ふーん、それで』という平然とした様子だから、夫の自分だけが感情的になるのも馬鹿馬鹿しいだけ。
「いいか。今後もこのような『作戦』はやらないで欲しい」
 『作戦』て。そんな下心で集まったものではないと言いたい。いや、やっぱり妻の昇進を願う故の『下心』だったかもしれないが。
「このようなことに無駄な時間を使わないよう。もっと効率的にやっていきたい」
 はいはい、俺がやったことは『無駄で非効率だったわけですね』と、やっぱりちょっとムッとしてきた隼人。
「この件は、これで終わったことにする」
 そうして細川ジュニアは、何故か、隼人にではなく葉月にその『署名書』を差し出していた。
 どちらの顔も見ず、これはもう終わったからと宣言したからなのか、細川ジュニアはもう隼人の資料バインダーを開いて眺めている。
「あの、細川大佐。それは私ではなく澤村の……」
 こちらも見ずに手を伸ばしたから間違えている。流石の葉月も怖いお兄様に恐る恐るといった様子でそっと告げたのだが。
 そこで彼が銀縁眼鏡を光らせ、こちらを冷たくちらりと見た。
「大佐嬢のものではないのか。元側近の部下が、お前のためを思って駆け回り集めたものだろ」
 その真意、そしてそんな彼の冷たそうでそうではない行為に、隼人も葉月も揃って息を止めてしまう。
「お、仰るとおりです。有り難く、受け取らせて頂きます」
 あの葉月が丁寧に頭を下げ、細川ジュニアから恭しい手つきで『署名書』を受け取った。
「そこに名を連ねてくれた隊員の名と顔を忘れるな」
 その言葉にも、隼人は葉月と共に胸を貫かれた。葉月がもう言葉を失い、そっと眼差しを伏せている。そのまつげが震えているように隼人には見えた。
「勿論です。大事に胸にしまっておきます」
「そうしておけ」
 しかも葉月は署名書を手に、こちらに向けても頭を下げてくれ隼人もびっくりする。
「澤村中佐、有り難うございました。これを胸に、また貴方達と共に邁進していきたいと思います」
「い、いえ。……これまでの大佐嬢があればこその、署名だと思っています」
 こんな時、夫妻であって夫妻ではなくなる。それに、元上司である妻にそうして人前で感謝されるなんて、なんだか照れくさくてどうしようもない。
 そしてそんな夫妻を目の前に、やっぱり細川ジュニアは『夫妻で馬鹿馬鹿しい』と言いたそうな白けた眼差し。
「では。次の件であるが」
 さっさと先を行こうとする彼に、隼人と葉月も気持ちを改め、細川大佐に向き直る。
「本日、密かに大佐嬢と澤村に来てもらったのには訳がある」
 訳? この秘密部署の使ってもいない事務室にシークレットで夫妻を呼んだ訳。それを細川ジュニアが話し始める。
「そのうちに、風の噂で耳にする日もくるだろうが。私がこうしてこちらに転属になったのは『派閥争いの果てに敗北、それゆえの左遷』だと……ね」
 『派閥争いに負けて、左遷でやってきた』? 思わぬ事情を聞かされ、夫妻で揃って目を丸くした。それでも彼は眼鏡を光らせ淡々と続ける。
「横須賀で業務隊長をしていた自分であるが、やはりあちらにも『派閥』というものがあり、これがどうにも業務の遂行を妨げる。なので、それならばと『負けてみた』のだが」
 え、わざと負けた? この大佐殿がここにくるまでのいきさつがなにやら只ならぬものだと知り、隼人はますます絶句……。
 すると側で常ににこにこしていたリッキーが割って入ってきた。
「つまり『わざと負けて、ひとまず面倒くさい派閥争いから身を引いた』、場所を移して正義は『やりたいことをやろう』という戦法に変えたわけだね。横須賀で連隊長候補になるだのならないだの、正義にはあまり関係ないんだよ。ただ業務を規律正しく遂行したいだけ。だけれど相手は出世欲が強い一派で、その為なら規律正しくを覆す相手。だから正義は目の敵にされていたと。規律正しい業務を遂行する業務隊長は目障りだったというのもあるね」
「その通り。その為に隊員を私物化することは、軍隊では決してあってはいけない」
 『軍隊を規律正しい軍隊として守る』、それが業務隊長の勤め。それを出世で利用する男達に覆されそうになり拒否しているうちに派閥として対立することになっていた――ということらしい。
 なるほど? なんかそんな感じの大佐殿だと隼人も理解できたが。その『わざと敗走してきた』という戦法を選択し、本当に小笠原にやってきたというのならなんて思い切った決断をしたものかと驚きを隠せない。
 それを知って、うちの奥さんはどうなのだろう……と、葉月を見ると。驚くどころか、怖いはずの兄様をじいっと見つめている。
「なんだ、大佐嬢」
 そんな大佐嬢に穴が開くほど見つめられていることに、細川ジュニアも気がついた。
「いえ、なにも」
 本当か? お前、何とも思っていない顔をしているが、目がもう『ふふふ』と笑っているじゃないか――。そう思ったのは隼人だけじゃない。
「言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「いいえ。何もございません。細川大佐、お話の続きを」
