横須賀御園家で目覚めてから、御園大佐の指示は慌ただしい。
昨日の服のまま、顔も洗わせてもくれずに、大佐は『まずは朝飯』と華子を寝室から引っ張り出した。
リビングには優雅な朝食が用意されていた。
パンケーキに、サラダ、スクランブルエッグ、そして英国茶器が当たり前のように置かれているテーブル。
どうやら目が覚めた時の甘い匂いはこのパンケーキだったようだ。
制服姿の御園大佐は『今から忙しい、覚悟してくれ』と怖い顔で言っているのに、その側では、黒髪をひっつめている優しそうな御園家御当主夫人がゆったりとした笑みを湛え紅茶を入れてくれていた。
「まず、食事が終わったらシャワーを浴びて待機。俺が乗る予定だった横須賀基地発の定期便はキャンセル。午後、違う飛行機で一緒に行こう。華ちゃんの旅行用品は午前の内に『うちの者』が揃えるので心配なく。申し訳ないが服と下着類はこちらで勝手に揃えさせてもらう。希望の化粧品だけ教えてくれ」
「え、揃えてくれるって? それに飛行機はどこから?」
聞き返したら、大佐は『早く食べて』とまるで仕事でも言いつけているかのようにキビキビと厳しい顔。
「もう、隼人君。朝ご飯ぐらい、ゆっくり食べさせてあげなさいよ」
「あ、すみません。お義母さん。ついつい」
お姑さんはそう咎めながらも、ゆったりにっこり。それだけで、厳しい顔つきになった御園大佐の表情が和らいだ。やはり婿養子はお姑さんには弱いようだった。
「華子さん、うちの隼人君はとおっても面白いのよ。今は戸惑うばかりでしょうけど、この際、おもいっきり任せてみても損はないと思うわよ」
お姑さんが、さらににっこり……。
婿殿が銀座の女を連れてきたのに。娘の婿が知らない女を連れ込んできたのに。その余裕ったら……。
「ただいま〜」
今度は玄関から男性の大きな声が聞こえてきた。
「お父さんが帰ってきたわ」
この家のお父さん――! つまり御園家の御当主様が来たという知らせに、華子の背筋が今まで以上に伸びた。
顔も昨日の化粧のまま、シャワーも浴びていない、服もくちゃくちゃ。こんな『失態』、夜の蝶として許せない格好で、御園家御当主様と初対面だなんて! 華子は顔を覆った。
「お、彼女もお目覚めだね」
リビングに現れたその人は、栗毛の背が高い外人のような男性。体格が良く、何故かジャージ姿。
「お義父さん、おかえりなさい。ジョギングを続けられているってすごいですね」
「どうも退官して腰の手術をしてから身体がなまりっぱなしでね。元より身体を使った仕事をしてきたわけだから、落ち着かなくて」
「ジョギングやウォーキングを続けているだけでも全然違いますよ。俺なんか、甲板を降りてから何かトレーニングしているってわけではないですから、見習わないと」
どうやら朝のジョギングからお帰りらしい。そんなお父様と華子の目があってドッキリした。
「おはようございます。あの、ゆうべは突然、ご迷惑をおかけしたようで……、申し訳ありませんでした」
頭を下げ、顔を上げると、そこにはやっぱりにっこりしているお父様とお母様が揃って『気にしないで。お客様大歓迎』と、穏やかに華子に微笑む。
「お父さんは、元陸官。退官するまでお父さんの武術で勝った若者はない。お母さんは軍で科学博士をしていたんだ」
ああ、やっぱり。ハイグレードなご家族ってことなのね、と、華子もため息をつきたくなった。
つまり、このご両親の娘であるお嬢様は、そんな両親から生まれ育ってきた。そんな良き環境で――。そう思ったら、急に憂鬱になってきた。
「華子さん。うちのお父さん、彼に似ているでしょ」
お母様が急に、隣にいるお父さんの身体に寄り添い、華子に話しかけてくる。
「似ているって。どなたのことでしょか……?」
こんな外人みたいな男性、知り合いにいないし……。今はご年配だが、若い頃はかなり美男だっただろうと華子でも想像が出来る顔立ち。そんな知り合いもお客ではいるが、聞かれるほど親しい者など……。
だがそこで、お母様が思わぬ男の名を呟いた。
「ほら。鈴木大尉よ。私、この前、彼に初めて会ったの。若い頃のお父さんにそっくり。逞しい身体をめいっぱいに使って、自分の使命に情熱を傾けている。あの子の黒い目、真っ直ぐで素晴らしかったわ。あんな目を久しぶりに見たの」
英太を知っている。そしてその英太と華子が縁が深いことも知っている。
