長い移動時間の帰省を終え、英太は宿舎の自室に戻る。
春から初夏へ向かおうとしている小笠原の海が、オレンジ色に煌めく時間。それが窓辺から見える最高のロケーションの宿舎は、こじんまりとしているがリゾートホテル顔負けの環境だった。
「はあ、帰ってきた」
自室の窓を開け、留守にしている間にこもっていた空気を入れ換える。すぐに潮の香り、そして潮騒。心地の良い感触が、既に英太の『俺の場所』として、いつのまにかここに居ついた人間としての証拠のようだった。
バッグから週末に身につけた下着に私服を出し、洗濯かごに放った。夕食後にランドリーに行くことにして、とりあえず、一息。英太は窓辺に腰をかけ、小笠原の海が見せる夕暮れを眺める。
そしてその海に沿う車道を目で追う。ずっと向こう、この宿舎がある基地を出て、アメリカキャンプを通り、日本人隊員の官舎を通り、御園の丘のマンションを通り過ぎ……。島の地形に沿ってくねくねと曲がっている海岸沿いの車道は、やがてあるカーブを最後に見えなくなる。それでも英太はその先、ずっと向こうの道へと思いを馳せる。この宿舎から見えるあの対岸。あそこに若い世代の家族が集まっている白い新興住宅地がある。そう、あの人の自宅がある海岸。
すうっと入り込む夕の風が、英太の黒い前髪を揺らした。目を凝らし、英太はその向こうを見つめながら、制服の胸ポケットにセットしていた携帯デジタルプレイヤーのイヤホンを耳に付ける。遠く、微かに見える白い住宅地を見つめ、そして潮風に吹かれ、英太は再生ボタンを押した。
流れてくるのは、『私を泣かせて下さい』。あの日、英太を動かしたヴァイオリンの曲をオペラで聴いている。ヴァイオリンで聴いてみたい……。あの人のヴァイオリンで。
小笠原の宿舎は、今は英太の居場所。気に入った曲を聴いて、この島の風や潮騒に溶け込むことが、今は一番気持ちが良い。
うっとり、一人きりのメディテーション。やがて、机の上に置いていた携帯電話が鳴ったのが聞こえ、英太は窓辺を離れた。
「おう、いま帰ったところだよ。え? 明日……?」
電話の相手は、同僚のフレディ=クライトン大尉だった。
今でも、正反対の持ち味のパイロット同士。この二年の間、何度も衝突はしたが、最後にはなんとなく譲り合って分かり合うことが出来た友人。そして英太の僚機の男。
『明日、うちで晩飯食っていけよ。リンダがまたお前を誘えってうるさいんだよ』
「そっか。じゃあ、お言葉に甘えて。横浜のデパートで新しい菓子店が出来たとかで、少しばかり買いすぎたんだよ。リンダに持っていく」
『それは喜ぶな』
「なんか悪いな、新婚なのに。いつも気遣ってくれて」
『気にするなよ。俺も気になってさ。じゃあ、リンダにそう言っておく』
電話が切れ、英太の心は清々しい。明日は新婚家庭にお邪魔して、またフレディとああじゃないこうじゃないと正反対の性格故の論争を繰り広げる賑やかな夜を過ごすことが出来そうだ。
フレディは半年前に、祖国のアメリカから結婚相手を連れてきて、小笠原のキャンプの教会で挙式をしたのだ。感謝祭やクリスマスに新年、冬休暇の間に出会った女性をすぐさま小笠原に連れて来てのスピード婚。あまりにも突然のことだったので、雷神の先輩達と一緒に心配したものだが、この島の生活が新妻になんとか合ったらしく、今ではキャンプでも評判の新婚さんだった。
そんな新婚家庭に、英太は良く誘われる。フレディと親しいと言うのもあるのだが――。
帰省した後、フレディから連絡があることが多い。おそらく、もう長くはない叔母を見舞っては帰ってくる英太の中に、虚無感が襲わないよう、一人きりにすまいと気遣っているのだと分かっていた。そのうえ新妻のリンダは、春美と同じ病気で母親を既に看取っているとのことだった。英太のことを聞いて他人事だと思えないのだそうだ。
だから、日曜の夕方。帰省して到着すると、クライトン夫妻からの連絡がある。
