調布の飛行場に着くと、本当にセスナ機が大佐と華子を待ちかまえていた。
迎えてくれたのはパイロットシャツを着込んだ栗毛で青い瞳の凛々しい女性、そして運転手をしていた『ジル』とか言う黒服の男性も共に乗り込んで、あっという間に華子は空に連れて行かれた。
ゆったりとしたシートに、華子は御園大佐と並んだ。
すぐに窓の外は白い雲と青い空。やがて大佐が『伊豆諸島だ』と呟いた時には、見下ろす世界は青々とした海が広がっていた。
栗毛の女性と、もう一人の副操縦士の男性はコックピットに。そして先程の『ジル』は、大佐と華子に丁寧に珈琲と紅茶を用意してくれた。
それを黙って味わっている大佐の横顔を、華子はずっと見ていた。
眼鏡の、大きな黒い目の、そして青空ばかり見ている真顔を。
その横顔を見て、華子はずっと思っている。
何を考えているんだろう、この男の人。女に対して物欲しそうじゃないし、婿養子の御曹司でバックアップも強力で――。なによりも、奥さんのことを『どんなふうに愛している』と見せてくれるのか――。
今まで男なんて、お金を持っていてもすぐに女を自由にしたがる奴ばかりだったし、妻は妻、女は女って勝手に都合良く決めつけてまるで自分達の楽しめるおもちゃみたいにしか思っていないくせに。
男なんてすぐ浮気するし、すぐに女に抱きついてくる。そう思っていたのに、昨夜の大佐はそうではなかった。
なんなの。この人。この人って何が最高に快感だと思える人なんだろう。
そんなに恋女房の奥さんが一番ってわけなの?
その奥さんに英太が夢中になったのって、それだけの『女』ってことなの?
そう思うと当然。同じ女として興味は湧く。
でも。例え、華子の期待通りに『うわー、こんなに素敵な女性だったら、大佐も英太も夢中になっちゃうわよねー!!』なんて、嫌味でも言いたくなるほどの『いい女』――なんて、あり得ないだろうけど、もし本当にそうだったとしても、華子はそんな『葉月さん』に対して憎しみなんて持たないだろう。
(私が憎くて憎くてどうしようもないのは……)
自分が存在していることだった――。
この顔と身体に生まれたことだった。
男はたかってくるし、女には憎まれ僻まれる――。そんな毎日だった。
母親には捨てられ、父親には身体を売り物にされそうになった。
安息の場所は、春美と英太がひっそりと暮らしているささやかな小さな家庭だった。
それさえあればいい。
でも、最近。華子は少しだけ不安に思っている。
春美が亡くなってしまうのは時間の問題だった。
これからは英太と二人?
そうなったら。どうなっていくのだろう。今まで通り、あの春美のマンションで家族として暮らしていくこと、続けていくことが出来るのだろうかと。
華子はまた、御園大佐の横顔を見た。
ちっとも華子を見てくれず、彼はカップ片手に空ばかり見つめている。話もしてくれない。
でもそんな大佐がどうして華子をここまでして連れ出してくれたのか。
なにもかも、見透かされているような気持ちになった。
・・・◇・◇・◇・・・
上空から見えた青い海と緑の島は、まるで楽園だった。
ただひたすら、その美しい景観に感嘆していると、御園大佐は嬉しそうに微笑んでくれていた。
やがて、着陸。セスナから降りると、そこは熱風の島――。
滑走路にはまた黒塗りの車が待機していて、また『ジル』が運転してくれる。
小さな空港を出ると、ずっと海岸を横に走っていく。島の地形に沿ってカーブする海沿いの道。窓を開けると、鮮烈な潮の匂いがする。
「英太が言っていたとおり。すっごい綺麗」
「だろう。春先だったら、鯨が見られたんだけどな」
「えー、本当に!」
うわー、見てみたい! と、華子はついはしゃいでいた。するとやっぱり御園大佐の笑顔。
「どう。毎日、夜の世界にいるから、まったく違う世界に来た気分にならないかな」
ご自慢の島にきて、癒されて欲しい――。そう言いたいのだろうか。
いつもの華子なら、『自分が好きなものを押しつけて、自分だけが気分良くて、余計なお世話』とか笑顔の下で思ってしまうことも良くあるのだが。
「ここ数年、華ちゃんは仕事と英太の叔母さんを心配することだけで頑張ってきたんだろ。誰よりも一生懸命になれるから余所見もできない、してはいけないと思っている。不意打ちでこうでもしないと、こんな違う世界に来てスイッチをうまくオンオフにするってしなかっただろう?」
その通りだった。余計なお世話……なんだけど。でも大佐の言葉は、何故か華子の胸にしみ通っていく……。
