携帯電話のアラームが鳴っている。
『なにをするか決まっている日』は、それだけで目が開く。
それが軍人の性というもの。英太にも漏れなくこの習慣が身に付いてしまっていた。
ベッドサイドにあるナイトテーブルに置いた腕時計を見ながら、黒髪をかく。
欠伸をしながらベッドを降り、すぐさまシャワーを浴びた。
今日は念入りに汗を流し、そして髭を剃り、黒髪を完全に乾かし、櫛を入れる。
鏡を見て再度チェック。橘中佐を『もっさいオジサン』なんて自分も言っている場合ではないかもしれない。自分だって基地で空を飛んでいるだけなら無頓着な方だ。でも今日は違う。少しでも、少しでも……と身支度。
持ってきた新しい夏シャツに腕を通し、今日のために準備しておいた新品の黒ネクタイを締め、昨夜皺にならないように丁寧にハンガーに掛けクローゼットにしまったスラックスを出す。
いつものパイロット腕時計を腕に、必要なものを身につけ、最後に春夏仕様に薄ものになっている『制服長袖ジャケット』を手にした。
もう一度鏡を見て英太は『よっしゃ』と気合い充分、御園家のお嬢様のご厚意で取ってもらった一室を出た。
――『明日の集合は、10時。一階のティーサロンで』
昨夜、ミセス准将の葉月さんからの指示がそれだった。
――『あとのことは、それからよ』
またその先の計画を教えてもらえず、ただ『私についてきなさい』ということらしい。
「とことんついていきますとも!」
葉月さんについて広報出張。海上空母以外で、こうして彼女について仕事が出来るだなんて初めてだった。
彼女のプライベートも垣間見れ、しかも、ラングラー中佐は別行動で、英太は葉月さんと常に同伴状態。……これが嬉しいに決まっている! 誰もいない場所ではついつい顔がにやけている。これが『エースになった』ということ。彼女のポジションに近づけたということ!
一階に着く前に、英太は長袖のジャケットを羽織りボタンを留める。
「我慢、我慢」
残暑厳しい季節なのに、葉月さんにラングラー中佐は『公式』という場所や『軍人として目につく』場所に行く時は必ず長袖の制服姿だった。
だから英太もそれに従う。つまりそれが『フォーマル』という心積もりを常に胸に携えている証拠なのだろう。
葉月さんと、いや、ミセス准将に同伴する男としてそうするべきと思い、英太も本日は長袖で臨む。
朝のロビーに出ると、土曜日の朝とはいえ、あちこちに出かける宿泊客達が賑わいを見せていた。
毛足の長い絨毯のフロア。煌めくシャンデリア。スマートな佇まいで接客をしているホテルマン。そして颯爽と闊歩するスーツ姿のビジネスマン。お洒落に着飾り、これから休日のお出かけに華やいだ笑顔を見せている女性達。そんな賑わいの中、英太はティーサロンを目指す。
やがて珈琲の香り漂う一画を見つける。そのティーサロンの入り口を見て、英太は立ち止まる。そこに黒スーツ姿でただ立っているエドを見つけたのだ。
彼と目が合う。
「大尉。おはようございます」
「おはようございます」
彼の目線がすぐ、サロンへと視線が戻る。その先には既にあの人が。
でも、一目見て、英太は息を呑んだ。
そこに、しっとり甘い花の匂いがしそうな大人の女性がいた。
ロビーからもそれとなく店内が見える開放的な造りになっているティーサロン。入り口や中央という目立つような位置にはない程良く人通りのなさそうなテーブルで一人。ティーカップを傾けている女性。
周りは優雅にお茶を楽しむ壮年夫妻か、スーツ姿のビジネスマンばかり。その中で彼女だけがきらりと煌めいて見えたのだ。
それは栗毛のクウォーターという日本人離れした独特の雰囲気を持つ顔立ちだから? いや、そうじゃないと英太は目をこすってもう一度彼女を見た。
いつもの制服姿とはまったく異なっていた。
甘いミルキーピンク色のノースリーブブラウス。色が甘いのに、さらに甘く彼女の首もと肩先には大きく結ったリボンタイ。イマドキ風にボディラインを強調せず、ほのかにバストラインは残しているふんわりデザインのブラウス。そしてクラシカルなラインの黒い膝丈スカート。
大きなリボンだけが主役というシンプルさ。なのにそこから女っぽい空気がサロン中に広がっているように英太には見えた。
「な、なんかいつもの葉月さんじゃない」
制服姿の時も、凛と着こなしている軍服からそこはかとなく女らしい空気が漂っている。それだけでもう、『女性らしい』というに充分な人だった。
でもこれは……。いつか御園のお母様と一緒にいた時の、大人っぽい黒スーツの時とはまた雰囲気が全く違う!
