俺の処分、どうなるんだろう。
「今夜はここに泊まってもらう」
日が沈み、すっかり静かになった艦長室で中佐と二人。
『花のお守り』をテーブルに置いたラングラー中佐から告げられ、英太は面食らった。
「ど、どうしてですか? あの俺の、処分……」
処分が決まらない限り、この部屋から解放されないことは英太も分かっていたが。
「ミセスが決めることを、俺が勝手に決めるわけにはいかないだろう」
それもそうだと、英太も気が付いた。え、じゃあ……俺、ずうっとこのソファーに座ったままにさせられるのかと、英太は戸惑った。
艦長室を見渡す。
何処で寝るんだよ? だって、寝室ってあの部屋だけだろう?
国内防衛を目的とした航行任務は交替任務。この艦長室は各々の部隊を束ねる海軍高官が就任し、一定期間の任務を終えると入れ替わる。当然、その艦長任務に就く最高司令官は、ほとんどが『男』だ。艦内は女性隊員も増え、それに合わせた施設も今までの時代よりかは増えてはいるだろう。しかし艦長室だけは『女性が使用する』などという配慮は皆無のようだ。それも仕方がないかも知れない。女性が高官であることも、あったとしてもこうして現場に出てくるほどの職歴を持っている者も……。おそらく葉月さんしかいないはず。
そんな女性の為に作られていないこの部屋で、どう寝泊まりしているのだろうと初めて思った。しかもこの側近が護衛として傍を離れないということは。――『マジかよ〜。新婚なのに、仕事とは言えミセスと毎晩一緒に寝泊まりしているのかよ〜』。英太は初めてそれに気が付いた。
だからか。だから事務官達が『ラングラー中佐はミセスの愛人』と囁いたのか。その噂を囁かれるのも無理もない状況だったのだと納得。しかも今日はこの若僧のパイロットにも『泊まれ』と言う。
「まったく。いつかはこうなるだろうと覚悟はしていたが。やってくれたな」
「も、申し訳ありませんでした。俺、どんな処分でも覚悟は出来ていますから」
「なるほど、覚悟が出来ているねえ。まあ、事態は深いところで『ややこしい』。覚悟が出来ているなら、お前にも付き合ってもらう」
『付き合ってもらう?』―― どんな処分かと、英太は構えたのだが。ラングラー中佐は淡々と説明を始める。
「事が起きたとおりに『噂の胸の傷を見たかった』から准将を襲った――などと、馬鹿正直に経緯を公表するつもりはない。故にダグラスが咄嗟に誤魔化した『反抗』とやらを表向きの理由付けとする。しかしこの表向きの理由を使ったとしても、最高司令官である艦長に攻撃をしたということになる。本来なら解任だろう。もうすぐ通過する小松に強制送還だ」
覚悟はしていた。『襲う』つもりではなかったが、結果的にそうなってしまったのだから。直ぐに衝動的になってしまう己の未熟さをこれほど情けなく思ったことはない。
「だが、ミセス准将にも原因はある。例の『侵犯紛いの訓練』。あれをこの艦の誰もが目にして疑問視している。そういう点から言っても、鈴木が納得出来ず抗議した上、『毎度の』カッとなってミセスを掴みあげる――。これも小笠原の甲板で前科があるから、誰もが納得するだろう」
淡々と語られる今までの己の所行に、英太はどんどん肩身が狭くなる思い。この身体をどこかに隠したい気持ちで、背中が丸くなっていくのが分かった。
「そのような情状酌量を踏まえ、ミセス准将なら『謹慎』で留めることだろう」
「謹慎。それだけですか」
あんなに怒り狂った中佐が、そんな軽い処分を予想してくれたことに英太は驚きが隠せなかった。
しかし、いつもの冷静さで『謹慎』と予想はしたものの、それが不本意なのか。やはり目の前の彼が、しかめた顔にて大きな溜め息を吐いた。
「彼女の胸の傷や肩の傷を挟んでいざこざするくらいなら、適当な経緯と原因をでっちあげ、軽く留める。それが最善というわけだ。それなら『冷たい女上司と反抗的な青年』という出来上がっている図式にしておけば、誰もが知っているから分かり易く受け入れ易くもなる」