ということは……。と、華子は御園大佐を見た。
すると目が合った大佐は、なにもかも分かっている顔で微笑むだけ。
つまり。全て、このご両親には説明済み――ということらしい。
「小笠原での鈴木君をその目でみてきたらいいよ。特に一般人が空母での実戦訓練を見ることはなかなか出来ないんだ。広報として行われる航空ショーとはまったく異なる、彼等の使命である防衛の本分を目にすることが出来るんだから」
「そうよ、いってらっしゃい。それが英太君の本当の日常よ。貴女の大事な家族なのでしょう。家族ってね、わかっているようでわかってないこといっぱいあるのよ」
ご両親の優しい言葉。
だが、華子は胸の中が荒れ始めていた。
婿が酔っぱらった銀座の女と呑んでいて一緒にいたのに。連れて帰ってきたのに。その物わかり良い理解――。やっぱり、この人達はなんでも余裕でいられるから、なんでも受け入れられて、優しくできるのだと――。
もしこれが感謝している御園大佐の家族でなければ、大佐を困らせる悪さをしてご両親を失望させることを面白がってしていたかもしれない。
「別に、英太は英太ですから。彼が好きなように生きていれば、私はそれでいいんです。だからわざわざ小笠原に見に行かなくても」
そんなことが目的だったのかと、華子はがっくりした。
また、余裕で裕福な人間達の『おしつけがましい、正当なオススメ』が語られそうだ。『大事な人なのだろう』、『彼をその目で見て、今の自分を振り返ってみなさい』とかなんとか。
そしてこの御園大佐――。彼がそんなもっともらしいことを言いそうな気がして、ついに華子は再度目が合った大佐を睨んでしまっていた。
だが、大佐はそこでまたもや『待ってました』とばかりに勝ち誇った笑みを華子に見せつけたのだ。
「そうそう。華ちゃんにとって英太がなにしていようが関係ないよな。でも、英太がどんな年増女に入れ込んでいるか、それは気になるだろう? 英太が吸い込まれてしまった離島の不思議、見てみたいとも思わないか」
ご両親の目の前で、なに憚ることなくなにもかもを口にした大佐の大胆さに、流石の華子も仰天した。
ご両親を目の前にして婿養子のくせに彼等の娘のことを『年増女』と言い放ち、そのうえその娘が若い部下のパイロットに好かれていることを平気で。
だけれどやっぱり、ご両親は笑っているのだ。なんか、金持ちって感覚おかしい人多いと、華子は御園夫妻をそちらの人種だと見定めたくなってきたほどに。婿がすることをただ受け入れている。
しかし御園夫人が優しく呟いた。
「たった一人で苦しむことはないわ……。たった一人で彷徨う若い子を見るのが、私は今でも辛いの」
エレガントなティーカップに紅茶を注ぐその横顔が、急に陰りを帯びたのを華子は見た。
「早く食べて、シャワーを浴びて部屋で待っていてくれ。今日、着ていく服がそのうちに届くから」
そんなお母様の泣きそうな横顔から関心を逸らすかのように、御園大佐にまた『早くしろ』と華子はまくし立てられる。
優雅な食事だったが、奇妙な気分だった。でも……。
「お母様、ご馳走様でした。とても美味しかったです。このところ、ずっと一人暮らしで一人の食事だったので……。あの、パンケーキがとっても美味しかったです」
豊かな暮らしをしている一家に紛れたことは、とても居心地が悪かったのは確か。でも華子は、素直に思えたことを夫人に伝えた。
するとまたあの優雅な笑顔で夫人が言った。
「嬉しいわ。葉月も孫達も。私のパンケーキが大好きなの」
本当に嬉しそうな笑顔だった。だが夫人は最後にあの暗い顔に一変――。
「死んだ娘も大好きだったわ。生きているはずだった皐月も……」
夫人は気が付いていないかも知れないが、途端に恐ろしい凍った顔になったのだ。
その様子に華子はわけもなく胸を突かれた。
そう言えば――。確か、御園大佐の義兄にあたる谷村社長が、姓は違うのに何故『義兄』かと言えば、結婚する前にこの家の長女と婚約していてそこで子供を授かったからだったはず……。でも長女が亡くなったので、御園家の籍には入らなかった。でも生まれた忘れ形見の子が御園として育てられたと。優美子ママから聞かされていたのを思い出した。
でも、今の夫人の顔は尋常じゃないと思った。娘が病死したとか、そういうものではないような、何かを憎んでいるような顔?
