きっと。週明けの月曜は、どこのオフィスも忙しいはず。
それはこのマンションで一人、仕事をしている純一も同じだった。
そんな週始めの一日を終え、ゆったりと火曜日が始まる頃。近頃の純一は時計が気になったり、外の気配が気になったりして仕様がない。
ほら、来たぞ。
ノートパソコンの取引画面を眺めている純一の耳に、車のエンジン音。良く聞く昔から知っているかなり旧式になった車の。
次に純一が構えたのは、インターホン。『ピンポン』と鳴った! わかっているが、あまりにも予想通り過ぎると逆に呆気にとられてしまう。しかもこれがここのところ毎週!
出ない方が平和で終わるだろう。変なことに巻き込まれないで済むだろう? 今日こそやり過ごそうとした。だが向こうもなかなか諦めてくれないようで『ピンポン』と再度鳴る。ここでやり過ごそうものなら――。今度の純一は手元にある青い携帯電話を見つめた。ブルブルと振動音を発して着信中――。やはり逃れられないか。ついに携帯電話を手にした。
「忙しい。仕事の邪魔をするな。今日は帰ってくれ」
意を決して言ったつもりなのだが。
『そう。じゃあ、適当に何処かに行く』
今日こそと断ったら、もっと困ってしまう返答があっさりと返ってきた。
「この馬鹿者! 自分の立場をわかっているのか? お前が不明になってどれだけ部下達が……」
『義兄様、最近、ひどくノーマルになったのね。隼人さんと一緒に居すぎて、サワムラかぶれになったわけ?』
「なんだと〜」
『お仕事、頑張ってね。じゃあ、私は適当に――』
『まて』と、純一はついに降参していた。ここで葉月のエスケープを手伝うのは嫌だが、それを見逃して『誰も知らないところ』へと不明になるミセス准将を野放しにした――なんてこいつの部下に知られたら。『義兄さんほどの方が義妹さんにどうして』なんて言われるだろう? 後で骨を折って捜索しているだろう義妹の部下や、一番やっかいな義弟の隼人に知られる方が困るのだ。
「おじゃましまーす」
勝手知たる、元自宅に義妹が当たり前のように入ってきた。いや、純一が入れた――。完全たる敗北だった。
ミセス准将と言われるようになった義妹は、一回りも歳が離れている義兄の手の内にいた可愛い女の子なんかではないのだから。
その義妹が、さも当たり前の顔で、しかも制服姿で純一の仕事場に入ってくる。
まったくもって。どうして、どうしてここまで大胆なことをするようになったのか。デスクに腰をかけ、なにげなく見ていた株データーも上の空。渋い顔で義妹の訪問を無言で迎える。
「相変わらず。私が来て嬉しそうな顔をしてくれたこと、一度もないわね」
「今日は特にな」
「いいじゃない。どうせあと数週間もすれば、ここに来ていることを探り当てられるわ。それも出来なければ、たいしたことない秘書室ね。それとも隼人さんが先に見つけるかしら」
なんて義妹はそうして部下を困らせながら、部下を密かに図っている。そして彼女の配下にいる部下達もそれに振り回されながら、『理解して』彼女を意地でも必死に捜し当てる。
彼女が大佐嬢だった時は、グラウンドの芝土手だったそうだ。彼女が准将に昇格してからは誰もが知っているサボタージュ場所になったので、彼女の行く先は不特定になり、ラングラー中佐を始めとした秘書官達はその准将を如何に把握出来るか如何に短時間で捜し当てるかに必死になるそうだ。
ところが。ここ最近、ついに葉月は『基地の外』に一人でやってくる。その第一拠点がどうやら、この丘のマンション。義兄のオフィス兼自宅。
「部下を鍛えているつもりか。他に彼等にやってもらわねばならぬことがあるだろうし、彼等も暇ではあるまい。お前のそんな気まぐれのゲームなど時間の無駄……」
「そうかしらね」
ミセス准将の横顔を見せられた。冷めた顔で目の色もひんやりとしていて、義妹はテラスから見える海を遠く見ていた。
「まあ、一番分かり易い場所に来ているつもりだけれど。まさか基地の外に出ているとは、未だにわかっていないでしょうね」
「俺の部下だったら、いや、上司だったらひどく迷惑だ」
「んふふ、義兄様がそう言うなら成功かもね」
