箱根、湯河原。閑静な杉並木の奥地にある日本庭園の別荘に御園家の車が到着する。
「いらっしゃいませ。御園様」
小さな別荘ではあるが、庭先に停車した車一台一台に執事の様な男達が次々と対応をする。
案内された玄関もとても広く、入ればそこが大きなロビー。そこでこれまた執事風の男達が受付をしている。葉月さんがそこに迷わず向かっていくその後を、英太もついて行く。
「いらっしゃいませ」
「こちらいただきました招待状です。本日は部下の鈴木英太大尉を同行させることもお許しいただいておりますが」
白い手袋をしているタキシード姿の男が、葉月さんが差し出したカードを取り出し葉月さんと英太の顔を見る。そして手元の名簿を照会するとにっこりと微笑み返す。
「ようこそおいでくださいました。あちらにウェルカムドリンクをご用意しておりますので、今暫く、おくつろぎくださいませ」
「ありがとう」
丁寧な男性の礼にも、葉月さんは微笑み返さない。その顔は御園のお嬢様ではなく、ミセス准将そのままだった。
「ご挨拶に廻るから、丁寧にね。でも貴方は丁寧過ぎなくていいわ。いつものパイロットらしい、大尉らしい軍人のスタイルでよろしくね」
後ろについてくる英太にそっと一言。英太も『はい』と頷く。
英太の後ろにはエドもちゃんとついてきてくれていた。彼を見ると『大丈夫ですよ』と言ってくれている様な眼差し?だと信じたい。
周りは美麗な佇まいを揃えた紳士に婦人ばかり。しかも真っ白な軍正装姿の英太はすでに注目されている。
葉月さんがひとつのソファーに辿り着き、すぐ目の前にいる若草色のスーツを華やかに着込んでいるマダムの前で止まった。
「蘭子お姉様、ご招待をありがとうございました。お言葉に甘え、息抜きにこさせていただきました」
あの葉月さんがそこでやっと僅かに笑みを湛え、そっと丁寧なお辞儀をした。
その真っ赤で豪勢なソファーには、既に沢山の紳士にマダムが取り囲んでいた。そこでひときわ煌めく身なりのマダムが悠然と座っている。英太から見てもとんでもない存在感で『女王様とはこういう人だ』と言いたくなる威圧感があった。
その女性に、葉月さんが『お姉様』と挨拶した。その女性はそれでも直ぐには反応せず、大理石のテーブルにあるシャンパングラスをゆっくり手に取り直して一口。頭を下げたままの葉月さんと、そして、後ろにいる英太をちらりと見ただけ。
一声かけられただけでは、私はすぐには反応してやらないわよ。
そう言わんばかりの尊大な態度。しかし彼女になら似合っているといっても良い態度。だから英太もすぐに頭を下げ、葉月さんに並んだ。
そこでやっとグラスをテーブルに置いたマダムが立ち上がった。
「やっと来てくれたわね。まっていたわよ、葉月さん」
「ご無沙汰しておりました。お姉様」
頭を上げた葉月さんが彼女を見つめると、どうしたことか、マダムが葉月さんの頬を包み込んで泣きそうな顔になったり?
「また。激務に疲れた顔をして。だからあれほど、一度でも良いからこちらに来なさいと言ったのに。こんなになるまで」
「いえ、あの、いつものことなので」
「馬鹿ね。貴女が笑えなくなるってことが、普通になっちゃいけないの! ちょっと、彼女にシャトーディケムを一杯差し上げてちょうだい」
「いえ、そんな。蘭子さん、私にそんな一杯は」
葉月さんが慌てて遠慮する姿。だが蘭子お姉様の一声で、黒服の男達がさっと動き出していた。しかも素早い。ソムリエ風の男性がさっとやってきたかと思うと、蘭子様の前に跪き小さなワインボトルを一本差し出していた。
「シャトーディケムでございます」
「すぐに彼女に差し上げて。彼女、疲れているの」
「かしこまりました」
上から男を見下ろすその女性の眼差しに、英太はぞっとした。
マジかよ。甲板にいる葉月さんと同じ目をしているよ。このマダム!