でも、英太は携帯電話を見て微笑んでいた。今はそれが嬉しい。そんな男に出会えたことが。
そんな英太は、次にはデスクの椅子に座り、机の上にある黒いノートパソコンの電源を入れる。
「あの曲、なんだったかな。調べてダウンロードしよう」
小笠原に来た頃、英太の荷物は僅かな私服と身の回りの僅かな小物だけだった。横須賀の宿舎でも、春美のマンションにある自室にも、特になにも置かなかった。いや、持っていなかったし、持たなかったし、興味がなかったのだ。
何故って。それまで、英太にとって毎日が空を飛ぶこと以外に『無意味』で『なにが楽しいのか』分からなかったからだ。いわゆる、無趣味。
だが、今は違った。携帯のデジタル音楽プレイヤーを持ち、ノートパソコンを購入しインターネットを楽しむようになった。無意味な電波の旅をするだけでも楽しくなった。そしてそれは新鮮だった。様々なデジタルの繋がりを追いかけ、英太は音楽を楽しむことに落ち着いていた。
クラシック、ポップス、ロック。何でも聴いた。耳に聞こえた興味ある音に楽曲は、徹底して探した。勿論――あの人の『持ち曲』は全てチェック済み、プレイヤーにも収録済み。それも英太には新鮮だった。
二年前から、毎日に色が付いたようだった。いろいろな色が英太の日々を染めていく……。
全部、あの人と出会ってから。あの人と海の旅に出てから。あの人と同じ過去を知り合った夜明けを迎えて……。
耳に流れる曲が終わろうとしていた。英太は聞いていた曲を今一度再生する。『わたしを泣かせて下さい』。
オペラ歌手の壮大な歌声でも、英太の耳はその後にヴァイオリンの音を重ねる。
「葉月さん……」
夕暮れの部屋。ベッドの白いシーツが茜色に染まっていく。そこに一人の女性が現れる。
――『あら。英太』
今日のあの声、あの笑顔、微笑み。睫毛、眼差し、茶色の目。白いブラウスに、黒のシックなスーツ。細長い腕に、長い指。あれでヴァイオリンの弦を押さえて、あの腕がボウを操る。栗色の髪が夕暮れの光を吸うと、もっと明るいハチミツみたいな甘い色になるに違いない。
英太はベッドの前に現れたその女性を、惚けて追い続ける。手を伸ばし、心の中で、その幻を抱きしめた。
知っているんだ。襲ったのは悪かったけど、あの時に貴女を身体ごとこの胸に強引に抱いた感触を俺は忘れていない。
どんなにあの苛酷な空に挑んでいた元パイロットでも、どんなに訓練着で女の身体を隠しても。やっぱり貴女は俺達なんかよりも、ずっと華奢で、ずっと柔らかくて、そして匂い高い女性なんだ。
いま、英太がその胸に抱いている女性は、栗毛の黒いスーツの白いブラウスの優雅な女性。
その女性の栗毛を、この手がそっとかき上げ、見えた頬に英太は口づける。そっと染まる頬に、うっとりと気を休めている彼女の口が無防備に開く。そう、今日のあの寝顔。あの唇に英太は口づけていた。
あらぬ青年の邪な妄想は続く。それでしか彼女を愛せないから――。
青年の妄想は容赦ない。口づけだけで済むはずがない。若い青年の身体は一直線にそこに向かう。だからこそ、英太は常に自制をしている。それが一番辛いことであり、しかし人妻の彼女を慕うには不可欠であり、これを乗り越えて行かねば傍になどいられない。だから『ここ』で彼女を愛し想って身体を貫こうとする。
「あの香り……今日もしていた」
毎日があの香りではないが、英太は彼女が付ける香りにかなり敏感になっていた。
さまざまな匂いをさせているが、英太の鼻が特に嗅ぎ分けるのは、あの夜明けの花の香り。
それを思い浮かべながら、英太は幻の人の白い足を、ゆっくりとスカートをたくし上げて撫でている。きっときっと、すごく細くて長くて、すべすべしていて。やわらかくて、暖かいんだ。
そんな想像の果てに、英太は憧れのその先に思いを馳せる。
白、絶対に白。