『はあ?』、お前、周りにどれだけ迷惑をかけているかわかっているのか――。以前ならまだまだ未熟な義妹の勝手だと目に余ったら、義兄としても仕事をする先輩としても迷わずに怒鳴り飛ばしていただろう。
しかし、今や彼女は空部隊の大隊長でミセス准将。その功績も実績も確実なものとして、彼女と共にやってきた男達の誰もが、彼女がやることを信じている。それ程のことをやってきたと見守ってきたこの義兄だって認めている。だから、すぐには怒鳴り飛ばせなかった。
その上、なんだ。その『んふふ』なんて意味深な勝ち誇った笑みは。
なんとも言えず、ひたすら義妹の様子を窺っていると、彼女はそのままリビングの壁を覆い尽くしている本棚に向かっていく。
それもここに来たら、いつものことだった。
「いいのか。そろそろ隼人も限界だと思うがね」
その通りで、つい先週になって『近頃、葉月が見つけにくくなって困っている。消えてから小一時間で戻ってくるようだからまだ良いのだけど、帰る前に発見することが出来ず秘書室の連敗続きだそうでテッドがここまで見つけられないのは初めてだと……』。そんな義弟からの呟きを『ほう、そうなのか』と初めて聞いたかのように流したが、内心は結構焦っていた。まさか、捜索中のミセス准将が自分のオフィス兼自宅に逃げてきているだなんて……言って良いのか悪いのか。言えばまた葉月に『義兄様は、やっぱり隼人さんが一番なのね。私の思惑などちっとも理解してない。昔から義兄様は私のことを……』云々、普段は言葉少ない義妹がこんな時だけくどくどと愚痴を言ってくる。しかし義妹を立てれば『義兄さんほどの男が。義妹にそんな注意も出来ないのか。だいたい義兄さん結局最後は葉月に甘くて……』云々、義弟の隼人に小言を言われる。だが今回は葉月が意味深な顔をするので、彼女の邪魔をしないよう知らぬ振りをしていた。
葉月は義兄の心配などよそに、来るたびにそうしているように、純一が集めた大量の書籍を物色中。
「義兄様も見ていて。きっと面白いものが見られるから」
今日も純一の書物を一冊、二冊。葉月が手にして振り返る。
「なんだ。面白いものとは」
「考えてみてよ。私がどうしても見つからなくて秘書室が困り果てると、さあ、どうなるでしょう」
義妹の職場環境のことなど深く考える立場ではないが、考えてみた。
「そうだな。ラングラー中佐でも手に負えなければ、工学科にいる隼人に助けを求める……か?」
「正解。まあ、そこを見ていて、義兄様。そこで隼人さんがどうするかを知りたいの」
「はあ? お前、隼人を試しているのか」
義妹がまた、にやりと笑う。
「試さなくても、隼人さんならしっかりやりこなすわよ。私が見たいのはね……。そんな隼人さんを誰もが知ってくれること」
「あのお堅い連隊長の正義に知られたら、お前の立場がなくなるだろ」
すると、そこで義妹がやっと……。少しばかり表情を硬くしたのだが。
「でも、正義兄様にも知ってもらいたいの。連隊長の兄様に叱られるのも覚悟の上でやっているの」
「何故……」
「隼人さんも評価されるべき。そう思わない、兄様」
その一言で、純一は義妹が何を考えているのか、判ってしまった気がする。
確かではないが、そう義兄も感じるものが……。
「まさか、お前」
「なに。なにか判っちゃった?」
ばれたかも知れない。義妹はやや困った顔をしたが、それも義兄相手のことだと覚悟していたのか慌てはしなかった。
「別に。気が付いちゃったことを隼人さんに話したっていいわよ」
「話してしまいそうだな。それは隼人は絶対に嫌がると思うし、黙っていたら俺が殺される」
「じゃあ、話しちゃえば。私は構わないし、義兄様に知られて隼人さんにも私の思惑が知られる。それで終わってしまうことなら、それも自然な流れとして諦めるから――」
今度は俺が試されている。
純一は愕然とした。義妹のなにもかも達観しているような、ある意味、それほど期待もしていないような目で純一を見ている。
「義兄様にとって、私という義妹もそれだけのものってことになるわね。そう今や義兄様は、いずれ御園の当主になる私の夫、義弟がパートナー。どうぞ、そちらで話し合っても良いわよ。私は義妹として妻として、ここでそんな思惑も諦めてしまうから」
葉月に、最愛の義妹に突き放されたような感覚。初めてだった。