初めて、葉月さん以外の『すげえ女』に出会った気がする。それは葉月さんが『お姉様』とへりくだるはずだと納得の英太。
そんな英太の目の前で、ソムリエの男が小さなボトルのワインをおしげもなく、ワイングラスに注いでしまう。その一杯が葉月さんに差し出される。
東條財閥の東條蘭子自らのもてなし。それだけで、彼女を取り囲んでいた紳士にマダム達が傍に近寄れなくなったようで遠巻きになってしまう……。
東條のお嬢様と御園のお嬢様。そこは二人だけの世界。滅多に触れてはいけない。そんなオーラを英太は感じて冷や汗がひとしきり。
「世界一甘いワインよ。貴女、甘いの大好きでしょう。開けてしまったのだから、遠慮されても困るわ。普段は甲板で化粧もせず着飾りもせず質素にして、汗を流して声も枯らしているのでしょう。人知れず防衛に勤しむ貴女にこそ呑んで欲しい一杯よ。平穏無事に空の下で私が事業に勤しめるのは、貴方達軍隊のお役目がきちんと成されているからこそ。少しでも癒してほしいわ」
蘭子お姉様が優しく葉月さんの背を撫でる。そこでやっと葉月さんが嬉しそうに微笑んだ。
「有り難う、お姉様。では遠慮なく戴きます」
葉月さんがワイングラスを手に取った。それをひとくち、それだけで葉月さんの顔はふっと和み緩んだ様な気がした。つまり肩の力を抜いたのだろう。
そして英太もじんとした。人知れず防衛に勤しむ者を労ってくれる人なのだと。
「あら。そちらの軍人さんにもなにか」
葉月さんを見てほっとしていて気を抜いていた英太は、急に『蘭子お姉様』と目があってびっくり固まる。
だがすぐに、敬礼!
「御園准将配下のフライト雷神に所属しております鈴木英太です。本日はお邪魔致します!」
うわ……あれだけ、部署名もきっちり言える挨拶をエドと練習したのに……。なんとも簡素な慌てた挨拶。しかも、マダムの手を取ってキスをする様にご挨拶を忘れていた……!
だけれど、蘭子お姉様は英太を慈しむ様に見上げてくれている。
「東條グループを取り仕切っている東條蘭子です。嬉しいわ、敬礼のご挨拶」
いつもの敬礼になってしまい英太が自己嫌悪に陥っていたのに。
「葉月さん同様、レディとしての挨拶よりも、時としては『東條蘭子』という社会人として男同様に挨拶して頂く方が気分が良いこともありまして」
彼女が手を差し出した。それは握手なのか、それとも……。英太は計りかねたが、そのまま彼女の手を白い手袋をした手で握り返す。
「東條財閥の会長である蘭子さんにお会いできて光栄です」
言葉のまま受け取り、東條財閥の総帥としての蘭子に出会ったのだと握手をした。
「お噂はかねがね、御園の方々から。エースの称号獲得、おめでとうございます。いつか貴方が飛ぶ姿を拝見したいと思っていますよ」
「もったいないお言葉です。ですがその機会には是非、基地へいらしてください。精一杯の飛行をお見せできたらと思います」
その時、英太はやっと握っていた蘭子の手をそっと持ち上げ、恥ずかしいが恥ずかしいが! そっとキスをする真似事をした。これはゆうべ覚えたて、エドに教えてもらったやり方。くどくなりすぎず、さりげなくですよ! と彼の声が脳裏で響く。
でもやっぱり蘭子さんは笑いたそうな口元をぐっと噛みしめ、葉月さんに耳打ち。
「ちょっと、仕込みすぎ……っ。似合っていないんだけど」
でも葉月さんももう楽しそうな笑顔でお姉様に答える。
「申し訳ございません。なにせ来る日も来る日もコックピットにいるパイロットですから、社交的な場には慣れておりませんの」
「大尉。そんなことしなくていいのよ。怒るオバサンがいたら私に教えて。貴方はいつもどーりのパイロットとしての貴方のままでいいのよ」
もう、なんだよー。昨夜、脅される様に仕込まれたのに。とちょっとばかりふてくされた顔さえ見抜かれてしまい、目の前の蘭子さんがついに扇子を口元に広げ、目元だけ残し顔を隠してしまう。でもその目が笑っているのがわかる。
「あら素直で可愛いパイロットさん。気に入ったわ」
すると葉月さんもお姉様の前でにっこり。
「悪ガキですから。お行儀は良くありません。大目に見てくださいませ」
「勿論よ。悪ガキ、大歓迎よ」