黙っている華子を見て、大佐は致し方なさそうに微笑む。
「本当なら、最近知り合った俺みたいなおじさんじゃなくて。華ちゃんが選んだ男性でも友人でもいいから、そういう人間が隣にいればベストなんだろうけどね」
……そんなことあり得ない。男なんて友人なんて。誰も信じていない。
「少なくとも、今の華ちゃんは、英太と英太の叔母さんは信じているわけだ。それなら、信じている英太を見てみようじゃないか」
やはり大佐には華子のなにもかもを知られている気になった。
そして不思議と。この島に来たら余計に、大佐の言葉に素直に頷く自分がいた――。
海岸ばかりだった景色から、ぽつんぽつんと民家が見え始め、住宅地が目に付き、そのうちにリゾートホテルがあるちょっとした市街地を通った。それが過ぎると団地が見え始める。どうやら官舎のようだった。その直ぐ側から、ずっと金網フェンスが続き、その向こうに芝で整えられた綺麗な白い一戸建てが並ぶ街並みが。どこか他の街とは雰囲気が違う。
「これがアメリカキャンプ。ほとんどがアメリカ人なのでそう言っているんだ」
このフェンスの向こうは外国と一緒。治外法権になるとのことだった。
「英太はこのキャンプでは、どこのファミリーからも招待をされる程の人気者。特に子供達に慕われている」
華子は耳を疑った……。
「あの英太が。人気者?」
言ってみれば、一匹狼で群れるのを嫌う男だった。華子と一緒で、世の中が謳う幸せなんて自分達には無関係で、それでいてそんな幸せしか知らない人間達に自分達の気持ちなど解るものかと蔑んできたところがある……。
だから英太と華子は寄り添って。
なのにその英太が。こんな一軒家が、ある意味『幸せの象徴にも見える一軒家』が並ぶ住人達の『人気者』って?
「英太のこの二年。彼は彼から変わったと俺は思っている。飛ぶ時の荒々しさは捨てていない。でも陸に降りたら、英太は人と関わる柔らかさを持つようになった。うちの子供達ともよく遊んでくれる」
あの英太が、あの英太が……?
呆然としている華子を見て、大佐がちょっと申し訳なさそうな哀しい眼を華子に見せていた。
大佐のその眼がまた華子の奥底を見つめている……。どこか恐ろしさを感じた。初めて。
「たぶん、英太は逆に叔母さんの看病を一生懸命にしてくれている華ちゃんに心配をかけたくなかったこともあったんだと思う。横須賀を出てここに転属してから、急に仕事の話をしなくなったとかなかっただろうか」
言われて華子は初めて振り返った。
そう言えば。横須賀にいた時は、あの先輩にあんな嫌なことされたとか目の前で怒っていたりしたのに。小笠原に転属してから何も報告してくれなくなった? 気が付かなかったが、確かにそうだった。
でもそれは『やっと俺の性に合う勤め場所を見つけられた』と英太が言っていたから、満足をして文句を言うこともなくなったのだとばかり……。
「その英太を見てやって欲しいんだ」
「どうして急に?」
訝る華子の問いに、今度は困った顔をしている御園大佐がいた。
そこだけ、言葉に出来ずにいる大佐が不思議だった。
「ほら……。やっぱり、俺にとっても英太は身近な部下だから。ずっと気になっていたんだ。こうして華ちゃんと出会ったから良い機会だと思ってさ……」
そうなのかな? 少し華子はひっかかった。
長々と続いたアメリカキャンプが途切れると、そこには銃を構えた軍人が見える警備口に辿り着いていた。
・・・◇・◇・◇・・・
御園家の黒塗りの車と付いてきたジルはそれ以上は入れないということで、華子は御園大佐と一緒に車を降りた。
警備口で構えている軍服姿の男性達が、御園大佐と華子を見た途端に、どうしてか顔を見合わせていたのだが。御園大佐が窓口で胸ポケットからカードを差し出すと、彼等が揃ってビシッと敬礼をした。
「お帰りなさいませ、御園大佐!」
「ご苦労様。こちらはお客様だ。工学科から入所許可の手続きが出ていると思うんだけれど」
大佐の言葉で、窓口にいる隊員達がキビキビと手続きをしてくれる。
「はい。許可されております。では、そちらの方と大佐のサインを――」
御園大佐がペンを持ち、バインダーの書類にサインを記している。
「小川さんもお願いします」
急に他人行儀な丁寧な接し方を始めた大佐。でもそこから向こうは『俺の職場』という大佐の気構えが感じられる。
華子も大佐に言われたとおりにペンを持ち、サインをする。
その間、男性隊員達がじいっと華子をずうっと見ている視線を感じて仕方がなかった。
本人証明などの手続きを終え、華子も晴れて基地入り!