 それを聞いてから口を出す言いたそうな大佐嬢の『笑っている目』に、細川ジュニアが顔をしかめた。
「まあ、つまり。あちら側が『勝った』と思っているうちに、それを利用しようと思う」
「あの、利用とは?」
 隼人が聞くと、細川ジュニアが葉月を見た。
「なにやら、大佐嬢はもう思いついたようだが」
 今度、隼人は妻を見る。彼女の顔がもう何かを捕らえている目、なにかに狙いを定めた目。そして細川ジュニアはそんな葉月を知って、今度は彼が葉月をじっと見ている。今度、耐えられなくなったのは葉月の方、彼女から切り出した。
「元々、私と細川の兄様は『不仲』です。正義兄様とは楽しくお話ししたこともない」
「他の兄貴達のように猫かわいがりしてくれなかったと言いたいのか。俺が甘やかさずとも、充分『兄貴達』にちやほやしてきてもらっただろう。これからもお前と近くなったからといって、今までを改め、和気藹々しようだなんておもっていない」
「それで充分でございます、正義兄様」
「俺のことを、兄様と呼ぶな!」
 途端に『顔馴染み』の言い合いに。しかもそれまで淡々としていた細川ジュニアが『兄様』と呼ばれただけで感情を露わにしたりして。
 そんな二人を、やっぱりここで一番大人であるリッキーが『相変わらずだねえ』と笑って悠然と眺めているだけ。
 『この甘ったれ姫』、『いけすかない意地悪兄様なんか、あっかんべー』と言わんばかりの二人が顔をつきあわせ、そこでひとまず黙った。
 そして葉月も一息、栗毛をかき上げ面倒くさそうに言った。
「わかりました。それならば、今まで以上に正義兄様とは『不仲』に見せたらいかがでしょうか。小笠原の連隊長候補の男に嫌われている大佐嬢、正義兄様が身を引いたお陰で代わりに昇進したという『横須賀副連隊長一派』が、それなら嫌われている大佐嬢を昇進させ、細川が連隊長に就く前に同列の『准将にしてしまえ』。もしかすると御園の力で細川ジュニアは潰してもらえるかも知れない……なんて、兄様の行く手を阻む意地悪をお思いつくように、ですか……?」
「そういうことだ。『雷神』を任せるからには、お前には……」
 そこで細川大佐が思わぬことを言い放った。
「男だろうが女だろうがひとまず『准将』という確固たる地位を手に入れてもらわねばならない」
 葉月を『転属させる』と言いだした男が、誰も見ていないここで見せた本心に、隼人はもう驚くしかなかった。笑っていたリッキー兄さんも真顔になっている。つまりこれは『小笠原上層部の総意』ということらしい。
 それを聞き届けた葉月の目つきも途端に変わった。『男だろうが女だろうが、お前がやること』と上司から直接密命が下ったのだから。
「故にしばらくの間、何事にも大佐嬢の揚げ足をとることになりそうだ」
「承知致しました」
「こちらで欲しいものが手に入ったら、手のひらを返すつもりだが。そのタイミングはまた知らせる」
「了解です」
 不仲だが、目指すところが『ひとつ』と確認し合った二人の大佐が淡々と密約を交わしていく――。
「連絡はリッキーに任せる。御園嬢と俺の溝で生まれるリスクは、リッキーと澤村に間に入って微調整してもらう」
「イエッサー」
 だが隼人は、あまりにも唐突な密命で上手く反応できなかった。やや違和感が。
「あの、フランク連隊長はこのことについては」
 すると、細川ジュニアではなく、現側近のリッキーが口を開く。
「もう卒業するんだよ。ロイは。このことは、後を任せる正義に一任した。なるべく触れずにフロリダに行ってほしい」
 そして細川ジュニアも。
「部下を育てた親心で手を出したくなっても出さないで欲しいと、俺からもお願いしてある。こちらの醜い争いに巻き込んで変なリスクを背負ったりダメージを与えては申し訳ない。なにせ先輩には、これからフロリダから大いにこちらをバックアップして頂きたいので。そう伝えてある」
「それでは。ロイ兄様にご迷惑をかけないように、ということですね」
 葉月のちょっとした確認に、急に切り込むような眼差しが彼女へ放たれた。
「もうお前を助けてはくれない。それまで存分に助けてもらいここまで来ただろう。恩を感じるなら、今ここから独り立ち。成果を上げて兄貴を安心させてフロリダに送ってやれ」
 これまたきっつい言い方。
 あの葉月が、それまでは『私も大人になった一人の隊員として兄様には認めてもらおう』と、澄ました顔と平静を保っていたのに。ここにきて、初めてお嬢ちゃんらしい『ぶす』とした顔を見せた。
「なんだ、その顔は」
「いいえ。お兄様の仰るとおりでございますっ」
 大佐嬢が御園のお嬢ちゃんに。その顔を露わにした葉月を見た細川ジュニアが怒るどころか、そこでは『ニンマリ』。
 ついに『お前の甘えた本性、現したな』と、鬼の首を取ったかのような余裕の笑みを見せていた。
 リッキーはそこで『あはは』と楽しそうに笑っているが、正直、隼人はくらくらしそうになっていた。
   