つまり、あれ以上葉月さんの心労になる負担を増やしたくないということらしい。それには英太も納得、『でっちあげ』でも文句はない。
「その表向きの『でっちあげ』に、勿論、協力してもらう。分かったな」
素直にこっくりと英太は頷いていた。嘘も方便、そんなことも必要な時があると、初めて身に染みた気がしたから。
「承知しました。その為に、俺はここに泊まるということですね?」またラングラー中佐が、頭を痛めるようにこめかみを押さえ唸る。本音は『泊めたくない』ようだ。しかし、そうもいかない状況故に渋い顔。
「この艦内で謹慎と言うことは、割り当てられている自室には戻れないことを意味する。つまり『謹慎部屋』だな。そこである意味軟禁されるわけだ。だが、葉月さんの命令なしでそれはできない。かといって今すぐに処分を決めることは出来ない状態。だからとてこのまま鈴木を処分未定で自室に帰すことも出来ない。それに話の途中。目が覚めてお前がいなかったら葉月さんが気にする。だから泊まってもらう」
あの傷を晒しモノにしてはいけない。その為なら、英太は何でもやるつもりだった。だから再度『承知しました』と伝え、従う姿勢を示した。
「そうか。嘘は嫌だと言うかと思ったが、安心した。それならば、平井中佐には事情を話しておく。あの人は葉月さんとは長年の付き合いで『傷』のことも、生い立ちも、知っている。それに刺殺事件の時も俺と同様、リアルタイムに見守ってきた人間の一人だから、『表向きの芝居』に合わせてくれるだろう」
「……他の先輩や同僚には、それ以外のことは喋るな、ということですね」
「そうだ。胸の傷の真意について奥深く探ると『横須賀基地でのタブー』に触れることになる」
横須賀隊員の男が用心深そうに告げていたあの『噂』も本当だったと知り、流石の英太も驚くしかなかった。そんな英太の顔を、中佐が分かっているかのようにチラリと見た。
「葉月さんの傷を知った者なら、いずれは解っていくことだろうから、俺から言っておく」
その言葉の裏に『お前はもう御園の秘密を知った者』としての念押しを感じさせられた。その心得を説かれるかのような、とても強い視線で中佐に射抜かれていた。だが英太もその覚悟を決めたと伝えるよう、静かに頷いた。
「刺殺事件の原因となった『犯人の男』は、フロリダと契約していた外部の傭兵員ではあったが元を辿れば横須賀の海兵隊員だったんだ。この件の根本から探っていくと、三十年も前の『横須賀訓練校の不祥事』にぶち当たる。一言で言うと『隠匿』だ」
葉月さんの傷が存在することになってしまったその向こうには、様々な大人達の思惑が絡み合い、そして渦巻いていた激流が横須賀にあり、それが津波になって最後は無関係で無力で罪もない少女を襲う羽目になったのだと、ラングラー中佐は言う。
「話すと長いから、俺もどこから話してあげればいいか分からない。そうだな……。葉月さんのお姉さんは正義感が強い人で、軍側が隠匿しようとした不祥事に関わっていた」
「亡くなったお姉さんが、そのタブーに関わっていた。それが傭兵男との因縁だったということですか」
「そうだ。その時、軍上層部から内部の不祥事が外に漏れないよう秘密裏に防ぐ指令を受けていたのが、例の男。この隠匿の件について話すとまた長くなるのだが、要は正義感が強いお姉さんが、その事件を軍内で穏便に済ませようとしていた傭兵男の仕事を邪魔する結果となった。失敗した男に恨みをかわれ、怨恨で監禁事件へ。やがてお姉さんは同じ男に殺され、葉月さんは恐怖のあまり男の顔を忘れるほどの、記憶喪失になったんだそうだ。思い出すまで、傭兵男が従わせていた若い学生達……つまり一緒になってお姉さんを弄んだ数人の男が犯人だと思っていたらしい。男が主犯格だと判明するまで十何年もかかったそうだ。だから男は何年も平穏な逃走生活を遂げていた」
さらにラングラー中佐は付け加えた。『共犯の学生達も、実のところは例の男に軍の仕事と巧みに騙され刷り込まれ、それで信じてお姉さんを襲った。その上、男は共犯の若い男達も一斉に手にかけ始末し、その罪をお姉さんに被せようとし殺した』のだと――!