そうして話しているうちに、葉月さんのグラスもいつの間にか半分に減っている。やっぱり肩の力が抜けて楽しんでしまっている様だった。気のせいか、頬もほんのり赤くなってきて……。
「大尉にも一杯差し上げて。貴方はワインよりもビールとか」
正直に答える。
「はい。ビールが好きです」
はっきり答える方が、このマダムは好感を持つタイプ。英太はそう感じたから。その通りに、彼女も気取らずに『黒ビールでもいかが』と勧めてくれる。英太も『大好きです。是非』と答えると、やはりそのまま蘭子会長はにっこりと微笑んでくれた。
「なるほどねー。葉月さんが見つけたパイロット。同じ気概を感じるわ」
扇子から目だけ見せて、蘭子会長が英太をじろじろ。やっと美味しいビールにありつけてほっと一息ついていた英太はまた背筋を伸ばし姿勢を改める。
「ふふ。葉月さんって若い貴方から見て、どんな上司なの? 同じ女として知りたいわ」
「お姉様ったら……。そういうことは」
「あら、いいじゃない。だって私の部下に聞いたところで、だーれも私のことをどう思っているか教えてはくれないのよ。まあ、大抵は『虎女』とか『鬼』とか思っているでしょうが」
氷の女に、虎の女。そう呼ばれている二人。そして英太の様な若い男を多数部下に従え。そんな女達の気持ちなのかなと英太はビールを一口。
「……悪魔、と思ったことはあります」
英太の真剣な答えに、蘭子が意外そうに目を丸くした。そして葉月さんも。
「初めてホワイトという新機種に乗り込んだ頃、上官達の指示である段階を無視し、俺は細かいテスト飛行よりも慣れている『演習をしたい』と我を張ったことがあります。ミセスは自分が望んでいるとおりの『ドッグファイ形式の演習』をしてくれたんです。本当はそんな段階ではなかったんです。俺の飛行技術では。ですが悪ガキの俺の言うままにしてくれました。でもその分、彼女の『やり返し』というか『言うことを聞かない悪ガキへのお仕置き』が壮絶で……」
すると東條蘭子の目が、扇子の影になりそうなところでニッと三日月のように緩んだ。
「あら、面白そうなお話。つづけて」
葉月さんを見たが、彼女も英太の顔は敢えて見ずグラスを傾けている。
「本気で俺を海に叩きつけるかの様な、そんな戦法を相手方の機体に指示し、未熟な俺にはいつのまにか『逃げる』という屈辱的な選択肢だけが残されていました。すべてミセス准将に追い込まれてのことです。そういう緻密にパイロットを好きなところに動かせる。甲板にいながらしてコックピットにいる。そんなことが出来る上官。その時はまだそこまでの女性だとは思わなかったので『悪魔』のように思えたものです」
「……それで。今は、彼女を信じて空を飛んでいるのね」
扇子から見える目だけの顔。その目が笑っていない。彼女が望んでいる答は……きっと、もう、彼女もわかっているのだろう。
だから英太は敢えて。
「それが……」
「それが?」
蘭子が首をかしげる。
「時々、親父みたいで困るんです」
あの葉月さんが口に付けていたグラスをぶっと吹き出しそうになっていた。それを知った蘭子がまた驚きつつ、さっと扇子で顔を隠す。でも扇子が震えていた。
「お、親父みたいですって? この葉月さんが?」
つまり笑いを堪えているのだろう。それを知って、英太はもう一押し。
「そーなんですよ。だって、ミセスは制服のポケットに小銭を裸のまま放り込んで出歩いているんですよ」
小銭を裸のまま? ついに蘭子が顔から扇子を外してしまう。
「で。俺に、『飲み物をご馳走してあげる』と自分で言って、自販機の前に立ってくれたはいいんですけど」
「やめてー、英太。言わないでっ」
澄ましたミセス准将が、若い青年部下の目の前に立ちはだかった姿に、また蘭子が目を丸くして、でも直ぐにニンマリ。
「そのご馳走してくれるミセス准将が、『ちょっとだけお金が足りないから、後で返すから、貸して』て言うんですよ。もう俺、どんなオバサンかと思っちゃって」
「なんでそんな前の話をここでするのよっ」
ついに葉月さんに背中をバシリと叩かれてしまう。
そこでやっと『おほほほほほ!』という東條蘭子の高笑いが響いた。扇子を閉じた彼女が、惜しげもなくその笑みを放つ姿に、周りの紳士に淑女がびっくりした顔を揃えている。
そして葉月さんはもう、耳まで真っ赤に。あの葉月さんが……!
