華子の着替えも済み、葉月さんの準備も済み?
揃って准将室を出たのだが、予想通り。ミセス准将が夫の愛人である噂の女の子を連れて歩いているのを目に留めた本部員が、また興味津々の顔。
だが。流石というか。この大隊本部のトップでもある大隊長のミセス准将と、鬼中佐と言われているラングラー中佐が揃って歩いているため、誰も『愛人ですよね。一緒に歩いていて平気なのですか』なんて、自殺行為にも等しい質問をしてくる者などいなかった。
だけれど、明らかにうずうずしている隊員の顔が、英太にも見て取れた。
すると。葉月さんがそれを横目で見て溜め息をこぼした。
そして思うところあるのか。大隊本部事務室の入り口ドアを全開にし、そこで甲板にいる時のような顔でじっと室内を見渡し立ったまま動かなくなる。
あっという間に広がる、ミセス准将の『冷風』。冷ややかな視線に監視される本部員達が急に背筋を伸ばし、無駄話をやめ、必要以上に同僚とは向き合わずにキビキビと動き始めた。
「ミセスって、やっぱり凄いね」
英太の傍にいる華子が、そっと耳打ちをしてくる。英太も『当然だろ』と返したが、ついニンマリしていたと思う。
そんな葉月さんが本部を見渡しながら、後ろに控えているラングラー中佐に小声で伝える。
「ほんと。悔しいけれど、旦那さんに感謝しなくちゃね。テッド」
「そうですね。……いえ、私どもの教育が至らぬばかりで」
「いいえ。こんな誰も思いつかないような毒を盛りすぎたのよ、あの旦那は。本部員には劇薬並だったみたいね。きつい毒だったとはいえ、あんなに簡単にやられるだなんて情けないわね。噂として流れることは判っていたけれど、誰もこの毒を素早く解毒する術を持っていなかったのがとても残念。随分と毒に弱い者が増えたってことね」
「おっしゃるとおり、同感です。私もこの度の御園大佐の毒ある嘘の盛り方には、思わぬことを気が付かされたましたね」
そんな准将と首席側近の話ぶり。英太と華子は驚きながら顔を見合わせた。
ミセスと中佐の会話通りだった。やはり隼人さんも思うところがあったらしい。ラングラー中佐も既に御園大佐の意図を知り、その結果も見届け、次のことを考えているようだった。
「例え信じられないような驚きがある噂でも、話題性があるからと騒いであちこちに喋るだなんて以ての外。情報漏洩の元だわ。どのような話題でも情報でも、ひとまず吟味する為に一呼吸置けるのが本部員の心構えというもの。華子さんは歴としたお客様。大佐を信頼しているから信じた点では嘘をついた隼人さんにも責任がある。でもお客様の確かな情報を確認しないうちに、噂として基地中に広めたのは本部員の落ち度。まあいわば、私の教育不足ってことね。すぐにわーわー騒いだ個人を特定することよりも、全体を引き締めておいてちょうだい」
「勿論です。承知致しました」
「真っ正面から説教しても『仕事の情報とスキャンダルは違う』と言い訳しそうだから、それとなく遠回しに、でもきつく締め上げて」
「かしこまりました」
室内にいる大勢の隊員達の長であるミセス准将が、いつになく本部を睨んでいる姿に、流石に彼等も『愛人ではなかったのか』と目が覚めたような顔をして青ざめているのがわかった。
その上、ミセスが入り口で首席側近の鬼中佐を従えながら、長々と小声でヒソヒソと指示をしている有り様に、なにかミセスが怒っていると感じただろう彼等が震え上がっているのも見て取れた。
そんな英太も、今の話を耳にして、そして葉月さんの静かな怒りを知り、ゾッと腕に鳥肌がッ立った。自分も噂を聞いてすぐに逆上して工学科に突撃した『吟味しないで突っ走った人間』であったからだ。
そっか。心構えってそういうこともあるのか――と、反省。
ひとまず落ち着いて、吟味、そして考える、調べる。だな、と心に刻んだ。
ミセス准将の氷の眼差し、静かな怒りのブリザード。夏だというのに一気に大隊本部が凍り付き、誰もが緩んでいた顔を引き締め本部員らしい隙のない動きで勤しむ姿に変貌していった。