血の気が引き、流石の英太も指先が冷たくなっていくのが分かった。
「大人達のいざこざに、十歳の葉月さんは、じゃあ……巻き込まれただけで、そんな悲惨な目に?」
「そうだ」
あまりの辛い真実に冷えてしまった英太の指。そうだ、葉月さんの指先もとても冷たかったと思い出す。きっと俺の指がこんなに冷えたように、彼女はその時から熱い血の流れを忘れてしまって、だから今も冷えたままなんじゃないかと、そんな錯覚を覚えた。
そんな冷えた指を握りしめ、葉月さんを思う。同じ男に二度も凶器を振るわれ、あの人は何度も底知れない恐怖を刻み……。そんな彼女の軌跡を辿って、英太は気が付いた。
「もしかして、葉月さんが俺の話を聞いて、あんなに苦しそうになったのは……」
ハッとしていると、目の前のラングラー中佐が、何も知らないはずなのに何もかも分かっている顔で頷いていた。
「そうだな。鈴木が『襲われた光景』を想像し理解しようとしたが、同じように自分の記憶も重ねてしまったのだろう――」
ナタを振り上げる父親の姿を最後にして、死に別れた。それを話した途端に葉月さんは息苦しそうになった。
つまり。葉月さんは英太の中にあるだろう記憶の映像を想像し、それ故に、己の中で最も恐怖として刻んでいる映像に再び巡り会ってしまったのだと――。
そしてラングラー中佐は、先程初めて知った葉月さんより、ずっと前から分かっていた顔と落ち着き。
「俺のこと、調べていたんですね」
中佐は言い分けることなく、無言で頷いた。
「親父さんに襲われ、気を失い、それが今生の別れだった。実の父親に襲われたショックは計り知れなかったことだろう。父親は命を残してくれたが、彼自身は妻と共に心中を果たした――だったな」
「何故、調べたんですか。そんなに俺、ただのパイロットにはみえなかったんですか?」
「いいや。誰であってもミセス准将の側に来る人間のことは、俺の独断でも徹底的に調べることにしている。それが俺の仕事でポリシーでね」
「もしかして、さっきの……書類……」
『お叱りを受ける』とラングラー中佐が『独断で抜き取っていた』というものが、英太自身を徹底的に調べた報告書だとやっと理解する。しかし、敢えて、英太の生まれた家庭が崩壊した事件を隠したのは何故だったのか――。
「俺の親父が起こした心中事件を、敢えて報告しなかったんですね」
「何故、そうしたか? それは俺よりも鈴木の方が痛いほどわかるだろう?」
少しばかりやっかむような口調で、苦笑いをこぼすラングラー中佐。だが、そう言われるとその通り。自身の一番胸が痛くなる光景と似たものを、いや、もっと壮絶なものを持っている人の痛みを思うことが出来るのは確かだった。
しかし、ラングラー中佐はすぐに口元に穏やかな笑みを浮かべていた。それはミセスと揃って『凍てついた顔』と囁かれる鬼中佐の顔ではないと英太は思った。彼の、誰かを想う、柔らかなものを垣間見せられているような――。
「流石の俺も、葉月さんに報告すべきかすまいか、今回ほど思い悩んだことはない。知らせて、彼女が意識して今まで通りの雷神指導が出来なくなっても困る。それなら、ミセスが指導するには『鈴木大尉は、やや扱いに戸惑うリスクを生むパイロット』として、今回のスカウトは諦めてもらえば良いとも思った。だがあの葉月さんが、一目で直ぐに面談したいと言いだしたパイロット。何も知らないで指導した方があるいは……と」
穏やかだった笑みが、急に力無く緩い笑みに変わっていく……。
「まさかな。葉月さんが『鈴木大尉の飛行には何かがひっかかる』と言った時には、パイロットだけにしか解らない勘で『単に同類をみつけた』程度のことだと思っていた。だが調べて、俺は凍り付いたね。まさか。同じような消えない過去と苦悩を刻んでいる者同士だったとはね。だからだ。葉月さんは自分が空へ全てを叩き付けるように飛んでいたパイロットだったから、鈴木の後先考えず『いつ死んでも良い』と思っている無茶な飛行に引っかかりを感じても当然だったのだと」
そうだった。英太もそうだった。
ずっと葉月さんの言葉や飛行にひっかかりを持っていた。『私、知っているわよ。貴方が空で、いつ死んでも良いと思っていること』。『命がけ、好きでしょう』。いつも英太の胸をざわつかせてきた言葉は、全て彼女自身が通ってきた言葉だったのだと知る……。
「初めて会ったあの日、俺の滅茶苦茶な低空飛行を見て。葉月さん……俺のこと、もう、あの時に……もう……」
何故か解らない。急に目頭が熱くなってきた。こんな熱い涙が自然に出てきたことなんて、いつ以来だ?