だが落ち着いて考えてみると、義妹の考えは、純一が最終的に思い描いていることに到達する。それは当主になる覚悟を決めている義弟が思わぬだろうこと。
「私が決しないと、隼人さんはあのままよ」
「……だろうな」
「黙っていてくれる?」
初めて知った。お前達のどちらかを選ぶなど、既に自分にとって究極の選択。だが。もし中立の立場というのなら。
「わかった。黙っている。今のところはな。お前のお手並みを拝見しようじゃないか」
義妹は『そうこなくっちゃ』と妙に自信ありげな顔で微笑んだ。
「でも義兄様、ごめんね。一番、来やすかったものだから……。お仕事の邪魔だってわかっているんだけれど……」
その裏に『義兄様だから、我が儘も許してくれる』と含まれているのがわかっていたので、純一もどうしようもなく受け入れて許してしまっている。
「ふん、どうせ儲けになりそうもない株ばかり眺めていたから疲れていたところだ。お前も一時間で帰るんだろ。一服していけ」
隼人に『甘やかし義兄に落ちた』と言われそうだが、純一から席を立ってキッチンへ向かう。
そうすると、義妹も本を抱えた姿で『有り難う』と愛らしく微笑む。その時、ちょっと頬に色味が差したように見えると、見守っていた義兄として一番ホッとしてしまう。
葉月はそのまま、いつも座っている椅子に腰をかけ、選んだ書籍を開き読み始めた。
テラスから入ってくる初夏の風に栗色の毛先をそよがせ、義妹がゆったりとした顔で読書をする姿。
どう入れても『純兄様の紅茶がいちばん美味しくない』と言われる紅茶を懲りずに煎れながら、純一はそんな義妹の静かで穏やかな姿を眺めている。
沸いた湯をティーポットに注ぎながら、純一は葉月に呟いた。
「まったく。お前がそうやって俺の本棚を荒らすのも変わらないな」
「荒らすってなによ。『お兄ちゃま』は片づけないとすっごく怖い顔をして部屋に入れてくれないから、私、ちゃんと片づけていたでしょう」
「そうだったか? 俺の顔を見てから片づけていたような気がするのだがねえ」
遠い、鎌倉での日々。まだ軍訓練校の学生だった義兄と、まだ事件前の光の中だけで笑っていた小さな栗毛の少女。そんな遠い日々。
様々な分野の書籍を読み倒していた純一の部屋に忍び込んでは、義妹の葉月はまだ小さな子供のくせに、生意気に訳もわからない本でも開いて眺めていた。純一が不在でも忍び込み、純一のベッドで窓がある壁を背に葉月はいくらでも読んでいた。たまに、純一が訓練校から帰ってくると、そのベッドで葉月が本を抱えたまま寝ていたことだってある。
「今も一緒よ。義兄様の本棚は、私にとっては知らない世界の塊。とっても興味深いわ」
「そうかね。つい最近ではないか。そうやって小笠原に来た俺の本棚を探り始めたのは」
「今まで、忙しかったからねー」
葉月のそんな一言に、純一はポットを傾けていた手を止めてしまう。
奇妙な一言だった。それではこれから暇になるとでも言いそうな口振りが。
「ずっと読んでみたかったのよ。義兄様が小笠原に来てから。義兄様の本棚の本、私もぜーんぶ読んでみたいって思っていたの」
紅茶葉が開くまで。純一は葉月が座るテーブルに寄ってみる。そうして本のページをめくる義妹が読んでいる本を見下ろし、純一は毎度唸ってしまう。
『何故、今になってそれなんだ』。そう言いたくて聞きたくて、やっぱりまだ黙って見ている。葉月がここ最近、この丘のオフィスにやってきて義兄の本棚から抜き取っていく本は全て『ビジネス論書』や『起業ノウハウもの』ばかりだった。
「ねえ、義兄様。この前からここの仕組みがちょっと分かり難いんだけれど……」
「どれ」
これも毎回。来ては読んでは、純一に何かを質問して教えを請う。だから純一もついつい……。義妹の隣の椅子に座り込んでしまうのだ。
「会社を起業するのはそんなに難しいことではない。手続きをして形を整えれば良いのだから。なので『会社』として起業してからが大変なんだ」
「最近だとインターネットでの起業もあるわよね」
「個人の週末起業というやつだな。時代は変わっている。お前が読んでいるのは基礎ではあるが、今の時代に合っているかどうかは既に疑問だな」
今度は純一から本棚に向かい、一冊二冊。それを手にして、義妹の横に差し出す。
