-- メイビー、メイビー --

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12.おじさんといっしょ

 

 その笑顔は大人の男なのに、とても陽気で無邪気。葉月さんが思いっきり笑ったら、きっとこんな輝く顔になるんだ……。そう思わせる光の笑顔。
 なのに一緒に並んでいる父親ったら、いつもの『おもたーい顔つき』。しかもそのおじさんが『いつもの如く』、英太に鋭い目つき。その目を見て、英太も負けじと睨み返した。

 親子ほど歳が離れている男二人が奇妙な火花を散らす。それが毎度の挨拶?

「もしや、お前か。あいつに、ブラックリボンを最初に食べさせたのは」

 おお、流石鋭いお察しの黒おじ様。だが英太はそこで、思わずニンマリ。
 実はこのおじさんといつも張り合っている。……じゃない、黒いおじさんの方が若い英太にムキになる。

「あれー。もしかして、義妹さんへのお土産ですか。すいませーん。義妹さんのチョコレート係である義兄さんの先を越しちゃって」

 基地でも一目置かれ、ある意味では畏れられている『御園家の社長』が、青年の言葉に顔をしかめた。

「ほほう。で、お前。また土産にと並んでいる訳か。これは見物だな。雷神のエースが女上司の為にこーんな女性客ばかりの列に並んでいる姿と言ったら」

 すると何を思ったのか。黒猫のおじさんが急にポケットから携帯電話を取り出して、英太に向けて構えた。

「妹にこの画像をメールしてやる。お前の苦労をきっとわかってくれるだろう。明日、お前が望んでいる通りに、葉月はきっと微笑みかけてくれる」

 カシャ。という撮影音が冗談でなく本当に聞こえたので、英太は思わず『わーー』と飛び上がる。
 しかし、これからが『おじさん』とのいつもの『張り合い』。
 こちらも負けじと、胸ポケットから携帯電話を取り出し、黒いおじさんへと構える。

「俺だって。社長が可愛い妹さんのために女性客と一緒に並んでチョコレートを必死に買いに来たのに、日頃の威厳もどこへやら。実は恥ずかしくてたまらないところ、送ってやる」

 一瞬、カチンときた顔をした谷村社長。だがすぐさま『にやり』と勝ち誇った顔になる。

「お前、馬鹿じゃないか。妹のアドレス、知っているのか?」

 思わず『あ』と固まる英太。
 葉月さんのアドレスどころか、仲良くしている隼人さんの携帯番号も知らない。

 社長が高らかに笑った。
 そうしたら周りの女性達が目を丸くして服装が目立つ英太と、いい歳して若い男子と張り合っているおじさんを眺めている。
 はっと我に返ったのは英太だけで、黒おじさんはこんな時は余裕で『だからなんだ』とニンマリと笑っている。これが恥ずかしくないなら、女性が沢山いる中、並ぶことぐらいなんともないはずなのに。変な社長! と、言いたくなる。
 しかし携帯電話を取り上げたのは英太の手ではなく、栗毛の息子。彼が呆れた顔で父親を見ている。

「ったく。なにやってんの、親父ったら。息子の俺と歳も変わらない青年となにムキになって張り合っているんだよ」
「こいつは特別」

 谷村社長が無表情に短く呟いた一言。息子の真一さんは『はあ?』と訳がわからない顔をしている。だけど、英太にはその『特別』がなんであるか分かるので、おじさんと喧嘩する気持ちが失せてしまった。

「俺は降りる。英太とお前が買って、葉月に渡せばいいだろう。いつもの4階のカフェで待っている」

 英太の目を見て、谷村社長はさらりと身を翻し、女性客の列に背を向けてしまった。
 いつも通りのどっしりとした風格で、黒いジャケットの裾を翻し去っていく彼の背中。英太はそれを見て『あの引き際』に心の中で謝っていた。

 父親に置き去りにされ、真一さんが顔をしかめる。

「まったくー。葉月ちゃんが新しい店のチョコレートをすごく気に入っていたから、土産に買いに行くと言いだしたのは親父なのに」
「いいえ。あれは、俺に譲ってくれたんです」
「譲る? なにを?」

 初対面の甥っ子さんにはまだ明かせなかった。
 でも英太には谷村社長の、あのぶっきらぼうな接し方の中に潜む兄貴心みたいなものが分かっていた。

 ずっと同じ一方通行にしか愛せなくなった男の、そんな苦しさや、足掻きを一番分かってくれるのは、あの社長が一番だった。

 