すんなりと毛先まできれいにまとめた栗毛は、いつもより艶々しているし、ほのかなメイクでも、いつも甲板では真っ白い顔でいる葉月さんは充分に明るい表情を彩っている。そしてなんといっても、そこに座っているだけで匂ってきそうな、花のような女っぽさ。
いつも制服で『それだけの色香を抑えていたのか』とすら思えるほど、今日の彼女はそれだけのものを存分に放っていた。
そんなばっちり『お嬢様マダム』で、当たり前のように一人でお茶をしている葉月さんに釘付けになっている英太を見て、エドがふと笑っていた。
「早く行ってあげてくださいませ。大尉を待っている間、既に二人ほど男性が……」
そりゃ。あれで一人でお茶していれば、ここの自信過剰な男の一人や二人、吸い寄せられるに決まっている。そう思った目の前でも、また。
葉月さんが広げているシステム手帳のページをめくった拍子に、側に置いていた万年筆を床に落としてしまった。
するとすぐに、窓際にいたビジネスマンが颯爽と歩いて近づいてきた。葉月さんがゆったりとノースリーブの白い腕を伸ばして拾おうとするそれより先に、その男性が拾ってしまう。
「Please」
跪いた男性が、葉月さんの目を見つめて万年筆を差し出している。しかも英語で。きっと葉月さんがあの顔立ちだから、日本人ではないと思ったようだった。
「有り難うございます」
分かっていて葉月さんも日本語で返し、なんの表情も見せずに、そのペンを受け取る。
今日はニコリとも微笑まず、いつもの冷めた葉月さんでいてくれたので、英太は思わず心の中でガッツポーズ。そうあれは営業、今は営業無し。どんなにスマートそうな大人のビジネスマンでも、葉月さんは愛想なんか必要ない時はバッサリ切り捨てる。そういう人なのだ――と。
案の定、葉月さんはペンだけ受け取り礼を述べると、その男性のことなど意に介する様子もない。彼を放って手帳をめくるだけ。間が合わない様子の男性が途方に暮れた顔。でも彼もめげない。
「お一人ですか」
「いいえ。人を待っております」
それも彼の目も見ずに、素っ気なく答える葉月さん。彼女の興味は男の目でも姿でもなく、その手帳の中身。英太はつい笑みが込み上げてしまう。その待っている男って俺。……でも部下だけれどね。と。それでもちょっと優越感がある。
まだ諦めないビジネスマンの彼。
「お仕事をされているのですか」
「ええ、まあ……」
「よろしかったらこれもなにかのご縁。お見知りおきを」
諦めない男性が、胸ポケットから名刺を取り出し、葉月さんに差し出した。
やっと葉月さんの興味が男性へと向く。仕事をする者同士。そういうことなら、何か縁があるかも知れない。そう思ったのか、やはり彼の顔ではなく、その『お名刺』へと視線がゆく。そしてそれを素直に手にとって眺めている。
溜め息混じりのエドが『やれやれ。これで本日は三人目』と首を振る。
「……とか言って。あの名刺には男性の私用の携帯電話番号が記されていたりするんでしょうね。そして次には『貴女のお名刺も是非』とせがまれる」
名刺を受け取ったお嬢様を、エドはじっと見守っている。
「それでもお嬢様もお仕事がお仕事ですから、素性も分からない一見様には名刺を渡せるはずもなく……」
機密的な職務に携わることも多い『ミセス准将』としては、『電話番号交換』みたいな気易い名刺交換はしない――ということらしい。
「大尉。そろそろ助け船でも出してあげてください。待っている人間が軍人とあれば、あちらの男性も少しは敬遠されるかもしれませんし」
エドからのアドバイスに、英太も頷き、やっとティーサロンへと踏み入れる。
ロビーより一段下になっているサロンに降りると、そこはさらにふわりと弾力があるノーブルな紅色のフロア。ゆったりとしたソファーが点在するテーブル席、その一画でキラリと存在感充分の匂い高い女性と、エリート風のビジネスマンがいる席へと英太は向かう。
淡いグレーのテーラードジャケット。白いシャツに黒いネクタイ。肩には金のラインと大尉の星がついている黒い肩章。英太も堂々と、そのテーブルへ。
「ミセス、お待たせ致しました」
ビジネスマンと向かい合うようにして、葉月さんに挨拶をする。
葉月さんがシステム手帳をばたりと閉め、いつもの甲板の顔でキリッと言った。
「おはよう、大尉。時間通りね」
そう言いながら葉月さんがさりげなく時間を確かめるよう腕時計を見た。だがその腕時計を見て、英太とスーツの男性は揃ってギョッとした。
いつものパイロット時計じゃなかった。真っ赤なバンドで、きんきらきんの時計盤。その時計盤の周りを小粒ダイヤが二連三連にびっちり敷き詰められ、これでもかというぐらいにキラキラと煌めく。なんとも豪勢な時計を葉月さんがしている!