「まずは、准将室へ行こう」
「え、いきなり奥様のところに?」
「うん、時間がない。明日、空母に乗れる許可を取るには、もう葉月にやってもらうしかないな。その葉月の権限を持ってしても、もう時間がない。せめて今日の夕方までに許可が取れないと……」
「別に、それなら明後日でも」
「駄目だ。雨が降ったりしたら空母艦に行くまでの小型船での移動は、慣れていない一般人には負担になるし、甲板に出るのも危険だ。二日のどちらも搭乗できるように手続きを取るのがベストだ」
ああ、なるほど。確実にということで、ぬかりない計画性に華子も感嘆。
急ぐ大佐の後を、華子も急ぎ足で追っていく。
黒いハイヒールに、ピンクベージュのワンピース、白いジャケットと初夏のフェミニンな装いで来た華子。ワンピースの裾が揺れる。御園の家のコーディネーター達が揃えてくれた黒いハンドバッグを持って歩いているのだが、周りが軍服の隊員達しか見られないので、妙に浮いている気分になってきた。
やがて大佐が立派な玄関になっている棟にくると、そこに入っていく。
後をついていくと、大佐は中庭が見える廊下を歩いたかと思うとすぐにエレベーターに乗ってしまった。
「ここは高官棟と呼ばれている。連隊長や基地の要になる重役将軍達の将軍室と秘書室がある。五階はカフェテリア」
「英太はここにはいないの?」
「英太は先程の警備口近くの棟にある空部隊の班室にいる。そこには外勤族と言われる現場の男達がいる。パイロットはだいたいそこに集結している」
「雷神ってフライトは、パイロットは何人いるの」
「今は十人。英太が一番若く、唯一の独身。なので、最近は女の子達からも声をかけられるみたいだが、あいつそう言うところあっさりしているんだよな〜」
大佐の目がまたいつかのように、妙に男っぽい眼差しで華子の唇を見ている。
「だよな。こんな可愛い幼馴染みといつでもエッチが出来るんだから、他の女の子に興味など湧かなくて当然だったわけだ。ついでに。うちの奥さんが抱けなくても困っていない……っと」
「言うこと、いちいち意地悪な気がする!」
「あれ。俺っていつもこんなだけれど。あー、そう言えば、うちの奥さんにもよく言われるなーそれ」
やっぱり。奥さんにもこんな調子の旦那さんなんだと、華子は呆れた。 だけれど、その奥さんがもう目の前――。
「奥さん、本当に知らないの? 私が来ること。もう横須賀のご両親が娘なんだから連絡しているんじゃないの」
「葉月には言わないようお願いしておいたからな。大丈夫」
「大丈夫って――。だから娘……」
そこまで言って華子は黙る。昨夜もそうだった。娘の婿が酔いつぶれた若い女を連れ込んできても、婿殿が望むままに受け入れてくれていた。それどころか……。華子は身体中から、あの柔らかさを鮮やかに思い出していた。あのお母様の柔らかい胸の中を――。あれが、母親というものなのだろうか。そんなお母様が婿殿がすることを黙ってみているってことは……?