そんな英太の何かが解れていくような素直な泣き顔を、ラングラー中佐もどうしようもない顔で黙ってみてくれている。
俺と同じような人がいた。その人は俺より先にコックピットで戦って、俺が知らない内にコックピットを降りていた。
――『鈴木君は何故、空を飛ぶのかしら?』
――『答を見つけてコックピットと別れられるのは、とても幸せだという事よ』
――『貴方にも、その理由を見つけて欲しいわね』
――『どんなに言っても、貴方はきっと納得出来ないと思う』
『私の中から探して』
今日までの、彼女の言葉が次から次へと浮かんできた。
もう、どう言って良いか言葉には出来ないから、涙だけが蕩々と流れ落ちていた。
「追々、お互いに話していけば、もっと分かり合えるだろう」
同じ人を見つけたからこそ、やっと沁みゆく言葉達に涙する青年を置いて、ラングラー中佐は立ち上がる。
「食事がまだだ。厨房から持ってこさせよう」
お馴染みの冷めた横顔に戻った中佐は、英太をそっとしてデスクに戻っていく。
『艦長室だが、三人分の夕食を――』
中佐の声が、丸窓から聞こえる潮騒に紛れていく。
英太はただ、様々な感情が入り交じり、それらの固まりに突き動かされるように泣いていた。
・・・◇・◇・◇・・・
男達が密集する部屋がある区画は、深夜になってもなにかしら人が動いている気配がしたものだった。
緊急で持ち場に出て行く者、交替で深夜に起きる者、眠れずに廊下を歩き娯楽室を行き来している者、様々。潮騒や眠らない甲板に艦の音に、そんな男達の気配も空母に乗れば日常の音だった。
だが、この艦長室ではそれが一切ない。とても静かだった。
涙を流した目が痛かった。それだけ泣いたと言うことなのだろうか。
あの後、気持ちが落ち着いて、ラングラー中佐と共に静かに食事をした。
互いに無言だった。それに耐えられなかったのは英太ではなく、向かいで食事をしていたラングラー中佐だった。彼は英太に『お前も眠れない夜があるのか』と聞いた。それは葉月さんも眠れない夜があることを意味し、英太もそれに気が付く。英太は『眠れないことはないけど、すごい勢いで目が覚めることはある。その時は必ず父親の夢を見た時だ……』と答えると、中佐がまたどうしようもない顔をしてくれた。
そして英太はまたこの時、葉月さんが『昨夜は眠れたの?』と気遣ってくれた日のことを思い出していた。『私のようになってほしくない』と言っていた。あれも……自分と英太が同じだったら『眠れずに苛む夜がある』ことを察してくれていたのだと……。彼女の思いに、また胸が熱くなったほどだった。
食事が終わると、戻ってきたハワード中尉が艦長室に折りたたみのエキストラベッドを運んできて、英太の為の寝床を整えてくれた。
『遠慮なく休むといい。葉月さんが目覚めたら起こす』
促され、英太もそれしかすることがないから横になった。
いつもの夜の音。静かな艦長室。徹底されている警護で、艦長室は小笠原の御園准将室のように『聖域』のようにして誰も近づけないようだった。
だが、あまり寝付けない英太の背に、一人の男の気配がずっとあった。
暗く灯りを落とした艦長室。時折、肩越しに覗くと、ラングラー中佐のデスクだけが仄かな灯りで浮かび上がっている。
最小限の灯りを手元だけにつけ、栗毛の中佐は黙々と書類に向かったり、ノートパソコンのキーボードを叩いていた。それがずっと。もう、どれぐらい時間が経ったのだろうか。英太は腕時計を見て、二時間ほど経っていることを知る。それが本当にいつまでも……。
「眠れないようだな」
突然にかけられた声に、英太はびくりと固まる。
眠れないことを悟られないよう、こちらもそっと息を潜めていたつもりだったのに……。それでもその通りなので、英太も誤魔化さずに起きあがった。
「なにか手伝うことはありますか」
悪ガキがそんなことを呟いたからか。栗毛の中佐が面食らった顔をしていた。だが、彼はすぐに可笑しそうに笑う。