青年の瑞々しく逞しい手が、艶やかな白いランジェリーに忍ばされる。シルクの、美しく絢爛な白いレエス。彼女のそこを申し訳なさそうに小さく隠す小さなランジェリーは、パイロットである青年の大きな手が入るとはち切れそうになって……。
容赦ない青年の妄想では、その逞しい指先が栗色の茂みに忍び込むと、そこはもうしっとりと濡れている……。彼女の首筋に口づけると、その人も甘い声で英太を呼んでくれるんだ。
――『英太、いやいや。もう遊んでいないで、真面目にやってよ!』
そこで英太はハッとした。
「また、華子! なんでいっつもお前の声になるんだ、そこで!」
ええい。耳の奥に染みついている幼馴染みの声をふいに出てしまっただけ。ようし、もう一度、あの人の幻を。英太は目をつむって、もう一度。
――『もう、誰のことを考えているの? 噛みつくわよ』
また、英太はハッと背筋を伸ばす。思わず、いつも噛まれる首元を押さえてしまった。
「なんでだよー、なんでだよー。どーしてそこで華子が出てくるんだよー」
なんど想像しても、こうなると、英太の心の中で潔く全裸になって微笑みかけているのは、豊満な胸を惜しげもなく英太に見せつける幼馴染みの華子だった。
「だよなー。俺、結局、葉月さんの裸、しらねーもん」
漂う女らしい色気しかしらない。それを目の当たりにした日、英太は時折、彼女を脱がそうと妄想するのだが……結局は靄に隠れてしまう。
妄想だけで火照ってしまった身体を冷ますように、英太はまた潮風が心地よい窓辺に立った。
潮風に吹かれながら、英太は呟く。
「あーあ。栗毛の人って、あそこも同じ色なのかなあ?」
まったくもって馬鹿らしい疑問かも知れないが、横恋慕の青年には真剣な疑問だった。
・・・◇・◇・◇・・・
たまに、まったく灯りをつけないでシャワーを浴びることがある。
ほんのりした月夜。窓から入ってくる明かりが、シャワールームを薄く青く照らす時。隼人は明かりを消して、シャワーを浴びた。
初夏のせいか、または……。ぬるめの湯が丁度良い。
妻より堅めの黒髪も、眼鏡を取り払った顔も、うっすらと髭が伸びている夜の顎にも、柔らかな湯が伝って滑り落ちていく中、隼人は顔をこすって洗った。
月夜の湯浴み。青白い明かりの中で、ぬるめの湯を浴びて、日中の汗を流し身体をほぐしても、まだ全身が火照っている気がする。
諦めて、シャワーのコックを捻り湯を止める。
シャワールームを出て、洗面台横の籐籠に用意されているバスローブをいつもなら手にする。それを羽織って、冷えたビールを飲むとほっと一息なのだが。
今夜の隼人はそれをせず、バスタオル一枚を腰に巻いて寝室に戻った。
寝室もベッドライトだけの明かりで、ほのかだった。そして今夜は花の香り。ジャスミンの香りが漂っていた。
高さも低めの大きなベッドには、既にスリップドレス一枚で寝そべっている妻がいる。夕方、帰宅した時には黒いランジェリーで悪戯をしたせいか、今宵の一枚として選んだのは純白。こちらに背を向け、静かに横になっているので、まさかと思って『葉月』と声をかけたが無反応。
「まったく。俺をこんなにしておいて」
お前、夕方にあんな悪戯をして旦那をその気にさせたのも、女房のお前もその気だという合図でもあったのではないのか? なんの気もなさそうにして、しかも背を向けてすやすや眠っている妻に、隼人は無言で訴える。
しかも。夫が寝る側に背を向けている寝姿は、ちょっと素直じゃないシャム猫のよう。だけれど、隼人はそこで諦めの溜め息をついて力を抜いた。だが。と、隼人は暫く考えあぐね、決断する。だからって俺がいつだってお前のペースに合わせて生きていると思うなよ、と意気込みながら『そのつもり』で腰に巻いていたバスタオルをざっと取り払い、床に放った。
全裸になった隼人も静かにベッドに上がる。ベッドヘッドの灯りも消した。
シャワー室と同じように青白い夜明かりに包まれる寝室。その夜明かりの中、隼人は全裸で迷うことなく背を向けている葉月の傍に寝そべった。彼女の寝姿に沿うように、ぴったりと背中に抱きつく。腕の中に、静かに眠っている白いドレス一枚の葉月を囲って抱きしめる。