エレベーターが三階に着いた。
「三階はうちの女房の将軍室になっている。編成替えする時、彼女が准将として昇格したと同時に空部隊の大隊長にもなったので、空部隊大隊本部も隣接する形にしたんだ」
扉が開いて、廊下に一歩踏み出した途端のざわめきに華子は立ち止まった。
大佐が歩き始めたその廊下を闊歩している軍服姿の隊員達。英太と同じ、白い夏シャツに黒い肩章、そして黒いネクタイ。男性だけじゃない、タイトスカート姿の女性隊員達は、凛とした制服姿ながらもどこか華やかで品格が窺える人ばかり。
そこは東京かと思うってしまう程の『オフィス』だった。
書類片手の隊員の誰もが、御園大佐を見ると立ち止まった。
「御園大佐、お帰りなさいませ!」
男性に女性、誰もが一人残らず御園大佐を見て笑顔になる。そして大佐も彼等に手を振ったり『ただいま』と応える。
だけれど、どの隊員も大佐の背にいるフェミニンなお洒落でやってきた華子を見て目を丸くする。
「お客様……ですか?」
一人の男性隊員の問いに、周りにいた他の隊員さん達も男女問わずに固唾を呑むような緊張感を漂わせていた。
どうやら御園大佐が若い女の子を連れてくるだなんて『あり得ない』ということらしい。その向こうに、『なんなのあの子』という女性達の視線も華子に……突き刺さる。毎度のことだと分かっていても、今回に限っては『大佐がやっていることなんだから、睨むなら大佐を睨んでよ』と腹立たしくなる。
そうただの客だって。そうだ、英太の家族だって言ってよ――。心でそう思いながら大佐を睨んだ時だった。
「今まで黙っていたけど。俺の愛人」
あのにっこり余裕の笑顔で、あっさりと言い放った大佐に華子はギョッとさせられた。
華子だけじゃない! ほら! 男性達は眉をひそめ、女性達はお決まりの怒り顔になっているじゃないの!? なのに大佐はそれだけでは終わらない。
「嫁さんにばれちゃったんで、今日はいよいよ本妻と愛人のご対面ってやつ。あ、ミセスは今いる?」
だけれど、本当に信じたのか、でも信じられないのか。誰もすぐには御園大佐の質問には答えてくれなかった。だけれど、やっと離れているところから見ていた女性隊員が一人『ランチからお帰りになってから、いつもの事務処理をしておりますよ』と応えてくれた。
「有り難う。今から修羅場になると思うから、立ち入り禁止でよろしく頼む」
調子の良い敬礼を皆に振りまいて、御園大佐はただにっこり。
そんな大佐の後をついていく華子を見る隊員達の目と言ったら……。
『冗談に決まっているじゃない。大佐はいつだってあんな冗談で奥様をからかっているんだから……』
『そうよ。あれほどのことを乗り越えられてきたご夫妻よ』
女性達のそんな声が聞こえ、華子は肩越しに振り返りたくなったが堪えた。
『でも。ミセスのようなクールさだと……男としてはもしかして、だよなー』
『もしかして。なら、御園大佐だったら、うまく隠してしまうだろうな』
男性隊員達は、どこか大佐を羨ましそうに見て。そして華子を見て……。嫌な視線に感じた。
『その前に奥様が気が付くわよ』
『いや、大佐も上手だぜ』
ひそひそした話し声に耳を澄ましているのは、華子だけではなく、大佐も同じようだった。目の前の背中が密かに笑って揺れているのを見た。
「素晴らしいご評価をお持ちなのね。ご夫妻で」
しらっと言ってやると、大佐はついに笑い出した。
「あはは。こう言う時に自分がどう思われているかハッキリ分かってしまうのが面白いな」
「面白いかな〜? 大佐だけじゃないの〜」
このズレっぷりにいちいち驚いていたが、華子もだんだん分かってきた気がする。
そして頭の中で、先程の品の良い女性隊員達が『いつだってあんな冗談で奥様をからかって……』という言葉を繰り返していた。
(そっか。そういうことなら、大佐の悪戯に付き合ってみようかな)