「あとは、日頃の信頼を逆手にとって本部員を騙した旦那ね」
あの葉月さんが拳を握って、ゴウと燃え上がっているように見えた。
ほんと、この夫妻って……。オフィスではライバルっていうのかなあ。英太はいつも張り合っている夫妻のややこしさに苦笑いしか出てこなかった。
・・・◇・◇・◇・・・
そんな葉月さんの後をついていくと、空部隊本部があるフロアからすぐ二階上にある『カフェテリア』に到着。
そこでも、エレベーターの扉が開いて葉月さんと華子が揃って姿を現すと、一斉にカフェテリアでランチを取っている隊員達の視線が集中した。
その広いフロアの向こう、窓際の手前、いつものテーブルにはまだ雷神のメンバーとビーストームのメンバーが食後の談話をしている姿もあった。
「あら、まだ雷神がいるじゃない。英太、華子さんを紹介してあげなさい。それで彼女が訓練見学をしていた誤解も解けるでしょう」
にっこり葉月さんの笑顔。そうだなあ、隼人さんがばらまいた毒の解毒をしろってことかなあと、英太も家族である華子が何枚も噛んでしまっていたので『わかりました』と華子を連れて雷神へと向かおうとしたのだが。
「葉月さん、おしおきってここでするのかよ」
「そうよ。私はここで、旦那を待ち伏せ。英太と華子さんは向こうで目立たないように見ていて」
ここで待ち伏せって……と、英太は周りを見渡した。
カフェテリアの入り口とも言える、高官棟の中央エレベーター。どの部署、どの棟にいる隊員もこのエレベーターに乗ってやってくるのがほとんど。そこで葉月さんは立ち尽くし、夫がやってくるのを待っていると言っているのだ。すごく目立つ姿だった。
その通りで、葉月さんが真っ正面に構えると、そこら中にいる隊員達が皆訝しそうな顔を揃えて注目していた。
「ええっと、葉月さん、なにするんだよー。大丈夫なのかよー」
こんな目立つ場所のおしおきに、英太はハラハラしてきた。だが、そこは英太の上司ミセス准将。英太をまたもやなんの役にも立たない男の子をあしらうかのように『あっちで見ていなさい』と追い払ってしまう。
それにラングラー中佐もしかめ面でどこか納得できない顔をしていたが、それでも『ミセスがやること』と黙って見ているいつものスタンスを崩さず、葉月さんに言われなくてもかなり離れた壁際で待機する構えのようだった。
「早く行って。あの人が来たら逃がしたくないから」
そうして英太を見た葉月さんの眼差しは、またもやいつもの氷の准将に戻っていた。
頷き、英太は華子を連れて雷神のメンバーの元へと向かう。
その間も、ランチを取っている隊員達に声をかけられる。
「鈴木大尉、その女の子は……」
内勤族の男性達に聞かれ、英太もここは堂々と答える。
「俺の幼馴染みです。本島で病気の叔母の看病を任せているんです。大佐が『是非に』とエースコンバットをしている俺に内緒で、日頃留守を守っていくれている彼女を見学に連れてきてくれたんだそうです」
やはり大佐の悪い冗談を知っている彼等はとても驚いた顔を見せた。
「え、御園大佐自身が自分の愛人だと言ったとか……」
「大佐の悪い冗談に決まっているじゃないですか。その悪い冗談にのせられて本気に受け取った空部大隊本部員のこと『お迎えしているお客様のことをろくに調べもしないで、噂を容易く信じて扱った』と、ミセスが本部室を睨んですっげー怒っていましたよ」
なんて。英太もこれ以上騒がれてもと思い、ミセス准将が今なにを思っているかも伝えると、他部署の男達ではあるが青ざめた顔で震え上がっていた。
華子を連れて歩いている英太の話がそこらかしこに聞こえたのか、『うそ、大尉の幼馴染みだって』とか『えー、大尉の彼女?』とか……『ほらみろ、御園大佐の遊びだったじゃないか』と薄々感づいていた様子の男もいれば、『大佐も悪い人』と呆れた様子の女性達もいた。
そんなことを耳にしながら歩いていると、横にいる華子がくすくすと笑い出した。
「華子、お前も荷担しているんだからな」