――『死んだ娘』。
大佐に助けを求めるように視線を向けたが、彼がうまく流してくれとばかりに、小さく首を振ったのが見えた。
「またご馳走になりたいです。今度、作り方教えてくださいませんか。英太にも食べさせたいし、闘病中の英太の叔母にも食べさせたいです。私、彼の叔母さんにはとてもお世話になったので」
「ええ、よろしいわよ。いつでも隼人君に連絡してちょうだい。そうね、英太君と一緒にいらっしゃいよ」
どうやら夫人は、余程に英太がお気に入りのようだった。そして華子もそこは『はい』と笑顔で返事をした。そうしたら、夫人もとても嬉しそう。
それどころか、そんな華子がいる席にやってきて、ぎゅっと華子を抱きしめてくれたのだ。もうどうしてそうなっちゃうのかわからなくて、華子も戸惑う……。
「いい。貴女は一人じゃないのよ。たった一人になってしまったと思ったら、いつでも私が貴女のことを忘れずに気にかけていることを思い出して。その時はすぐにこの横須賀のマンションを遠慮なく訪ねてきなさい。いつでも待っているわ」
どうして? どうしてこうなっているの? さらに華子は困惑。
だけれど……。部屋は甘いパンケーキの匂いにつつまれ、食卓は賑やかで、そして夫人は柔らかく……。なによりも、懐がとても居心地が良い。春美が闘病生活に入ってから久しく、華子は女性の胸に甘え安らぐ時がなくなっていた。そう思ったら、いつの間にか目頭が熱くなっていることに気が付いた。こんなことって……。
でも御園のお母様は、そうして華子を抱きしめ、頭を優しく撫でてくれていた。
若い娘が、自分の死んだ娘に見えるのだろうか? わからないけど、夫人は特に年若い娘には敏感のよう。御園大佐がここに華子を連れても平気だったのが、いや、ここだからこそ華子を連れてきてくれたのではないかと思えてきた。
食事が終わり、御園夫人がシャワーを勧めてくれる。
その時になってやっと、大佐が華子の側に来てくれた。
「また後で話す」
バスタオルを準備してくれた大佐が、手渡す時にそっと華子に呟いた。
その顔がまたかなり厳しくて、そして大佐はご両親に聞こえないよう気遣っていたのがわかった。
この一家になにかあると思った瞬間だった。
しまった。自分の中が酷く濁って凝り固まっていると華子は感じた。
人が笑っていても、その影になにを背負っているかなど、一目で判りはしないことなのに――。決めつけて、羨んで。
そうだ。良い機会。やはり小笠原についていこう。英太が夢中になった小笠原を御園家を私も見てみよう――。そして英太のことも。
華子自身、凝り固まるあまり現在の自分は『疲れている』と自覚できた気になる。
・・・◇・◇・◇・・・
支度を終えると、すぐさま出発。
優しい御園のご両親に見送られ、華子は御園大佐と共に地下駐車場へ向かう。
そこに行くと、黒塗りのベンツに黒いスーツ姿の外人男性が待ちかまえていた。
「ジル、急いでくれ」
「心得ております。本日の操縦はナタリー自ら」
「そうか。それはいいな」
それだけ聞いて、華子の身体が硬くなる。
本当にこの人は資産家のお婿さんなんだと……。その会話で『違う飛行機に乗る』ということがなんなのかわかった。つまり『自家用機』で小笠原に向かうのだと。
「今から調布の飛行場に行く」
やっぱり……と、華子は絶句。なんだか御当主のお父様といい、この部下のような男性といい、どうやら御園家は日本に限らず国際的組織でももっているかのよう?