 なんなんだよ。この大佐二人は。上司と部下として歴とした態度を取りながらも、どことなく腹の探り合い。なのに、腹を探ったら結局は意見一致。かと思ったら、今度は兄様と嬢ちゃまの顔で敵対し合う。
 これからこんな意思疎通出来ているのか、出来ていないのか、張り合っているのか、気に入らないのか。それをいちいち『こっち』が見定めなくちゃいけないのかよ――と。
 しかも『澤村には間に入ってもらって、微調整』ってなんだよ??
 冗談じゃない。こんな何を考えているか解らない奥さんの胸の内を察するだけでも、どれだけの神経を集中させていることか?
 見ていたら二人は似ていると隼人は思った。『人に心を読ませない』ことを戦術としている似たもの同士だと。
 そんな二人の間に入れと?
    
 だが彼のちょっと素直じゃなさそうな物言いを聞いているうちに思った。親父さんの細川元中将にそっくりだと。
 見た目やスタンス、第一印象が違っても『親子て根底が似るんだ』と隼人は痛感してしまう。
 ジュニア殿がどのような男性か、徐々に解ってきた気がした。
 それならば。今まで通り? 『細川のおじ様とお嬢ちゃん』だった二人が『細川の兄様とお嬢ちゃん』になったと思えばいいのか?
    
「では。御園大佐嬢は、もう帰っても良い」
 密命を下し、彼女にも充分言いたいことは伝えたからか。そこで細川ジュニアはまだ隼人との話も終わっていないのに、葉月を帰そうとした。
 だが葉月も、ここは『一筋縄ではいかぬお兄様が来た』と判断したのか下手に出ることに決めたようだ。
「かしこまりました」
 素直に返答し一礼すると早速席を立ち、持ってきた資料バインダーを小脇に秘密の事務室を出て行こうとする。
 彼女がドアノブを握り、さあ扉を開けようとした時だった。
「ああ、言い忘れた。大佐嬢。暫く『散歩』は禁止とする。俺の許可が出るまで、勤務中に悠々自適にうろうろするな」
 それにも葉月がお嬢ちゃんの顔で嫌そうに振り返った。
 しかも新しい上司になるこのジュニア殿は、もう既に『御園嬢の悪い癖』を把握している! 葉月自身、そこまでお兄様に先手を取られていることに愕然としていることが、隼人にも通じてきた。
 だが隼人もここでは夫として、元側近として言っておきたい――。
「お言葉ですが、細川大佐。彼女の散歩はいわゆるお忍び歩きのようなもので……」
「夫の助け船など、情けない」
 夫としての心情も見抜かれ、しかもばっさりやられて隼人もぐうの音も出ない状態に……。
「命令だ。破ったら転属させるぞ。この時に俺の本気を見せてやる。それが見たいか? ばれなければ大丈夫だろうなどと思って、こっそりやってみろ。これぐらいの命令も実行できないお前なんか向こうにくれてやる」
 上司の命令を絶対と思えず、己の判断のみで動く手駒は要らない――と突きつけられている。
 たとえ命令が絶対でも、『こうすればより良くなる』と思ったら葉月は覆すことがある。だがそれにはプラスの成果をひっさげて上司に捧げる結果を出すことが絶対だった。
 それも今度は『絶対にやるな』と釘を刺されている。
「……承知致しました。許可が出るまで、決して勝手なことはいたしません」
 そこはいつもの冷めた大佐嬢の顔になった葉月。
「行け」
 彼女をしっかり押さえつけた細川ジュニアが、そこは尊大に顎で指示をする。如何にも『絶対的上司』の態度。そしてその光景は、しっかりとじゃじゃ馬の手綱を握りしめることに成功した『ご主人様』の勝利の瞬間にも見えた隼人。
 だがその『行け』と告げたその目が、『これからお前と組んで、周りをあっと言わせる。ぬかりなく動けよ』と、彼女を戦場に放つ主にも見えた。
 葉月が最後に一礼をし、出て行った。
    