「えー、愛人ネタに使ったのは大佐がいきなり勝手にやり始めたんだもん。罠にかけた以外は私は利用されただけだものー」
「このっ」
いつもの調子に戻った幼馴染みを睨んだが。
「でも、その大佐にも奥様のミセスにもバシッてやりかえされちゃったけどね」
あの華子が負けても清々しい微笑み。そんな素直な顔、久しぶりに見た気がするなと英太もやっと嬉しくなってきた。
それでも華子はあちこちの男性隊員女性隊員の囁き声や様々な反応を見て楽しそうだった。
「ふーん、大佐もミセスも面白いのね。一緒にいると絶対に退屈しないわね。それにあのいけすかないスケベ大佐が、やり手の准将奥様にどんなふうにやれるのか楽しみ! こんな大勢の前で大佐は恥をかかされるのかしら〜」
お前もだろ、お前もこの状況を作ることになった原因は大いにあるんだからな! お前と隼人さんが組んだらろくなことなさそうだと英太は思った。
そんな華子さえもやり返された男『御園大佐』を、さらにやり返そうとしている女が一人。
ランチのピークが過ぎたとはいえ、まだ人々で溢れているカフェテリア。その入り口とも言える中央エレベーター前に仁王立ちで待ちかまえているミセス准将の姿は、周りから見ても異様だった。
(絶対、絶対、葉月さんはすっげー変なことするに決まっている!)
そういう人。英太だって、日頃の訓練でミセス准将の思いきりをよく肌で感じる。誰もが踏み込まないところを、あの人は平気で踏み込み……。
「エイタ!」
「英太、こっちにこいよ」
葉月さんばかり気にしていると、雷神の先輩達が待ちきれない様子で手招きをしていた。
そこへ英太は華子を連れて行く。
「おい。どーなっているんだよ。なんでエイタが女の子を連れて歩いているんだよっ」
早速、スナイダー先輩に食いつかれる。
「鈴木。そちらのお嬢様はミセス准将のお客様なのか」
落ち着いている平井中佐から尋ねてきた。だが他の兄貴達も『愛人か』と口にはしたいが、真相が知りたそうなうずうずした様子で、華子と英太を見ている。
「俺の幼馴染みの『華子』です」
「はじめまして。小川華子です。御園大佐からのお誘いに甘えさせていただき、皆様がお忙しいにもかかわらず訓練を見学させていただきました」
「叔母の看病を任せているんですけど、俺が日頃小笠原でどう過ごしているか見に来たら良いと内緒で御園大佐が連れてきたんだそうです」
そう言っただけで、兄貴達は顔を見合わせ。そして兄貴達は、静かに食後のコーヒーを飲んでいる平井キャプテンを見た。
その目が『愛人かどうかはまだわからない』と諫めてくれていたキャプテンの落ち着きに感謝しているのが分かった。
「本日、皆様の訓練を見学させて頂きました。私……想像はしていたけれど、でも、想像なんて意味がない程。甲板に行かなければ感じられない戦闘機の風とか、音とか、身体にビリッと来る波動とか感じたんです。英太とその後追ってきた戦闘機が空母の頭上を過ぎた時、本当に雷鳴と稲妻を感じました。なるほど、だから……雷神なんだって。感動でした」
少し戸惑っている兄貴達に、いつもの物怖じしない笑顔を見せた華子。その上、銀座で鍛えている話しぶりで訓練の感想。……やっぱり、一瞬で兄貴達の顔がほわんと崩れていった。それを英太は白けた目で見て溜め息。そうなんだよな、そうなんだよな。華子って男をそうさてしまうんだよ。だが英太は思う。それでも隼人さんは、華子を跳ね返したのか。やっぱ、ある意味スゲー男かもしれないと。
それでも。と、英太は再び中央エレベーターを見る。それでも、やらなくてもよい毒を盛った夫を仕留めようと待ちかまえている妻の姿はやはり異様だった。
「英太、ミセスはなにをしているんだ。あれ」
サブキャップの成田中佐も不思議そうだった。勿論、隣にいる平井中佐も。
「お嬢がああしていると、流石に俺もハラハラというか。英太もしかして、彼女、隼人さんのことを怒っているのか」