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

 ショップバッグを手にして、エスカレーターに乗り込む男が二人。

「アメリカ留学から帰ってきたんですか」
「うん、そう。やっと日本に落ち着けそう」

 御園家の婿殿である隼人さんや海野准将と親しくしているだけあって、英太はそれなりに御園家の現状を知っていた。
 その中で、葉月さんの甥っ子であるこの真一さんが、大学病院勤めを経て、鎌倉にある谷村の実家が経営している医院を継いで、そこで心療内科で開業したことも。それを機にアメリカに留学したことも。

「鎌倉の父方の実家で開業しているんだ。良かったら、顔を見せてよ。なんでも話を聞くよ」

 同世代の男同士、並んで乗っているエスカレーター。そこで唐突に、真一さんが名刺を差し出していた。

 突然すぎて英太はあっけに取られていたが、これってすごい『さりげなさ』?
 自分の職場に遊びに来いって言っているようにも聞こえたし、そこが心療内科だからこそ英太に来ても良いと言っているようにも聞こえた。それってつまり?

 じゃあ、こちらも唐突に言ってみるかと、英太も心を決める。その名刺を受け取りながら……。

「俺のこと、ご存じなんですか」
「うん。叔父の隼人が子供達と一緒にパイロットの君と親しくしていて、妻の、えっと、俺の叔母だね、叔母の葉月みたいにならないかって心配していたもんだから」
「あー、そういうことですかー」

 あのおじさん。余裕見せていて、実は直属の上司である葉月さんより、繊細というか心配性というか。英太の過去のことを誰から聞いて、その人がとても案じてくれ尚かつ相談したかのか。それが誰なのか、英太もすぐに察することが出来てしまう程に。

「あの叔父はね。昔からああなんだ。すごく人に対してきめ細かいの。そうでなくちゃ、あの訳のわからない表情がない叔母の心の中をわかること出来ないでしょう」
「確かに。准将はなに考えているか解らない顔をしますね」
「まあ、甲板ではそれが仕事の顔なんだろうけどね。俺、一緒に小笠原にいた時はまだガキだったから、葉月ちゃんって今なにをかんがえているんだろう……って、いつもじいっと彼女の顔を見ていたよ」

 そんな若い時からあの顔だったのかと、英太の胸が痛んだ。
 受け取った名刺を見て、そして同じ栗毛をもつ彼女の甥っ子の横顔を見る。
 にこにこしているが、不思議と、そんな叔母の話をした後の彼の瞳が陰って見えた。彼も御園の悲劇をその目で追ってきたのだろう。悲哀の影を英太は見たのだ。

「あの、名刺に『小児心療内科』ともあるんですが」
「うん。小さい心を痛めてしまった子とか、そんな運命を背負って生まれてきた子達を見てあげようと思って」

 それってやっぱり。そういう叔母を持ってしまった甥っ子の願いなのか。英太にはそう見えた。

「成人した患者もいるよ。幼少期や少年期にそういう傷を受けてそのまま成人した……そういうケースも多いでしょ。そんな人も見てる。うちには先輩格の優秀な精神科医がいたんだけど、今、海外にいってるんでね」

 明らかに。英太が少年期に遭遇してしまった悪夢について触れているのがわかる。
 だが、英太は隼人さんから聞かされていた。『甥っ子は、小笠原の医療訓練校でも手先が器用で外科医向きと期待されていたのに、幽霊が逮捕されたのをキッカケに精神科を選択してしまった』のだと。それが叔母を見守っていくための選択であったとも、叔母が如何に深い傷を内面的に負ってしまったか、それを目の当たりにしたことが衝撃過ぎて見過ごすことが出来なかったのだと。

「別に診察に来いって言っているんじゃないよ。なんでもいいから、話したくなったら、同世代の男同士。叔母と暮らしてきた少年期をもつ者同士、いろいろ話そうって誘い」
「そうっすか。有り難うございます。一度、鎌倉もじっくり回ってみたかったんで」
「おいでよ。うちの界隈、古い土地柄だから良い雰囲気味わえるし、美味い店も教えるよ」

 肩肘張らない誘いで、英太も心が解れてくるのがわかった。
 その陽気な笑顔のせいか。それともこれが精神科医の接し方なのか。どちらにせよ、彼のキラキラしている瞳を見ているだけで、こちらも笑顔になってしまいそうだった。