「御園のお嬢様が、そんなことを」
一瞬、彼女が葉月さんを勝ち誇った様に眺めた。それを見た英太は『やっぱり俺は言っちゃいけないことを言ったのか』と不安になる。もっと和んでくれたらと思ったこと。本当の葉月さんを知って欲しいと思ったから、素直に話しただけだったのに。
やはりここは社交界、どんなに楚々と『お姉様』と慕いあう笑みを交わしていても、『令嬢としては私が上!』という見栄とは切っても切れない……と、呵む英太の片腕に、東條蘭子がぴったりとくっついてきたので、英太はギョッとした。
「葉月さん。彼をとっても気に入ったわ。貸してちょうだい。今日の私のパートナーにするの」
え、え、どういうこと! 英太が戸惑っていると、葉月さんはいつもの冷めた目つきで、あと僅かのシャトーディケムを飲み干す。その次に見せた笑みは、ミセス准将の余裕の笑みだった。
「どうぞ。お姉様、お好きにして」
ミセス准将として見るならば、今の余裕の笑みは『成功した』という彼女の目論見が上手く行った時の顔だと英太は思った。
「大尉。大丈夫よ、いつも通りにしてね」
東條蘭子に腕を組まれ、英太はぐいっと葉月さんから引き離されてしまう。
え、これって。気に入られて? えっと。つまり『広報』は成功ってことなのかな?
虎の女といわれる東條財閥の女総帥、東條蘭子の今日のパートナーとやらに選ばれてしまった。
そんな蘭子さんがぴったりと英太に寄り添い、腕を組んで落ち着いた途端だった。
先ほどまで蘭子さんをとりまいていた紳士達の目つきが変わった。
「蘭子君、彼はもしかしてあれかね。小笠原の……」
彼等の目が、上司のミセス准将ではなく、この会場の女王である蘭子に尋ねている。
その違和感を覚えながらも、英太は『何故、葉月さんが蘭子さんに譲ったか』も解った気がした。
自分で思うのもおこがましいとは思うが、今日いちばんの注目は『雷神のパイロット』。それを『紹介できる立場』を、この女王にミセス准将は譲ったのだ。
それはまるで所有しているのは『女王の私』とでも言いたそうな。そういう得意になれるセレブ達の駆け引きに英太は使われたのだ。
英太はそっと肩越しに振り返る。蘭子お姉様から一歩引き、自分こそが英太を育てた上官であるにもかかわらず、会場の羨望の眼差しを受ける光は蘭子に、自分は影に。そんなことはしたくはない『部下の気持ち』が盛り上がる。
だが。そこでも葉月さんは甲板と同じ目をしていた。『このまま従いなさい。先ほどの様に微笑みなさい』。『それが今の貴方の仕事よ。私が育てたままにやりなさい』。そんな目だと伝わってきた。
「つまり蘭子君。それは。細川ジュニアが過酷な条件を突きつけて誕生させようとしていたコンバットを勝ち抜いたパイロットということかね」
「そうですわよ。他の雷神パイロットを退けてエースの称号を連隊長から授かった者です」
『エースパイロット!』。口ひげの紳士に、精悍な佇まいの青年実業家風の男達が湧いた。英太がたじろいでいると、いつのまにか背後の影に葉月さんが。そして素早く耳打ちをしてくれる。
「大丈夫よ。どんな大会社の会長でも社長でも御曹司でも。彼等はパイロットにはなれないのだから。自信を持ちなさい」
そんな葉月さんの一言に、英太の隣に寄り添っている蘭子お姉様まで。
「そうよ。誰も貴方の高さまではいけないし、誰も貴方が知っている青空を見ることは出来ないの。どんなにお金を払っても、ね。だからこそ男の憧れ、わかるでしょ」
その価値を胸に刻みなさい。
蘭子お姉様にそこまで言われたら、英太も胸を張れる。
蘭子お姉様が後ろ盾、傍にはミセス准将。それだけのマダムコンビが横にいる英太に挨拶をしたいと近づいてくる男達。