「葉月」
耳元で囁くと、少しだけ『う……ん』と微かな唸り声。
妻が目覚めるまで、優しく待てそうにない。身体の火照りがとれない今夜の隼人は早急だった。
彼女のスリップドレスの肩ひもを降ろし、なんの躊躇いもなく妻の乳房を露わにする。そこにも遠回りな優しい挨拶もなしに、直ぐさま吸い付いた。葉月の身体がさらにビクリと反応し、やっと隼人の腕の中で警戒したように身体を固くした。
「や。な、なに……?」
気怠そうに眠そうな目をうっすらと開けた葉月。それでも隼人は既に走り出している。
隼人の手は柔らかな白いシルクの上を軽やかに滑り、妻の下腹を滑り降り、冷たくなっている足へと手を這わせた。その手がスリップドレスの繊細なレエスの裾をたくし上げる。
毎晩、これ一枚だけの妻はショーツもつけない。裾をめくればすぐそこに白い丸尻が、すぐさま隼人に姿をみせる。
丸みに沿って柔らかに撫でた。『あ』。小さく呻く葉月の声。さらに指先で彼女の尻の丸みのてっぺんを小さく撫でる。
そのまま丸出しにさせた柔らかな丸みを撫でながら、妻をいっそう強く背中から抱きしめた。そうすると彼女のひんやりとしている丸い尻の谷間に、すっかり漲り熱くなっている隼人の男の塊がぴったりと合わさる。
葉月が瞳をぱっちりと開いた。冷たい自分の尻に、すっかり火照っている夫の。やっと気が付いてくれたかと、隼人はさらに求愛するように妻を待っているそれを押しつけた。
「……あなたの、すごく熱い」
どれだけお前を欲しいか、分かってくれたか。
言わずに、隼人はただ腕の中で振り向くように自分を見上げてくれている妻の濡れた瞳を見つめ返した。
無言で、ひたすら自分を抱きしめる夫。そして欲していることを肌に伝えて求愛してくれる夫を見つめる葉月の頬が、夜明かりの中でもふわっと紅潮したように見えた。
「あなた……」
ついに腕の中の身体を翻し、葉月が両手いっぱいに隼人の胸に首に抱きついてきた。白い腕を首に巻き付けると、葉月からなりふり構わずに隼人の唇に吸い付いてきた。
「っん、ん。あなた」
「う、ん、葉月」
首に抱きついて、激しく夫の唇を愛す葉月。そんな妻の頬にかかる栗毛をかき分けながら、隼人も葉月の濡れる唇を吸った。
ひんやりとしている妻の肌。火照りが止まない夫の肌。互いに絡まる腕に、隙間なくくっつけあう素肌。その肌をこすり合わすようにして、二人は固く抱き合いシーツの上に重なり合う。
青白い明かりの中でも、肌と肌の間に熱気がこもる睦み合い。
いつもなら妻のためにと念入りになる前戯と愛撫。だが今夜はそこそこに、隼人は熱くなった塊を葉月の栗毛の茂みの奥へと押し込んだ。
それでも葉月も思った以上に潤っていて、するりと夫の塊を吸い込むように飲み込んでくれた。
「んっ。どうしたの……本当に熱い……」
訝る葉月の顔を包み込み、隼人はなにも聞かれないように、その口を塞いだ。
「ふう。夏はお前の肌が気持ちいい」 火照った夫の全てを、その冷めた身体で受け入れてくれた妻に満足し、隼人は下に葉月を従え腰を揺らし愛し始める。
『あっ、ああんっ、あん』――声は激しく弾むが、肌はまだ心地よい冷たさのまま。隼人の胸や腹部に葉月の肌は吸い付くようにぴったりと波打つ。それでも愛せば愛すほど、繋がっているところから滲み出てくる蜜が隼人を包み込み、とろりととろけるように熱くなっていく……。
『まだまだ』。激しく腰を打ち込む隼人は、まだまだ妻を許したくなくて、そこで一息ついた。
その代わりに彼女の足を隼人は持ち上げる。じんわりと汗を滲ませはじめた足の柔らかに弾む肌と皮膚に、隼人は唇を這わせた。
「あっ。なにするの?」
繋がったまま休んでしまった夫が始めた、愛撫。足に沿って、じっくりと進む唇と舌先に、葉月が切なそうに顔を歪めた。