やっと華子の心に、いつもの余裕が戻ってきた感覚。
なんだか英太が憧れたり、『ウィング』のマスターも男も敵わない奥様と言っていたり。隊員達も『奥様が、いや旦那が上手』とか言い合うほどの夫妻ならば、華子も試してみたいというものだった。
大きな事務室を通り過ぎると、今度は厳重そうな扉を持った一室『システム管理室』に差し掛かる。そこも通り過ぎると、先程の事務室の賑わいとは打って変わって、シンとしている部屋の扉が二つ。本当に同じフロアなのかと華子は歩いてきた廊下を振り返る。エレベーターがある向こう側は確かに人々の出入りが激しく隊員達の姿が何人も見え、ざわめきも聞こえてくる。だがこの突き当たりにある部屋は――。
「ここだ。奥のドアは御園准将秘書室。彼女を支える補佐官が数名詰めている。室長になる首席側近のラングラー中佐は、吉田の夫だ」
「吉田大尉のご主人――」
「二人は俺達が中隊にいた時から支えてくれている、長年の後輩ってことだな」
「そうだったんだ……」
「特にラングラー・吉田夫妻は、英太を気にかけてくれ、英太は吉田を姉のように思って慕っているし、アメリカキャンプのラングラー家にはまるで家族のように招待され、しょっちゅうお邪魔しているようだ」
また……。華子が知らない英太の生活が。
それを聞かせたくなかったのか。今度の大佐は目が合わないよう背を向けたまま。その横顔がやはり硬いような気がした華子。
それだけ。華子が知らないことがここに沢山あると言いたいのだろう。
華子も……。どうでも良いと思っていたが。なんだか心の奥がゆらっと動き始めているのを感じていた。
「ここが、妻の准将室。ミセス准将の」
なにが『ミセス准将』よ。
どうしてか華子の心の底から、そんな声が湧いていた。
茶色の、重厚な木造のドア。そこを御園大佐がノックした。
・・・◇・◇・◇・・・
「澤村です。准将、ただいま帰りました」
ノックをしたドアの向こうから、『はい、どうぞ』という女性の声が聞こえてきた。
思った通り。落ち着いて楚々とした声。御園大佐と呼ばれながらも、そこでは『澤村』と自ら名乗る大佐に違和感を持ちながら、華子はそのまま彼の背に控える。
そして思う。きっと大佐は先程のように奥様をからかうだろう。その時は華子も『嘘』なんだから、思いっきりその気になってやろうと――。
御園大佐がドアを開けた。
「失礼致します」
敬礼をした御園大佐。背筋をピンと伸ばし、ビシッと象られた腕と指先を額に当て、硬い格好。
夫として会いに来たのではないか。御園大佐がやっと軍人らしく見えたのに、本当に軍人さんなんだと思ったのに。それが寄りによって奥様を訪ねに来た部屋でだなんて――。
「お帰りなさい、大佐」
そこから冷たいよそ風が華子を包んだ気がした。
でも大佐が一歩部屋にはいると、華子の目の前には青空が。そしてそよ風。
そして御園大佐が向き合ったそこには、大きな木造の机に書類に囲まれてペンを握っている女性が……。
栗毛の、茶色い目の――。白い夏シャツを着ている女性が、たった一人で静かにそこに座っていた。
華子はすぐに思った。『御園のお父様にそっくり』と――。一目では日本人とは分かりそうにもない、そんなエキゾチックな顔立ち。でも東洋の雰囲気もちゃんとあって、横顔に輪郭そして丸みがあのお母様の娘であることも一目で思わせる。そんな雰囲気。
なにか気になって目が離せない――。そんな不思議な雰囲気を醸し出しているのが分かった。これじゃあ、英太も気になったことだろう。そう思わせる……。
「テッドはいないのか」
「ええ。あちこちにコンセンサスに回っているところ。私は留守番中」
急に慣れ親しんでいる夫妻の会話に切り替わったので、華子は困惑した。
どこからどこまでが夫妻で良くて、どこからが仕事の関係になるのだろう?