そんな戸惑う華子に構わず大佐は『急いで』と急かし、後部座席へと座った。
彼と並んで座ると、黒服の男性が丁寧にドアを閉める。
「いや、良かったよ。そっちの幹部が東京に集合していて」
「チーフが滞在している都市に集まりやすいんですよ。なにかとサポートが必要になりますし」
「今日、ジュールは小笠原? それとも東京?」
「いえ。数日、能登の系列をチェックし、それからまた小笠原に戻るとかで」
「能登か。あそこのホテルもそろそろ建て替えかな」
「そうですね。その視察も含まれているようでしたよ」
男二人の会話が、まるでどこか違う国の男達の会話に聞こえ、華子は退屈だった。
確かに、御園大佐は御曹司みたいなもの。でも、そういう男も沢山見てきて、そんな男達はいつだってこんな自分達の持ち駒をどうするかの話をしている。そんなところも、男って同じだなと思ったのだ。
そのうちに大佐は、システム手帳を膝の上に広げ、携帯電話を片手にあちこちに連絡を取っている。
週明けの月曜日。急に帰る予定を変えたので、そのスケジュール変更に追われているようだった。横須賀の工学科や小笠原の大佐の科長室にも連絡をしている。
「吉田、俺だ。昨夜は急な連絡悪かったな。それで頼んだとおりに……。そうか、有り難う。ああ、わかっていると思うが、うちのやつにはまだ言うなよ。勿論、テッドにも。そうそう、英太にもまだ知られたくない」
その言葉には華子も反応した。
大佐が電話を切ると、見つめている華子に気が付いたようだった。
「吉田が初めて華子ちゃんに会えると楽しみにしていた」
「吉田さんが……」
「うん。華ちゃんが基地に入れる許可の手続きを頼んでおいたんだ」
いつも電話口で優しい言葉をかけてくれる吉田大尉に会えるとわかって、華子も少し楽しみになってくる。
「さて。あとは四日の間に空母に乗れるか乗れないか、だな」
「空母に乗らなくても、陸から見えないの?」
「雷神は海上で訓練するから、陸からは見えないな」
「御園のお父様が、なかなか乗れないって……」
大佐でも『そこなんだよなあ』と、唸っているではないか。それが最大の目的のはず。
どうでも良いと思っていたし、英太がなにも言わないで頑張っているんだから、それで大丈夫だと信じていた。でも……いざ、小笠原に行く決意を固めると『実際に飛んでいる英太を見られる』という期待が高まっていたようだった。
「やっぱり、ここは大隊長の葉月に頼むのが一番早いな。でも、どうかな。あいつ、それは違うと思ったら容赦ないからな」
なんて。奥様が上官だからだろうけど、それにしてはなんだか頼りない旦那様?
でも無理もないかと思う。大佐と奥様は夫妻なんだろうけど、でも夫妻だからの一言で基地での厳しい決まり事に対して緩くなるのは、管理職としてプロとは言えないのだろう。
その様子だと、基地ではきっちりと『准将と大佐』で上下関係も弁えている様子だった。
「じゃあ、空母に乗れなかったら、どうやって英太の訓練をみられるっていうの?」
思わずそう聞いたら、大佐がニンマリとした笑みを見せた。
「そうか。やっぱり英太が毎日、どんな訓練をしているか見たくなったか」
「……べ、別に! 大佐が見ろ見ろって言うから、小笠原に行くならそれしかなさそうだから心配しただけよっ」
まだ素直になれなくて、華子はまた強がりの口をきいていた。勿論、もう既になんでもお見通しだろう大人の大佐は、可笑しそうに笑っていたのだが。なのに、急に、彼の眼差しが陰り、どこか寂しそうな笑みを浮かべた横顔を見せられた。
「空母の甲板から戦闘機は空へ飛ぶんだ」
「知っている。時速何百キロ以上も出るスチームカタパルトとかいうのが滑走路の代わりで、それで飛ばされるんだって、英太も言っていた」
「英太も、うちの奥さんも、そこから空に飛んでいた……。俺は今は事務職だけれど、その前は甲板で戦闘機を整備したり、そのカタパルトから戦闘機を飛ばしたりしていたんだ」
「え、大佐って……。工学専門の学者さんじゃなかったの?」
「ああ、元はメンテナンス専門の甲板要員だったんだ。そう、毎日、葉月が乗っているホーネットを空に見送っていた……」
それを聞いて、華子の脳裏に甲板で見つめ合う女性パイロットと整備員の男性が浮かんだ。そんな繋がりがあって、二人は惹かれ合っていったのだと、自然に想像することが出来たのだ。
「甲板は、海軍の空部隊員にとっては、そういう純粋な場なんだ」
「純粋な……場所?」
「雑念があると事故を起こす。命に関わる。だから必死に気持ちを純粋にして、そこにいるチームメイトと繋がっていく」
「はあ、よくわからないけど」
よく耳にする言葉としか思えなかった華子には、綺麗事にしか聞こえなかったのだ。
だけれど、また、御園大佐の横顔が厳しくなったのを見て、華子はハッとさせられた。
「華ちゃんも、甲板に行ったら目の当たりにするだろうから、今の内に言っておく」
大佐の大きな黒目が、華子を射抜いた。それだけ強く訴えるもの。その目で大佐が言う。
「甲板での英太と葉月を見たら、何処にも俺達が入る隙がないと思うだろうね」
何故か、その言葉に華子はビクリと固まった。
「大袈裟だよ、大佐ったら」
でも。元甲板にいた男が、しかも妻をまだ甲板にいさせている男が夫が、今目の当たりにしている現状を語る眼差しに嘘はないと感じるしかなかった華子。
「本当のことだ。現に俺は、それを目にする度に……」
その目で大佐がはっきりと言い切った。
「俺はそれを目にする度、肌で感じる度に、俺よりずっと若い青年に嫉妬している」
それって英太のこと? それほどに、甲板では英太と奥さんは強く結ばれているの?