激しい動きは止んでも、ゆっくりとした愛撫が、さらに葉月の息を弾ませる。
隼人の口先は、ついに葉月の踵に。そこにもゆっくりと唇の奥へと含むと、彼女の足指がびくりと丸まった。それも許さないかのようにして、隼人の唇は、その小さな指をじっくりと愛撫する。
「……はあ、あん。やめて。そ、そんなこと」
たまにすることだが、葉月はそれが恥ずかしいようだった。だが今夜の隼人は……。
その指先も、まだ冷たかった。それを暖めるように口に含むたびに、葉月の身体がびくりと硬くなる。
その繰り返しの中、隼人の額には汗が滲んでいた。彼女が『くすぐったい』と頬を染めて身体を強ばらせる度に、当然……結び合っているそこもじんわりと締め付けてくれるからだった。
息が上がってきたのは葉月だけじゃない、俺も……。
だけれど、隼人の中で、そこまでして妻を責めたくなる気持ちと、どうしようもなく身体が火照るほどに欲してしまった訳が、ひっそりと胸に宿っていた。
『今日の便で、葉月は雷神の男の子と偶然に一緒の席だったのよ。鈴木大尉……だったわね』
訪ねてきた義母が、夕食の際、何気なく言った一言が、隼人の心に留まったまま。
『隣になっただけよ』
『でも葉月も流石、部下は可愛いのね。若い彼の話に優しい顔をして耳を傾けてあげていて、お母さんは安心したわ。貴女、甲板では冷徹な女とか言われているみたいだから』
その時、葉月が困ったようにして隼人を一瞬見た。そして隼人もそんな妻と目が合ってしまった。
別になにも疑っていない。でも、確かに葉月は英太のことになると、隼人に遠慮しているような顔をする。そして葉月は妻ながらに気が付いていた。
意識しているのは、葉月じゃない。むしろ『俺』なんだ。
夫が密かに若い青年を意識していることを、葉月は知っていた。
自分がどんなに自然に上司として先輩として、ただ姉のような気持ちであの青年に接していても。私の夫は、義兄以外のどんな男性も意識などしたことがないのに。と――。
「あ……っ、隼人さん、もう……許して」
執拗な愛撫に、葉月の身体はもう隼人に負けないほどに火照り始めていた。締め付けるそこは濡れるだけ濡れて、なのに夫に繋がれたまま隙間なくいっぱいに満たされている。疼くままにさせられて、後にも引かなければ前にも責めてくれない。そんな夫のジレンマに飲み込まれ、泣きそうな目で許しを請うその顔。
「俺は、まだだ」
嘘だった。自分だって、自分で仕掛けた責めで、妻にじわじわと締め付けられて限界はすぐそこ。その証拠に隼人も額も口元も火照った身体も、なにもかもこの上なく濡れていた。
それでもやめてくれない夫に観念するようにして、葉月はシーツに崩れ落ちて、すすり泣くよう声で喘ぎ続けるだけ。
「貴方、あなた……隼人さん……」
助けを求めるような儚い泣き声に、涙がこぼれそうなほど濡れた瞳に、ほんのりと桃色にそまった頬。その顔を隼人は見つめる。
俺だけの、夜の顔。
それを見て満足を得て、隼人は最後に小指を吸った。
「俺も、俺だけしか知らないお前との秘密が欲しいな」
小さく囁いたが、もう何処かに彷彿と彷徨っている妻には聞こえなかったようだった。
更ける夜の中、青白く仄かな明かりの中に溶けていく二人。
しっとりと濡れあう睦み合いも鎮まった頃、先に寝てしまった妻の足の指に、隼人はちょっとした悪戯を返しておいた。
・・・◇・◇・◇・・・
いつもの週明け。初夏の晴れている日の朝、この家のキッチンから見える空や海の爽やかさは格別だった。
あまりにも責め立て、責められて。そんな夫妻の熱い夜は長かった。なのでこの日の朝、隼人はうっかり寝坊をしてしまった。
慌てて制服に着替えてキッチンへ向かうと、既に義母の登貴子がキッチンに立っていた。
「おはようございます、お義母さん。すみません。俺、うっかり……」
制服の上に、毎日愛用している黒いエプロンをすぐさま着ける。
だが義母の登貴子は、にっこり。