 じゃじゃ馬奥さんが去って、急に空気が静かに落ち着いたように思えた。
「はあ、まったく……」
 彼も同じなのか、ふっと一息。肩の力を抜いたようだった。それは葉月が出て行くまで決して見せなかった姿にも見える。
「中佐。喉が渇いてしまった」
 そこに控えているリッキーに、申し訳なさそうに一言。
「はは。かしこまりました、大佐。なにか飲み物を持ってきましょう。隼人君もいかがかな」
「ではお言葉に甘えて。お願い致します」
 リッキー兄さんがにこやかな笑顔で外に出て行った。
    
 やり手の、新顔のお兄様と二人きりになる。
 そんな馴染まない空気なのに、先に笑ったのは細川ジュニアの方だった。
「あれを女房にして手綱を握るのは相当な苦労だろうな」
 かっちりしていた大佐殿だったのに。急に本当の兄さんのような……和やかな口元と口調に変わり、隼人は密かに驚くのだが。
「いえ。私には細川大佐が女房の手綱をもう握ったなと、先ほど感じましたけれど」
「親父殿に言われたんだよ。最初に『小娘』の首元をぎゅっと締めて手綱を握っておけよ、と」
「細川のおじ様がですか」
 道理で! この来たばかりのお兄さんが、あれだけきつく葉月を真っ正面から制することに全力だった訳を知った気がした。
「途中で思いました。お父上の元中将とそっくりだと。あれではうちの奥さんも堪らなかったことでしょう。なにせ彼女がこの部隊で一番怖がっていたのは、そちらのお父様なのですから」
 それには、細川ジュニアも苦笑いを浮かべる。
「父は、俺にもそんな感じだったよ」
 親子で――? それはけっこうきついなと、このお兄さんがこのようにキッチリカッチリ、でも真摯に軍隊で業務を遂行する堅実さを譲らない信念はどうして育てられてきたのか。それはやはり細川元中将の子息だからこそだと納得。
「ところで……」
 そこで細川ジュニアは、今から隼人と話すはずだった資料のバインダーを閉じてしまった。
 話す題材を閉まった彼の手元にはなにもない上で、隼人を見つめている。
「澤村中佐は夫として、彼女がどのようなところをどのようにうろついているか把握しているのかな」
「え、あの。それは妻の『散歩』がどのようなものか……と言うことですか?」
 そうだ。と、彼が真面目な顔で頷いた。それを知りたがる意図が隼人には見えないのだが。
「いえ。ですがもうこの基地の誰もが知っていることは……」
「陸部訓練棟の向こうにあるグラウンドの芝土手。大きな木がある木陰。そこにいる、だな」
 はあ、そこまでご存じで……。隼人も降参。この人は『基地の誰もが知っているようなこと』は何もかも調べた上で、ここに転属してきたのだと思った。
 だけれど。それではわからないことがある。だから夫の隼人を呼んだのだとも思った。
「リッキーから聞いた。あの嬢ちゃんが、うろうろしている割には、うろうろしなければわからない小さな情報を拾ってきて、密かに報告してくれるのだと」
「そうです。彼女の散歩には意味があります。ですので、あまり縛っては欲しくなかったのですが」
「俺とその連携が取れるまでは時間がかかるだろう。そのために、元側近で夫である中佐には『その繋ぎ』になって欲しいとも思っている」
「それは……勿論です。新しい上司と彼女の連携のためなら、私も喜んで協力致します」
「だが。問題は、彼女がこれから准将になると、これからこの部隊を束ねていく俺や、連隊長であるロイ先輩のように好きなように身動きが取れなくなることが増える――ということ」
 そこまで話して、細川ジュニアがまた葉月を制していた時のような冷淡な眼差しで隼人を見る。
「その為に工学科に移ったとも聞いている。その時が来たと思って欲しい。彼女が今後もどのような散歩をしても構わない。ただ、彼女ではなく、今後は澤村にも密かに動き回って欲しいのだが」
 ――来た。隼人自身にも密命が。
 そしてそれは隼人が四中隊を出て行く時に思い描いていた理想に近い密命。
「承知致しました」
「まず、俺としても、とりあえずはあの嬢ちゃんがどこをどううろついているか把握しておきたいのだが……。そこまでは旦那も監視はしていないってことだな。だよな、じゃじゃ馬嬢の旦那はそれぐらいの余裕がなければやっていけないだろうしな」
 まるで同情するかのように溜め息を吐いてくれたので、隼人はついに笑ってしまう。
「まあ、そうなのですけれど。流石に彼女の気ままな散歩コースまでは……」
 そこまで言って、隼人はハッと思い出す。
「どうした」
「あ、あります。彼女の散歩コースをきっちり図面化したものが」
 図面化!? 細川ジュニアが面食らった。なかなかしっぽが掴めないお嬢ちゃんの行動パターンを図面化出来るのか――という顔だった。
「あるんです。お待ち頂ければ、いますぐ、工学科のデスクまで取りに行ってきますが」
「わかった。それを直ぐ持ってきてくれ」
 頷き、隼人は直ぐに『それ』を取りに戻った。
    