英太はただの男の子部下みたいなもんだから驚いただけだったが、ついにあちらの男性が後ずさるように顔色を変えたのを見てしまった。
「そこ座って」
「はい。失礼いたします」
葉月さんの向かいに英太が腰をかけると、ついにビジネスマンの彼が一礼をし苦笑いで去っていってしまった。
「えっとー。葉月さん、すっごい目立っていますけど」
自覚があるのかないのか心配だったので言ってみた。すると、葉月さんが嫌な顔をした。
「う〜ん、そうかしら。でも、確かに貴方が来るまで『面倒なこと』がちょっとあったわよ。だから一人でいるのは嫌なのよね。エドは昔から絶対に同席してくれないし……。テッドなら私を一人にはしないし」
若くてまだ気の利かない英太が、時間通りに来たとはいえ、葉月さんを先に待たせたせい――ということに気が付いた英太。彼女の自覚を確かめるどころか、自分がハッとするはめに。
「悪かったよ。そこまで気が付きませんでした。これから俺も葉月さんを一人にしないよう気をつけますよ」
「英太は秘書官でも護衛さんでもないから、そんなつもりで言った訳じゃないけど。でも……そうしてくれたら助かります」
初めて二人だけで行動しているから、英太にはまったくそんなことは分からないに決まっている。でも『そうしてくれたら助かります』なんて、葉月さんが頭を下げたのでびっくり。
これって俺をすごい信頼してくれているってこと? それならそれでちょっと嬉しい英太。でも。なんだか秘書官見習いをしているような奇妙な気分にもなってしまった。
「制服の方が余程、魔よけになるわよ」
「かといって。こういう基地の外で葉月さんが准将の肩章付き制服姿でも目立つだろうけど。クウォーターのせいでもあるのかなあ」
「うん、まあ。外人さんがいて当たり前の基地から外に出ると、特に本島、日本ではそうなることは若い時からあって嫌だったわね。それに今日は、ちょっとだけお洒落してみたんだけど……そんなに?」
それが『橘隊長と会うため』というのが分かり、英太は黙ってしまう。
昨夜から気になっていた。『特に私と貴方なら』と、通じ合っていた葉月さんと橘隊長の、その『特に』という含みに。
それに。あの橘隊長の馴れ馴れしさ。駆け引きであると分かっていても、葉月さんがいつもより男性が触れることを許しているような気がしたのだ。
そして今日のこの、色香いっぱいの女っぽい仕上がり具合。旦那以外の男性に、そこまでするってどういうこと? 英太の脳裏にある言葉が浮かぶ。
――『もしかして。元カレ、元カノ同士?』。隼人さんと出会うずっと前、若い時に同じ空母艦に乗り込んで任務に励んでいた同志なら、男女の仲になるのも容易だったとか?? そんな疑惑。
そして今夜、そのとびきりのお洒落をした姿で、旦那がいない夜を、昔なじみの男と過ごす約束を彼女から。
でも。英太も一緒にと連れて行くようだし。いや? 俺ってもしかしてカモフラージュ? ガキ扱いの青年を連れて行って、その後は二人きりで何処かに消えてしまうとか? そういう口実作り?