これからが『広報』。戦闘機をただ操ってきただけの英太には、いままでにない『お仕事』。口ひげの威厳ある濃紺スーツの紳士が手を差し出してこちらにやってくる。緊張の一瞬。
――握手じゃない。敬礼をしてさしあげて。
さらなる葉月さんの耳打ちに、英太はすぐさま頷き、目の前に来た紳士にまず制帽黒つばの下に、白い手袋の手での敬礼。
「小笠原28連隊空部第一部隊第一飛行隊、フライト雷神に所属しております鈴木英太です」
その紳士がほれぼれと英太を見上げてくれる。
「近代鉄道の野本です、よろしく、大尉」
「ワイドリンクを任されています湯沢です。エースパイロットにお会いできて光栄です」
威厳ありそうな大会社の会長さんに、若手実業家の男達が次々と握手を求めてくれる。
蘭子さんの嬉しそうな笑みを傍に、英太はいつの間にか男達にも囲まれていた。
その時、英太の背後にいたはずの葉月さんはもういない。挨拶が終わった男達の次のお目当ては、ミセス准将。
「お久しぶり、葉月君」
「ご無沙汰しております、野本会長」
「ついに念願のエースパイロットを誕生させましたね。お見事です」
「とんでもないことでございます。彼の素質です。現役の時に叶わなかった男達の夢を彼が空で実現させてくれました」
「謙遜だね。貴女の空への情熱がなければ成さなかったことでしょう、そう思いますよ。細川君からも聞いているよ。何度やっても1対9に必ず到達するパイロットが一人だけいて、しかも日本人だと。普段は落ち着いている彼が嬉しそうだったのが印象的だね」
「連隊長もパイロットのご子息ですから。お兄様のお力添えがなければ、女の私一人ではとても成しえなかったことです」
「お父様に、細川君はお元気かな……」
パイロットを連れてきた葉月さんも、ちゃんと評価される会話を耳にして英太はほっと胸をなで下ろしていた。
・・・◇・◇・◇・・・
「さあ、皆様。お楽しみあれ」
それぞれの挨拶が落ち着いた頃、東條蘭子の一声で煌びやかな庭での会食が始まった。
気取らない立食でもあるし、くつろぐためのテーブルも用意されている。そこで皆が好きに皿に料理を取り、好きにアルコールを頼み、そして好きに向き合って談笑する和やかな庭に。
「大尉はなにが良いかしら」
「いえ、あの自分で取りますから」
「いいのよ、いいのよ。貴方はそこで座ってい待っていて。お母さんみたいなことさせてちょうだい」
お母さんって……。そりゃ母親ぐらいの人なのだろうが。でもこの中でいちばん煌びやかな女王様がせっせと白い皿に料理を盛ってくれているその懸命さが、逆に初々しく見えてしまい、英太は思わず目をこする。
言われた通りに、冷風機がそばにあるパラソル下の椅子に腰をかけて待っていた。
「はい、どうぞ。冷えた黒ビールのおかわりも持ってくるわね」
はりきる蘭子さんの手を英太から握って止めた。
「あの、ほんとに自分でやりますから。会長もゆっくりされてください。あの、会長にも冷えたシャンパンを……あ、他の飲み物が良かったですか」
甘えるばかりでは。いちおう英太も大人の男なら、それぐらいの気配りと思ってのことだった。
傍にいた黒服の男性が、すぐに東條会長の目の前に冷えたシャンパングラスを持ってきてくれる。
「あら。慣れていない割には気が利くわね。そういうのミセス准将にさせられているの?」
あー、またご令嬢の見栄張りなのかなーと思い苦笑いをしつつも、
「いえ。准将がいてもいなくても、軍隊の上下関係では良くあることです」
「なるほどね」
やっと椅子にゆったりと腰をかけ、彼女らしく悠然とした手つきでグラスを口に付ける会長を見て英太もほっとする。
「ですが。会長の様な女性に、このようにしていただけて嬉しかったです。有り難うございます」