「今なら、これを読んだ方が良いだろう」
それを葉月は手にとって、パラパラと中身を眺めること暫く。しかし、元の場所へと閉じてしまった。
「今の時代が大事なのもわかっている。でもその時代が成り立つまでどこをどのように通ってきたか。その道を知ることも大事だと思うから、今はこれでいい。これが終わったら、それを読むわね」
その言葉に純一は驚き、『そうか』としか言えなかった。
そうして葉月はいつまでも、その本を黙々と読んでいる。
昼のそよ風に、なびく栗毛。それが義妹の頬をくすぐり読書の邪魔をする。
ふと。そんな頬を悪戯する毛先に、純一の指先が触れる。葉月がハッとした顔で、こちらを見た。だが純一はそのまま葉月の頬に触れた指先で、毛先を除けてあげる。
「いつか。俺と一緒に仕事でもしてみるか」
義妹の答は。
「うん。してみたい」
満ちた笑みを向けられたのは予想外で、仕掛けたこちらがどうにかなってしまいそうで。流石の義兄が密かに動じていることを、この義妹は知ってくれているのだろうか。
忘れたはずの、押し込めたはずの、久しい甘やかなこの感触。純一の胸をふいに焦がしていくあの頃の感覚に囚われるまま、純一は触れていた義妹の栗毛をそのまま指に絡めてしまっていた。
随分と昔になってしまった。こうして誰よりもこの女性の全てに遠慮なく触れていたことが。
栗毛を指先に絡めたまま、その柔らかな感触を楽しみ始めた義兄の仕草を、葉月の方は動じることなくじいっと見つめている。
「お前がその気なら、俺は全力でバックアップしてやるぞ」
「私に爆弾処理や銃の撃ち方を教えてくれたように?」
また随分と古い話を……。
あの頃、純一も若かったから何もかも必死だったことを思い出す。頑なな心のまま軍人として歩み始めた義妹に、せめてもの護身をと思って、躍起になって教えたことがあった。
「勿論。あの時のように」
「義兄様は私の先生だったものね。――なにもかも」
『なにもかも』。ふっと間を置いたそこに、男と女として初めて愛し合ったことも仄めかしているのが純一にもわかった。この義妹の女としての身体を女として愛したのも、女としてどんなに素晴らしく感じるかも。男との愛し方も全部、自分が教えたようなもの。それをこの義妹もまだ忘れていないようだ……と思いたい。
その通りだったのか。まだ毛先を離してもらえない義妹が、伏し目がちに純一の指先を見つめたまま、そのまま指先に唇を近づけてきた。気のせいか、意図的なのかわからない仕草だった。
だがそのまま見つめていると、純一の指先が今にも葉月の唇に吸い込まれそうで……。
いつかならば。そんな義妹の艶めいた唇を奪っていたのは自分だった。しっとり火照った肌をくっつけあいながら濡れた唇を吸い尽くし、濡れた指を絡め合いながら何処までも深く繋がり愛し合う。そんな我を忘れた葉月が喘ぎながら小さく開けた口に、弄ぶようにこの指先を割り入れ義妹に愛してくれるよう要求した。葉月は喘ぐままにその指先をゆっくりと口に含くむと仕返しのように噛んで、その後は純一が望むまま愛撫してくれた。――そんなあの頃を彷彿とさせる、今。……もしそうなったら。純一の胸がなにかで溢れそうになる。
その義妹の唇がゆっくりと開いた。
「義兄様、紅茶はまだ」
ハッとして純一は葉月の毛先を離してしまう。慌てて席を立ち、キッチンへ向かったが既に遅し。紅茶の葉は開くだけ開き、濃く抽出された黒い茶に仕上がっていた。
『しまった』と舌打ちをすると、葉月が笑い出す。
「やっぱりね。義兄様は上手く煎れられないのよ」
「……今のはだな」
言い訳をしようとしたが、思いついたのが『お前に囚われていて』だなんて決して口では言えないことが出そうになって、さらに慌てた。
「私の部下だったら最悪」
「その気になれば、俺だって。いや、そんなに俺が煎れたのは不味いか? ジュールやラングラー中佐が上手く煎れすぎるだけで、平均以上だと思うが!」
「なに言っているの、純兄様ほどの人が。人をもてなすのが念頭にあれば、どんなことをしていたって、紅茶を煎れていることが最優先でしょ。美味しく飲んでもらうっていうもてなしの心が欠落していた証拠よ」
またもや、尤もな言い分を言い放つ葉月に、義兄であるはずなのにぐっと黙らされる。