「そうみたいっすね。おしおきをするって言っていましたけど……。それがここであそこで、あんなふうに大勢の前でやろうとしているのかと思うと、俺もいいのかなあと……」
「はあ、相変わらずだな。しかし、だからって止められる女でもないけれどな」
流石の平井中佐が長年のことを振り返ったのか、疲れた溜め息をこぼしていた。
「でも。他人事だとわくわくしてしまうなー。あの御園大佐が、あの氷の奥さんにどうやられるのかって」
「ばか、スナイダー。思っていても口にするなよ」
それでも雷神の兄貴達もちょっと期待した眼差しでミセス准将が待ちかまえている後ろ姿を眺めていた。
誰もがミセス准将を遠巻きに見ている。
しかもエレベーターが到着し、扉が開くたびに乗っている隊員達が真っ正面に突っ立っているミセスをみて驚き顔を揃えたじろぐ光景が何便か続いた。
「あれだと、御園大佐はミセスを見た途端扉を閉めて逃げるんじゃないか」
「いやあ、この公然の場で旦那として逃げるのも格好悪いと思うなあ」
「じゃあ、逃げ道なしってことか。ミセスも考えたな」
先輩達の話に、英太と華子は『なるほど』と頷きあった。
ここにある全ての視線が中央エレベーターに集中する。徐々にカフェテリアも異様な空気に包まれ始めていた。
「次の便が到着するぞ」
フェルナンデス先輩の一言で、英太もエレベーターへと緊張を高める。
扉が開いた――。だがその瞬間。そこに乗っている一行を見た誰もがギョッとした顔になった。
(細川連隊長っ!)
細川少将連隊長が真っ正面に乗っていて、その正面で待ちかまえている葉月さんとが鉢合わせる。鉄面皮の超絶シビアな眼鏡男、大胆不敵の元祖じゃじゃ馬嬢が無言で目を合わした瞬間だった。
ま、まずいんじゃないの〜。葉月さん!
そう思ったのは英太だけじゃないだろう。きっとこのカフェテリアにいる誰もが『こんな大勢がいる場所で、私情を挟んだおしおきなんて出来ない』と思ったことだろう。
華子だけは『あれが怖そうな連隊長!』と、やっぱりなんだか楽しそうだった。
・・・◇・◇・◇・・・
「なにをしているのだ」
早速、エレベーターを降りた連隊長が、ミセス准将がただ立って何かを待ちかまえている姿にひとこと。彼の登場でシンとしたカフェテリアにかすかにその声が響いた。
だが葉月さんはこともなげに言った。
「ただならぬ噂を流した張本人を捕獲しようと待ちかまえております」
ぼかして言ったが、葉月さんは連隊長が来ても堂々としていて退く気もない様子。だが連隊長は。
「ふーん。隼人が愛人を連れてきたという噂のことか」
連隊長も既にご存じ。そしてミセス以上に冷めたほそーい目が、どこか呆れた眼差しで葉月さんを見つめている。
「それで女房がここで待ちかまえているということか」
「はい。まったくの私事ではございますが、止めないでくださませ。正義お兄様」
「やめろ。お前から兄様と言われると鳥肌が立つ」
「これは失礼致しました。ですが連隊長としてお止めになっても無駄ですわよ」
しかし。連隊長は冗談も通じない非常に生真面目な男性であることでも有名。この私情的なおしおきなど、自分達の家庭でやればいいだろうと怒るのではないかと英太は思ったのだが。
「ほーう。面白そうだな。あの隼人がこのカフェテリアで、ミセス准将に仕留められるのか」
俺ものった。と、連隊長が葉月さんが立っているすぐ後ろの席に座ってしまった。その傍に連隊長秘書室首席側近の水沢中佐が静かに控えるが、彼も僅かに苦笑いをこぼしているのが見えた。
「しかし、まったくもって馬鹿馬鹿しい」
ひたすら立って待ちかまえている葉月さんの後ろに座っている細川連隊長が、腕時計を見ながら溜め息をこぼした。
「つまらぬ話を秘書官が聞きつけてきたので直ぐに『連れてきた女性客』を調べさせてみれば、なんだ、鈴木英太大尉の叔母御の看病を任せているとかいう、家族同然の女性を隼人が気遣って連れてきただけの話ではないか。それが、ミセスの本部で本気にした者が、本気にしただけならともかくあっという間に噂にして流した発信源になったようだなあ。俺のところには昨日の夕方にはもうその話題が運ばれてきたぞ。素早い情報提供はお見事だったというわけだ」