彼女がやっと慈しむ様な笑みを見せてくれる。
「これでもね。貴方ぐらいの息子がいるのよ。でもその息子も独立しちゃったから」
「そうなんですか。……ああ、でも俺の母も生きていたら、会長ぐらいだったかもしれません……」
そう言った途端、蘭子が真顔になり英太はハッとした。
彼女が静かにグラスをテーブルに戻してしまう。そして英太に真向かってくる。
「貴方、お母様を亡くしていらっしゃるの?」
英太も軽く頭を下げる。
「いえ、他愛もない身の上です。このような席に似合わぬ話、お許しください」
どんなに気取らずに話した方が良いと言っても、英太の身の上だけはどうしても今日は口にはしたくなかった。
「葉月さんからは何も聞いていないわ」
不服そうな声……。
「……准将と同じような生い立ちといえば、おわかりいただけますか」
思い切ってそれだけ告げた。すると彼女があからさまに『まあ』と息を引き、そのまま固まってしまった。
「そんな、貴方……どうして……」
あの会長の声が震えているので、英太も焦る。彼女の顔が真夏の日射しの中、真っ青になっていたから余計に。
「ですが。俺はこのように沢山の人に育ててきてもらいました。これからも、自分が決めた生き方で空を飛んでいくつもりです」
そして英太は蘭子を見つめる。テーブルにある白い皿を手に取った。
「おふくろさん、いただきます。せっかくだから腹一杯食わせて頂きます」
蘭子が取ってきてくれたオードブルを豪快に口に放り込み、冷えたビールのグラスを一気に傾けて飲み干した。
そこにはもう、先ほどの様な優しい笑みを湛えてくれている東條蘭子がいた。
「やっぱり若い男の子は、こざっぱりしていて元気なのが一番ね。どんどん食べて行きなさい。私もその方が嬉しいわ」
「ありがとうございます。でも会長も、そんな大きな息子さんがいるようには見えませんでしたよ」
彼女が白けた目で微笑む。
「あーら。パイロット君も口がお上手ね。そういうのは葉月さん譲りじゃないわね。もしかして隼人君から学んでいるわけ?」
思わぬ人の名が出てきて英太はどっきりしたりして。
「いやー。あの大佐ほど『胡散臭いおじさん』はいませんからねー。口が上手いのは確かに、変な意味でも上手いかも」
彼女がまたぷっとおかしそうに噴いた。
「胡散臭いおじさん! あの隼人君を捕まえてっ」
「だってそうですよ。この俺が小笠原に引き抜かれて基地に行ったその日に、あのおじさんはいきなり俺をF18ホーネットに載せたかと思うと、戦闘機が決して飛んではいけない基地陸の滑走路を目指して飛べ、准将室のミセスを怒らせて甲板まで走らせたら『俺達の勝ち』と言い出すぐらいの人ですから。こういう悪戯をミセス准将に出来るほどの男性が胡散臭くなくてなんなのだと言いたいですよ。ついこの間も『愛人騒動』で基地中を引っかき回して……」
それを聞いて、また蘭子さんが目を丸くした。
「まあ! 奥さまの准将を怒らせるために、飛んではいけない滑走路を飛ばせたなんてお話も気になるけど、『愛人騒動』ですって。もっと詳しく聞かせて!」
うわ、喋りすぎた――と、英太がたじろいだ時だった。
「蘭子お姉様、ごきげんよう。その愛人騒動のお話と、そこのエースパイロットの本格的なコンバットの視聴、どちらをお望みですかね」
東條蘭子とお気に入りにされたパイロット青年が二人きりでくつろぐ席、そこに夏らしい爽やかな白い男が立っている。
麻のスラックスにマリン風に碇の刺繍がしてあるカジュアルなネクタイ。黒いノートパソコンと配線を小脇に立っていた。
「わ、隼人さん……じゃなくて、御園大佐っ」
そして蘭子も、また扇子を広げて口元を隠しつつ不満そうに呟いた。