「そうだな。あの騒ぎで、アドルフにやらせようとしたことが残ってしまった。これをまとめてもらうか」
いくつかの紙束を差し出され、英太はベッドを降り彼のデスクでそれを受け取った。
「そこがアドルフのデスクだ。そこでやってくれ。明日のミーティングの資料だ」
「はい」
簡単な説明を受け、英太はそれを黙々と始める。横須賀の空部隊本部で事務を手伝っていた時を思い出す。
春だった。あれから数ヶ月、小笠原で色々なことがあったな。そんなことを思い返しながら、黙々とこなした。
その間、ラングラー中佐は相変わらずの様子で、いつまでも仕事をしていた。
そんな中佐の息も吐かない仕事ぶりを、英太もたまに見つめる。やがて、英太はあることに気が付いてハッとした。パソコンのキーボードを打つ彼の左手がキラキラと時折光ることに……。
「指輪……!」
思わず口にし、我に返り英太は直ぐに口を閉じた。当然、ラングラー中佐も英太の声に顔を上げる。
しかし、何を言われたのか直ぐに察した中佐は、そんな自分の左手をじっと見つめ笑った。
「ああ、小夜が話したとかなんとか言っていたな」
「航行に行っている間、空母艦の中では『俺は独身でいる』と言ったそうですね。怒っていましたよ。でも、理解もしていたから。それでも本当に中佐が航行に来て指輪をしていないから徹底しているなと思っていたんですよ」
「まあな。『愛人』という噂も、結構使えて好都合。ミセスに男として近づきたいなら主席側近で愛人の俺と対決しろという威嚇になるもんでね。信憑性を持たせる為に指輪を外すことにした。それは小夜も、葉月さんも、ご主人の隼人さんも賛成してくれたことなんだよ」
そういうことだったのかと、英太は驚愕しつつも、また上手く『嘘』を使いこなすミセスブレーン達におののいた。
でも、でも……。そんな嘘の裏で、彼等は決して忘れてはいけないことを忘れてはいない。そうこの中佐が今、この年下の青年を前に、照れくさそうに笑っているように……。
「夜だけ、皆が寝静まった夜だけ。俺は本当の俺に戻る。小夜の夫としての時間を忘れてなどいないよ。これでもお腹の子がボーイかガールかと、こっそりワクワクしているんだ」
笑った。ラングラー中佐が笑った。大人の男性だけど、すごく若さを感じる笑みを見せてくれ、今度は英太が照れくさくなった。
「お腹がどんどん大きくなっていくのに、声も聞けない、届けられないだなんて心配ですよね」
「それは叔母御が入院生活に入ったばかりの鈴木も同じだろう。しかし女房には最も頼りがいがある先輩がついてくれているのでね」
「御園大佐のことですか……?」
「あの人しかいないだろ。小夜にとっては兄貴みたいな人だから。だから俺は、大佐の奥様を預かった男として全力を尽くしたいんだよ。それなら『愛人』という噂でも利用する」
そんな先輩と後輩の強い繋がりを見せられた気がした。互いに信頼をしていなければ身重の妻を任せることも、精神的に揺れを持つ妻を預けることも出来ないだろう。妻側からしてもそうだ。
「四中隊時代の御園夫妻ってどんなだったんですか」
こんな機会だから、英太も聞いてみた。今夜のラングラー中佐なら話してくれそうだと。しかし彼の顔がちょっと致し方ない笑みに崩れる。
「痛々しいお二人だったかな」
「痛々しい?」
それってどんな状態だったんだと、一言では解りかねた。では、なにか一つ教えてもらえるだろうかと口を開きかけた時、艦長寝室のドアがそっと開いた。
「テッド。葉月さんがうなされているわ」
同性ということで、佐々木女史は葉月さんと同じ寝室を使っている。彼女も眠っている葉月さんを案じながら、就寝していたのだが。
「声をかけたけど、目は覚めないみたい」
あの佐々木女史が、とても困った顔で戸惑っている。落ち着きもなかった。
「いま、行きます」
素早く席を立ったラングラー中佐は、また引き出しを開けた。やはり取り出したのはあの花の入れ物だった。
Update/2009.11.21