自分がまだ未熟な義妹に懇々と唱えてきたことを、今やミセス准将へと上り詰めた義妹に言い返されている。
「でも、その濃く煎れすぎたのも悪くはないわよ。その代わり、ミルクを沢山煎れてくれる?」
「いや、入れ直す」
「いいわよ。そんな仕事で煎れているんじゃないし。別に義兄様のその不格好なミルクティー。私は嫌いじゃないわよ」
だが純一は納得出来ない。今まで義妹の前では『完璧な兄貴』だったはずなのに。
でも義妹は笑っている。
「家族なんだもの。そんな思わず気を抜いちゃったって義兄様が見られるのも好き」
そこには変わらぬ義妹の愛らしい顔がある。失ったはずの少女時代のまま、微笑んでいる顔と瞳に頬……。
「そ、そうか。う、うむ。ではミルクを多めに……」
なにを戸惑っているのか。そんな義妹にいつだって上手く付き合ってもらっているのは、この義兄の方なのだと。こんな時いつも痛感する。昔からだった。
この義妹が傍にいるだけで。彼女が黙って傍に寄り添ってくれているだけで。どれだけ幸せで癒されてきたか。それが今も変わらない……。
やはり先程は、指先を愛されなくて良かったのだ。純一はそう思い改める。
暖めたミルクをカップに注ごうとすると、またインターホンが鳴った。
本を読んでいた葉月も顔を上げる。こんな時間に純一を訪ねてくる者は皆無だった。すると純一にも葉月にも同じことが浮かんだのか、二人で顔を見合わせた。
「まさか」
「見つかっちゃったのかしら。隼人さん? それともテッド?」
主である純一がインターホンへ向かう。誰が訪ねてきたのか。だがインターホンのカメラ映像を見た純一は驚き、すぐさま受話器を手に取った。
『ボス、お久しぶりです。突然に伺いまして申し訳ありません』
「ジュール、どうした」
『先日の依頼について。早々に来てしまいました』
そこには黒猫時代に直属の部下だったジュールが映っていた。
相変わらずのきちっとした品の良いスーツ姿で、彼が優雅な笑みを見せていた。
・・・◇・◇・◇・・・
イタリアでの事業を全てこのジュールに引き継いだ。だからジュールは日頃、あちらを拠点にしている。
それでも年に何回も来日するので、その度にジュールもこの小笠原を訪ねてくる。
「お嬢様、お元気そうですね」
結婚後、ジュールという男のことを、葉月は『家族』とも『もう一人の黒猫の兄様』と思って慕っている。
だからそんなジュールのいつもの微笑みを向けられた途端、葉月もこの上なく嬉しそうな微笑みで彼を迎えた。
「いらっしゃい、ジュール。貴方もお元気そうで」
「お陰様で。この島でのほほんと余生を送りたいなどと早々に隠居された誰かさんのお陰なのか代わりなのか、忙しくさせて頂いております」
相変わらずの弟分の嫌みったらしい言い分に、純一は眉間に皺を寄せる。
だがそれだけでは終わらない。この弟分の嫌味に、必ずと言って良いほどに、義妹が乗ってしまうのだ。
「聞いてよ、ジュール。その誰かさんがすっかり腑抜けてしまったのか、私に煎れてくれるはずだった紅茶をまた失敗したのよ」
先程の『それも好き』って発言は空耳だったのか? 純一は密かに葉月を睨み付けたが気付きもしない。
「本当に相変わらずですね。ならば、私が煎れて差し上げましょうか」
「嬉しいわ。ジュールの紅茶が一等賞だもの。久しぶり」
義妹の目が本気で輝いたので、純一は手元に出来上がったミルクティーをこぼして捨ててしまおうかと思ったのだが。
「あ、でも……。また私の家にも来てくれるのよね」
「勿論。カイと晃の顔も見たいですし。お土産もありますから」
「だったら。その時にご馳走して。うちでゆっくり味わいたいし」
そう言って葉月は一等賞の紅茶を後回しにして、純一を見た。だから純一も黙って、それを本を読んでいる葉月へと運んだ。
「頂きます。純兄様」
「どうぞ」
葉月は微笑むと、またすぐさま読みかけのページへと顔を伏せてしまった。
そんな葉月を見て、来たばかりのジュールも違和感を持ったようだ。
着込んでいたライトグレーのスーツジャケットを脱いだジュールは、鮮やかな紺色のネクタイの首元を緩めながらそれとなく、葉月の背後に近づき何を読んでいるのか確かめている。そしてそれを知った時の彼の顔が、純一に向けられる。