「これです」
 戻ってきて直ぐ、隼人は細川ジュニアの前に『図面』を広げた。
「これは?」
 不思議そうな細川大佐だったが、飲み物を持って戻ってきたリッキーは直ぐに気がついてくれた。
「それ。レイが自販機を使ってやっていた『実験』じゃないか」
 『ロイ兄様の許可をもらっている。できあがったら見せる約束』と葉月は言っていたので、連隊長の側近であるリッキー兄さんは既に目にしていたよう。
「そうです。どこの自販機をどう動かせば、売り上げが変わるか――それを実験すると」
 だがそれを聞いただけで、細川ジュニアは顔をしかめた。
「こんな、軍人がやらなくても良いような統計を取る遊びをしながら散歩をしているのか」
「いえ。それは彼女の表向きの『ダミー名目』なのです」
 『ダミー名目』? そこはジュニアだけではなく、まだ仕上がりを見せてもらっていないリッキー兄さんも首をかしげた。
 そこで隼人はやりかけだったものを、自販機の印が点在する基地内部図面の上に被せる。透明なシート、そこに数値と動線を書き込んだもの。
「なんだこれは」
 細川ジュニアの目つきが変わる。彼にもなにか予感があるのか。
「彼女の表向きの目的である自販機を移動させたが故の売り上げ推移と……」
 そして隼人はそこで本来の目的を、彼に告げる。
「そのために移動した『人の動き』です」
「人の動き、だと?」
「ただの人の移動軌跡ではありません。隊員がどこでどのように集まって情報交換をしているか。そして『聞かれたくない話をしているグループ』はどれか、などです」
「そんなことを……」
 やっと細川ジュニアが驚きの顔で、その図面を食い入るように眺める。
「な、正義。面白いお嬢ちゃんに育っているだろ」
「うるさいですよ。先輩」
 そこでは、かつての上下関係に戻ってしまったお兄さん達。そして細川ジュニアがやっと葉月を認めるようまじまじと図面を読み込む姿。
 その彼が、隼人に唐突に告げた。
「よし。嬢ちゃんが禁止令で大人しいうちに、澤村とこの図面巡りをする」
 え、一緒にお散歩コースを歩く? 兄さんのお供をしろと言われている? もしかして。兄さんとのお忍び歩きが決定……?

 

 

 

 

Update/2012.2.13
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