「ええっと、あの。俺以外にもちょっと気になる少女期を過ごした知り合いもいるんですけど……」
「ああ、勿論。彼女がその気なら連れておいでよ。立場上、本人が話さない限りうやむやなアドバイスはしないことにしているんだ。叔父にもそう言った」

 なるほど。本人が相談に来る以外は下手なことは医師としてアドバイスしないと言ったところらしい。
 隼人さんも英太のことを心配して質問はしたが『本人の話を聞かないと、何とも言えない』と返事をしたようだった。
 だからか。だから今日、本人の英太に会えたから、挨拶ついでに『良かったら』と誘ってくれたのか――。
 それに気になる彼女のことも、同様で本人を連れてこないと話は聞かないといったところのようだ。『彼女』とは華子のことだったが。話したところで、あいつは『心療内科、冗談じゃない! 私は平気よ!!!』と怒りそうだな……と、英太は思ってしまった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「やっと来たな。待ちくたびれた」

 いつもこのデパートに来た時に、華子と立ち寄る流行のカフェとは違う、中高年向けの高級感あるカフェにやってきた。
 クラシックが優雅に流れている静かなカフェには、ショッピングの合間にお茶でくつろぐ壮年夫妻に中高年の女性客ばかり。しかしインテリアは重厚な高級感。華子と来たら、このお上品なオーラで入り口にて回れ右をするような『大人のカフェ』。
 その奥のテーブルで、文庫本片手にエスプレッソでくつろいでいる谷村社長を見つけ、真一さんと一緒に席に着いた。

 俺は結構ですと、真一さんに誘われて断ったのだが。あの陽気さで『いいじゃん、いいじゃん。俺、英太君と話したかったんだよー』なんて憎めない笑顔で、でも強引にひっぱられ、ついつい後をついてきたしまったのだ。
 だが谷村社長はそんな英太がひっついてきても驚きはせず、息子がつれてきて当たり前みたいな顔をしていた。
 それが証拠に。真一さんと英太が席に着くなり、自分からウェイターを呼んでくれ。

「英太は珈琲は何でも良かったな」
「ブラックならなんでも」
「エスプレッソを二つ、カフェオレを一つ。真一、お前は他には」
「じゃあ、ケーキをひとつ」

 父子がさっさとオーダーをしてしまった。

 どうやらエスプレッソは社長のおかわりと英太に、息子さんはカフェオレが好みのようで、それぞれに頼んでくれた。
 なんだかんだ張り合っても、何度も食事の席が一緒になったこともあるので、社長は英太の好みもすっかり承知。当然、息子さんの好みもわかっているようで、オーダーの手際の素晴らしいこと。

「せがれは、葉月と一緒にいた時間が長かったもんで、すっかり甘党に育ってしまってな」
「うち、鎌倉は女系家族なんだよねー。レイチェル曾祖母ちゃんの威厳がでっかかったせいもあって、女が強いんだ。俺、鎌倉で谷村の祖母ちゃんや鎌倉家のお祖母ちゃん、それに鎌倉家のおばちゃん達に囲まれていたから、食べるものが女っぽいって言われたりする」

 あー、なんとなくわかるなあ……と英太。
 自分も、春美叔母と華子という女達のかしましさが側にあっただけに、甘い物はそこらじゅうにはびこっていた。でも、そこで英太は甘党にはならなかった。

「うちも女がいるんで、甘い物が多いんですよね。俺は苦手になったほうかな」
「俺、それに染められちゃった感じ、洗脳とも言うかも。とにかくおばちゃん達、元気なんだもんな。鎌倉の女系パワーはすごいよ」
「ミセスはその血を継いでいるってことなんですね」
「きっとね。でも葉月ちゃんは末娘だから、まだあれで全然大人しい方だよ。他のおばちゃんとかお祖母ちゃん達はもっと、ねえ、親父」
「まあな」

 いつもの渋い無愛想さだったが、社長もそこは一応婿殿? 御園家の女性達についてとやかく言えるのは、御園家本筋である息子だからこそ。または子供の口だからこそ言えるのであって、自分はいえるわけがないと静かだった。

「すごいっすねー。御園家の女性達って。あのミセスで『まだまだ』だなんて……」
「でも、一番すごいことやらかすのは、葉月ちゃんなんだけどね。ね、親父。俺達、昔からハラハラしてきたもんね」
「まあな」