言葉にならない華子だったが、それはどうしてか初めて感じる衝撃だった。
幼馴染みの英太が他の女と関わっても、人妻に焦がれていても、華子は何も感じなかった。
なのに、どうして? 今、ここで感じたのはなに? ……わかっていた。それは『大佐と同じ嫉妬』を華子も感じてしまったのだと。
そして大佐はさらに言った。
「何故、嫉妬すると思う? 子供にも恵まれ結婚十二年。俺と妻には揺るがないものがあるのに、何も持っていない青年に嫉妬するのは」
華子も急に抱いた『大佐と同じ嫉妬』。でも大佐自身は既に、その『嫉妬』がなにであるか分かっているようだ。
「なにもないからだ」
「なにもない?」
「そう。英太は甲板だけで葉月と繋がろうと必死だ。何故なら俺が葉月とは『夫妻』という強みがあるのに対して、英太にはそれしか葉月と唯一無二になる術がないからだ。身体が欲しい心が欲しいなんてよこしまな心を一切捨て、飛ぶことだけで葉月と繋がる。それがあまりにも純粋すぎて俺は負けそうになる」
道路を疾走する車の窓から見える空を、大佐が致し方なさそうに見上げた。
「その時俺は、夫妻という特権を疎ましく思う。妻と日々流されるように家庭を営み、当たり前のようにセックスが出来る関係の何処が勝るのだろうかと。英太には甲板で純粋に磨き上げられることでしか葉月と絡まる術がない。結婚や同棲で二人だけの居場所を営む誓約を得る日もやってこない、セックスで彼女を奪いたいと思う希望も持ってはならない、ひたすら邪念を振り払う。たったひとつ『飛ぶ』ということでどの男も入れいない聖域を造りあげ、そこで葉月を放さない――」
それを見るんだ。甲板で。
大佐の黒い大きな瞳が、切なく揺れたのを華子は見た。
「そして、それが凄いと思うんだ。なにもないあいつが飛ぶことだけで恋をしているその姿が。だから俺は益々英太には負けたくない。夫妻という強い関係があると甘んじていたら、俺はそこに甘えて力を抜けきったそれだけの男で終わっているわけだ。俺も純粋に男としていなければ……その上で夫であり父親でありたい。それでこそ、絶対に葉月を手に入れられない英太の純粋な憧れに見合う恋敵であると思うんだ」
こんな大人の中年男性が、そんな瑞々しい気持ちを吐露するだなんて……。驚きだった。でも実はそれが華子のために誰にも垣間見せない大人の男の気持ちをみせてくれているのだと素直に通じてきた。それだけ、大佐が華子と真っ正面から向き合おうとしてくれているのだと……。
大佐の年齢など思わせない熱い本心を知って華子も思う。
その英太をみたい。そうさせている大佐の奥さんをみたい。そしてその甲板での、誰も寄せ付けない二人だけの絡みを、『純粋』とかいう大層な男女関係を見てみたい。
大佐は『純粋』とかいうが、華子にはやはり単なる男女関係にしか思えないのだが。
でもどうしてか胸騒ぎがしていた。なにもかも見尽くしてきた気がしていたけど、なにか知らないものを見られそうな予感――とでも言おうか。
だけど、ふと気が付くと、空を切なそうに見つめていた大佐の目がもう楽しそうに笑っていた。
「でも、どうしてかな。最近、そういう自分の中で感じる嫉妬すら、楽しくなってしまったんだよなあー。なんでだろう」
華子は呆気にとられる。やっぱりこのおじ様大佐は、かなりの変わり者なんだって。本気でそう思った。
Update/2010.5.8