「いいのよ。私が泊まりに来た時ぐらい、ゆっくりしなさい。どうせ、隼人君が毎朝ここに立って、海人を起こして、最後に葉月を起こして食べさせているんでしょう」
「いいえ。葉月もやりますよ。二人でやっていますし。彼女の方が俺より早く寝ますからね。昔から同じ時間に目を覚ますし、休日は俺が寝坊することが多いので、土日はほとんど葉月がやってくれます。寝坊するのはよほどの……」
「よほどの……」とまで言って、隼人は登貴子の手前、頬を染めて黙り込んでしまう。
「よほどって、なにかあったの? 昨夜。また……あの子、嫌な夢で起きたりしたの?」
途端に心配顔になる母親。まだ心の奥を煩わせている娘の暗黒を案じたようだった。
「いえ、そんなことは」
心配させまいと思ったのに、そうでなければ、ではなんなのだという訝しい登貴子の眼差しが真っ直ぐに隼人に注がれた。
そんな。そうでなければ『あっちの方』、夫妻の営みで疲れ果ててだなんて言えないが、登貴子にはもうすぐに悟られそうで隼人は焦った。
「おはよう、ママ。すぐに手伝うわね」
そこで、制服姿の葉月が笑顔で現れた。その笑顔を見てホッとする登貴子の顔。心配がすっとんだようだった。
「葉月。眠れたの」
「うん。ぐっすり。ママと沼津に行くのは楽しかったけれど、やっぱり移動が長かったからすぐに寝付いちゃって」
「そう。ママもすぐに眠ってしまったわ。さあ、葉月も隼人君も良いから、もう座って食べなさい。海人もそろそろ私が起こしてくるから」
「ママのパンケーキ、大好き」
すっかり娘の顔になった葉月は、幼い頃からそうしてきたらしく朝の挨拶にと、母親の頬にキスをした。
小柄な登貴子よりも、ずっと背が高くなった娘が腰を屈めてキスをする。それだけで、登貴子もとても幸せそうな顔になる。
隼人も子供達がキラキラと笑っているのをみて、心がほぐれる。それと一緒なのだろうと思った。
そんな登貴子が、制服姿になった娘を見て、ふと何かに気が付いたようだった。
「あら、葉月。貴女、足の指に可愛いリボンなんかつけて」
「え……」
葉月がそれだけで、頬を染め、母親から顔を逸らしてしまった。
だが隼人も背筋がピンと張るほど、緊張してしまった。何故なら。そのレエスの白いリボンは、葉月がぐっすりと寝付いた後に、彼女の机の引き出しから拝借し、隼人がこっそりと結んだものだからだ。
今度は、奥さんのための秘密。
夫の自分がじっくりと愛撫した指に印を付けて、そこに指輪をはめて誓わせるようにしてリボンを結んだのだ。
きっと葉月も目が覚めて、着替える時に気が付いたことだろう。しかしほどかずに大事に結んだまま、寝室から出てきてくれたようだった。
隼人もそれはそれで嬉しいが。さて、目ざとい母親に見つけられて、葉月はどうするのか。
「えっと、これはね。昔、鎌倉のお姉ちゃま達に教わったおまじない」
「おまじない? 葉月、貴女、だいぶ女の子らしいことを思い出したのね。昔はそんな可愛らしいことを信じてやっていたものね〜」
「そ、そうなの。そうなのよ。ここに結んでおくと……えっと、好きな人が優しくなってくれるっておまじない」
「あら。隼人君になにか意地悪でもされたの? 隼人君は充分、貴女に優しいでしょうに」
おい、こら。なんて誤魔化し方するんだと、隼人は密かに葉月を睨んでしまった。
それに気が付いた葉月が、目で謝っているのが伝わってきた。咄嗟に出ると『意地悪な旦那さん』になってしまったようだ。
いや、昨夜の俺。やっぱり意地悪だったな。
あんなに責め立てて、泣かせたんだから。隼人も後になって、いつも後悔。もっといつも通りに優しくしてあげれば良かったのにと――。
そして葉月も、何故、意地悪をされたのか充分『原因』も分かっているだろうと、隼人も覚悟していた。
その戒めなのか。それとも嬉しかったのか。葉月は暫く、その指に白いリボンを結んだまま過ごしてくれた。
Update/2010.1.22