「あら婿殿。いつのまに。まったくほんと胡散臭い眼鏡顔だこと」
「蘭子お姉様に嫌味を言って頂けるのも名誉のうちですかねー」
隼人さんのめげない眼鏡のにっこり笑顔に、東條会長は面白くなさそうな顔になるのだが。
どうしていきなり隼人さんが来たのか。しかも工学科で仕事をしている様に、マシンと配線を持って『ちょっと失礼』と蘭子さんの目の前にノートパソコンを設置。
「まあ。本当に甲板での彼の雄姿を見せてくださるの」
「ええ。ミセス准将が出席でなければ出来ないことですよ。ある日の甲板です。是非、鈴木大尉が操縦するホワイトを見て頂きたい」
「それは良いわね」
「お姉様、おみ足のあたり、失礼致しますね。エド、もう一本持ってきてくれ。ジル、持ってきたディスクをメインマシンにセットしておいてくれ」
隼人さん自らノートパソコンと、なにやらジョイントする配線をしている。そして黒スーツ姿のエドとジルの御園家の男がそれを手伝っている。
「あら。御園の婿様。いつのまにいらしたの」
「こんにちは。奥様方。今日はただのアシスタントです」
「まあ。婿様、奥さまの准将のために、相変わらずね」
周りの紳士とは違った軽いカジュアルなスタイル、でも夏に合わせたマリンを取り入れた白い着こなしの隼人さんは目立っていて、すぐにマダム達に見つかってしまう。
「いえいえ。僕が作った飛行機を皆さんに見て頂きたい一心で。そこのエースパイロットが自由自在に空を飛ばしているところを、是非是非、体験して頂きたいのです」
「海軍さんの訓練ってことかしら」
マダム達はあまり興味がない様。
それでも各テーブルに、隼人さんが準備している様な視聴覚体制が黒服達の手伝いでできあがっていく。
特に紺色のスーツであまり目立っていない葉月さんの周りに、男性達が集まりだしていた。その男と女達の隔たりがはっきりしていた。
しかしそれすらもわかっていたのか。隼人さんは黒い配線をマダム達の足下に敷きながら、また眼鏡の顔でにっこり。
「本日は暑いですね。ちょっとしたお菓子をご用意させて頂いたんですよ。僕も暑くて堪らないので、奥様方、ご一緒にいかがですか。うちの者がすぐに持ってきますので」
「まあ、なにかしら」
婦人達の目が輝いた。そして英太の横で蘭子が再び広げた扇子で口元を隠し、ふっと囁いてきた。
「ほんと胡散臭い大佐殿だこと。でも上手ね。奥様が男達と上手く話運びが出来る様なセッティング、軍隊の話など興味のない奥方は自分が引き受けて――。これは葉月さんの考えじゃない、いつも婿殿が自ら割って入って仕切っているのよ」
やっぱりこの人は、外でも葉月さんを支える男に徹している。
そして英太は遠くにいる葉月さんを見た。横須賀基地でそうしていたように、微笑みを忘れない、でも男達と対等に話している姿を。
「コックピットを降りたパイロットと、甲板を降りた甲板要員。でも二人はいまも、飛ばす側と飛んでいく側でお見事だこと」
貴方も忘れないで、二人の姿を。
いつかコックピットを降りたら、これぐらいのことはやっていかねばならない。
英太はそれを蘭子から教わった気がした。
Update/2012.3.3
こちらの作品は、ここにて未完 終了となっております。
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中途半端なまま途切れている作品にもかかわらず、ここまで来てくださったこと、お礼申し上げます。
この続きは、ここから二年後を設定している作品【 お許しください、大佐殿 】へと続きます。そちらで英太に、葉月と隼人の、そして海人のその後を見届けていただけたらと思います。(茉莉恵 市來茉莉) 執筆当時PN(守谷優生)