 また、そういう素っ気ない返事を……。英太は顔をしかめる。
 どうやら陽気にしてくれる息子がいれば、自分は特に言うことナシという様子だった。

「御園の女って、やっぱり皆、レイチェル祖母ちゃんの影響でかいんだよね。俺の母さんもすごかったみたいだし……」

 そこでやっと、軽やかだった真一さんの言葉が途切れ、声が沈んだ。
 彼の母親が酷い亡くなり方をしたのを、英太は良く知っていた。それが葉月さんと初めて分かり合えた時に知ったことだったから、昨日のことのように英太は覚えている。
 あの時の重み、息苦しさ。過呼吸になって床に崩れた時の、葉月さんの歪んだ顔を今でも忘れていない。あの苦しさが、そんな女性から産まれてきた、とても陽気で無邪気そうな笑顔をもつ息子にさえ、影を落とす。

「こちら、本日のケーキです」

 先程のウェイターが銀のトレイに乗せたケーキのサンプルを持ってきた。

「じゃあ、モンブランで」

 もう無邪気な笑顔。少年のようにケーキを選ぶ長身の精神科医。なんか不思議な雰囲気。葉月さんとはまったく違うムードなのに、確かに惹き付けられるものがある。これが御園のオーラってやつなのかなあと、英太は目を丸くしていた。

 やがて持ってこられたモンブランを大きな口でほおばった息子を見て、社長がしかめ面に。

「見ているだけで胸焼けがする。女が可愛らしく頬張っているならともかく、こんなでかくなったボウズが食べていると余計に」
「そんなことを言って。菓子作りが趣味になっている海人に嫌われるぞ」
「海人は俺でも食べられる菓子を作ってくれる」
「へえ。また腕を上げたのかな。今度は帰ってきた従兄の俺になにを作ってくれるかな」
「兄ちゃんが帰ってくると張り切っていたぞ」

 そっか。歳は離れているけど、海人と真一さんは従兄弟同士になるのかと、やっと気が付いた英太。
 そして谷村社長も、可愛がっている甥っ子のことを思うと、笑顔になってしまうようだった。

「もう少ししたら、俺達もここを出て空港に行かねば」
「英太君もどう? 俺も小笠原に行くんだけど、帰国したばかりなんで、暫く親父のマンションで羽を伸ばすんだ。一緒にうちのセスナで小笠原に帰らない?」

 急な誘いに英太は『いや、そんな』と固まるばかりだったが。

「そうしろ、英太。今から横須賀に向かっても、慌ただしいばかりだろ。乗せて帰ってやるぞ」

 社長もいつになく親身。だが確かに。今からお茶をご馳走になって電車に飛び乗ってもギリギリの時間になりそうだった。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 そこで父子がやっと笑顔を揃えた。共に顔を見合わせたその笑みと言ったら……。

「やっぱり似ていますね! 社長と真一先生」

 そう思ったから、英太もそのまま告げたのに。父子は互いにびっくりした顔すら揃え、さらに『まさか!』だなんて口も揃え、これまた同時にそっぽ向いた。

「いいすね。親父と息子って」

 これも素直に言ったのに。英太が言うとなにか思うところあったのか谷村父子がちょっと神妙になってしまい、英太も『しまった』と思った。
 でもだからだろう。また父子は揃って微笑んでくれた。
 葉月さんを苦しめていた犯人をずっと海外で追っていた谷村社長、その間、小笠原で叔母と一緒に暮らしていた息子。そう聞いている。
 父親に殺されかけ、でも父親に生かされ、でも孤独にさせられた息子。その英太に言われ、父子は今共にいることを噛みしめてくれたのだろうか。
 ――ちょっと羨ましかった。

 

・・・◇・◇・◇・・・

 

「俺さ。葉月ちゃんにもう一つお土産。香りが良い入浴剤を探してくるよ。隼人兄ちゃんに負けないお気に入りを見つけてあげるんだ。すぐに戻ってくるから」

 モンブランを食べ終わると、真一先生は父親に小言を言われる前に颯爽と出て行ってしまった。

「まったく。いつまでも叔母っ子でな」

 谷村社長と二人きりになってしまったのだが。普段は無愛想なおじさんから話を振ってきてくれた。

「俺だって、叔母っ子ですよ」

 いや。あそこまでではないなと、英太は思う。
 叔母と一緒にいたからって甘党にはならなかったし、叔母のことを考えて香りがよい入浴剤をお土産にだなんて考えたこともない。
 葉月さんと真一先生は、それだけ二人で寄り添ってきたということなのだろう。