そこで連隊長が嫌みたらしく『あははは』と笑い飛ばしたので、流石の葉月さんがしかめ面になった。だが、彼女もそこはよく解っているのだろう。
「おっしゃるとおりでございます。私の不徳と致しますところ。教育不行き届きでございました。今後このようなことが二度とないように致します」
「わかっていれば良いけどな。それにしてもまあ、この基地の俺の連隊で、どれだけの者がそっくりそのまま信じて隼人に踊らされたことか――」
そこで足を組んで悠然と座っていた連隊長が、カフェテリアをぐるりと見渡した。当然、誰もが怖れているシビア一徹の男の眼差しから、さっと逃れ顔を背けているのがわかった。
「ま、嘘の情報を平気で流した隼人が今回の主犯ともいうべきかね」
だから『葉月、行って良し!』という事らしい。
その後も、エレベーターが一便二便と到着し、扉が開けば目の前でミセス准将と背後に擁護するように構えている連隊長の図は、誰がやってきても一発で震え上がっていた。
そしてついに。その男が運ばれてくる。ランチタイムも終わろうかという時間。それでもカフェテリアには人々が残っている。テーブルではなく、カフェテリアの壁際にギャラリーとしてのざわめき。
エレベーターの扉が開き、黒ネクタイに白い夏シャツ姿の眼鏡の男が数名の隊員と共にそこにいた。
「え」
妻がそこに待ちかまえている姿を知って、一瞬驚いた顔を見せたのだが。
「お疲れ様、貴方。なにか私に言わねばならぬことがあると思うんだけれど?」
やっと来た『狙った獲物』に、葉月さんがこの上なくにっこりと微笑みかけた。その珍しい満面の笑みは不気味。
「なんのことかさっぱり。身に覚えがないなあー」
だがこの男は、やはりじゃじゃ馬の夫。妻に負けない笑顔で切り返したではないか。そこにいる皆もそうだが、英太も『おっさん、マジで言ってるのかよ』と眉をひそめるばかり。
だが葉月さんの次なる行動は素早かった。
「問答無用!」
夫をビシッと指さしたかと思うと、葉月さんはエレベーターを降りたばかりの夫へと一直線に駆けていき、首元の黒いネクタイをざっと引っ張った。
問答無用! その言葉の意味は直ぐに理解できた。カフェテリアのギャラリー達が『あ』と口を開け、夫妻を見て固まる。それは英太も華子も、雷神の兄貴達も連隊長も一緒。
その時隼人さんの身体は、華奢なはずの妻に跳ね上げられ宙を舞っていた。そう、葉月さんが夫を投げ飛ばしている!
くるりと背負い投げをされた隼人さんの落ちていく足が、なんと連隊長の頭上へと振り落とされそうになっているし! だからすかさず、傍についていた水沢中佐がビクッと反応し連隊長の腕を引っ張り上げる。
「あぶない、連隊長!」
「このっ葉月め、こっちに投げるんじゃない!」
だが葉月さんはお構いなし。そこに連隊長がいようがなんだろうが、もう止められない勢いで隼人さんをそこへ振り落とす。
言葉で通じないなら、御園の女は問答無用でこうする!
英太の耳に、そんな声が聞こえてきそうだった。
妻に懐に入られ、足をかけられ、あっという間に腰で跳ね上げられ、軽々と宙に投げ飛ばされた夫が『ドン!』と床にたたきつけられた。
シンと鎮まったカフェテリア。シャツの襟を掴んだままの葉月さんが夫を床にねじ伏せつつも、頭を強打しないようちゃんとネクタイを引っ張り上げ浮かせている姿がそこにあった。
当然、隼人さんも何が起きたのかと茫然としたまま、妻にねじ伏せられた姿で床に力尽きていた。
やはりカフェのギャラリー全員が呆然とした顔。もちろん、英太も。あの連隊長ですら呆気にとられて固まっている。
だが葉月さんは周りの反応など皆無。ねじ伏せた夫を倒したまま険しい眼差しで見下ろしている。
これがおしおき? そりゃびっくりしたけど……とここまで思って、英太はふと違和感を持った。
ガムテープ、どこで使ったんだよ?
Update/2010.8.30