『どうしてこんなものを読んでいるのか』。明らかに、ジュールもそう感じたような驚き顔がある。純一はそっと顎で『こっちに来い』とジュールを促した。
キッチンに来たジュールがそれでも葉月を見ながら、小声で囁いた。
「なにかあったのですか」
「なにも。ここ最近だ。毎度のエスケープの為に俺のところに来るようになったかと思ったら、あれだ」
「あのような本ばかり? あのお嬢様が……」
空軍のことしか頭になかったはずの義妹の変化に戸惑うジュールの横顔は、まだ葉月から目を離さない。
暫く見守っていたジュールだったが、やはりこの男は流石だった。
「ですが。それは御園にとって良いことかもしれませんね」
義妹の思惑を、義兄の純一が一から説明しなくともすぐさま察知したようだった。
そんなジュールに純一は呟く。
「俺は中立だが、暫くは葉月に協力するつもりだ。だが、お前も力を貸してくれないか」
弟分も同じように年齢を重ねた。だがまだまだ彼の顔つきは精悍で若々しい。そんなジュールはまだ本を読みふける葉月を見ていた。
「よろしいでしょう。後々そのようになって来ましたら、私も是非、協力したい」
ビジネスの鬼と化する時。この男の暖かい瞳は鋭く凍る。それが義妹に向けられていた。
「一目で思いましたよ。御園の女帝だったばあやに似てきたと」
「だろう、俺もそう思う」
御園の女帝を胸に生きてきた男が不敵に微笑んだ。
「女帝の芽ってわけですね。ついにこの時が」
恐らく、純一よりもこの男が待ちかまえていたことだろう。
義妹がただの軍人では終わらないことを、そして終わらせたくないと思っていたことも。この男がずっと待っていたものがそこに芽生えている。
「お嬢様。お土産のお菓子を少しだけ召し上がりませんか。せっかくのお茶の時間のお供に是非」
こちらの不穏な会話を悟られないためか、ジュールは明るく葉月に話しかけた。
「そうね。ジュールのお土産はいつも初めて食べても美味しいものばかりだもの」
その気になった葉月の笑顔に、ジュールもいつもの優雅な笑みをめいっぱい見せる。
持ってきた箱から、紅茶に合いそうな焼き菓子をひとつふたつ。丁寧にそれに合うような小皿まで見繕ってきたところが、ジュールらしい。その小皿も葉月が楽しみにしている土産のひとつだった。
そんなジュールが白いワイシャツ姿で、颯爽とお嬢様の元へ菓子皿を運び、いつもの洗練された仕草で葉月の横へ付き、丁寧にカップの横に菓子皿を置いた。
品格ある給仕は、今でも劣ることなく損なわれていなかった。そうされるだけで、葉月はいつだって嬉しそうにジュールに微笑む。
「また素敵な小皿ね」
「このお皿はスペインで見つけましたが、こちらの焼き菓子は今パリで流行っているものです」
「美味しそう。頂きます」
そうして義妹が幸せそうに菓子を頬張る顔を、ジュールも幸せそうに眺めている。これが彼の楽しみでもあるようだった。そして純一も、そんな義妹と弟分の穏やかな関係を見守りほっとする。
人に貶められたことでは同じ過去を持つ二人。その二人がキリキリと痛いほどに張りつめて生きてきたことを傍で見てきたのは純一だった。
義妹もジュールも今は笑っている。
そんなジュールがふいに、葉月に尋ねた。
「お嬢様。いま読まれている本は面白いですか」
ジュールに知られ、葉月がどう反応するか純一は固唾をのむ。
このビジネスの鬼に知られ、義妹は義兄以上にどう対処するのか。
「面白いわよ。だからジュールも隼人さんにはまだ言わないでね」
今度はジュールが面食らっている。
ジュールに何もかも見透かされてしまうことを、葉月はわかっていた。
そんな葉月を見て、またジュールが何かを掴んだかのような不敵な笑み。
「まったく。お嬢様には准将室だけでは狭いご様子。相変わらずですね」
そしてついにジュールが言う。
「わたくし恐縮ですが、一度お嬢様とお仕事をしたいと思っていたんです。全面的にバックアップしますから、どんな小さなことでも遠慮なくお言いつけ下さい」
おそらく、葉月のこの思惑にとって最大の理解者と協力者を得たことだろう。
まだ小さな芽。さて俺達は、この小さな女帝をどう育てていけば良いのか。
Update/2010.3.7