 そんな英太の社交辞令的に合わせた返答を見抜いていたのか、谷村社長は一息つくように珈琲カップを傾ける。

「英太、お前……。本当は叔母御と二人きりではないのだろう。叔母御を任せられる彼女がいるとかいないとか」

 春美はもう終末ホスピスにいて、歩くのもやっとなのが現状。本当だったら、介護も看病も施設に任せきりというわけにはいかないところ。なのに、英太が離島勤めをしていられるのも、信頼できる人間『華子』がいるからだ。それをおじさんが知っている。春美とべったり叔母甥という関係ではないのも、英太以上に春美にべったり妹分である華子の存在があるからなのだろう。それが言いたいようだ。
 工学科科長が家族まで気遣ってくれることは鈴木叔母甥と華子の間では『ありがたい』ことで感謝をしている。それ程に御園大佐という男性と英太は、プライベートでも親密になっている。それを大佐の義兄である谷村社長も知らぬはずがないのだ。
 その華子が今は窓口。隼人さんは直接話すような連絡手段は取らないとのこと。恐らく、面と向かって礼を言われるようなことはしたくないのだろう。工学科での連絡窓口は小夜さんだった。
 叔母と二人きりのはずなのに、連絡窓口に娘でも姪っ子でもない若い女性。春美叔母も甥の英太も信頼している『他人』がいる。それは何故か。事情あって春美が二人の若い子の面倒を見てきた。そういうことも既に隼人さんは知っているようで、それを谷村社長も小耳に挟むことがあっても当然のところだろう。

 いままで。複雑な家庭環境にあったことを、でも真っ当な家庭ではなくても幸せにやってきたことを。わざわざ人に告げることはしてこなかった。
 隼人さんも谷村社長も、そして葉月さんも。英太に問い質さないのも、それも彼等の気遣い。そっとしてくれているのだと英太にも分かっていた。
 でも……。そんな彼等の一人である社長に初めて、切り込まれる。
 それに、この社長なら……。英太はそう思って、いつもは嫌味を言い合うおじさんに、初めて告げる。

「――彼女は幼馴染みで。中学の時に出会って、ある時から叔母が引き取って一緒に暮らしてきたんです」
「ほう。家族同然という奴か」

 いつも張り合いの谷村社長であるはずなのだが。
 ここが不思議な関係。彼と二人きりになると、英太は素直に話していることがある。それは隼人さんに対しては、絶対にないことだった。

「越してきたアパートの隣部屋に彼女が父親と二人だけで住んでいたんです。これが酷い父親で。なにかされる度に、叔母と俺がかくまっていた程で」
「母親は」
「再婚相手が出来て置いて行かれたとか。母親は新しい家族を優先したらしくて。その上引き取った父親は、彼女の容姿が良いのでそれを利用するようないかがわしいことで金儲けにしようとしていたので、叔母が児童相談所に通報したんです。父親もそれを機にあっさりと彼女を置いて行方をくらましてしまって……。その後、彼女は施設に保護されたんだけれど、何度も俺と叔母の部屋に逃走してきて。業を煮やした施設の職員に、叔母が保護者になると願い出たんです。叔母が保護者となるまでも、いろいろな手続きや審査があって長い道のりで。でも叔母は諦めずに地道に彼女を引き取る努力をしてくれたんです。だから彼女にとって叔母が恩人であって母であって姉なんです。この世で一番、彼女が信じている大人だから、俺以上に必死になって看病をしてくれているんです」
「そうだったのか。で、お前とは幼馴染みだけで済んだのか」