だがそんな奥様も、やっと夫の後ろに見知らぬ若い女性がいることに気が付き、流石に驚いた顔になった。
「お客さま……?」
妻がそう尋ねた途端、思った通り、御園大佐が妙に悪戯っぽい笑みを浮かべたのを華子は確認。
さあ、来る――! 華子も腹をくくる。そのタイミングを待つ。
「うん。彼女可愛いんだ。いま俺のお気に入り。彼女といると若かった頃を思い出す。話も合うしな。会うたびに楽しんだ、これが。今回、小笠原に行きたいってねだられたもんで、つい……」
はっきりと愛人とは言わなかったが、それとなく告げた大佐。
では、仕上げは華子が。大佐の後ろから、華子は准将席へと一歩踏み出した。
「恋人なんです。付き合って三ヶ月。私、本気です。愛人でも良いんです。奥様に別れて欲しいだなんていいません。でも、私、愛人でも負けません。妻になれなくても、女で勝負しようと思っていますから」
はっきり言ってやると、流石に奥様が面食らった顔。
その顔のまま、夫を確かめるように無言で見ている。そして大佐は『華ちゃん、よくやった』みたいな勝ち誇った笑み、華子とも意志が通じているかのよう目を合わせてくれた。
「いや、その、ほら……俺もさあ……」
如何にも、女性二人に挟まれているかのような自身でもどうして良いか分からなくなった男を演じようとしている大佐。
華子もほくそ笑む。だが一瞬――。気になるのは奥様の反応。
だが次に華子が見たミセスは、呆れた顔をして、すぐにペンを握り直し書類へと視線を落としてしまった。
俯いて文字を書き、彼女はずうっと黙っていた。やはり……取り乱さなくとも、ショックだったのか。
そろそろネタバラシ、してあげたら。大佐をせっつこうとした時だった。
「工学科科長、御園大佐、ミセス准将の夫。そんな貴方が『絶対に浮気などしない誠実な夫だと信じている人』は七割……」
書類にペンを走らせながら、栗毛のミセスが呟き始める。
「残りの三割、一割は『まさか、大佐がそんなことをするはずはない。でも……わからない。するかもしれない』と思う人、さらに一割『しているかも。あの大佐なら、うまく隠し通せる。婿養子で窮屈だろうし、我が儘なじゃじゃ馬の相手もストレスが堪るだろう。男なら余所見をしたくなる』が一割、残りの一割は『男ならする。大佐だって男』と認めてしまう人――」
落ち着き払った変な分析を呟くミセスの顔はひんやりと凍っているよう。頬が白く赤みがない。唇もそんな彩りがなく、表情もない。その顔と唇で淡々と紡ぐ言葉は、数字をくっつけた分析?
そういう割り切れないことは数字を付けるタイプ? まるでロボットに見えてきた。
だが大佐はそれを面白そうに微笑み聞いている。
「お前はどこに属するんだ。勿論、七割の」
「愛人を連れてきて妻に七割を信じろと? 虫が良いわね」
そこでやっと彼女が笑った。しかしその笑み、唇は優雅に三日月のように和らいだが、目は冷たいままだった。その顔で夫を見ている。そして華子は見ていない……。
「私はどこにも属さないわよ。妻ですから、主観が入るの」
「ほう、なるほど? どんな主観?」
「そうね。貴方が私に悪戯をするのが大好きっていう主観」
やっと怒った声。夫を睨んでいるではないか。でも、その目が……怒っていない。冷たくて鋭くて、それはまるで怒りではなく、なにかを切り裂いて奥にある何かを奪おうとしている目に見え、華子は初めて背筋が伸びた。
それにミセスは『嘘』だって分かっている。結局、『旦那は絶対に浮気はしない』と信じている。でもそんな悪戯をした夫に怒っている。そんなところだったようだ。
でも華子が彼女に驚かされたのは……。
「いらっしゃい。小川華子さん」
あの冷たい目が、華子を見つめた。
そして華子はさらに固まった。
奥さんは、大佐が『華子を連れて帰ってくる』と予想していた?
その目は女の目ではなかった。その目に囚われた華子は、昨夜飲んだカクテル『ホワイト・リリィ』の味を思い出していた。
『辛口リリィ』――。まさに一目でそれを思わせる人だった。
Update/2010.5.22