それでも『ひとりでいるのは嫌』とか言うぐらいの人だから、葉月さんがそんな女性だなんて英太は思いたくない。あの旦那さん一筋でいて欲しい。そうでなければ……。葉月さんに他の男性を見る余裕も隙も、それをする気持ちがあるなら。その隙に俺だって……と胸がざわつく。それでも諦めがつくのも、あの夫妻がどうあってもがっちりと結びついてることをありありと見せつけられる毎日を過ごしているから。そうでなければ英太だって……。その『隙間』に入る男になってしまいたいと思う。
「もう、とにかく一人でいる時にああしてこられると困るのよ。もっと大きな結婚指輪にした方がいいのかしら〜」
というより。あの真っ赤なきらきらダイヤ時計。あれが本日の『魔よけ』になっているのでは、と英太は思った。
それでも、葉月さんの左薬指を英太はつい確かめてしまう。シンプルなシルバーリングがそこにある。それを知れば、英太のざわめく胸も落ち着く。
確かにこの人は人妻。でも、あんな女の匂いを放っている限り、葉月さんは一人の歴とした女性。指輪があっても男が揺らぐ程の。今日の葉月さんはまさにそれだった。
「無理だよ。指輪があるって分かっても男は誘うよ」
……今日の葉月さんなら。と、英太は密かに胸の内で付け加えた。
「まあ。英太から、そんなナンパな男を助けるような言葉を聞くだなんて、がっかりよっ」
なにいってんだよ。と、英太は言い返したくなった。『そんな男を吸い寄せちゃっている葉月さんが罪なんでしょう』と。
「隼人さんがさっきの見ていたら、怒っているんじゃないのー」
ちょっと旦那さんを引き合いに出してみた。だけど、葉月さんは急にむくれた顔になる。
「まさか。あの意地悪旦那が素直に怒るわけないじゃない。私がどうやって断るのか、どれぐらい困る顔をするか。影で見て楽しむという意地悪い旦那さんよ」
「あ、なんか分かる……」
「でしょ! 華子さんを愛人だとか悪戯で勤務中の准将室に連れてくる程よ。あの時も、『お前が困らないからつまらない』とか言ったんだからね!」
途端にいつもの『基地のお姉さん』に戻っている葉月さん。そのギャップに英太は面食らうのだが。でも……。
御園家のお嬢様という品を持ちながらも、こうして気取らないところがあるのが英太は好きだった。そう『気取らないお姉さん』。普段の業務では葉月さんも英太と同じ、ジャケットは准将の椅子の背に掛けっぱなしで白シャツ姿。他の隊員とおなじ気楽なシャツ姿で基地をうろうろ、気ままにお散歩して自販機のレモネードを飲んでそれだけで『私、しあわせ』と笑っている。そんな『葉月お姉さん』が英太の目の前にいる本当の葉月さん。英太が好きな彼女のうちで、特に好きな……。
だが、まだ先程の男性がちらちらとこちらを見ている。葉月さんの背後なので彼女は気づいていないけれど。
「さっきの男。まだ葉月さんを気にしているよ」
「……でしょうねえ」
葉月さんがどこか可笑しそうな微笑みを唇に浮かべ、英太の目の前に先程の名刺をすっと差し出してきた。
「女性を誘うためのアイテムに使うこと自体、既に間違っている。しかもご丁寧に私用の携帯電話番号まで。英太、貴方もどんなに出来る男になっても気をつけなさいよ。仕事のアイテムは仕事だけで使うのよ」
確かに。英太もその名刺を見てギョッとした。
なんと。宇佐美重工の社員だったのだ。
そっか。軍服の男と待ち合わせ。そしてその軍人の青年が『ミセス』と呼び、さらにその私服姿のミセスが超セレブでバブリーな腕時計をしていた。それだけ揃えば、宇佐美重工の社員なら誰だかピンと来たということらしい。
お名刺が確かなら、彼もあの年齢の男性としては結構な役職ポジションにいる男性。これを見れば、女性は自分になびくと思ったのだったらかなりの自信過剰。そして本日は、女性をひっかけるには最悪の『ミセス准将』というジョーカーを引いてしまった彼。だからこそ。小笠原のミセス准将に『名刺を武器に女性を誘った』なんてことをしでかしてしまい、焦っている――ということらしい。
『なるほど』と英太も頷いた。どんなにデキる男になっても、それを使い間違えるな――というものを今日は見てしまった。
「さて。英太も、今日はちょっと頑張ってもらおうかしら」
「え。頑張るってなんですか」
またまた葉月さんがにっこり。『いくわよ』と席を立ち上がる。
どんなに優美で艶やかな『お嬢様マダム』になっても、そうして英太の目を颯爽とハイヒールで歩き出す葉月さんの背は『ミセス准将』。
「エド。車を出して」
「イエス、マム」
サロンの前でひらすら立って待っていたエドがお辞儀をして動き出す。
イエス、マム――って。実家に帰っても、葉月さんは『御園軍マム』?
流石、軍人一家? お家も軍隊そのもので、葉月さんは今や『女主人並』。英太は絶句してしまった。
Update/2010.12.27