 そこまで踏み込まれてきたので、英太は躊躇した。しかし、この『御園のお義兄さん』と呼ばれるこの人だからこそ……思うことがあった。

「いいえ。幼馴染みで、男と女。でもそれ以上になれない。社長が言うように、家族同然の男と女から抜け出せなくなっている。そんな関係で……」

 社長の顔が、急に同情するようなそんな顔になった。
 深いため息をつくと、社長は足を組んでゆったりと座っていた姿勢を急に正した。

「長い付き合いの一過程に『男と女』があり、それが一生消えることはない揺るがない気持ちがあっても、夫妻という形を挟んだ男と女になれない。それ程に深くなってしまった関係は『結婚』とか『家庭』という改まった関係はもうなりにくい……。そんなところかね」
「俺、彼女と結婚しなくても曖昧でも良いから家族でいられるなら、誰とも結婚しなくても、ずっとこのままでいい。そう思っていました。俺達、本当の身を焦がすような恋を知らなくても、俺と彼女と家族で寄り添っていけるなら、彼女が結婚を望んでいなくても、いまの生活のままで良いと思っていました。他の女なんて考えられない。『華子』が一番だって――でも」
「でも、葉月に恋をしてしまった……のだな」
「葉月さんのことすごく好きです。俺、初めて恋を知りました。幼馴染みで家族から抜け出られない華子を求める気持ちとはまったく違う、初めての気持ちを知りました」

 誰にも漏らさない英太だけの真実を、この社長には平気で言っていた。
 そして社長も英太が堂々と口にしたからとて、驚きもしなかった。

「……いつも言っているだろう。あの夫妻は強く結ばれている。だからお前のところに望む物はやってこない」
「わかっています。俺、御園ご夫妻の仲を裂いてまで、自身の思いを遂げようとは思っていません。俺、葉月さんを助ける部下で在り続けたいと思っています。俺に出来るのはそれだけだから」
「その気持ちはそのまま持ち続けても良いと思う。だがな、幼馴染みの彼女との関係は、もっと考え方を変えれば互いに変われると思うのだがね」

 葉月に恋しても、それは憧れで終わらせておけ。いま、側にある現実的な恋を見つめ直せ。社長はそういってくれているのだ。だが英太は苦笑いを見せる。

「だったらなんで。社長は、駆け落ちをした時、葉月さんと夫婦としての思いを遂げられなかったんですか。男と女として愛しすぎて、近すぎて、義兄と義妹という家族としての絆を捨てられなかったからでしょう」

 英太はまさにそれだった。そうしたら、あの社長がトドメでも差されたかのようにピクリと動きを止めてしまった。
 彼とは誰とも語らない本音を本心を明かしてきた。
 どうしてって? 彼が、自分と同じ女性を一生独身という決意で愛していて。でもどこまでも堕ちて良いほどに深く求め合った男と女であったはずなのに、結局、最後は家族という形からうまく抜け出せなかった……そんな生き方をしてきた男性だから。
 『葉月』という女性に密かに思いを寄せる男同士。そして『兄と妹』なんていう血の繋がりのない家族のような関係から、男と女としての心も肉体も深く求め合った道を歩んできたところも、いまの英太と同じ。
 そう――英太は谷村社長から、自分と同じ物を感じることが多かった。彼からどんな言葉が出てくるかすごく興味があった。そして社長も。英太のことを同じように『俺のようだ』と思ってくれているところがあるのだろう。

「お前には、俺のようになって欲しくない。葉月や隼人がそうしたように、自分が帰る場所で伴侶が待っていてくれる、またはお前が待っていられる互いのための家庭を持って欲しい」

 俺のようになるな。
 それが社長のいつもの言葉だった。

「お前は、俺と葉月とは違う。まだ間に合う。葉月を焦がれる想いを捨てろと言っているのではない。それとはまた別の方向に少しでも目を向け、その彼女とよく話し合ってみたらどうだ」

 わかっている。それが現実的だって。堅実だって。

「英太、側に肌のぬくもりを感じ得ない女をただ思っていくことは……。目の前にいても、話すことが出来ても、たまにどうしようもない身を貫くほどの孤独や空しさを死ぬまで持つ覚悟を決めることなんだぞ。いまならまだ、お前は一緒に生きていく女を見つけられる。そしてそんな出会いは俺のような年齢になるまで、そう何回もない。数えるほどだ。目の前にいる大切に思える女を簡単に手放すな」

 じゃあ、華子とすぐにどうしようとは思えなかったが、社長がいつになく英太に懇々と説いてくれたことは、心にずっしりとした重みで通じた。

 親父って。もしかして、こういう人のことを言うのだろうか。
 社長とは張り合ったりするが、英太が密かに心を開いているのも、この人から自分と同世代の子供を持つ父親の匂いを強く感じることができるからなのかもしれない。

 

 

 

 

Update/2010.4.26
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